巻頭の渡辺松男「鶴」21首に注目した。
私は渡辺松男の歌、特に『泡宇宙の蛙』『歩く仏像』が大好きだが、ここ数年の歌は飛躍が大き過ぎて、どうにもついて行けないという思いだった。それが、今回の作品には再び強く惹きつけられた。
足のうら沙ばくにみえて茫たればそこあゆみつつすすまぬ軍馬
寒鯉のぢつとゐるその頭(づ)のなかに炎をあげてゐる本能寺
足の裏に広大な砂漠があって、その砂に脚を取られて進めなくなる軍馬。冬の冷たい池に動かずにいる鯉、その頭の中に激しく燃え上がる本能寺。どちらもシュールで鮮やかなイメージが読み手の脳裏に浮かび上がる。
ぎやくくわうにくもの糸ほそくかかやけどそれら払ひてゆくわれあらぬ
霧のあさ霧をめくればみえてくるものつまらなしスカイツリーも
一首目、目の前にあらわれる蜘蛛の巣だけがあって、それを手で払って先へ進む私がいない。ひらがな書きが効果的な歌で、これが「逆光に蜘蛛の糸細く輝けど」ではダメだろう。二首目は窓から見える景色を詠んだ歌。「霧をめくれば」という表現が、実体感のない二次元の絵のような不思議な感じを醸し出している。
これらの歌は、そのまま読んでも十分に良い歌である。その一方で、筋委縮性側索硬化症(「かりん」2010年11月号)という作者の病状を踏まえて読むこともできるだろう。
はか石は群れつつもきよりたもちゐてしんしんと雪にうもれてゆくも
などにひと年齢を問ふ彩雲のごとたはむれに生まれ消ゆるを
「群れつつもきよりたもちゐて」が、墓地に建つ墓石の姿をうまく捉えている。それは、単なる情景の描写にとどまらず、自ずから人間の死のあり方というものも感じさせる。二首目は絶唱と言っていいだろう。束の間の偶然によって生まれ、そして消えていく命。その運命の前では、年齢など何の意味も持たないのだ。