「塔」6月号を読んでいたら、こんな歌があった。
さびしさや夜の駅舎に佇める河野裕子を思ひて泣きぬ河野さんが亡くなって、もうすぐ2年。
田口朝子
今でも誌面には、こうして河野さんを偲ぶ歌が載る。
この歌は、もちろん
さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをりを踏まえたもの。
河野裕子『歩く』(2001年)
「よ」「世」「世」「夜」「雪」と繰り返される「Y」の音が、沁み透るような韻律を生み出している。
シンプルな歌であるが、どの言葉も動かない。
さびしさや夜の駅舎に佇める河野裕子を思ひて泣きぬ河野さんが亡くなって、もうすぐ2年。
田口朝子
さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをりを踏まえたもの。
河野裕子『歩く』(2001年)
むかしゐし犬のアチャコはむちゃくちゃでござりまするといへば走りきという短歌によって知っているのである。
池田はるみ 『妣が国・大阪』
花菱アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年7月10日−1974年7月25日)は、大正昭和期の漫才師、俳優である。本名:藤木 徳郎。・・・アチャコって、男だったんだ!
一極集中の現代と違って、徳川幕府はものごとを一点に集中させない方針を貫いた。東京に何でもかでも集めるのが基本政策となっている現代民主政府と違って、「三都」と称し、都の機能を果たす都市が三つあった。と述べ、さらに京都(帝都)、江戸(政都)、大坂(商都)に次ぐ第四の都として、伊勢(神都)の存在を挙げている。こうした分析一つを取ってみても、いろいろと考えさせられるものがある。
「からふと」か、「かばふと」か、以前我領土であった時は「からふと」と言うのが通称だったが、千島と交換して露国の領土になってからは「かばふと」と言うのが流行して来た、樺太の文字通りに読むと「かばふと」だが実際はそうではなくて、樺太を「からふと」と読むのが本当だ、日露戦役の結果再び我領土に帰してから「からふと」と、「かばふと」と併用されたが、今では概ね「からふと」になって来た(…)つまり、もともと「からふと」であったものが、1875年(樺太千島交換条約)〜1905年(ポーツマス条約)の間に「かばふと」と読まれるようになり、その後、再び「からふと」に戻ったということらしい。
キンダイチ君に ドッポの“疲労”その他 2,3篇を読んでもらって聞いた.それから カバフトのいろいろの話を聞いた.アイヌのこと,朝空に羽ばたきするワシのこと,舟のこと,人の入れぬ大森林のこと…….原文のローマ字の綴りを見ても、確かに「Kabafuto」となっている。
“カバフトまで 旅費がいくらかかります?”と予は問うた.
なお、三紙とも、〈樺太〉に〈かばふと〉とルビがふられているのが、印象に残った。と書かれているのである。
今ならば出ることはなき全集が古書店の棚を占めて並ぶも長年勤めてきた会社を定年退職した作者。ふるさと中津川に住む両親の世話をするために、帰省することが増えたようだ。歌は境涯詠を中心とした平明なものがほとんどで、そこに自ずから苦味のようなものが滲み出ている。師である近藤芳美の死、そして母の死といった大きな出来事が続き、なかなか悠々自適の生活というわけにはいかなかったのだろう。
自爆テロのその後を知らぬ死者たちが殺めし数を日々に見つむる
夏水仙すっくと伸びてしなやかな茎は支える六つの花を
耳遠き父がするどく母を叱るおのれの声を恃むごとくに
新聞に故郷の町の地図はあり殺人現場に×印を付けて
蜘蛛の巣は目に見えがたくなりたれど点々と浮く蜘蛛は見ゆるも
トランプの散らばりている夕暮れの坂をくだれば光るトランプ
己が糞片付けらるるを振り返り見ていて犬は歩き始めつ
ふるさとに帰りし兄はブログにて「田舎日記」を書き始めたり
母と共に食事をするためそれぞれがお盆にのせて母の部屋に行く
樺太は他者にとっては辺境であったとしても、父母や私にとっては生きた大地であり、ぬくもりを分けた郷土でもあったのだから。
空つぽの審判台のやうな空あなたがわたしを見なくなつてから
米軍のコーラの壜を溶かせしと琉球ガラスの由来はありぬ
腰が浮く腰が抜けると秋の夜の稽古にわれが炙り出される
あたらしき道を覚えぬあたらしき道は病む父見舞ふ道なり
ウオッカといふ牝馬快走その夜のわたしの肌のやすらかな冷え
苔生えし目鼻に歯ブラシ当てながらわが家の小さき地藏を洗ふ
鮎の骨まつげのやうに残りたり暮れざるうちに終へし夕餉に
離陸する別れのつよさを繰り返し見てをり秋の空港に来て
飴なめて赤い舌や青い舌垂らして子らは祭りをあるく
地ビールは濁りのなかになつかしくかつ知らない人の味がするなり
AOAEO AOAIOOO AAIEE
OOOOIUA
AUUAOAA
函館の青柳町こそかなしけれ
矢ぐるまの花
友の恋歌
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
この一冊を読んだあとに、もっと短歌を作ろう、上手くなろうとおもってもらうと嬉しい。けれど、明日から誰のせいにもしない強(したた)かな心をもって人や事物と付き合い、自分にしかできない生き方をしようとおもってもらうほうがもっと嬉しい。
なにかにすくってもらうほど私たちの棲む世界は単純でもなければ、短歌は誰かをすくうほど生やさしいものではないと私は考えています。
私は、自分がなによりもまずひとりの清潔な生活者でありたいとおもっています。つまり、人間として、なるべくできる限り自分をありのままに生きたいと願っているのです。
日本の国民国家としての頂点は、一九〇五年五月二十七日である。
科学技術は進歩する。しかし、人間そのものは進歩しない。
幸いなことに、女主人が一人でやっている不動産屋が「あなたはどう見ても悪いことはできそうにないから」と言って、一軒の貸家を見せに連れて行ってくれた時は涙が出そうなくらい嬉しかった。その木造の家は、道と道とが鋭角に交叉する角地に立つ三角形をした二階建てで、もとは老夫婦の住む煙草屋であったらしい。一階が三畳と台所・風呂・トイレ、二階が四畳半という間取りだった。二階へのぼる階段は、梯子と言った方がいいもので、老夫婦はその上り下りができなくなって引っ越して行ったのだと聞いた。「あなたは若いから大丈夫」と女主人は笑った。
移つてきてお彼岸の花ざかり 山頭火
この柿の木が庵らしくするあるじとして
「将棋に人生を持ち込むと甘くなる」羽生善治言へりわれら頷く
小池光『静物』
長考ののち穴ぐまへもぐりゆく米長の玉(ぎょく) 午後のひだまり
永田和宏『饗庭』
今日もまた若手の攻めにあえもなしダブルの背広の谷川浩司
小高賢『長夜集』