若き若き君を羨む行く方なく獣の園を求めゆきしか 『朝から朝』
うらぶれて千万都市をさまよえよ孤りの思いまぎれなきまで
に出てくる「若き君」は、永田のことであるそうだ。永田が大学卒業後に就職して東京で暮らしていた頃に、高安からの手紙に記されていたのが、この2首であったのだという。初めて聞く話である。
東京は高安にとって憧れの場所であるとともに、反発を覚える場所でもあった。そんな文脈に置いて読んでみると、歌の様相もガラッと変って見えてくる。
若き若き君を羨む行く方なく獣の園を求めゆきしか 『朝から朝』
うらぶれて千万都市をさまよえよ孤りの思いまぎれなきまで
温み来る真昼の水に指あそばせて幾度つぶやきぬなつかしき名を
天心に散華し終へし猛禽の瞑らぬ紫紺の眼を見たきかな
いななきは遂のまぼろし猛禽のこゑかんかんと十月の天を打つ
楽しげに朝食の世話をしてくれる黒住嘉輝君の気配を背に、洗顔を終えたぼくは、放心したように二階の窓べに立ちつくした。大勢の人と会うために東京をたち、なつかしいいくたりと出会い、議論し、別れて来た数日の旅の思いが、いまようやく心を溢れだしはじめたようだった。
短かい旅を終えて東京に帰るぼくを送ってわざわざ京都駅まで来てくれた黒住君と、ふと坂田君のことについて話が出たのは、どうしたはずみからだったろうか。(…)
十一月二十八日、午後、急行第一なにわの乗客となり、ぼくは京都を離れた。とうとう会えずに心をのこしてしまった坂田博義君が下京区の自宅で急逝された時刻と知らずに。
手を出せば水の出てくる水道に僕らは何を失うだろう 『駅へ』
長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
たれかれをなべてなつかしと数へつつつひには母と妹思ふ
誰彼を長生きして欲しいと数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
短詩型のむずかしさは、自分の文体を確立するということ以上に、そこから抜け出すことの困難さにあるのだろう。
組織というものは、できたときから停滞へ向かって動いていくものである。よほどの努力を続けないと停滞は必然的に全体を覆ってしまう。
短歌という短い形式は、何らかの形で幾重にも読者の目を通すことが大切な詩型であり、もっとも身近に、打てば響くような距離に自分の歌を読んでくれる仲間を持つということを大切だと思うのである。
僕の遺言の中に歌碑を建てるところが二ヶ所ある。その一ヶ所が永住の地ときめてあつた海南荘である。いよいよ去るからには生前に歌碑を建てておきたいといへば、それは私の方で建てませう、ついでに入口へ海南荘といふ道しるべの石も建てませうといふ。さうなると話がとんとん拍子にすすむので、親友俳人飯島曼史宗匠夫妻が建碑の労を引受ける事になる。
吾が歌の碑石見いでむとわが友は石屋をめぐる春の十日を
春十日たづねあぐみし帰り路にふと見いでたる庵治(あぢ)の青石
われ去るもここに建ちにし歌の碑はとはにのこらんか海南荘に
格差論や、ロストジェネレーションの論の類を読むと、僕はちょっと悲しくなってくるんですよ。書いているのは三十代や四十代の人なんだけど、それだけ生きているということは、もう立派にこのシステムのインサイダーですよね。この世の中のシステムがうまく機能していないことについては、彼らにもすでに当事者責任があると思うんです。
「うた」というのは、私がこれをうたっているんじゃないよ、伝えられてきた「うた」ですよって、まずそういう前提で詠じる。聞くほうも、「あなたの本音だとは決して受け止めません。うたっても、聞かなかったことにします」という顔つきで聞ける。だから言いにくいこととか本当の思いを、逆に、ものすごく形式的に伝える。それもおおっぴらに。
喪(も)の家にもしもなつたら山桜庭の斜(なだ)りの日向に植ゑて
『蝉声』(2011年)
三年まへの遺言を子らにくり返す墓はいらない桜を一本
『家』(2000年)
私が死んだら、どこの墓に埋められるのだろうと時々考える。私は、どこの家の墓にも埋められたくない。
「婆ちゃんが死んだら、裏の畑に埋めて桜の木ば一本植えて欲しかね」と、生前の祖母がよく言っていた。彼女は九州で生まれて滋賀県で死んだのだが、どこの家の墓にも入りたくない私は祖母のように、裏の畑の桜の木の下を自分の墓にしたい気がしきりにする。
裏の畑の一本の桜の木の下。それは、おそらくかなえられない夢でしかないだろう。祖母がそうだったように。祖母が生きていて、裏の畑の桜の木のことを話していた時、それは実現可能な夢のように私は考えていたのだが。
中原淳一(1913‐1983)
金田一春彦(1913‐2004)
近藤芳美(1913‐2006)
新美南吉(1913‐1943)
丹下健三(1913‐2005)
ロバート・キャパ(1913‐1954)
織田作之助(1913‐1947)
百貨店の明るき階をめぐりつつふと見る路上早や昏れて居り
『砂の上の卓』
湿度一〇〇泳ぐがに鋪道わたる人シャツ着たり水中肺(アクワ・ラング)欲し
『街上』
私の聞き書きのやり方は、一見登山とは関わりがないことまで根掘り葉掘り聞くことになること、できあがった原稿は全て話し手に見せて訂正や修正、場合によっては同意の上削除も可能であることを話した。
でも、死んでもいいとか、死ぬ覚悟でやっているんじゃなくて、死は非常に身近にあるが故に、死をよく見るが故に、それを避けているし、避けることが可能だと思っています。死が身近にあることと、死んでもいいと思って、死に寄っていったり、その中に入っていくのとは違います。
あの事故も含めて、私がやっている山登りというものを、ちょっと客観的に残さないといけない、そういう思いはあるんです。なぜかというと、やはり、死んでしまうことは、あると思うんですよね。自分としてはそれなりに自分のやっていることというのは、自分の命をかける価値があると思ってやっているんです。それをなんか伝えるというとおこがましいですけど、何か形にしておかないといけないような気はしてきているんです。
この年―昭和八年の夏から、私ども一家は苦楽園に新しく建った家に住むことになった。この家が、私にとって忘れることのできない、思い出の家となったのである。
日曜日などには、私は苦楽園のあたりを散歩した。妻は赤ん坊の世話に忙しく、家に引きこもりがちであった。家の前には桜の並木がつづいていた。家から西南の方へ降りてゆくと赤松の林の中に池がある。赤いれんが建ての古風な洋館が見える。苦楽園ホテルである。
細流を伝つて下ると、芦屋行のバス道に出、更に下ると恵ケ池といふのに出る。濁つた水であるが、この周囲を廻るのは僕にもたのしみになつてゐる。対岸に出て山の方を振返ると、ホテルのバルコンに翻る三角旗を見当にして、山の緑の間に見境ひもつかず蔦で蔽はれてゐる僕の居間の窓も見付けられるのである。
飯を食つてぶらりと恵ヶ池の畔に出てみた。明るい、心を撫でるやうな雨が昼間降つてゐたが、それが止んで一ときの静寂(しじま)を保つてゐる夕方である。いつも先づ心を惹かれるのが、池の西側の窪地である。色といつては、落着いた緑単色の濃淡に過ぎない。(…)が、とにかく、静かな爽かな、実にまとまつた落着いた感じが湧いてくるのである。
十一月二十一日六甲苦楽園内望が丘のほとりに海南荘を相して移る、まなかひに生駒、金剛、葛城の連峯海を越えて淡路に走り。眼の下に西の宮、尼が崎、大坂、堺、濱寺の市邑、茅渟(ちぬ)の海を囲みて点綴せらる。 (『新聞に入りて』)
いつのころからか、母が私に西宮市の山手、苦楽園にある下村家をたずねるように計らってくれた。というのは、歌人であった母は、やはり歌人であった下村海南氏を知っていたからだ。そこには一人息子の正夫君がいて、やはり甲南に通い、私と同級であったのだ。 (高安国世「めぐりあい」)
それからは私はほとんど毎日のように彼の家へ遊びに行った。当時朝日新聞の副社長だった海南氏の帰りはおそく、やさしいおばあさんやおかあさんのすすめで、いとも気楽に夕食をご馳走になり、そのまま夜まで話し込んだり、泊まってしまうことも多かった。 (同上)
館内では、昨年9月に十和田湖から引き上げられた旧陸軍「一式双発高等練習機」(写真)を特別展示中。
たとえば、この本が出たとき私は四二歳です。でも、世の中の四二歳の男性は、みんな違います。私の年代は、よく「ガンダム世代」とか「ファミコン世代」などと言われますが、私の家にはファミコンがなかったし、ガンダムをテレビで見た記憶もない。