2017年11月27日

「心の花」2017年11月号


佐佐木幸綱さんが「「家」のこと2」というエッセイを書いている。

 私の「家の記憶」は、本郷区(現・文京区)西片町十番地の三軒の家からはじまる。西片町十番地はかつての備後福山藩主・阿部家の広大な屋敷跡を分割したため、その名残で、「い」から「と」までに分けられ、さらに、いノ何号、ろノ何号……という番地がつけられている。
 私は、生まれてから高校卒業までに、「にノ四十号」(だったと思う。記憶ちがいかもしれない)、「いノ十六号」、「ろノ五号」、三軒の家に数年ずつ住んだ。「にノ四十号」は借家、「いノ十六号」は信綱の家、「ろノ五号」は父・治綱名義の家。

この「西片町」については、以前このブログで触れたことがある。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139056.html
(2013年3月5日、西片町)

西片町の歴史や住んだ人々のことを調べるだけでも、随分と面白いだろうなと思う。一度東京へ行った時にゆっくり歩き回ってみたいと思いつつ、いまだに実現していない。

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2017年11月25日

紅葉の見頃


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京都の紅葉も見頃を迎えて、どこも大勢の人で賑わっている。
とてもきれいだけど、歌に詠もうとすると難しい。

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2017年11月24日

「塔」2017年11月号(その2)


 またひとり登場人物あらわれて騙し絵のような身の上話
                          吉田 典

「身の上話」というのは何度も語っているうちに、だんだん物語のようになっていくものなのだろう。「登場人物」「騙し絵」という捉え方が独特でおもしろい。

 玄関のあかりを灯す みずうみに確かに触れてきた指先で
                          紫野 春

湖を見に行って家に帰ってきたところか。日常の世界に戻った後も、湖水に触れた指の感触を再確認している。おそらく大事な思い出なのだろう。

 熱海城そのなかにまた熱海城マッチの棒でくみたてられて
                          山名聡美

熱海城の中にマッチ棒で作った熱海城の模型が展示されているのだ。入れ子構造と全体の安っぽさが面白い。熱海城も歴史的なものではない観光施設。

 女性ゆえ鉾に上がれぬしきたりをしきたりとして諾いており
                          松浦わか子

女性差別と憤ることもできる場面だが、「しきたり」を尊重しようという思い。でも、もちろん完全に納得しているわけではなく微妙な感情は残っている。

 琵琶湖、と声に出すとき身のうちのなにがゆらぐの葦原のごと
                          中田明子

琵琶湖の歴史や風土を感じさせる歌。現実に見ている琵琶湖ではなく、記憶やイメージとしての琵琶湖であるだけに、一層の奥行きを感じさせる。

 夜あそびに出ては首輪をなくす猫どこで売ったと夫の叱れる
                          山下美和子

何度も首輪をなくす猫もユニークだが、「どこで売った」と言う夫もユニークだ。どこか別の家でも可愛がられていて、首輪を外されているのかもしれない。

 目を閉じて食べれば何味にでもなるかき氷から夏がこぼれる
                          うにがわえりも

かき氷のシロップには「いちご」「メロン」「レモン」など様々な味があるが、どれも色が付いているだけで味はほとんど一緒。それを逆手に取った内容だ。

 紫陽花に触れれば涼しい心地して市民プールの入口で待つ
                          太代祐一

「涼しい心地」と言うことで反対に外がかなりの暑さであることがわかる。紫陽花の紫や水色の色にほのかな涼しさを感じつつ、炎天下で人を待っている。

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2017年11月23日

「塔」2017年11月号(その1)


 入口のスイッチボックスのON押せばすなはち点る玄室の電気
                          岩野伸子

古墳を見学した時の歌。スイッチボックスや電気はもちろん観光用に新しく付けられたもので、ちょっとした違和感が滲む。「すなはち」がいい。

 いくたびも謝らるるを夜の薊、許すほどわたし偉くはないよ
                          上條節子

「夜の薊」が突然入って来るところが面白い。下句は「私が許すかどうか決めることではない」という意味だけでなく、許せないという思いでもあるのだろう。

 帰宅する私と帰宅する君のあいだで咲いてしぼむユウガオ
                          多田なの

夕方に咲いて翌朝に萎むユウガオ。「私」は昼間に働き、「君」は夜に働くすれ違いの生活。せっかく咲いた花を君に見せられないのが残念なのだ。

 今はもう手元にはない靴べらは詠みたる歌の中に残れり
                          黒木孝子

靴べらはもう無くなってしまったけれど、その靴べらを詠んだ歌はいつまでも残り続ける。なるほど、短歌にはこういう役割があるのかもしれない。

 背後から破線のごとくサンダルの音がして子がわれにぶつかる
                          北辻千展

「破線のごとく」がサンダル履きの子の走る様子をうまく捉えている。最初は音だけが聞こえて結句で「子」が登場する語順も、臨場感を生み出している。

 唐きびを上手に食めば残りたる歯の抜けあとのようなきび殻
                          三浦こうこ

下句の比喩が秀逸。言われてみれば確かに歯の抜けた歯茎のような姿をしている。そんなことを考えていると、気味悪くて食べられなくなりそうだけれど。

 職場にはいくつか席の「島」があり南の島で端末を打つ
                          沼尻つた子

何個かのデスクのまとまりを「島」と名付けるのは珍しくないが、そこから「南の島」に飛躍したところがいい。南国イメージと仕事との落差が印象に残る。

 両腕をあげて病む子は眠りをり赤子のときの姿勢のままに
                          野島光世

緩和病棟に入院している娘さんを詠んだ歌。死がもう遠くない娘を見守りながら、かつて娘が生まれたばかりの頃のことを思い出している。何とも切ない。

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2017年11月22日

『物語論 基礎と応用』 の続き


短歌を含めた文学全般に通じる話題も多い。

物語論では一般的に、絶対的で固定的な意味はないと考える。この場合、テクストと読者との相互作用によってその都度意味が発生することになる。
物語においては、詳しく説明しすぎないこともテクニックの一つである。詳しく説明されれば余韻が出るはずはない。語られない部分を読者が様々に補うように仕向けることによって、情感がでるのである。
一般に、文学的な小説では、「説明はせずに描写せよ」と言う。「かわいい」ことを書くのに、「かわいい」と言うのではなくて、それを具体的に、出来事の中で表現していくのが物語化することである。

どれも、短歌の入門書に書いてあってもおかしくない内容である。

こうした話を読むことは、おそらく短歌表現にとってもプラスになるに違いない。何が文学全般に共通する点で、何が短歌に特徴的な点であるかといった区別がはっきりするからである。

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2017年11月20日

橋本陽介著 『物語論 基礎と応用』



物語論(ナラトロジー)とは、「物語とは何なのか」「物語とはどのように出来上がっているのか」を論じるもの。本書は第一部が理論編、第二部が分析編となっている。

理論編ではプロップ、ブレモン、バルトらこれまでの物語論の歴史や、物語の中の「時間」、視点と語り手、日本語の特徴といった問題が取り上げられている。

一方の分析編では、『シン・ゴジラ』『エヴァンゲリオン』『百年の孤独』『悪童日記』『この世界の片隅に』など実際の映画や小説などを例に、どのように物語が描かれているかが分析されている。

印象に残った部分をいくつか引こう。

日本語では物語現在を現在として語るが、その際に「た」を使用する。「た」は通常は過去形と考えられるが、物語現在的語りの場合、過去の意味はない。
語り手が自分の言葉でまとめてしまうのがtelling、できるだけその場面を映すように描こうとするのがshowingである。
電話等で「(私は)今からそこに行くね」という時、日本語では一人称主語を基本的に言わない。これは単に、わかりきったことだから省略しているというわけではない。「私」からみて「私」は見えないので、言語化されないのである。

短歌の「私性」や時制の問題なども、短歌の枠組みの中だけで考えるのではなく、こうした物語論を踏まえて考えると随分論点がわかりやすくなる。

もちろん、物語論をそのまま当て嵌めれば事足れりということではない。物語論を踏まえることで、小説とは違う短歌表現の特徴や特質も自ずと浮かび上がってくると思うのだ。

全体にとても面白い本なのだが、分析編はやや駆け足な印象がある。一つ一つの作品についてもう少し詳しく書いて欲しかった。

2017年4月10日、講談社選書メチエ、1700円。

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2017年11月18日

「週刊新潮」11月23日号


現在発売中の「週刊新潮」11月23日号の新々句歌歳時記で、
俵万智さんに『風のおとうと』の歌を引いていただきました。

この世では出会うことなき大根と昆布をひとつ鍋に沈めつ


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2017年11月17日

新聞と短歌


例えば、新聞の見出し。

「パラダイス文書2.5万件今夜公開」
「ビール瓶殴打 否定」
「カンボジア 最大野党解党」
「第4G日本 すべて格上相手」

一読してわかる特徴は、助詞が徹底的に省かれていること。
短歌でこれをやるとマズイ。

例えば、相撲の記事。

「興奮気味に語り出した」
「館内は沸き立った」
「神妙な面持ちで謝罪した」
「ファンを魅了している」

一読してわかる特徴は、定番表現が多用されていること。
短歌でこれをやるとマズイ。

結論=短歌と新聞は違う。

(引用はすべて今朝の朝日新聞より)

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2017年11月16日

「現代短歌」2017年12月号


前号の中西亮太さんの評論「誰が桐谷侃三だったのか」を受けて、中西さんと篠弘さんの対談(インタビュー)「歌集『六月』をめぐって」が掲載されている。全10ページ。

これがすこぶる面白い。篠さんの博識ぶりと記憶力の確かさに驚かされる。さすがに短歌史の第一人者といった感じだ。それと、自ら「善麿の最後の弟子」を名乗るだけあって、土岐善麿の人となりや考え方がとてもよく伝わってくる内容であった。

「僕は東京生まれの東京育ちでもありましたし」「土岐さんの批評は東京人の僕の感性に合うところがありました」という発言は、篠さんと善麿のつながりを考える上で大事な側面だろう。

善麿は味わい深い歌を数多く残しているが、今ではあまり取り上げられなくなってしまった歌人の一人と言っていい。それは「土岐さんは自分の結社を持っていなかった」ことも理由の一つになっているように感じる。

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2017年11月15日

上田三四二 『花衣』



「茜」「日溜」「岬」「花衣」「敗荷」「橋姫」「月しろ」「影向(ようごう)」の8篇を収めた連作短篇集。

何らかの事情を抱えた男女の恋の話が多い。
また、回想の場面が多いことも特徴と言っていいだろう。

目を引く表現がたくさん出てくる。

泉は藤子の手を執った。四つの瞳(め)が見つめ合った。
彼らは岬の宿に泊まった。/窓には、眼にみえない海が満ちていた。
風の筋は枝の先から先へと渡ってあたりの花々を水かげろうのように揺らめかせたが、柔かくふるえる花びらは一つもこぼれることをしない。風の一吹きは、時の一刻であるのに、時はそこにとどまっていた。

小高賢が書いた評伝『この一身は努めたり』に、上田三四二の小説と短歌の表現の類似の話があったと思うが、今、本が見つからない。

風に向って立つ衿子のスカーフがはためいた。彼女は眼を細くしていた。スカートは裾を乱しながら濡れた布のように腰にまつわった。

こんな描写を読むと、すぐに上田の有名な一首が思い浮かぶ。

疾風を押しくるあゆみスカートを濡れたる布のごとくにまとふ 『遊行』

他の上田三四二の小説も読んでみたくなった。

1982年3月23日、講談社、1300円。

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2017年11月14日

林和清歌集 『去年マリエンバートで』



新鋭歌人シリーズ18。
12年ぶりに刊行された第4歌集。

遠い日の釣鐘まんぢゆうよう鼻血出す子やつたと今も言はれて
浚渫船がずるずる引き摺りだしてゐる東京の夜の運河の臓腑
夜桜の青い冷えのなか酔ふ女を死にゆくもののやうに見つめる
結核が性欲を亢進させるとふ俗信ありき堀辰雄はいかに
足音に呼応して寄る鯉たちの水面にぶらさがるくちくち
排水溝がごくごくと飲む残されて期限の切れたポカリスエット
旅に出れば旅の記憶がかぶさつてくるいくつもの時を旅する
ひろすぎる座敷にふとん流氷の上に一夜をただよふばかり
殺人のニュースがひととき絶えてゐたそのことも記憶の瓦礫のひとつ
このひとの寝顔は泉 夜の鳥がときをり水をついばんでゆく

1首目、「釣鐘まんぢゆう」は大阪の名物らしい。三・四句は親戚の誰かの台詞だろう。
2首目、運河の底の土砂やヘドロを「臓腑」と捉えたことで、都市が生き物めいて感じられる。
3首目、夜桜の凄絶なまでの美しさ。生死の境目が曖昧になっていく。
4首目、『風立ちぬ』など清潔感ある作風で知られる作者の実際の姿はどうだったのか。
5首目、「ぶらさがる」が面白い。餌を求める口がいくつも水面に開いている。
6首目、飲み残しの飲料を捨てただけの歌なのだが、何とも生々しい。
7首目、旅に出ると、日常とは異なる時間が流れ始めるのだ。
8首目、宿泊する部屋が広すぎるのも落ち着かないものだ。
9首目、東日本大震災をめぐる記憶。殺人事件も扱いが小さかった。
10首目、美しい相聞歌だが、眠っている相手とのかすかな距離も感じさせる。

第三章にある「24時間」100首は、詞書と短歌で綴った或る一日の記録。作者の生活や京都・神戸・大阪の街の様子が見えてきて楽しい。

2017年10月15日、書肆侃侃房、1900円。

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2017年11月13日

現代歌人集会秋季大会


12月3日(日)に京都で現代歌人集会秋季大会を開催します。尾崎左永子さんを招いてお話を聞くほか、大辻隆弘理事長の基調講演、現代歌人集会賞の授与式(大室ゆらぎ歌集『夏野』)などを行います。

参加費は1500円(当日払い)。どなたでも参加できますので、皆さんどうぞお越しください。懇親会もあります。

   (↓クリックすると大きくなります)
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2017年11月12日

中村元著 『水族館哲学』



副題は「人生が変わる30館」。
水族館プロデューサーとして多くの水族館の展示や運営に関わる著者が、全国の30の水族館を選んで、その特徴や見どころを解説したガイドブック。

それぞれの水族館の特徴によって、全体が「水塊の癒し」「命と地球」「日本人の世界観」「逆境からの深化」の4章に分かれている。このうち「水塊」という聞きなれない言葉は、著者が考え出したもの。

大多数の人、とりわけ大人が水族館を訪れる目的は、生物の観察ではない。(・・・)真の目的は、海や川の水中景観を見たり、水中感覚を味わうことだ。

こうした認識のもと、著者は水中感覚を伝える水槽の魅力を「水塊」と名付けた。これは、コロンブスの卵と言ってもいい発想の転換だと思う。

私たちは当り前のように、「動物園」と「水族館」を同列に考えるが、著者はそのことにも異を唱える。「動物園は動物を展示しているが、水族館は水槽を展示している」「水族館は元々、動物園より美術館に近い施設なのだ」といった指摘に、著者の水族館に対する考えはよく表れているだろう。

私は水族館が好きでかなり見に行っている方だと思うが、本書で取り上げられている30館のうち行ったことがあるのは9館だけだった。もっと、あちこち訪れてみたい。

2017年7月10日、文春文庫、890円。
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2017年11月11日

『風のおとうと』 の批評会


来年の2月に東京で 『風のおとうと』 の批評会を行います。
詳細が決まり次第、またお知らせします。

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2017年11月10日

大島史洋著 『短歌こぼれ話』


「短歌往来」の2008年〜2016年まで連載されたエッセイの中から95編を選んで収めた本。歌人・辞典編集者である著者ならではの興味や関心、こだわりが伺われる内容となっている。

茂吉と佐太郎とではどこに違いが感じられるのかというと、茂吉の一点集中には従来言われているような、写生という姿勢が強く感じられるのに対して、佐太郎の一点集中には、その写生を通り越した様式美の世界への傾倒、それが感じられるような気がする。
古本の売れない時代ということで、以前なら売り値の三割で引き取っていたのが現在は三分か四分だという。つまり古書店で千円で売られている本は、以前なら三百円で買い取っていたのが、今は三十円か四十円で買い取っているということになる。

とにかく話題が豊富で、読んでいて飽きない。気楽なエッセイのように見えるが、どれも様々な資料や調査に基づいた話であって、誰にでも書けるようなものではないのである。

1点、気が付いたこと。

『奇談百詠』の作者、細川春流の経歴に「会津藩士」「青森県士族」の2つの情報があることに対して、大島さんは「青森県士族とあるが、会津藩士のほうが信憑性があるようだ」と書いている。

この「青森県士族」は、おそらく斗南藩のことを指しているのだろう。戊辰戦争に破れた会津藩が明治になってから今の青森県に移った藩のことである。そう考えれば、「会津藩士→青森県士族」という流れに何の矛盾もない。

2017年10月15日、ながらみ書房、2000円。

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2017年11月09日

「メモワール」第三号


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京都学生映画連盟発行の「メモワール」という雑誌を手に入れた。
昭和26年7月1日発行の第三号。

ここに高安国世の「映画「白痴」を見て」という文章が4ページにわたって掲載されている。「白痴」はこの年公開された黒澤明監督作品。原作:ドストエフスキー。出演:森雅之、原節子、久我美子、三船敏郎。


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映画の感想のなかに、ロシア文学が日本に与えた影響の話が出てくる。

(・・・)僕は日本のインテリの教養の中に占めるロシヤ文学の位置などということを思わされたのであつた。例えば歌人近藤芳美。彼は僕ら以前のインテリとはちがつて、甚だ日本的でない。それかといつて彼の茫々としてうすよごれた風彩(ママ)は決してフランス的でもドイツ的でもない――つまりヨーロッパ的ではない。僕はやはりロシヤ的な、そしてドストエフスキイの作品の中に想像出来るものではないかと思う。

高安がどのような目で近藤を見ていたかが伝わってくる、なかなか面白い評だと思う。

posted by 松村正直 at 21:14| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月08日

久々湊盈子歌集 『世界黄昏』


間伐の杉が散らばる傾(なだ)りより絶え間なく湧く水の冷たさ
十方に木々のみどりは満ち満ちてわが直情を宥(なだ)むるごとし
撫牛(なでうし)にあらねどそっと撫でてくる闘牛場の鋼鉄の牛
くまもんを脱ぎて男が取り出しし弁当の真ん中の大き梅干し
絞めやすそうなほそきうなじをさしのべて昼の電車に居眠るおみな
ガラス一枚の外は奈落の深さにて五十階に食む鴨の胸肉
他人(ひと)の記憶に入りゆくような夕まぐれ路地に醬油の焦げるにおいす
三日ほど手の甲にあらわれ消えゆきし痣(あざ)あり蝙蝠の飛ぶかたちして
ここで死ねとホテルのパティオに放されて螢は首都の夜をまたたく
往きに見て復(かえ)りにもまだ落ちているアルミ硬貨を雨中に拾う

2012年から16年までの約500首を収めた第9歌集。
タイトルは「せかいこうこん」。

1首目、間伐放置された杉という現代的な光景と昔から変らぬ湧き水の流れ。
2首目、鮮やかな新緑に自然と心も満たされてゆく。
3首目、スペイン旅行の歌。撫牛という習俗は日本だけのものか。
4首目、くまもんの頬の赤い丸と弁当の梅干が微妙に呼応している感じ。
5首目、「絞めやすそうな」という発想がユニーク。ちょっと怖い。
6首目、高層ビルのレストランでの食事。高さではなく「深さ」としたのがいい。
7首目、比喩の面白い歌。どこか懐かしい雰囲気がある。
8首目、「蝙蝠の飛ぶかたち」がいい。三日間だけの出会いと別れ。
9首目、ホテルのイベントのために放された蛍。「ここで死ね」が強烈だ。
10首目、お金が欲しくてではなく、可哀そうになって拾ったのだろう。

2017年8月10日、砂子屋書房、3000円。

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2017年11月07日

クリスマスの飾り付け


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先日、同志社大学の今出川キャンパスを歩いていたところ、クリスマスツリーの飾り付けをしている場面に遭遇した。木は広場の中央に立つヒマラヤスギで、高さは23メートルあるらしい。高所作業車を使っての大掛かりな作業で5〜6名の方が働いていた。


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こちらは重要文化財のクラーク記念館。
キャンパスには他にもレンガ造りの美しい建物がたくさん立ち並んでいる。

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2017年11月06日

久保えーじ著 『世界まるごとギョーザの旅』



旅が好きで食べることが好きな夫婦が、「旅を仕事にできないか?」と考えて開業した「旅の食堂ととら亭」。世界50か国以上を旅して出会った料理を再現したメニューを提供している。

そんな夫婦がトルコのマントゥと韓国のマンドゥの名前が似ていることから興味を持ったのがギョーザであった。トルコ、中国、ドイツ、アゼルバイジャン、ジョージア、韓国、ポーランド、スロバキア、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスと、ギョーザの発祥と伝播のルートを求めての旅は続く。

そんな中で、思いがけない歴史に触れたりもする。カザフスタンの市場でキムチや海苔巻などが売られているのを見て、著者は次のように述べる。

なぜカザフスタンに朝鮮系の移民がたくさんいるのか? 彼、彼女たちの祖先の多くは日本の植民地支配を逃れ、ロシア極東部に移住してきた人々なのです。その後、スターリン体制下でカザフスタンやウズベキスタンに強制移住させられ(・・・)

日本のギョーザが満州からの引揚者によって広まったという話もそうだが、食文化の歴史の奥深さを感じさせられる。

2017年3月3日、東海教育研究所、1800円。

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2017年11月05日

武田徹著 『偽満州国論』



1995年に河出書房新書から刊行された本の文庫化。

中国の長春の観光用地図に「偽国務院」「偽皇居」など「偽」の字がたくさんあるのを見て興味を持った著者が、実際に現地を訪れたりしながら満州国について論じた本。と言っても、満州国の歴史的な分析ではなく、満州国を通じて見えてくる国家のあり方に関する考察が主眼となっている。

満州国は国家が偽国家に変わる境界線上にある。満州国を語る国家論は、その論証の枠組みそのものが崩壊する一線上を行きつ戻りつせざるをえない。つまり偽満洲国論、それは国家論自体の「偽」性をも浮き彫りにする偽国家論なのだ。

本のなかに登場する人物は、甘粕正彦、大杉栄、清沢冽、後藤新平、石原莞爾、柳田国男、田中智学、吉本隆明、宮沢賢治など、実に幅広い。中でも、ユダヤ系ウクライナ人で、後にゲーム機器の会社タイトーを創業したミハエル・コーガンの話は面白かった。

日本語を使えば日本精神が養われ、日本人化される。そう思われたからこそ、強引な直接法教育は採用された。(・・・)日本語を話す人こそ日本人だとみなす価値観も変わっていない。
コンピューターに繋がりつつ商品を買うことは、選挙で一票を投じることと似ている。

歴史の本だと思って読み進めるうちに、実は現在の私たち自身の問題を論じている本であることに気が付く。国境線、領土、移民、外国人労働者、近隣諸国との摩擦などが問題になっている今、この20年以上前に書かれた本の価値は少しも失われていない。

2005年6月25日、中公文庫、857円。

posted by 松村正直 at 19:04| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする