2012年01月01日

放射能

放射能のこともいつしか言はなくなり雨が降る一月一日の晩
                  清水房雄『一去集』
まるで2012年現在の状況を詠っているかのような一首だが、もちろん今年の歌ではない。これは昭和34年(今から53年も前)に作られた歌である。

この歌の作られる5年前、昭和29年に第五福竜丸が水爆実験により被爆して船員が死亡するという事件が起きた。その後、「放射能マグロ」の問題などもあり、国内で反核運動が大きな盛り上がりを見せたのである。

この歌はおそらく、そういう時代を背景にした一首なのだろう。雨の降る夜の不安な思いが、ひしひしと伝わってくる。

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短歌探偵あらわる(その8)

さて、ここからは余談なのだが、最新の四六判の全集の『虞美人草』では、「葡萄耳人」はどうなっているのだろうか。

この全集は新書版や菊判が「旧字」を使用していたのに対して「新字」になっている点が大きな違いであるが、それだけではない。「自筆原稿に基づいて本文を一新し、漱石が書いたままの形でその文章を読んでみたいという願望に応えます」という宣伝文からもわかるように、細かな点でかなり多くの異同があるのだ。

例えば、「葡萄耳人」の近くに「見當(けんたう)」という言葉がある。ここが四六判では「見当(けんとう)」となっている。辞書などに載っている(正しい)旧仮名遣いでは「見当」は「けんたう」になるので、「けんとう」というルビは漱石の自筆原稿に従ったものなのだろう。こうした例が非常に多い。

さて、問題の「葡萄耳人」の部分であるが、四六判全集では次のようになっている。
ぼるとがるじん
葡 萄 耳 人
よく見ていただきたいのだが、ルビの最初の文字が「PO」ではなく「BO」なのである。つまり、漱石の元の原稿では「ぼるとがるじん」であったらしいのだ。

「ぽるとがるじん」と「ぼるとがるじん」―1音違うだけで、随分と言葉から受ける印象は違ってくる。もし、永井陽子がこの全集で『虞美人草』を読んでいたら、「葡萄耳人」の歌は生まれなかったかもしれない。そんなことを考えてみたりする。《完》

posted by 松村正直 at 00:54| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする