2012年08月31日

「はいだるい」


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NHK学園の短歌大会に参加するため、能登の和倉温泉へ。

和倉温泉駅前にある喫茶・レストラン「はいだるい」で昼食をとる。
「はいだるい」はお店のHPによれば
石川県中能登地方の方言です。元々は「つまらない」「しょうもない」などを意味しますが、仲のいい人を励ます時にも使われる、ほのぼのとした温かさのある言葉です。
とのこと。

ここの名物「はいだるいカレー」(850円)は炒めた野菜とタコやイカがたっぷり入っている、ちょっと変ったカレー。これがかなり美味しい。独特のコクがあって、何度でも食べたくなるような味であった。

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2012年08月29日

秋道智彌著『クジラは誰のものか』



著者は人類学者で、総合地球環境学研究所名誉教授。

クジラと日本人、クジラと人間との関わりについて、経済、文化、政治、歴史、環境など多面的な角度から論じた本。「捕鯨か反捕鯨か」「消費か非消費か」「商業捕鯨か原住民生存捕鯨か」といった二元論に立つのではなく、クジラと人間との関係は多様であり、その多様性を守ることこそが大事なのだと主張する。

例えば、捕鯨に代るものとして、反捕鯨国や団体が推奨する「ホエール・ウォッチング」や「ドルフィン・スイム」についても、著者は次のように述べる。
イルカと遊ぶドルフィン・スイムの体験者と、捕鯨でクジラを仕留める捕鯨者とはまったく違った世界にいるようなものの、体験という共通項で両者はどこかで共有できるものをもっているはずだと考えたい。それはほかでもない、生き物との直接対決ということである。
この文脈で考えた時、おそらく両者の対極にあるのは、クジラに対して無関心であること、海の生き物に対して関心を持たないことなのだということが、よくわかる。そして、実はそちらの方が問題としては深刻なのかもしれない。

2009年1月10日発行、ちくま新書、740円。

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2012年08月28日

坂田博義の実習日誌(その5)


坂田の「実習日誌」はリアルタイムで誌面に掲載されたものではない。掲載当時(1961年9月号)、坂田は既に社会人1年目の生活を送っていた。教育実習に行ったのは大学3年の冬なので、約1年半も前の話である。

短歌とは何の関係もない「実習日誌」が掲載された理由については、坂田自身が編集後記に記している。
□大学三年の時、郷里で教育実習をした。その時の実習日誌をのせさせていただいた。今からみると随分恥ずかしいことを書いているが北国の田舎の様子を拙文から察していただけるとうれしい。
繰り返しになるが、坂田はこの時、既に「株式会社マツダオート大阪」のサラリーマンとして働いていた。そんな彼が、一体どのような思いでこの「実習日誌」を「塔」に載せたのだろう。自分の選ばなかった教師という道を、あるいは夢に思い描いていたのかもしれない。

「実習日誌」が誌面に載ってから2か月あまり後、11月28日に坂田は自殺する。24歳。新婚の妻とお腹のなかの子を残しての死であった。
帰りきてまぼろしのごとき二人の部屋これは必ず守りぬくべし 『坂田博義歌集』
橋づめに石の獅子立つ難波橋 今日かなしまず吾れわたりゆく
うちつけに西陽さしこむ部屋に臥す妻おもいつつ働きており
さまざまの形の橋をわたりしがわたりて楽しき街あらざりし
いつよりのたてじわ切りきずさながらに蒼く額にきざまれたりし〈絶筆〉

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2012年08月27日

映画「アーティスト」


京都映画センターの上映会があり、四条烏丸の「シルクホール」で観る。
監督:ミシェル・アザナヴィシウス監督、主演:ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ。フランス映画。モノクロ。100分。

舞台は1927年から1932年までのハリウッド。サイレント映画からトーキーへと時代が変化していく中で、没落していく男優と、反対に人気を獲得していく女優との物語。

ストーリー自体はよくある話なのだが、俳優の演技や映画の手法が素晴らしい。実によく出来ている。サイレント映画仕立てになっていて、ほとんど台詞はないのだが、それがかえって想像力をかき立てて楽しい。犬の演技も絶品。

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2012年08月26日

坂田博義の実習日誌(その4)


昨年長野で開催された「塔」の全国大会で、池本一郎さんにインタビューをした。「池本一郎に聞く〜高安国世・信州・清原日出夫」というタイトルの通り、主に高安国世と清原日出夫に関する話を聞いたのだが、その中に坂田博義の話も出てきた。
池本 坂田さんというのは着流しで歌会に来る学生なのね。ある時、歌会が済んでからレストランに行くと、ナイフとフォークをバーンと床に投げつけるんですよ。僕はこういうものは嫌だから上手にならん!って言ってですね。

松村 ナイフとフォークの使い方がうまくいかなくてということですか?

池本 うん。新京極だったかな、もう席を立ってね、ナイフとフォークを床にほうりつけたる。そういうのを見て、こっちはびっくりしちゃってね。
二十代で「着流しで歌会に来る」というのにも驚くが、ナイフとフォークのエピソードは初めて聞いたもので、坂田の性格がよく表れているように感じる。
池本 (…)だけど日本はかつてない高度成長期の入口に入ってたんですよね、昭和三十六年、七年というのは。坂田がマツダオートの車のセールスする。車社会への象徴みたいですが、他の仕事がなかったのかもしれないんだけど、どうしてああいう職業に就いたのか。仮定ですけどね、学校の先生か何かだったら、いい先生として生徒にとても喜ばれる職業人であったかもしれない。ところが、ナイフとフォークを投げつけるような人がセールスに向くかって考えるとね。
この話を聞いた時には「学校の先生か何かだったら」というのは、ただの思い付きの話のように思っていたのだが、実はそうではなかったのだ。教育実習に行っていた坂田には、卒業後に学校の先生になるという道もあったわけである。

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2012年08月25日

坂田博義の実習日誌(その3)


実習三日目。
二月二十四日

○高さ六尺、はば一間半の本棚が職員室においてある。それに、生徒用の図書が八分どうりおいてある。これは昼休の三十分を利用して、図書部によつて貸しだされる。
 どの様な本を読むのか、みていた。大凡の生徒の読書欲はあまり高いといえないもののようだ。
 ただ、生徒の貸出票をみると、なかにパールバックの「大地」を一巻から読みつづけている者がいた。
 雑草の中に芽ばえたすぐれた資質をみる思いがした。

○今日も出張した先生の補欠として、一年生の国語を教えた。
 宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」が題材であつた。僕はこの詩は優れてはいるが、君等はもつと多くを希んでよいのだと教えた。
 もつと多くを希み、それがかなえられる社会をつくらねばならないのだと教えた。教えてゆき声がたかぶるのをとどめ得なかつた。
「それがかなえられる社会をつくらねばならない」といった言葉には、ある種の正義感と60年安保の時代の雰囲気を強く感じる。坂田は熱心に教育実習に取り組んだようだ。

こんな感じで三月五日まで、13日間にわたって実習日誌は続いている。
しかし、実際に坂田が教師になることはなかった。

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2012年08月24日

角川「短歌」9月号


角川「短歌」9月号の歌壇時評に「短歌への嫌悪感」という文章を書いた。

これは金井美恵子さんの論考「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」について書いたもの。

金井さんの文章は5月に出たムック『KAWADE道の手帖 深沢七郎』に載っているものなので、時評としては既にタイミングを逃してしまった感じ。ただ、短歌雑誌や短歌関係のネットなどでこの文章が話題になっているのを見たことがないので(話題になっていたら教えて下さい)、それならば自分がと思って書いた次第。

歌人がこの文章を読んだ上で無視しているのなら良いのだが、はたしてどうなのだろう。もし、歌人や短歌関係者に読まれていないのだとすると、金井さんの努力も全くの無駄になってしまう。

『KAWADE道の手帖 深沢七郎』は、大きな書店に行けば今でも並んでいるので、私の時評だけでなく、金井さんの論考もぜひご一読下さい。

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坂田博義の実習日誌(その2)


実習二日目。
二月二十三日

○今日もとても寒かつた。職員室の大きなストーブに大割の薪がどんどんくべられる。いかにも新しく開拓された土地らしい。

○生徒がきわめて遠くから通学しているのには胸をうたれる。最も遠いものは十キロの雪道をかよつてくる。
 その道は夏には熊のでる道である。たちまちにしてどうしたらよいのかわからない問に逢着した。
 たとえば、この様な学校に赴任したとしたら、教師たるもの、いかにすればよいのであろうか?
 往復二十キロの通学に消費するエネルギーは、成績はもとより、肉体的成長をもはばんでいるのだ。つきつめれば政治の貧困ということになろう。私の若い情熱を僻地教育にささげるのも楽しいと思つたのは、雪道を汗まみれになつて登校する生徒を目撃したからだ。

○本校の構成は職員五名、生徒一一二名である。
片道十キロの雪道を歩いての通学、それも毎日のことであるから大変だ。この時点で坂田は「若い情熱を僻地教育にささげる」ことも考えに入れていたらしいことがわかる。

坂田は昭和12年に函館に生まれ、8歳の時に道東の上士幌町に移り、昭和32年、立命館大学入学を機に京都に来ている。そんな坂田の眼に、ふるさと北海道と都会である京都はどのように映っていたのだろうか。

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2012年08月23日

坂田博義の実習日誌(その1)


「塔」1961年9月号に坂田博義の「実習日誌」と題する文章が載っている。坂田は清原日出夫とともに60年安保の時期に「塔」で活躍した歌人。昨年亡くなった坂田久枝さんの夫でもあった方だ。

今日からしばらく、その実習日誌(教育実習の様子を綴ったもの。誌面で4ページ分)をご紹介していきたい。
二月二十二日

○梅のほころびていた京都から帰省すると、網走本線の小駅の当地はひどく寒い。氷点下二十二度。十勝平野の北端にあたり、大雪山系と阿寒山系から波のように丘陵がせまつていて、大平原のおもかげはない。凍雪(しみゆき)の野にたつと、深い静寂があたりをおしつつみ、ここまで都会の喧騒もおよぼうとしない。

○実習校は私の家と庭つづきである。当地は北海道でも最も寒く、冬期間は九時に始まる変則時間割をくんでいる。
 校長先生ならびに教頭先生は出張されていたが、立命館の先輩の宮川先生がいろいろめんどうを見て下さつた。

○出張された先生の補欠として、一時限目、一年生の数学、三時限目、一年生の国語を教えた。
 私の取得希望教科は「社会」だが、いろいろの教科を教えてみることも無意味でないと考えて、勇んで教壇にたつた。

○指導案の作り方について、宮川先生にいろいろおそわつた。
教育実習の初日。「氷点下二十二度」という寒さに、まず驚かされる。

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2012年08月22日

全国大会を終えて


今年の「塔」の全国大会は、初日が四十数名×6会場の歌会と夜の懇親会、二日目の午前は全体歌会と「選者に聞く」、そして午後は一般公開のシンポジウムという日程だった。

シンポジウムは、まずアンドロイド劇場「さようならver.2」の上演があり、続いて平田オリザさん(劇作家・演出家)、力石武信さん(大阪大学石黒研究室)、江戸雪さん(司会)によるアフタートーク、その後、休憩を挟んで平田オリザさん、永田和宏さん、栗木京子さん、松村(司会)によるパネルディスカッション「演劇のことば、詩のことば」という内容。

「人間とは何か」を考えるためにアンドロイド研究が必要なように、「短歌とは何か」を考えるためには、別のジャンルとの交流が必要なのだと思う。短歌のことだけを考えていても、たぶん短歌はわからないのだ。

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2012年08月20日

選歌に殺されし(その2)

宮先生を蝕みしもの戦争と病ひと選歌ありしを思ふ
             高野公彦『地中銀河』
選歌に殺されしとう宮柊二をこの頃肯定しているしかも本気で
             永田和宏『百万遍界隈』
宮柊二の選歌について詠まれたこの二首は、いずれも自身が選歌している場面を詠んだ一連に入っているものである。
良き歌を見落すなかれ選歌する夜半に亡師の低き声せり
書きなぐりの字を読み解きて選歌するこの悲しみは言はむ方なし
採らざれど心に残る歌ありてまた惜しみ読む選終へしあと
             高野公彦『地中銀河』
午前五時「塔」の選歌の終わりたり夜の明けるまでをぼう然と居る
しとしとと椿の花は落ちつづく選歌を終えし夜明けの庭に
とりあえず眼鏡のあわぬ所為(せい)にして眼精疲労も疲れの一部
             永田和宏『百万遍界隈』
自分が選歌をする立場になって、あらためて選者の苦労や大変さが身に沁みてわかるようになったということなのだろう。

河野裕子にも選歌について詠んだ歌が何首もある。
選歌せし三百六十枚が熱(ほめ)く上(へ)に両手をつきて立ちあがりたり
不忍池は見ゆれど水嗅がずめぐり歩かず選歌を続く
軽井沢に来てまで一日つぶつぶと書きて選歌す貧乏性は
病院は白衣の人のみが足早ぞ待合室に選歌をしつつ
             河野裕子『日付のある歌』
上野のホテルや軽井沢のペンション、そして病院の待合室でも時間を惜しんで選歌していた河野さんの姿である。今さらではあるけれど、本当にありがたいことだったと思い、しみじみとした気持ちになる。

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2012年08月18日

選歌に殺されし(その1)


宮柊二を詠んだ歌としては、永田さんの次の歌も忘れ難い。
選歌に殺されしとう宮柊二をこの頃肯定しているしかも本気で
             永田和宏『百万遍界隈』
「殺されし」という表現にギョッとする歌だが、この発想の元になっているのは、たぶん次の歌だろう。
宮先生を蝕みしもの戦争と病ひと選歌ありしを思ふ
             高野公彦『地中銀河』
宮柊二の肉体を蝕んだものとして、戦争や病いと並んで「選歌」が挙げられている。
高野公彦著『鑑賞・現代短歌5 宮柊二』の中には、次のような文章がある。
選歌についやすエネルギーも厖大だった。毎月一回「コスモス」編集会があるが、それに間に合わせるために二日連続で徹夜して選歌をした。千人以上の会員の歌(一万首以上)の全てに眼を通し、自分で選ぶのである。編集会の当日、柊二は睡眠不足と疲労のため眼のふちに黒い隈(くま)ができていた。
二日連続で徹夜というのだから凄まじい。
ちなみに、この鑑賞で取り上げられている宮柊二の歌は
締切を守りてくれぬ編輯部の歌詠みどもを憎みつつ寝ん
                  『忘瓦亭の歌』
というもの。結社誌を毎月毎月刊行し続ける苦労というのは、今も昔もきっと変らないのだろう。何とも身につまされる歌である。


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2012年08月17日

力あるまなこ

力あるまなこはわれを測りゐき宮柊二五十九歳卓を隔てて
                  河野裕子『体力』
この歌に似た場面のことを、河野さんは次のように語っている。昭和44年の角川短歌賞の授賞式の場面。
(…)ふと顔を上げると、斜め向かいに宮先生がおられて、瞬きもせず、じーっとこっちを見ていらした。見竦(みすく)められるって、あれですね。私はハッと固まってしまいました。宮柊二先生はあのとき、まだ二十二、三歳の私を「これはどれだけのものか」と計っていらしたんですね。         『私の会った人びと』
ただし、この時点(昭和44年6月)では宮は56歳なので、歌に詠われているのは別の時のこと。おそらく、昭和47年5月に第1歌集『森のやうに獣のやうに』を出版したあと、横浜に住むことになり、永田さんと二人で宮柊二の自宅に挨拶に行った際のものだろう。当時、宮柊二59歳、河野裕子25歳である。

ちなみに、宮柊二(1912年生まれ)と河野裕子(1946年生まれ)の歳の差(34歳)は、高安国世(1913年生まれ)と永田和宏(1947年生まれ)の歳の差と一緒。

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2012年08月16日

河野裕子と宮柊二


河野裕子の第5歌集『紅』には、1986年の宮柊二の死を詠んだ一連「宮柊二」がある。
死者として額(ぬか)ふかぶかと宮柊二この世の涯のひと夜をありつ
白骨となりてしまひし先生に黒き靴はき会ひにゆくなり
宮柊二の死をばはさみて歩みつつ昔のこゑに人は黙せる
当時、河野さんは「コスモス」の会員であり、宮柊二は河野にとっての先生であった。
これ以降、河野の歌にはしばしば宮柊二を偲ぶ歌が登場する。
ゆつくりと湯槽(ゆぶね)よりあげし顔貌は宮柊二言ひし 壮年の修羅  『紅』
歌書きて妻子を食はせし宮柊二せつなや明日まで十首が足りぬ
力あるまなこはわれを測りゐき宮柊二五十九歳卓を隔てて
その肌(はだへ)死灰と詠みし宮柊二寒かりしならむ最後の一年  『体力』
押入れに顔入れて泣きし宮柊二、折ふし思ひ四十代終る  『家』
栞ひも切れてしまひし『宮柊二歌集』開きてをれば歯科医がのぞく  『葦舟』
4首目の「死灰」の歌は、宮柊二の次の歌を踏まえている。
昼寝する己れを夢に見下せり死灰の肌は亡き父に似る  『緑金の森』

「死灰(しかい)」はあまり目にしない言葉であるが、広辞苑によると「火の気のなくなった灰。転じて、生気のないもののたとえ」とのこと。自らを凝視する冷徹な目を感じさせる歌だ。

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2012年08月15日

宮柊二の歌碑


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新潟県佐渡市の「トキの森公園」を訪れたところ、宮柊二の立派な歌碑があった。「朱鷺幻想」と題する長歌+反歌2首が刻まれている。昭和38年の元日の新潟日報紙上に掲載されたもの。(歌集『藤棚の下の小室』に収録)

「…わだつみの最中(もなか)の島に、絶えゆかむ命をつなぎ、種(しゆ)の持続(ぢぞく)僅かに残す、Nipponia nippon(ニツポニア 二ツポン)、…」と詠われた日本産の朱鷺は、昭和56年の全数捕獲や繁殖の努力にも関わらず、平成7年の「ミドリ」(雌)、平成15年の「キン」(雄)の死亡によって絶滅した。

しかし、その後、中国から譲り受けた朱鷺のペアによる繁殖が成功し、今では野生復帰を果たすまでになっている。ちなみに今年7月13日現在、日本に生息する個体数は267羽。そのうち68羽が野生に放たれているということだ。

・・・そんなに増えていたのか、トキ。

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2012年08月14日

プレミアムドラマ


8月26日(日)22:00〜23:00、NHKBSプレミアムで、河野裕子さんのドラマが放送されます。

プレミアムドラマ 「うたの家 〜歌人・河野裕子とその家族」

原案は永田和宏著『歌に私は泣くだらう』(新潮社)。出演は、風間杜夫、りりィ、蟹江一平、倉科カナほか。

以上、お知らせまで。

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2012年08月13日

米川千嘉子歌集『あやはべる』

最後の試合終はりたる子のユニホーム洗へばながく赤土を吐く
北浦に蓮田あをあを揺るる昼だまし絵のごと人ははたらく
経師屋さん鍛冶屋さんとぞ呼ばれゐし老人死にて職業も消ゆ
近代の子どもの情景澄みとほるおほく子を死なす男おやの歌
たくさんの香りを知らず亀は死に木香薔薇のしたに埋めたり
パパとママはいまけんくわしてますと配達の人に言ひたる四つの息子
栗ばかり選り分けたがる子のをらず栗ごはんふうと吹けば秋風
友の夫働かぬことわれのみが怒りて友はひつじ雲描く
聞こえない話にもはや相槌をうつこと止めし母に逢ふ 秋
わかり合ふ女子会ひとり抜けてきて黄葉の街に食ひ込んでゆく
2007年半ばから2012年2月までの作品473首を収めた第7歌集。
タイトルの「あやはべる」は蝶を意味する(沖縄の?)古い言葉。漢字では「綾蝶」と書くそうだ。

「息子予備校生」「息子進学で家を出る」といった詞書があり、三人家族の形に変化のあったことがうかがえる。一人息子や年老いた母を詠んだ歌に印象的なものが多い。

2012年7月24日、短歌研究社、3000円。

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2012年08月12日

春日山神社


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春日山神社(新潟県上越市)に立つ忠魂碑と砲ならび砲弾。忠魂碑は大正時代のもの。砲は1898年のロシア製で、日露戦争の戦利品のようだ。

この神社は1901年、上杉謙信の居城であった春日山城跡に、童話作家小川未明の父が建立したもの。境内には上杉謙信や小川未明に関する資料も展示されており、時代の入り混じった何とも不思議な空間となっている。

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2012年08月07日

零戦?


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京都府南丹市の「るり渓温泉」の一角に「ゼロ戦研究所」という建物(というか、ガレージのようなもの)があり、そこに飛行機が展示されている。

こんなところに零戦が!と思って写真を撮ったのだが、どうも本物の零戦ではないらしい。

調べてみたところ、米ノースアメリカン社製のT‐6Gという機体に零戦風の塗装を施したものというのが真相のようだ。日本の航空自衛隊でも使われていた機体で、映画でも零戦に改造されて登場したりするとのこと。

いずれにせよ、夏休みで賑わう「るり渓温泉」の片隅で、誰に見られることもなくひっそりと展示されている。

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2012年08月06日

野一色容子著 『ナンジャモンジャの白い花』


副題は「歌人 清原日出夫の生涯」。

副題にある通り、60年安保を詠んだ歌人として知られる清原日出夫の評伝である。「開放区」84号(2009年2月号)から7回に渡って連載された文章に大幅に加筆したもの。清原に関する評伝としては、おそらく初めてのものであろう。清原の生い立ちや60年安保後の生涯など、これまで詳しく知られていなかった内容も多い。

北海道中標津町にある清原の生家は、1961年に高安国世が訪れてエッセイや歌に残している場所だ。その「清原牧場」が現在も清原の兄の孫の世代に受け継がれ、100頭以上の牛を飼育する大きな牧場になっていることなど、今回初めて知った。
何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ
一瞬に引きちぎられしわがシャツを警官は素早く後方に捨つ
産み月に入りし若牛立ちながら涙溜めいること多くなる
新雪(あらゆき)に脚切りし馬の鮮血が続けり椴の森内深く
それぞれは秀でて天を目指すとも寄り合うたしかに森なる世界
清原日出夫の再評価にもつながる貴重な一冊であり、ぜひ多くの方にお読みいただきたい。

2011年12月15日、文芸社、1400円。

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2012年08月04日

二つの『真実』(その3)


「塔」の昭和29年10月号の編集後記でも、高安は平井貴美子について触れている。
□この夏に堪えられず平井貴美子さんが亡くなつた。「塔」にとつても大きな損失だ。今更に人の命の切なさを思う。この死を無駄に終らせないために、遺歌集を作ることを考えているうちに、これを機会に僕たちの歌集を次々に出そうと思うようになつた。思い切り廉価で、多くの人に親しまれるような形をとろう。そのためにはプリントでもいい。美しく着飾つたような歌集は僕たちには似合わない。新しい感覚で新時代の歌集を一人一人の手へ。
この文章で高安は『平井貴美子歌集』の話とともに「僕たちの歌集」を出す計画について述べている。おそらくガリ版刷りの『真実』は、この一冊だったのだろう(7月発行なので少し時期が早いけれど)。

そして『平井貴美子歌集』の奥付を見ると、
印刷所 京都市上京区紫竹上柴本町73 川岸印刷商社
とある。ガリ版刷りの『真実』を製版した「川岸由人」は、この印刷会社の人ではないかと思う。

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2012年08月03日

二つの『真実』(その2)


ガリ版刷りの『真実』の謎を解くカギは『平井貴美子歌集』にある。この歌集は昭和29年12月10日発行の非売品だが、判型や体裁がガリ版刷りの『真実』とそっくりなのである。

平井貴美子は昭和27年から29年にかけて「関西アララギ」や「塔」で歌を作っていた方で、結核を患う療養歌人であった。京都市右京区鳴滝にある国立宇多野療養所(現・独立行政法人国立病院機構宇多野病院)に入所していたらしい。

平井さんの「塔」への出詠は昭和29年4月の創刊号から9月号までのわずか半年のこと。闘病生活の末に8月14日に33歳で亡くなっている。同年10月号の「塔」には「平井貴美子さんを憶う」(高安国世)、「平井さんのこと」(太宰瑠維)という二つの追悼文が載った。
  我が踵うすべに色にやわらかく八年ほとほと臥り来しかも  平井貴美子
  癒ゆるのぞみもはや失せたる現身にほのぼの兆す恋を怖れぬ
  とりたてて言ひ遺すべき事もなく死ぬかも知れぬと思ふ日続く

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2012年08月02日

二つの『真実』(その1)


高安国世の第二歌集(発行順では最初の歌集)『真実』は、昭和24年7月30日に、高槻発行所から刊行されている。B6判182ページで、1ページ4首組み。定価は180円。

高槻発行所というのは出版社の名前ではなく、当時高安が所属していた関西アララギ会の結社誌「高槻」の発行所という意味である。発行所の住所は「高槻」の編集発行者であった大村呉楼の自宅となっている。

実は、この高槻発行所から出た『真実』以外に、一回り小さなガリ版刷りの『真実』というものが存在する。昭和29年7月14日発行で、巻末には「製版 川岸由人」と書かれている。90ページで、1ページ8首組みとコンパクトだ。

両者には他にも漢字の字体の違いがある。前者が旧字(正字)であるのに対して、後者のガリ版刷りのものは新字を用いている。例えば表紙を見ると、前者は「高安國世 眞實」であるが、後者は「高安国世 真実」となっている。これは発行の時期が5年遅いので、それだけ新字が広まっていたためかもしれない。

では、なぜこのガリ版刷りの『真実』は作られたのであろうか。そして、製版者の「川岸由人」とは一体何者なのか。

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2012年08月01日

京都深草バス停


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家から歩いて20分くらいのところを名神高速が通っている。
その高速道路上に「京都深草バス停」がある。

階段を上って防音壁の扉を外側から開けると、そこは車が猛スピードで走る高速道路。その待避線のような場所にバス停がある。

今回は用事があって長野へ。
行きは京都深草23:25発→長野駅6:42着の夜行、帰りは長野駅13:30発 → 京都深草19:18着の昼便で往復する。行きが7時間、帰りが6時間、現地滞在7時間という強行日程である。

夜更けの高速道路のバス停に一人で立っていると、本当にこんなところにバスが来るのだろうかと不安になってくる。

posted by 松村正直 at 09:24| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする