2010年09月26日

四月十日(その1)

「短歌現代」9月号を読んでいる。「土屋文明 生誕120年」と題する特集が組まれていて、いろいろと参考になる。

その中で、古賀多三郎という方が『青南後集以降』について書いている文章が気になった。
   四月十日八十たびも近からむ次ぎて十三日年かさねゆく
 日付けと数字だけの不思議な歌である。
 だが、一読して強力に何かが訴えてくる。
 この訴えてくるものが何であるのかわからない。しかし、わからないながらも、この訴えてくるものを、読者は心しずかに受け止めればいいのではないか。
 短歌とは、そういうものであろう。四月十日、十三日も、文明の年譜などを調べれば、この日付けと数字が何であるかは、直ぐに判明するかもしれない。しかし、それがわかったとしても、それがどれほどの意味があるだろう。
 短歌は感動を受け取るものである。四月十日、十三日の事実関係を解明する必要は必ずしもないと私は考えている。

短歌の観賞において、年譜その他、作者に関する事実関係を参照しないというのは一つの有効な態度・方法であると思う。しかし、この歌に関して言えば、それで本当にこの歌が読めたことになるのかという疑問が残るのである。

文明の歌には、先行する歌を踏まえていないと十分に観賞できない歌がしばしば出てくる。それは文明短歌の弱点であると同時に、文明短歌を読む一つの面白さでもあると私は感じている。そして、「四月十日」という日付けもまた、年譜を見るまでもなく、文明短歌に既に登場している日付けなのである。
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2010年09月24日

いじめられに行く(その3)

歌を詠むことの暴力性について、補足しておきたい。自分の子を短歌に詠むことについて、花山多佳子は「自選五十首」に付した文章で次のように記している。
小さいうちはいいのだが、大きくなると微妙である。幸い、息子のほうは私の歌集を読んでいない。読んだら絶対にキレるだろうと思うと戦々恐々だ。歌になったものは、むろんモデルとイコールではない。違うんだよ、これは歌なんだよ、と言ったところで納得しないだろう。こんなふうに見てたんだね、あんたは、と、かなりまずい局面になりそうなのだ。娘だって決して機嫌は良くない。やはり書くほうというのは、一方的な加害者なのである。今回、そのへんも多少考慮して選んだつもりである。
     「NHK歌壇」2003年7月号

「一方的な加害者」というのは、なるほどその通りであろう。なにしろモデルになった側は、作品の中で反論することができないのだ。

この自選五十首には、例の「いじめられに行く」の歌は入っていない。「多少考慮」の末に省かれたのか、もともと選ぶほどの歌だと思っていなかったのかはわからない。

子ではなく父を読んだ歌で、自選五十首に入っているものがある。

  リチャード三世のふりして寄れる父の掌(て)が肩を把みぬ顔を歪めて
       花山多佳子『樹の下の椅子』(昭和53年)

花山の第一歌集に入っている歌である。ここにも無論、歌を読むことの暴力性は働いている。そして「顔を歪めて」と描かれた父は、三十年以上が過ぎて、次のように詠われることになるのだ。

  筆談をせむと思へどリア王のごとくに父は目を閉ぢてをり
       「短歌研究」2010年10月号

死を前にした父の姿である。ともにシェークスピア劇の主人公に擬せられた父の歌二首を並べてみることで、その父に対する作者の愛憎の入り混じった思いを、深く感じ取ることができるように思う。
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2010年09月22日

いじめられに行く(その2)

先日、「井泉」2010年7月号を読んでいて、「あっ」と思った。〈リレー小論〉「今日の家族の歌」という欄に大辻隆弘さんが書いている「永遠の距離」という文章を読んで、である。

そこには柴生田稔の次のような歌が引かれていたのだ。

  いぢめられに学校にゆく幼児(をさなご)を起こしやるべき時間になりぬ
       柴生田稔『麦の庭』(昭和34年)

昭和21年、柴生田40歳、長男俊一7歳の頃の歌であるらしい。他にも

  校庭に仲間外れにゐるわが子木陰より見下ろしてわれは立ちさる
  土地の子にいぢめられつつ俊一が通ひし学校も食糧休暇なり

といった歌が引かれている。

花山作品が、先行する柴生田作品をどの程度意識していたのかはわからない。短歌表現における偶然の一致といったものはしばしば目にするからだ。

50年近い歳月が過ぎても、子を思う親の気持ちには共通するものがあるのだろう。そうしたことが見えてくるのも、短歌の面白さであるように思う。
posted by 松村正直 at 21:55| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月19日

いじめられに行く(その1)

  学校へいじめられに行くおみな子の髪きっちりと編みやる今朝も
        花山多佳子『草舟』(平5)

 初めてこの歌を読んだ時、「学校へいじめられに行く」という表現に驚いた。これが「学校でいじめられている」であれば、何とも思わなかっただろう。「いじめられに行く」という強烈な言い方に、短歌作者としての冷徹なまなざしを感じたのである。

 後に、花山周子さんが「初めて出会った歌」というコラムでこの歌について書いているのを読んで、自分なりにいろいろと思うところがあった。
たまたま見たのだった。私はわざわざ学校にいじめられになど行ったことはない。怒りで、しばらくは母と口が利けなくなった。作品をつくる人間ってなんて嫌な生き物だろうと思った。今でもこの歌を読むと虫唾が走る。ただ、今の目で冷静に読めば、偽善的な駄作に過ぎず、母には珍しい歌であったことに気付く。他の歌に怒りを感じることはないのである。     (「短歌研究」2008年11月号)

 このストレートな怒りの表明にも驚いたのだが、気持ちはよくわかる。このように詠まれて喜ぶ子どもはいないだろう。短歌を詠むということは、常に暴力的な側面を持っている。

 でも、この歌が偽善的な駄作とは思わない。「わざわざ学校にいじめられになど行ったことはない」というのは、その通りだろうけれど、これは修辞というものである。歌集には他にも

  苛められている子を一日遊ばせぬ古墳隆起せる〈風土記の丘〉に
  帰校する群のなかにて浮き上がる風船のように子の顔見えつ

といった歌が載っているが、やはり冒頭の歌が一番印象に残る。

posted by 松村正直 at 16:35| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする