茂吉が昭和5年に黒溝台を訪れるより早く、大正14年に平福百穂がこの地を訪れている。平福百穂は画家であるとともにアララギの歌人で茂吉の友人であった。
百穂(本名貞蔵)には長兄恒蔵、次兄善蔵、三兄健蔵という三人の兄がいたが、このうち三兄である大和健蔵が、この黒溝台で戦死しているのである。百穂は大正14年に朝鮮美術展覧会の審査のため朝鮮に渡ったのち、満洲へも足を運び、黒溝台を訪れている。
百穂の歌集『寒竹』(昭和2年)には、「弔黒溝台戦蹟」21首、「黒溝台にて」16首がある。
夜をつぎて戦ひ止まぬこの原にみちのくの兵士多くはてける
この原に屍(かばね)重なりはてにける我がみちのくの兵をかなしむ
土凍てて見とほす原のま面(おもて)に戦ひはてしかあはれ吾が兄は
玉の緒の絶えなむとせしきはみまで銃(つつ)を握りてありけむわが兄(せ)
わが兄の斃れし原に日は暮れてきびしき凍りいたりけむかも
ここでもキーワードは「みちのく」である。自分の兄の死を悼むのはもちろんのこと、「みちのくの兵」全体を悼む内容になっている。平福百穂もまた東北は秋田県角館町の出身であった。
百穂の三兄健蔵は将校ではなかったようで、『第八師団戦史』を見ても「黒溝台会戦に於ける準士官以上死傷者」には名前が載っていない。ちなみに、準士官とは陸軍では「特務曹長(のちの准尉)」のことを指す。
しかし、この本の巻末附録には「第八師団戦死者の武勲表彰」が載っており、「黒溝台戦死者と金鵄勲章」の中の歩兵第17聯隊の戦死者として
功七級勲八等 軍曹 大和健蔵
の名前を確認することができる(138ページ)。平福百穂の三兄健蔵は、黒溝台で戦死して、功七級勲八等に叙せられたのである。
*「黒溝台」については、今回でひとまず終わりにします。お読みいただき、ありがとうございました。