京都では、6月30日に「水無月」という和菓子を食べる習慣がある。
小豆の載った外郎(ういろう)のようなもので、三角に切ってあり、今日は地下鉄の駅などでも販売されていた。
写真は、通常の白いものと、抹茶味、黒糖味の3種類。
水無月に水無月食べるならわしの京都にありていつよりのこと
『午前3時を過ぎて』
「努力しても報われない」という言葉をいったん口にすると、その言葉は自分自身に対する呪いとして活動し始める。
イデオローグたちが、同じ名を掲げた政治党派の犯した失敗について責任を取ることを拒否するとき、その名を掲げた政治思想は死滅する。
人間が持つ能力は、能力それ自体によってではなく、ましてやその能力が所有者にもたらした利益によってではなく、その天賦の贈り物に対してどのような返礼をなしたかによって査定される。
極言すれば、近藤の文学作品に、高安からの文学的影響は皆無なのです。高安には残酷ですが、こと文学面においては、高安が近藤を思っているほどには、近藤は高安を思っていない、という感じがします。
誠実の声―それは当時の文学全体にみなぎる基本的な要素であったろう。私の歌も、歌の巧拙よりも重大な、なくてならぬものとして誠実を追求していた。
(高度成長経済の時代に入るとともに)何がまちがっていて何が望ましいことかを、ただ誠実だけでもって弁別しうたい上げることがむつかしくなる。
短歌も一面的な真実を誠実の声でもってうたっているわけにはいかなくなった。今私たちが感じ取るものは、そう簡単に一義的に解することができず、それを表現するには言葉のいろんな機能を十全に活用しなければならないのである。
単なる国語辞書の「用例」だと思い込んでいたものが、突如、編纂者の人生に深く関わる“意味”を持ったことばへと一変した瞬間だった。
第一日(五月六日)
神戸→船中 高安国世
船客待合室の前は、午後の波の照り返しと、積荷を下す綿ぼこりが、いらいら躍つて、船出の前の一ときを落付かぬ顔の人々が、一見ぼんやりとそここゝに位置してゐる。
黒々と寄り合つてゐる二十人許りは、之ぞまもなく展開さるべき全八幕の立役者共に他ならぬ。三時には殆ど顔ぶれが揃つた。高間主任の代理をつとめ、我々の若き指導演出家となられる西田教授の姿は夙くに見られた。皆これから何がはじまらうとしてゐるのか一寸もゲせない面持で茫然と顔を並べてゐる。手ぶらの呑気なのも居れば、吾輩のやうに九州は寒かろと、まるで北国へ行くやうな代物を仕込んでゐる奴もなくもない。
(以下略)
釈 神社ってコンピュータのハードみたいなものです。それ自身はニュートラルな状態で、そこにソフトが入り込むことによって動く。
釈 天皇家というのは、境界線上の人間に常に目線を配る存在なんですね。
内田 この世界の無数のものの中には「どんな選択肢をとっても存在しているはずのもの」と「あのとき別の道をたどっていたら存在していないはずのもの」があることになる。
内田 こっち(大谷墓地)側から来ると清水寺はぜんぜん観光寺院に見えませんね。
斎藤茂吉記念館。
「極楽」を妻に見せむと来たりけり「極楽」を見て妻はよろこぶ /高島裕
雨晴れて夕日は差せり、硝子戸の向かうの庭に虫は耀(かがよ)ふ
まんまんと夕かがやきの最上川行くをし見つつ立ち去り難き
火炎のような言葉
焼き魚、焼かれながらに火を吐くとちいさき魚の胸あふれたり /内山晶太
パイレートという煙草を買って、その中の美人の絵だけを
とって中身をこの堀の水に棄てた
体操服棄てられてある用水路におとろえて冬の日のみずの色
ありがたいことだと言へりふるさとの浜に遺体のあがりしことを
夜の浜を漂ふひとらかやかやと死にたることを知らざるままに
余震(なゐ)の夜を愛されてをりまざまざと眼裏に顕つ瓦礫のなかを
湯の内を浮き上がり来るまろき玉どの瞬間にひとは逝きしか
その土地でなければならぬ人たちの苦しみ銀杏の葉はどつと落つ
わたしたちどの辺りまで来たらうかつめたくこごる手を求めあふ
原発に子らを就職させ来たる教員達のペンだこを思(も)ふ
地震(なゐ)ののち海辺の家へと急ぐひとの一筆書きのいのちなりけり
みなどこか失ひながらゆふぐれに並びてゐたり唐桑郵便局
喪のけふも祭りのけふも数行に約めて母の三年日記
みづうみの深さを知らずわたしたちふたりでふたつのかほを映して
はぐれてもどこかで会へる 人混みに結び合ふ指いつかゆるめて
傾ぎつつ油を提げてゆくときの左手宙(そら)をあわあわとせり
傘持たずバス停へゆく雨粒と雨粒の間(あひ)を跳び移りつつ
潮鳴りのやまざる町に育ちたり梵字の墓の建ち並びゐて
船に積む菜(さい)を調ふこれよりの土の息吹のなき数ヶ月
朝の陽にあつけらかんと見せてをりうなじのやうな波打ち際を
日の光、月の光と順に浴び亀はひと日を動かずにいた/服部真里子
シダの葉の進化を語る店員の唇のはし乾いていたり
皮脱ぐとまた皮のある哀しみの関東平野なかほどの夏/石川美南
てらてらと光りてやまずわたしより先に脱皮をした友だちが
ハプニングは、学生を驚かす。こちらにとってもハプニングであれば、なおさら学生にとって意外性が大きいはずだ。その“驚き”や“意外性”が、学ぶものの脳を、学習の姿勢に移らせるのである。
“人間が、火事や事故の現場に対して示す強い関心”、これは、一種のモビングではないだろうか。
私は半生を通じて歌会をたのしんできた。たのしみといってもただの娯楽でも休養でもなく、心の通い合う人々との真剣勝負の場としてである。忌憚ない批評をし合って、そのあとなごやかに話し合うという人生で稀な幸福を、私は先生を中心とする歌会で学び、今では私を中心とするささやかな歌会で味わっている。
病む父を鞄につめて旅立ちぬもみぢうつくしからん津軽へ
竪穴式住居に入ればわがものとおもはれぬ低きこゑは出でたり
ひとつ石に泉のごとく陽は満ちて石のいづみに蝶はあつまる
スマートフォンをすべる娘の指に似て反りほのかなる茗荷を洗ふ
雨たまるほどに腹部のへこみつつ横倒れに餓死したる乳牛
ああ犬は賢くあらず放射線防護服着る人に尾をふる
彼岸花の小径をゆけば先に行く人より順に彼岸花になる
母であるわたしはいつも罅(ひび)入りの甕いつぱいに水を汲む人
はなみづきのはなさくころの浮遊感はなみづきはそらばかりみてさく
水道管工事の人の弁当の卵かがやく五月となりぬ