富士急行の富士吉田駅は、今では富士山駅という名前になっているらしい。今夜、その「富士山駅」行きの夜行バスで京都を発って、3日ほど留守にします。
天気は雨だな。
2016年09月30日
あなたを想う恋の歌
第19回「万葉の里 あなたを想う恋の歌」の作品を募集中です。
http://www.manyounosato.com/
締切は10月31日。
最優秀賞は何と10万円! しかも投稿料は無料。
皆さん、ぜひご応募ください。
私も審査員(選考委員)に入っています。
http://www.manyounosato.com/
締切は10月31日。
最優秀賞は何と10万円! しかも投稿料は無料。
皆さん、ぜひご応募ください。
私も審査員(選考委員)に入っています。
2016年09月29日
山田航著 『ことばおてだまジャグリング』
「本の話WEB」2015年2月8日〜2016年1月24日の連載をまとめたもの。
「回文」「アナグラム」「早口言葉」「しりとり」「アクロスティック(折句)」「なぞなぞ」など、様々な言葉遊びについて、自作もまじえながら全12章にわたって書いている。
【回文】
気温は地獄、五時半起き
サウナ「かもめ湯」で夢も叶うさ
【アナグラム】
「桐島、部活やめるってよ」→「〆切破って捕まるよ」
「アナと雪の女王」→「同じ京都の鮎」
とにかく面白い。言葉に興味がある人なら、誰でも楽しめると思う。それだけでなく、歌人山田航を考えるうえでも必読の内容と言っていい。今月の毎日新聞の「短歌月評」(9月19日)でも取り上げさせていただいた。
しりとりは単に言葉を発見して並べてゆくという楽しみばかりではなく、たった一文字が共通しているというだけで、本来なら無関係な言葉同士がどこまでもつながっていってしまう奇妙な文脈を作る楽しみでもあるのだと思う。
回文もそうだけど、受け手として楽しむばかりじゃなくて、自分でも作ってみることで言葉の世界へさらに深く潜ってゆけるようになるし、もう一度受け手に回ったときの驚きもより一層深いものになる。
こんな文章を読むと、あれっ?短歌に似ているなと思う。比喩の話や上句と下句の取り合わせ方の話、短歌の作者と読者の話を聞いているみたいだ。
そう、実はこの本は短歌の本でもあるのだ。
とにもかくにもとりあえず、短歌というのはそもそもが言葉遊びの精神に根差しているもの。
結局のところ僕は「言葉遊びの最終進化形」として今日に至るまで短歌をいじくり回しているような気がする。
ここには、短歌は「究極の言葉遊び」という短歌観が明確に打ち出されている。「言葉遊びをなめるな」「言葉遊びという語を軽々しく用いてもらいたくはない」と述べる著者の本気がずしんと伝わってくる1冊である。
2016年4月25日、文藝春秋、1300円。
2016年09月28日
本を買うお金
最近、ようやく気が付いたことがある。
私たちが本を買うお金というのは、「その本」のために使っているように見えるけれども、実はその作者が書く「次の本」のために使っているのだ。
目の前にある本は、既に出版されているわけで、今からお金が必要になるわけではない。けれども、その本が全く売れなければ、作者に次の本を出す機会はもう訪れないだろう。
その本をお金を出して買う人がたくさんいれば、また次の本を出すチャンスが与えられる。つまり、その作者への「期待」に対して、私たちはお金を払っているわけである。
だから、応援している作者の本は、多少無理をしても買う。これは本だけに限らず、映画でも音楽でも絵でも、何でも同じことだと思う。
私たちが本を買うお金というのは、「その本」のために使っているように見えるけれども、実はその作者が書く「次の本」のために使っているのだ。
目の前にある本は、既に出版されているわけで、今からお金が必要になるわけではない。けれども、その本が全く売れなければ、作者に次の本を出す機会はもう訪れないだろう。
その本をお金を出して買う人がたくさんいれば、また次の本を出すチャンスが与えられる。つまり、その作者への「期待」に対して、私たちはお金を払っているわけである。
だから、応援している作者の本は、多少無理をしても買う。これは本だけに限らず、映画でも音楽でも絵でも、何でも同じことだと思う。
2016年09月27日
「フロンティア」17号
ネットの古本屋やオークションを定期的に巡回して、高安国世に関する新しい資料が見つかれば買うことにしている。
今回入手したのは、「フロンティア」17号。
北海道電力株式会社総務部発行の小冊子で、全66ページ。
昭和47年8月10日発行。
ここに、高安国世が「思い出の道東」という3ページの文章を書いている。これまで、多分どこにも紹介されていないものだ。
「たしか十一年前のこと、私は北海道を訪れた」という冒頭の一文からわかるように、昭和36年の北海道旅行のことを書いた文章である。
内容は『カスタニエンの木陰』に収められている「北海道の旅から」(初出「塔」昭和36年10月号)と似ていてる。それでも、これまで知らなかった小さな発見のある貴重な文章であった。
今回入手したのは、「フロンティア」17号。
北海道電力株式会社総務部発行の小冊子で、全66ページ。
昭和47年8月10日発行。
ここに、高安国世が「思い出の道東」という3ページの文章を書いている。これまで、多分どこにも紹介されていないものだ。
「たしか十一年前のこと、私は北海道を訪れた」という冒頭の一文からわかるように、昭和36年の北海道旅行のことを書いた文章である。
内容は『カスタニエンの木陰』に収められている「北海道の旅から」(初出「塔」昭和36年10月号)と似ていてる。それでも、これまで知らなかった小さな発見のある貴重な文章であった。
2016年09月26日
鈴木晴香歌集 『夜にあやまってくれ』
新鋭短歌シリーズ28。
262首を収めた第1歌集。
おたがいの体に等高線を引くやがて零メートルのくちづけ
唇をつけないように流し込むペットボトルの水薄暗い
鉄柵の内に並んだ七人の小人がひとり足りない芝生
教える手おしえられる手が重なってここに確かに心臓がある
ルート2の抜け道を行く夕暮れにどこからか恋猫の鳴き声
残像の美しい夜目を閉じた後の花火の方が大きい
氷より冷たい水で洗う顔うまれる前は死んでいたのか
