2013年04月30日

映画「ライジング・ドラゴン」

監督:ジャッキー・チェン、出演:ジャッキー・チェン、クォン・サンウ、ジャン・ランシンほか。

第二次アヘン戦争によって破壊された中国の円明園から持ち去られたという十二支の銅像を奪い返すために、トレジャーハンターである主人公が活躍するアクション映画。

様々な場所を舞台に、激しいアクションシーンが繰り広げられる。古典的なカンフーアクションもあって、ジャッキーの健在ぶりを楽しむことができる。

中学生の頃に、生まれ育った町田の映画館(「町映ローズ」とか「町映グリーン」という名前だった)で「スネーキーモンキー蛇拳」と「ドランクモンキー酔拳」の2本立てを見たのが最初のジャッキー体験。それ以来、ジャッキー・チェンの出る映画はよく見ている。

そんなジャッキー・チェンも、今年でもう59歳。本格的なアクション映画はこれが最後になるとのことである。映画の最後に流れ挨拶を聞いてしみじみとした気分になった。

MOVIX京都にて。124分。

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2013年04月29日

「百人一首」のパロディー

2番+4番。

春すぎて夏すぎ秋すぎ白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

(春が過ぎたと思ったら、もう夏も秋も過ぎてしまって、まっ白な富士山に雪が降っている。ああ、一年が経つのは何と早いことだろう。)

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2013年04月28日

「近世から近代へ―うたの変遷」第2回

13:30から「京都テルサ」東館2階の研修室にて、第2回の勉強会を開催。
参加者は37名。

盛田帝子さんの講演「近世和歌の変容―近代短歌への胎動」を聴く。

富小路貞直・冨士谷成章・賀茂季鷹らによる堂上和歌批判、堂上歌人と地下歌人によって行われた大愚歌合のもたらした転換、小沢蘆庵・香川景樹・大隈言道の歌論と作品といった内容で、江戸時代の後半から幕末あたりまでの流れをお話しいただいた。

引用された大隈言道の『ひとりごち』の中に
僕(われ)かりに木偶(でく)歌と号(なづけ)たるものあり。魂霊(たましひ)なくて姿も意もむかしのものなり。かかる歌は千万首よめりとも、籠(かご)にて水を汲むがごとし。当世の人の歌、この籠を漏れざるは少なし。しかるにこの木偶、何年せば霊(たましひ)や入りきたらむ。僕、つらつら田舎人の歌を見るに、木偶にて世を終る人多し。

という部分がある。この痛烈な批判は、今の私たちにもグサッと来るものだろう。自分の作っている歌は「木偶歌」ではないと、はたして言い切れるかどうか。そんなことを思いながら聴いていた。

その後、質疑応答、フリートークがあり、予定より10分ほど延長して16:40終了。盛田さんにはその後、喫茶店にもお付き合いいただき、さらに詳しく近世和歌の魅力についてお聞かせいただいた。

ご参加下さった皆さん、そして盛田さん、本当にありがとうございました。

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2013年04月27日

「北冬」14号

北冬舎が不定期に(年に1回くらい?)発行する「北冬」の最新号。
特集は「今井恵子責任編集 〈公〉と〈私〉の交差する時空。」

11号の特集は「江田浩司責任編集 [山中智恵子]の居る所。」、12号は「高島裕責任編集 [日本]はいま、どこにあるか。」、13号は「大田美和責任編集 [100年の言葉の向こうへ―。]」であった。

このラインナップを見てもわかるように、毎号かなり濃い特集を組んでいて、ふつうの総合誌とはだいぶ雰囲気が違う。

14号は、昨年4月に行われた今井恵子さんの歌集『やわらかに曇る冬の日』の批評会の内容を完全収録している。その他に今井恵子論や今井さんの新作もあって、盛りだくさんの内容だ。

批評会にはパネラーの1人として参加したので、何だか懐かしい感じがする。歌集の批評会はあちこちで行われているけれど、こういう形できちんと記録が残るのは珍しい。とても大事なことだと思う。


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2013年04月26日

『森の不思議』のつづき

この本の著者が森に興味を持つようになったきっかけは、実は樺太にある。
わたしと森林とのめぐりあいは、樺太の“オタスの社(もり)”から始まる。一九四五年の正月、東京から樺太に向けてわたしは出発したのである。

