2012年01月31日

前田康子歌集『黄あやめの頃』

『ねむそうな木』『キンノエノコロ』『色水』に続く第4歌集。

この歌集に登場するのは、夫と二人の子どもや、日常の出来事、身の回りの風景といったものである。旅行詠も社会詠もほとんどなく、歌の世界はけっして広くはない。それなのに(それゆえに、と言うべきか)一首一首に陰影や襞があって、深い奥行きを感じさせる。

表現の面では、「どうだ!」とか「やってやろう」といった感じの歌はなく、落ち着いている。それでいて、ありふれた歌にはなっていない。どの歌にも読み手を立ち止まらせるだけの力がある。それは作者のモノを見る眼が、単なる観察者のものではなく、優しい眼差しを含んでいるからではないだろうか。
紋白蝶もめんのように懐かしい 畑の上を振り向かずゆく
はじめての釣り竿伸ばし川に立つ顔をしている 子は夜の部屋に
目薬を誰かに注してあげたいな春の屋上まで階を登りて
「うずら塾」鶉の二羽が看板に描かれて路地の入り口にある
つぎつぎとつつじを吸いて娘は行きぬ光をはじくふくらはぎして
レントゲン撮れば病気が治るとも子は思うらしハムスター抱きて
さびしさに分解したるボールペン小さいばねが撥ねてころがる
五分前に初めて会いし歯科医なり奥歯の底を丹念に掘る
出来損ないの弟のようになつかしくあきらめもするこの子のことを
恋力われに無くなるその日まで山あじさいの葉を撫でている

あとがきにある「好きなものばかりを詠んでいる」という言葉が、一番よくこの歌集を表しているように思う。それは簡単なようでいて、実はなかなか強い意志を必要とすることだ。どの歌からも、取り替えのきかない日々の確かさが感じられる。それはまた、決して巻き戻すことのできない時間が、この歌集に流れているということでもある。

2011年12月25日、砂子屋書房、3000円。

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2012年01月30日

JEUGIAカルチャー千里

4月から新しいカルチャー講座を担当することになりました。

JEUGIAカルチャーセンター 千里セルシー
「はじめての短歌」

〒560-0082 大阪府豊中市新千里東町1丁目5番2号 セルシービル4F
TEL:06‐6835‐7400(代)[電話受付:10:00〜19:00]
毎月第3月曜日 13:00〜15:00
受講料 月額2,100円(税込)

3月19日(月)に無料説明会を行います(13:00〜15:00)。
どうぞ、お気軽にご参加下さい。

また、その他の講座については、→こちら をご覧下さい。

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2012年01月28日

「青磁社通信」23号

巻頭エッセイに斎藤茂一さんが「茂吉の初孫として・・・」という文章を寄せている。
茂一さんは、斎藤茂吉の長男斎藤茂太の長男である。

茂吉の初孫溺愛ぶりにつては文章に紹介されているが、他にも忘れられないのが、
ぷらぷらになることありてわが孫の斎藤茂一路上をあるく
                『つきかげ』

という一首。昭和23年の歌なので、当時茂一さんは2歳くらい。
小さな子がとてとて歩いて行く感じがよく出ている。「路上を」という言い方が、さり気なくうまい。

2008年に永田さんが斎藤茂吉短歌文学賞を受賞した時のこと。授賞式で初めて茂一さんを見て、白髪まじりの姿にびっくりした。頭の中では、まだ小さな子のままだったのである。

茂一さんの波乱万丈な人生については、斎藤茂一著『S家の長男』(2007年、新講社)に詳しい。とても面白い本なので、興味のある方はぜひお読みください。

斎藤 茂一
新講社
発売日:2007-10


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2012年01月27日

短歌時評

今日UPされた「詩客」の短歌時評(玲はる名)を読んだ。

詳しい内容には立ち入らないが、問題点をいくつか指摘しておきたい。

まずは文章の旧かな遣いである。文章を旧かな遣いで書くのは自由であるが、旧かな遣いを使うならば、間違えずに書く必要があるだろう。それは新かな旧かなに関係なく、当り前のことである。
「労わり」→「労はり」
「留めておらず」→「留めてをらず」
「そう留める」→「さう留める」
「整え」→「整へ」
「伝える」→「伝へる」
「なつている」→「なつてゐる」

ざっと気が付いたものだけで、これだけの間違いがある。「今生陛下」→「今上陛下」といった間違い(これはコメントで指摘した)も含めて、もう少し何とかならないものか。

また、筆者は斎藤茂吉の
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

という一首を「斉藤茂吉が母を背負ふ歌」と記して、それを前提に論を進めている。この歌をどのように読むかは自由であるが、少なくとも私は、これまでこの歌をそのように解釈した文章を読んだことがない。新しい読みを提示するならば、まずその論拠をきちんと示してからでなければ、その先へ話は進められないのではないか。

こうした文章が「短歌時評」という名で掲載されていることに、何とも複雑な気分になる。

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2012年01月26日

十三回忌

永井陽子さんが48歳の若さで亡くなったのは、2000年1月26日のことだった。河野さんが雑誌に「日付のある歌」を連載していた頃のことである。『日付のある歌』の2月4日のところに、
二月四日 晴れ 芦屋朝日カルチャー、外出準備中に及川さんより電話。「永井陽子さん死んだよ、一月二十六日だったって

という詞書から始まる6首の歌が載っている。
この他にも河野さんが永井さんについて詠んだ歌は何首かあって、その中でも
起こしくるる人が居ぬゆゑ洗濯機の横に死ににき永井陽子は
                        『葦舟』

という歌は、強烈なインパクトがあって忘れられない。
それと同時に、永井さん自身の次の歌も思い出す。
あの世にて母が洗濯機をまはす音きこゆるよひとりベランダに立てば
                『小さなヴァイオリンが欲しくて』

永井陽子については、いつかきちんと論じてみたい。

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2012年01月25日

発見! 生方たつゑ選

ついに、生方たつゑ選で載った河野裕子の作品を見つけた。

大阪府立中央図書館で5時間かけて2年分のマイクロフィルムを見て、その中から河野さんの歌を5首見つけ出すことができた。この一年、ずっと気にかかっていた事だったので、何とも嬉しい。

こんな歌がある。
醜悪な老猿のごとく背を曲げて飯喰う父を今は憎まず
             滋賀県 河野裕子

産経新聞(大阪本社版)昭和40年3月3日付の「サンケイ歌壇」に載ったもの。
病気で高校を休学中だった頃の歌である。

他の雑誌で見つけた詩もあるので、近いうちにまた「塔」に追加分の「河野裕子初期作品」を載せたいと思う。

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2012年01月24日

森永キャラメル大将

最近、森永製菓について調べていて、おもしろい話を知った。
「森永キャラメル大将」のことである。

身長2メートル13センチの大男で、森永製菓の宣伝マンとして、昭和10年頃に日本各地を巡ったらしい。札幌や別府をはじめ、各地にその様子をうつした写真や絵葉書が残っている。お店の前に大勢の人だかりが出来ている中に、頭みっつ分くらい背の高い男が立っている姿。

なんでもこの人物は、元は白頭山という力士であったらしい。入門時は大いに期待されたものの腰痛などで思うような成績を残せずに廃業。その後、職業を転々として森永の宣伝マンになったとのこと。

まだ謎に包まれている出自も含めて、かなり興味をそそられる。

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2012年01月22日

銀月アパートメント

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戦後、出崎哲朗を中心とした「アララギ」の若手歌人が創刊した同人誌「ぎしぎし」。
その本拠地であった銀月アパートが、今も京都の北白川に残っている。

このアパートをめぐる話について、「塔」2・3月号に「銀月アパート物語」という
タイトルの文章を書いた。時代の移り変わりとともに忘れられようとしている出来事を、
もう一度、記憶のなかに甦らせることができればと思う。

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2012年01月20日

白木裕歌集『炎』

白木裕(本名 白木豊)は東京文政大学(現在の大東文化大学)事務局長、実践女子大学教授を歴任した漢学者で、「アララギ」「関西アララギ」所属の歌人でもあった。歌集『炎』(昭和29年・関西アララギ会発行)の巻頭には「黄の閃光」と題する141首の大作がある。

「八月六日午前八時十五分、広島市皆実町の自宅にて原子爆弾に遭ふ。妻敏子・長女壽美子・三女閑子、いづれも国民義勇隊員として出勤、市内に於て建物疎開作業中被爆、三人三所に、相次いで死亡す」との前書きに続いて、次のような歌が載っている。

黄の光窓に閃(ひら)めき一瞬(ひととき)に我が家(いへ)は頽(くづ)れ来ぬわが身の上に
焼かれし妻を励ましながらもろともに案じて言ふはまだ帰らぬ児等のこと
やうやくに起き上り見れば燃ゆる人顔の皮ぶら下(さ)げし人手の皮ぶら下(さ)げし人
燃えながら共済病院まで逃げ行きしがわが家に死なむと帰り来ぬ妻は
火傷には油が良しといふとにもかくにもバター塗りやる顔に身体(からだ)に
壽美子は新婚の夫(をつと)の許(もと)にわが妻はわが許(もと)に死なせむ戦争なれば
閑子(しづこ)の名静子(しづこ)と記されある見れば臨終(いまは)のこゑを書き留められし

原爆が投下された広島の町、そして離れ離れになった家族の状況が、感情表現を抑えて克明に描かれている。油の代わりに妻の身体に「バター」を塗る歌や、間違えて「静子」と記された娘の遺体など、どの歌も忘れられない強い印象を残す。

こうした悲惨な状況にあっても、なお歌は「アララギ」の写実的な詠い方をはみ出すことはない。感情をあらわに泣き叫ぶのではなく、耐え忍んでいるかのような詠い方をしている。おそらく、それ以外の詠い方を知らなかったのだろう。そこに、一層のかなしみを覚える。

*白木裕については、以前「塔」で清水房雄さんのインタビューをした時に話が出ました。「塔アーカイブ」で読むことができます→こちら
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2012年01月19日

渡辺松男歌集 『蝶』

山鳩のでいでいぽぽと啼くこゑのあけがたはみえぬ巡礼のゆく
咳するに遠く旅立つひとの見ゆひとつの咳にひとつ旅びと
山の上のひろい水溜りはふかみどりこのやうな停滞をわれはよろこぶ
鉛筆のやはらかくねばりある芯のうごくさき春といふ字うまるる
はげしかりし雨筋の残像として芝にささりてゐる槍あまた
てふてふのてんぷらあげむとうきたてば蝶蝶はあぶらはじきてまばゆ
腋の下ながるる春の川のおとあまりにかすかなればねむたし
山のふもとのじねんにまがる道をゆき野茨や忍冬(すひかづら)匂ふも
あぢさゐの球(たま)のふくらむあめのなかぼんやりと序二段力士ありけり
死蜂ゆ〈死〉のはなれゆきただのものただのものとぞひからぶるからだ

未発表歌356首を収めた第7歌集。一首一首に立ち止まり、歌のイメージを十分に味わいながら読んでいく。山鳩の鳴き声のなかの巡礼者の姿、激しい雨の後に残る槍、あじさいの花と序二段力士。何でもありのようでいて、決してでたらめではない。こうした歌は、現実と幻のギリギリのせめぎ合いのなかにのみ、生まれるものなのだろう。

「妻がまだ生きていた頃、私も自分がいずれ筋委縮性側索硬化症と診断されることになるとは夢にも思っていなかった頃の作品です」というあとがきの言葉が、何ともかなしい。

2011年8月10日、ながらみ書房、2730円。

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2012年01月18日

生方たつゑ選(その2)

河野さんが高校生の頃と言うと、昭和37年4月から昭和41年3月まで(途中休学のため計4年間)である。生方さんは昭和39年から毎日歌壇の選者をしているので、最初はそれを探せば簡単に見つかるだろうと思っていたのだ。それなのに、見つからない。東京本社版ではなく大阪本社版も探したが見つからない。

結局、追悼号には載せられなかった。

最近になって、生方たつゑ著『急がない人生』(日本経済新聞社)という本を図書館で見つけた。昭和39年に出たエッセイ集なのだが、その著者略歴を見ると、生方さんが「産経新聞、婦人公論、主婦の友、女性明星、週刊文春」などの選をしていると書いてある。

そんなにあちこちで選歌をしてたのか!

急いで、当時の「婦人公論」や「主婦の友」を書庫から出してもらって、調べていく。なるほど、短歌の投稿欄があり、生方さんが選歌をしている。こうなると気分はまるでお宝探し。1冊1冊、見落としのないように調べていく。調べて、調べて、調べて・・・結局、見つからなかった。

まあ、それでも少しずつ目標に近づいているのは間違いないだろう。何としてでも見つけ出したいと思う。

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2012年01月17日

生方たつゑ選(その1)

河野裕子さんの初期作品を探している。

「塔」の河野裕子追悼号(2011年8月号)に22ページにわたる「河野裕子初期作品一覧」を掲載したが、あれで全てが網羅できているわけではない。調べた私自身の感触で言えば、多分8割程度ではないだろうか。きっとまだ見つかっていない作品が残っている。

未確認の作品のなかで、最も可能性が高いのは「生方たつゑ選」に採られた歌である。これについては、河野さん自身が次のような歌を残している。
  高校生の頃、生方たつゑ選に幾度か入った
昨夜(きぞ)の雪藪に垂(しづ)るはしづかなり若き日知らざりし選者のこころ
                 『日付のある歌』

また、「新聞歌壇をめぐって」という座談会でも、次のように発言している。
河野 (…)生方たつゑさんとこにも出したなあ。生方さんが私の歌にではないけど、「短歌は短いからたくさんのことを書いてはいけません」て評してらしたりしたの、よく覚えてるんですよ。         「塔」2010年1月号

つまり、確実に「ある」のだ。
それなのに見つからないものだから、悔しくて仕方がない。

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2012年01月16日

河野裕子・永田和宏著 『たとへば君』

河野 裕子,永田 和宏
文藝春秋
発売日:2011-07-08


副題は「四十年の恋歌」。河野さん、永田さんの相聞歌を中心に、それに関連した二人のエッセイや文章などを組み合わせた一冊。歌はもちろんのこと、エッセイも読んだことのあるものがほとんどだが、全体の構成が非常に良くて、ぐいぐい読ませる。

時系列に沿って、「出会いから結婚、出産まで」(昭和42〜50年)、「若き日の父として母として」(昭和51〜59年)、「アメリカ、みどりの家の窓から」(昭和59〜61年)、「多忙な日常の中で」(昭和61〜平成11年)、「発病」(平成11〜20年)、「再発」(平成20〜22年)、「絶筆」(平成22年)の全7章に分かれており、二人の出会いから河野さんの死に至るまでのストーリーが浮かび上がるようになっている。

歌の配列や文章の挿入といった全体の構成は、文藝春秋出版局の池延朋子さんという方が担当されたとのことだが、さすがにプロの仕事である。普段は短歌と縁のない方にも、スムーズに読んでもらえる内容になっている。この本をきっかけにして、河野さんの歌集を読んでみようと思う方が増えてくれたら嬉しい。

2011年7月15日、文藝春秋社、1400円。

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2012年01月15日

天竜川下り

奥村晃作さんの歌集『青草』を読んでいたら、こんな歌があった。
天竜を下る舟にてシンプルな構造の舟危険はないか

2010年の作品である。

これを読んで思い出したのは、昨年8月に起きた天竜川下りの転覆事故。5名の方が亡くなって、その後、この天竜浜名湖鉄道株式会社の運営していた舟下りは営業取り止めになったのであった。

もっとも天竜川の舟下りは、事故を起こした静岡県浜松市のもの以外に、長野県飯田市でも2か所で行われている。だから、作者が乗った舟が転覆事故を起こした会社のものかはわからないのだが、それにしても予言的な歌だと思う。

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2012年01月14日

三上延『ビブリア古書堂の事件帖』1・2

北鎌倉にある「ビブリア古書堂」の若き女性店主・栞子さんが、店員の俺(大輔)と一緒に、古書にまつわる様々な謎を解いていく物語。北村薫の「円紫さんシリーズ」をちょっと軽くした感じ。本に関する蘊蓄もいろいろと出てきて面白く読める。

2011年3月25日、メディアワークス文庫、590円。
2011年10月25日、メディアワークス文庫、530円。

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2012年01月13日

葡萄耳人と葡萄牙人(その2)―短歌探偵の休日

漱石の中で起きた変化を考えるために、〈ポルトガル人〉に関する文章を、すべて時系列に並べてみよう。その際に、各巻の後記を見て、全集が何を底本としているか、さらに初出などとの異同も確認する。(◎は全集が底本としているもの)
明治34年 「倫敦消息」の原稿は所在不明
明治34年◎「倫敦消息」(初出『ホトトギス』)・・・葡萄耳人
明治40年◎『虞美人草』の原稿・・・葡萄耳人
明治40年 『虞美人草』(初出「東京朝日新聞」)・・・葡萄牙人
明治44年◎「マードック先生の日本歴史」の原稿・・・葡萄牙人
明治44年 「マードック先生の日本歴史」(初出「東京朝日新聞」)・・・葡萄牙人
大正 4年◎「倫敦消息」の原稿・・・葡萄牙人
大正 4年 「倫敦消息」(初出『色鳥』、新潮社)・・・葡萄牙人
このように並べてみると、明治40年の『虞美人草』の原稿と初出の「東京朝日新聞」の間に線を引くことができる。この時点で、漱石は「葡萄耳人」から「葡萄牙人」へと表記を変えたのである。

おそらく、子規に宛てた手紙が「ホトトギス」に載った段階では、「葡萄耳人」という表記について誰も何も言わなかったのだろう。しかし、『虞美人草』を新聞に連載する段階で、「葡萄耳人」という表記は新聞社のチェックを受けて「葡萄牙人」に直された。

それ以降、漱石自身も「葡萄耳人」と書くことはなくなったのである。「マードック先生の日本歴史」では、原稿の段階で既に「葡萄牙人」と書かれている。『色鳥』所収の「倫敦消息」において「葡萄耳人」が「葡萄牙人」に書き直されたのも、同じ理由によるのだろう。

こうして、「葡萄耳人」というユニークな表記は、日本語から姿を消したのである。《完》

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2012年01月12日

葡萄耳人と葡萄牙人(その1)―短歌探偵の休日

最新版の『漱石全集』を読んでいると、いろいろと面白いことがわかってくる。漱石の文章には、確認できた範囲で4回、〈ポルトガル人〉が出てくる。全集におけるそれぞれの表記は次の通り。なおルビについては省略する。
『虞美人草』(全集第4巻)・・・葡萄耳人
「倫敦消息」(『ホトトギス』所収)(全集第12巻)・・・葡萄耳人
「倫敦消息」(『色鳥』所収)(全集第12巻)・・・葡萄牙人
「マードック先生の日本歴史」(全集16巻)・・・葡萄牙人
4回のうち2回が「葡萄耳人」で、2回が「葡萄牙人」となっている。どうして、このように二つの表記があるのだろうか?

その理由を考えるには、二つの「倫敦消息」を比べるのが良いだろう。「倫敦消息」は明治34(1901)年にイギリス留学中の漱石が病床の子規に宛てて送った手紙である。前文や結びの部分などを省いた計3通の手紙が、「ホトトギス」に2回にわたって掲載された。それが全集で言う「『ホトトギス』所収」の方である。

その後、この「倫敦消息」は大正4(1915)年に新潮社から出版された散文集『色鳥』に収録されるのだが、その際に、漱石自身の手で大幅に削除改訂が行われたのである。それが「『色鳥』所収」ということになる。

つまり、両者の間、明治34年から大正4年に至る間に、漱石の中で何らかの変化が起きたということになるだろう。

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2012年01月11日

締切の効用

依頼された原稿には必ず締切があって、日々それを気にかけながら、調べものをしたり文章を書いたりしている。締切は怖くて嫌なものだが、思いがけない効用もある。

学生の頃、試験が近づくと、全く関係ないことを急にやり始めることがしばしばあった。一種の逃避なのだが、原稿の締切についても同じことが起こる。締切が近づくにつれて、他のことがやりたくなるのだ。

そんな時に、その気持ちをうまく利用するのである。買ったまま読んでいなかった本を読んだり、別の原稿を仕上げたり、机のまわりを整理したりする。それまでなかなか手が着けられないでいたことが、意外とスムーズに片づいていく。

最近こんなふうに、締切を「間接的に」利用するのがうまくなってきた。
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2012年01月09日

召集令状

青磁社HPの「週刊時評」での論争から発展して、2007年に「いま、社会詠は」というシンポジウムが京都で行われた。その中で取り上げられた歌に次の一首があった。
おそらくは電子メールで来るだろう二〇一〇年春の赤紙
               加藤治郎『環状線のモンスター』(2006)
小高賢さんが、この歌など4首を引いて「私は、このような作品にかなりの危惧を持つ。一体、社会と自分の関係をどう考えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう。加藤の電子メールと赤紙のとりあわせ。どう読んでも他人事である。二〇一〇年はまもなくである。そんなことが現実的にありえない。何かをいえたと思うのはかなりの錯覚ではないか」(「かりん」2006年11月号)と、厳しく批判したのであった。

最近、同じようなモチーフを詠んだ歌を続けて目にした。
ケータイの画面突然赤いろに変はりて届け召集令状
               本田一弘『眉月集』(2010)
@(アツトマーク)まなこに見ゆる真夜中にふと来(く)や〈召集令状メール〉
               大塚寅彦『夢何有郷』(2011)
あのシンポジウムから、間もなく5年。メールと召集令状の取り合わせは、今では意外ではなく、むしろ普通のことになったような感じさえ受ける。

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2012年01月08日

本田一弘歌集 『眉月集』(びげつしふ)

本田一弘
青磁社
発売日:2010-06-01


『銀の鶴』に続く第二歌集。第16回寺山修司短歌賞受賞。

会津という風土、国語教師という仕事、そして近代文学に対する愛着。この三つが互いに結び付きながら、作者の歌の背景を形作っているように思う。萩原朔太郎、斎藤茂吉、室生犀星、石川啄木、正岡子規、宮柊二、佐藤佐太郎、草野心平など、数多くの文学者が、歌のなかに登場する。
あゝ馬のかほに似てゐる蝉蛻(ぬけがら)の一つひつしに樹にしがみつく
そのかみの詩人の咽を塞ぎたる葡萄の熟(みの)る秋の来むかふ
携帯電話といふ語聞くたび思ひ出づ「女囚携帯乳児墓」を
といった歌を読むと、当然、茂吉の〈税務署へ届けに行かむ道すがら馬 に逢(あ)ひたりあゝ馬のかほ〉〈むらさきの葡萄(ぶだう)のたねはとほき世のアナクレオンの咽(のど)を塞(ふさ)ぎき〉〈「青葉くらきその下かげのあはれさは「女囚携帯乳児墓(ぢよしうけいたいにゆうじのはか)」〉といった歌を思い出す。そういう楽しみ方もできる歌集である。
味蕾とふつぼみをふふむ舌の上にまろばしてゐる春の夜の酒
この春の一年生に早苗とふ清しき名持つ少女がふたり
氏の名前あなぐらむして遊び居りたましひやけろたましひやけろ
闇濃ゆくなりゆく葉月、朝顔に終はる草花帖のまぶしも
一本の管としてある人間を吹かばいかなる音色するらむ
エノラゲイよりひろしまを見たる人死にたりと聞く霜月ゆふべ
古書店の棚高くある赤彦の全集見るたび購はむとおもふ
秋ぞらが眠たくなつて午後三時おやぐもこぐもひるねする雲
おおははのなづきにしろき花ふれりことのはなべて喪はしめて
大根の煮えてゆく音ふつふつと人死にてゆくふゆのゆふぐれ
2010年6月1日、青磁社、2500円。

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2012年01月05日

河野裕子著 『わたしはここよ』

河野 裕子
白水社
発売日:2011-11-29

エッセイ集。「京都新聞」「西日本新聞」「GYROS」「短歌」などに発表されたエッセイ62編が収められている。全体が二部に分れていて、第一部が2000年の発病以降、第二部が発病前のもの。

この本を読むと、短歌に対する私の考えの多くが河野さんに教わったものであることを、あらためて感じる。
短い詩型に理屈は要らない。理屈を超えたことばを、身体が掴む。そして、身体で作る。(…)そういう時のことばは不思議なもので、現在の自分の身体と時間の、ずっと先の方を走っている。あるいは、生身の身の丈を越えている。
自分のことは自分がいちばんよく分かっていると思うのは一面の真理かもしれないが、短歌においてはこれはあてはまらない。自分の歌の良し悪しが自分ではなかなかわからない。他人の歌なら一読たちまち評価できるのに。
こうした話を生前の河野さんから何度聞いたことだろう。その声が、文字の間からありありと響いてくる。

2011年12月10日、白水社、1800円。

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2012年01月04日

きづな

ネットのニュースを見ていたら、〈新党名は「きづな」に決定〉というトピックスが目に止まった。民主党を離党した議員たちがつくる政党の名前の話である。
(…)新たに結成する政党の名称を当初予定の「新党きずな」から「新党きづな」にすることを決めた。絆という言葉の語源が「綱」や「つなぐ」だとの意見が複数のメンバーから出たことから修正した。(毎日新聞)
これは語源の問題であると同時に、仮名遣いの問題でもあるのだと思う。「絆」は新仮名では「きずな」だが、旧仮名ではもちろん「きづな」である。

「いなずま(稲妻)」や「にほんじゅう(日本中)」など、新仮名のこうした例は、探せばいくつも見つかる。

posted by 松村正直 at 01:18| Comment(4) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月03日

「八雁」「石流」「虹」

「八雁」(選者阿木津英・島田幸典)、「石流」(発行人浜名理香)の創刊号(2012年1月号)が届いた。これに昨秋の「虹」(代表上野春子)の創刊号(2011年秋号)を含めると、「牙」の後継誌が出揃ったという感じだろう。

雑誌の創刊号というものは、たいてい「創刊の辞」などが載っていて、新鮮な気分に溢れている。読んでいて気持ちがいい。

それぞれの誌名の由来を引いておこう。
 「八雁」という語は、『古代歌謡集』(日本古典文学大系)の鳥名子舞歌、

 天(あめ)なるや 八雁(やかり)が中(なか)なるや 我(われ)人(ひと)の子(こ)
  さあれどもや 八雁(やかり)が中(なか)なるや 我(われ)人(ひと)の子(こ)

からとった。もと伊勢の風俗舞で、童男童女が歌いながら舞う神事歌謡だという。
「石流」の名は、「漱石枕流」に由来すると考えている。(…)
 この故事から、「漱石枕流」は「こじつけて言い逃れること」という意味で用いられるのだが、われらが「石流」は、「流れに枕して耳清らかに歌の調べを聞き、石で口を漱ぐように厳しく言葉を練磨する」と解釈したいのだ。
  とんねるを抜けてからっと冬の空こんなところに片足の虹
              石田 比呂志
(…)虹は希望であり夢である。日々の暮らしに追われ、疲れきった人がふと空を見上げた時虹がかかっていたら生きていることがそんなに悪いことばかりではないことに気付かされる。(…)虹は短歌でもあり文学でもある。
新しい出発をお祝いしたいと思う。

posted by 松村正直 at 18:26| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月02日

奥本大三郎著『斑猫(ハンミョウ)の宿』

奥本 大三郎
中央公論新社
発売日:2011-11-22


仏文学者で大の昆虫好きとして知られる著者が、日本各地の虫や動物を訪ねまわった旅行記。雑誌「旅」に12回にわたって連載されたもの。西表島でリュウキュウウラボシシジミを見たり、戸隠で地蜂(クロスズメバチ)の巣を探したり、萩でハンミョウを捕まえたりと、やはり虫の話が多い。

虫の愛好家のことを「虫屋」と呼ぶのは知っていたが、その中でも「蝶屋」「トンボ屋」「カミキリ屋」「カメムシ屋」など、専門(?)によって細分化されていることは初めて知った。そんな虫屋の世界も時代とともに変化しているらしい。
電話、ファックス、インターネットと車が、昆虫採集と、虫屋の人間関係を変えてしまったようである。産地の情報、それも「採集マップ」というようなものが簡単に手に入る。
便利になればなるほど味気なくなっていくのは、どの世界でも同じことなのだろう。

虫の話以外にも、各地を旅する著者の示唆に富む話がたくさん出てくる。例えば、宮崎県の城下町飫肥を訪れた際には、薩摩藩という大藩との関係に苦労した飫肥藩の歴史を踏まえて、飫肥藩出身の小村寿太郎について次のように述べる。
十九世紀の半ば以来、欧米列強の脅威を感じるようになった日本という国全体が、まさに飫肥藩の立場に立ったわけで、小村は明治日本の外交官としては、まさに最適な教育を受けてきた、と言えるのではあるまいか。
小村寿太郎はドラマ「坂の上の雲」にも出てきたが、なるほど薩長出身者とは違う苦労があったのだろうと、あらためて思ったのであった。

2011年11月25日、中公文庫、720円。

posted by 松村正直 at 10:59| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月01日

放射能

放射能のこともいつしか言はなくなり雨が降る一月一日の晩
                  清水房雄『一去集』
まるで2012年現在の状況を詠っているかのような一首だが、もちろん今年の歌ではない。これは昭和34年(今から53年も前)に作られた歌である。

この歌の作られる5年前、昭和29年に第五福竜丸が水爆実験により被爆して船員が死亡するという事件が起きた。その後、「放射能マグロ」の問題などもあり、国内で反核運動が大きな盛り上がりを見せたのである。

この歌はおそらく、そういう時代を背景にした一首なのだろう。雨の降る夜の不安な思いが、ひしひしと伝わってくる。

posted by 松村正直 at 22:55| Comment(0) | 日付の歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

短歌探偵あらわる(その8)

さて、ここからは余談なのだが、最新の四六判の全集の『虞美人草』では、「葡萄耳人」はどうなっているのだろうか。

この全集は新書版や菊判が「旧字」を使用していたのに対して「新字」になっている点が大きな違いであるが、それだけではない。「自筆原稿に基づいて本文を一新し、漱石が書いたままの形でその文章を読んでみたいという願望に応えます」という宣伝文からもわかるように、細かな点でかなり多くの異同があるのだ。

例えば、「葡萄耳人」の近くに「見當(けんたう)」という言葉がある。ここが四六判では「見当(けんとう)」となっている。辞書などに載っている(正しい)旧仮名遣いでは「見当」は「けんたう」になるので、「けんとう」というルビは漱石の自筆原稿に従ったものなのだろう。こうした例が非常に多い。

さて、問題の「葡萄耳人」の部分であるが、四六判全集では次のようになっている。
ぼるとがるじん
葡 萄 耳 人
よく見ていただきたいのだが、ルビの最初の文字が「PO」ではなく「BO」なのである。つまり、漱石の元の原稿では「ぼるとがるじん」であったらしいのだ。

「ぽるとがるじん」と「ぼるとがるじん」―1音違うだけで、随分と言葉から受ける印象は違ってくる。もし、永井陽子がこの全集で『虞美人草』を読んでいたら、「葡萄耳人」の歌は生まれなかったかもしれない。そんなことを考えてみたりする。《完》

posted by 松村正直 at 00:54| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする