2016年04月30日

狛犬を探して(その4)

樺太護国神社(当初は樺太招魂社)の創立は昭和10年。
狛犬もその時に作られたものだろう。
靖国神社の狛犬(昭和8年)と制作時期が近い。

しかも靖国神社と護国神社と言えば、本店と支店のようなもの。
もともと関わりが深い場所だ。

さらに調べてみると、サハリンの狛犬と靖国神社の狛犬は、どうやら同じ人が作ったものらしいことがわかった。

彫刻家、新海竹蔵(1897-1968)。

東京文化財研究所の記事
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9047.html
を見ると、

昭和8年 4月靖国神社に献納の狛犬(石彫)を作り13日、献納式。
昭和10年 9月樺太護国神社に建立の狛犬を製作する。

と書かれている。
同じ作者の兄弟狛犬(?)ということになる。

記事にはさらに、「昭和10年4月山形県護国神社社頭の狛犬成り24日献納式」という一文もある。山形に行く機会があったら、訪れてみたい。

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2016年04月29日

狛犬を探して(その3)

左右をよく見ながら参道を引き返す。

すると、大村益次郎の銅像のところから横へ抜ける道があり、靖国通りからの入口になっている。そこに狛犬がいた。

  P1050067.JPG

おお、この狛犬だ!
前肢の踏ん張り方や、後肢の位置、顔の表情など、確かに共通点がある。

狛犬学(?)においては「護国系」「招魂社系」などと分類されているらしい。
胸を張って、背筋が伸びているタイプ。

高い台座に載っているので、こちらも柵の上に乗って撮影する。
そうしないと、かなり下から見上げる角度になって、姿形がよくわからないのだ。近くに警備員の詰所があり、「そんなとこ乗っちゃダメ!」と怒られないかヒヤヒヤした。

  P1050064.JPG

制作は昭和8年。戦前の狛犬である。

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2016年04月28日

狛犬を探して(その2)

サハリンに残る狛犬が靖国神社の狛犬に似ているという話がある。
それを確かめるために靖国神社へ行ってみた。

P1050058.JPG

参道入口の狛犬。
全然、似ていない。

P1050059.JPG

第一鳥居の近くの狛犬。
これも全く似ていない。

その後、参道をずんずん進んで行くも狛犬はおらず、とうとう拝殿まで来てしまった。

あれ? 噂の狛犬はどこ?

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2016年04月27日

高安国世三都物語ツアー(芦屋編)

昨日は10:00に阪神芦屋駅に集合して、高安国世ツアーの2回目。
参加者は14名。

@ 阪神芦屋駅【集合】
A 高安家別荘跡
B 芦屋川河口
C バス停「シーサイド西口」〜バス停「苦楽園」
D 恵ヶ池、苦楽園ホテル跡
E 苦楽園市民館【昼食】
F 堀江オルゴール博物館
G 下村海南邸跡
H バス停「苦楽園五番町」【解散】

という行程である。
途中30分ほどのバスでの移動を挟んで、歩行距離は約5キロ。

高安は幼少期と青年期を、この芦屋や苦楽園で過ごしており、阪神間モダニズムと呼ばれる文化の中で育ったのである。

  P1050071.JPG

芦屋の海岸線は現在は埋め立てられて海が遠くなっているが、かつて高安家の別荘は海まで歩いてすぐの距離であった。芦屋川の河口付近は、かろうじて海の名残を感じさせてくれる場所である。

芦屋川口の両側の石垣は前からあった。幼い私たちは、たしかあれを砲台と呼んでいたようだ。墻壁の一番上のコンクリートの上は太陽に暖まって、水から上がって冷えた裸体を横たえるには持ってこいだった。砕ける波の音を直下に聞きながら、目をはるかに空や沖に遊ばせると、かぎりなく大きな大きなものが幼い胸の中にいっぱいにひろがるのだった。
              高安国世「芦屋の浜と楠」

  P1050073.JPG

堀江オルゴール館は苦楽園の中でも特に高いところに位置していて、急な坂道を登ってようやくたどり着く。かつて中山太一(中山太陽堂創業者)の太陽閣があった場所である。

1993年開館のオルゴール専門の博物館で300台以上のアンティークオルゴールの展示と演奏を行っている。建物の3階に上がると、大阪湾が一望でき、あべのハルカスや大阪府咲洲庁舎(コスモタワー)も見える。

係員の方の説明も丁寧で、シリンダーオルゴールやディスクオルゴールの歴史がよくわかった。4月28日〜5月15日には「春の庭園特別公開」も行われるそうだ。

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2016年04月26日

狛犬を探して(その1)


  P1040769.JPG

サハリン州郷土博物館の建物の入口には一対の狛犬が据えられている。
「なぜこんなところに狛犬が?」と思うのだが、これは戦後に樺太護国神社から持ってこられたものである。

戦前の樺太護国神社の絵葉書を見ると、確かにそれらしき狛犬が写っている。
http://www.himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=3119

神社は取り壊されてしまったが、狛犬だけは今もかろうじて生き残っているわけだ。

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2016年04月25日

1泊2日

昨日、今日と1泊2日で東京へ行ってきた。

昨日は朝8時に衆議院「京都3区」の補欠選挙の投票へ。
投票率は30.12%と過去最低だったとのこと。
確かに終始盛り上がらない選挙戦であった。

その後、新幹線に乗って、午後1時から藤沢で行われる「塔」湘南歌会へ。
参加者12名。
一人2首、計24首の歌をじっくりと読み合う。
初めて会う人も多く楽しい歌会であった。

午後5時に終了。
近くの中華料理店「バーミヤン」で食事&飲み会。
途中で失礼して、小田急線で新百合ヶ丘へ行く。
7時半から駅近くの「一汁五菜」という店で、父親と兄夫婦と4名で食事。
父親と会うのは1年半ぶり。

夜は父親のところに泊めてもらう。

今日は朝8時に小田急線に乗って新宿へ。
小田急線はやはり懐かしい。
満員電車に乗るのも久しぶりだ。

10時から出版社と打ち合わせ。
その後、調べもののために靖国神社にちょっと寄って、京都へ帰ってきた。

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2016年04月24日

国境とは

国境とは何か。
という問題に最近は関心があって、いくつか本を読んだりしている。

昭和7年の夏に斎藤茂吉は北海道に住む次兄を訪ね、そのついでに樺太まで足をのばした。まさに「ついで」という言葉がふさわしい2泊3日の行程であった。樺太の原生林を見たいという目的があったとはいえ、気軽に樺太に渡っているのである。

それはもちろん、樺太が日本領であったためである。当時の国境線は宗谷海峡ではなく、樺太の北緯五十度に引かれていた。

一方、今ではどうか。北海道旅行の「ついで」にサハリンを訪れる人は皆無である。サハリンは気軽に行ける場所ではなくなってしまった。

当り前の話だが、北海道とサハリンの地理的な距離が遠くなったわけではない。昔も今もサハリンは同じ場所にある。けれども、その間に引かれた国境というものが、私たちに心理的な距離感をもたらしているのである。

あるいは、こんな想像をしてみてはどうだろう。もし津軽海峡に国境線が引かれたとしたら。そうしたら、私たちは北海道という土地に心理的な距離感を覚えるようになるに違いない。

そんなことを考えて、先日、NPO法人国境地域研究センターというところに入会した。
http://borderlands.or.jp/index.html


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2016年04月23日

『斎藤茂吉 異形の短歌』 の続き

著者の歌の読み方は、テキスト重視である。

解読上肝要なのは、この厳粛感がどこから来るものなのか、テキストに沿って見極めることです。原因を作者の感動の深さだの真率な態度だのに帰して事足れりとするのは、まともな解読とはいえません。

これは多くの歌人にとって耳の痛い言葉ではないだろうか。何しろ、歌集の書評などを読むと、この手の批評をいくらでも目にするのが現状だ。

もっとも、著者の主張は歌に書かれた一語一語を丁寧に読んでいこうというものであって、いわゆる「テクスト論」とは少し違う。それは

欧米の文学理論に精通した人たちは、“text”に由来する外来語を「テクスト」と表記したがる傾向にあります。私が大学生のころにはもうそうなっていましたが、困った風潮ではないでしょうか。原語は同じなのに、〈教科書・読本〉には昔ながらの「テキスト」をあてがい、〈ことばの織物〉という高級な概念は「テクスト」と呼んで差別化を図る――知的特権階級の策謀以外の何物でもないと思うのです。

という皮肉によく表れている。
作者の丁寧な読みを、例えば「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」という著名な歌について見てみよう。

「死に近き」は「死に」つまり〈死ぬこと〉が近いということ。「死」に近いのではありません。
母に添寝の」は〈母に添寝する心地が〉の意と解されますが、「〜に」という句は連用修飾句となるはずなのに、これを名詞「添寝」で受けたのは文法上破格です。
上二句/sini-tikaki-hahani-soineno/には子音/s/と母音/i/がちりばめられていて、それらが第三句の/sinsinto/に引き取られ、互いに共鳴する関係になっています。
「遠田」は作者の造語かもしれません(『日本国語大辞典』には「遠くにある田」として、用例にはこの歌が挙げてあります)。

実に細やかで的確な分析と言っていいだろう。
これだけ丁寧な読みをする人は、歌人でも少ないのではないだろうか。

著者がテキスト重視で歌を読むのは、「伝統」や「規範」「道徳」「ナショナリズム」といったものを纏いつかせることなく、純粋に短歌そのものを味わうためなのだ。

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2016年04月22日

品田悦一著 『斎藤茂吉 異形の短歌』


「学校で習った範囲でしか茂吉の歌を知らないというのは、およそ衣食に事欠かない人間が置かれうる限りでは、相当不幸な境遇です」と断言する著者が、茂吉の作詩法を解き明かし、代表作「死にたまふ母」を独自の視点から読み直した本。

従来の説や先入観にとらわれることなく、著者は歯切れの良い文章で自らの説や歌の読みを語っていく。

例えば「写生」について。

「写生」は「字面にあらわれただけのもの」などではありません。現実の事物・事象を見慣れないものに変えてしまう技法――少なくともそういう可能性を潜在的に有した技法なのです。
現実を直写したはずの表現が現実を凌駕してしまう逆説(・・・)茂吉にとってはそこにこそ写生の醍醐味があったのだと思います。

茂吉にとっての写生とは単なるスケッチではなく、現実を異化するものであったのだ。

また、和歌においては「主人公を取り巻く状況は題が指示してくれていた」のに対して、近代短歌ではそれが欠けていることを指摘したうえで、

そこに、近代短歌が自己表白の文芸として展開せざるをえなかったもっとも大きな原因があるはずなのです。この件は従来、「近代的自我の目覚め」という点から説明されてきた経緯がありますが(・・・)

と指摘している部分など、まさに慧眼と言って良いだろう。
「死にたまふ母」の読解においても、印象的な部分が多い。

白ふぢの垂花(たりはな)ちればしみじみと今はその実(み)の見え
そめしかも     (其の一、2首目)
ふるさとのわぎへの里にかへり来て白ふぢの花ひでて食ひけり
            (其の四、5首目)

の二首を踏まえて、著者は

東京ではとっくに散ってしまった藤が、郷里ではまだ咲き始めたばかりなのでした。「其の一」の冒頭から読み進めてきた読者に、気候のずれが自然に了解されるようになっています。

と鑑賞する。
実に鋭い分析だと思う。単に時系列に沿って並んでいるだけではない連作の組み立ての妙を味わうことができる。

2014年2月25日、新潮選書、1300円。

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2016年04月20日

4月の身延町

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山梨県身延町は新緑の美しい季節になっていた。
思ったより暖かい。

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母の家に飼われている鶏のオス。
他にもメスが十羽ほど。

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身延線の車窓から見た夕方の富士山。
次に来る時は日帰りではなく、ゆっくりしよう。

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2016年04月19日

天王寺動物園吟行

5月11日(水)にJEUGIAカルチャーセンター主催で、「新緑の天王寺動物園で短歌を詠む」という吟行をおこないます。

http://culture.jeugia.co.jp/lesson_detail_17-23431.html?PHPSESSID=cebb3ftboih2fpn46nsh4auq33

2時間ほど動物園を見てまわって歌を1首詠み、昼食後に歌の批評をするという内容です。

定員は20名、申込締切は5月1日。
どうぞ、ご参加下さい。

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2016年04月18日

舟山廣治編著 『樺太庁博物館の歴史』

明治38年から昭和20年まで存在した樺太庁博物館の歴史を、法令、制度、建築、人物、出版物など様々な観点から解き明かした本。編著者は一般財団法人北海道北方博物館交流協会の理事長。同協会の理事が中心となって、分担執筆している。

菅原繁蔵、高橋多蔵、山本利雄など、樺太庁博物館と関わりの深い人々の事績についても詳しく記されていて、ありがたい。

樺太庁博物館の建物や資料は、戦後、ソ連(現ロシア)のサハリン州郷土博物館として使われている。昨年の夏に訪れた時も、予想以上に多くの人々で賑わっていた。

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旧樺太庁博物館に収蔵されていた膨大な量の博物館資料や設備が、サハリン州郷土博物館に再利用されたことは、戦火を交えた国家間での文化遺産継承の例として、あるいは、両国の博物館交流の上からも重要な歴史である。

歴史についての評価はともかく、現在も博物館として残っているのは嬉しいことだ。サハリン観光の目玉と言って良い場所である。

2013年3月31日、北海道北方博物館交流協会、2000円。

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2016年04月17日

『森岡貞香の秀歌』 の続き

引用されていた歌の中から、特に印象に残ったものを。

薄氷の赤かりければそこにをる金魚を見たり胸びれふるふ
                『白蛾』
ぬかるみは踏み場なきまで足跡がうごめきてをりきのふも今日
(けふ)も           『未知』
今日もむかし夏のゆふべに倒れゐる空罐に雨かがやきてふる
                『珊瑚數珠』
新萌の欅木立にカ音もて入りこむものが鴉にてある
                『黛樹』
ゆふかたにかけて久しく煮こみゐる大き魚はかたち没せり
                『黛樹』
十三夜の月さし入りて椎の實のころがる空池(からいけ)のなかの
あかるし            『百乳文』
昨(きそ)ひと夜ゆたんぽ抱けば追熟といふべくわれのやはらかに
ある              『夏至』
朝光(あさかげ)のひろびろしきに昨(きぞ)の夜のつきかげありし
あたりを掃きぬ       『敷妙』
覆はれて見えずなりゐる川なればここは呑川といひて道踏む
                『九夜八日』
薔薇のつる雪の重みに下りゐしなほくだりこむと椅子にゐておもふ
                『九夜八日』

こうして見ると、「きのふ」「きぞ」「今日」などの時間を指す言葉、「そこ」「ここ」などの場所を指す言葉が、不思議な効果を生み出しているのがわかる。

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2016年04月16日

花山多佳子著 『森岡貞香の秀歌』


森岡貞香の全11冊の歌集から歌を引き鑑賞をほどこしたもの。
「短歌現代」2009年8月号〜2011年12月号の連載した文章を元にまとめた一冊である。

定型を所与のものでなく、一首一首ことばを動かすことでかたちをつくっていく森岡さんの歌には一首一首付き合いたい。

と序にあるように、一首ずつの丁寧な鑑賞の光る内容となっている。
例えば

ゆきずりに赤き電話が空(あ)きながらわれ近づかぬとき戀ひてゐつ

の鑑賞の中で「自分がそこに近づかない、ということによって恋う気持を強く意識する」「近づかない、という身体の在りようによって、思いが発見されているのである」と書いているところや、

戸のすきより烈しくみえてふる雪は一隊還らざる時間のごとく

について「「戸のすきより見えて烈しくふる雪は」でなく「戸のすきより烈しくみえてふる雪は」という語順である。自分の体験した時間がそこに烈しく見えているのである」と述べているところなど、新鮮な視点であり納得させられる。

こうした一首一首の丁寧な鑑賞の積み重ねの中から、著者は森岡貞香の歌の特徴をいくつも見出していく。

森岡には心理や自意識をまとまったものとして整理、叙述する歌はほとんどない。
「考へもなく」とか「ゆゑんもなく」とかあえて挿入するのが森岡流である。
移動など動作の意識を強く出すのは森岡の特徴の一つであり、叙述にとどまらないリアルさを付加するのである。
同じ場所の異なる季節の表情に時間の推移を見るのが、森岡の好みなのである。

森岡貞香の歌の魅力がじわじわと迫ってきて、森岡の歌がもっと読みたくなる本である。

2015年12月10日、砂子屋書房、2000円。

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2016年04月14日

舛田佳弘/ファベネック・ヤン著 『「見えない壁」に阻まれて』


ブックレット・ボーダーズNo.2。
副題は「根室と与那国でボーダーを考える」。

国境と言うと紛争や壁といった負のイメージを持つことも多いが、そこは二つの国や地域をつなぐ窓口でもある。地理的にも中央から見れば辺境であるが、国境を越えた交流が深まれば、そこは貿易や往来の最先端になるのだ。

この本は、ボーダースタディーズ(境界研究)を推進する「境界地域研究ネットワークJAPAN」を通じて根室市と与那国町に派遣された、2名の若手研究者が記した現地の状況や問題点の報告である。

与那国町から台湾へ渡る際に

新石垣空港から台湾の桃園空港までは週二便あるが、意外と使いづらい。やむを得ず那覇経由で行くことになるのだが、一〇〇キロそこそこの台湾へ渡るために五〇〇キロ以上も反対方向へ移動しなければならない。

という現状や、根室について

最も印象に残ったのは、根室が自らを「国境の街」と表現できないことだった。日本政府が国境線を「択捉島の北」だと主張している限り、外交上この表現がタブー視されるのは理解できるが、「境界地域」とさえ呼べないことには驚いてしまった。

という問題など、現地に長く滞在した人ならではの話が次々とあり、考えさせられた。

国境というものは、捉え方によって全く違った姿を見せる。国境問題や境界地域を考えるに当っては、岩下明裕氏(国境地域研究学会会長)の

「端っこ」が豊かであれば、それは国自体が豊かである証拠

という言葉を大事にしていく必要があるだろう。

2015年7月10日、国境地域研究センター、900円。

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2016年04月13日

映画 「パンドラの匣」「ローリング」

立誠シネマで、同じ監督の作品の2本立てを観る。
2本立ての映画を観るのは、随分と久しぶりだ。

「パンドラの匣」
原作:太宰治
監督・脚本:冨永昌敬
出演: 染谷将太、川上未映子、仲里依紗、窪塚洋介、ふかわりょう他
2009年、94分。

「ローリング」
監督・脚本:冨永昌敬
出演:三浦貴大、柳英里紗、川瀬陽太
2015年、93分。

1945年から46年にかけての結核療養所(健康道場)を舞台にした前者と、現代の水戸を舞台にした後者。内容も全く違うのだが、どちらもキャストの魅力が十分に出ている作品であった。

たった一つだけ共通点はあるとすれば、それは「役に立たない余計者」という意識だろう。これは、両方を続けて観たから気づいたことである。

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2016年04月12日

石黒浩著 『どうすれば「人」を創れるか』


副題は「アンドロイドになった私」。
アンドロイド(人間酷似型ロボット)研究の第一人者である著者が、これまでのロボット研究の成果や今後の展望を記した本。

ロボットの研究を通じて、著者は人間や技術についての考察を深めていく。

人類は、新しい技術を発明するたびに、人間の定義をより深化させてきた。
人間は、普段見ることができる表面形状が人間らしいのであって、体内の構造を見ても人間らしくない。
技術は想像から始まるわけで、その意味ではSFは技術の種の宝庫である。
ジェミノイドを作って、初めて他人の方が自分のことをよく知っているということがわかった。

この著者のすごいところ(変人ぶり?)は、本書に載っている数々のエピソードを読めばわかる。

「どうして同じ服ばかり、それも黒い服ばかり着るのですか?」と、人によく尋ねられる。それに対して、私はいつも、「どうして毎日違う服を着るのですか?」と聞き返す。

さらにすごいのは、著者そっくりに開発したジェミノイドが、5年経って年取った著者との違いが出てきた時に、

ジェミノイドの修理の手間や費用について考えてみると、実は私を修理する方がはるかに早くて安くすむことが明らかであった。(・・・)私自身が若返った方が早いのだ。

と考えて、自ら顔の整形手術に踏み切るところである。
これくらいでないと、その道の第一人者にはなれないのだろうな。

2014年11月1日、新潮文庫、550円。

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2016年04月11日

アインス宗谷

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昨年の夏にサハリンを旅行した時、往路は稚内からフェリーで行った。
戦前の稚泊航路(稚内―大泊)と同じ、稚内―コルサコフの航路である。
その時に乗った船が写真の「アインス宗谷」。

昨年9月に運航会社であったハートランドフェリーがサハリン航路から撤退。第3セクターが運航を引き継ぐという話であったが、結局まとまらず、今季の定期便の運航はなしということになった。

さらに、アインス宗谷もフィリピンの会社へと売却され、今後はフィリピンの島々を結ぶ船となるらしい。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0256429.html?df=1

現状では、船でサハリンへ行くことはできない。
(千歳空港からの航空便はある)
サハリン航路の復活と、アインス宗谷の第2の人生の無事を祈るばかりだ。

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2016年04月10日

渡辺松男歌集 『雨(ふ)る』


現代歌人シリーズ11。2002年から十年余り間に「かりん」に発表した作品から457首を収めた第9歌集。

調べてみると第6歌集『自転車の籠の豚』と第8歌集『きなげつの魚』は総合誌等に発表した作品、第7歌集『蝶』は未発表作ということで、長らく「かりん」の歌は収められていなかったのだ。

そこに揺れながらそこにはなきものを遊行柳と言ひてかなしむ
まんじゆ沙華馬力をあげて咲きにけりたつたいつかい死なば亡きひと
死後の永さをおもひはじめてゐるわれはまいにち桜はらはらとちる
ひとをつよくおもふとき気球うかびたりつよくみあげてをればおちない
黒煙を鴉と気づきたるときに鴉の多さに黒煙のきゆ
防犯用カメラは空気をうつしゐて空気にうごくすずかけのかげ
まひるまをなにできるなきかなしさは鰺のひらきのうへを雲ゆく
喰ふ子規のあさましさこそいとしけれくひてくひてくひてくひてすなはち死にき
トマトよく熟れたるにゆびくひこみてぬけざるをわがゆびの四五秒
朝とよぶもののけはひのさみしさはかたちとなりて窓のあらはる

1首目、奥の細道の旅で芭蕉が訪れ、能の演目にもなっている「遊行桜」。時空を超えた広がりを感じさせる歌だ。
2首目、人はたった一回死んだだけで、もう二度と生き帰ることはない。
3首目、「われに」ではなく「われは」である。われと桜が一体化している。
5首目、一度鴉だと気づいてしまうと、もう黒煙に見えることはない。
8首目、下句「くひて」を4回繰り返したところに圧倒的な迫力がある。
10首目、まだ暗い部屋の中にいて、うっすらと白み始めた窓を見ている。

この歌集の特徴として、自らの病気のことをかなり具体的に詠んでいる点が挙げられる。

ちれうはふあらざるからだよこたへて対流圏のそこひに灯す
えーえるえす、ゆめではなんと自由です、牧水の脚で渋峠こゆ
痰のどにみづあめじやうにあるひそとこのみづあめは太るひとりで

現在のところ治療法のないALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹った作者。のどに痰が溜まる様子なども詠まれている。渡辺の一見自由奔放に見える歌の背後には、こうした厳しい現実があるのだ。

総合誌の作品ではそうした面をあまり出さない作者であるが、結社誌「かりん」においてはかなり素直に歌にしている。良い意味での身内意識の表れと言っていいだろう。

2016年3月23日、書肆侃侃房、2100円。

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2016年04月09日

『国境の人びと』の続き

国境や領土、領海といった話は、どうしてもナショナリズムを刺激しやすい。
この本も、

海を狙われる国「日本」と海を狙う国「中国」「ロシア」「韓国」との対立が生まれている。そして、その対立の中にある「異なる領土の主張」は、国家間の紛争の火種となり、いつ暴発してもおかしくない状態になっているのだ。

という立場に基づいて書かれている。国境問題が大切なことは間違いないが、危機意識を煽るだけでは、ますます解決から遠ざかるばかりだろう。

著者は韓国について

教育の現場においては、「独島はわが領土」という歌までつくり、わざわざ竹島=独島の存在を子供に教えている。本来自国の島であれば、わざわざ竹島はわが領土などという必要はないのだ。

と書く一方で、日本については

二〇一四年四月、文部科学省は、一五年度から小学校で使う教科書の検定結果を公表した。その中で、島根県の竹島、沖縄県の尖閣諸島に関して、社会の教科書と「地図」の一四点中、五、六年生用の計七点が「日本(固有)の領土」と明記している。小学校の教科書に竹島と尖閣諸島の領有権が明記されたのはこれが初めてである。

と誇らしげに書いている。こんな単純な矛盾にも気づかなくなってしまうほどに、領土をめぐるナショナリズムは根が深いのである。

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2016年04月08日

山田吉彦著 『国境の人びと』


副題は「再考・島国日本の肖像」。
「新潮45」の2013年1月号〜14年6月号に連載された文章に加筆修正を加えてまとめたもの。

著者は国境に近い島や辺境の地域を訪ね、日本の領土や海洋権益、安全保障について考察する。訪れたのは、尖閣諸島、対馬、五島列島、隠岐、根室半島、小笠原諸島、与那国島、大東諸島、壱岐、奄美大島、甑島、能登半島、西表島、津軽海峡、沖ノ鳥島、国後島と、日本の隅々に及んでいる。

日本は世界で六番目に広い「海」を持つ国である。

領海と排他的経済水域を合わせた広さは、実に447万平方キロメートル。海のことを考えると、日本は決して小さな国ではなかったのだ。

従来、海と言えば漁業の話が中心であったが、今後技術開発が進めば、海底油田やレアアースなど、この広い排他的経済水域が大きな意味を持つようになる。日本人はもっと海に対して関心を寄せるべきなのだろう。

国境にある島々で人が暮らし、コミュニティを築くことこそが、国の安全を守るためには、最も重要なことである。
離島の過疎化は、日本の海上安全保障上の最大の問題点である。

本書ではこうした主張が繰り返し述べられている。著者と私ではだいぶ立場が違うのだが、離島の過疎化、高齢化への対策が必要という点では共通した思いがある。

2014年8月30日、新潮選書、1300円。

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2016年04月07日

さくら

  P1050035.JPG

今年は特に花見には行かず。
写真は阪急夙川駅のホームから見た桜。

少し散り始めている。

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2016年04月06日

沖ななも歌集 『白湯』

2004年から09年までの作品519首を収めた第9歌集。

秋の歯にこころもとなくおきうとの骨も髄もなきこの舌ざわり
バスを待つきのうもバスを待ちおりき思えば一生(ひとよ)待つばかりなる
目薬をさせば海面(うなも)を漂えりひかりながるる水のおもてを
スーパーの袋をさげて歩み来る敵将の首を下ぐるごとくに
見目(みめ)悪しき魚は味がよいというわが安堵することにあらねど
考えて考えて流れはじめたり三和土(たたき)に垂れし傘のしずくが
値札みて買うをやめたるカシミヤの朱のセーターのあのやわらかさ
植えられて苗しずかなり水面におのれの丈の影を映して
窓越しにぼうと見ているきつね雨昨夜のことをよみがえらせて
アイスコーヒー飲み終えしグラス引き寄せて氷の溶けし水すこし吸う

1首目の「おきうと」は福岡の人がよく食べる海藻食品。
2首目、バスに限らず人生には待ち時間が多い。
3首目、目薬を差した時の感覚がおもしろく表現されている。
5首目はユーモアの歌。言外に自分が美人ではないことを伝えている。
6首目、三和土の微妙な凹凸を流れていく水の様子。
7首目、家に帰って来てから思い出しているのだろう。
10首目は結句の「吸う」がいい。もうほとんど味はしない。

タイトルの由来について、あとがきに

母が亡くなってからの十年、わたしの考え方感じ方が少し変わったように思う。肩の力が抜けたというか、日常の生活が大事だと思い始めた。凝った味付けではなく、白湯の味わいを好むような日常になったということかもしれない。

とある。短歌においても「白湯の味わい」を目指しているということだろう。白湯を美味しく飲ませるために、おそらく作者はいくつもの工夫が施しているのだ。

2015年9月10日、北冬舎、2200円。

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2016年04月05日

『桜前線開架宣言』の誤植訂正

『桜前線開架宣言』の初刷の誤植訂正が、版元の左右社のホームページに載っています。

http://sayusha.com/news/etc/p=201604042113

ネットの情報によれば、他にも何か所か誤植があるようです。
気づいた方は版元に連絡してあげると喜ばれます。

歌の引用というのは、何度確認してもし過ぎるということがないですね。
自分の書いた文章を校正していて、時々驚くことがあります。

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2016年04月02日

小川三夫著 『宮大工と歩く奈良の古寺』


宮大工の小川三夫の話を塩野米松が聞き書きしたもの。

取り上げられている寺は、法隆寺、法輪寺、法起寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、興福寺、元興寺、十輪院、室生寺、秋篠寺、長弓寺の12か所。

法隆寺の建立当時の大工道具についての説明に、

縦挽きの鋸はなく、板を挽いたり、角の柱を挽いたりは出来ませんでした。表面を平らにする台鉋も鎌倉後期から室町まで伝わっていません。大きな木を割るには楔を打って割りました。

とある。それであの見事な金堂や五重塔を建てたのだ。あらためて、その苦労や技術に驚かされる。

塔には安定感と同時に、動きがあると、美しさが増します。
芯柱というのは、実は塔の構造には関係がありません。一番てっぺんの相輪を乗せるだけの役目です。
屋根反りは縄ダルミみたいな曲線がいいんです。棟に立って縄の端を持つ。それで軒でそれを受けて持ちますと、縄が美しい曲線をつくります。

こうした指摘は、実際に寺の修復や建築に携わっている著者ならではのものだろう。そこが、単なる観光案内とは大きく違っている。

建物を、姿や様式、部材を個別に判断するんじゃなく、風景の中で建物を見ることも大事ですな。

法隆寺や薬師寺、室生寺など、そう言えば中学の修学旅行で訪れたきりだ。せっかく関西に住んでいるのだから、また行ってみよう。

2010年7月20日、文春新書、905円。

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2016年04月01日

彩帆

彩帆なるうつくしき名を持つ少女/サイパンといふうつくしき島
          山田航『水に沈む羊』

という一首を読んで思い出すのは、半田良平の「信三を偲ぶ」という一連。

生きてあらば彩帆島にこの月を眺めてかゐむ戦ひのひまに 『幸木』
彩帆はいかにかあらむ子が上を昨日(きのふ)も憂ひ今日も憂ふる
彩帆にいのち果てむと思はねば勇みて征きし吾子し悲しも

昭和19年7月、戦局を伝える報道を聞いてサイパンにいる息子の安否を気づかう内容である。半田の3人の息子のうち、次男克二は昭和17年に、長男宏一は18年に病気で亡くなっており、三男信三は唯一残った男の子であった。

昭和20年の始めには

サイパンに生き残れりと思はねば今宵は繁(しじ)に吾子ししぬばゆ

とも詠んでいる。信三ももう帰ってくることはないという悲痛な思い。

この歌は「床上詠」という一連に入っており、半田良平自身もこの歌の数か月後には亡くなるのである。

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