「塔」入会が1997年末なので、入会して2年になる頃のもの。1999年9月号に吉田健一さんが「ちょっと気の早い松村正直論」という評論を書いて下さって、それに反応して書いた文章だったのだろう。すっかり忘れていた。
「松村正直 二十九歳 フリーター」という題で、こんなことを書いている。
喫茶店の二階席から町を見下ろすのが好きだ。窓際の席でアイスコーヒーを飲みながら、ゆうやみの青い町を眺めるのが好きだ。
人間が歩いて行く。名前も知らない人々が、右に左に通り過ぎて行く。それは「きれいな女の人」であったり、「背の高い男の人」であったりする。あるいは「高校生の三人組」や「OL」や「サラリーマン」であったりする。「お年寄り」や「帽子をかぶった人」や「携帯電話で話をしている人」や、私とはまるで関わりのない人々が、ただ通り過ぎて行くのを見ているのは楽しい。
あの、親子三人で手をつないでいる家族の父親が、私であっても良かった。あるいは、あの、スーツを着て忙しそうに歩いて行く会社員が、私であっても良かった。あるいは、あの、恋人と楽しそうに喋っている若い男性が、私であっても。
けれど現実には、その誰もが私ではなくて、私はこうしてアイスコーヒーを飲みながら、ただぼんやりと町を眺めている。
子どものいる人が子どもの歌を歌うように、恋をしている人が恋の歌を歌うように、病気に苦しんでいる人が病気の歌を歌うように、働いている人が仕事の歌を歌うように、そのように私は・・・・・・何を歌えばいいのだろう。
ゆうやみの町は、まるで水族館のようだ。人間が魚のように流れて行く。ゆっくりと、そして静かに。私はいつまでも、それを見ている観客だ。いや、むしろ、ガラス窓の内側にいる私の方が、水槽の中の魚なのかもしれない。
誰ひとり見られていることになど気づきもしないで、前を向いて歩いて行く。実際、私がここで見ていようが見ていまいが、こうして同じ光景が流れるだろう。私がいてもいなくても、何ひとつ町は変わりはしない。
すっかり日は暮れてしまった。町はもう美しい青さを失って、暗闇の奥へと沈んでいる。町を行く人々の姿も見えなくなり、窓ガラスには、ただ疲れたような私の顔が映るばかり。急に不安になって、アイスコーヒーの残りを一息に飲み干すと、それは空腹の胃の中に暗くじんわりと広がってゆく。
いやぁ、何とも青臭くて気恥ずかしい。
当時は大分市のアパートにひとりで住んで、住宅地図調査のアルバイトをしていた。「フリーター的」50首で角川短歌賞の次席になったのもこの頃のこと。
46歳になった今とは全く生活環境も違うし、考え方も違う。でも、「喫茶店の二階席から町を見下ろすのが好き」という点だけは、今も変っていないなと思う。