プロデューサー・監督・撮影:森田惠子
構成・編集:四宮鉄男
音楽:遠藤春雄
語り:中村啓子
人口14000人あまりの町、北海道浦河町にある映画館「大黒座」。
創業から93年、4世代にわたって受け継がれてきた映画館の今を追ったドキュメンタリー。
町に映画館があるというのがいかに素敵なことか、あらためて感じさせられた。
映画館が人と人との間につながりをもたらし、町に暮らす人たちに多くの潤いをもたらすのだ。
大黒座ホームページ → http://www.daikokuza.com/
旧・立誠小学校特設シアター、105分。
2014年02月28日
2014年02月27日
岡井隆著 『木下杢太郎を読む日』
詩人、劇作家であり、医師であった木下杢太郎の作品(詩、戯曲、翻訳)を読み解きながら、青年期のホフマンスタールからの影響や森鴎外との関わりなどについて考察する内容。
「未来」2011年6月号から2013年7月号にかけて連載された文章をまとめたもので、『「赤光」の生誕』(2005年)、『鴎外・茂吉・杢太郎「テエベス百門」の夕映え』(2008年)、『森鴎外の「うた日記」』(2012年)といった一連の本の続きに位置している。
何かの結論に向かって一直線に書いていくタイプの評論ではなく、考えながら書き、書きながら考えるというスタイルで、何度も行きつ戻りつを繰り返し、少しずつ丁寧に読み進めていく。前3冊に比べても、この傾向はさらに強まっているように感じる。
こうした蛇行(?)や注記の多い文章は苦手な人もあるかもしれない。ただ、この味わいに慣れてくると、ちょっと病み付きになるのも事実で、杢太郎に特に興味を持っていたわけではないのに、興味深く、そして楽しく読むことができた。
「未来」での連載は86歳になった今も続いており、そのエネルギーにあらためて驚かされる。
2014年1月5日発行、幻戯書房、3300円。
2014年02月26日
ムッソリーニと色紙(その2)
『寒雲』の歌には「ムソリニ首相に与へし」という詞書が付いている。「与へし」は何やら偉そうな気もするが、実際のところはイタリアへ行く石本巳四雄に託したわけである。
では、この色紙はその後どうなったかと言うと、これには後日譚がある。
前回引いた「ムツソリニ首相」という文章には、昭和19年8月に書かれたと推定される追記があるのだ。
というわけで、色紙は結局ムッソリーニの手には渡らず、茂吉はそれに対して少々憤慨しているのであった。もっとも、この追記が書かれた前年に、ムッソリーニはクーデタにより失脚して北イタリアに逃れており、昭和20年4月には処刑されている。
色紙のことであるが、石本巳四雄はイタリアでムッソリーニに会う機会がなかったのだろうか。それで茂吉から託された色紙を渡すことができなかったのか。
実はそうではない。美佐保の本には、昭和13年5月3日から9日にかけてヒトラーがローマを訪問した話があり、その後、
と書かれているのである。
ここからはただの推測であるが、石本巳四雄にとって、義母の短歌の師から託された色紙は、もともと気の重い預かり物だったのではないだろうか。「外交官某氏」に渡して済ませた気持ちが、とてもよくわかる。
では、この色紙はその後どうなったかと言うと、これには後日譚がある。
前回引いた「ムツソリニ首相」という文章には、昭和19年8月に書かれたと推定される追記があるのだ。
○後記。あれほど高安夫人が私をせきたてて作らせたこの一首と、いそがしい時に慌ただしく書いた金の色紙とは、つひに石本博士の手からムツソリニ氏に手渡されなかつたのみならず、外交官某氏の手に渡したまま、石本博士は帰朝してしまつた。さうしてゐるうち、石本博士も死んでしまつた。自分はこれまでも色紙短冊のたぐひに歌かくことを好まぬが、かういふことがあると、いよいよ以ていやになつてしまふ。
というわけで、色紙は結局ムッソリーニの手には渡らず、茂吉はそれに対して少々憤慨しているのであった。もっとも、この追記が書かれた前年に、ムッソリーニはクーデタにより失脚して北イタリアに逃れており、昭和20年4月には処刑されている。
色紙のことであるが、石本巳四雄はイタリアでムッソリーニに会う機会がなかったのだろうか。それで茂吉から託された色紙を渡すことができなかったのか。
実はそうではない。美佐保の本には、昭和13年5月3日から9日にかけてヒトラーがローマを訪問した話があり、その後、
十日にパパはムッソリーニと会見、ようやく訪伊の最後の目的を果たす。
と書かれているのである。
ここからはただの推測であるが、石本巳四雄にとって、義母の短歌の師から託された色紙は、もともと気の重い預かり物だったのではないだろうか。「外交官某氏」に渡して済ませた気持ちが、とてもよくわかる。
2014年02月25日
ムッソリーニと色紙(その1)
『斎藤茂吉全集』をぱらぱら読んでいると、興味深い話がたくさん出てくる。第六巻(随筆二)には「ムツソリニ首相」という文章がある。
ここに登場する「石本博士」は地震学者で東京帝国大学教授であった石本巳四雄であり、その夫人は石本美佐保(高安国世の次姉)である。
美佐保の『メモワール・近くて遠い八〇年』によれば、石本夫妻は昭和13年1月7日に船で日本を出発して、2月7日にナポリに到着している。イタリアでは大学で講義を行ったほか、さまざまな文化交流に参加。その後、ヨーロッパ各地をめぐったのち、ニューヨークへ渡ってアメリカ旅行をして、7月7日に帰国している。
斎藤茂吉『寒空』(昭和15年)には
という歌が載っている。先の文章に引かれていたのと同じ歌だ。
この「君」はムッソリーニを指している。当時イタリアで絶大な権力を誇ったムッソリーニを讃える内容と言っていいだろう。
ただし、私が興味を引かれたのは、もう少し別の点についてである。
石本博士夫人は高安やす子夫人の令嬢であるから、博士が伊太利に行かれるにつき一首作りてはどうかと申越したから次の一首を作つた。そして色紙にかいて贈つた。(昭和十二年十二月)
七いろのあやどよもして雲にのる天馬(てんま)したがふ君をあふがむ
ここに登場する「石本博士」は地震学者で東京帝国大学教授であった石本巳四雄であり、その夫人は石本美佐保(高安国世の次姉)である。
美佐保の『メモワール・近くて遠い八〇年』によれば、石本夫妻は昭和13年1月7日に船で日本を出発して、2月7日にナポリに到着している。イタリアでは大学で講義を行ったほか、さまざまな文化交流に参加。その後、ヨーロッパ各地をめぐったのち、ニューヨークへ渡ってアメリカ旅行をして、7月7日に帰国している。
斎藤茂吉『寒空』(昭和15年)には
ムソリニ首相に与へし
七(なな)いろの綾とよもして雲に乗る天馬(てんま)従ふ君を仰(あふ)がむ
という歌が載っている。先の文章に引かれていたのと同じ歌だ。
この「君」はムッソリーニを指している。当時イタリアで絶大な権力を誇ったムッソリーニを讃える内容と言っていいだろう。
ただし、私が興味を引かれたのは、もう少し別の点についてである。
2014年02月22日
「現代短歌」2014年3月号
小高賢さんの作品「よきものの」13首が載っている。
亡くなったことを知っているためか、「不審死という最期あり引き出しを改めらるる焉りはかなし」など、死を詠んだ歌が多いのが印象に残る。
この一首は
を踏まえている。昭和29年の歌で、当時空穂は77歳。
69歳で亡くなった小高さんには、ついに「七十歳代」は来なかったことを思うと、何とも悲しい。
亡くなったことを知っているためか、「不審死という最期あり引き出しを改めらるる焉りはかなし」など、死を詠んだ歌が多いのが印象に残る。
よきものの七十歳(ななじゅう)代という歌をにわかに信ぜず信じたくもあり
この一首は
よきものぞ七十代はといひし師のこころ諾(うべ)なふ今にいたりて
窪田空穂『丘陵地』
を踏まえている。昭和29年の歌で、当時空穂は77歳。
69歳で亡くなった小高さんには、ついに「七十歳代」は来なかったことを思うと、何とも悲しい。
2014年02月20日
「歌壇」2014年3月号
黒瀬珂瀾の特別評論「精神科医 斎藤茂吉の歌語」がおもしろい。
茂吉の『赤光』に使われている「狂・癲」といった言葉(狂者、狂人、狂院、瘋癲院、瘋癲学など)について、多くの資料に当りながら詳細に考察している。この「やさしい鮫日記」にも言及していただいた。
黒瀬はまず、茂吉の精神病学における師であった呉秀三が、精神病のイメージの改善に取り組み、「狂・癲」といった言葉を除こうと努力したことや、茂吉も精神病医として当然そうした状況を知っていたことを明らかにする。それにも関わらず茂吉は歌の中でそれらの言葉を用いた。その理由について黒瀬は
と指摘する。このあたり、茂吉の作歌意識に触れてくる部分で、非常に興味深い。さらに掘り下げていくと、いろいろと新しいことが見えてくる気がする。
茂吉の『赤光』に使われている「狂・癲」といった言葉(狂者、狂人、狂院、瘋癲院、瘋癲学など)について、多くの資料に当りながら詳細に考察している。この「やさしい鮫日記」にも言及していただいた。
黒瀬はまず、茂吉の精神病学における師であった呉秀三が、精神病のイメージの改善に取り組み、「狂・癲」といった言葉を除こうと努力したことや、茂吉も精神病医として当然そうした状況を知っていたことを明らかにする。それにも関わらず茂吉は歌の中でそれらの言葉を用いた。その理由について黒瀬は
これを≪茂吉の性格、個性≫と片づけるのは容易い。だが、一つ推測しておきたいのは、茂吉は一般社会での表現と、歌の表現は別個のものという意識がどこかにあったのではないか、という点である。そうだとすると、やはり茂吉には「狂・癲」の語を意識して用いたという側面はあるかもしれない。
と指摘する。このあたり、茂吉の作歌意識に触れてくる部分で、非常に興味深い。さらに掘り下げていくと、いろいろと新しいことが見えてくる気がする。
2014年02月19日
外塚喬歌集 『喬木』
直定規・雲型定規をつかひ分け仕上げてゆかむ計測図面
母が食べよと持たせてくれし一房の葡萄(ぶだう)が夜勤の卓に光れり
爪の型の貝をひろひて来しわれら夜は潮(うしほ)にぬれつつ眠る
コーヒーの香りのなかにめざめゐてやさしきこゑに呼ばるるを待つ
生きもののごとく油槽に流れこむ五千リッターの重油まばゆし
送風をとめたるあとの鉄管にかすかに風のこもりゐる音
病(やまひ)重くならばすぐにも帰り来むと父に告げわれは東京へ発つ
まぎれこみやすければいつも作業台につきさしておく千枚通
火の気なき部屋に蔵ひおく危険物第四類第一石油類ガソリン二罐
コーヒーが飲みたくなりて一人分の湯をわかしをり宿直室に
第1歌集文庫。
元の本は、1981年に短歌新聞社から刊行されている。
仕事のうた、それも現場の作業を詠んだ歌が中心となっている。「モーター」「蒸気圧」「送受器(ブレスト)」「ボイラー」「ケント紙」「スパナ」「ヒューズ盤(パネル)」「ハンダ鏝」「冷却塔」「バーナー」「ボルト」「変圧器」など、仕事に関わる言葉が数多く出てくる。
今回引いた歌も、1、(2)、5、6、8、9、10首目は仕事の歌である。それだけ印象に残る作品が多いのだ。
そう言えば、最近の歌集には、こうした仕事の歌が全般に減ってきている気がする。
2013年8月23日、現代短歌社、700円。
2014年02月18日
山口果林著 『安部公房とわたし』
1993年に安部公房が亡くなってから既に20年が経つが、近年、安部公房に関する本の出版が相次いでいる。安部ねり『安部公房伝』(新潮社、2011年)、苅部直『安部公房の都市』(講談社、2012年)、木村陽子『安部公房とはだれか』(笠間書院、2013年)など。
本書もそうした本の一冊と言っていいだろう。一種の暴露本のような宣伝をされているが、内容はいたって真面目で、安部公房の生身の姿がよく見えてくる内容となっている。小説の取材旅行に関する話なども興味深い。
一九八一年から一九八二年にかけて、採石場や鍾乳洞を巡るドライブ旅行にたびたび出かける。小説のイメージを膨らませるためである。日原鍾乳洞をはじめ、富士山周辺の採石場だったり、ある時は、浜名湖周辺の鍾乳洞から天竜川へのドライブだった。(…)採石場全体の地図がないことを、安部公房は特に面白がっていた。
安部公房は、私が中学・高校時代に初めて好きになった作家で、個人的に強い思い入れを持っている。最初は『砂の女』あたりから読み始めて、文庫で出ていたものはすべて読み、さらに全15巻の『安部公房作品集』を買って全部読んだ。映画の「砂の女」や「他人の顔」なども見に行った。
通信添削のZ会に入った時、ペンネームを「ユープケッチャ」としたのだが、これも公房作品に出てくる昆虫の名前から採ったものである。そんな懐かしい思い出がいっぱいある。
2013年8月1日、講談社、1500円。
2014年02月17日
三枝浩樹歌集 『朝の歌(マチナータ)』
第1歌集文庫。原本は1975年に反措定出版局より刊行されたもの。
なににとおくへだてられつつある午後か陽だまりに据えられしトルソー
あかるすぎる街光に眼をしばたたく老年のごとし冬の訣れは
底へ底へとふりしずみゆく怒りとはあわれ標本箱のひぐらし
ゆきてかえらぬものへ劇しく向かいゆく暗きカヌーを漕ぐ、なにゆえに
限りなくわれを離れてゆくものにあかつきさむく立ちむかいおり
論理より離(さか)りて水を貫ける直(すぐ)なる思い生(あ)れやまずけり
橋上に炎えいし冬の火焔瓶そののちのわが日々を暗くす
劇中劇のごとき愛かな来し方のかげりを曳きて男去りたり
砂浜は海よりはやく昏れゆけり 伝えむとして口ごもる愛
田園はいちごの季節 きらきらと君の眼と僕の眼と出会う時
1964年から73年までの作品を収めた第1歌集。
思索詠、心象詠が歌集の中心をなしている。
1首目や3首目の下句の句割れ・句跨りのリズムなどに、前衛短歌の影響が濃厚に感じられる。その後、徐々に作者独自の世界が切り拓かれていったようだ。
7首目の「火焔瓶」には、70年安保に向けた学生運動の高揚と、その後の挫折が鮮やかに描かれている。
9首目は初期歌篇の中の一首。上句の景の描写が下句の心情を支えており、今読んでも少しも古びていない。
2013年6月27日、現代短歌社、700円。
2014年02月15日
古今伝授の里短歌大会
NHK学園と郡上市が主催する「古今伝授の里短歌大会」に選者の一人として参加します。現在、詠草を募集中ですので、どうぞご応募ください。
日時 4月24日(木) 午後1時から4時
会場 郡上市総合文化センター
選者 伊藤一彦・梅内美華子・小塩卓哉・松村正直
講演 加賀美幸子「心を動かす言葉」
大会作品募集 2月20日(木)締切 自由題のほかに題詠「伝」
お問い合わせ 〒186−8001
東京都国立市富士見台2−36−2
NHK学園 古今伝授の里短歌大会事務局
TEL 042−572−3151(代)
詳しくは http://www.n-gaku.jp/life/competition/etc/docs/2014gujyou_tanka.pdf
日時 4月24日(木) 午後1時から4時
会場 郡上市総合文化センター
選者 伊藤一彦・梅内美華子・小塩卓哉・松村正直
講演 加賀美幸子「心を動かす言葉」
大会作品募集 2月20日(木)締切 自由題のほかに題詠「伝」
お問い合わせ 〒186−8001
東京都国立市富士見台2−36−2
NHK学園 古今伝授の里短歌大会事務局
TEL 042−572−3151(代)
詳しくは http://www.n-gaku.jp/life/competition/etc/docs/2014gujyou_tanka.pdf
2014年02月13日
橋村健一著 『桜島大噴火』
鹿児島市の春苑堂書店が刊行している「かごしま文庫」シリーズの一冊。
著者は鹿児島で長年にわたって教育にたずさわってきた方である。
桜島は文明、安永、大正、昭和とたびたび大噴火を起こしてきたことで知られている。中でも大正3年1月12日の噴火は大きなもので、この時の噴火により、それまで島だった桜島は陸続きになったのであった。
今年はその大正大噴火から100年目ということになる。
島から15キロほど離れた尋常高等小学校の6年生だった子の作文が載っている。
私は眠つたやうな噴火はいつも見てゐましたが、桜島のやうな恐ろしい噴火は生れて初めて見ました。上の原にかけ昇つて見れば、むくむくと高く上る煙は丁度猫の子が何十万匹とかたまつたやうでして、其の晩せつかく御飯をたべやうとしましたら、音もはげしくわりわりわりと大地しんが家をひねるやうにきました。
「猫の子が何十万匹とかたまつたやう」という比喩が何とも生々しい。
噴火の写真を見るとまさにその通りなのだが、なかなかこういう表現は思い付かない気がする。
1994年1月29日、春苑堂書店、1500円。
2014年02月12日
『歌う国民』のつづき(その3)
この本には、山田耕筰が1933年にソビエトを訪れた話が載っている。
とあって、「創作者は民衆であり、作曲家は編曲者に過ぎない」という作曲家グリンカ(1804−1857)の言葉が引かれている。
また、戦後の「うたごえ運動」の代表的な指導者であった井上頼豊について、次のように書かれている。
これらに出てくる「グリンカ」は、実は高安国世の歌にも詠まれている。
こうした流れの中で読んでみると、この歌の「民衆を愛し民衆の中より」の持つニュアンスもわかってくる。やはり、戦後という時代を濃厚にまとった一首なのだ。
山田が訪れた当時のソビエトは、まさにロシア民謡という基礎の上に新たな「国民音楽」が作り上げられている理想的なモデルのように山田には思えたのです。
とあって、「創作者は民衆であり、作曲家は編曲者に過ぎない」という作曲家グリンカ(1804−1857)の言葉が引かれている。
また、戦後の「うたごえ運動」の代表的な指導者であった井上頼豊について、次のように書かれている。
要するに国民音楽の重要なポイントは、日本の民衆が培ってきた音楽を土台にしてそれを高い芸術性をもったものに作り上げ、それを大衆に還元することだというのです。井上は、(…)このような「国民音楽」の最もお手本となる例としてグリンカに始まるロシア音楽の系譜に言及するのです。
これらに出てくる「グリンカ」は、実は高安国世の歌にも詠まれている。
グリンカ
ありありと高貴にして孤独なるもの民衆を愛し民衆の中より歌ふ
高安国世『真実』
こうした流れの中で読んでみると、この歌の「民衆を愛し民衆の中より」の持つニュアンスもわかってくる。やはり、戦後という時代を濃厚にまとった一首なのだ。
2014年02月11日
小高賢さん
小高賢さんが亡くなった。
突然の訃報に驚いている。
角川「短歌」2月号に書いた時評でも、小高さんの「批評の不在」という評論を取り上げたばかりであった。
東京で行われる短歌の授賞式などに行くと、知り合いの少ない私は会場でぽつんと一人になってしまうことが多いのだが、そんな時に声を掛けてくれるのは小高さんだった。その気さくな人柄と笑顔に接すると、いつも安心したものだ。
この「やさしい鮫日記」を見てくれることもあったようで、一度「松村君の読んでるのは、文庫や新書ばかりだね。たまには堅い本も読みなさいよ」と言われたことがある。小高さんは編集者であり、本を愛する人だったから、その言わんとするところはよくわかった。
ご冥福をお祈りします。
突然の訃報に驚いている。
角川「短歌」2月号に書いた時評でも、小高さんの「批評の不在」という評論を取り上げたばかりであった。
東京で行われる短歌の授賞式などに行くと、知り合いの少ない私は会場でぽつんと一人になってしまうことが多いのだが、そんな時に声を掛けてくれるのは小高さんだった。その気さくな人柄と笑顔に接すると、いつも安心したものだ。
この「やさしい鮫日記」を見てくれることもあったようで、一度「松村君の読んでるのは、文庫や新書ばかりだね。たまには堅い本も読みなさいよ」と言われたことがある。小高さんは編集者であり、本を愛する人だったから、その言わんとするところはよくわかった。
ご冥福をお祈りします。
2014年02月09日
『歌う国民』のつづき(その2)
この本には大正期の「童謡運動」を推進した人物として、北原白秋や山田耕筰とともに、作曲家の弘田龍太郎の名前が出てくる。
この弘田龍太郎(1892―1952)は、高安国世と親戚関係にある。
高安国世の伯父高安月郊の長女百合子の夫が、弘田龍太郎なのである。つまり国世のいとこの夫という関係だ。
国世の姉である石本美佐保は、東京音楽学校(現、東京芸術大学)出身である、弘田龍太郎との関わりも深い。自伝の中で次のように記している。
高安家と音楽との関わりは深い。
高安国世も音楽に関する歌をいくつも詠んでいるが、そこにはこうした環境も影響しているのだろう。
この弘田龍太郎(1892―1952)は、高安国世と親戚関係にある。
高安国世の伯父高安月郊の長女百合子の夫が、弘田龍太郎なのである。つまり国世のいとこの夫という関係だ。
国世の姉である石本美佐保は、東京音楽学校(現、東京芸術大学)出身である、弘田龍太郎との関わりも深い。自伝の中で次のように記している。
入試までの一年、夏休み、冬休みには東京に行って、従姉の百合姉さんとその主人の弘田龍太郎さんについて勉強することに決まった。
初めて会った龍太郎氏の風格にまずドギモを抜かされた。ぼう然とした気持で、ママさんと話をする龍太郎氏を眺めていた。身なりかまわず、不器量といった容貌だが、体中からみなぎるような活気が感じられ、その小さい眼はどこか遠くを見つめてかがやき、ママさんの世間話などは無礼にならぬ程度に受け答えして、何か天の声でも聞いているように思われた。
高安家と音楽との関わりは深い。
高安国世も音楽に関する歌をいくつも詠んでいるが、そこにはこうした環境も影響しているのだろう。
ベートーヴェン
苦しみを知りたる人の楽の音と斯くいさぎよき響聴くかな
かの楽あり楽に相寄る人らありひたぶるの心我にかへらむ
『年輪』
2014年02月06日
『歌う国民』のつづき(その1)
『歌う国民』を読んで気づいたことなど、いくつかメモとして。
まずは坪内逍遥が、西洋のオペラに対して日本の歌舞伎をベースに新たな歌劇文化を作っていくことを提唱した話。
これなどは、西洋からの詩の流入に対して、正岡子規が和歌の革新を目指した問題意識と共通するものだろう。
おそらく、このように西洋文化の流入に対して伝統文化を改良・革新するという試みが、当時は様々なジャンルにおいて試みられたのだろう。和歌から短歌への流れを考える際にも、時系列的な縦軸だけではなく、こうした同時代の横軸も踏まえて考える必要があるわけだ。
まずは坪内逍遥が、西洋のオペラに対して日本の歌舞伎をベースに新たな歌劇文化を作っていくことを提唱した話。
逍遥の場合に重要なのは、このような方向を見据えつつ、最終的に歌舞伎の「改良」という選択肢を選んだということです。逍遥は、歌舞伎はそのままでは、西洋のオペラに対抗するものとして国際的には通用しないと考えていました。(…)そのために「改良」が必要であることを主張したのです。
これなどは、西洋からの詩の流入に対して、正岡子規が和歌の革新を目指した問題意識と共通するものだろう。
従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁と為さんとするは、弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。(…)されば僅少の金額にて購ひ得べき外国の文学思想抔は、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随つて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候。 「六たび歌よみに与えふる書」
おそらく、このように西洋文化の流入に対して伝統文化を改良・革新するという試みが、当時は様々なジャンルにおいて試みられたのだろう。和歌から短歌への流れを考える際にも、時系列的な縦軸だけではなく、こうした同時代の横軸も踏まえて考える必要があるわけだ。
2014年02月05日
URLの変更
「やさしい鮫日記」をこちら(SeesaaBLOG)に移転しました。
新しいURLは http://matsutanka.seesaa.net/ です。
「お気に入り」などに入れている方は、登録の変更をお願いします。
今後ともよろしくお願いします。
新しいURLは http://matsutanka.seesaa.net/ です。
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2014年02月04日
渡辺裕著 『歌う国民』
副題は「唱歌、校歌、うたごえ」。
明治以降に作られた唱歌、校歌、県歌、労働者の歌やうたごえ運動を「コミュニティ・ソング」として捉え、そこに一貫して流れる「国民づくり」を目的とした歌のあり方について論じた本。
〈夏期衛生唱歌〉〈郵便貯金唱歌〉〈秋田県民歌〉など具体的な例が豊富に示され、説得力のある内容となっている。
この本が面白いのは、単に歌の話にとどまらないことだろう。近代化の過程で様々な変容をとげてきた私たちの文化全般について、どのように見たり考えたりしたら良いのかを示す「文化論」としての側面も強く持っているのだ。
われわれは過去に目を向ける際に、知らず知らずのうちに、自分たちの価値観やものの考え方を当然のこととして前提とし、それを投影した見方をしてしまうために、同時代の人々のまなざしとは食い違ってしまいがちです。
文化というものは、継承と断絶とのはざまの、つながっているようないないような、微妙な空間をさまよいながら形作られてゆくものです。
ものを見るときの「枠組み」や「図式」を見直すことによって、一見、正反対の出来事と思われていた二つのことが、実は同じ基盤の上にあることがわかったり、前の時代と断絶しているように見えていたことが、実は微妙につながっていることがわかったりするのだ。
その論証の切り口は鮮やかで、まるで手品を見ているようである。
おススメの一冊です。
2010年9月25日、中公新書、840円。
2014年02月03日
三上延著 『ビブリア古書堂の事件手帖5』
2014年02月02日
堀合昇平歌集 『提案前夜』
新鋭短歌シリーズ3。
「未来」所属の作者の第1歌集。2008年から13年初頭までの317首を収めている。
ちぃーすざぁーすうぃーすあざぁーすと原型の分からぬ朝の挨拶をする
みな前を向くから僕も前を向くデスクトップの遠い草原
新月の夜の更けゆけば停止線わずかに越えて停まるプリウス
アイライン整えられてゆくまでを見おろす肘と肘のあいだに
のどあめでのどをうるおすさびしさに読みかけて閉じる回想録(メモワール)
剃刀の刃を差し替える危うさで名刺を渡すもうあわないひとに
離れては近づいてくる笑いごえ風の向こうへブランコを押す
学校はもうこりごりと耳元で妻がつぶやく拍手をしつつ
いっかいてーんにかいてーんさんかいてーんといいながら半回転をつづけるむすめ
折り畳み傘たたみつつ誰ひとり歩みを止めぬ駅コンコース
コンピューターメーカーの営業職という仕事を詠んだ歌が中心となっている。
7、8、9首目は小学生の娘に関する歌。「シオリ1」「シオリ2」「シオリ3」という連作のタイトルは、娘さんの名前「詩織」に因んでいるのだろう。
2013年5月25日、書肆侃侃房、1700円。
2014年02月01日
「歌壇」2月号、「短歌往来」2月号
「歌壇」に連載中の篠弘「戦争と歌人」は、2月号で折口春洋を取り上げている。
昭和6年の入隊から始まり、昭和16年の召集、さらに18年の再召集から19年の硫黄島行きという流れを踏まえつつ、それぞれの時期の歌を引いている。
中でも硫黄島で読まれた歌は、印象深い。
映画「硫黄島からの手紙」の風景などを思い出す。
「短歌往来」2月号には、西勝洋一の評論「齋藤瀏、史の旭川時代」が掲載されている。
旭川に住む西勝が齋藤親子の旭川での足跡と、地元歌人たちとの交流について記したもの。
内容的には、昨年刊行された石山宗晏・西勝洋一著『道北を巡った歌人たち』と重なる部分が多いのだが、こうした〈郷土短歌史〉は今後大事になってくるように思う。
例えば、今回の評論に出てくる酒井廣治は、一般的な短歌史ではあまり取り上げられない歌人であるが、旭川歌壇においてはかなり重要な役割を果たしている。
昭和6年の入隊から始まり、昭和16年の召集、さらに18年の再召集から19年の硫黄島行きという流れを踏まえつつ、それぞれの時期の歌を引いている。
中でも硫黄島で読まれた歌は、印象深い。
ぬかづけば さびしかりけり。たこのかげ、筵の下に 亡骸を据う
明礬の洞窟に臥して十日をすぎわが体臭をいとふなりけり
壕を出でゝむかふ空深しわが空中爆雷の煙雲しづけし
師走八日昼なほあつき島の上黍の葉枯れに蝗いで居り
映画「硫黄島からの手紙」の風景などを思い出す。
「短歌往来」2月号には、西勝洋一の評論「齋藤瀏、史の旭川時代」が掲載されている。
旭川に住む西勝が齋藤親子の旭川での足跡と、地元歌人たちとの交流について記したもの。
内容的には、昨年刊行された石山宗晏・西勝洋一著『道北を巡った歌人たち』と重なる部分が多いのだが、こうした〈郷土短歌史〉は今後大事になってくるように思う。
例えば、今回の評論に出てくる酒井廣治は、一般的な短歌史ではあまり取り上げられない歌人であるが、旭川歌壇においてはかなり重要な役割を果たしている。