当時、中央気象台に勤めていた著者は「寒冷気象が生体に与える影響」の調査のために、終戦7か月まえの樺太へ出張したのだ。樺太のオタスの社で見たエゾマツの森と、そこで偶然出会って行動をともにした先住民族オロッコ(ウィルタ)の少年は、著者に強い印象を残したらしい。
「名前は何でいうの?」
「上村良太郎」
「え? カミムラリョウタロウ?」
わたしは思わず耳を疑った。何らかのオロッコ族らしい名前を予想していたわたしには、いかにも平均的な日本人の名前であるのが妙に思われた。

十歳くらいのこの少年は、巧みにスキーを操って、著者を先導するように森のなかを進んでいく。途中、一緒におむすびを食べたりして、半日の森林行を終える。その後の別れの場面が美しい。
 わたしは凍りついた川に再び臨んだ。少年の方を振り向くと、まだ彼は入口のところに立ってこちらを見ていた。
 わたしは手を振った。少年はそれに答えて手を振ってくれた。わたしはホッとした気持ちになった。と同時に目頭が熱くなるのを覚えた。わたしは振り切るように、川の向こう岸を見た。(…)
 川の氷原を渡りながら、何回となくオタスの杜を振り返ってみた。森と部落とがいつまでもわたしを追いかけてくるような風景を感じた。少年はまだ手を振っているかも知れない……。

戦争中、それも大戦末期のできごととは思えない温かさと人間味に溢れた場面だろう。この半日の出来事が、著者のその後の人生を決定づけたのかもしれない。

この話には、後日譚がある。

著者は1982年に網走を訪れ、ウィルタの民族衣裳、刺繍、狩猟器具などを展示する資料館「ジャッカ・ドフニ」(現在は閉館)を見学する。そして、当時館長を務めていたダーヒンニェニ・ゲンダーヌと話をするのだが、そこで「上村良太郎は、終戦後しばらくして亡くなりました」という話を聞かされるのであった。

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2013年04月25日

後藤由紀恵歌集 『ねむい春』

転倒をくりかえす祖母をささえつつ廊下を歩くわれのスリッパ
常にわたしは後者であった 庭に咲く寒の椿がほたりと落ちる
針葉樹のような人なり改札の向こうにわれを待つ顔をして
夫のほかわたくしの名を呼ぶひとのなき町にいて花を買いたり
惚ける前の夏の笑顔を遺影とす なかったことには出来ぬ六年
派遣会社ことなるわれら時給には触れずランチはなごやかに過ぐ
こうやって君になじんでゆくのだろう どれみふぁそらへのばすゆびさき
ホームには日光月光ほほえみて薬師寺展のはじまりは春
そこぢからまだあると思う冬の朝 圧力鍋に玄米を炊く
諦めもひとつの答え三本の指もてつまむすべらかな塩

2004年半ばから2011年までの歌388首を収めた第2歌集。

大学の事務の仕事、祖母の介護や死、君との結婚、東京での生活、父の手術など、日々の生活が歌の基盤となっている。しかし、事実べったりということはなく、それぞれの歌に十分な修辞の力も働いており、確かな手応えを感じる一冊となっている。

感情を激しく表すというよりは、感情の陰翳や襞のようなものを滲ませるように詠むのが巧みな作者である。結婚生活の中で、むしろ孤独を感じたり、相手のことがわからなくなったりする。そんな場面がなまなましく伝わってきて、印象に残った。

定価2000円という値段設定も好ましく感じる。

2013年3月20日、短歌研究社、2000円。

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2013年04月24日

神山恵三著 『森の不思議』

「森林浴」の提唱者であり、樹木が発する「フィトンチッド」の分析や解明に取り組んだ著者が、日本各地の森を訪ねて人間と樹木の関わりについて記した本。「現代林業」1981年1月から12月号に連載された文章が基になっている。

著者の専攻は生気象学。聞き慣れない言葉であるが、これは「身体の生理や人間の生活と気象との関連を明らかにすることを主な課題としている」学問であるらしい。その一環として著者が取り組んだのが、森林が人間の健康に与える影響というテーマであった。

著者は北海道東部の防霧林や下北半島のヒバ林、屋久杉の森、岩手県玉山村のカラマツ林、東京高尾山のスギ林、木曽谷のヒノキ林などを訪れ、さまざまな科学的な調査を行うとともに、そこで働いている人からの聞き取りを行っている。

30年前の本なので、さすがに内容的には古さを感じる部分もあるが、それは「森林浴」などの言葉や考え方が今では既に常識となったからであろう。そういった意味でも、著者の先見の明が随所に感じられる一冊となっている。

1983年9月20日発行、岩波新書、430円。

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2013年04月22日

「短歌往来」5月号

連載「樺太を訪れた歌人たち」は5回目。前回に続いて「松村英一と国境線」の2回目を書きました。松村英一についてはとりあえずこれで終りで、次回はまた別の歌人を取り上げます。

今回、樺太に建てられる予定だった松村英一の歌碑の話に触れて、「こうして歌碑の場所は無事に決まった。しかし、はたしてこの歌碑は実際に建てられたのかどうか。時代はこの時期、大きな曲り角に差し掛かっていた」と書きました。

実はその後、この歌碑についての新たな資料が見つかり、歌碑が実際に建てられたことが明らかになりました。連載というのは、こういうところが難しくもあり、また面白くもあります。今さら調べようもないと思っていたことが、ひょんなことからわかってしまったのです。

歌碑が建てられたのは昭和14年。今から70年以上も前の話ですし、戦後はずっとロシア(ソ連)領になっているので、今も歌碑が建っているのか壊されてしまったのかはわかりません。ただ、街中の碑と違って山頂近くに建てられたものなので、壊されずに残っている可能性もあるように思います。

そんなことを考えていると、居ても立ってもいられない気持ちになります。誰に見られることもなく草に埋もれている歌碑の姿が目に浮かんできて、サハリンに行って、その歌碑を見つけ出したい、歌碑が私を呼んでいる(←これは妄想)という思いが、だんだん募ってくるのです。

ああ、でもサハリンは遠いなあ・・・

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2013年04月19日

ながさき鯨カツ弁当

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デパ地下を歩いていたところ、長崎市の鯨専門店「くらさき」が出店していたので、「ながさき鯨カツ弁当」を買う。1050円。ついでに単品の「鯨の竜田揚げ」も。

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使われているのは南氷洋産のミンククジラの肉。「鯨カツ」「鯨そぼろ」「鯨竜田揚げ」の3種類の味が楽しめる弁当になっている。

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2013年04月18日

さらに「歌壇」2013年5月号

池田はるみさんの特別作品「大鵬とその父」30首に注目した。

先日亡くなった大鵬とその父であるマルキャン・ボリシコについて詠んだもの。大鵬と樺太の関わりについては、以前このブログでも取り上げたことがある。(→1月21日)池田さんは『お相撲さん』というエッセイ集を出しているほどの相撲好き。
戦争がふかぶか落とす影のある大鵬ならむ樺太に生れき
しら雲のコサック騎兵隊長の若きマルキャン速駆けをせり
マルキャンは敷香(しすか)に渡りほのぼのと巡り合ひにき大鵬の母と
み棺が国技館を出づるとき大鵬、たいほうとこゑは叫びぬ
ユーラシアをはろばろと飛びその父も大鵬もまた見えなくなりぬ

大鵬の父の生涯については、現在ではかなり詳しくわかっている。それは、サハリン在住の研究者N.ヴィシネフスキーが2001年4月号の「文藝春秋」に「大鵬の父親サハリンに死す」(小山内道子訳)という文章を発表してからのこと。

ヴィシネフスキーは同じく小山内道子訳で『トナカイ王―北方先住民のサハリン史』という本も出しており、樺太研究に大きな業績を残している。

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2013年04月17日

ユーラシア・ブックレット

『南極に立った樺太アイヌ』は東洋書店のユーラシア・ブックレットの1冊。
他にもこのシリーズでは
108 井澗裕著『サハリンのなかの日本―都市と建築』
137 藤原浩著『宮沢賢治とサハリン 「銀河鉄道」の彼方へ』
169 長縄光男著『ニコライ堂小史 ロシア正教受容150年をたどる』

といった本を読んだことがある。

どれもあまり類書のない内容がコンパクトにまとめられていて、面白く、また役に立つ。こういう本はそれほど売れないのではないかと思うのだが、2000年の創刊以来、既に179点が刊行されていて、出版社の熱意を感じる。

他にも『明治日本とロシアの影』『ボリショイサーカス』『漱石と「露西亜の小説」』『シベリア野鳥紀行』『美味しい中央アジア』など、魅力的なタイトルがいっぱい並んでいる。

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2013年04月16日

佐藤忠悦著 『南極に立った樺太アイヌ』

ユーラシア・ブックレット64。副題は「白瀬南極探検隊秘話」。

明治43年から45年にかけて南極探検を行った白瀬矗(のぶ)の一隊に同行した2人の樺太アイヌ、山辺安之助と花森信吉。犬橇係として樺太犬を連れて参加したこの2人の生涯を描いた本。

アイヌ民族の地位の向上を願って探険隊に参加した2人の奮闘ぶりがよく伝わってくる。それだけに、その後の2人がたどった運命やアイヌの置かれた立場について、いろいろと考えさせられる内容となっている。

南極探検と犬と言えば、戦後の第1次南極観測隊で南極へ置き去りにされた犬たち(そして奇跡的な生還を果たしたタロとジロ)の話が有名だが、白瀬隊でも同様のことがあった。南極を離れる際に、26頭のうち20頭が収容できずに置き去りにされたのである。

山辺と花森の2人は樺太に戻ってから、犬を置き去りにした罪によりチャランケ(査問)にかけられている。それほどに、樺太アイヌにとって犬は大事な存在であったのだ。

2004年6月20日、東洋書店、600円。

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2013年04月15日

誤植

結社誌の校正を毎月やっていると誤植に敏感になるのか、ふだん、本を読んでいても誤植が目に付く。

先日読んだ『ぷらり日本全国「語源遺産」の旅』では「JR湖西線」に「こさい」とルビが振ってあるのを見つけた。正しくは「こせい」。これは静岡県に湖西市(こさいし)があるためか、よく間違えられる。湖西線は琵琶湖の西、湖西市は浜名湖の西。

1987年刊行の『高安国世全歌集』は非常にすぐれた編集がされている本だが、それでも誤植はある。
会っておきたい人ありやと妻の問いかくる今更に会いたき人あらずけり
                  『光の春』

比較的よく引かれる最晩年の一首だが、全歌集ではこの「会って」が「会つて」と旧仮名遣い(?)みたいになっている。

結社誌でも毎月誤植が絶えなくて頭が痛いのだが、そんな時は以前ある人から聞いた「誤植で死んだ奴はいない」という言葉を思い出すようにしている。

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2013年04月14日

御供平佶歌集 『河岸段丘』

異なれる軋めきひびき有蓋車無蓋車タンク車つづくホッパ車
ゆらゆらと遠きあかりのひとつ見え濃霧運転の警笛ひびく
一昼夜つとめて昼を帰りきぬひとりなり冬の日のささぬ室
不認可の靴みがきひげの与三郎今日も来てをり襟巻あつく
桑畑のはてに見えそむる低き山父母のありてわが帰りゆく
口中にのこるちぎりの神酒の味汝が口紅のまじりをるべし
番台より子をうけとりて髪あらふ妻より先にわれ帰りゆく
側溝に猫のむくろの骨見ゆるまで風化して冬もをはりぬ
あへぎつつ畳はひましきかたくなにむつき拒みて死の二日前
車輪よりひきだす背広上衣より線路にしろく片腕の落つ

作者の第1歌集。
1974年に新星書房から刊行された本が、今回文庫になって新しく出版された。

作者は国鉄に長く勤務した方。貨車の連結手から駅務員、さらに鉄道公安官になるのだが、そうした仕事を詠んだ歌が、歌集では大きな比重を占めている。

鉄道公安官は、鉄道施設内での司法警察権を持ち、事件の捜査や被疑者の逮捕を行う。歌集には「贋金使い」「痴漢」「スリ」といった犯罪のほか、飛込み自殺の轢死体の処理、皇族の警護、あるいはストやデモの警備といった仕事の様子が生々しく詠まれている。
威力業務妨害デモ三千に公安官三百余名なすすべなきか
逮捕するなできるかぎりと下る指示デモを上司を憎みつつ聞く
デモに向くるほかなき忿に握りしむわが警棒は使用許されず
公安官になりたる吾を罵りし彼がデモ隊の指揮の笛吹く

「あらしの中」(一)〜(五)は、70年安保闘争の時代に、デモを鎮圧する立場から詠まれた歌。デモに参加する側の歌だけでなく、それと対峙する側の歌もあることが、やはり大切なのだろう。短歌史的に注目すべき内容の一連である。

2013年3月15日、現代短歌社第1歌集文庫、700円。

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2013年04月13日

「歌壇」2013年5月号

「歌壇」5月号の中沢直人さんの時評に、驚いた。
「おまえの頭は誤作動している」と父は言って、代理出産で子どもを持つのがどれほどおかしなことかを力説した。

という一文に始まって、子を持つことをめぐるかなりプライベートな話が続く。そして、同世代の歌人の歌を青春や孤独、そして子育てといった文脈から読み解いていく。時評の文章としてどうかという疑問や違和感はあるのだが、その切迫した思いは強く伝わってくる。

そんなことを思いながら、他のページも読んでいると、30代〜40代にかけての歌人たちの家族をめぐる歌が目に入ってくる。
親指と人差し指のあいだにて「いま二センチ」の空気を挟む
                  永田 紅
千人の祖(おや)となるかもしれなくて、おいんくおいんくミルク飲む吾子
                  大松達知
ふたりとも「田村」の判を押し終へて離婚届を折りたたみたり
                  田村 元

なるほど、短歌作品ではこういうプライベートな話はいくらでも出てくる。散文では違和感のあるような内容が、短歌になると別に平気である。そのあたりも、考えてみると面白いことかもしれない。

posted by 松村正直 at 17:30| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月12日

藤田洋三著 『世間遺産放浪記』

小屋、水車、石塁、煙突、銭湯、温泉、壁、稲わら干し、芝棟、人形芝居など、名もなき人々が生み出した「実用の美」を訪ねて記録した写真集。『鏝絵放浪記』『藁塚放浪記』に続く第3弾。247点の写真(ほとんどカラー)が載っている。

曲がりくねった柱と土壁でできた「野良小屋」(広島県三次市)、白の碁石の材料としてパンチングで穴を空けられた後、山積みにされた「蛤碁石の山」(宮崎県日向市)、無数のしゃもじが奉納されている「しゃもじ窟」(大分県中津市耶馬渓町)など、どれも個性的で印象に残る。

そして、ここでも大切なのは、土地と人だ。
筆者が出会った「ゲニス(人)」と「ロカス(土地)」の、忘れがたい物語の一つ。
             「雀おどり」(長野県茅野市)
それが形になったとき、人と土地にまつわる地霊の物語となった。
             「乾燥小屋の屋根」(大分県別府市)

著者の好みとこだわりと情熱が、実によく伝わってくる一冊である。

2007年4月30日、石風社、2300円。

posted by 松村正直 at 07:35| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月11日

短歌のデータベース

「塔」2月号と3月号に「鯨の歌を読む」という文章を書いた。鯨の歌をいくつも引いて、日本人と鯨との関わりや捕鯨、鯨食、ホエールウォッチングなどの歴史や問題について考えたものだ。

「塔」4月号の誌面時評で新井蜜さんが、この拙文について触れている。
二月号で目立ったのは松村正直氏の評論「鯨の歌を読む(前編)」である。万葉集から現代短歌までの広い範囲の中から鯨を詠んだ歌を選び出して論じている。例歌を探し出すのには時間が掛かったのではないかと推察する。このような評論を書く際に和歌や短歌のデータベースが整備されていたら便利で有用だろうと思う。

話はこの後、「塔」の電子化やネット配信といった話題へ続いて行くのだが、これを読んで、何と言うか、非常に違和感を覚えた。書いていることはよくわかるし、実際にそういうデータベースがあれば便利だろうとは思うのだが、僕のやりたいこと、やっていることは正反対なのだ。

例えば、山登りを楽しんでいる人に、「山頂までロープウェーで行けたら便利ですね」と言ってみても、たぶん仕方がないだろう。そういう違和感を覚えたのである。

もちろん、それは僕の書いた文章に問題があって、僕の感じた魅力や楽しさが十分に伝えきれなかったわけで、そのことを残念に思う。

例えば、今回僕自身が一番印象に残ったのは、吉植庄亮の『海嶽』という歌集である。これは、昭和16年に、当時国会議員であった庄亮が北千島視察団の一員として千島列島を見て回った時の歌を収めている。ここに、択捉島で見た鯨の解体場面が出てくるのだ。

『海嶽』は、今ではほとんど取り上げられることのない歌集と言っていいだろう。それはたぶん、歌集の内容がつまらないからではない。千島列島という、今では触れにくく、関心も薄くなってしまった土地が題材になっているからであり、大日本歌人協会の解散をめぐる問題も含めて、負の歴史の一部となってしまっているからである。

そういう歌集を再発見する喜びは、短歌のデータベースで「鯨」を検索して、それでヒットした歌を引いてくる便利さとは、まるで違うものなのだと僕は思っている。

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2013年04月10日

わぐりたかし著 『ぷらり日本全国「語原遺産」の旅』

日本語の旅人「語源ハンター」を自称する著者が、さまざまな日本語の語源を探して全国各地を旅してまわった記録。2010年から12年まで読売新聞に連載した文章から17編を選び、大幅に加筆して一冊にまとめている。

「春一番」が壱岐に伝わる悲劇が元になっていることや、「銀ブラ」が「銀座をぶらぶらする」のではなく「銀座までぶらぶらする」ことだったという話など、どれも新しい発見があり推理小説を読むような面白さがある。

そして、大事なことは、それが雑学や蘊蓄レベルにとどまっていないということだろう。
文献、資料をあさり、言葉の由来と特定の土地が結びつくケースを見つけたら、これ幸いとばかりに電車とバスを乗り継いで現地へ出かけてぷらりぷらり。袖振りあうも多生の縁。地元の方と、よもやま話のひとつやふたつ。ついでに語源の話をする気ままな一人旅。

つまり、「言葉」だけでなく「土地」や「地元の方」が必要なのである。言葉をきっかけにして、その背後にある土地や人の物語を探り当てることこそ、著者の狙いなのであり、この本の見どころであるわけだ。

おそらく日本でたった一人の「語源ハンター」が書いたこの本を読んでいると、自分の興味や関心を最優先することの大切さを改めて感じる。他人がどう思うかではなく、自分が興味があるかどうか。そこに一番の力点がある。

2013年3月10日、中公新書ラクレ、860円。

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2013年04月09日

勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」第2回のお知らせ

勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」の第2回は、現在「短歌往来」で「近世和歌を歩く」を連載中の盛田帝子さんをお迎えして、下記の通り行います。

皆さんのご参加をお待ちしております。

日時 4月27日(土)13:30〜16:30
場所 京都テルサ 東館2階「研修室」
   *JR京都駅より徒歩約15分、近鉄東寺駅より徒歩約5分、地下鉄九条駅より徒歩約5分

プログラム
 13:00      開場
 13:30〜13:40 開会挨拶
 13:40〜15:10 講演「近世和歌の変容―近代短歌への胎動」盛田帝子氏
 15:10〜15:30 質疑応答
 15:30〜16:20 フリートーク
 16:20〜16:30 閉会挨拶
 16:30      終了(予定)

会費 2000円
申込先 大体の人数を把握したいと思いますので、参加される方は下記までご連絡下さい。
      〒612-0847 京都市伏見区深草大亀谷大山町20-3-202
             松村 正直
      TEL/FAX 075-643-2109 メール masanao-m@m7.dion.ne.jp

*第3回は7月6日(土)に安田寛さん(奈良教育大学教授)をお招きして、「緑の館」(梅小路公園内)で行います。こちらも、よろしくお願いします。

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2013年04月08日

1990年のシンポジウム

古い「塔」を見ていたら、1990年10月14日に歌人集団・中の会の10周年記念として開催された「フェスタ・イン・なごや」の案内が載っていた。総合テーマは「現代短歌 90S」、会場は中京大学文学部、総合司会を斎藤すみ子・早崎ふき子の二人。

シンポジウムの内容がすごい。日程は下記の通り。

○ 9:15 挨拶 佐藤房儀
○ 9:20 開会 岡井 隆
○ 9:30〜12:30 パネルディスカッション
  「7年目の女・たんか・女」
 パネリスト 阿木津英・河野裕子・道浦母都子・永井陽子
 司  会  永田和宏
○13:00〜14:30 講演
  「詩的な喩の問題」吉本隆明
○15:00〜17:00 パネルディスカッション1
  「歌はいつ新しくなったか―80年代の検証」
 パネリスト 大塚寅彦・荻原裕幸・大辻隆弘・小塩卓哉・加藤孝男
 司  会  小澤正邦
○17:00〜19:00 パネルディスカッション2
  「コラージュから創造へ―90年代を伝説の世紀末に」
 パネリスト 加藤治郎・白瀧まゆみ・辰巳泰子・西田政史・林 和清・
       穂村 弘・緑川幸成・水原紫苑
 司  会  佐久間章孔
○19:00 閉会 春日井建

朝の9時15分に始まって、終わりは何と夜の7時。途中、昼食に30分取るだけで、10時間近くぶっ続けで、パネルディスカッションが3つに講演が1つという内容だ。

これだけの出演者を集めてシンポジウムを行うエネルギーは相当なものだろう。こうした熱さは今ではちょっと考えられない。

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2013年04月07日

昭和の苺

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乳にひたり逃げむとするを匙の背につぶして啖らひき昭和の苺よ
                島田修三『帰去来の声』

先日読んだ歌集にこんな歌があって懐かしくなった。そう言えば、子供の頃は苺と言えば砂糖をかけて牛乳をかけて、スプーンで潰してイチゴミルクにして食べていたものだ。練乳をかける人もあっただろう。今ではそういう食べ方はあまり見かけなくなった。

それは私が大人になったからだけではなく、苺自体が甘く大きく、そのまま食べるのに向いているものに変ってきたからなのだろう。昔の苺はもっと小さくて、甘いだけでなく酸っぱかったように思う。
乳(ちち)の中になかば沈みしくれなゐの苺を見つつ食はむとぞする
                斎藤茂吉『寒雲』(昭和15年)
とりかへしつかぬ時間を負ふ一人(ひとり)ミルクのなかの苺をつぶす
                佐藤佐太郎『形影』(昭和45年)

茂吉の歌でも佐太郎の歌でも、苺に牛乳をかけて食べている。こうした歌にも、やはり昭和という時代が刻印されているわけである。

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2013年04月06日

カルチャーセンター

カルチャーセンターで下記の短歌講座を担当しております。
どうぞ、お気軽にご参加下さい。

●朝日カルチャーセンター芦屋教室 0797−38−2666
「はじめてよむ短歌」 毎月第1金曜日 10:30〜12:30

●朝日カルチャーセンター芦屋教室 0797−38−2666
「短歌実作」 毎月第3金曜日 *偶数月を松村が担当しています。
  A組 11:00〜13:00 B組 13:30〜15:30

●毎日文化センター梅田教室 06−6346−8700
「短歌実作」 毎月第2土曜日 *奇数月を松村が担当しています。
  A組 10:30〜12:30 B組 13:15〜15:15
   
●JEUGIAカルチャーセンター千里セルシ― 06−6835−7400
「はじめての短歌」 毎月第3月曜日 13:00〜15:00

●JEUGIAカルチャーセンターKYOTO 075−254−2835
「はじめての短歌」 毎月第3水曜日 10:00〜12:00

●JEUGIAカルチャーセンターMOMO 075−623−5371
「はじめての短歌」 毎月第1火曜日 10:30〜12:30

●醍醐カルチャーセンター 075−573−5911
「初めてでも大丈夫 短歌教室」 毎月第2月曜日 13:00〜15:00

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2013年04月05日

山口昌伴著 『水の道具誌』

2000年から2004年にかけて月刊雑誌「FRONT」に連載された文章を中心にまとめたもの。如雨露、金魚鉢、水準器、亀の子束子、水甕、金盥、洗濯板など、水に関わりのある道具30点余りを取り上げて、その歴史や使われ方、味わいについて記している。
材料の再利用、再々利用の材料活用の体系を、京の都では「始末(しまつ)」といった。始末とは、始めから末=おしまいまで、と書かれている。「始末のよい嫁」とお姑さんに言われれば最高の褒め言葉だった。衣生活における布の「始」は晴れ着、「末(おしまい)」は雑巾だった。

道具をテーマにした話ではあるのだが、道具の話にとどまらず、人々の生活のあり方や、水の使い方、環境問題についても自在に筆が進んでいく。そこから浮かび上がってくるのは、今ではちょっと懐かしい大正から昭和にかけての暮らしの姿である。
同じ動作を延々と続けるうち、気持ちが澄んでくると、禅の境地とはこれか、と思うことがある。そこでこれを座禅に対して行動禅と呼んでいる。行動禅には歩行禅や磨墨禅(するすみぜん)がありうるが、包丁研ぎ禅もありそうだ。

こんな文章を読むと、河野裕子さんの歌を思い出す。
包丁を研ぐのが好きで指に眼が付くまで研いで七本を研ぐ  河野裕子『紅』
いつしんに包丁を研いでゐるときに睡魔のやうな変なもの来る

2006年8月18日、岩波新書、740円。

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2013年04月04日

佐伯裕子歌集 『流れ』

千年の戦争の名前数えおり過ぎし季節を指折るように
全線をPASMOに託し電車賃という距離感を喪いにけり
三人に一人は癌になる今日を三人がけの木製ベンチ
世界の何処にも私がいない夕ぐれというを思えりふたたびみたび
眼も耳も消耗品ゆえ減らさぬよう使わぬようにそっと陽を浴ぶ
レールの脇に輝いていた水溜まりいくつもの空震わせながら
ゆさゆさと母を揺さぶり鳴り出だす昔の声を聞かんとするも
ざくざくと馬鈴薯の皮を剥くわたし枯野に立っているのだろうか
たてがみの油を湯浴みのあとに塗る天翔けるその力欲しくて
ものの芽のふくらむ四月うしろから呼ばれて購(あがな)う桜鯛はも

2008年から2011年に発表した作品を収めた第7歌集。

変わりゆく東京の様子やかつて住んでいた町の記憶、老いを深める母の姿などが詠まれており、最後は震災の歌で終っている。それは、団塊の世代の作者が生きてきた道のりであるとともに、この国の戦後の歩みを映し出しているようにも感じた。

2013年2月20日、短歌研究社、3000円。

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2013年04月03日

『帰去来の声』の続き

『帰去来の声』 の特徴の一つに、先行する作品を踏まえて詠まれた歌の多さが挙げられる。いくつか例を引いてみよう。
早春のくれなゐの実を頬ばれば甘けれ酸ゆけれ童貞ならねど
                 『帰去来の声』
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり
                  春日井建 『未青年』
田原町袋物問屋の「久保勘」のせがれの発句や湯豆腐は煮ゆ
                 『帰去来の声』
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   久保田万太郎 『流寓抄以後』
佐太郎がスフィンクスに譬へたる魁偉の戦車はM4なりけむ
                 『帰去来の声』
スフィンクスの如き形をしたるもの夕暮れの街をひびきて来る
                  佐藤佐太郎 『帰潮』

佐太郎のこの一首は昭和27年に出た『帰潮』には入っていなくて、『佐藤佐太郎全歌集』(昭和52年)が編まれた際に「補遺」として『帰潮』に追加されたもの。そういう経緯も含めて、気になる歌ではある。

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2013年04月02日

桜とおばけ屋敷

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京都の円山公園の枝垂れ桜。
周辺にある他の桜も満開に近く、大勢の人で賑わっている。外国人の観光客も多い。

屋台で初めて「鳥皮ギョーザ」というのを食べた。小麦粉の皮の代わりに鳥皮を使った餃子。
皮がパリッとして中味がジューシーで、なかなか美味しい。

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八坂神社の境内に出ていたおばけ屋敷。大人500円。

遊園地以外でおばけ屋敷に入るのは初めてかもしれない。鉦や板を使って大きな音を出したり、おばけ役の人が何度も出てきたりして、けっこう迫力がある。

posted by 松村正直 at 00:32| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月01日

島田修三歌集 『帰去来の声』

前立腺肥大をぼやく同僚の終はらぬ所用や待つとなく居(を)り
にぎり飯の海苔薫れるを啖らふなり春の光のしぶきに濡れつつ
はららごをまづは喰ひつつ下総の鰈にこころほぐされむとす
つきかげに隈なく刷かるるビルの壁あふげば光は澄むものならず
姉ありて弟ありて縁うすく湯豆腐つつく連れあひと来て
春このかたマスクはづさぬ女学生の最前列にてよろしも姿勢
煙草より悶えながらに昇りゆくけぶり見守るこころといはむ
大伴家に書持(ふみもち)といふ花好きの蒲柳(ほりう)ありしが兄(え)に先立ちぬ
同僚の慈父悲母といふ遠きひとの訃を聞く日々や寒ぬるみゆく
乳にひたり逃げむとするを匙の背につぶして啖らひき昭和の苺よ

平成20年から24年までの作品485首を収めた第7歌集。
還暦を迎えた作者の日々の思いや人生的な感慨が中心となっている。

年齢的なこともあってか、回想や懐旧の歌が増えたように思う。また、歴史的な知識に基づく歌や人名などの固有名詞を使った歌が数多く出てくる。

全体に疲労感や哀愁の濃く滲んだ内容であるが、その中にあって、飲食に関わる歌の多さが目立っている。食欲というのは、やはり人間の根本にあるエネルギーなのかもしれない。

2013年3月21日、砂子屋書房、3000円。

posted by 松村正直 at 22:25| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする