2014年09月30日

松本博文著 『ルポ電王戦』


副題は「人間vs.コンピュータの真実」。
「○○の真実」という題を付けるのが流行りなのかな。

著者は将棋観戦記者、東大将棋部OB。
コンピュータ将棋の開発の歴史と、1990年に始まったコンピュータ将棋選手権、さらに2012年から始まった電王戦(棋士対コンピュータ)について記した本。

あとがきに「本書は、将棋という世界最高のゲームに魅入られた天才たちの物語である」とある通り、将棋ソフトを開発するプログラマーとプロ棋士、それぞれの情熱が印象的に描かれている。

将棋に関する本ではあるが、棋譜は一枚も載っておらず、すべて文章で説明している。テンポが良く、読みやすい文章だ。ただし、プログラマーの山本一成と宮澤藍の恋愛に関する話は、不要だったと思う。将棋部の後輩という関係ゆえか、その部分だけ文章のトーンが違っていて、浮いてしまっている。

2014年6月10日、NHK出版、780円。

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2014年09月29日

濱田武士著 『日本漁業の真実』


日本漁業の現状や問題点について、様々な角度から考察した本。

漁業政策、消費と流通、漁業水域、資源管理、養殖、漁協、漁村となど漁業従事者など、多くの視点から日本の漁業の姿を描いている。それだけ、問題が複雑であるということでもあろう。

著者は現状の漁業をめぐる議論に大きな不満を抱いている。

このように見ていけば“漁業は斜陽産業”と揶揄する議論がいかに無駄かに気づく。需給動向を俯瞰すれば、供給サイドだけの問題にするのはもはや時代遅れである。
乱獲とは直結していないにもかかわらず、そのことを知らない人が水揚げ量の減少傾向を見ればそう思うであろう。その誤解を意図的に導き出す乱暴な手口が乱用されているのだ。
今日巷に出回っている漁協批判は、漁協の存立構造をまったく理解せずに表層的な問題ばかりを論うものがほとんどである。

こうした批判が随所に出てくる。その一つ一つになるほどと思いながら読んでいくのだが、何かそれに代わる解決法が示されているかと言えばそうではない。絡み合った問題の複雑さにますます頭を抱え込むことになりそうだ。

2014年3月10日、ちくま新書、840円。

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2014年09月28日

小林朋道著 『先生、大型野獣がキャンパスに侵入しました!』


副題は「[鳥取環境大学]の森の人間動物行動学」。
シリーズ7作目。

登場する動物は、ヒバリ、コカマキリ、セグロアシナガバチ、ヒグマ、ハツカネズミ、シマリス、メダカ、ミジンコ、ヤギ、アカガエル、アカハライモリ、トノサマガエル、アマガエル、ノウサギ、タヌキ、キツネ、ニホントカゲ、ニホンカナヘビ、モモンガ、イモムシなど。

2007年から毎年刊行されてきたシリーズであるが、だんだんネタが尽きてきたのだろうか、回想や以前取り上げた話の後日譚が多くなって、やや新鮮味が薄れてきた。

ヤギ部で飼われていたヤギコが11歳で亡くなった時の場面。

私は、その最後の一息を、その体をさすりながら看取った。それは、ヤギコの一一年をずっと見てきた唯一の人間(部員たちは卒業していくのだ)に与えられた、せめてもの慰めだったのかもしれない。

そう言えば、大学時代のアーチェリー部の監督も同じようなことをよく言っていた。学生は毎年毎年入れ替わっていって、自分だけがずっと監督をしているということを。

年々(としどし)の教室写真の真んなかに我のみが確実に老けてゆくなり
                永田和宏 『饗庭』

2013年5月31日、築地書館、1600円。
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2014年09月27日

母恋いの歌

以前、『シリーズ牧水賞の歌人たち 永田和宏』に「母恋いの歌」という評論を書いたことがある(評論集『短歌は記憶する』に収録)。永田が母を詠んだ歌を取り上げて論じたものだ。

永田の母は昭和26年1月、永田が3歳の時に亡くなっている。この評論を書いた時に私が意識していたのは、自分の父のことであった。5歳で母を亡くした私の父と永田さんを重ね合わせる気持ちがどこかにあったのだろう。