黙ることが答えることになる夜のコインパーキングの地平線
水道の水を花瓶に注ぎ込む何となく秒針を眺めて
交番の前では守る信号の赤が照らしている頰と頰
1首目、等高線という言葉が人体の凹凸をなまなましく想像させる。
3首目、「七人の」と言っているのに、六人しかいないのがおもしろい。「七人の」は数のことではなく、固有名詞(白雪姫のキャラクター)の一部なのだ。
4首目、「ほら、私こんなにドキドキしてる」などと言って、相手の手を取り自分の胸に当てている場面。
5首目、「ルート2の抜け道」がいい。縦、横の道に対して、斜めに抜ける道。
8首目、恋の場面。相手の問いに対してOKと言えずに黙り込む。
10首目、夜の横断歩道の前に立つ二人。これからどこへ向かうのだろうか。
文体的には動詞のテイル形が多いところに特徴がある。例えば119頁を見ると「抱いている」「抱きしめられている」「さらされている」と3首ともテイル形が使われている。
小題は歌の言葉から採られているものだけでなく、「白熱灯はその下だけを照らしていた」「問いには答えが似合うだけ」「ここにとどまるために私は駅に向かう」など、それ自体が作品になっているものが多い。
2016年9月17日、書肆侃侃房、1700円。
2016年09月25日
マザーリーフその後
春先にマザーリーフの葉っぱを1枚いただいた。
葉っぱから芽が出るので「ハカラメ」とも言われている植物だ。
http://matsutanka.seesaa.net/article/433796385.html
半年が過ぎて、今ではこんなに大きくなった。
生きる力というのがすごいものだな。
もっと大きな鉢に植え替えないと。
葉っぱから芽が出るので「ハカラメ」とも言われている植物だ。
http://matsutanka.seesaa.net/article/433796385.html
半年が過ぎて、今ではこんなに大きくなった。
生きる力というのがすごいものだな。
もっと大きな鉢に植え替えないと。
2016年09月24日
奥村晃作歌集 『ビビッと動く』
2014年から16年にかけての320首を収めた第15歌集。
1首目は巻頭歌。「生きながら」がいい。ちょっとかわいそうだけど美味しそう。
2首目、「耳」「三木」「アルミ」「耳」のミ音の反復がうまく響いている。
3首目、当り前の話だが、カモメは観光客へのサービスで来ていたわけではなく、餌を目当てに来ていただけだったのである。
4首目、JRの御茶ノ水駅を出て、橋を渡って丸の内線の御茶ノ水駅へ。このちょっとした乗り換え。
5首目、裸だから集中したわけでもないと思うが面白い。「清輝(せいき)」と「せりき」の響き合いも効いている。
2016年9月22日、六花書林、2500円。
鳥取の松葉蟹の子生きながら箱詰めに五尾送られて来ぬ
耳に執する三木富雄作の巨大なるアルミニウムの「耳」しんと
あり
餌やりは禁止となりて知床の遊覧船にユリカモメ見ず
〈御茶ノ水橋口〉を出て地下鉄の「御茶ノ水」まで歩いて二分
「裸体」「裸婦」裸の人を描(えが)くとき黒田清輝は集中せりき
1首目は巻頭歌。「生きながら」がいい。ちょっとかわいそうだけど美味しそう。
2首目、「耳」「三木」「アルミ」「耳」のミ音の反復がうまく響いている。
3首目、当り前の話だが、カモメは観光客へのサービスで来ていたわけではなく、餌を目当てに来ていただけだったのである。
4首目、JRの御茶ノ水駅を出て、橋を渡って丸の内線の御茶ノ水駅へ。このちょっとした乗り換え。
5首目、裸だから集中したわけでもないと思うが面白い。「清輝(せいき)」と「せりき」の響き合いも効いている。
2016年9月22日、六花書林、2500円。
2016年09月23日
「塔」2016年9月号のつづき
『日本の橋』読みしのちもとめたる全集いくらも手にとらざりき
竹下文子
保田與重郎の『日本の橋』に感動して全集を買ってみたものの、あまり読まなかったのだろう。「いくらも」に寂しさがにじむ。
肩甲骨すでに大人になっている息子の背中と背くらべする
石井久美子
中学生くらいの子だろうか。体つきや骨格はもう大人の男だ。「肩甲骨」に着目したところが良い。「背中」もくどいようで効いている。
ドアホンのピンとポンとのそのあひの時間の永き夏の午後なり
清水良郎
ピンポン、ピンポンと慌ただしく鳴るのではなく、指でゆっくり押してから離した感じ。時が止まってしまったかのような時間帯の様子である。
きみの手を握って眠ったはずなのにコピー用紙を抱えて歩く
阿波野巧也
上句から下句への時間的な意識の飛躍がおもしろい。下句は目覚めた時の話が来ると思って読んでいくと、突然、昼間の場面に飛ぶ。
遮断機の下をながれて水草は遠き河口へ導かれゆく
吉田 典
遮断機が上がるのを待つ間、踏切の下の水路を見るともなく見ている。流れる水草につられるようにして、見えない河口へと想像が広がっていく。
2016年09月22日
「塔」2016年9月号
勉強会、はた宴会と騒ぎいしかの日のボンジョルノ難波はいずこ
小川和恵
イタリアンレストランだろうか。若かった頃によく仲間たちと利用していた店が、今では姿を消している。残っているのは思い出だけ。
やわらかきところを鍬の刃にさぐりひとふりふたふり竹を倒しぬ
吉川敬子
「さぐり」がいい。鍬を持つ手に伝わってくる感覚がよく表れている。竹を倒すにも力任せではだめで、コツのようなものがあるのだろう。
かあさんはやさしいねえと育親書でも読んだみたいに眠る間
際を 宇梶晶子
褒めて育てる方法が書いてある育児書のように、親にいたわりの言葉を掛けてくれる子ども。やさしくない自分に気付いているだけに胸が痛むのだ。
通勤の橋わたるとき海へ吹く風はパルプの匂いをはこぶ
小林貴文
橋の上はよく風が通る。上流の方から匂いが流れてくるのだろう。朝の通勤で仕事へと向いていた意識が、その瞬間だけ少し緩むのだ。
ちょる、ちょると耳をくすぐる方言が飛びかうテーブル揺りかご
のよう 大森千里
故郷に帰った場面だろう。「ちょる、ちょると」がおもしろい。「〜しちょる」という語尾が心地よく響いて、懐かしさと安心感に包まれている。
2016年09月21日
10月号掲載情報など
短歌総合誌の10月号に、作品や評論を載せています。
・作品「王将について」20首(「現代短歌」10月号)
