その中で、古賀多三郎という方が『青南後集以降』について書いている文章が気になった。
四月十日八十たびも近からむ次ぎて十三日年かさねゆく
日付けと数字だけの不思議な歌である。
だが、一読して強力に何かが訴えてくる。
この訴えてくるものが何であるのかわからない。しかし、わからないながらも、この訴えてくるものを、読者は心しずかに受け止めればいいのではないか。
短歌とは、そういうものであろう。四月十日、十三日も、文明の年譜などを調べれば、この日付けと数字が何であるかは、直ぐに判明するかもしれない。しかし、それがわかったとしても、それがどれほどの意味があるだろう。
短歌は感動を受け取るものである。四月十日、十三日の事実関係を解明する必要は必ずしもないと私は考えている。
短歌の観賞において、年譜その他、作者に関する事実関係を参照しないというのは一つの有効な態度・方法であると思う。しかし、この歌に関して言えば、それで本当にこの歌が読めたことになるのかという疑問が残るのである。
文明の歌には、先行する歌を踏まえていないと十分に観賞できない歌がしばしば出てくる。それは文明短歌の弱点であると同時に、文明短歌を読む一つの面白さでもあると私は感じている。そして、「四月十日」という日付けもまた、年譜を見るまでもなく、文明短歌に既に登場している日付けなのである。