評論というのは、客観的に対象のことを取り扱っているようでいて、実際にはこんなふうに書く側の理由みたいなものが大きく関わっていることが多いように思う。どんな対象やテーマについても書けるわけではない。書くには何か理由や根拠があるわけだ。

だから、評論を読むと、書かれた対象のことがわかるだけでなく、書いた人のことが見えてくる時がある。評論にはそうした二重の面白さがあるのだろう。

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2014年09月26日

普通の家庭

同じ座談会の中で、小池さんは「普通の家庭とは相当違う経歴の中で生きてきた松村正直という人間」ともおっしゃっている。これも、自分ではあまりそういう意識はないのが正直なところだ。両親が離婚すること自体は、今では少しも珍しくないことだろう。

むしろ一番影響があったのは名前が変ったことかもしれない。それまで「宇佐美」という名字であったのが、両親の離婚を機に、母方の「松村」へと変った。というより変えた。兄と一緒に八王子の家庭裁判所へ行ったことを覚えている。

高校2年の夏に戸籍上は「松村」になったのだが、高校では卒業まで「宇佐美」で通した。そのため「松村」と呼ばれるようになったのは大学に入ってからである。

その際、心配していたことが2つあった。一つは入学試験の答案に名前を間違えて書いてしまわないかということであり(実際に模試で1度間違えた)、もう一つは「松村」という呼び掛けにすぐに慣れるかということであった。

でも、それは全くの杞憂だった。大学に入って3日もしないうちに、もう「松村」という名前に慣れてしまったのである。「名前」という、自分そのもののように思っていたものさえも、こんなにあっけないものだったのか。それは18歳の私にとっては大きな驚きであった。

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2014年09月25日

叔父の名前

叔父さんの名前を思い出せぬまま暮れゆく道をわが身は帰る
             『午前3時を過ぎて』

「短歌研究」10月号の作品季評で、小池光さんがこの歌を引いて、「叔父さんの名前を知らない人がこの世にいるのかと思ってびっくりしちゃった」と述べている。

なるほど、そうなのか。確かにそうかもしれないと思う。名前も知らないし、顔も知らない。父には他に兄と姉もいるのだが、同じく名前も知らない。

これはたぶん「父と母が離婚したから」ではない。別に幼少の頃に離婚したわけではなく、高校2年までは一緒に暮らしていたのだ。それなのに父の兄弟の名前も知らないのは、なぜなのだろう。年賀状を書いたこともないということか。

父は秋田の生まれで、中学を卒業して東京に出てきた人だ。わが家では正月に親戚で集まると言えば、それは東京の母方の親戚であって、父の生家へは一度しか行ったことがない。今から思えば、父と生家の間には随分と距離があったのだろう。

父の生みの母は、父が5歳の時に亡くなっている。その後、父の父は再婚して異母兄弟もいるらしい。そうしたことも関係があるのかもしれない。もちろん、父に聞けばわかることなのだが、何を今さらという気もして躊躇してしまう。


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2014年09月24日

「短歌」2014年9月号

中部短歌会の結社誌「短歌」9月号に、井澤洋子さんの「佐々木実之氏のてがみ」という文章が載っている。1991年に井澤さんは「末の子の縁で知った」京大短歌会に入会依頼の手紙を送ったところ、佐々木氏から返事があったのだそうだ。

若い者と一緒に学ばれるという事にひっかかる。我々は我々を若いとおっしゃる方々に刺激を与える自信・実力はあります。しかしその刺激を求めて入会された方々は次に同様の刺激を求めて入ってくる方々に対して刺激たりえましょうか。
京大短歌には一応名の通った者がおりますがそういう意味の実力とかの話ではなく現代短歌の新しいページに何をつけ加えるかという熱意のない方はお断りしています。
我々は別に他人に刺激を与えるために集まっているのではない。しかし他人に刺激を与えられる位でなくては困るとも言えます。

本気の文章だなと思う。
若さゆえの傲慢と無礼はあるのだけれど、短歌に対する真っ直ぐな、偽りのない気持ちがひしひしと伝わってくる。今、こんな文章を書く人は誰もいないかもしれない。

手紙は最後に「本気で来ていただけるなら次会は・・・」という案内で終っている。そして、井澤さんはその手紙を23年間持ち続け、「ギブアップしそうになる度に己への叱責となった手紙」「かけがえのない宝」と呼んでいるのである。

真っ直ぐな、本気の言葉だけが人の胸には届くのだということを、あらためて教えられた気がする。

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2014年09月22日

毎日新聞「短歌月評」

今日の毎日新聞「短歌月評」に、「軍歌をめぐって」と題して「佐佐木信綱研究」第2號のことなどを書きました。

いつもは第3月曜日掲載なのですが、今月は曜日の関係で第4月曜日となっています。どうぞ、お読みください。


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2014年09月20日

松村由利子著 『子育てをうたう』


挿画:井上文香。
「こどものとも年少版」の折り込みふろくに連載された文章に加筆修正をしてまとめたもの。

「授かる」「生まれる」「親になること」「寝かせる」「食べさせる」など、テーマごとに短歌を引いて鑑賞をしている。私の歌も5首引いていただいた。

夕食の分だけ重くなりし子のからだを高き椅子より降ろす
あめ、あめと子はつぶやいてこの雨を見ているだろう保育所の窓に
アルバムを子どもの写真で埋めていく限りない未来などもうなくて
「東京のおばあちゃん」などとわが母を呼ぶ寂しさの遠からず来る
ようやっと昼寝せる子のかたわらに残る虫食いだらけの時間

そう言えばそんなこともあったなあと、自分の歌を読んで懐かしく思い出す。

2014年9月20日、福音館書店、1300円。

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2014年09月19日

「短歌研究」2014年10月号

作品季評に『午前3時を過ぎて』を取り上げていただいた。
評者は、小池光、さいとうなおこ、森本平の3名。
歌集の良い点や問題点、疑問点などを率直に指摘していただき、たいへん有難い内容であった。

歌集の小タイトルが「普通のタイトル」と「ギリシャ数字」に分れているのは、連作として発表した作品と、特に連作ではない折々の歌という分け方だったのだが、確かにわかりにくかったかもしれない。

他には、加藤治郎の特別寄稿「虚構の議論へ」が印象に残った。
選考委員としての本音がよく出ている文章である。

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2014年09月18日

小泉武夫著 『猟師の肉は腐らない』


舞台は福島県、茨城県、栃木県の三県に跨る八溝(やみぞ)山地。
電気も水道もない山の中に住み、昔ながらの自給自足の生活をする猟師「義っしゃん」の家に泊まりに行った体験記(という体裁の小説)である。

食べ物の話がとにかくたくさん出てくる。

「猪肉の燻製」「岩魚の甘露煮」「山女の川音焼き」「兎の灰燻し」「山羊の乳」「蝉の付け焼き」「地蜂の炊き込み飯」「赤蝮の味噌汁」「薬草茶」「ドジョウの蒲焼き」「ドジョウ汁」「あけびの熟鮓」「紙餅」「兔汁」「焼き芋」「焼き栗」「どぶろく」「山ぶどう酒」などなど。どれも食べたことがないようなものばかり。

今の日本ではとても文化的な生活となって、何もかも便利になり、昔の人たちの知恵や発想は消えてしまったり、希薄になってしまっている。しかし、誰かが貴重な叡智を伝承しなければ、永遠に忘れられてしまう。

という文章に、この本にこめた作者の意図は言い尽されているだろう。

2014年7月20日、新潮社、1400円。

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2014年09月17日

短歌総合誌の評論

最近1年分の短歌総合誌の評論を読み直している。
わが家では短歌総合誌5誌を定期購読しているが、評論(連載は別にして)の掲載数は雑誌によって大きく違う。ざっと数えてみたところ

  ・「短歌往来」 22編
  ・「歌壇」    13篇
  ・「現代短歌」  9篇
  ・「短歌研究」  9篇
  ・「角川短歌」  4篇

となった。

何を「評論」として数えるかの基準によって多少異なると思うが、「短歌往来」が評論に関しては最も充実しているのは間違いないだろう。

*誌名に誤記がありましたので、訂正しました。(9/17 17:00)


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2014年09月16日

阿木津英歌集 『黄鳥 1992〜2014』

第6歌集。1992年から1999年にかけて発表した作品を「あたかも画室に積み重ねたキャンバスの奥から引きだしてきて新たに筆を加え完成させていくかのように」(あとがき)推敲して、まとめた一冊。

白にごる湯をばつくりて膚傷む茄子のごとくにわが沈みたる
起き出でてしばらく坐る誰(た)が夢にわが分け入りて今朝ありにけむ
曇天はひらかむとしてみづうみに鴨の声たつ揺れのまにまに
水仙を一すぢの香の縒り出でてもの読むかうべ緊(し)めつつながる
あらはるるかたちにあればわがからだ泣き咽べるにまかせてをりつ
正月は来て立ちて見つはろばろと阿蘇の外山(そとやま)うすべにのいろ
背戸ごとの汲水場(くみづ)の段(きだ)に桶洗ひ菜を洗ひけむ言(こと)かはしつつ
吹き消すと炎ふくとき蠟燭の炎にちからありて波だつ
塵芥をさげて出で来て紅梅の枝につむ雪ゆびもて崩す
降るあめに枝よろこびてことごとく白ハナミズキかがよふ通り

タイトルの「黄鳥」は詩経の詩句から採られているが、コウライウグイスのことらしい。日本のウグイスと違って、鮮やかな黄色をしている。本の表紙にも田村一村の描いた「梨花に高麗鶯」の絵が使われている。全体に文語定型の力を感じさせる歌が多い。

1首目は入浴剤を溶かした風呂に入っているところ。
4首目は「縒り出でて」がいい。香りが煙のように見える感じがする。
5首目は飼い猫の死を詠んだ歌。ひらがなの多用が溢れ出る感情と合っている。
7首目は柳河(柳川)の光景だが、「けむ」という過去推量の助動詞の力を感じる。
9首目は朝のゴミ出しの場面。手ではなく「ゆびもて」としたところが繊細でいい。

2014年9月9日、砂子屋書房、3000円。

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2014年09月15日

五木寛之著 『一向一揆共和国 まほろばの闇』


「隠された日本」シリーズ第4弾。
今回は加賀と大和を取り上げている。

金沢は若き日の著者が一時住んでいた町であり、斑鳩には著者の弟の墓がある。加賀も大和も、著者と関わりの深い土地と言っていいだろう。

加賀・大和の地をめぐりながら、著者は吉崎御坊、金沢御堂、一向一揆、土蜘蛛、太子信仰、水平社運動など、自らが関心を持つ事柄についての考察を深めていく。歴史が単なる過去のものとしてではなく、時代を超えて現在につながるものとして甦ってくる。

本の冒頭には大伴家持の歌が引かれ、小野十三郎の「短歌的抒情の否定」の話が出てくる。また、大津皇子、大伯皇女、柿本人麻呂など『万葉集』をめぐる考察もある。

肉声として発せられて人びとのこころを揺さぶるためには、どうしても言葉のリズムや音の美しさが必要だ、と私は思っている。

このシリーズもこれで4冊読んだわけだが、司馬遼太郎の『街道をゆく』に似たスタイルという気がしてきた。

2014年7月10日、ちくま文庫、780円。

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2014年09月14日

映画「クライマー」

副題は「パタゴニアの彼方へ」。

南米パタゴニアに聳え立つ氷の塔のような「セロト―レ」(3102m)。
この山にフリークライミングによる登頂を目指すデビッド・ラマの3度にわたる挑戦を描いたドキュメンタリーである。

断崖絶壁を登っていくシーンには圧倒的な迫力があるし、麓の村やベースキャンプでデビッド・ラマが見せる表情も愛嬌があって良い。フリークライミングの技術にも素晴らしいものがある。

けれども、山登りについて書かれた本などに比べて、それほど心には残らなかった。ヘリコプターを使っての撮影や、別ルートから登ったクルーによる至近距離からの撮影など、ある意味では舞台裏の様子も映されるので、それが感情移入を妨げてしまうのかもしれない。

MOVIX京都、103分。


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2014年09月12日

石川直樹ほか 『宮本常一と写真』


民俗学者の宮本常一が残した10万枚にもおよぶ写真を紹介しながら、石川直樹(写真家)・須藤功(民俗学写真家)・赤城耕一(写真家)・畑中章宏(作家・編集者)らが、宮本と写真の関わりについて論じている。

とにかく載っている写真がいい。船に乗る学校帰りの子どもたち(山口県浮島)、竹製の籠に入った赤ちゃん(香川県豊島)、山仕事帰りの男(富山県立山)など、一目見たら忘れられない印象的な写真がたくさんある。

先生は写真に「私を出すな」ともいいました。これは主張する写真、すなわち芸術写真は撮るなということと同じです。「読める写真」、これは主観を交えない記録写真ということですが、たとえば畑を撮ったら、その畑の広さと畝作り、そこに何を植えて、どんな保護柵があるかがわかるような写真ということです。  (須藤功)
記録というけど、記録じゃないよ。ただ自分が惹かれて撮っているんだよ、だから強いんだよ。いい親子だなぁとか思うと撮ってる。近所に似てる道だなぁと思うと撮ってる。  (荒木経惟)

評価の仕方に違いはあるけれど、どちらも宮本の写真の方法や魅力を的確に伝えている。これは短歌にも通じることだろう。

2014年8月25日、平凡社コロナ・ブックス、1600円。

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2014年09月11日

円満字二郎著 『ひねくれ古典『列子』を読む』


中国の春秋時代の思想家、列禦寇(れつぎょこう)の話をまとめた『列子』を紹介した本。「杞憂」「朝三暮四」などの有名な話をはじめとして、全部で20話が取り上げられている。

「諸子百家」の一人である列子であるが、孔子、孟子、老子、荘子、孫子、韓非子などに比べて、取り上げられることは少ない。巻末に紹介されている参考文献もほとんど品切れ状態である。『列子』を愛読する著者はそんな状況を何とかしたいと考えて、本書を執筆したらしい。

確かにコントみたいに面白い話がたくさんあるし、そこに現代にも通じる考え方が述べられていて、考えさせられる。

つまり、“ことばなんて忘れてしまえ!”“頭のはたらきなんて棄て去ってしまえ!”という老荘思想の主張も、それを意識して行っている限りは、やはり、“ことばや頭のはたらきを重んじる”ことの裏返しにすぎない、ということです。

この部分など、先日読んだ『修業論』で内田樹が

「我執を脱する」という努力が、達成度や成果を自己評価できるものである限り、その努力は「我執を強化する」方向にしか作用しない。

と書いているのと、多分同じことなのだろう。

たとえそこがご先祖さまのお墓ではなかったとしても、旅人がご先祖さまを思って泣いたことには、変わりはありません。あの涙は、まぎれもなく本物です。ニセモノから“本物の感動”を受け取ることもあるのです。

これなどは、今年話題になった佐村河内氏の代作問題を彷彿とさせる。既に二千数百年も前から、こうした問題は論じられてきたのであった。

このところ、円満字二郎と今野真二の本が次々と家に増えている。
脂の乗った充実期を迎えているのだろう。

2014年7月25日、新潮選書、1300円。


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2014年09月10日

上田三四二著 『戦後の秀歌4』

全5巻のうちの第4巻。

斎藤茂吉『小園』『白き山』『つきかげ』、高安国世『真実』『年輪』『夜の青葉に』『砂の上の卓』『北極飛行』『街上』『虚像の鳩』『朝から朝』『新樹』『一瞬の夏』『湖に架かる橋』『光の春』、鈴木一念『七年』『香水草』を取り上げている。

高安国世の全13冊の歌集のうち第1歌集『Vorfruhling』を除く12冊から歌が引かれているので、高安研究には欠かせない一冊と言えるだろう。秀歌鑑賞ではあるのだが、単に褒めるだけでなく問題点も率直に指摘しているので、読んでいて面白い。

くまもなく国のみじめの露(あら)はれてつひに清らなる命恋(こほ)しき
                    『真実』
「敗戦」と題する一連の第一首。歌集の巻頭歌でもある。敗戦の事実は上句に出てはいるが、心してその事実をしっかりと押えて味わわないと、もの足りない歌になる。具体的な「もの」が足りないのである。結句の弱いのも気になる。(…)

たえまなきまばたきのごと鉄橋は過ぎつつありて遠き夕映
                     『一瞬の夏』
「遠き夕映」と簡単に言ってしまったのが不満で、欲を言えばここはもうすこし言葉をタメて、腰つよく歌いたいところである。(…)

山肌にうごける雲も葉裏飜(かえ)す楊柳もいま秋のしろがね
                     『湖に架かる橋』
「秋のしろがね」は断定が露骨にすぎて私は好まないが、景さわやかに、語また徹って、気持よく晴々とした一首である。意志して様式的な歌い方をしている。(…)

こんなふうにビシビシと厳しい指摘があって、まるで歌会で評を聞いているような気がする。

1991年5月15日、短歌研究社、2600円。

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2014年09月08日

斎藤茂吉のアイヌの歌

昭和7年の夏に斎藤茂吉は北海道を旅行している。
歌集『石泉』には、その旅で見かけたアイヌの遺跡やアイヌの人々のことを詠んだ歌が数多く収められている。あまり言及されることのない歌なので、すべて引いておこう。漢字では「愛奴」という字を当てていたようだ。

 「層雲峡」
愛奴語(あいぬご)のチャシは土壁(どへき)の意味にして闘(たたかひ)のあと残りけるかも
愛奴等のはげしき戦闘(たたかひ)のあとどころ環状石は山のうへに見ゆ
とりかぶとの花咲くそばを通りつつアイヌ毒矢(どくや)のことを言ひつつ
 「支笏湖途上」
藪のそばに愛奴(あいぬ)めのこの立ちゐるを寂しきものの如くにおもふ
木群(こむら)ある沢となりつつむかうには愛奴(あいぬ)の童子(わらべ)走りつつ居り
こもりたるしづかさありて此沢に愛奴(あいぬ)部落(ぶらく)のあるを知りたり
 「白老」
白老の愛奴酋長の家に来て媼(おうな)若きをみな童女(わらはめ)に逢ふ
白き髯ながき愛奴の翁ゐて旅こしものを怪(あや)しまなくに
降る雨を見ながら黒く煤(すす)垂(た)りし愛奴のいへの中に入り居り
 「登別」
刀抜きて舞へるアイヌがうたふこゑわが目の前に太々(ふとぶと)と鋭(と)き

時代的な制約や限界はもちろんあるけれども、茂吉がアイヌの文化や歴史、人々に関心を持って接している様子が感じられるのではないだろうか。単なる観光や物珍しさだけではない心寄せがあるように思う。

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2014年09月07日

徳田耕一著 『サハリン 鉄路1000キロを行く』


サハリンの観光ガイド本。

ユジノサハリンスク、コルサコフ、ホルムスクなど主要都市のほか、全長1270キロに及ぶサハリンの鉄道について、写真入りで詳細な案内を載せている。その他に、宮脇俊三らによる座談会「サハリン旅行の魅力を語る」も収録。サハリンの魅力と旅行の方法がよくわかる内容となっている。

戦後長らく外国人立入禁止区域に指定されていたサハリンは、1989年に初めて旅行が可能となり、1995年には稚内とコルサコフを結ぶ定期船が50年ぶりに復活した。この本の出版はその当時のものである。

まさにサハリンは日本から大変近い“隣国”として、今再び私たちの前に迫ってきた。

といった言葉が随所に見られるのだが、その後のサハリン観光はそれほど広がりを見せていないように感じる。ガイドブックもツアーも少なく、サハリン旅行の話を聞くこともほとんどない。

ぜひ、一度、サハリンに行ってみたい。一度と言わず、二度三度と訪れてみたい。
それが「樺太を訪れた歌人たち」を連載している私の願いである。
来年の夏には、何とか実現したい。

1995年4月1日、JTBキャンブックス、1553円。

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2014年09月06日

『修業論』のつづき(その2)

こんな文章もある。
伝書に記されている言葉の解釈について。

どうとでも取れる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、後で自分にもわからなくなる。
多義的解釈に開かれたテクストには、腰の引けたあやふやな解釈をなすべきではない。それはテクストに対する敬意の表現ではなく、「誤答すること」への恐怖、つまりは自己保身にすぎない。

まるで歌会のことを言っているようだと思う。

歌会には「読み間違った」も「誤答」もないが、それでも歌会における態度はまさにこうあるべきだろう。「私はこう解釈した」ということを遠慮せず、ごまかさずにきちんと述べることが、作品に対する一番の敬意なのだ。

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2014年09月05日

『修業論』のつづき(その1)

印象に残った部分をもう少し。

私たちの「最初のボタンのかけ違え」は、無傷の、完璧な状態にある私を、まずもって「標準的な私」と措定し、今ある私がそうではないこと(体調が不良であったり、臓器が不全であったり、気分が暗鬱であったりすること)を「敵による否定的な干渉の結果」として説明したことにある。

本当にその通りで、「無傷の、完璧な状態にある私」なんてものは、実際にはあり得ないのだ。これは大学時代のアーチェリー部の監督に言われた言葉とも共通する。

それは「100%な状態でなくて当り前」というもの。試合の当日に、電車が遅れたり、お腹が痛くなったり、あるいは、横風が気になったり、リリースが引っ掛かる感じがあったり、照準器がうまく合わなかったり……、様々なことが起きるわけだが、それで「当り前」だと考えなさいということである。そして、それらを自分に対する言い訳にしないようにということであった。

今から思えば、この言葉はその後もずっと、いろいろな場面で私を支えてくれている。

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2014年09月04日

内田樹著 『修業論』


先月、「塔」の全国大会にお越しいただいた内田樹さんの本を読む。
武道、それも合気道の修業について論じている本なのだが、もちろん武道のことにとどまらない広がりを持った内容となっている。

全体が4部構成となっていて、初出はそれぞれ、合気道のの専門誌「合気道探究」、仏教系の雑誌「サンカジャパン」、キリスト教系の「福音と世界」、司馬遼太郎記念シンポジウムの草稿とばらばらなのだが、語っている内容は一つのことと言ってよく、新書としてのまとまりは良い。

内田さんの本は、内容ももちろんなのだが、その論理展開の鮮やかさに惹かれる。ふだん漠然と思っていることや考えていることが鮮やかに引っくり返される快感とでも言おうか。

修業する人は「自分が何をしているのか」を「しおえた後」になってしか言葉にできない。
「そつ(口+卒)啄の機」においては、実は「母鳥が殻を外からつつき、雛鳥は内からつつき」という言い方自体が不正確だったということになる。母鳥も雛鳥も、卵が割れたことによって、その瞬間に母としてまた子として形成されたものだからである。卵が割れる以前には母鳥も雛鳥も存在しないのである。

こんな文章がたくさんあって、何度もハッとさせられる。時おり詭弁すれすれのような感じも抱くのだが、その語り口はやはり見事と言う他にない。

2013年7月20日、光文社新書、760円。

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2014年09月03日

44歳

今日は44歳の誕生日。
ごくごく普通に過ごす。

夕食後に息子から、「じゃがビ― ゆずこしょう味」と「ア・ラ・ポテト じゃがバター味」をプレゼントされた。


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2014年09月02日

中島京子著 『イトウの恋』


開国間もない明治の日本を旅するイギリス人女性「I・B」と通訳の青年「イトウ」。屋根裏で発見されたイトウの手記を手掛かりに、現代の社会科教師と郷土部の生徒、劇画原作者の女性が、二人のことを調べていくというストーリー。

モデルとなっているのは、『日本奥地紀行』を記したイザベラ・バードと通訳の伊藤鶴吉。『日本奥地紀行』に描かれた二人の旅を伊藤の目から捉え直すという手法が、何とも鮮やかである。「明治の毒婦」と言われた高橋お伝も「D」という名前で登場する。

2008年3月14日第1刷、2011年4月1日第4刷、講談社文庫、648円。

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