・評論「米と日本人」(「歌壇」10月号)
・エッセイ「樺太からの手紙」(「短歌往来」10月号)
・書評「時田則雄著『陽を翔るトラクター』」(角川「短歌」10月号)
どれも、かなり個人的な趣味に走っていて、あらためて読み直すのがこわくなります。
樺太と言えば、今季の稚内―サハリン航路が終了しました。
夏の間、14往復28便が運航されて511人が利用したとのこと。
来年以降もっと利用者が増えて、安定した航路になってほしいです。
http://mainichi.jp/articles/20160917/k00/00e/040/178000c
もう一つ樺太と言えば(!)、評論集『樺太を訪れた歌人たち』を刊行します。「短歌往来」10月号に「近刊」として広告が載っていますが、校正ゲラはまだ私の机に載っている状態。
急いでやんなきゃ。
・作品「王将について」20首(「現代短歌」10月号)
・評論「米と日本人」(「歌壇」10月号)
・エッセイ「樺太からの手紙」(「短歌往来」10月号)
・書評「時田則雄著『陽を翔るトラクター』」(角川「短歌」10月号)
どれも、かなり個人的な趣味に走っていて、あらためて読み直すのがこわくなります。
樺太と言えば、今季の稚内―サハリン航路が終了しました。
夏の間、14往復28便が運航されて511人が利用したとのこと。
来年以降もっと利用者が増えて、安定した航路になってほしいです。
http://mainichi.jp/articles/20160917/k00/00e/040/178000c
もう一つ樺太と言えば(!)、評論集『樺太を訪れた歌人たち』を刊行します。「短歌往来」10月号に「近刊」として広告が載っていますが、校正ゲラはまだ私の机に載っている状態。
急いでやんなきゃ。
2016年09月20日
『行商列車』のつづき
列車を使った魚の行商は高度経済成長期にピークに達し、その後は次第に衰退し、平成に入った頃にほぼ全国的に終焉を迎えた。
著者が密着取材を行った行商人夫妻の店も、昨年、55年の歴史に幕を下ろした。
スーパーマーケットやコンビニエンスストア、さらにはインターネットによる商品の流通という便利を享受する一方で、私たちが失ってしまったものは何であったのか。
それは「売り手と買い手が直接顔を突き合わせ、物のやりとりをする」「五感を駆使して初めて、互いに納得のいく取引が成立する」ということであり、人と人との触れ合いや結び付きであったのだろう。
本書は単なる民俗誌の調査・研究にとどまらない面白さを持っている。それは、取材を通じて著者が多くの人々と出会い、その魅力を肌で体感したことによるのだろう。フィールドワークというよりも、ぶっつけ本番の真剣勝負なのである。
この気概こそが、本書の一番の魅力ではないかと思った。
昭和六十二年の国鉄分割民営化はひとつの転換期だった。このときに廃線になったり、列車の本数が減ったり、経路が変わったりしたことで、細々と商売を続けていた行商人の足が最終的に奪われる結果となったところも多い。
著者が密着取材を行った行商人夫妻の店も、昨年、55年の歴史に幕を下ろした。
スーパーマーケットやコンビニエンスストア、さらにはインターネットによる商品の流通という便利を享受する一方で、私たちが失ってしまったものは何であったのか。
それは「売り手と買い手が直接顔を突き合わせ、物のやりとりをする」「五感を駆使して初めて、互いに納得のいく取引が成立する」ということであり、人と人との触れ合いや結び付きであったのだろう。
本書は単なる民俗誌の調査・研究にとどまらない面白さを持っている。それは、取材を通じて著者が多くの人々と出会い、その魅力を肌で体感したことによるのだろう。フィールドワークというよりも、ぶっつけ本番の真剣勝負なのである。
本当に大切なことは、メモしなくても、写真にとらなくても、覚えているものである。もちろん、すべての場面でそれが通用するわけではないが、ここぞというときには丸腰で向かっていく覚悟を、あのとき教えてもらったように思う。
この気概こそが、本書の一番の魅力ではないかと思った。
2016年09月19日
山本志乃著 『行商列車』
副題は「〈カンカン部隊〉を追いかけて」。
朝早く大きな荷物を持って鉄道に乗り、魚の行商に出掛ける人々。彼女たちは運搬用のブリキ製のカンにちなんで「カンカン部隊」とも呼ばれた。戦後から高度経済成長期にかけて活躍した行商人たちの歴史と生活を描いた探訪記。
伊勢湾で獲れた魚を近鉄の専用列車で大阪まで運ぶ人々、鳥取から因美線で県境を越えて岡山県北部に魚を売りに行く人々、鳥取の泊から山陰本線・旧倉吉線に乗って、倉吉近郊へ行く人々。魚の獲れるところから、魚を求める人のいるところへ、鉄道を使って多くの行商人が魚を運んだ。
その姿を追ううちに、著者は多くのことに気が付く。
漁師という職業は、自分で食べるために魚介類をとるわけではない。その魚介類を売るためにとる。農産物の場合、特別な商品作物以外は自給用を兼ねるものが多いが、海産物は、あくまで交易と流通を前提にしているところに特徴がある。
正月に魚を食べるという地域は、全国各地に広がっている。中には、海から遠く離れた山間地であることも珍しくない。正月と海の魚。この関係こそが、実のところ日本人にとって魚が大切な食材であることの原点なのである。
日本の列車は、規則正しく、そして確実で安全な移動手段である。ただしそれだけに留まるものではない。鉄道は、人と人とをとり結ぶ時空間を運ぶ乗り物なのである。
どれも、魚の行商や日本人と魚の関わりを考えるうえで大切な観点であろう。
2015年12月10日、創元社、1800円。
2016年09月17日
見世物大博覧会
国立民族博物館で開催されている特別展「見世物大博覧会」へ。
展示室の入口には呼び込みの声が流れ、中に入ると一画に見世物小屋が再現されている。おどろおどろしくて猥雑で好奇心をかき立てる空間。小屋の中では人間ポンプ・安田里美の公演(録画)が放映されているほか、古い新聞やチラシなどの資料が多数展示されている。
小屋の外に出ると、1階中央には見上げるほどに巨大な関羽の籠細工が立つ。
他にも、軽業、曲芸、獅子舞、一式飾り、生人形、菊人形、動物の剥製、人魚のミイラなど、ありとあらゆる見世物が紹介されている。最後は、なんと寺山修司!
どれも面白くて、長い時間かけて見入ってしまった。
こうした企画が実現するというのは画期的なことだと思う。一方でそれは、どこか怪しげでいかがわしく、それゆえに魅力的だった見世物という世界の終わりをも示している。今では見世物は廃れ、博物館の展示や郷土芸能としてのみかろうじて生き残っているということだ。
もちろん今だってアートアクアリウムもシルク・ドゥ・ソレイユもあるけれど、怪しさやいかがわしさはもうどこにもない。
展示室の入口には呼び込みの声が流れ、中に入ると一画に見世物小屋が再現されている。おどろおどろしくて猥雑で好奇心をかき立てる空間。小屋の中では人間ポンプ・安田里美の公演(録画)が放映されているほか、古い新聞やチラシなどの資料が多数展示されている。
小屋の外に出ると、1階中央には見上げるほどに巨大な関羽の籠細工が立つ。
他にも、軽業、曲芸、獅子舞、一式飾り、生人形、菊人形、動物の剥製、人魚のミイラなど、ありとあらゆる見世物が紹介されている。最後は、なんと寺山修司!
どれも面白くて、長い時間かけて見入ってしまった。
こうした企画が実現するというのは画期的なことだと思う。一方でそれは、どこか怪しげでいかがわしく、それゆえに魅力的だった見世物という世界の終わりをも示している。今では見世物は廃れ、博物館の展示や郷土芸能としてのみかろうじて生き残っているということだ。
もちろん今だってアートアクアリウムもシルク・ドゥ・ソレイユもあるけれど、怪しさやいかがわしさはもうどこにもない。
2016年09月16日
永田和宏・永田淳・永田紅編 『あなた 河野裕子歌集』
河野裕子の残した約6400首の歌から、永田和宏、永田淳、永田紅の三人が約1500首を選んだアンソロジー。
15歌集それぞれに編者の書き下ろしエッセイが付いているほか、歌集の書影や年譜も載っている。解説は三枝ミ之さん。
永田和宏さんのエッセイ「自宅介護のころ」に書かれているエピソードが、何だかすごかった。感想がうまく言えない。
永田紅さんのエッセイ「どこかに猫はいないかな」には、こんな一節がある。
横浜に住むようになって、母は「横浜の猫はしっぽがない!」と驚いたそうだ。しっぽの短い鍵尾の猫を、それまで見たことがなかったのだ。
おお、こんな時こそ『くらべる東西』の出番だ。
カギ形のしっぽが多いのが「東のネコ」
真っすぐな形の尻尾が多いのが「西のネコ」
と、写真入りでちゃんと書いてある。
東京のわが家で飼っていたミミも、尻尾が曲がって短い猫だった。
2016年8月4日、岩波書店、1800円。
2016年09月15日
花山多佳子歌集 『晴れ・風あり』
2008年から2012年までの作品425首を収めた第10歌集。
観察力の働いた歌やユーモアのある歌に特徴がある。娘や息子を詠んだ歌に加えて、この歌集では亡くなった父への想いを詠んだ歌に印象的なものが多かった。
1首目、原材料として何が使われているかわからないから、ということだろう。頑固で少し変わり者の父の性格が彷彿とする。
2首目、葉書を投函したかどうか忘れてしまうという意味に読んだ。
3首目、結句の「揉む」という動詞の選びが良い。
4首目、「佃島リバーシティ」の現代的な感じと、昔ながらの風情を感じさせる「佃小橋」の取り合わせ。
5首目、いつも息子がどこかへ持って行って行方不明にしていたわけだ。その息子はもう家にいない。
6首目、上句まだ生きているかのように詠まれているが挽歌である。
7首目、なぞなぞのような歌だが、よく考えると当り前の話。同じ速度で歩いていると、同じ方向に歩く人とは出会わないのだから。「行人坂」という名前がうまく効いている。
8首目、汚染水対策として置かれた土嚢。「日本の誇る」が何とも皮肉に響く。
9首目、「ひるがほいろ」がいい。結句「ひろがる」とも響き合う。
10首目、一瞬目にした羽ばたきは、断末魔の抵抗だったのだ。
2016年8月11日、短歌研究社、3000円。
練り物の類(たぐひ)は得体の知れぬゆゑ口に入れぬと言ひし父はも
家を出て十字路渡つた角に在る 入れた記憶のなくなるポスト
あたらしき雪平鍋に滾りつつ湯は芽キャベツのさみどりを揉む
佃島リバーシティに降る雨は佃小橋の水路にも降る
耳かきをいつも捜してゐた息子 いま耳かきはすぐに見つかる
もはや父とは会ふことなからむ手の甲にさやる柩のなかの毛髪
行人坂くだりゆくとき上りくる人多し上るとき下りくる人多し
日本(につぽん)の誇る土嚢が梅雨ふかき原発建屋のめぐりに置かる
いかづちのとどろきしのち雨はれてひるがほいろのそらがひろがる
しじみ蝶だらうか草に椋鳥がとらへしものは羽ばたいてをり
観察力の働いた歌やユーモアのある歌に特徴がある。娘や息子を詠んだ歌に加えて、この歌集では亡くなった父への想いを詠んだ歌に印象的なものが多かった。
1首目、原材料として何が使われているかわからないから、ということだろう。頑固で少し変わり者の父の性格が彷彿とする。
2首目、葉書を投函したかどうか忘れてしまうという意味に読んだ。
3首目、結句の「揉む」という動詞の選びが良い。
4首目、「佃島リバーシティ」の現代的な感じと、昔ながらの風情を感じさせる「佃小橋」の取り合わせ。
5首目、いつも息子がどこかへ持って行って行方不明にしていたわけだ。その息子はもう家にいない。
6首目、上句まだ生きているかのように詠まれているが挽歌である。
7首目、なぞなぞのような歌だが、よく考えると当り前の話。同じ速度で歩いていると、同じ方向に歩く人とは出会わないのだから。「行人坂」という名前がうまく効いている。
8首目、汚染水対策として置かれた土嚢。「日本の誇る」が何とも皮肉に響く。
9首目、「ひるがほいろ」がいい。結句「ひろがる」とも響き合う。
10首目、一瞬目にした羽ばたきは、断末魔の抵抗だったのだ。
2016年8月11日、短歌研究社、3000円。
2016年09月14日
電話
山梨県に住む母も、神奈川県に住む父も、ともに後期高齢者で一人暮らしをしている。本当は頻繁に会いに行かなければと思うのだが、なかなかそうもいかない。
せめてこまめに電話を掛けようと思って、思うだけではダメなので、電話した日付を紙に書くことにしている。机の前に張った紙に、母と父にそれぞれ電話した日付を書き付けているのだ。
それを見ると、父の方が圧倒的に少ない。
今も「8月15日」が最後になっていて、気が付けばもう一か月も電話していない有様だ。しかも母と違って父は自分から電話を掛けてくることがないので、話をしている回数はさらに少ない。
8月15日というのも父の誕生日であって、「何もないけど電話した」わけではない。何もないけど電話するというのは、意外と難しいものだ。
明日は何とか頑張って(?)電話しようと思う。
せめてこまめに電話を掛けようと思って、思うだけではダメなので、電話した日付を紙に書くことにしている。机の前に張った紙に、母と父にそれぞれ電話した日付を書き付けているのだ。
それを見ると、父の方が圧倒的に少ない。
今も「8月15日」が最後になっていて、気が付けばもう一か月も電話していない有様だ。しかも母と違って父は自分から電話を掛けてくることがないので、話をしている回数はさらに少ない。
8月15日というのも父の誕生日であって、「何もないけど電話した」わけではない。何もないけど電話するというのは、意外と難しいものだ。
明日は何とか頑張って(?)電話しようと思う。
2016年09月13日
筒井康隆著 『旅のラゴス』
昭和61年に徳間書店より刊行され、平成元年に徳間文庫に収録され、さらに平成6年に新潮文庫に入ったもの。一昨年くらいから、かなり売れているらしい。帯に大きく「口コミで人気爆発!」とある。
短歌をやるようになってから小説はあまり読まなくなったのだが、以前はよく読んでいた。筒井康隆も好きな小説家の一人。
題名の通り、ラゴスという旅をする男を主人公とした物語。12の話が連作風に続いていて、短い話もあれば、長い話もある。
人間はただその一生のうち、自分に最も適していて最もやりたいと思うことに可能な限りの時間を充(あ)てさえすればそれでいい筈(はず)だ。
という一文など、まさにその通りという気がする。
解説で村上陽一郎も書いているが、「ビルドゥングス・ロマン」(主人公が様々な経験を経て成長していく物語、教養小説、自己形成小説)と言っていい内容だ。そうした点では古典的でありつつ、随所にSF的な要素も混ざってくるあたりが、筒井康隆らしいところだろう。
私も旅に出たくなった。
平成6年3月25日発行、平成26年1月25日16刷改版、平成27年8月30日30刷、新潮文庫、490円。
2016年09月12日
『不屈の棋士』 のつづき
将棋ソフトに関する話の中で特に興味深かったのは「人間にしか指せない将棋というものはあるのか」という問題。著者はこの質問も棋士にぶつけている。
このあたり、「エミー」という自動作曲ソフトがバッハ風の曲を生み出した話を思い出す。短歌で言えば、「斎藤茂吉風の歌」とか「塚本邦雄調の歌」といったものを人工的に作成できる可能性があるわけだ。
実際に、石川啄木の『悲しき玩具』の巻末に記された未完成の歌を復元するという試みも行われている。
https://sunpro.io/c89/pub/hakatashi/introduction
これも、ある意味で正論だろう。この本を読み終えて一番感じたのは、結局人間同士の戦いだから面白いということである。このあたりは、相手がいない短歌とは違うところだ。短歌で戦いと言えば「歌合せ」くらいか。
ミスすることも含めての人間である。そう言えば先日、郷田真隆王将が公式戦で「二歩」を指して反則負けとなった。そんなことが起こり得るのも人間ならではのことであり、そこにドラマがあるのかもしれない。
羽生 人間にしか指せない将棋・・・。うーん・・・何とも言えないですね。ソフトがドンドン進化した時に、この人っぽい将棋というのを指せるようになる可能性はかなりあると思います。たとえば昔の大山(康晴)先生っぽい棋風のソフトを作るというのは多分できるんじゃないかと。
このあたり、「エミー」という自動作曲ソフトがバッハ風の曲を生み出した話を思い出す。短歌で言えば、「斎藤茂吉風の歌」とか「塚本邦雄調の歌」といったものを人工的に作成できる可能性があるわけだ。
実際に、石川啄木の『悲しき玩具』の巻末に記された未完成の歌を復元するという試みも行われている。
https://sunpro.io/c89/pub/hakatashi/introduction
渡辺 人間にしか指せない将棋とかそういうことではなく、人同士がやるからゲームとして楽しめるんです。たとえばマルバツゲームがそうでしょう。あれをコンピュータとやる人はいない(笑)。
これも、ある意味で正論だろう。この本を読み終えて一番感じたのは、結局人間同士の戦いだから面白いということである。このあたりは、相手がいない短歌とは違うところだ。短歌で戦いと言えば「歌合せ」くらいか。
森内 厳しい質問ですね。プロ棋士としてやっている以上、少しでも内容を充実させたいと思いますが、人間は必ずどこかで間違える。それが現実です。将棋の世界に限らず、どんな世界でもミスをしない人はいないのです。
ミスすることも含めての人間である。そう言えば先日、郷田真隆王将が公式戦で「二歩」を指して反則負けとなった。そんなことが起こり得るのも人間ならではのことであり、そこにドラマがあるのかもしれない。
2016年09月11日
大川慎太郎著 『不屈の棋士』
2015年10月、情報処理学会は「トップ棋士との対戦は実現していないが、ソフトは事実上トップ棋士に追い付いた」と宣言した。今年から始まった電王戦においても、将棋ソフトがプロ棋士に2連勝している。
このように将棋ソフトが年々進化を続ける状況下で、棋士たちは何を考え、どのような将棋を指し、今後をどう見ているのか。著者は、羽生善治、渡辺明、勝又清和、西尾明、千田翔太、山崎隆之、村山慈明、森内俊之、糸谷哲郎、佐藤康光、行方尚史という11名の棋士にインタビューをしている。
将棋ソフトとの付き合い方はそれぞれで、徹底的に活用している棋士もいれば、ほとんど触らない棋士もいる。それでも将棋界全体として考えると、ソフトのもたらした影響にはかなり大きなものがあるようだ。
それは、単に従来の定跡が覆されるとか、新しい手が生み出されるといったことにとどまない。棋士の存在価値そのものが揺らぎかねないのである。
長らく棋士は最強の存在として君臨し続けてきた。だが、ソフトの登場によって、そうでなくなったら棋士としての価値をどこに見出していけばいいのか。
これはおそらく将棋に限らず、今後様々なジャンルで問われる問題であろう。そうした意味でも、この本は非常にスリリングな内容を含んでいると言っていい。
2016年7月20日、講談社現代新書、840円。
2016年09月10日
映画 「君の名は。」
監督・原作・脚本:新海誠
かなり良かった。
菊田一夫脚本の「君の名は」や大林宣彦監督の「転校生」、さらに東日本大震災などを重ね合わせながら見た。
映画館を出てからもしばらくは、頭が興奮してうまく現実の世界に戻れない。それくらい良かった。
MOVIX京都、107分。
かなり良かった。
菊田一夫脚本の「君の名は」や大林宣彦監督の「転校生」、さらに東日本大震災などを重ね合わせながら見た。
映画館を出てからもしばらくは、頭が興奮してうまく現実の世界に戻れない。それくらい良かった。
MOVIX京都、107分。
2016年09月09日
短歌的な感性
最近よくリクルートのリクナビNEXTのCMが流れている。
http://next.rikunabi.com/promotion/
(応援歌1篇の15秒バージョン)
転職に悩む女性が道を歩いていると、後ろから自転車に乗った男性(大泉洋)が「とにかく笑えれば〜最後に笑えれば〜」とウルフルズの「笑えれば」を口ずさみながら追い越して行くという内容。
けっこう好きなCMなのだけれど、最後に自転車に乗った男性のアップになったとき、「大丈夫」と言うのが余計な気がする。この一言はなくてもわかるだろう、と。
でも、こんなふうに思うのは、きっと短歌的感性なのだ。
短歌をやっていると、「結句が言い過ぎ」「説明的」「ダメ押しになっている」「ここまで言わなくてもわかる」といったことを、歌会などで徹底的に叩き込まれる。そして、最小限の言葉で伝える―伝わるという感性が次第に身についていくのだが、実はこれは日常生活の感性とはけっこうズレがあるのだ。
あのCMを作った人はもちろん、あのCMを見る人の多くも、たぶん「大丈夫」の一言が必要だと感じるのだろう。もっとはっきり言えば、世間がズレているのではなく、私の方がズレているのである。
http://next.rikunabi.com/promotion/
(応援歌1篇の15秒バージョン)
転職に悩む女性が道を歩いていると、後ろから自転車に乗った男性(大泉洋)が「とにかく笑えれば〜最後に笑えれば〜」とウルフルズの「笑えれば」を口ずさみながら追い越して行くという内容。
けっこう好きなCMなのだけれど、最後に自転車に乗った男性のアップになったとき、「大丈夫」と言うのが余計な気がする。この一言はなくてもわかるだろう、と。
でも、こんなふうに思うのは、きっと短歌的感性なのだ。
短歌をやっていると、「結句が言い過ぎ」「説明的」「ダメ押しになっている」「ここまで言わなくてもわかる」といったことを、歌会などで徹底的に叩き込まれる。そして、最小限の言葉で伝える―伝わるという感性が次第に身についていくのだが、実はこれは日常生活の感性とはけっこうズレがあるのだ。
あのCMを作った人はもちろん、あのCMを見る人の多くも、たぶん「大丈夫」の一言が必要だと感じるのだろう。もっとはっきり言えば、世間がズレているのではなく、私の方がズレているのである。
2016年09月08日
小島ゆかり歌集 『馬上』
2013年夏から2015年夏までの作品519首を収めた第13歌集。
父母の介護、そして父の死が大きなテーマとなっている。
2首目、鯉がなまめくという表現はよく見るが、水の方に着目しているところが印象的。
3首目、確かにこういうことはありそう。ユーモラスに詠んでいるが、本当に疲れているのがわかる。
5首目、病院側の診療報酬の関係で、一定期間を過ぎると転院を余儀なくされてしまう。
6首目、飛魚のシンボルとも言える長い胸鰭だけが、ぽつんと皿に残るのだ。
8首目、「隙間だらけ」の服の頼りなく心細い感じ。
9首目、比喩としての「勝ち馬」ではなく、実際の馬の話。「鼻をふくらませ」も得意気な様子の比喩ではなく、激しく息をしているのである。
「悲しみの人へ」という詞書の付いた5首は、妻を亡くした高野公彦さんのことだろう。こんな詠い方、心の寄せ方もあるのだと、強く印象に残った。
2016年8月31日、現代短歌社、2500円。
父母の介護、そして父の死が大きなテーマとなっている。
サーファーのかがやくからだ暗みたりふいに大きく鳶ひるがへり
鯉よりも水はなまめく 動く身の一尾一尾をうすくつつみて
今日ひどくこころ疲れてゐるわれは買物メモをポストに入れぬ
西武線の窓よりけふは富士見えてしばらくは聴くしろい音楽
転院しまた転院しわが父の居場所この世にもう無きごとし
飛魚の塩焼き食べて胸鰭のみづいろの翅、皿に残りぬ
目蔭(まかげ)する人びとの睫毛睫毛からとんぼ生まるる秋のまちかど
紺色の検査着は隙間だらけにてひぐれのごときからだとなりぬ
勝ち馬も負け馬も鼻をふくらませ信濃の秋の草競馬をはる
パソコンが苦手なわれをパソコンもきつと苦手だらうな、フリーズ
2首目、鯉がなまめくという表現はよく見るが、水の方に着目しているところが印象的。
3首目、確かにこういうことはありそう。ユーモラスに詠んでいるが、本当に疲れているのがわかる。
5首目、病院側の診療報酬の関係で、一定期間を過ぎると転院を余儀なくされてしまう。
6首目、飛魚のシンボルとも言える長い胸鰭だけが、ぽつんと皿に残るのだ。
8首目、「隙間だらけ」の服の頼りなく心細い感じ。
9首目、比喩としての「勝ち馬」ではなく、実際の馬の話。「鼻をふくらませ」も得意気な様子の比喩ではなく、激しく息をしているのである。
きみ思ふきのふまたけふ淡青のあさがほ咲(ひら)く休らひたまへ
はるかなるそのふるさとのゆたかなる海のちからのねむりを君に
「悲しみの人へ」という詞書の付いた5首は、妻を亡くした高野公彦さんのことだろう。こんな詠い方、心の寄せ方もあるのだと、強く印象に残った。
2016年8月31日、現代短歌社、2500円。
2016年09月07日
「塔」2016年8月号のつづき
どこからを遠いというのか砂しろき丘に駱駝が目を伏せて立つ
福西直美
「遠い」は距離の遠さとも読めるし、時間的な遠さや関係の遠さとも読める。「目を伏せて」がいい。
声もたぬひとりとなりて森に入る湿つた落葉のあつき堆積
山尾春美
上句がいい。森に立つ木々は声を持たない。その中に人間である作者も入っていく。森の中では言葉はいらないのだ。
ささやかなやくそくひとつ果たすごと木の芽をぱん、と叩きて
祖母は 小田桐夕
香りを出すために木の芽を叩く。小さなことだけれども大事な手順だ。「ぱん」の後の読点がよく効いている。
湖西線新快速で敦賀まで湖(うみ)を右手に本を読み継ぐ
児嶋きよみ
湖西線はその名の通り琵琶湖の西岸を走る路線。車窓に広がる湖の明るさを感じつつ、本を読み続けているのだ。
均一にスポットライトを浴びている生えてる時より緑のサラダ
黒川しゆう
商品として店に並んだサラダ。畑に生えていた時よりも鮮やかな緑色をしている。きれい過ぎて少し不気味でもある。
2016年09月06日
「塔」2016年8月号
目玉焼きのあかるい丘が運ばれてきたかなしむにはほど遠い朝
澤村斉美
目玉焼きを「あかるい丘」と捉えたのがいい。黄身の部分のふくらみが希望を感じさせる。
終末の迎へ方をばたれに聞かむあぢさゐの花芽ふくらみて来ぬ
山下れいこ
「終末の迎へ方」を知っている人は誰もいない。自分一人で向き合わなくてはならないのだ。8月19日に亡くなった作者の歌。
速報を見つつ娘に電話すれば「また揺れてる」と直ぐに切られぬ
伊東 文
娘の身を案じて電話する作者と、それどころではない娘のぶっきらぼうな対応のずれ。親子の関係がよく見えてくる。
少しだけミルクを足していくように五月の午後のかるいお喋り
塚本理加
上句の比喩がうまい。コーヒーにミルクを入れるような軽やかさ。下句の韻律も軽快だ。
ほめられることに慣れない ピスタチオつまんだ指に塩きらきらと
安田 茜
初二句と三句以下の取り合わせが良い。指先に付いた塩の輝きとかすかな違和感と。
2016年09月05日
岡山へ
2016年09月04日
加藤治郎著 『東海のうたびと』
全体が二部構成となっていて、前半は春日井建、荻原裕幸、小島ゆかり、野口あや子ら東海地方にゆかりの歌人31名について記した「東海のうたびと」、後半は名古屋のスポット37か所を訪ねて歌を詠んだ「吟遊の街」となっている。
前者は2015年6月から2016年1月まで「中日新聞」に連載したもの、後者は1999年4月から2000年3月まで「朝日新聞」名古屋本社版に連載したものである。
加藤治郎の文章は歯切れがよい。短い文を連ねてリズムを生み出していく。接続詞や接続助詞をあまり使わず、ポンポン畳みかけるように文が続けていく。
書き始めの部分にも工夫がある。
それは、一九八五年の夏だった。愛知県立大学のキャンパスである。ひとりの学生が、西田政史に声をかけた。(西田政史)
「岡野、うちへ来ないかい」
そう言ったのは、折口信夫であった。(岡野弘彦)
短い文章の冒頭から、読者をぐいっと引き付ける導入となっている。
短歌に関する箴言的な言葉が随所に盛り込まれているのも、本書の魅力の一つと言って良いだろう。
歌人には二つのタイプがある。日々の生活を詠う歌人。(・・・)もう一つのタイプは、新しい表現を求める歌人だ。
「するだろう」たった五音が短歌史を変えた。鮮やかだった。このインパクトは、この五十年間、短歌を志す者たちを惹きつけてきた。
歌人にとって最高の〈賞〉は、自作が多くの人々の愛誦歌になることではないだろうか。
どれもみな短い言葉で鮮やかに本質を切り取っていて、かっこいい。
少しかっこ良すぎる気もしないではないが。
2016年5月26日、中日新聞社、1200円。
2016年09月03日
おかべたかし・文、山出高士・写真 『くらべる東西』
「いなり寿司」「桜餅」「線香花火」「銭湯」「タクシー」「ひな人形」など、東日本と西日本では形や習慣が異なるもの34個を取り上げて、大きな写真とともに解説した本。
見開きの左ページに「東の○○」、右ページに「西の○○」の写真を載せているので、一目でその違いがわかる。さらにその後に2頁の詳しい説明が付くというスタイル。
いなり寿司なら
俵型が「東のいなり寿司」 三角形が「西のいなり寿司」
タクシーなら
カラフルなのが「東のタクシー」 黒が主流なのが「西のタクシー」
というわけだ。私は東に生まれて、今は西に住んでいるので、なるほどそうだったのかと思うことが多い。
日本の地域による文化の差というのは、漠然と残っているのではなく、意志によって残っている。あらゆるものが発達した今の社会では、地域差というのは、意志が生み出すものなのだと思います。
この本自体もまた、そうした意志の表れと言って良いだろう。
2016年6月13日、東京書籍、1300円。
2016年09月02日
『銀の海峡』
副題は「魚の城下町らうす物語」。
制作は北海道アート社。
北海道羅臼町のPR本である。
と言っても別に羅臼に強い興味があるわけではなく、ノンフィクション作家・渡辺一史の文章が読みたくて、羅臼町役場から取り寄せたのである。
(詳しくは下記をご参照ください。)
http://www.edia.jp/watanabe/watanabe/Hokkaido_2.html
全4章のうち、第1章「漁師の食卓」と第2章「魅せられし者たち」の中の2篇を渡辺が執筆している。
羅臼町は北海道目梨郡に属する。メナシはアイヌ語で「東方」を意味する言葉との説明を読んで、「クナシリ・メナシの戦い」に思い当たる。
http://matsutanka.seesaa.net/article/435963678.html
こんなふうに、頭の中にバラバラにある知識や記憶がふいに結び付くのは気持ちがいい。
知床半島は東側の羅臼町と西側の斜里町に分かれている。以前、北海道旅行をした時に斜里町のウトロや知床五湖は訪れたが、羅臼町には行ったことがない。
う〜ん、行ってみたいな。
2003年8月、羅臼町、500円。
制作は北海道アート社。
北海道羅臼町のPR本である。
と言っても別に羅臼に強い興味があるわけではなく、ノンフィクション作家・渡辺一史の文章が読みたくて、羅臼町役場から取り寄せたのである。
(詳しくは下記をご参照ください。)
http://www.edia.jp/watanabe/watanabe/Hokkaido_2.html
全4章のうち、第1章「漁師の食卓」と第2章「魅せられし者たち」の中の2篇を渡辺が執筆している。
男たちの「漬け物観」は、結局のところ、「わが家の漬け物自慢」に行き着くことが多いのだが、それは同時に、羅臼の男たちにとっての微笑ましい“かかあ自慢”でもあるのである。
知床が、その「秘境」としての性格を最もあらわにするのは、冬よりも、夏であるといわれる。例えば、その主脈をびっしりと埋めつくす「ハイマツ」である。
羅臼町は北海道目梨郡に属する。メナシはアイヌ語で「東方」を意味する言葉との説明を読んで、「クナシリ・メナシの戦い」に思い当たる。
http://matsutanka.seesaa.net/article/435963678.html
こんなふうに、頭の中にバラバラにある知識や記憶がふいに結び付くのは気持ちがいい。
知床半島は東側の羅臼町と西側の斜里町に分かれている。以前、北海道旅行をした時に斜里町のウトロや知床五湖は訪れたが、羅臼町には行ったことがない。
う〜ん、行ってみたいな。
2003年8月、羅臼町、500円。
2016年09月01日
『鳥の見しもの』 のつづき
夕焼けの原料になる雲たちを見上げてゆけり大雨のあと
あけがたに目覚めてここはホテルだった青白い滝のようなカーテン
窓のした緑に輝(て)るを拾いたりうちがわだけが死ぬコガネムシ
きりきりと吊り上げらるる鋼材の或る高さより朝の陽を浴ぶ
無人なるひとときエスカレーターは黒き咀嚼をくりかえしつつ
オカリナのなかに眠れば小さな穴が星座のように見えるのだろう
後ろ歩きしつつ畦(あぜ)塗る男ありいちめんの水が暮れゆく夕べ
亡き人の本に巻かれている帯がつばきの花のいくつか隠す
扇風機の羽透けている向こうには亡き祖母が居て麦茶をはこぶ
血に砂は固まりやすくベッドには砂人形のごときが置かる
1首目、「夕焼けの原料」がおもしろい。雲があるからこそ夕焼けが映える。
2首目、目覚めた時の風景がいつもとは違うので、一瞬あれっ?と思うのだ。
3首目、「うちがわだけが死ぬ」が発見。外観はまるで生きているみたい。
4首目、朝日が低い角度から射している。光と影のコントラスト。
5首目、段差が次々と飲み込まれていく様子は、言われてみればなるほど「黒き咀嚼」である。
6首目、メルヘンのように美しい歌。ふだん外側からしか見ることのない穴の内側を想像している。
7首目、「いちめんの田」ではなく「いちめんの水」。一字の違いで歌が生きる。
8首目、表紙に描かれている椿の花。隠れているということが、死者のイメージともつながる。
9首目、回転する扇風機の向こう側に、懐かしい昔の光景が浮かぶ。
10首目、砂漠での戦争をイメージした連作の一首。生々しくて怖い。