2012年09月29日

和田一雄編著 『海のけもの達の物語』


副題は「オットセイ・トド・アザラシ・ラッコ」。

鰭脚(ききゃく)目アシカ科の「オットセイ」「トド」、アザラシ科の「ゼニガタアザラシ」「ゴマフアザラシ」、食肉目イタチ科の「ラッコ」という5種類の海の動物について、その誕生から繁殖、回遊などの生態や分布、さらには人間との共存や保護の問題までを記した本。

舞台となるのは北海道東部、サハリンのチュレニイ島、千島列島、カムチャツカ半島、コマンドルスキー諸島といった北太平洋の島々である。1991年にロシアの極東地域が外国に向けて開かれて以降、日露の共同調査なども進んでいるらしい。現地で行われた観察のエピソードや写真なども豊富に載っていて楽しい。

驚いたのは、こうした海の動物の母乳に含まれる脂肪分の多さ。人間や牛の場合3〜4%のところ、トドは20%、ラッコは23%、ゴマフアザラシに至っては何と50%もある。その代わり、ゴマフアザラシであれば母乳をもらえる期間は2〜3週間で、その後は自立しなければいけないのだそうだ。

2004年2月8日、成山堂書店、1600円。

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2012年09月28日

山口仲美著『日本語の歴史』


「話し言葉」と「書き言葉」のせめぎ合いという観点から描いた日本語の歴史。

章立ては「漢字にめぐりあう―奈良時代」「文章をこころみる―平安時代」「うつりゆく古代語―鎌倉・室町時代」「近代語のいぶき―江戸時代」「言文一致をもとめる―明治以後」となっていて、トピックを絞ってわかりやすく書かれている。

この一冊を読めば、文字の誕生から現在へ至るまでの流れが一貫したものとして見渡せるとともに、今後の日本語に対する問題提起も含んだ内容だ。

いくつも面白い指摘がある。
例えば、漢文を和語で訓読することに関して。
 その訓読に使う和語が、日常会話で使う和語とは異なっている。ここが面白い。たとえば、「眼」と書かれた漢語を「ガン」と音読みにしないで、「まなこ」という和語に翻訳して訓読する。ところが、日常会話で一般に使う和語は「め」。こんなふうに、漢文訓読の時にだけ用いる和語がたくさんあります。
あるいは、尾崎紅葉の「である」体について。
 それまで地の文で説明に用いられる文末は、「でございます」「であります」「です」「だ」です。ところが、これらは、いずれも読み手に直接働きかけてしまう文末なのです。地の文で客観的に説明したい時には、向かない表現形式なのです。
 それに対して、「である」は、客観的に説明するのに向いています。
自分が文章を書く際にも参考になる話だと思った。

2006年5月19日、岩波新書、740円。

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2012年09月27日

「大阪歌人クラブ会報」第112号


「大阪歌人クラブ会報」第112号を読んだ。2月20日発行なので、半年以上前に出たもの。棚に置きっ放しで、読んでいなかったのだ。

真中朋久さんの講演「河野裕子の道、耳、声」が載っている。これがとてもいい。

真中さんは「道なり」という言葉の受け取られ方が関東と関西では違うというところから始めて、「道」の出てくる歌、さらに「耳」や「声」の歌を引いて話を進めている。

特に印象に残ったのは、次のような箇所。
河野さんは「母として云々」とよく言われるんですけれど、包みこむようなものを母性というなら、それはむしろ河野さん自身ではなく、「大仏殿」である永田さんに求めていたのではないかと思います。
これは、池田はるみさんの名言「河野裕子は大仏。永田和宏は大仏殿。」を受けての話。
もう一歩踏み込んで言えば、河野さんは母であり娘であるわけですが、本質的には、娘として、庇護されているという安心感のなかで、自由に、大胆にあれだけの仕事をなさったのではないかとも思うわけです。
「母としての河野裕子」ではなく「娘としての河野裕子」。これまで意外に言われてこなかったことだろう。この観点に立つと、随分と新しい風景が見えてくるように感じる。『母系』における母の死の歌なども、この観点から読むのが一番わかりやすい。
河野さんの作品の「声」とか「肉声」ということは、よく指摘されることですが、音声のリアリズムというのは、視覚中心に構成されたリアリズムとはちがったもの。
ここでは「音声のリアリズム」を視覚的なリアリズムと対比して捉えているところが新しい。河野作品の根幹を読み解く鍵になるかもしれない指摘だと思う。

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2012年09月25日

ルビ俳句のこと


本来と違った読み方を指定するためにルビを振った短歌をよく見かける。多いのは「息子」に「こ」、「亡夫」に「つま」と付けるタイプである。時には「瞬間」に「とき」とルビが振ってあったりする。これは歌謡曲の影響だろうか。

歌謡曲の歌詞には、しばしばこの手のルビが付いている。「未来」に「あす」、「宇宙」に「そら」、「真剣」に「マジ」、「都会」に「まち」など、いくらでも見つけることができる。

こうした「当てルビ」とも言うべきルビは、近年になって始まったものかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。先日読んだ正津勉『忘れられた俳人 河東碧梧桐』によれば、昭和の初めに「ルビ俳句」というものがあったそうだ。正津によれば、それは次のようなものである。
これは端的にいえば、音数の多い漢字熟語の正規の読み方にかえて、なにかと複雑になりがちな現今の人間にふさわしい表現のために、当て読みを含めた短い音数の振り仮名をあてる、という書法である。
実際にルビ俳句を実践した碧梧桐の句をいくつか挙げてみよう。
サンガー夫人頬骨(ホネ)立てばほゝゑみさびしら小皺(キザミ)
いよよ孤独(ヒトリ)の天(ソラ)吹かる木守の柿ぞ
便通(ツウ)じてよきを秋(ヒル)らし光(カゲ)を机(シゴト)に向ふ
この引用だとわかりにくいが、「頬骨」に「ホネ」、「小皺」に「キザミ」、「孤独」に「ヒトリ」、「天」に「ソラ」、「便通」に「ツウ」、「秋」に「ヒル」、「光」に「カゲ」、「机」に「シゴト」というルビが振ってある。(「光」に「カゲ」は普通のルビかもしれない)

「机に向ふ」を「シゴトに向ふ」と読ませるのなど、ちょっと面白い気もするが、全体としてはかなり無理がある。ルビ俳句は評判が悪く、弟子たちが次々と碧梧桐の元を離れて行ったという話も、よくわかる気がする。

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2012年09月22日

近藤かすみ歌集 『雲ケ畑まで』


はじめから寡黙なひとと知つてゐた夕餉のあとに梨の実を剥く
カレンダーを家族の予定で埋めし日々終りていまは詳しく知らず
亡き父の勤続三十年祝ふ柱時計が正午を告げる
「夜の梅」切りたるのちの包丁のひかり静かに鞘に納めつ
身のうちに白きうどんを入るるときわれの喉は悦びふるふ
さみどりのきぬさや卵とぢにして春の夕餉を彩るこころ
夕立がやむまでここにゐる人の湯呑みにすこしお茶を注ぎたす
曖昧に時は過ぎゆき秋茄子とにしんの煮付けに火を入れなほす
ぬか漬けの茄子も胡瓜も具合よし安南染付小鉢に盛りぬ
病室に静寂つづく夕まぐれ「もう来なくてもいいよ」と声す
「短歌人」「鱧と水仙」所属の作者の第一歌集。

どの歌も言葉の扱いが丁寧で、端正な姿をしている。詠われているモノや人がくっきりと見えてくるのが良いところだろう。亡くなった両親の思い出を詠んだ「十月三日 金曜日」「灰色の眼鏡」、不在がちな夫を詠んだ「真幸くあれな」などの連作は、構成も十分に練られていて、落ち着いた味わいがある。

10首選をしたら、7首が飲食に関わる歌になってしまった。飲食の歌が特に多いわけではないが、どれも生活の手触りがある。「お茶を注ぐ」ではなく「注ぎたす」、「火を入れる」ではなく「入れなほす」であるところに、時間が含まれていて良い。

全体に破綻がなく、よくまとまっている歌集である。次の歌集では、もう少しナマな感情が零れ出てきてもいいかもしれないと思う。

2012年8月11日、六花書林、2300円。

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2012年09月21日

ポリ袋


「男はつらいよ」シリーズ第26作「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」(1980年)を見ていて、印象に残ったシーンがある。

寅さんの死んだテキヤ仲間の娘(伊藤蘭)が北海道の奥尻島から東京に出てきて、アルバイトをしながら定時制高校に通うのだが、そのアルバイト先がセブンイレブンなのである。おそらく、当時広まり始めていた新しい商売形態をいち早く映画に登場させたのだろう。(セブンイレブン1号店の開店は1974年)

娘はそこのレジで働いているのだが、お客さんに商品を入れて手渡すのが、ポリ袋ではなく紙袋である。そのシーンにハッとした。当時はまだ、今のようにポリ袋が普及していなかったのだろう。

1980年と言えばリアルタイムで経験している時代である。それでも、いつの間にかこうやって当時のことを忘れてしまうのだ。

「男はつらいよ」はその時代その時代の風景や風俗、暮らしぶりなどを映画に取り込んでいるので、ストーリー以外の部分でも、見ていて楽しいことが多い。

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2012年09月20日

一志治夫著 『幸福な食堂車』

副題は〈九州新幹線のデザイナー水戸岡鋭治の「気」と「志」〉。

787系特急「つばめ」、883系特急「ソニック」、885系特急「かもめ」、800系九州新幹線「つばめ」など、JR九州の数々の車両をデザインしたことで有名な水戸岡鋭治を取材したノンフィクション。

デザインと聞くと、単に色や形を考える仕事のように思ってしまうが、そうではない。「デザイン力とは、整理整頓する能力」「車両デザインは、旅という時間と環境をデザインすることにはじまる」「デザインは、色形の問題ではなく、思いの問題、気持ちの問題、生き方の問題、すなわち生きている姿勢そのもの」といった言葉が、それを示しているだろう。

水戸岡は1947年、岡山市の吉備津神社の近くの生まれ。幼少時代に吉備津神社や吉備津彦神社の境内で遊んだ記憶が、デザイナーとしての水戸岡の基盤になっているという話が印象的であった。

2012年7月24日、プレジデント社、1800円。

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2012年09月19日

古谷智子歌集 『立夏』

くねる渓流そのままにして堰きとめし湖(うみ)はも蒼き竜の寝姿
地に入りゆくわれら俯き地を出でゆく人らは仰ぐ行く手のひかり
バカボンのパパにはやさしきママのゐて赤塚不二夫の馬鹿が恋しい
腐葉土のごとき香のする古本の積まれし店のどんぐりわれら
はるかなる宙をみつめて笑みながら遺影の視線はだれにも向かず
おそろしやほんにやさしく酔ひながらこの人徐徐に醒めてゆくなり
かの立夏に生(あ)れしおとうと炎天の空のるつぼに溶けて五十年
渡り廊下ながき離れに白秋の書斎見えゐて白秋をらず
改札をいでて左折しまた左折からだが覚えてゐるとほり行く
冬芝の真中に土を盛りあげてもぐらの太郎月仰ぎしか
昨年出版された『草苑』に続く第6歌集。
2004年から2009年頃までの作品435首が、編年順ではなくテーマごとに組み替えられて、収められている。

師の春日井建の死や五十年前の弟の死、あるいは初めての孫の誕生など、生と死をめぐる歌が多い。「立夏」という季節も、作者には生死を感じさせるものであるようだ。中でも師への挽歌は数が多く、内容的にもこの歌集の中心となっている。

全体に歌の姿はくっきりと鮮明で、抽象化する力がよく働いている。その一方で、「深夜着きし町はサン・マロ城壁の暗しも中世の霊とゆきあふ」「白秋の里の白壁なまこ壁のぞけば明治の風もれてくる」といった歌の場合、「中世の霊」「明治の風」という括り方が余情を削いでしまっているようにも思った。

2012年9月9日、砂子屋書房、3000円。

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2012年09月18日

田毎の月


とある待合室で「サライ」10月号を読んでいて、ハッと気がついたことがある。
「月光浴への誘い」と題した特集が組まれており、その中で「田毎(たごと)の月」(長野県千曲市)が取り上げられていた。

田毎の月と言えば【段々に小さく区切った水田の一つ一つにうつる月】(広辞苑)のことである。棚田の一つ一つにそれぞれ月が映っているのだろうと漠然とイメージしていた。

広重.jpg

歌川広重【六十余州名所図会 信濃 更科田毎月 鏡台山】

しかし、「サライ」には写真が載っていない。しかも、田毎の月については「畦道を歩きながら順番に田を見ている」「棚田全体を月の光が照らしている」という二つの解釈が記されているのだ。

そうか!一つ一つの田に同時に月が映っているのを見渡すなんてことは、あり得ないんだ! と、その時、初めて気がついた。あり得ないからこそ、写真もないわけである。広重の絵に描かれたような田毎の月というのは、たぶんフィクションでしかないのだろう。


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2012年09月17日

正津勉著『忘れられた俳人 河東碧梧桐』


虚子と並んで子規門の双璧と言われた河東碧梧桐(1873−1937)の評伝。

碧梧桐は決して「忘れられた俳人」ではないと思うが、このタイトルには、「俳句史のみならず碧梧桐ほどに絶望的なまでに無理解にさらされた文学者はまたとない」という著者の強い思いが込められているのだろう。

著者は、子規の弟子であった碧梧桐が、子規の死後に虚子と対立し、新傾向から自由律、さらに俳壇からの引退へと至る生涯を、作品とともにたどってゆく。そのキーワードになるのが「歩く人・碧梧桐」である。

