2016年10月31日

伊藤桂一さん

『蛍の河』『静かなノモンハン』などの戦場小説で知られる作家、伊藤桂一さんが亡くなった。99歳。

以前、軍馬についての文章を書いた際に、伊藤さんの『私の戦旅歌とその周辺』を随分と参考にさせていただいた。伊藤さんは戦時中、騎兵聯隊の一員として中国大陸を転戦された方で、短歌も詠まれている。

騎兵の乗馬法は、上手に乗ることではなく、長く、怪我をさせずに乗ることである。作戦間に馬が脚を痛めたり、鞍傷を起こしたりすると、どうしようもなくなる。鞍を置く時には、馬の背と鞍下毛布との間に異物(それがきわめて小さな塵でも)がはさまれていないかどうかに細心の注意をする。

こうした細かな点などは、実際に体験した人にしか書けないところと言っていいだろう。

耳もてば耳持たせつつ頸(くび)を寄すこの馬といて征旅を倦(う)まず
曳光弾馬の鬣(たてがみ)とすれすれに迫りくるなり遮二無二駈くる
馬は草を食(は)みつつもふと耳を上ぐ聞きそらすほど遠き砲声
                   『私の戦旅歌とその周辺』

ご冥福をお祈りします。

posted by 松村正直 at 20:56| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月30日

北方領土のこと

12月のプーチン大統領の訪日を前にして、北方領土問題に何らかの進展があるのではないかといった報道があり、注目している。

と言っても、領土問題自体に関心があるわけではない。現実的に考えて、4島が一括で戻って来るなどということはあり得ないと思う。そもそも日本が主張する「日本固有の領土」といった表現は、いかにも島国の発想であって、国際的には何の力も持たないだろう。国境線は「動く」ものだ。

北方領土にしても、もとはアイヌの住む土地であり、「日本」の支配下に置かれたのは1855年の日魯通好条約以後のことでしかない。そこから1945年の敗戦まで90年。戦後のソ連・ロシアによる支配は既に71年に及んでいる。これで「日本固有の領土」などと言ってみても、仕方のないことだ。

それよりも私が期待するのは、何らかの妥結が図られて、北方領土に自由に行けるようになることである。現在、「政府は、日本国民に対し、北方領土問題の解決までの間、北方四島への入域を行わないよう要請しています」(外務省HPより)という状況で、元島民やその親族、マスコミ関係者などを除いて、原則として北方領土へ渡ることはできない。

「北方領土へ行ってみたい」
それが私の願いである。

昭和16年7月に、歌人で国会議員の吉植庄亮は北千島視察団の一員として千島を訪れ、帰りに択捉島にも寄っている。

択捉(エトロフ)までかへり来りて蒲公英もおだまきも百合も花ざかり季(どき)
流(ながれ)なす鯨の血潮なぎさ辺の波をきたなく紅くそめたり
夏駒といふは勢ふ若駒の駈り移動する五六十頭の群
                   『海嶽』

択捉島で見た捕鯨と野生馬の光景である。
この歌が詠まれてから75年。
今ではどんなふうに変っているのだろうか。

posted by 松村正直 at 08:30| Comment(2) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月29日

沼尻つた子歌集 『ウォータープルーフ』


「塔」に所属する作者の第1歌集。

どの空も再びは無く大いなる鏃(やじり)を為して渡り鳥ゆく
あらかじめ斜めのかたちの登山用車輛は平野を走ること無し
一頭の若鹿の鼻濡れ続く個人蔵なる油彩の森に
つむじからつまさきまでをひと盛りの泡に洗われ、ぴゅうと尿す
履歴書を三味線として流れゆく瞽女(ごぜ)であるなり派遣社員は
伊那谷の底(そこい)に白き川はあり吾を産む前の母を泳がす
淡雪のようなる埃をぬぐいたり半年を経し義援金箱
黙禱時に目を閉じるなと指示のありレジの金銭担当者には
ゼッケンの2の尾を伸ばし3と書く去年の娘の青き水着に
口元のω(オメガ)ぴるぴるうごめかし丸き兎は青菜を食めり

1首目、「大いなる鏃」という比喩に力がある。二度と同じ空はない。
2首目、ケーブルカーの車両は山の斜面を上下するだけだ。
4首目、赤ちゃんを洗っているところ。結句が可愛らしい。
5首目、派遣社員という立場の悲哀とともにプライドも感じる。
6首目、若き日の母の肢体を想像して、美しくなまなましい歌。
7首目、「半年」しか経っていないのに人々の心は急速に冷めていく。「淡雪」と「埃」の落差が胸に響く。
9首目、小学2年生から3年生になったのだろう。「尾」という捉え方がいい。
10首目、「ω」という比喩、「ぴるぴる」というオノマトペが絶妙。

父の死、離婚、東日本大震災、空き巣、再婚など、「出来事」の多い歌集であるが、詠み方には十分な工夫があって、単なる報告に終っていない。総合誌や「塔」に載った連作もだいぶ手を入れ、歌数も削っているようだ。

文法的に気になったのは「子の見あぐ一樹となりて陽のもとに葉を鳴らしたし いつかの五月」「見えぬもの不検出なる表かかげ開かるプールに小枝の浮かぶ」「植物油インクに刷らる広報の活字は草の種の大きさ」など。それぞれ「見あぐる」「開かるる」「刷らるる」と連体形にすべきところではないだろうか。

2016年9月7日、青磁社、1700円。

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2016年10月28日

「レ・パピエ・シアンU」2016年10月号

特集「佐藤佐太郎を読む」に大辻隆弘さんが書いている評論「冗語のちから」が良い。佐太郎短歌のかなり本質的な部分に迫る内容だ。

短歌は、短い歌、と書く。が、実際に歌を作る時、短いと感じる事はほとんどない。短歌はいつも長すぎる。

これは、ある程度短歌を続けてきた人には、よくわかる感覚だろう。初心者の頃はぎゅうぎゅうに言葉を詰め込んで、それでも31音に入り切らなかったりするのだが、短歌に慣れてくると逆に31音は長すぎるくらいなのだ。

大辻は佐太郎の歌によく出てくる「あるときは」「おしなべて」「おほよそに」「あらかじめ」「ひとしきり」「をりをりに」「おのづから」などを例に挙げて、次のように言う。

佐太郎は「何も足さない言葉」を実に豊富に駆使する歌人である。彼はそれを「冗語」と呼んだ。ほとんど意味を付与しない言葉を一首のなかにサラリと挿入する。それによって歌が驚くほどのびやかになる。
歌の叙述内容は、極限まで削ぎ落とす。省略を利かせ、事象のエッセンスだけを精錬する。その上で、そこに出来た間隙に何でもない、ほとんど意味内容のない、しかし、調べの美しさを醸し出す「冗語」を入れる。

非常に鋭い指摘であり、短歌にとって大切なことを言っている。

カルチャーセンターで短歌を教えていると、「結句が要らない」といった批評をすることがしばしばある。四句目までで意味としては十分ということだ。けれども、そう指摘すると、生徒さんは元の結句の代わりに得てしてさらに不要な結句を持って来ようとする。

特別な意味を持たない言葉で字数を埋めるというのは、実はけっこう難しいことなのだ。

posted by 松村正直 at 18:24| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月27日

角川「短歌」2016年11月号

穂村弘さんの「熱い犬」31首が、何だかおもしろい。
(以下、ネタバレあり。まだ作品を読んでいない方はご注意下さい)

熱い犬という不思議な食べ物から赤と黄色があふれだす夏

1首目。ホットドッグからはみ出す原色のケチャップとマスタード。

海からの風きらめけば逆立ちのケチャップ逆立ちのマスタード

5首目まで来てまるで答え合わせをしているみたいに、この歌がある。「逆立ちの/ケチャップ逆立/ちのマスタード」の句跨りが効果的。

さっきまで食べていたのに上空を旋回してるホットドッグよ

7首目。突然、ホットドッグが空を飛ぶ。なぜ???

そして、ホットドッグのことなどすっかり忘れかけていた31首目(最後の歌)になって

僕たちの指を少しも傷つけずホットドッグを攫っていった

おお! 鳥(トンビ?)に持って行かれたわけか! だから「旋回してる」んだ。

7首目から31首目へ、こんなに間を空けて話がつながることにグッと来た。

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2016年10月26日

沖ななも歌集 『日和』

2010年から14年にかけて発表された527首を収めた第10歌集。

唇の乾けば熱の身も乾く棒鱈のように寝ているばかり
会ってからのあれやこれやを想像し会えばどれともちがうなりゆき
ケータイを開きしままに居眠ればケータイも眠るわが掌(て)の中で
色あせて捨てんとしたるブラウスの小さな染みもともに棄てんか
公孫樹(いちょう)の実小さきを一つ見つければつぎつぎと増ゆ目にみゆる青
何気なく履くスリッパにどことのう右ひだりありて履き替えている
一つ死をまなかに置きて蜘蛛の巣は秋の光の中にかがやく
羊の毛ぬぎて水鳥の毛のなかにもぐりぬ朝まで眠らんために
五百年千年立ちて立ちつづけ杉の木ついに天に届かず
三色ペンのまず黒が減り赤が減り残れる青を使わずに捨つ

1首目、熱で寝込んでいる時の歌。「棒鱈」という比喩が強烈だ。
3首目、ケータイの画面が暗くなっていたのだろう。
4首目、何か思い出のある染みなのかもしれない。「捨てん」「棄てん」と字を使い分けている。
5首目、一つ見つかると目が慣れて、他の実も見えるようになる。
7首目、蜘蛛の巣にかかった獲物を「一つ死」と言ったのがいい。
8首目、技巧的な歌。ウールの服を脱いで羽根布団の中に入る。
10首目、インクは同じ量だが三色同時になくなることはない。

2016年5月25日、北冬舎、2200円。

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2016年10月25日

事務所フェスタ

11月23日(祝)に塔短歌会事務所にて、「事務所フェスタ」という
イベントを行います。参加申し込みの締切は11月5日(土)です。
塔の会員でなくても参加できますので、お気軽にどうぞ。

ちなみに私は「プログラムC」の吟行&歌会を担当します。
紅葉の京都御苑を一緒に散策しましょう!

 事務所フェスタ.png

(大きなチラシが見られます)
事務所フェスタ.pdf

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2016年10月24日

書けたも同然

評論などの文章の依頼があって、まだ1字も書けていないのに次号予告に自分の名前が載っていたりすると、非常に憂鬱な気分になる。

そんな時は、以前ある人から聞いた「引用する歌が決まったら8割方書けたも同然」という言葉を思い出す。たとえ文章が書けていなくても、文中に引用する歌が見つかればもう大丈夫というわけだ。

確かに、書こうとする文章について考えていて、何かヒントが見つかったり、切り口を思いついたり、構想が固まったりしていく段階で、実際は既にだいぶ進んでいるのだ。

例えば6000字の原稿を書く場合、「進捗率50パーセント」というのは3000字が書けた時ではない。体感で言えば、文字を書き始めた段階で既に50パーセントくらいは進んでいるのである。

つまり、まだ1字も書けていなくても、頭の中であれこれ考えたり、散歩したり、ご飯を食べたり、風呂に入ったりしている間に、見えないところで着々と作業は進んでいるわけだ。

・・・そう思って、自らを励まし、慰める日々。

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2016年10月22日

二宮敦人著 『最後の秘境 東京藝大』


副題は「天才たちのカオスな日常」。

一般にはあまり知られていない東京藝術大学の内側を描いたノンフィクション。執筆のきかっけは、藝大生の妻を見ていて興味が湧いたからということらしい。サブカルっぽい表紙であるが、中身はいたって真面目で、多くの藝大生に取材して書かれている。

一口に藝大と言っても、「美術学部(美校)」と「音楽学部(音校)」の二つに大きく分かれる。さらに細かな学科や専攻があり、登場する学生の所属を見ると、「絵画科日本画専攻」「楽理科」「音楽環境創造科」「工芸科陶芸専攻」「器楽科ホルン専攻」「建築科」「指揮科」「声楽科」「先端芸術表現科」「邦楽科長唄三味線専攻」「作曲科」「芸術学科」「デザイン科」「彫刻科」など、実に多彩だ。

そしてみんな、一癖も二癖もありそうな人ばかり。

「僕、没頭してしまうんです。四十時間描きつづけるとか、よくやります」
「口笛にはいろいろな奏法があるんです。ウォーブリングとか、リッピングとか・・・」
「はい、それはもう、かぶれます。漆芸専攻では『かぶれは友達』です」
「楽器は体に合わせるのも大事になってきます。/ヴァイオリン奏者って、骨格が歪んでいるんです」
「彫金はですね、金とか銀とか、場合によってはプラチナとか、貴金属を使うので材料にお金がかかるんですよね。だから、学生はみんな相場を毎日チェックしてます!」

どれもこれも初めて知る話ばかりで面白い。こんな世界があったのかと驚くことばかり。

藝大の学園祭「藝祭」を一度見に行ってみたいものだ。

2016年9月15日、新潮社、1400円。

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2016年10月21日

「現代短歌」2016年11月号

特集「わたしの誌面批評」がおもしろい。
28名が短歌総合誌についての率直な意見を述べている。

共感したものをいくつか引こう。

【安田純生】
一例をあげると、俳諧(俳句)や川柳、歌謡の歌詞、さらに狂歌といった隣接のジャンルと短歌との繋がりを視野に入れた企画である。
【坂井修一】
委員の選評は、賞の価値が重くなるほど短い感想文となる傾向があるように見えます。これはなぜでしょうか。選者にはもっときちんとした説明責任があるのではないでしょうか。
【藤島秀憲】
依頼原稿を送った後で、ダメ出しというものをされたことがない。わたしが優秀なのではなく、書き直しなどのダメ出しの習慣が総合誌にはないのだろう。あっても良いと思う。
【佐藤弓生】
短歌誌は「総合誌」ではなく「専門誌」と称すればいいのに、とも思う。
【光森裕樹】
執筆依頼の際に原稿料もご連絡いただけますか。「業界の慣習」と言われれば黙す他ありませんが、時代にそぐわない悪習だと思います。

こうした意見を受けて編集者が編集後記に書いていることも、なかなかすごい。

☆編集者の仕事は一義的には、原稿の依頼です。寄せられた作品、評論、エッセイ、コラム等の質がその号の質を決定します。言い換えれば、一本の原稿がその号の水準を引き上げます。そういう原稿に接する瞬間に、編集者の幸福はあります。
☆しかし、そんな幸福を与えてくれる書き手は残念ながら、そう多くはない。

あれこれ文句ばかり言ってないで歌人はもっと良い原稿を書けよ、ということか。これは、奮起を促しているのか、喧嘩を売っているのか、どっちなんだろう。

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2016年10月20日

「梁」91号

九州の歌人を中心とした「現代短歌・南の会」発行の同人誌。
大森静佳さんの連載「河野裕子の歌鏡」がいよいよ最終回を迎えた。

86号から全6回にわたって河野さんの歌集15冊を読み進めていった力作である。何よりも引用歌の選びや一首一首の読みが光っている。これは評論にとって非常に大切なことだ。

今回は『母系』『葦舟』『蟬声』の3歌集について論じている。

晩年の河野の歌について、特に言葉や文体に即して論じた文章は、現時点ではまだ少ない。

とある通り、病気や死をめぐる境涯や物語ばかりが語られがち晩年の河野について、冷静にその歌の持つ魅力や特徴を丁寧に解き明かしている。

自分一人では支えきれないような現実の重さを、少しだけ植物や花に預けるような、縋るような文体が、晩年の河野にはあった。
口語では「詠嘆」が難しいと言われているが、河野はそこのところを「〜よ」「ああ」「なんと」「どんなに」、あるいはこそあど言葉や命令形、疑問形などを縦横無尽に駆使して、とても息遣い豊かな文体を生み出している。
晩年の河野裕子は、その文体からしても精神のありようからしても、呼びかけの歌人であり、対話の歌人であった。それを考えると、後期の河野裕子の口語化は、偶然や時代の要請、影響というのみならず、やはり紛れなく必然のものだったのではないだろうか。

こうした指摘は、大森が河野の歌を読み解く中で自らつかみ取ったものばかりだ。だからこそ、読んでいて楽しく生き生きとした評論になっているのである。

いずれ一冊の本にまとめられる日を楽しみに待ちたい。

2016年10月20日、現代短歌・南の会、1500円。

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2016年10月19日

11月・12月の予定

11月、12月と短歌関係のイベントが続きます。
私の参加予定のものは下記の通り。

11月6日(日)第4回古今伝授の里・現代短歌フォーラム(岐阜)
http://kokindenjunosato.blogspot.jp/2016/09/4.html

11月23日(祝)事務所フェスタ(京都)
http://matsutanka.seesaa.net/article/442753314.html

11月29日(火)「佐藤佐太郎短歌賞」「現代短歌社賞」授賞式(東京)

12月4日(日)現代歌人集会秋季大会(京都)
http://matsutanka.seesaa.net/article/442842647.html

12月17日(土)京都忘年歌会・忘年会(京都)
http://toutankakai.com/event/6247/?instance_id=1110


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2016年10月17日

祖田修著 『鳥獣害』


副題は「動物たちと、どう向きあうか」。

近年、シカ、イノシシ、サル、クマなどによる鳥獣害が非常に大きな問題となっている。その現状と対策、さらには西洋と東洋の鳥獣観の違いや歴史的な変遷なども交えつつ、今後の人間と動物との共棲のあり方を記した本。

農業経済の研究者である著者は、京都府南部の中山間地域に90坪の田と140坪の畑を持ち、夏場は週に2〜3日、冬場は週に1日程度通っている。そこで目の当たりにした鳥獣害の話から始まる前半は、非常に具体的な話が続き面白い。

一方で後半の宗教学や民俗学に基づいた鳥獣観の話は、「・・・だという」「・・・とされる」「誰々は・・・としている」といった伝聞や引用が多くなり、人間と動物の関わり方を理論的に体系づけようとする意図はわかるのだが、やや退屈に思われた。

ディープ・エコロジーの関連書はいずれも、近代科学の基礎理念を確立したデカルトが動物には人間と異なり、理性や感情がなく、一種の機械である(『方法序説』)といっていること、またキリスト教では、動物は人間によって利用され、食されるのは当然で、そのためにこそ世界に生を受けたとされてきたことについて触れ、その不当性を訴えている。

このあたり、欧米を中心としたクジラの保護運動とも関わる話で、なるほどと納得するところがあった。

2016年8月19日、岩波新書、820円。

posted by 松村正直 at 10:34| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月16日

現代歌人集会秋季大会のお知らせ

12月4日(日)に京都で現代歌人集会秋季大会が開催されます。

大辻隆弘さんの基調講演、阿木津英さんの講演「芭蕉以後のうた〜玉城徹を考える」、第42回現代歌人集会賞授与式(虫武一俊歌集『羽虫群』)などが行われます。

皆さん、どうぞご参加ください。

(クリックすると大きくなります)
 現代歌人集会秋季大会2016A.jpg
 現代歌人集会秋季大会2016B.jpg

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2016年10月15日

「塔」2016年10月号(その2)

台所中にちらばる飯粒を拭きおえしのち焼飯を食う
                   田村龍平

相当豪快にフライパンを振ったんだろう。でも、食べる前にちゃんと拭いているところが微笑ましい。一人の食事の感じ。

バスの窓ガラスに額を押しつけて昆布のゆらぐ海を見ており
                   松浦わか子

旅先の風景だろうか。海岸沿いを走るバスから、海の中に揺らめく昆布が見えるのだ。「額を押しつけて」に体感がある。

トンネルの合間にのぞく熱海から秘宝館など見つけるあそび
                   山名聡美

今では全国でも数少なくなった秘宝館。新幹線の車窓から眺めているのだろう。上句の描写が的確で、「のぞく」という語の選びが良い。

屋久島できかぬ名まへと尋ねれば種子島から来たのだと言ふ
                   山尾春美

島によって特徴的な名字があるのだろう。例えば対馬には阿比留さんが多い。隣り合う屋久島と種子島でも随分と違うのだ。

封筒に息をふきこみふくらませ遠くの人への手紙を入れる
                   高原さやか

息を吹き込むのは封筒を広げるためだが、相手に思いを届ける祈りのようでもる。「遠くの人」がよく効いている。

何にでもなれる(なれない)者としてビニール傘をコンビニで買う
                   山口 蓮

人は何にでもなれる可能性を持ちながら、実際は何にでもなれるわけではない。その二面性が、色のないビニール傘とよく合っている。

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2016年10月14日

「塔」2016年10月号(その1)

ときをりは薄暗がりに溶けてをり書棚の隅の二ポポ人形
                    川田伸子

「二ポポ人形」は北海道でよく売られているアイヌの人形。「溶けてをり」がおもしろい。忘れられたように長年飾られている人形の感じ。

才能がなくてと謝り食べているいわしフライのいわしの体を
                    片山楓子

「いわしフライを」なら普通だが、「いわしフライのいわしの体を」としたのが良い。やるせない思いが滲み出ている。

炎天にはためく「氷」の波がしらをくぐりて母といもうとは消ゆ
                    田中律子

家族に対するかすかな屈折を感じさせる歌。上句の描写が、かき氷の旗を吊るした店の様子を端的に表している。

猫避けに眼のよく光るふくらうを日日草の中に置きたり
                    祐徳美惠子

本物のふくろうかと思って読んでいくと、実は置物のふくろうの話。目が光るようになっているのだろう。

あまやかな水にいくすぢかたちのぼる気泡はほそき鎖のごとし
                    小田桐 夕

グラスの底から立ち昇る炭酸飲料の泡を「ほそき鎖」に喩えたのが秀逸。泡を見つめる作者の繊細な意識まで感じられるようだ。

二人では折り畳み傘は小さくて香林坊の雨に駆け出す
                    濱松哲朗

香林坊は金沢の繁華街。映画のシーンのように突然の雨に走り出す二人。迷惑というよりは、どこか楽しんでいる気分が伝わってくる。

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2016年10月13日

映画 「オーバー・フェンス」

原作:佐藤泰志
監督:山下敦弘
出演:オダギリジョー、蒼井優、松田翔太、満島真之介ほか

「函館が舞台になっている映画です」と、ある人に勧められて観た。
函館は20年前に住んでいた街なので、とても懐かしい。

まったくノーチェックの映画だったのだが、とても良かった。
監督も俳優も好みの人ばかりで、なぜチェックしてなかったのか不思議なくらい。

いろいろと身につまされる内容であった。
函館にもまた行ってみたいと思う。

京都シネマ、112分。

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2016年10月12日

事務所フェスタ

11月23日(祝)に塔短歌会事務所にて、「事務所フェスタ」という
イベントを行います。一日中いろいろなことをやっていますので、
皆さんぜひご参加ください。塔の会員でなくても参加できます。

ちなみに私は「プログラムC」の吟行&歌会を担当します。
紅葉の京都御苑を一緒に散策しましょう!

事務所フェスタ.png

(大きなチラシが見られます)
事務所フェスタ.pdf


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2016年10月11日

内藤正典著 『となりのイスラム』


テロやイスラム国などの問題をめぐって最近よく話題になる「イスラム(教)」について、長年にわたって研究してきた著者が、中東滞在の経験も踏まえて記した本。要点がわかりやすく、また書き方も非常にフェアであると感じる。

イスラムの大きな特徴は、商売人の宗教として生まれたということです。ここはよく誤解されていますが、沙漠の宗教でも、遊牧民の宗教でもないのです。イスラムは都市の商人の宗教として誕生した。
イスラムがユダヤ教やキリスト教をどうみているかは、イスラム教徒の名前をみればよくわかります。(・・・)先代のトルコの首相はダウトオウルという読みにくい名前ですが、ダウトというのはダビデのこと、オウルというのは息子の意味ですから、「ダビデの息子」という名前をもつ人がトルコの首相をつとめていたのです。英語ならDavidsonです。
彼らに「イスラム教徒でなくなるってどういう感じですか?」と聞いたときに返ってくる言葉。どんなに世俗的に見えるイスラム教徒でも決まってこう言います。
「人間でなくなる感じがする」

こうした丁寧な説明や実例が、いくつも挙げられている。

一五億人とも一六億人ともいわれるイスラム教徒の姿を西欧経由のめがねを通して見る必要はありません。もっとふつうに、市民としての生活のなかで彼らがどういう価値観をもち、どういう行動をする人なのかを知ることのほうが、はるかに大切です。

世界の人口の3人に1人はイスラム教徒になるという時代にあって、彼らをどのように理解し付き合っていくかは、大きな課題であろう。そのための格好の手引きとなる一冊である。

2016年7月21日発行、ミシマ社、1600円。

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2016年10月10日

秋の空

 P1050290.JPG

今朝、家のベランダから見た空。
もうすっかり秋ですね。

今月末に評論集『樺太を訪れた歌人たち』が出ます。
「短歌往来」に連載した「樺太を訪れた歌人たち」に、書き下ろしの「樺太在住の歌人」、さらに「サハリン紀行」を追加しました。

本を出す前はいつも、ベストセラーになったらどうしようって思います。そういう夢が見られるのは幸せなことかもしれません。

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2016年10月09日

岡本太郎著 『美の呪力』


1971年に新潮社から刊行された本の文庫化。
「芸術新潮」1970年1月号から12月号に連載された「わが世界美術史」がもとになっている。(8月号の「仮面脱落」は省かれたようだ)

最近、万博公園の「太陽の塔」の耐震改修工事が始まることもあって、岡本太郎が何かと話題になっている。彼の著書を読んでいると、本当にスゴイ人だということがよくわかる。文章も非常にエネルギッシュで、しかも鋭い。

石器時代という言葉自体、なんだかおかしい気がして仕方がない。石が残ったというにすぎないではないか、と思ってしまうからだろう。
修験道は庶民の生活にとけ込んでいた。あたかも火・水が聖なる対象であると同時に、生活のなかの親しいふくらみであったように。
山中至るところにある岩の中から、まことに偶然に、その一つが選ばれる。神聖な儀礼をもって。そうすると、とたんに呪術をおびてくるのだ。これが特に美しかったり、変った形態で、誰にでも一眼でわかるようなものだったら、逆に呪術をもたないだろう。
綾とりは紐の形作る抽象形態の方に目をひかれがちだが、しかし、それを支えるなめらかな指先の方に実は呪術の主体があることを忘れてはならない。

「恐山の石積み」「オルメカ時代の石像」「グリューネヴァルト『磔のキリスト』」「両界曼荼羅」「赤糸威大鎧」「アルトドルファー『アレキサンダーの戦い』」「平治物語絵巻」「男鹿半島のなまはげ」「ボッシュ『快楽の園』」「ゴッホ『馬鈴薯を食う人々』」「縄文土器」など、古今東西、実に幅広いものが取り上げられている。

それらは古いも新しいも、東洋も西洋もなく、太郎の心に触れるかどうかが唯一の判断基準となって選ばれているのだ。

俳優が演技する。役になりきってしまうのが最高の名優であるという考えがある。スタニスラフスキー・システムなどといって、自然主義を最高とする近代劇はそんな看板を掲げるかもしれないが、それは大ウソである。私に言わせれば、なりきってしまうのは下司な職人であって、本当に神秘的な演技者ではないと思う。明らかに自分の演じている人間と自分との距離を計りながら、その間に交流する異様な波動を身に感得しながら、遊ぶ。それ自体が本当に生きることであり、演技することである。

一見素裸のように見える岡本太郎であるが、実は冷静な部分と情熱的な部分とを常にあわせ持ち、演技する人であったのかもしれないと思う。

2004年3月1日発行、2011年2月25日6刷、新潮文庫、590円。

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2016年10月08日

梅内美華子歌集 『真珠層』

2009年から2013年までの作品279首を収めた第6歌集。

銀髪の婦人のやうな冬の日が部屋に坐しをりレースをまとひ
海風に髪の湿りてぺたぺたす淋代(さびしろ)といふ浜にむかへば
夕映えに滲みつつともる観覧車誰かを迎へに行きたき時間
ひんやりと馬肉の赤身はそのむかし打ち身をくるんでゐたのよといふ
いやあ、あかん どうもあかんね寒中を叫びつつ風が走りてゆけり
かたむきてボタンの穴をくぐりたるボタンのやうなかなしみに居る
獅子頭の口の奥より被災せしこの世見てゐるほの暗き顔
母の髪しだいに明るくなりてゆき陽に透きてけふはもろこしのやう
草むらにさざなみのたつ上げられし鮒が跳ねつつ草濡らすとき
赤き玉とろりとできてこぼさなかつた泪のやうな線香花火

ふるさとの八戸や、六ヶ所村、三沢を詠んだ歌、学生短歌会の頃からの知り合いである田中雅子、佐々木実之の死を詠んだ歌、老いてゆく両親の歌など、全体にずっしりと重い手応えのある一冊。深い悲しみが感じられる。

1首目、「銀髪の婦人のやうな」という比喩が秀逸。
3首目、迎えに行くというのも相手がいなければできないことなのだ。
5首目、話し声が風に乗って聞こえてきたのだろう。
6首目、「かたむけて」がいい。確かに傾けないと留められない。
8首目、明るい話かと思って読んでいくと、結句に寂しさがある。
9首目、川岸で釣りを見ている。鮒の動きが何ともなまなましい。

2016年9月16日、短歌研究社、2700円。

posted by 松村正直 at 21:54| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月07日

第4回古今伝授の里・現代短歌フォーラム

11月6日に岐阜県の「古今伝授の里」で、短歌のシンポジウムがあります。私も聴きに行く予定なので、関西の方は一緒に行きましょう。

  チラシ表面.jpg

  チラシ裏面.jpg

期日 平成28年11月6日(日)13:30〜
会場 古今伝授の里フィールドミュージアム 和歌文学館
構成 「小瀬洋喜の歌論―短歌的な世界からの脱出と回帰―」

13:30〜13:35 主催者あいさつ
13:35〜14:15 第1部「小瀬歌論の魅力を語る」
    語り手:後藤すみ子、鈴木竹志
    ゲストスピーカー:平井弘
14:15〜14:25 休憩
14:25〜15:55
  第2部パネルディスカッション「今、短歌評論家のなすべきこと」
  パネリスト:佐佐木幸綱、小塩卓哉、川本千栄、山田航、寺井龍哉
  司会:鈴木竹志

参加費 310円(和歌文学館入館料)

http://kokindenjunosato.blogspot.jp/2016/09/4.html

posted by 松村正直 at 07:19| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月06日

50歳までに

今回は兄と日程を合わせて、母の家に行った。
初日の夜は食事の後、母親が寝た後もずっと兄と喋っていて、気が付けば夜中の1時半になっていた。よくまあ喋ったもんだ。

兄は一つ年上なので47歳。
いろいろと転機を迎えているようで、今後の人生の予定や未定(?)について教えてくれた。もともと50歳になるまでに、新しいことを始めたかったらしい。

その時は言わなかったが、僕も「50歳までに」と考えていることがあって、何だかよく似ている。兄弟そろってそんな調子だから、いつまで経っても母親を安心させられないのだけれど。

posted by 松村正直 at 21:13| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月05日

赤沢宿 (その2)


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今も唯一営業を続けている「江戸屋」。
「大阪屋」と双璧をなす大きさである。


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ふたたび牧水の歌碑。
「朴の木と先におもひし近づきて霧走るなかに見る橡若葉」


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喫茶・休憩所となっている「清水家」。
自家製ウメジュース300円をいただく。


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清水家の2階から見下ろした風景。
紅葉の季節にはまた一段と素晴らしい眺めになるとのこと。

交通が不便なためか、赤沢宿に観光客はほとんどいない。
のんびりと山の空気を吸いに来るにはおススメです!


posted by 松村正直 at 07:02| Comment(2) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月04日

赤沢宿 (その1)

身延町の隣りの早川町に「赤沢宿」という集落がある。

ここはかつて、身延山から七面山へと参拝する人々が泊まる宿場として賑わった場所である。

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標高500メートルから600メートルにかけての斜面に40軒ほどの家がある。石畳の道や参拝者の泊まった宿などが残っており、重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けている。


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かつての宿の一つ「大阪屋」。
参拝登山をする人々はこうした宿に泊まったのである。


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軒下には全国各地から訪れる講(参拝のグループ)が定宿にした証の「講中札」(板マネギ)がたくさん掛かっている。


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牧水の歌碑。
「花ちさき山あぢさゐの濃き藍のいろぞ澄みたり木の蔭に咲きて」


posted by 松村正直 at 20:31| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月03日

母の家

3泊4日(車中1泊)で山梨県身延町の母の家へ行ってきた。
2年前に連れ合いを亡くして、今はひとり暮らしをしている。

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とりあえず元気そうだったので、ひと安心。
近所の方々に何かとお世話になりながら、楽しく過ごしているようだ。


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庭からの眺め。
身延山が雲に隠れている。


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庭に咲く曼珠沙華。
秋に来たのは初めてかもしれない。

posted by 松村正直 at 22:42| Comment(2) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする