2013年08月30日

「現代短歌新聞」9月号

永田和宏さんが「孤りの思いまぎれなきまで―高安国世生誕百年―」という文章を書いている。それによると、高安国世の
若き若き君を羨む行く方なく獣の園を求めゆきしか   『朝から朝』
うらぶれて千万都市をさまよえよ孤りの思いまぎれなきまで

に出てくる「若き君」は、永田のことであるそうだ。永田が大学卒業後に就職して東京で暮らしていた頃に、高安からの手紙に記されていたのが、この2首であったのだという。初めて聞く話である。

東京は高安にとって憧れの場所であるとともに、反発を覚える場所でもあった。そんな文脈に置いて読んでみると、歌の様相もガラッと変って見えてくる。

posted by 松村正直 at 18:40| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月28日

映画「風立ちぬ」

原作・脚本・監督:宮崎駿。

(以下、映画の内容に触れています)

評価の難しい作品。

歴史モノとして見れば面白く、関東大震災(1923年)、昭和恐慌(1930年)、上海事変(1932年)、国際連盟脱退(1933年)など、大正末から昭和の初めにかけての時代の空気がよく描かれている。当時の風景や風俗、特に上流階級や知的エリートの暮らしぶりがよくわかる。

一方で、物語としては物足りなさを感じる。登場人物の感情の描き方に深みがなく、あまり心を動かされなかった。飛行機作りの話も、恋愛の話も、どちらも中途半端な印象を受けた。

劇中に「シベリア」という名前の、餡子を挟んだカステラのお菓子が出てくるが、いかにも戦前のネーミングだと思う。シベリア抑留のイメージが強い戦後であれば、こういう名前が付けられることはなかっただろう。

MOVIX京都、126分。

posted by 松村正直 at 07:45| Comment(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月27日

時評など

下記の時評で、拙著『高安国世の手紙』を取り上げていただきました。

・渡 英子「評伝の力」(角川「短歌」9月号)
  北原東代『白秋と大手拓次』、小野弘子『父 矢代東村』とともに。

・大辻隆弘「戦後派歌人の再検討」(「現代短歌」9月号)
  杜澤光一郎『宮柊二・人と作品』、きさらぎあいこ『近藤芳美の音楽の歌』とともに。

ありがとうございました。

本のご注文は、六花書林( http://rikkasyorin.com/ Tel:03-5949-6307)
または松村までお願いします。

posted by 松村正直 at 20:15| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月26日

角川「短歌」の古い号から(その2)

河野裕子さんの作品が初めて総合誌に載ったのは、角川短歌賞を受賞した時(1969年6月号「桜花の記憶」50首)だと思っていたのだが、そうではなかった。

その前年の1968年2月号に「学生短歌の新鋭九人」の一人として、河野さんの作品「紫紺の眼」14首が掲載されている。他のメンバーは、伊藤洋子、大林明彦、川戸恒男、清宮剛、佐藤和之、下村光男、田中仁巳、松見健作。

この「紫紺の眼」14首は、第一歌集『森のやうに獣のやうに』に収録されている歌が多いが、それ以外に、
温み来る真昼の水に指あそばせて幾度つぶやきぬなつかしき名を
天心に散華し終へし猛禽の瞑らぬ紫紺の眼を見たきかな
いななきは遂のまぼろし猛禽のこゑかんかんと十月の天を打つ

といった歌がある。

ちなみに永田さんの総合誌デビューは、角川「短歌」1969年2月号。「新人登場」という欄に、「疾走の象」8首が掲載されている。

posted by 松村正直 at 23:41| Comment(0) | 河野裕子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月25日

角川「短歌」の古い号から(その1)

1962年1月号に、小野茂樹「修羅のわかれ―坂田博義君のこと」という文章が載っている。前年の11月に自死した坂田博義への追悼文である。

小野は坂田と一度も会ったことはなかったが、1936年12月生まれの小野と1937年1月生まれの坂田は同世代であり、坂田の作品に常に関心を持ち続けていたらしい。

追悼文は小野が「地中海」の集まりに参加した後、京都に来て、高安宅で清原日出夫や黒住嘉輝と会い、黒住のアパートに泊ったところから始まる。
楽しげに朝食の世話をしてくれる黒住嘉輝君の気配を背に、洗顔を終えたぼくは、放心したように二階の窓べに立ちつくした。大勢の人と会うために東京をたち、なつかしいいくたりと出会い、議論し、別れて来た数日の旅の思いが、いまようやく心を溢れだしはじめたようだった。

その後、「ぼくは京都にきて、また会えなかった一人のことを、ふと思った」という一文があり、そこから坂田博義への思いが綴られてゆく。追悼文の最後は、京都駅を発つ場面である。
短かい旅を終えて東京に帰るぼくを送ってわざわざ京都駅まで来てくれた黒住君と、ふと坂田君のことについて話が出たのは、どうしたはずみからだったろうか。(…)
十一月二十八日、午後、急行第一なにわの乗客となり、ぼくは京都を離れた。とうとう会えずに心をのこしてしまった坂田博義君が下京区の自宅で急逝された時刻と知らずに。

こうして、二人はすれ違ったまま、ついに一度も会うことがなかったのである。この文章から8年後の1970年、小野も交通事故により34年の生涯を閉じている。

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2013年08月23日

日々のクオリア

砂子屋書房のHPの「日々のクオリア」(8月21日)で、吉野裕之さんに歌の鑑賞をしていただきました。
http://www.sunagoya.com/tanka/?p=10748
手を出せば水の出てくる水道に僕らは何を失うだろう  『駅へ』

この歌を読むと思い出すのは、「塔」に入って間もない頃(1998年10月号)に、誌面の批評欄で岡部史さんにこの歌を取り上げてもらったことです。その頃は福島に住んでいて、近くに短歌をやっている人もなく、一人きりで歌を作っていたので、その批評が本当に励みになりました。数行の文章を何度も繰り返し読んだものです。

そういうことは、何年経っても忘れませんね。

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2013年08月22日

『高安国世の手紙』の訂正

『高安国世の手紙』に数か所の誤記が見つかりましたので、訂正します。

・P12‐18行目
誤「…九大一名、金沢医大一名と全員が帝国大学へ進んでいる」
→ 正「…九大一名とほぼ全員が帝国大学へ進んでいる」

・P34‐17行目
誤「小国宗碩(おぐにそうけん)」→ 正「小国宗碩(おぐにそうせき)」

・P290‐15行目
誤「神島(こうじま)」→ 正「神島(かみしま)」

・P384‐6行目
誤「小国宗硯」→ 正「小国宗碩」

もし、他にもお気づきの点がありましたら、松村までお知らせください。
よろしくお願いします。

posted by 松村正直 at 23:16| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月21日

絵葉書のこと

明治後期から昭和戦前にかけての時代を調べる時に、古い絵葉書が役に立つ。絵葉書は当時、重要なビジュアルメディアであり、風景、建物、人物、事件、災害など、さまざまな内容のものが大量に発行されていた。

例えば、先日このブログで、苦楽園ホテル(六甲ホテル)と恵ヶ池の話を書いた。それらが当時どのような姿をしていたのか知りたい時に、絵葉書が役に立つのである。

  IMG_3487.JPG

この絵葉書には「惠ヶ池より六甲ホテルを望む(六甲苦樂園)ROKKO KURAKUYEN.」と書かれており、まさに高安国世が見たのと同じ景色を見ることができる。写真で見る限り、恵ヶ池は今よりもだいぶ大きかったようだ。

古い絵葉書を扱う専門店はいくつかあるが、私がよく利用しているのは「ポケットブックス」というお店。http://www.pocketbooks-japan.com/ 他にも、ヤフーのオークションなどに絵葉書は大量に出品されていて、眺めているだけでも楽しい。

ちなみに、今日の絵葉書は神戸にある「絵葉書資料館」で販売されている復刻版で、1枚150円である。http://www.ehagaki.org/index.html

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2013年08月20日

数へつつつひには

長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
たれかれをなべてなつかしと数へつつつひには母と妹思ふ

よく似ていると思う。

1首目は、河野裕子さんの最後の歌集『蝉声』(2011年)の終りの方にある歌。2首目は河野さんの第1歌集『森のやうに獣のやうに』(1972年)の最初の方の歌である。

40年という歳月を挟んで、まるで呼応し合うように、この2首が詠まれている。

以前、「長生きして」の歌が口述筆記された時の様子を録音したテープが、テレビで放送されたことがあったが、それによると、この歌の初案は
誰彼を長生きして欲しいと数へつつつひにはあなたひとりを数ふ

というものであった。語順まで瓜二つであったわけだ。

河野さんの晩年の歌に出てくる「母系」「蝉声」「茗荷」といったモチーフも、実は初期の歌に既に見られるものだ。こうした、初期の歌と晩年の歌のつながりについては、いずれ詳しく考察してみたいと思う。

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2013年08月19日

藤森照信×山口晃著 『日本建築集中講義』


建築史家で建築家でもある藤森照信と画家の山口晃が、日本各地の名建築を訪れて、その感想を語り合うという内容で、山口の漫画付き。月刊「なごみ」2012年1月号〜12月号に連載されたものに加筆、増補してまとめた一冊である。

藤森ファンであり、山口ファンでもあるので、迷わず購入した。世代の違う二人の対談は、時に真剣で、時にユーモアに包まれ、なかなか楽しいものであった。

二人が訪れたのは「法隆寺」「日吉神社」「旧岩崎家住宅」「投入堂」「聴竹居」「待庵」「修学院離宮」「旧閑谷月光」「箱木千年家」「角屋」「松本城」「三溪園」「西本願寺」の13か所。そのうち、5か所が京都の建物である。

これは、版元の淡交社が京都にあるという理由もあろうが、それだけでなく、やはり京都には古い建物がよく残っているということなのだろう。せっかく京都に住んでいるのだから、いろいろと見て回りたい。

2013年8月6日、淡交社、1900円。

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2013年08月17日

時評など

下記の時評で、拙著『高安国世の手紙』を取り上げていただきました。

・加藤治郎「短歌月評」(「中日/東京新聞」8月10日夕刊)
  真中朋久歌集『エフライムの岸』とともに。

・荻原伸「短歌時評」(「月刊みずたまり」41号)

ありがとうございました。

本のご注文は、六花書林( http://rikkasyorin.com/ Tel:03-5949-6307)
または松村までお願いします。


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2013年08月16日

永田和宏著 『新樹滴滴』


1995年から15年あまりにわたって「塔」に連載された文章をまとめたもの。全67編。

内容は、短歌のこと、結社のこと、身の周りのこと、故人の思い出などと幅広いが、全体として一つの大きな流れに沿っているように感じる。ほとんどの文章は誌上で一度読んでいるのだが、あらためて印象に残る話がいくつもあった。
短詩型のむずかしさは、自分の文体を確立するということ以上に、そこから抜け出すことの困難さにあるのだろう。
組織というものは、できたときから停滞へ向かって動いていくものである。よほどの努力を続けないと停滞は必然的に全体を覆ってしまう。
短歌という短い形式は、何らかの形で幾重にも読者の目を通すことが大切な詩型であり、もっとも身近に、打てば響くような距離に自分の歌を読んでくれる仲間を持つということを大切だと思うのである。

新樹滴滴」の連載が終ってもう2年半が経つ。やはり永田さんの文章を毎月の「塔」で読みたいという思いが強い。

2013年5月31日、白水社、2200円。

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2013年08月15日

苦楽園探訪(その6)

現在「海南荘」の名残りをとどめているのは、「苦楽園四番町公園」に立つ下村海南の歌碑だけである。昭和12年にこの歌碑が建てられた時のことを記した海南の文章があるので、見てみよう。「海南荘の歌碑」という題で、随筆集『二直角』(昭和17年)に収められている。

海南はまず、自分が東京へ転居することになり、海南荘は「世界の帽子王」掘抜義太郎が買い取ったことを述べ、その後、次のように書いている。
僕の遺言の中に歌碑を建てるところが二ヶ所ある。その一ヶ所が永住の地ときめてあつた海南荘である。いよいよ去るからには生前に歌碑を建てておきたいといへば、それは私の方で建てませう、ついでに入口へ海南荘といふ道しるべの石も建てませうといふ。さうなると話がとんとん拍子にすすむので、親友俳人飯島曼史宗匠夫妻が建碑の労を引受ける事になる。

こうして、堀抜や飯島の協力により海南自筆の歌碑が建てられたのである。その喜びを、海南は10首の歌に詠んでいる。その中から3首。
吾が歌の碑石見いでむとわが友は石屋をめぐる春の十日を
春十日たづねあぐみし帰り路にふと見いでたる庵治(あぢ)の青石
われ去るもここに建ちにし歌の碑はとはにのこらんか海南荘に

海南荘は堀抜が住んだ後、戦後は大阪市交通局の保養所「苦楽園荘」として使われていた。しかし、平成に入ってから取り壊され、今では「オールド&ニュー苦楽園」という分譲住宅地となり、歌碑だけが残っているというわけである。

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2013年08月14日

鷲田清一・内田樹著 『大人のいない国』


関西在住でともに多くの著書を持つ2人が、現代の日本社会や日本人のあり方につて論じた本。2008年にプレジデント社から刊行された本の文庫化。

対談2本+各3編ずつの文章という構成になっている。対談も文章も比較的短いものなので、それほど深い話にはならないのだが、随所に印象的な部分がある。例えば、社会システムの論じ方についての内田の発言。
格差論や、ロストジェネレーションの論の類を読むと、僕はちょっと悲しくなってくるんですよ。書いているのは三十代や四十代の人なんだけど、それだけ生きているということは、もう立派にこのシステムのインサイダーですよね。この世の中のシステムがうまく機能していないことについては、彼らにもすでに当事者責任があると思うんです。

あるいは、形式的な言葉に万感を込めるという話の中で鷲田が「うた」について述べた部分。
「うた」というのは、私がこれをうたっているんじゃないよ、伝えられてきた「うた」ですよって、まずそういう前提で詠じる。聞くほうも、「あなたの本音だとは決して受け止めません。うたっても、聞かなかったことにします」という顔つきで聞ける。だから言いにくいこととか本当の思いを、逆に、ものすごく形式的に伝える。それもおおっぴらに。

これは、短歌ではなく、おそらく和歌のイメージだろう。近代以降の短歌は、反対に「私がこれをうたっている!」という立場で歌を詠んでいるわけだが、よく考えると本質は意外と変っていないのかもしれない。そのあたりが何とも不思議である。

2013年8月10日、文春文庫、560円。

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2013年08月13日

映画「SHORT PEACE」

監督:森田修平、大友克洋、安藤裕章、カトキハジメ。

「九十九」「火要鎮」「GAMBO」「武器よさらば」の4つの短編アニメから成るオムニバス。1編あたり十数分という短さであるが、絵やグラフィックの美しさには眼を奪われる。

それぞれタイプの違う作品の競演であるが、「武器よさらば」が一番良かった。これは、大友克洋の原作をアニメ化したもの。

MOVIX京都、68分。

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2013年08月12日

桜とお墓

今日は河野裕子さんの命日。
あれから、もう3年が過ぎたのだ。

河野さんにはお墓がない。遺骨はまだ永田家にあるのだろう。お墓があればお墓参りに行けるのにと思ったりもするのだが、それは河野さんの望まなかったことだ。
喪(も)の家にもしもなつたら山桜庭の斜(なだ)りの日向に植ゑて
                 『蝉声』(2011年)

最終歌集『蝉声』には、こんな遺言のような一首があり、現在、永田家の玄関近くの斜面に桜が一本植えられている。これが河野さんのお墓代りと言っていいのだろう。

お墓の代わりに桜をという話は、河野さんが長いこと言い続けていたことらしい。それは乳癌になる前からのことである。
三年まへの遺言を子らにくり返す墓はいらない桜を一本
                 『家』(2000年)

初出は1998年の「短歌研究」なので、まだ元気だった頃である。

そして、この考えは、もともとは河野さんの祖母のものであった。河野さんのエッセイ集『桜花の記憶』の中に、こんな文章がある。
 私が死んだら、どこの墓に埋められるのだろうと時々考える。私は、どこの家の墓にも埋められたくない。
「婆ちゃんが死んだら、裏の畑に埋めて桜の木ば一本植えて欲しかね」と、生前の祖母がよく言っていた。彼女は九州で生まれて滋賀県で死んだのだが、どこの家の墓にも入りたくない私は祖母のように、裏の畑の桜の木の下を自分の墓にしたい気がしきりにする。
 裏の畑の一本の桜の木の下。それは、おそらくかなえられない夢でしかないだろう。祖母がそうだったように。祖母が生きていて、裏の畑の桜の木のことを話していた時、それは実現可能な夢のように私は考えていたのだが。

初出は1989年の「京都新聞」。
実際に亡くなる20年以上も前から、河野さんはお墓の代りに桜をと思い続けていたのだ。そして今、その願いは叶えられている。

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2013年08月11日

8月11日

今日は高安国世の誕生日。
高安は1913(大正2)年8月11日、大阪の道修町に生まれている。
今からちょうど100年前のことになる。

1913年生まれの人を調べてみると、
中原淳一(1913‐1983)
金田一春彦(1913‐2004)
近藤芳美(1913‐2006)
新美南吉(1913‐1943)
丹下健三(1913‐2005)
ロバート・キャパ(1913‐1954)
織田作之助(1913‐1947)

といった人たちがいる。
同年生まれでも亡くなった年が早いか遅いかで、随分と印象が違う。
百貨店の明るき階をめぐりつつふと見る路上早や昏れて居り
                『砂の上の卓』
湿度一〇〇泳ぐがに鋪道わたる人シャツ着たり水中肺(アクワ・ラング)欲し
                『街上』

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『初代 竹内洋岳に聞く』のつづき

塩野米松は、宮大工の西岡常一をはじめ伝統文化や技術を伝える職人からの聞き書きで知られているが、あとがきによればその方法は下記のようなものである。
私の聞き書きのやり方は、一見登山とは関わりがないことまで根掘り葉掘り聞くことになること、できあがった原稿は全て話し手に見せて訂正や修正、場合によっては同意の上削除も可能であることを話した。

本書がすぐれた内容となっているのは、この「聞き書き」という方法による部分が大きいのだろう。竹内本人が忘れてしまっていたり、意識していなかったり、あまり言いたくなかったりするようなことまで、文章になって現れるのである。

それは、先に読んだ竹内洋岳著『登山の哲学』と比べるとよくわかる。分量が全く違うので単純な比較はできないのだが、大学の山岳部OB会との軋轢や日本山岳会に対する批判、両親の熟年離婚といった内容は、『登山の哲学』には書かれていない。

取材のはじめに「やはり、死んでしまうことは、あると思うんですよね」と述べた竹内であるが、最後に次のように言っているのが印象に残った。
でも、死んでもいいとか、死ぬ覚悟でやっているんじゃなくて、死は非常に身近にあるが故に、死をよく見るが故に、それを避けているし、避けることが可能だと思っています。死が身近にあることと、死んでもいいと思って、死に寄っていったり、その中に入っていくのとは違います。

題名『初代 竹内洋岳に聞く』の「初代」とは、もちろん歌舞伎のように世襲するという意味ではない。後にも先にもこの人限り、唯一無二の存在であるという意味なのだろう。

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2013年08月10日

宇治川花火大会

昨日は夕方から第53回宇治川花火大会を見に行く。
家から一番近い花火大会なのだが、これまで一度も行ったことがなかった。

京阪の宇治駅に着くと、ホームには大きな横断幕(?)が掲げられている。

IMG_3480.JPG

なるほど、打ち上げ場所に近く、高さのあるホームは、花火を見るのに絶好の場所なのだろう。

駅から出て宇治川沿いを歩き、三室戸駅近くの土手で鑑賞。
夜7:45〜8:45までの1時間、約7000発の花火が揚がった。迫力があるだけでなく、「トンボ」「りんご」「みかん」「猫」「魚」「傘」など、面白い形の花火もあって楽しい。

帰りは黄檗駅まで歩いて、JR奈良線に乗る。大混雑に巻き込まれることなく、比較的楽に帰ってくることができた。

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2013年08月09日

歌会について

歌会は、短歌の「読み」を学ぶのに絶好の場である。一首について、多くの人がそれぞれの「読み」を出し合って、対等に議論する。議論を通じて少しずつ、その歌の意味や魅力が明らかになっていく。自分では気づかなかった「読み」や、思わぬ角度からの「読み」も出されて、歌が立体的に立ちあがる。それは、ライブならではの刺激的な瞬間だ。

けれども、歌会は決して万能ではない。歌会は言葉によって短歌を批評し合う場であるから、言語化できない部分については話をすることができない。それは当たり前のことではあるのだが、意外と忘れがちなことかもしれない。

例えば100の魅力を持っている短歌があったとして、そのうち90までを言葉で解明できたとしよう。歌会の場では、それでわかった気になってしまう。けれども、本当に大切なのは残りの10の方なのだ。

歌会をやっていると、得てして言葉で説明できる90の方に歌の本質があるような気になるのだが、実はそうではない。歌の本質は、言葉で説明できない10の方にある。けれども、その10は最初から見えているわけではない。言葉で説明できる部分を説明していくことによって、初めて浮き彫りにされるのである。

歌の魅力を言葉で説明しようとして、もし説明し尽くすことができるなら、それは大した歌ではないだろう。何とか説明しようと言葉を尽くして、けれども説明し尽くせないところに、歌の一番の魅力はある。その差を知るために、歌会はあるのだ。

そういう意味では、歌会という場は最初から矛盾を抱えている。そのことを、まず初めに認識しておく必要があるのだろう。

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2013年08月08日

塩野米松著 『初代 竹内洋岳に聞く』


聞き書きの名手として知られる塩野米松が、登山家・竹内洋岳に取材してまとめたもの。2010年にアートオフィスプリズムから刊行された本の文庫化。2年間、200時間にわたるインタビューをもとに生まれた一冊は、文庫本で525ページという分量で、内容も圧倒的だ。

大事なのは、この本が竹内が14座完全登頂をする前に刊行されていることだろう。偉業達成の後に刊行されたのではなく、まだ達成できるかどうかわからない時点で刊行されているのである。

取材が始まった2008年1月は、竹内が10座目のガッシャブルムII峰で雪崩に遭い、背骨が折れ、左肺が潰れるという重傷を負った半年後のことである。竹内は最初にこう述べている。
あの事故も含めて、私がやっている山登りというものを、ちょっと客観的に残さないといけない、そういう思いはあるんです。なぜかというと、やはり、死んでしまうことは、あると思うんですよね。自分としてはそれなりに自分のやっていることというのは、自分の命をかける価値があると思ってやっているんです。それをなんか伝えるというとおこがましいですけど、何か形にしておかないといけないような気はしてきているんです。

その後、竹内は2008年7月にガッシャブルムII峰とブロードピーク、さらに2009年5月には12座目のローツェの登頂に成功する。この本の元になった単行本が出たのは、その時点である。

2013年7月10日、ちくま文庫、1100円。

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2013年08月07日

苦楽園探訪(その5)

苦楽園の話は、湯川秀樹の自伝『旅人』にも登場する。1907(明治40)年に東京で生まれた湯川は、その後すぐに京都に移り住んだが、大学を出てしばらく大阪や苦楽園に住んでいる。
この年―昭和八年の夏から、私ども一家は苦楽園に新しく建った家に住むことになった。この家が、私にとって忘れることのできない、思い出の家となったのである。

高安国世は、昭和八年の八月末に苦楽園ホテルを出て、新築になった芦屋の家に移ったので、湯川とほとんど入れ違いであった。高安と同様、湯川も恵ヶ池のあたりをよく散策したようである。
日曜日などには、私は苦楽園のあたりを散歩した。妻は赤ん坊の世話に忙しく、家に引きこもりがちであった。家の前には桜の並木がつづいていた。家から西南の方へ降りてゆくと赤松の林の中に池がある。赤いれんが建ての古風な洋館が見える。苦楽園ホテルである。

当時、湯川秀樹26歳、高安国世20歳。
2人がこの恵ヶ池のほとりですれ違うさまなどを想像してみるのも楽しい。

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2013年08月06日

苦楽園探訪(その4)

昭和7年から8年にかけて、高安国世は苦楽園ホテル(六甲ホテル)に住んでいた。19歳から20歳のことである。当時、高安は近くの恵ヶ池周辺をよく散策したらしい。昭和10年に書かれた「苦楽園回想」という文章には、この池のことがよく出てくる。
細流を伝つて下ると、芦屋行のバス道に出、更に下ると恵ケ池といふのに出る。濁つた水であるが、この周囲を廻るのは僕にもたのしみになつてゐる。対岸に出て山の方を振返ると、ホテルのバルコンに翻る三角旗を見当にして、山の緑の間に見境ひもつかず蔦で蔽はれてゐる僕の居間の窓も見付けられるのである。
飯を食つてぶらりと恵ヶ池の畔に出てみた。明るい、心を撫でるやうな雨が昼間降つてゐたが、それが止んで一ときの静寂(しじま)を保つてゐる夕方である。いつも先づ心を惹かれるのが、池の西側の窪地である。色といつては、落着いた緑単色の濃淡に過ぎない。(…)が、とにかく、静かな爽かな、実にまとまつた落着いた感じが湧いてくるのである。


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高安が住んでいた時から既に80年が経ったが、恵ヶ池は今も残っている。当時に比べて大きさは半分くらいになっているようだ。埋め立てたと思われる場所には、「苦楽園市民館」が建っている。

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2013年08月05日

苦楽園探訪(その3)

海南荘がここにあったことをわずかに偲ばせるものが、この公園の中にある。
それは下村海南自筆の歌碑である。

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歌碑には「眼ざむれば松の下草を刈る鎌の音さやに聞ゆ日和なるらし」という一首が刻まれている。

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歌碑の説明板には「海南は、故郷の和歌山を見はるかす此の地をこよなく愛し、大正10年、この宏大な地に邸宅を構え「海南荘」と称し、約15年間ここに住んだ。その間、佐々木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉、土岐善麿など多くの歌人や文化人を招いて、歌会や各種集会を催し、苦楽園に文化の華を咲かせた」と書かれている。


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2013年08月04日

苦楽園探訪(その2)

下村家は当時1500坪あまりの敷地を持つ大邸宅を構えており、「海南荘」と呼ばれていた。大正10年にその家を建てた時のことを、下村海南は次のように記している。
十一月二十一日六甲苦楽園内望が丘のほとりに海南荘を相して移る、まなかひに生駒、金剛、葛城の連峯海を越えて淡路に走り。眼の下に西の宮、尼が崎、大坂、堺、濱寺の市邑、茅渟(ちぬ)の海を囲みて点綴せらる。 (『新聞に入りて』)

生駒山、金剛山、葛城山、淡路島、そして大阪湾を取り囲むように広がる市街を見渡すことができるのが自慢だったのだろう。こうした眺望の良さは、今でも変らない。

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標高は150メートルくらいのようだが、かなり遠くの方まで見渡すことができる。山と海が近い地形ならではの眺めだろう。

下村家の敷地だった場所には、今では20軒あまりの家が立ち並んでいる。その一角に「苦楽園四番町公園」という名の小さな公園がある。

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夏の真昼ということもあってか、人影はない。蝉の鳴き声もせずに静まり返っている。

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2013年08月03日

苦楽園探訪(その1)

毎月、芦屋で講座があった後は、午後から「芦屋歌会」に参加しているのだが、8月は歌会が休みのために時間が空いた。そこで、以前から一度行ってみたいと思っていた苦楽園へと足を運んだ。

苦楽園は六甲山麓に位置する関西屈指の高級住宅地である。JR芦屋駅からバスに乗って坂道を登ること15分くらい。高台には広い敷地の屋敷が点在している。

『高安国世の手紙』にも書いた通り、高安はこの苦楽園と関わりが深い。旧制甲南高校時代の親友・下村正夫(下村海南の息子)が苦楽園に住んでいたため、しばしば遊びに来ていたのである。また、芦屋の家が火事で焼けた後、しばらく苦楽園ホテルに住んでいたこともある。
いつのころからか、母が私に西宮市の山手、苦楽園にある下村家をたずねるように計らってくれた。というのは、歌人であった母は、やはり歌人であった下村海南氏を知っていたからだ。そこには一人息子の正夫君がいて、やはり甲南に通い、私と同級であったのだ。  (高安国世「めぐりあい」)
それからは私はほとんど毎日のように彼の家へ遊びに行った。当時朝日新聞の副社長だった海南氏の帰りはおそく、やさしいおばあさんやおかあさんのすすめで、いとも気楽に夕食をご馳走になり、そのまま夜まで話し込んだり、泊まってしまうことも多かった。   (同上)

その名も「苦楽園」というバス停で降りて、まず探すのは、その下村家の跡である。

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2013年08月02日

十和田湖の旧陸軍機その後のその後

JAFの会員向け情報誌「JAFMate」の8・9月合併号をパラパラ眺めていたところ、一枚の写真が目に止まった。

青森県の見どころを紹介したページに「青森県立三沢航空科学館」があり、写真に古ぼけた飛行機の機体が写っているのである。説明を見ると
館内では、昨年9月に十和田湖から引き上げられた旧陸軍「一式双発高等練習機」(写真)を特別展示中。

とあるではないか。
この旧陸軍機については、以前このブログで2回書いたことがある。

 ・「十和田湖の旧陸軍機」(2010年8月13日)
  http://blogs.dion.ne.jp/matsutanka/archives/9629991.html
 ・「十和田湖の旧陸軍機その後」(2012年9月6日)
  http://blogs.dion.ne.jp/matsutanka/archives/10900887.html

いつまで展示されているのか気になって調べたところ、科学館のホームページに「好評につき平成26年3月30日(日)まで展示延長決定!」と書かれていた。

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2013年08月01日

竹内洋岳著 『登山の哲学』


副題は「標高8000メートルを生き抜く」。

日本人で初めて、世界にある14個のの8000メートル峰すべてに登頂した「14サミッター」となった著者が、自らの生い立ちや体験、考え方について記した本。

「登山家は、山という大いなる自然の中で、想像力の競争をしていると言っていい」「私にとっての経験とは、積み重ねるものではなく、並べるものなのです」といった、魅力的な言葉がたくさん出てくる。

著者は登山の方法の変化についても繰り返し述べている。十分な資金や装備による大規模な組織登山から、少人数でチームを組むコンパクトな登山へという変化は、登山に限らずさまざまな場面に通じる話だろう。

1971年生まれの著者は私と一歳違いだが、人間の個性について次のように書いている。
たとえば、この本が出たとき私は四二歳です。でも、世の中の四二歳の男性は、みんな違います。私の年代は、よく「ガンダム世代」とか「ファミコン世代」などと言われますが、私の家にはファミコンがなかったし、ガンダムをテレビで見た記憶もない。

こういう思いは私にもよくわかる。最近、いろいろな場面で「世代」という括り方が流行っているが、そこから抜け落ちてしまうものの方を大切にしていきたい。

2013年5月10日、NHK出版、740円。

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