真夜中の花舗のガラスを曇らせて秋くさぐさのしづかな呼吸
ゆるやかに腎(むらと)を病みてゆくことのひそけさのなかに父の老いあり
うつうつと暗むこころに見下ろしぬ吾妻(あがつま)と利根と落ちあふところ
夏の河の水のひかりは橋上をよぎれるときに網棚に射す
ひぐらしの声はきこえて門といふさびしき場所を通り過ぎたり
雨粒が斜めに窓をのぼりきてわが飛行機は機首を下げゆく
命終に間にあわざりし祖母(おほはは)はベッドにまるく口あけてをり
終りたる今年の枇杷の花殻をかろく鳴らして風は漂ふ
ひとむらの白まんじゆしやげ咲くみちを来て赤彦のおくつきどころ
山鳩が中途半端に鳴きやみてそののち深き昼は続きぬ
大辻隆弘の第7歌集。2006年から2010年までの作品の中から360首が収められている。
この歌集を読んで一番に思うことは、短歌には何も起こらなくてもいい、ということだ。何も特別なことが起こらなくても、言葉の力だけで十分に読ませることができる。むしろ、何も起こらない方が、純粋に歌そのものを味わうことができる、とさえ言ってもいいかもしれない。
もちろん、この歌集にも腎臓に関わる自身の病気や、祖母と叔母の死、そして玉城徹や河野裕子の死など、印象に残るできごとは多い。しかし、それらの歌についても、作者は決して素材に寄りかかって歌を作ることはない。十分に言葉の力を働かせている。
もう一つ思うのは、旅行詠というか、移動の歌が多いことだろう。数多くの地名、それもあまり聞いたことのないような地名が歌に詠み込まれていて、地名の持つ響きが大切にされている。
稲生(いなふ)、平針、門司、伊香保、桃園(ももぞの)、贄裏(にへうら)、朽木(くつき)、橡生(とちふ)、蒲郡、雑司ヶ谷、薦生(こもふ)、桃園(タオユエン)、鳥栖、唐津、小城(をぎ)、膳所(ぜぜ)、南木曾(なぎそ)、塩尻、高遠(たかとほ)、下諏訪、壬生野(みぶの)、天ケ瀬
また、雨や川など、水に関する歌も多い。作者の家の近くを流れる祓川(はらいがわ)の話が後記に出てくるが、他にもたくさんの川の名前が登場する。
利根川、吾妻(あがつま)、安曇川(あどがは)、神田川、大淀、瀬田川、大井川、狩野川(かのがは)、土岐川、木曾川、贄川(にへがは)
中年期の作者に流れる人生の時間のように、この歌集にもずっと川が流れ続けている。
2012年1月15日、砂子屋書房、2800円。