土屋文明の妻テル子の歌集『槐の花』を読んでいたら、高安国世の母やす子の死を詠んだ歌があった。昭和44年の一連。
高安やす子様を悼みて
いつまでも若く美しかりし君逝き給ひしと今日聞くものか
み手になる折り折りの品今になほ我等にありて君のいまさぬ
君が作りし皮細工もの銭入紙入我が夫の長く持ち居る
袖無羽織の脇明は君の工夫にて単衣の上に着るによろしき
夏にならば冷しき山の朝夕に賜ひし羽織着て偲びまつらむ
これを読むと皮細工の銭入れや紙入れ(財布だろうか)、脇の開いた袖無しの羽織などを、高安やす子が文明夫妻に贈っていたことがわかる。
石本美佐保(高安やす子の二女、国世の姉)の著書『メモワール・近くて遠い八〇年』には、次のような記述があり、手工芸を趣味とした晩年であったようだ。
母やす子は晩年、臘纈染、描き更紗、革細工などにうち込み、手提袋、眼鏡入れ、バッグ、帯、紙入れ、しおりなどの作品を次々と造って、子供や孫、孫嫁、知人たちに贈るのを楽しみとしていた。その下絵や原画が数多く残っている。
高安やす子は戦前、『内に聴く』(大正10年)と『樹下』(昭和16年)という二冊の歌集を出している。前者には与謝野寛(鉄幹)が、後者には斎藤茂吉が序文を寄せており、当時は有名な女流歌人であった。
やす子の死に際して、高安国世も「逝く母」と題する5首の歌を詠んでいる。
花の香の満ちたる園に幼かりき思えばついに母の子にして 『朝から朝』
わが一生(ひとよ)短かからぬに見守りて長きいのちを生きたまいける
亡くなった母やす子85歳、国世55歳。「思えばついに母の子にして」に、万感の思いがこもる。幼少期から母の愛情を求め続けた国世であった。