『三千里』『続三千里』に記された日本中をくまなくめぐる旅のほか、『日本アルプス縦断記』など数々の登山。休む間もなく歩き続けた碧梧桐の姿は、確かに俳句革新の志を引き継いで変化し続けた作風とも通じるものがあるようだ。
桃さくや湖水(こすい)のへりの十箇村(じつかそん)
河骨(かうほね)の花に集る目高(めだか)かな
赤い椿白い椿と落ちにけり
といった初期の作品から
曳(ひ)かれる牛が辻でずつと見廻(みまは)した秋空だ
泳ぐ人影もない磯をあるいてしまふ
パン屋が出来た葉桜(はざくら)の午(ひる)の風渡る
といった後期の作品へ。確かにそこには大きな変化がある。
その変化を、先入観や偏見なく、あるがままに受け止めるところから、まずは出発する必要があるのだろう。

本書は著者の語り口もおもしろく(講談調とでも言うのだろうか)、碧梧桐の魅力をよく伝えているが、俳句一句一句の解釈や鑑賞は不十分である。「なんとも文句なしに宜しくある」「新鮮である、素晴らしい」「おかしい、なんとも洒脱でないか、ほんとに」といった評言が多く、その点は物足りなさを感じた。

2012年7月13日、平凡社新書、760円。

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2012年09月16日

続・金井美恵子と短歌


金井美恵子が短歌について記している、さらに古い文章がある。1979年発行の『短歌の本 第一巻‐短歌の鑑賞』に掲載されている「愛の歌」というもの。この文章は1993年発行のアンソロジー『日本の名随筆別巻30 短歌』(佐佐木幸綱)にも収録されている。
短歌との巡りあわせが悪かったせいで、詩を書こうという欲望は持ったが、短歌を作ろうとも読もうとも、長いこと思わなかった。簡単にいえば、凡庸な田舎歌人が身近な身内と親戚にいたので、最初から敬遠する気分が強く(…)
という感じで、金井の文章は始まる。
さらに、金井は短歌について次のように書く。
形式というものそのものが、あるいはグロテスクなものであるのかもしれないのだが、短歌という、広大なすそ野に広がる無数の作者群を持つ詩的形式は、その、あまりにも親しいリズム(日本語のなかにすっかり喰い込んだ一種脅迫的韻律というべきだろうか)とともに、悪しき夢でもあるかのように、どうやら、私たちの耳にこびりついてしまうものらしいのだ。
小野十三郎の「奴隷の韻律」を思わせる内容であり、詩人が短歌に対して抱く印象の一つの典型でもあるのだと思う。

その後、金井は石川淳『紫苑物語』や岡本かの子『浴身』、宮沢賢治の短歌へと話を進めていくのだが、どれも歌壇的な歌人の作品ではないところに注目すべきだろう。

けれども、実を言えば、この金井の「愛の歌」を読んで、私はある種の感動を覚えたのであった。この文章で金井は短歌のあるべき姿を熱く語っている。そうした理想は、確かに普通の歌人が語らなくなってしまったものかもしれない。

おそらく金井には、短歌に対して愛憎半ばするアンビバレントな思いがあるのだろう。その思いが、「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」という論考の基になっているのだと思う。

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2012年09月15日

大隅清治著『クジラと日本人』



著者は財団法人日本鯨類研究所理事長(当時)。

日本人と鯨の歴史的な関わりや捕鯨文化、クジラ資源の管理方法やIWC(国際捕鯨委員会)の現状など、クジラをめぐる様々な問題を学者の立場から論じている。

日本で捕鯨が発展した要因として、天武天皇以来、獣類を殺して食べることを禁止する詔が何度も出されていた中で、鯨は魚と見なされて食べることが許されていた点を挙げているのが興味深い。

猪の肉のことを「山鯨」と呼ぶのにも、そうした背景があるのだろう。つまり鯨であればOKだったということだ。

2003年4月18日、岩波新書、700円。

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2012年09月14日

高安山荘と黄木荘


高安国世は長野県の飯綱高原に山荘を持っていた。京都の自宅からは400キロ以上の距離があるが、自分で車を運転して往復していた。それだけでなく、その高安山荘から、山中湖畔にある土屋文明の別荘、黄木荘を訪れたりもしていたらしい。こちらも片道150キロくらいはある。

高安が亡くなった際の土屋文明の追悼文「高安君の追憶」の中に、次のように書かれている。
四五年前、山中湖畔に、突然高安君が見えた。戸隠山麓の避暑地から、ドイツ製車を自ら運転してであった。その体力は先づ私を驚かせた。京都から戸隠への往復もその車でとのことで更に驚いた。山中には二度も見えたように記憶する。
                       (「塔」1985年7月号)
高安の載っていたのは外車だったようだ。どんな車だったかと言えばボルボである。(ドイツ製ではなくスウェーデン製)

今度は土屋文明が亡くなった際に、高安和子の書いた追悼文を見てみよう。
飯綱に小さな山荘を持つようになっての一夏、先生が山中湖畔の別荘にお暮しになるので地図をたよりに出かけた。(…)五十過ぎての免許なので息子の文哉が命の万全を言って外車を買ってくれた。運悪く小さな故障を繰り返すので「ボルボ」でなく「ボロボ」と言うのだったが、この時はなかなか調子よく働いた。
                       (「塔」1991年5月号)
ボルボは当時「世界一安全な車」と言われており、万一の事故に備えてこの車に決めたようだ。

高安の前半生は幼少時からの喘息もあって病弱な印象が強いが、五十代後半からの高安は、ボルボを運転して数百キロを走る、そんな健康的で活動的な姿を見せている。

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2012年09月13日

映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」


監督:山田洋次、主演:渥美清、太地喜和子、宇野重吉。109分。

現在、京都の南座で「監督生活50周年 山田洋次の軌跡 〜フィルムよ、さらば〜」が開催されている(8月18日〜9月23日、10月6日〜10月24日)。

山田洋次監督の全80作品が35ミリフィルムで上映される(1日2本ずつ)ほか、ミニシアターで「京都から見た日本映画の歴史」と「男はつらいよ」(ハイライト)の上映、「くるまや」のセットの復元、パネル展示など盛りだくさんの内容である。しかも、「ワンデイ・フリーチケット」(1700円)を購入すると、これらをすべて見ることができる。

「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」はシリーズ17作目。「男はつらいよ」は大好きで、ほとんど全部見ている。でも、スクリーンで見るのはやはり格別だ。舞台となった兵庫県龍野市(現たつの市)の風景が美しい。一度訪れてみたいと思う。

映画の製作と上映のデジタル化が進み、35ミリフィルムを使った劇場での上映は今回が最後になるかもしれないとのこと。以前、映画館で働いていて、フィルムをつないだり、映写したりしていた頃のことを懐かしく思い出す。

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2012年09月12日

「短歌」(中部短歌会)2012年9月号


堀田季何さんが、時評「短歌のくらくもさむくもないかもしれない未来(その3)」の中で近代短歌と現代短歌の区分に触れているのに注目した。最近ではあまり取り上げられない話題だろう。

堀田はまず、私の書いた下記の文章(『今さら聞けない短歌のツボ100』の「現代短歌」の項目)を引いている。
現代短歌という区分そのものが本当に成り立つのか、もう一度考え直す必要さえあるように思われる。現代短歌に「現代の短歌」という以上の意味があるとすれば、そこには近代短歌とは異なる、何らかのパラダイム転換に当るものがなければならない。しかし、それを明確に示すことができるだろうか。和歌→近代短歌→現代短歌といった、これまで漠然と信じられてきた進化論的な見方についても問い直す必要がある。
堀田はこの文章に対して、ひとまず「尤もな論理である」と肯定する。その上で王朝和歌が「集団の詩型」であったのに対して、近代短歌は「われの詩型」であり、それが現代短歌では「われわれの詩型」になったという見取り図を描く。その上で、新たな現代短歌の区分として、次のような説を提唱するのである。
「われの詩型」と併存しながらも「集団の詩型」を取り込んだこの新たな詩型の萌芽、急増こそが現代短歌へのパラダイム転換であり、二十一世紀ゼロ年代こそが現代短歌への移行時期である。
つまり、二十一世紀ゼロ年代に現代短歌が始まったと考えるわけだ。

私はこの説に十分納得したわけではない。短歌史を考える場合、誰もが現在起きていることを過大に評価しがちな傾向があるので、その点は十分に見極めなくてはならない。ただ、こうした新しい説が出され、そこからまた議論が起きるのは大切なことだと思う。

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2012年09月11日

小黒世茂著『熊野の森だより』


写真、楠本弘児ほか。

和歌山市加太(かだ)に生まれ、大阪に住む著者が、熊野の山や海や森や神々や、そこに暮らす人々について記したエッセイ集。ところどころに著者の短歌が効果的に使われている。
ながき影くねらせ川をのぼる蛇あるいは蛇をくだりゆく川
人よりも山猿どものおほくすむ十津川郷へ尾のある人と
エッセイのタイトルをいくつか挙げると、「松煙墨」「ニホンオオカミ」「山蜜切り」「お燈祭り」「あんとくめの寿司」「夜鰻」「那智の大滝」「ヒダル神」など。熊野の風土や生活に密着した内容であることがよくわかる。
 明治生まれの祖父は、鯛の一本釣りの名手であった。父は漁師をいやがったが他にいい仕事もなく、若いころは祖父とともに沖まで櫓をこいだ。
 お隣さんとは魚や野菜を交換し、米櫃のなかも漬物樽のなかものぞき合うほどの、あけすけなつき合いだった。
「今日も、財布の口を開けんでも済んだよし」
と、祖母は毎日しまつの自慢。いまから思えば、まことに質素な暮らしをしていたものである。
著者の生まれ育った漁師町加太の暮らしである。
こうした原体験が、著者の文章や短歌の太い根っこになっているのだろう。

2008年8月8日発行、本阿弥書店、2200円。

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2012年09月10日

どくだみと河野裕子(その2)

どくだみの生葉(なまば)の何かが作用して洗ひゐる間(ま)に元気になれり
                                        『母系』
からからに乾きゆくまでの何日か取込みしどくだみ夜中(よるぢゆう)にほふ
どくだみは好きな花です二、三本挿したる壜を見える所に
カミソリ負けしてゐる顔にぬりてゆくドクダミ化粧水焼酎の香つよし  『蝉声』
手作りのドクダミ化粧水なじませて肌おちつけり今は眠らむ
ドクダミの葉を摘んだり、乾かしたりしたのは、化粧水を作るためだったらしい。このドクダミ化粧水については、河野さんがかつて「塔」の編集後記に次のように書いていた。
六月はドクダミの季節。せっせと採集している。これで一年分の煎じ薬と化粧水を作るのだ。水洗いしているだけで元気が出るという効能もある。 「塔」2006年6月号
3か月後の編集後記では、さらに詳しく作り方について記している。
六月の白い花が咲くころ、全草を採ってきてよく水洗いする。細かく刻んでミキサーに入れ、十薬と同量くらいの焼酎を加えてよく混ぜる。これをガーゼで丁寧に濾す。冷蔵庫に二週間ほど入れておいて、グリセリンを混ぜてできあがり。焼酎やグリセリンの量は適当でいい。この化粧水を使い続けて五年。化粧水を買ったことがない。とてもいい。因みにどくだみ茶も毎日愛用している。 「塔」2006年9月号
とにかくドクダミがお気に入りだったようだ。さらに
ドクダミの生茎(なまくき)齧りて歌つくる可笑しくなりぬ河野裕子を  『母系』
という強烈な歌もある。ドクダミの茎って、一体どんな味(?)がするんだろう。

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2012年09月09日

どくだみと河野裕子(その1)


IMG_3104.JPG

河野裕子・永田和宏著『たとへば君』の中で、永田さんは河野さんと初めて出会った時のことを、次のように書いている。
私の所属しはじめた「塔」という結社誌を見せたら、彼女はその表紙にとても興味を示した。須田剋太(こくた)画伯によるドクダミの表紙だった。「塔」は創刊以来、主宰者の高安国世先生の友人ということで、須田画伯の表紙絵を半年ごとにいただいていたのである。私が河野に見せたのは、たぶん七月号だっただろう。グレイの単色刷りの表紙だが、切り絵のようなタッチのドクダミの白十字の花が数片、鮮やかに浮き出している。
昭和42年7月、京都の学生が集まって作った同人誌「幻想派」の顔合わせの歌会の場面である。須田剋太は司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズに同行して挿絵を描いたことでも有名な画家。「塔」は昭和29年の創刊から平成2年に須田が亡くなるまでの37年間、表紙に須田の絵を使わせていただいていた。

文章はさらに、次のように続く。
河野は、付きあいはじめた頃から植物に対しては異常なほどの興味を示し、特に特徴のない野の草花の名前をよく知っていた。ドクダミも好きな花らしく、その号を手にとってしげしげと眺め、そして載りはじめたばかりの私の歌なども、そこで読んだはずである。
確かに河野さんはどくだみが好きだったようで、どくだみを詠んだ歌がたくさんある。第1歌集『森のやうに獣のやうに』でも、悲しい場面でその印象的な白い十字の花(苞)が詠まれている。
にくしみに冷えつつ摘みし十薬の白十文字の花逆さ干す 『森のやうに獣のやうに』
今さらに恨むせんすべなきものをどくだみは匂ふ闇に光りて
肌ざむき欠落の時もどくだみは闇に十字に連なり咲けり

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2012年09月08日

高野公彦著『鑑賞・現代短歌5 宮柊二』


秀歌百首とその鑑賞が載っているシリーズの一冊。巻末に、さらに「秀歌三百首選」と略年譜も載っており、歌人の全体像を掴むのに良い本である。

宮柊二の歌はあまり鋭さや巧さは感じないが、何とも言えない滋味のようなものがある。師の北原白秋とも高野公彦とも作風は違うのが、師弟関係の面白いところかもしれない。
いろ黒き蟻あつまりて落蝉(おちぜみ)を晩夏の庭に努力して運ぶ   『晩夏』
湯口(ゆぐち)より溢れ出でつつ秋の灯に太束(ふとたば)の湯のかがやきておつ
                        『多く夜の歌』
海(うな)じほに注(さ)してながるる川水(かはみづ)のしづけさに似て年あらたまる
                        『藤棚の下の小室』
鑑賞文は初出との異同や年譜的事実などのデータを押さえつつ、丁寧で行き届いた読みを記した内容となっている。また、「〈こと〉を述べるには動詞が幾つか必要だが、〈もの〉を描くには動詞は多くを必要としない」「文学者の好む素材は、その人の文学の質をおのずから物語っている」など、随所に高野自身の歌論とも呼ぶべきものが含まれている点も見逃せない。

2001年10月20日、本阿弥書店、2000円。

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2012年09月07日

吉川宏志歌集『燕麦』(その2)


作者は時事詠・社会詠にも意欲的に取り組んでいる歌人である。この歌集にも、そうした歌が数多くあり、歌集の一つの核となっている。
「線路内に入られたお客様」のこと いくたびも聞く我らお客は
ぬぐわれし跡とも見える染みありて白き車体は駅に入り来(く)
種牛の雄を選びて守りつつ雌は単純に殺されゆくか
いつか殺す牛ゆえ遅速の違いのみと 正しきことを人間は言う
もうこれしか飲めないのよと言っていたレモン水そのかすかなる泡
この遺影に記憶はかたまりゆくならむいろいろな顔を見てきたけれど
火山灰(よな)の降り本の表紙のざらつくを払い払いて納入したり
ワイパーに砂鉄のごとく溜まりたる灰を洗えり書店の人は
段ボール切りて〈廃炉〉と書きたりき寒風のなか羽撃(はたた)きやまず
数千のなかの一人とおもえども 鳥群(とりむれ)に過ぎぬとおもえども
1、2首目は電車への飛び込み事故を詠んだもの。通勤途中で遭遇した場面だろう。
3、4首目は作者の故郷である宮崎県で発生した口蹄疫の歌。「正しきこと」の持つやるせなさがよく表れている。
5、6首目は河野裕子の死を詠んだ挽歌。
7、8首目は新燃岳の噴火の歌。出張で宮崎市へ行った時のものであり、単なる時事詠ではなく仕事詠でもあり、また故郷への思いがベースになっている。
9、10首目は原発反対のデモに参加した時のもの。角川「短歌」8月号の時評でも取り上げたが、自らの立場を鮮明にして、一歩踏み込んで詠んでいる印象を受けた。

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2012年09月06日

十和田湖の旧陸軍機のその後


十和田湖の湖底に沈んでいた旧陸軍の一式双発高等練習機が引き揚げられたというニュースが流れた。詳しくは→ 産経ニュース

この機体については、2年ほど前にこのブログで触れたことがある。→「十和田湖の旧陸軍機」 (2010年8月13日)

もともと、今から10年近く前に、小池光の
十和田湖に墜落したる零戦が引き上げられしこともかなしも  『静物』
という歌について調べていて、十和田湖にこの一式双発高等練習機が沈んでいることを知ったのであった。(そして、零戦が墜落した事実がないということも)

引き揚げ作業は順調に進んでおり、将来は三沢航空科学館での展示が検討されているとのこと。展示が実現した暁には、ぜひ見に行きたいと思う。

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2012年09月05日

吉川宏志歌集『燕麦』(その1)

江戸の世に紙飛行機は無かりしや春の光のなかを滑りて
幼くて自動扉のひらかねばぽんぽんと跳ぶガラスのむこう
紅葉散る吉備路(きびじ)は鬼が行くところびーんびーんと影長くなる
窓あけるときには前にいる人の助けを借りたそのころのバス
映画三つ借りて来たりぬ飛び石のように老いゆくジュリエット・ビノシュ
鯉の背に赤き地図あり泥ゆらぐ水のなかより浮かび来たりぬ
晴れながら寒き風吹く日となりぬ竹は崑崙こんろんと鳴る
読み終われば抜け殻のようになる本を売りにゆきたり免許証を持ちて
秋の日の郵便局は銀いろの秤(はかり)の上に速達を置く
凍らせぬためほそほそと流しいる水道に似て夜更け覚めいつ
2008年から2012年までの作品482首を収めた第6歌集。

いいなあと思う歌はたくさんあって、付箋を貼っていくとキリがない。
上に引いた10首は、どれも表現や言葉の上での工夫があって印象に残る。

「飛び石のように」「赤き地図」「崑崙こんろん」といった言葉によって、一気に歌が立ち上がる。日常的な場面を詠んでいても、詠み方次第で良い歌になるということがよくわかる。

2012年8月1日、砂子屋書房、3000円。

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2012年09月04日

行きずり?


IMG_3101.JPG

先日、和倉温泉へ行った時に見かけた電柱の広告。

「行きずり」って、変った名前のお店だなあと思って見ていたのだが、そうではなかった。横に小さく「雪吊り」と書いてある。あの、兼六園などでよく見かけるやつだ。

あれは「ゆきつり」と言うのだと思っていたのだが、「ゆきづり」と濁音になることの方が多いようで、広辞苑にも「ゆきづり【雪吊り】」で載っている。

そして、ローマ字で書くと「ず」も「づ」も「ZU」になってしまうわけだ。
なるほど。

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2012年09月03日

金井美恵子と短歌


金井美恵子の短歌嫌いは今に始まったものではなく、相当に根が深いようだ。

エッセイ集『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』(1989年)の中に俵万智歌集『サラダ記念日』の書評がある。その中で金井は短歌について次のように記している。
言うまでもないことだが、短歌というものは天皇を頂点とする文化のヒエラルキーにつらなる言葉によって形成される詩形で、浅田彰風に言うならば、さだめし、「土人の詩」ということにでもなろうか。
初出は「文学界」1989年7月号。短歌のことを「土人の詩」だと言っている。今から20年以上前の文章であるが、おそらく短歌に対する認識はこの頃から変っていないのだろう。

ちなみに「浅田彰風に言うならば」というのは、同じ「文学界」の1989年2月号に載った浅田の次の発言を受けたものだ。
連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです。
昭和天皇の病気の平癒を願って皇居前広場に跪く人々のことである。前年の1988年9月19日の吐血から1989年1月7日の崩御に至るまで、こういった光景がしばしばニュースで報じられた。

そして、こうした人々の姿と短歌という詩形とが、金井の中では分かち難く結び付いているというわけである。

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2012年09月02日

長縄光男著『ニコライ堂小史』


副題は「ロシア正教受容150年をたどる」。ユーラシアブックレットNo.169。

ユーラシアブックレットは、旧ソ連の諸国(ロシア、ウクライナ、グルジア、アルメニア、カザフスタンなど)に関する内容を記したシリーズ。他ではあまり取り上げられないテーマを扱ったものが多く、手軽で役に立つ。

今回は東京の御茶ノ水にあるニコライ堂の歴史について。小学5年生の頃、毎週千代田線の新御茶ノ水駅に通っていたので、ニコライ堂の印象的な外観はよく覚えている。

今年はニコライ大主教が亡くなって100年目に当たるそうだ。

2011年10月20日発行、東洋書店、600円。

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2012年09月01日

里子さんの歌


永田淳歌集『湖をさがす』には人の名前が数多く出てくる。
その中に、「里子さん」を詠んだ歌が2首ある。
里子さんつねに制服姿にて立ちておりにき母の机上に
二度三度抱かれしこともありにけん里子さん歌うべし母あらざれば
里子さんとは、河野さんの大学時代の同級生で親友だった河野里子さんのこと。以前、「亡きひとのこゑ」という文章(「短歌往来」2011年1月号)で書いたように、河野さんの歌にしばしば登場する人である。

河野里子さんは昭和52年に30歳で自死している。淳さんが4歳の時のことだから、確かに「二度三度抱かれ」たこともあったかもしれない。

一首目の「制服姿」の写真は、最近、角川「短歌」8月号の河野さんの特集の写真ページに載っていた。額に入った制服姿の河野里子さんの写真に、淳さんの次のようなコメントが添えられている。
【河野里子さん】母の机の上には常に制服姿の女性が立っていた。彼女は私の物心がついた頃から、ずっと立ち続けていた。河野里子さん。彼女がどういった人であったかは母の歌集を読むまで知らずにいた。(…)
河野里子さんは、詩を書く人でもあった。以前、このブログでその詩をいくつか紹介したことがある。→「かわのさとこの詩(その1〜その4)」

『湖をさがす』にはこんな歌もある。
定食の焼きサンマの背骨まで食ってしまえり松村正直

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