現代歌人シリーズ11。2002年から十年余り間に「かりん」に発表した作品から457首を収めた第9歌集。
調べてみると第6歌集『自転車の籠の豚』と第8歌集『きなげつの魚』は総合誌等に発表した作品、第7歌集『蝶』は未発表作ということで、長らく「かりん」の歌は収められていなかったのだ。
そこに揺れながらそこにはなきものを遊行柳と言ひてかなしむ
まんじゆ沙華馬力をあげて咲きにけりたつたいつかい死なば亡きひと
死後の永さをおもひはじめてゐるわれはまいにち桜はらはらとちる
ひとをつよくおもふとき気球うかびたりつよくみあげてをればおちない
黒煙を鴉と気づきたるときに鴉の多さに黒煙のきゆ
防犯用カメラは空気をうつしゐて空気にうごくすずかけのかげ
まひるまをなにできるなきかなしさは鰺のひらきのうへを雲ゆく
喰ふ子規のあさましさこそいとしけれくひてくひてくひてくひてすなはち死にき
トマトよく熟れたるにゆびくひこみてぬけざるをわがゆびの四五秒
朝とよぶもののけはひのさみしさはかたちとなりて窓のあらはる
1首目、奥の細道の旅で芭蕉が訪れ、能の演目にもなっている「遊行桜」。時空を超えた広がりを感じさせる歌だ。
2首目、人はたった一回死んだだけで、もう二度と生き帰ることはない。
3首目、「われに」ではなく「われは」である。われと桜が一体化している。
5首目、一度鴉だと気づいてしまうと、もう黒煙に見えることはない。
8首目、下句「くひて」を4回繰り返したところに圧倒的な迫力がある。
10首目、まだ暗い部屋の中にいて、うっすらと白み始めた窓を見ている。
この歌集の特徴として、自らの病気のことをかなり具体的に詠んでいる点が挙げられる。
ちれうはふあらざるからだよこたへて対流圏のそこひに灯す
えーえるえす、ゆめではなんと自由です、牧水の脚で渋峠こゆ
痰のどにみづあめじやうにあるひそとこのみづあめは太るひとりで
現在のところ治療法のないALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹った作者。のどに痰が溜まる様子なども詠まれている。渡辺の一見自由奔放に見える歌の背後には、こうした厳しい現実があるのだ。
総合誌の作品ではそうした面をあまり出さない作者であるが、結社誌「かりん」においてはかなり素直に歌にしている。良い意味での身内意識の表れと言っていいだろう。
2016年3月23日、書肆侃侃房、2100円。