そこに長崎の鯨専門店「くらさき」も出店中。
「鯨カツ弁当」(1000円)と「鯨の竜田揚げ&鯨カツのセット」(1500円)を購入。
どちらも、しっかりとした味付けで美味しかった。
少なくともリアルという問題を考えるのであれば、格好の先達、歌の積み重ねがあるので、まずそういったものを踏まえて議論をしていきたいということなんです。
「未来」創刊時、岡井さんや他のメンバーは、まず柴生田稔の『春山』の合評から始めているんですね。だから吉田正俊、柴生田稔あたりの叙情っていうのは、彼らの最初の体験としてかなり大切で、大きな原動力になったのでしょうね。
法隆寺南大門前暑き日を黒き牛のゐて繋がれにけり
稲青き水田見ゆとふささやきが潮(うしほ)となりて後尾(こうび)へ伝ふ
流れつつ藁(わら)も芥(あくた)も永遠に向ふがごとく水(みづ)の面(も)にあり
草むらをひとり去るとき人型に凹(くぼ)める草の起ち返る音
湯口(ゆぐち)より溢れ出でつつ秋の灯に太束(ふとたば)の湯のかがやきておつ
錐(きり)・鋏(はさみ)光れるものは筆差(ふでさし)に静かなるかな雪つもる夜を
海(うな)じほに注(さ)してながるる川水(かはみづ)のしづけさに似て年あらたまる
匍匐するごとく浅瀬に群がりて鯉の背鰭(せびれ)の雨中(うちゆう)に動く
白藤は数限りなき花房を安房清澄(きよずみ)の山に垂りたり
峡(かひ)沿(ぞ)ひの日之影といふ町の名を旅人われは忘れがたくす
岡井 しかし、「二人ゐて」の歌は近藤さんじゃないよ、柴生田稔さんだ。柴生田調を二人とも学んだわけだ。近藤さんはある意味で柴生田さんのエピゴーネンから出発しているもの。だから、いつまでたっても『春山』『春山』って言って、本まで作ったでしょう。柴生田さんの若いころそっくりだ。
(…)若い、二・三十代の歌人の書くものを読んでゐると、いささか心もとないのは、近藤芳美に大きな影響を与へた柴生田稔(一九〇四−九一年)の歌をほとんど知らないで書いてゐるのであつた。
(…)斎藤茂吉の高弟の一人である柴生田が、当時の「アララギ」でどんな位置にあつたのか、名歌集『春山』にまでさかのぼつて検討する位の用意がないと、そもそも、作品を論ずる資格がない(…)
洪水は川が処理すべきものであり、堤防という技術が川を抑え込まねばならないものとされた。水害のたび、堤防をより高く、より強固にすることが要求された。
堤防が頑丈であればあるほど、川は安全だと私たちは考える。が、それも壊れない間だけの話である。堤防が頑丈であればあるほど、ひとたび破れた場合には、こんどは堤防そのものが、逆に凶器となって私たちに襲いかかることになる。
荒川改修は明治四四年から二〇年を費やして行われるが、その直接のきっかけは明治四〇年、四三年の大水害であった。この改修では、すでに両岸に家屋が密集していた隅田川を守るために、新たに放水路が開削された。これが現在の荒川本川である。
一つりのらんぷのあかりおぼらかに水を照らして家の静けさ
「水籠十首」(明治四十年)
闇ながら夜はふけにつつ水の上にたすけ呼ぶこゑ牛叫ぶこゑ
「水害の疲れ」(明治四十三年)
靄を渡り来る遠きうなりの親しさよ荒川口の夕の潮さゐ
松のある江戸川区より暮れゆきて白々広し放水路口
『山谷集』(昭和十年)
日本人が雪を邪魔者だと考えるようになったのは、あたかも降水を邪魔扱いして川へ捨てはじめたのと同じときからである。それは川を利用しなくなったとき、川のゆるやかさを期待しなくなったとき、すなわち、交通手段が舟運から陸上へと変わったときからであった。
日本人がこの国土に住み着いてからこのかた、日本列島の自然とは、ことごとく先祖たちの営為によって養われ、維持されてきた自然であった。
海の漁民が漁業権を放棄したときから、海の破壊は急速に進行した。日本人が川を利用しなくなったときから、人と川の関係も一変した。自然をその生産手段に利用して生きる人たちこそ、自然の守り手だったのである。
ゲームセンターのすみで交わした約束を私はいつか忘れてしまう
終バスに浅い眠りを繰り返しどこにでもゆく体とおもう
冷水で手をよく洗う 親ウサギが子どもを踏んで死なせた朝に
手のひらに西瓜の種を載せている撃たれたような君のてのひら
夏の雨 わたしが濡れてしまうのを見ている黒い目をした犬よ
「未来」は昭和二十六年に創刊された同人誌的な雑誌で、近藤氏のことを先生とは誰も呼ばず、みな近藤さんと呼んでいた。氏が、先生と呼ばれることを嫌ったからである。
いま、こうして亡くなられてみると、近藤の晩年は理解されることの少ない、寂しいものであったと思わざるを得ない。自分は近藤の好き理解者ではなかった。
裏側に張りついているヨーグルト舐めとるときはいつもひとりだ
つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる
空を買うついでに海も買いました水平線は手に入らない
背表紙に取り囲まれてぼくたちのパラパラマンガみたいなくらし
コンタクト型のテレビを目に入れてチャンネル替えるためのまばたき
「千円になります」と言い千円になってしまったレジ係員
右利きに矯正されたその右で母の遺骨を拾う日が来る
いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する
カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められる
病室の窓から見えるすべてには音がないのと君は笑った
汗ながして夕飯をくふひとときの我のこころはマソヒズムのごとし
一息(ひといき)に飲みくだしし熱き飲料をサヂズムのごとく我は楽しむ
かたはらに折々きたる幼子は酸き一片(ひときれ)の林檎を持てり
佐藤佐太郎『しろたへ』
森 アパートという言葉は、いまのマンションという呼び名より良かったのかしら。
藤森 ずっと良かった。アパートメントといったんです。すごく良かったみたいですよ。どんどん価値が下がっていくね、ああいう言葉って。
(…)私の歌には事件的具体といふものは無い。短歌はさういふものを必要としないからである。
思い出に値するようなことは、なにもおこらなかった。なんの事件もなかった。というより、なにもおこらない、おこさないというところから作歌したともいえる。
作詞に当たって信綱が強く意識したのは和歌が育んだ季節感を生かすことだった。そのためにまず千三百年の短歌形式を採用した。「うのはなの/にほふかきねに/ほととぎす/はやもきなきて/しのびねもらす」とまさに五七五七七の短歌。
短歌好きの母は、折りにつけて、娘時代に覚えた歌を口遊んでいた。聞くともなしに聞いていて、すっかり覚えてしまった歌が何首もある。
ゆふぐれになりにけらしな文机(ふづくえ)の鉢のサフラン花閉ぢにけり
という歌は、作者名もわからないまま母から私に伝えられた歌であり、早春の光りが射す頃になると、決まって思い出す歌である。