2015年12月31日

箱根へ

2泊3日で母や兄たちと箱根へ。

小涌谷にある岡田美術館で「箱根で琳派 大公開」展を開催中。
常設展示もかなり充実している。

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入口にある福井江太郎の「風・刻」。
風神雷神図屏風を元にした縦12メートル×横30メートルの大壁画である。

館内は写真撮影禁止。
入場する際に空港の保安検査のようにセキュリティゲートを通り、手荷物検査を受ける。

速水御舟の「紅葉」「木蓮(春園麗華)」が特に良かった。
「紅葉」は幹のうねり具合と葉の鮮やかな赤色、さらに啄木鳥の姿に生命力とエロスがあり、「木蓮」には死相を思わせるような不気味なまでの妖艶さがある。

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近くにある「千条(ちすじ)の滝」。
大正時代からの観光スポットらしい。

古い写真と見比べてみると、昔はもっと高さがあったようだ。
上部が崩落したらしく、岩肌がえぐれていた。

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2015年12月29日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その3)

さくら一もとほころび初めて塀ぬちの明るさよ昼の雨は降りつつ
華街に近き住居の春闌けてさざめき通る芸子らのこゑ
三味太鼓ひびくは何処の部屋ならむ夜靄に濡るる青き板塀
訪ね来て白粉くさき芸妓部屋お茶曳きの妓らは身欠鰊喰み居る
退け前の妓らのうたたね部屋寒く不漁の影響は見すぐしがたき

「栄町界隈」8首より。
真岡の栄町にあった花街の様子を詠んだ一連。

1首目、長い冬が終わり、樺太にもようやく春が訪れた。雨が降っていても、春らしい明るさが満ちている。
2首目、作者の家は花街の近くなので、道を行く芸子たちの話し声が聞える。
3首目、夜になって三味線や太鼓の音が塀の中から響いてくる。
4首目、茶屋を訪ねると、暇な芸妓たちは身欠鰊を食べている。「お茶曳き」は客がいなくて暇なこと。
5首目、春になっても鰊が不漁続きで、花街の客も少ないのだろう。

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2015年12月28日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その2)

歯痛堪へて居る汽車窓の昼吹雪汽笛は太く山にこもらふ
汽車の窓にもり上り来る雪塊や吹雪のなかの除雪夫の顔
両側の雪の深さは汽車窓をとざして昼もなほうすぐらき
混み合ふて身じろぎならぬ汽車の中雪の明りの窓に本読む
除雪人夫一列にならび雪を掻くスコップの動き車窓の上にあり

「豊真山道」10首より。
樺太の中心地豊原と西海岸の真岡を結ぶ「豊真(ほうしん)線」の光景を詠んだ一連。豊真線は樺太山脈を横断する路線で、多くのトンネルやループがあった。

1首目、吹雪の中を汽笛を鳴らしながら走る汽車の様子。
2首目、窓からは除雪する人の姿が見える。
3首目、線路の両側には壁のように雪が積もっているのだ。
4首目、昼も薄暗い車両の中で、かろうじて雪の明りを頼りに本を読んでいる。
5首目、「車窓の上」の方に、除雪する人たちの動きが見えるのである。

保線作業の大変さがよく伝わってくる。
この路線は、1994年の大雪でトンネルの落盤があり、現在は残念ながら使われなくなっている。

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2015年12月27日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その1)

石川澄水(健三)は明治38年、青森県弘前市生まれ。昭和4年に樺太日日新聞社入社。17歳の頃に「潮音」に入会して短歌を始め、その後「樺太短歌」や「多摩」に作品を発表した。

『宗谷海峡』(昭和50年)は樺太在住時代の歌411首を集めたもの。「落合時代」(昭和6〜9年)、「真岡時代」(昭和10〜14年)、「豊原時代」(昭和14〜20年)の三部に分かれている。

大汐の満ち来るころは宵かけてこの浜人はみな舟出しぬ
海はいま盛りの汐に鰊群来て沖にたむろの舟の灯うごく
わめき立つ大漁の声沖に揚ぐる舟火は陸への合図なるらし
鰊おろす舟に交りてたをやめの運ぶも声す朝の渚に
あざらしの皮干してある軒毎に積みかさねたる鰊の山山

「東海岸白浦外」17首より。
樺太東海岸の白浦付近で見かけた鰊漁の様子を詠んだもの。

1首目、春に産卵のため群れをなして沿岸にやって来る鰊を待ちかまえている人々。
2首目、沖に停まっていた漁船が鰊の群れに遭遇して慌ただしく動いている。
3首目、浜にいる人に向けて大漁を告げる合図を送っているところ。
4首目、浜に着いた舟から大量の鰊を降ろす人のなかに女性の姿もある。
5首目、水揚げされて軒先の積まれている鰊の山。

この年、昭和6年は樺太における鰊の水揚げのピークであった。その量は72万9000石。しかし、やがて北海道に続き樺太でも鰊は獲れなくなっていく。

昭和50年8月15日、原始林社、1000円。

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2015年12月26日

「高安国世、三都物語」ツアー(企画中)

来年の春に「高安国世、三都物語」と題して、高安国世ゆかりの地をめぐるツアーを3回にわたって行う予定です。

今のところ、下記のような内容を考えているのですが、他にも「ここがおすすめ!」といったご意見や要望などがありましたら、お知らせ下さい。

第1回 大阪編
 ・高安病院跡
 ・高安国世生家跡
 ・くすりの道修町資料館
 ・愛日小学校跡記念碑
 ・田辺三菱製薬史料館

第2回 芦屋編
 ・高安家別荘跡
 ・下村海南邸跡
 ・苦楽園ホテル跡
 ・恵ヶ池

第3回 京都編
 ・高安邸
 ・銀月アパート
 ・京都大学E号館(現・吉田南4号館)
 ・来光寺(お墓)

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2015年12月25日

岡本太郎著 『日本再発見』


副題は「芸術風土記」。
1958年に新潮社より刊行された『日本再発見 芸術風土記』の文庫化。

戦後十数年を経た日本の各地を訪れて、そのありのままの姿に触れながら、文化や芸術について考察をしている。訪れた場所は、秋田、長崎、京都、出雲、岩手、大阪、四国。

岡本太郎と言えば、万博公園の「太陽の塔」とCMの「芸術は爆発だ!」くらいのイメージしか持っていなかったのだが、この本を読んで反省した。単なる感性の人ではない。民俗学的な視点の鋭さがあり、文章にも力がある。

なるほど実際は泥のようなものかもしれない。しかしそのままズバリとむき出しにしたら、決してそれは泥くさくないのだ。(秋田)
戦争前まで、町のおかみさんでも上海あたりには下駄ばきで気軽に出かけて行き、かえって東京に出るのをこわがったという。(長崎)
民芸なんて枠をきめて、効果を前もってねらってる以上、民芸らしいものは出来ようが、芸術の凄みとか、豊かなふくらみというものは出て来ないのだ。(出雲)
人が見ている。――見られているという意識によってエキサイトし、逆に自分の中に没入し、我を忘れてしまう。見られるものは見るものであり、見るものは同時に見られるものだ。(四国)

18歳でフランスに渡り、ドイツ軍のパリ侵攻を機に日本に帰ってきた著者の目に、戦後の日本はどのように見えたのだろう。「今日の日本に対する執拗な愛情と憎しみで、身をひき裂かれるような思いがする」と記す著者の情熱が溢れる一冊である。

2015年7月25日、角川ソフィア文庫、1000円。

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2015年12月24日

駒田晶子歌集 『光のひび』


現代歌人シリーズ7。
2009年から2015年までの作品251首を収めた第2歌集。

不定期に休むナカムラ理容室木の鏡台をふたつ並べて
立つことを知りはじめたる子はひとり額に星を貼りておとなし
カーテンを閉ざして一人ひとりずつ妊婦は胎児を膨らましおり
薬缶みがきみがき上げたる曲線に夜の疲れた君は浮かびぬ
ひざ掛けはいかがでしょうか?ほほ笑みを左右にわけて女通れり
子の下着ばかりを畳む三人の子あれば三つの異なるサイズ
牛乳は福ちゃん牛乳しか知らず盆地は雪に包まれゆけり

1首目、昔ながらの個人経営の理容室。「木の鏡台」が時代を感じさせる。
2首目、遊んでいたシールが貼り付いてしまったのか。1歳くらいの赤子。
3首目、産婦人科の部屋の光景。「一人ひとりずつ」が生々しい。
5首目の「女」は飛行機のキャビンアテンダント。「左右にわけて」がうまい。
7首目には「十代の頃」という詞書が付いている。作者のふるさとは福島市。福島乳業の「福ちゃん牛乳」である。

2015年11月26日、書肆侃侃房、1900円。

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2015年12月23日

真中朋久歌集 『火光』 をとことん読む会

13:00から塔事務所で開催。
参加者17名。

人災を言ひつのる馬鹿は万全の岩窟の内に閉ぢ込めるべし
弟の殺さるるまでを見届けむ死んでも疎まるるべき弟の
子を連れて逢ひし夕ぐれ翳りたる表情は読まぬままにわかれき
わが裡にほろびゆくものほろびたるものがおまへをほろぼす かならず
五十年息をひそめてありたるとわが裡をいでて来たりしこゑは
滅多なこと言ひなさるなとわたくしの影が立ちあがる壁ぎは
未生なる闇にわたしが蹴り殺す兄と思ひつ 今しゆきあふ

各参加者が1首ずつ選んだ「議論したい歌」計17首について、ああでもない、こうでもない、とひたすら意見を言い合う。遠慮もお世辞もごまかしもなく、ざっくばらんに議論するのは実に楽しい。

途中10分の休憩を挟んで17:00終了。
数多くのヒントを得ることができ、充実の4時間であった。

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2015年12月22日

赤瀬川原平・山下裕二著 『日本美術観光団』


「日本美術応援団」シリーズの1冊。2002年から03年にかけて朝日ビジュアルシリーズ「日本遺産」に連載された「オトナの修学旅行」を改題したもの。

美術史家の山下(応援団団長)と前衛美術家・作家の赤瀬川(団員1号)が、日本各地の名所旧跡を観光して回るという企画。訪れた場所は、三仏寺投入堂、犬山城、日光、原爆ドーム、中尊寺、日本民藝館、東大寺、皇居など。

2人の掛け合いがとにかく楽しい。みうらじゅん&いとうせいこうの「見仏記」シリーズのような感じだ。

2004年5月30日、朝日新聞社、1800円。

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2015年12月21日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その4)

山腹の急斜面すべりすべりつつひたにすみたるわが心かも(スキー)
両岸に雪ふかぶかとつみたれば流れほそまりて川流れたり
吹雪風ふきすぐる街の四つ角に糞まりてゐる犬の子あはれ
大吹雪昨夜ひと夜ふりわが家の玄関の戸をうづめたるかも
ふかぶかと野に雪あれど川岸の柳つのぐむ日となりにけり

「冬小景」5首より。

1首目、スキーをして次第に心が澄み切ってゆく。樺太はスキーが盛んで、豊原近郊の旭ヶ丘には当時東洋一と言われたスキー場があった。
2首目、雪が積もって川幅が普段よりも狭く見えている。
3首目、寒い吹雪の中で糞をしている子犬の姿。
4首目、一晩で玄関が埋まってしまうほどの激しい雪である。
5首目、柳が芽吹いて長い冬もようやく終わりを迎えようとしている。

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2015年12月20日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その3)

堅氷を割きて入り来し軍艦のしづかに泊て居りこの湾の中に
軍艦はまくろきかもよしらじらと続く氷原の中に泊てつつ
沖つ辺にとどまる軍艦見に行くとこほれる海の上ゆく人々
氷上をたどり来りて軍艦の吊りはしごのぼる心やすけく
冬まひる軍艦に居れば軍艦の機関のひびき身ぬちに通ふ

「軍艦大泊」8首より。
軍艦大泊は日本海軍の砕氷艦。日本海軍唯一の砕氷艦として北方の警備に活躍した。  軍艦大泊の絵葉書(函館市中央図書館デジタル資料館)

1首目、樺太の亜庭湾に軍艦大泊が停泊しているところ。
2首目、凍った海の白さと軍艦の黒さとの対比。
3首目、多くの人々が停泊中の軍艦を見物に行く。
4首目、外観を眺めるだけでなく、艦内も一般公開されたようだ。
5首目、艦内にいてエンジンの唸りを体感している。

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2015年12月19日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その2)

荒浪のうねりとだえて海づらにはろばろはれる堅氷あはれ
はりつめし堅氷の上にふりおけるいささかの雪はあはれなるかな
この海の沖つ辺かけてとざしたる堅氷の上をふみてあゆめり
この湾の氷の上をはろばろと犬つれて行く人のかげ見ゆ
この湾の堅氷さきて入り来し汽船はならすのどぶとの笛を

歌集のタイトルともなった「凍て海」8首より。

1首目、冬の荒れていた海が凍って、一面に氷が広がっている。
2首目、氷の上にうっすらと降り積もる雪。
3首目、氷は厚く張っていて、人が歩いても大丈夫だ。
4首目、犬を連れて氷の上を通る人の姿。
5首目、氷を割って湾の中へ入ってくる船が汽笛を鳴らす。これは冬の大泊の光景だろうか。

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2015年12月18日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その1)

大正9年から昭和4年にかけての作品341首を収録。

作者の野口薫明は、大正13年に小学校の教員として樺太に渡り、短歌同人誌「かはせみ」「いたどり」などを発行した。

この街の出はづれ道にさしかかりゆくりなくきけりたぎつ瀬の音
橋の下に砂利すくふ音ざくざくとさむけくしひびく橋を渡るに
今ここゆ下りゆきし馬車は川下の浅瀬の中を渡りゆく見ゆ
浅瀬をかちわたる馬が足もとにあぐるしぶきは白くひかりつ
川越えて行きし荷馬車は砂原に歩みとどめて砂利つめる見ゆ

「豊原郊外にて」5首より。

1首目、樺太の中心地豊原の町外れを歩いていると、川音が聞こえてくる。
2首目、川原で砂利を採取しているのだ。建築用の資材にするのだろう。
3首目、道から川へと降りて行った馬車が浅瀬を渡っていく様子。
4首目、橋の上から眺めていると、水しぶきがきらめく。
5首目、採取した砂利を荷馬車に積んでいるところ。今ならトラックだ。

1931年6月15日、冷光社、1円30銭。

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2015年12月17日

高桑信一著 『古道巡礼』


副題は「山人が越えた径」。
2005年に東京新聞出版局より刊行された単行本の文庫化。

今では使われなくなってしまった径を訪ねて全国を旅した記録。「越後下田の砥石道」「足尾銅山の索道」「会津中街道」「松次郎ゼンマイ道」「鈴鹿 千草越え」など、14篇が収められている。

交易、鉱山、信仰、ゼンマイ採りなど、様々な目的によって拓かれた径は、国道の開通や地域の過疎化、生活様式の変化などによって人が通らなくなると、藪に埋もれ、やがて跡もわからなくなってしまう。

やがて時代は大転換を迎え、動脈は街道から鉄道へ劇的に移っていく。(…)主役の座を奪われた街道は、確実に衰退していった。峠の向こうへつづく最前線の集落は、いつのまにか最奥の集落へと変わっていく。

作者はそうした変遷を諾いつつも、それを「文化の遺産」として記録しておく必要性を述べている。それは鉈目(=はっきりした道がない森林で、山中生活者・登山者などが樹木の幹に鉈でつけた目印)についても同じである。

鉈目を自然のままの樹木を傷つける行為と非難するのは、山を知らない人たちの傲慢である。鉈目は山びとの文化の遺産なのだ。(…)鉈目を読むことによって、その年の山の状態や暮らしぶりが見えてくるのである。

鰤街道や鯖街道などの塩魚の道についての記述も忘れ難い。

山に暮らす人々は、長い冬の食物として長期の保存に耐える塩魚を喜んだが、もっとも必要としたのは塩そのものだった。

「魚」よりも「塩」の方が大事だったのだ。
山にもタンパク源になる獲物はいるが、塩は取れないからである。

2015年11月5日、ヤマケイ文庫、980円。

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2015年12月16日

高橋克彦著 『石の記憶』


高橋克彦の記憶シリーズ(『緋い記憶』『前世の記憶』『蒼い記憶』)のファンなので買ってみたのだが、どうも違うようだ。

オリジナル短編集にこれまで未収録の伝奇・ホラー9篇を集めた本ということで、その中の1篇が原題「日本繚乱」を改題して表題の「石の記憶」となっているだけ。記憶シリーズの第4作ではない。

どうも、そのあたり商売として納得できないものを感じるのだが、内容は面白い。「石の記憶」の舞台となった秋田県は父の出身地でもあり、一度また行ってみたいと思った。

2015年12月10日、文春文庫、710円。

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2015年12月15日

口語短歌の課題(「現代短歌新聞」2015年7月号)

「現代短歌新聞」2015年7月号に書いた歌壇時評「口語短歌の課題」を読めるようにしました。

松村正直「口語短歌の課題」(「現代短歌新聞」2015年7月号)
http://www.ac.auone-net.jp/~masanao/P1040926.JPG

また、元になった東郷雄二さんのブログの文章と、その後に起きた中西亮太さんのブログでの議論も紹介しておきます。

東郷雄二「橄欖追放」第164回(2015年5月18日)
http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka/kanran164.html

中西亮太「和爾、ネコ、ウタ」
動詞の終止形で結ぶ歌について(06/30)
動詞の終止形に関するノート(1)東郷説と松村説は同じか(07/13)
動詞の終止形に関するノート(2)ル形は基本的に「未然・習慣」を表す、のか(07/14)
動詞の終止形に関するノート(3)「未決定の浮遊感」はル形から来る印象か(07/15)
動詞の終止形に関するノート(4)短歌の用例(07/17)
動詞の終止形に関するノート(5)再び東郷説と松村説の比較など(07/19)
動詞の終止形に関するノート(6)出来事感を作るものは何か(08/06)
動詞の終止形に関するノート(7)出来事感が増す仕組み(08/10)

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2015年12月14日

『桜前線開架宣言』

今月下旬に山田航編著『桜前線開架宣言』という短歌のアンソロジーが発売されます。
http://sayusha.com/catalog/books/literature/p=9784865281330c0095

1970年生まれ以降の歌人40名の作品各56首と解説を収録した本で、
私(1970年生まれ)もギリギリ入れてもらってます。

収録歌人は下記の通り。

大松達知、中澤 系、松村正直、高木佳子、松木 秀、横山未来子、しんくわ、松野志保、雪舟えま、笹 公人、今橋 愛、岡崎裕美子、兵庫ユカ、内山晶太、黒瀬珂瀾、齋藤芳生、田村 元、澤村斉美、光森裕樹、石川美南、岡野大嗣、花山周子、永井 祐、笹井宏之、山崎聡子、加藤千恵、堂園昌彦、平岡直子、瀬戸夏子、小島なお、望月裕二郎、吉岡太朗、野口あや子、服部真里子、木下龍也、大森静佳、藪内亮輔、吉田隼人、井上法子、小原奈実

どうぞ、お読みください。

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2015年12月13日

山下裕二・橋本麻里著 『驚くべき日本美術』


美術史家の山下裕二が、ライターの橋本麻里を聞き手に、日本美術の面白さや見方を語った本。山下自身の日本美術との出会いや人々との交流の話もあり、飽きることなく読むことができる。

とにかく、目から鱗の話がたくさん出てくる。

実物を見てわかることで、いちばん実感できるのはスケール感、大きさですね。そこで僕がよく例に出すのが、高松塚古墳の壁画。これはほぼ誰も実物を見たことがない絵で、人物像だから等身大くらいだと思っている人が多いんです。ところがあれはフィギュアサイズ。
非常に単純なことですが、江戸時代以前に天井からの照明は存在せず、下から照らすものだけです。(…)応挙はそうした光の状況を念頭に置いた上で描いているわけですから、同じ光で見なくては、その意図が理解できません。
利休のわびさびみたいなものは、一方で桃山の絢爛な世界があるからこそ成り立つんです。あれがあるからこそ引き立つ、コンセプチュアルアート。
「池辺群虫図」の中にアゲハチョウがほぼ真正面向きで描かれているんですが、その触角を若冲はクルン、と丸めているんですね。これは現実の蝶では絶対あり得ない。(…)それを丸めてしまうのは、やはり「生理的曲線」への志向がなせる業なんです。
物心がついたときに鉛筆を持たされた人間は、もう応挙や若冲のような線は引けないんです。本当に江戸時代以前のクオリティーに迫るような日本画を生み出そうと思うなら、徹底した幼児教育で、小さなころから筆を持たさない限り不可能です。

次の部分など、短歌の批評においても当て嵌まる話だろう。

僕が感じている雪舟に対する実感を完全に言葉で人に伝えられるかというと、はっきり言って、無理。本当は「すごい!」くらいしか言えない(笑)。でも、「言葉では絶対に伝えられない表現の核心部分がある」ということを、言葉で伝えることはできる。つまり美術について言葉で語るということは、核心の真空地帯みたいなものがあるということを伝えるために、言葉で外堀を埋めていくような作業なんです。

表現の核心部分を言葉で解き明かしているわけではなく、言葉では説明できない部分を浮き彫りにするために、言葉で説明しているのである。これは歌会などの場で忘れてしまいがちなことだ。

2015年10月31日、集英社インターナショナル、1600円。

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2015年12月12日

角川「短歌年鑑」平成28年版

@ 篠弘「定型に欠かせない文語」に私の書いた時評が孫引き的に言及されているのだが、その要約の仕方に異議がある。

松村は言語学者で作歌する東郷雄二が、「ある」「いる」のような動作動詞のル形(いわゆる現在形)の終止は出来事感が薄い、何かが起きたという気がしないと、すでに論じていたことに首肯する。

東郷さんは短歌についての文章は書いているけれど「作歌」はしない。
それに「ある」「いる」は状態動詞であって動作動詞ではない。

私が引用した東郷さんの文章(「橄欖追放」第164回)は次の通り。

「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す(ex.僕は明日東京に行く)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。

どうしてこの文章がそのまとめになってしまうのか、と残念に思う。

A 座談会「現代短歌のゆくえ」に参加してます。藤島秀憲、大井学(司会)、松村正直、大松達知、島田幸典、笹公人の6名。昨年から今年にかけて角川「短歌」にリレー評論を書いたメンバーなのだが、見事に結社に属する中年男性ばかりとなってしまった。

B 特集「話題の歌集を読む」で、服部真里子が小池光『思川の岸辺』について書いている。「水仙と盗聴」で話題になった二人の組み合わせだ。可能性としての死や「われ」の交換不可能性を論じた丁寧な内容なのだが、小池の妻の死には一言も触れていない。

無論あえて触れなかったのだろう。かなりの力技である。私は妻の死に触れなければこの歌集を論じたことにならないという立場なのだが、一方で服部の意志の強さや態度には清々しい印象さえ受ける。

posted by 松村正直 at 07:39| Comment(2) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月11日

『駅程』 のつづき

水もはやふき上ぐるなき噴水の孔(あな)より細き草は出でつも
駆け抜くる馬群の後に緩慢なうごきを見する土のけむりは
転売によりて膨らむ価(あたい)あり桜花のごときあかるさならん
梅苑は夕あかりして行間に分けいるごとき歩みをさそう
さかしまに麒麟翔けつつ空き缶の鳴子が冬の畠を守る
あ、雨と口々にひと言えるとき大いなるものすぎゆくごとし
滝壺につながる径に流れくる冷たき靄に顔は触れたり
建築は書物とおもう日の暮れを古書肆のごとき街をあゆめり
城山の県庁県警県図書館県美術館県旗をかかぐ
伝えきく臨終までの経緯(いきさつ)の脚色さえも謹みて聞く

後半から10首。

1首目、噴水の孔から「細き草」が出ているところに着目したのがいい。
2首目は競馬場の歌。疾走する馬と「緩慢なうごき」を見せる土煙の対比。
3首目、膨らみきった後で散ってしまう明るさなのかもしれない。
4首目は「行間に分けいるごとき」という比喩が印象的。どこか別世界のような。
5首目、キリンビールの空き缶なのだろう。「麒麟」が守ってくれるから強そうだ。
6首目、その一瞬が生み出す隙間のようなものをうまく表している。
7首目、滝が見えてくる前に、まず冷気がやって来るのだ。
8首目、「建築」と「書物」という全く違うものが重ね合わされる面白さ。
9首目、城や城跡の周辺に県の施設が集中しているのは、全国的によく見かける。以前このブログでも「県立図書館とお城」
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138407.html という文章を書いたことがある。この歌は愛媛県かな。
10首目は師の石田比呂志の死を詠んだ歌。多少の脚色が混じっていることを承知の上で、細大漏らさず聞いているのである。

一つだけ気になった点を書くと、一首一首の完成度の高さに比して、連作としての流れや重みを感じさせる部分が少ない。

「鉄の香」20首、「欣然」21首、「墨西哥」26首、「エコー」24首などの大きな連作もあるのだが、いずれも連作の中をいくつかの「*」で区切っていて、小連作の集合になっている。連作よりも一首一首で勝負するタイプと言えるだろう。

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2015年12月10日

島田幸典歌集 『駅程』

2002年以降の十年間の作品605首を収めた待望の第2歌集。
文語定型を守った端正で落ち着きのある歌が多い。

鉄琴に鉄の匂いし木琴に木の香は立ちぬ教室の秋
春日(しゅんじつ)にさそわれ出でし中庭の壺を覗けばわたくしのかお
軒下に火除けの赤きバケツありてバケツの色の水を湛えつ
天丼に海老の一尾は残されて飯の少なくなるを待ちおり
灌木の繁りのきわをい行きつつバスは自転車を躱(かわ)さんとすも
日の射せるなだりに眠る村のうえ村の十倍の白雲うごく
頌歌(ほめうた)を身を傾けて唱いつつ少年は神を忘れつつあらん
冬ざれのぶどう畑に大鴉小鴉は見ゆ髭文字のごと
白鳥が湖中になせる排泄の始終を見たり水浄ければ
発音をされぬ子音のかそけさに窓を日照雨の斜線がよぎる

良い歌がいくらでもあるという感じの歌集だが、まずは前半から10首。

1首目、「鉄の匂い」に対して「木の匂い」ではなく「木の香」とする細やかさ。
2首目、壺の中に雨水が溜まっていたのだろう。「覗けば」→「かお」という流れにインパクトがある。
3首目、京都ではよく見かける光景。水が赤く見える。
4首目、主役である海老とご飯のバランスを慎重に考えながら食べているところ。
5首目、バスが巨体の生き物のように感じられる面白さ。
6首目は大きな景が見える歌。「村の十倍の」が独特な捉え方だ。
7首目はイギリス滞在中の1首。教会などの合唱団だろう。「身を傾けて」がいい。歌うこと自体の心地良さに没入している姿が見えてくる。
8首目はウィーン滞在中の1首。葡萄の枝とそこに止まる鴉のシルエット。なるほど、ドイツ語の「髭文字」的である。
9首目、何でもかんでも見えれば良いというものではない。写生の歌だが象徴的にも読める。
10首目、「knife」の「k」とか「hour」の「h」とか。それを日照雨の様子の喩えに持ってきたのが素晴らしい。

2015年10月10日、砂子屋書房、3000円。

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2015年12月09日

江戸東京たてもの園

佐藤佐太郎短歌賞と現代短歌社賞の授賞式に参加した翌日、朝9:30に小金井公園にある「江戸東京たてもの園」へ行ってきた。以前から一度訪れてみたいと思っていた場所である。

小金井公園には学生時代にアーチェリーの練習で何度か来たことがある。もっとも、江戸東京たてもの園は1993年の開園なので、その頃にはまだ存在していなかった。

約7ヘクタールの敷地は「東ゾーン」「センターゾーン」「西ゾーン」に分かれ、計30の建物が移築・復元されている。建物だけでなく、都電やボンネットバス、消防署の望楼、郵便ポストなどもあって、愛知県の明治村のミニ版といった感じ。

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デ・ラランデ邸(ドイツ人建築家ゲオルゲ・デ・ラランデの洋館。1910年頃)

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前川國男邸(モダニズム建築で知られる前川國男の自邸。1942年)

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鍵屋(台東区下谷の言問通りにあった居酒屋。1856年)

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高橋是清邸(1902年)の2階からの眺め。紅葉がきれい。

職員やボランティアの方が丁寧に案内や掃除をして下さり、気持ちの良い空間が保たれている。違う季節にまた訪れてみたい。

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2015年12月08日

映画 「FOUJITA―フジタ―」

監督・脚本:小栗康平
出演:オダギリジョー、中谷美紀、アナ・ジラルド、アンジェル・ユモーほか

前半はパリのモンパルナスに住み「乳白色の肌」の裸婦像で人気を博した若き日を、後半は戦時下の日本での疎開生活や戦争画を手掛ける姿を描いている。

全体に暗い画面の長回しが多く、淡々とした話が続く。フランスから日本に帰国するところや、戦後再びフランスへ渡るところは省かれており、藤田の生涯をある程度知らないとわかりにくいかもしれない。

映像は美しく良い映画だと思うのだが、途中でかなり眠たくなってしまった。

日本・フランス合作、MOVIX京都、126分。

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2015年12月07日

現代歌人集会秋季大会

昨日は13:00よりアークホテル京都にて、現代歌人集会の秋季大会が行われた。参加者102名。

安田純生さんの基調講演は、与謝野晶子の短歌に近世歌謡や端唄、都々逸などの影響が見られることを論じたもの。「乱れ髪」や「男かわゆし」といった表現を例に、実際の歌謡等の例を多数挙げていて、説得力があった。

これは「和歌―短歌」という流れだけを見ていたのでは気づかない部分であろう。レジュメに記された「和歌の流れを本流に、狂歌・歌謡の流れが加わって近代短歌が成立」という見方を的確に示す内容であった。

続いて松平盟子さんの講演「大逆事件と明星歌人〜思想と言論をめぐる衝撃」。明治36年から大正2年までの年譜を追いながら、明星系の文学者(石川啄木、与謝野晶子、与謝野寛、森鴎外、木下杢太郎、永井荷風)と大逆事件との深い関わりを解き明かすもの。

「星菫派」という言葉もあるように、恋や星やすみれといったイメージが強い「明星」であるが、実はそれは一面でしかなく、政治や社会の情勢に文学者として積極的に関わっていく姿勢があったことを知った。

続いて、第41回歌人集会賞(土岐友浩歌集『Bootleg』)授与式、歌人集会の総会があり、16:30終了。その後、隣りの部屋で懇親会。

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2015年12月06日

伊藤一彦歌集 『土と人と星』

現代三十六歌仙シリーズ27。
2012年から15年の作品464首を収めた第13歌集。

それほどに広くあらねど出でゆきて妻はかへらず春の庭より
秋空に始まり桂露、雨山となり白雨、野百合ののちの牧水
はしはしと瞳の中を覗かれてわれに見えざるもの見られたり
天馬にはあらざるがよき野生馬の空を行かずに冬草を食む
厄年は六十一歳が最後らしそののち厄のなきがごとくに
延岡の旬のおこぜの白き刺身醜(しこ)なる顔を呼びよせて食ふ
生きてゐてむなしいと言ふ百歳の母の言葉の古陶のひかり
言霊のことに力もつ元日は酒を酌みつつ口をつつしむ
赤き実にビニール袋かぶせらる千両は鳥に食べられたきを
おのづから喉より出でて異なれり冬は冬のこゑ春は春のこゑ

2首目は牧水の号の変遷を詠んだ歌。若い頃は次々と名前を変えたのだ。
3首目、眼科で検査や治療を受けている場面。自分の目の奥は自分では見ることができない。
5首目、男性の厄年は25歳、42歳、61歳。寿命が延びた現在では、確かにその後にも厄がありそうな気がする。
6首目、わざわざ元の姿を思い起こして食べるところに、おこぜに対する心寄せがある。
9首目、鳥に食べられてこそ、糞になって種が運ばれるのだ。
10首目、季節によって人の声が変わるという捉え方が新鮮。

2015年9月12日、砂子屋書房、3000円。

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2015年12月05日

井上雄彦著 『円空を旅する』


雑誌「美術手帖」の企画で漫画家の井上雄彦が全国に残る円空仏を訪ねてまわったもの。文章はライターの手によるもので井上が書いたものではないが、全部で80点にものぼる井上のスケッチが収録されている。

円空物を訪ねる旅は「岐阜の旅」に始まって、「青森・北海道の旅」「岐阜・愛知・滋賀・三重の旅」(前編)(後編)と続く。円空についてほとんど何も知らなかった井上が、旅を重ねていく中で、「目に水がこみあげてくるのを抑える努力をしなければならなかった」「一体一体、拝みたくなるような何かがある」といった心境に達する流れが自然と伝わってくる。

清峰寺(岐阜県)の「千手観音菩薩立像」「龍頭観音菩薩立像」「聖観音菩薩立像」や上ノ国観音堂(北海道)の「十一面観音立像」、大平観音堂(滋賀県)の「十一面観音立像」など、印象に残る仏像がたくさん出てくる。

巻末には「円空Q&A」があり、

円空が美術史的な観点で注目されるようになったのは戦後です。

といったことなども記されている。

2015年10月1日、美術出版社、2200円。

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2015年12月04日

されたりするんだろうな

日本語文法の本を読んでいて面白いのは、現代の口語短歌の読み方についての示唆を得られるところである。

例えば、荒川洋平著『日本語という外国語』は、

山田選手はかなり練習させられていたらしいよ。

という例文を使って、述語部分に関する文法形式の「テンス」「アスペクト」「ボイス」「ムード」の4つについて説明している。

「させ」ボイス(使役)
「られ」ボイス(受け身)
「てい」アスペクト(進行)
「た」テンス(過去)
「らしい」ムード(推測)
「よ」ムード(判断)

「練習させられた」でも「練習させられていた」でも「練習させられていたらしい」でもなく、「練習させられていたらしいよ」。一つ一つの言葉にすべて意味がある。文末の「よ」も、あるのとないのとでは大きくニュアンスが変ってくるのだ。

こうした分析は、例えば永井祐の

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな
              『日本の中でたのしく暮らす』

という、かつて議論を呼んだ歌の読みにも役立つだろう。

つまり、この歌は「電車にぶつかればはね飛ばされる」といった内容よりも、むしろ「はね飛ばされたりするんだろうな」という言い回しに重点があるということだ。

「はね飛ばされるだろう」でも「はね飛ばされたりするだろう」でも「はね飛ばされたりするんだろう」でもなく、「はね飛ばされたりするんだろうな」。文末の「な」まで、きちんと読み解いていく必要がある。

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2015年12月03日

江戸雪歌集 『昼の夢の終わり』


現代歌人シリーズ8。
第6歌集。

うしなった時間のなかにたちどまり花びらながれてきたらまたゆく
もし泣くとしたらひとつの夏のため ほそいベルトのサンダルを買う
とどかない場所あることをさびしんで掌はくりかえし首筋あらう
はてしない秋の浪費よ くれないもおうごんもみな水にしずんで
あさがおの素描かざってある部屋のドアにうっすらノブの影ある
きわまりて声のかすれるそのときに言葉はもっとも美しくある
沈黙というかがやきのなかに咲くモクレン属の白木蓮は
きっぱりと列車は橋をわたりゆき川のすべてが夕暮れとなる
水晶橋わたって蕎麦を食べに行く夏至のあおぞらゆるゆるとして
飛蝗からみればわたしは巨大なり眼から涙を流したりして

1首目、流れてきた花びらを見て、ふいにわれに返った感じ。
3首目、上句の心情と下句の動作がよく合っている。
4首目、紅葉や黄葉が川や池に沈んでいる場面だろう。「くれないもおうごんも」という表現がいい。
5首目、「ノブ」ではなく「ノブの影」に目を止めている。
7首目、「白木蓮」の中には「黙(もく)」があるのだ。
9首目、「水晶橋」と「蕎麦」の取り合わせがいい。「水晶橋」と「青空」も響き合う。
10首目、おもしろい視点の歌。巨大な眼から大量の水が溢れ出す。

今回の歌集は作者の住む「大阪」色がかなり強く出ている。
一つは地名・固有名詞。

「長堀通り」「南方」「中津」「靱公園」「なにわ筋」「馬場町」「堂島ビル」「土佐堀通り」「箕面ビール」「谷町線」「本町通り」「上町台地」
「淀川」「安治川」「木津川」「堂島川」「東横堀川」「土佐堀川」
「大渉橋」「千代崎橋」「栴檀木橋」「肥後橋」「平野橋」「玉船橋」「昭和橋」「水晶橋」

こうして見ると、水都大阪、浪華八百八橋と言われるように、川や橋の名前が多いことがわかる。

もう一つは大阪弁。

「そんなんとちゃうねん」「きれいやなあ」「なんでなん」「どないしよ」「いかせられへん」「あほやなあ」「そんなもんできるかあ」「ほなまたね」「ようさんおるからに」「あんたはんどこにおるんよ」「笑っときなはれ」「いいひとになりたいのんか」「飛んでいくがな」「のぼってゆくのんか」

大阪という町が、作者の心の大きな支えとなっているのだろう。

2015年11月26日、書肆侃侃房、2000円。

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2015年12月02日

上原善広著 『異邦人』


副題は「世界の辺境を旅する」。
2012年に河出書房新社から出版された『異貌の人びと』の文庫化。

ガザ地区のパレスチナ人、バグダッドのロマ、スペインの被差別民カゴ、ネパール共産党毛沢東主義派、ネパールの不可触民、イタリアマフィア、コルシカ民族主義者、北方少数民族など、世界各地の紛争地や、虐げられ差別されている人々を描いたドキュメンタリー。

第六章「気の毒なウィルタ人」では、私が関心を持つ樺太に住む少数民族ニブフ、ウィルタが取り上げられている。『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』の著者田中了やポロナイスク郷土博物館の館長への取材などもあり、たいへん貴重な内容である。

路地に生まれた私には、日本にいてもどこか異邦人だという感覚がある。だから二〇代の頃、海外はかえって居心地の良い場所だった。それほど海外に出なくなった今も、異邦人だという感覚はいつも抱いていくのだろう。

各地に残る差別の現状を描き出すことは、著者にとって単なる興味や好奇心ではなく、自らの出自の問題とあわせて避けて通ることのできなテーマなのだ。

2014年7月10日、文春文庫、640円。

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2015年12月01日

香川ヒサ歌集 『ヤマト・アライバル』


第8歌集。「短歌研究」に2012年から14年までに掲載された30首×8回とその他の連作2編、計297首を収める。

古書店に本選びつつ自づから選ばれゆかむ一冊の書に
花あまた咲かせて庭に立つ人の囲まれてをり花の名前に
この街の博物館にある石器どこの博物館にもありて
人のため何かしたい人あまたゐて受付で人に名前書かしむ
老人も子供もしたがる買ひ物をせぬ死者のため花を買ふ人
どこにでもをりて何とも思はれず存在してゐて鳩なれば飛ぶ
木木の間に人を歩かせ歩かない木木は木の葉を降らしたりする
道路沿ひに廃線の線路走るなり鉄道沿ひに道路造られ
麻薬犬災害救助犬警察犬帰りに一杯やることもなし
少年の百年前に見た瀧が落ち続けをり詩集の中に

全体に抽象度が高く、哲学的な思考の歌が多い。
白黒の画像を反転させるように、私たちの日常のモノの見方を引っ繰り返す発想が鮮やかである。

1首目、本を選んでいるのではなく、実は本に選ばれているのだという発想。
3首目、石器に関してはあまり地域差がなく、広く共通しているということか。
4首目、ボランティア希望者の登録作業の場面。
6首目、いかにも鳩の感じ。公園や神社や駅などあちこちで見かける。
8首目、鉄道がまず敷かれて、その後、道路ができ、やがて鉄道は廃線に。
10首目、「瀧」が旧字になっているのは、百年前の詩集の表記に従っているのだろう。

2015年11月1日、短歌研究社、2800円。

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