2018年02月16日

公開講座 「与謝野晶子の歌と人生」


今年の5月25日(金)に朝日カルチャーセンター芦屋教室で、「生誕140周年 与謝野晶子の歌と人生」という公開講座を行います。11:00〜12:30。
場所はJR芦屋駅前の「ラポルテ本館」の4階です。

皆さん、どうぞ聴きに来てください。

https://www.asahiculture.jp/ashiya/

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2018年02月15日

本多真弓歌集 『猫は踏まずに』



294首を収める第1歌集。

とある朝クリーム色の電話機に変化(へんげ)なしたり受付嬢は
ともだちのこどもがそこにゐるときはさはつてもいいともだちのおなか
白菜を白菜がもつ水で煮るいささかむごいレシピを習ふ
火のやうにさびしいひとにさはれずにただそばにゐてあたためられる
待つことも待たるることもなき春は水族館にみづを見にゆく
樹のそばに木でつくられたベンチあり命あるとはいつまでのこと
あたらしいメールがきみに届くたび目のまへにゐるぼくはうすれる
鬼百合の鬼のあたりを撫でたあとわたしを揺らす白い指先
左から右へ流れてゆく時間 再生ボタンはみな右を向く
もう一度触れてください 改札で声の女に呼びとめられる

1首目、会社の受付の風景。経費削減のため人がいなくなったのだ。
2首目、普段は触ることのない腹部だが、妊娠中は触ることができる。
3首目、考えてみれば自らの水分で煮られるというのは残酷かもしれない。
4首目、火というのは孤独な存在なのだろう。
5首目、「みづを見にゆく」がいい。現代的な水族館の魅力。
6首目、材木として使われていても「木は生きている」と言ったりする。
7首目、目の前の相手がスマホに目をやっている寂しさ。
8首目、「鬼百合の鬼」が面白い。性的なイメージのある歌だ。
9首目、確かに、なぜ右向きが「進む」で左向きが「戻る」なのだろう。
10首目、語順の妙で最初は男女の歌かと思ってしまう。「声の女」もいい。

2017年12月14日、六花書林、2000円。

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2018年02月14日

金丸弘美著 『田舎力』



副題は「ヒト・夢・カネが集まる5つの法則」。

全国各地の元気な町の事例を挙げて地域活性化のヒントを述べた本。取り上げられているのは、小値賀島(長崎)、大山農協(大分)、馬路村農協(高知)、モクモク手づくりファーム(三重)、常陸太田市(茨城)、豊岡市(兵庫)など。

「普通のもの」を観光資源として再発見するには、「外の視点」に切り替えて地元を見つめ直すということが不可欠である。
いま思えば、「田舎がかっこ悪い」という時代は、1980年代に終わっていた。しかし、当の田舎のほうでは、21世紀に入ってもなかなか意識が変わらなかったのではないか。
イベントの有料化というのが重要である。地方ではボランティアになってしまうことが少なくないからだ。また行政関係が主催するイベントでは補助事業ですべてが無料でまかなわれ、その後に継続しないという例がいくつもある。

こうした指摘はこれまでもよく言われてきたことだが、やはり大事だと思う。

また、著者は流通用に改良されたF1品種の野菜が幅を利かせている現状にも警鐘を鳴らす。

大根とにんじんとしいたけの煮物といっても、昔その地域にあった伝統の素材とはまったく別物。これに添加物入りの醤油や、白砂糖や、みりん風調味料が使われると、料理は都心のチェーン店と変わらないものとなってしまうのである。

問題の根深さが非常によくわかる話だ。

NHK出版 生活人新書、700円。
2009年8月10日第1刷、2015年1月20日第14刷。

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2018年02月12日

『午後の庭』 についてのメモ(その2)


『午後の庭』にはペニスの歌が3首ある。

 クリックをするたびダビデは拡大され左右の睾丸の大きさが違ふ
 ペニスなべて削りとられしまま並ぶ古きパティオのローマの戦士
 蝸牛に肺があるなんて知つてたか舌だつてあるしペニスだつてある
 んだ

あまり言われていないことだと思うが、永田さんはこれまでもペニスの歌を数多く詠んでいる。

 隆々とファロスを立つる男らを描き連ねて古代チグリスの壺
 プリアポス永遠に若けれ天秤もて己がファロスを量れるところ
                       『華氏』
 待たされて長くもあらぬをいらいらと今日のペニスの位置定まらぬ
                       『荒神』
 満開の桜に圧され少しずつ少しずつペニスが膨らんでくる
 ぼんやりとねむくなるときおのずから魔羅膨らむと言えばわらいぬ
 旅に目覚めて夕風のなか立ち上がるときよるべなき男のペニス
                       『風位』

「永田和宏のペニスの歌」あるいは「ペニスの歌の系譜」といった論をいつか書いてみたい。

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2018年02月11日

ブログなど


『風のおとうと』の一首について、染野太朗さんが批評して下さいました。

・「日々のクオリア」(2月10日)
https://sunagoya.com/tanka/?p=18207

また、先日の「『風のおとうと』を読む会」についても、参加者の方がブログで報告・紹介して下さっています。

・「Sugarless」(宇梶晶子さん)
http://sugarless21.blog.fc2.com/blog-entry-176.html
・「欅のみえる家から」(中田明子さん)
http://nktakiko.hatenablog.com/entry/2018/02/03/113000
・「ほよほよさんぽみちNEW」(藤田千鶴さん)
http://blog.goo.ne.jp/voake3

ありがとうございました。

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2018年02月10日

『午後の庭』 についてのメモ(その1)


ところどころ、河野裕子さんかと思うような歌がある。

 半ズボン穿いて小学四年生くぬぎどんぐり空き缶のなか
                    永田和宏『午後の庭』
豆ごはんの中の豆たち三年生、こつちこつちと言ひて隠れる
                    河野裕子『季の栞』

可愛らしいものを小学生の学年で喩えた表現。

 さびしいよ どんなに待つてももう二度と会へないところがこの世だ
 なんて               永田和宏『午後の庭』
 さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり
                    河野裕子『歩く』

さびしさと「この世」。
内容的にも河野さんのことを詠んだ歌なので、本歌取りなのかもしれない。

 さびしいんだろ、だろ、だろ、だろつと雪虫が竹の箒につかまりて言ふ
                    永田和宏『午後の庭』

人間でないものが話し掛けてくる歌も、後期の河野さんが得意としたもの。

 雨に濡れゆさりゆさりと揺れながらいやな雨やなあと竹たちが言ふ
                    河野裕子『母系』
 ゆめやなぎの絮(わた)がほよほよ飛んできてここだつたんだと肩の
 上(へ)で言ふ           河野裕子『母系』
 縁先(えんさき)にきーんと光れるメヒシバがそれでいいんだよよくや
 つたと言ふ             河野裕子『蟬声』

永田さんの歌を読んで河野さんの歌を思い出し、懐かしい気分になった。


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2018年02月09日

澤辺元一歌集 『晩夏行』


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1992年刊行の澤辺元一さんの第1歌集。
澤辺さんは2月2日に亡くなられた。92歳。

 夜くらく昼なお昏き喪の日々の道の限りをまんじゅしゃげ咲く
 ビルのなかに真白き昼の闇ありてファクシミリとおき文受けていつ
 バス待ちて黙(もだ)保ちいる一団のばらばらの思考に陽があたりおり
 沈丁の華のふりまく春の香にそそられているわれの尖端
 ひとの死をさまざまに飾り人集うもののぶつかる音など立てて
 唄い終えて歌手が少女にもどりゆく肌理の弛みの微細を映す
 ビル先端の金具かなにかと見ていしが飛び立ちて虚(な)し冬の黒鳥
 朝より眠れる少女バスの窓の硝子そこだけ曇らせながら
 たかだかとボート運ばれゆきし街しばらく遠き海が匂えり
 かすかなる重みを地(つち)に加えゆきわがまどろみの中に降る雪
 死に至るまで鎖引摺りいしものの頸より冬の鎖を外す
 電気代はつかに減りし計算書母亡きあとの暮らしの軽さ
 マルクスの白い鬚レーニンの黒い鬚 わが戦後史の高処(たかみ)に
 そよぐ

1首目、1984年に亡くなった高安国世への挽歌。
2首目、昼休みなどの無人のオフィスでFAXが受信しているところ。
3首目、下句が面白い。考えていることはみんな違う。
4首目、「尖端」という語の選びにエロスを感じる。
5首目、葬儀の場面。人々の様子を冷静に客観的に見ている。
6首目、歌っている間は大人びた感じだったのだろう。
7首目、高安国世の「虚像の鳩」を思わせる歌。
8首目、下句がいい。少女の吐息に曇っているのだろう。
9首目、トラックの荷台などに載せて運ばれるボート。
10首目、上句がいい。雪にもまた重みがあるということ。
11首目、飼犬の死を詠んだ歌。「冬の」が効いている。
12首目、「はつかに」に母のつましい暮らしぶりが表れている。
13首目、そう言えば二人とも鬚の生えた写真でおなじみだ。

 永田和宏を坂田博義と呼び違えたる黒住嘉輝にはなお近き過去

1961年の坂田博義の自死は、何年経っても澤辺さんや黒住さんにとって忘れられない出来事であったのだ。「塔」2013年1月号の「澤辺元一インタビュー」の中でも、

永田 「塔」で一番思い出に残っていることって何ですか?
澤辺 残念やけれども、やっぱり坂田の顔が浮かんできよる、どうしても断ち切れん。寂しいなあ。

と答えている。50年以上経っても、その衝撃が消えることはなかった。

澤辺さんに関する思い出はたくさんあるのだが、亡くなった歌人を悼むにはその人の歌集を読むのが一番だと思う。ご冥福をお祈りします。

1992年2月26日、ながらみ書房、2500円。

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2018年02月08日

現る


新聞には連載小説の欄がある。
今、朝日新聞の朝刊では吉田修一「国宝」が連載されている。

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第16章は「巨星墜つ」。
この「墜つ」は文語の上二段活用動詞の終止形で、口語なら「墜ちる」。
なぜここに文語が使われているのか、というのが今回の問題。

これは、もちろん慣用句のような一つの決まった言い方になっているからだろう。他にも、「天高く馬肥ゆる秋」(連体形)、「芸は身を助く」(終止形)など、ことわざでもしばしば文語の動詞を見かける。

では、次はどうか。

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「六地蔵に現る」。
これは、慣用句でもことわざでもなく、マンションの宣伝広告のコピーである。
この「現る」は文語の下二段活用動詞の終止形で、口語なら「現れる」。

なぜ、ここに文語が使われているのだろう。
なぜ、「六地蔵に現れる」とせず「六地蔵に現る」としたのか。

これは、短歌における文語・口語の問題を考えるうえでも、大きなヒントになる事例だと思うのだ。

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2018年02月07日

永田和宏歌集 『午後の庭』



2011年から2014年までの作品531首を収めた第13歌集。
2010年に亡くなった妻、河野裕子のことを詠んだ歌が多い。

告げしことそれより多き告げざりしことも伝はり逝きたるならむ
作らないやうに作ると言ひたれどあいまいな頷きがあちらにもこちらにも
竹箒のはつしはつしと小気味よき音庭になし冬の陽が差す
紅梅のまだ咲かざるをよろこびて白き花咲く梅林を行く
少しだけ酒を振る舞ひ蒸し焼きにしたる浅蜊をひとりいただく
池底の石はしづかに日のひかり月のひかりを受けて老いゆく
牛膝(ゐのこづち)にひなたとひかげの別ありてこの里道のヒカゲヰノコヅチ
クリックをするたびダビデは拡大され左右の睾丸の大きさが違ふ
おのづから木々にくぼみのあることの雪積む朝の庭に見ゆるも
ああ一週間は左右対称の漢字ばかり そのいづれかに死なねばならぬ

1首目、夫婦や親子など親しい者同士でも言葉にして伝えられないことがある。それでもきっと伝わっていたはずだという思い。
2首目、短歌についての話をしている場面。作意を見せないのは難しい。
3首目、かつては妻が箒を使う音が聞こえていたが今は聞こえないという歌。上句で音のイメージをかき立てておいて「なし」と打ち消す。
4首目、白梅の方が少し早く咲くのだろう。
5首目、浅蜊の酒蒸しを食べているところ。「振る舞ひ」と言って誰かと楽しく飲んでいる場面と思わせておいて、実は「ひとり」なのだ。
6首目、結句の途中までは石の歌だが、「老いゆく」で人生が重ね合わされる。
7首目、分類を知ることは世界の見え方が変わるということ。
8首目、ミケランジェロのダビデ像。何をやっているんだか。
9首目、雪が積もることで窪みがあることに気が付く。
10首目、「日月火水木金土」は左右対称。下句への展開でハッとさせられる。

2017年12月24日、角川文化振興財団、2600円。

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2018年02月06日

玉川学園


十数年ぶりに訪れたふるさと玉川学園。
1時間ほど歩き回ってみる。


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私が通っていた玉川中央幼稚園。


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私が通っていた町田第五小学校。


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今は無き生家跡からの眺め。


駅前の商店街の店はかなり変わっていたけれど、それ以外は
住宅地ということもあって昔のままの風景が続いている。
派出所や郵便局や大黒屋も健在だった。

 ふるさとは子どもの足で生家からてくりてくりと歩ける範囲
                  松村正直

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2018年02月05日

『風のおとうと』を読む会


2月3日(土)、東京で『風のおとうと』を読む会を行った。
参加者28名。

13:30から始まった会は、前半は濱松哲朗さん、山階基さん、大森静佳さん、安田寛さんの各15分程度のレポート。休憩を挟んで後半はフリーディスカッション。司会の江戸雪さんの巧みな捌きにより様々な意見が飛び交うなか、17:00に無事終了。

自分の歌は自分が一番よくわかっている・・・はずもなく、参加者の意見を聴きながら「確かにそうだなあ」「なるほど、そうだったのか」と気づくことが実に多かった。ありがとうございます。


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十数年ぶりに訪れた小田急線の玉川学園前駅。
生家の最寄り駅で、中学〜大学2年まで電車通学で使った駅でもある。


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駅前の花壇と奥に見えるのは会場となった「玉川学園コミュニティセンター」。
以前は玉川学園文化センターと呼んでいた施設である。


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コミュニティセンターへ登る階段は、十代の頃に毎日のように通っていた道。
さすがに懐かしい。


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2018年02月03日

ギャルリー志門


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(クリックすると拡大します)

2月12日(月)〜2月17日(土)、銀座のギャルリー志門で
「高安国世(短歌)・高安醇(絵画)父と子作品展」が開催されます。
東京周辺の皆さん、ぜひご覧になって下さい。

高安醇さんは高安国世の三男。拙著『高安国世の手紙』の中でも、
「21 三男醇と聴覚障害」「36 画家高安醇」でご紹介しています。


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2018年02月02日

岡本真一郎著 『言語の社会心理学』



副題は「伝えたいことは伝わるのか」。

言語学的な興味があって読んだのだが、どちらかと言うと社会心理学やコミュニケーション学の話であった。様々な会話の実例や実験の結果などを、的確にわかりやすく解説している。

表情などもそうだが、非言語的チャネルには、言語に比べると自らは制御しにくいものが多い。制御しにくいから、正直な感情が表れやすい、ということを受け手も学習している。したがって言語と非言語が矛盾するような場合には、非言語の口調や表情のほうにより信頼を寄せるのである。
Aさんのような自己卑下は、実は相手から賞賛を得るための間接的手段とも考えられるのである。さらにこうした場合、自己卑下を否定されることによって、Aさんは精神的健康を得ている、ということを示す研究結果がある。
メッセージの送り手は自分が知っていることは受け手も分かっているだろうと推測する、つまり共通の基盤を過大評価する可能性がある。このためメッセージに配慮がなされず、受け手にうまく伝わらなかったり誤解を発生させる。

こういう話はただ興味深く面白いというだけではなく、いろいろと自分自身思い当たることもあって耳が痛い。

2013年1月25日、中公新書、880円。

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2018年02月01日

おさやことり・橋爪志保「あきふゆ」


先日の文フリ京都で購入。
「はるなつ」に続く一冊で、発行・編集は吉岡太朗。
http://matsutanka.seesaa.net/article/453691447.html

7首の連作が一人2篇ずつ、計4篇載っている。

 目を細めにらむみたいに紅葉見るきみを守れば失うだろう
                    橋爪志保「日々」

上句は視力の悪い人などが時々見せる仕種。結句は「(きみを)失うだろう」という意味で読んだ。守ろうとするとかえって失ってしまうという予感。

 川べりで暮らす小さな猫をまた見かけた 浮いた背骨をなでた
                    橋爪志保「日々」

下句の「見かけた」「浮いた」「なでた」がカエサルの「来た、見た、勝った」みたいで心地良い。「浮いた背骨」は少し痩せている感じだろう。

 かげろうのはねのふるえのてにすくうみずはこのよのひかりにぬれて
                    おさやことり「ひかりにぬれて」

おさやことり作品はすべて平仮名表記。二句「ふるえの」は「震えのように」という感じか。掌に掬うことによって初めて光の中で揺らめく水。

 じてんしゃにふたつのみみをのせてゆくよるがひやしたあけがたのまち
                    おさやことり「ひかりにぬれて」

二つの耳だけが無防備に寒さに晒されている。下句の「よるがひやした」に発見があっていい。最も気温が低いのは明け方の日の出直前である。

 シャカシャカと振ってたのしいホッカイロ きみの願いをかなえてあげる
                    橋爪志保「着地」

明るい無邪気さと根拠のない全能感に満ちた一首。どこが良いのかうまく説明できない。K音の響きだろうか。内容と韻律がうまく合っているように感じる。

 おおみそかおしょうがつにもようびあることのしずかなきみのみじたく
                    おさやことり「ゆのためてある」

12月31日も1月1日も、おそらく君はカレンダー通りに仕事があるのだろう。休みであれば関係のない「曜日」を意識せざるを得ないのだ。

2018年1月21日。


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2018年01月30日

「大阪が生んだ歌人、与謝野晶子」


5月23日(水)に大阪梅田の毎日文化センターで「大阪が生んだ歌人、与謝野晶子」という講座を行います。時間は10:30〜12:00。

「なにわ再発見」という5回シリーズの1回ですが、この回だけの受講もできます。詳しくは下記をご覧ください。
http://www.maibun.co.jp/wp/archives/course/35552

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2018年01月29日

「塔」2018年1月号(その2)


 かぼちゃ積み軽トラックは止まりたり丘のなだりに傾きながら
                      水越和恵

農作業には欠かせない軽トラ。「かぼちゃ」「丘のなだり」に、作者の住む北海道の風景が彷彿とする。「傾きながら」は、かぼちゃの重さのためと読んだ。

 さきいかの裂かれるときのさみしさをあなたは語る さきいかを振って
                      長月 優

「さきいか」「裂かれる」「さみしさ」の「さ」音の頭韻がよく効いている。結句は冗談めかしたような動作だが、それがかえって本当の寂しさを感じさせる。

 十字路を曲がれるバスの内輪差まざまざとみづは地に残したり
                      永山凌平

水たまりを通ったタイヤが乾いたアスファルトに痕を付けたのだろう。前輪と後輪の付けた曲線が二重になっている様子。まるで交通安全の図解みたいに。

 「評判のパン屋が近くにあったから」二時間かけてお見舞に来る
                      三谷弘子

きっと本当は見舞いが主目的でパン屋の方がついでなのだ。それをパン屋が主目的であるように言ったのは、負担をかけまいとする相手の優しさである。

 この町が私の体になじむまで見知らぬ道を歩き続ける
                      加茂直樹

普通ならば「私がこの町になじむまで」とでも言うところを反対にしたのが効いている。初めて通る道をぐるぐると歩き回って、徐々に身体になじませていく。

 やうやくに寝かしつけたるその後を妻は画像の子を見て過ごす
                      益田克行

やっと眠りについたのだからしばらくは忘れていてもいいのに、今度は画像を見て楽しんでいる。半ば呆れつつも妻の愛情の強さを感じているのだろう。

 筆跡のやうに確かな月光を額に受けて眠るをとめご
                      森尾みづな

何かの隙間から筋状になった月の光がくっきりと額に射している。「筆跡のやうな」という比喩が面白い。別の世界と通じ合っているような雰囲気がある。

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2018年01月28日

川端康成と志賀直哉


 秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡(ほろ)びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触覚を顫(ふる)わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。
                 /川端康成『雪国』

 或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転っているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。
                 /志賀直哉『城の崎にて』

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2018年01月27日

武生へ


「万葉の里 あなたを想う恋のうた」の選考会のため、2泊3日で福井県の武生へ。積雪は40センチほど。行きも帰りもJRの特急サンダーバードは運休や遅れなどがあり、大幅にダイヤが乱れていた。

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写真は宿の部屋から眺めた雪景色。
選考会で武生を訪れるのは3回目だが、寒さも雪の量も今年が一番だった。

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2018年01月25日

京都平日歌会


今日は午後から事務所で京都平日歌会。
2012年に始まった歌会も、今年で7年目を迎える。

短歌は他人に読んでもらって表現の加減を知ることが大事なので、歌会には機会があれば参加した方がいい。これは多くの人が口にすることだろう。

でも、歌会に参加したからといって、自動的に歌がうまくなるわけではない。歌会で何を得られるかは、その人次第。マンネリな気分で参加していても何も得られない。

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2018年01月24日

「塔」2018年1月号(その1)


 「ふきもどし」とふ玩具かふ昼きても人影まばら海田の祭
                      大橋智恵子

「ふきもどし」は笛に丸まった紙筒が付いた昔ながらの素朴な玩具。かつてはもっと賑やかな祭だったのだ。あるいは夜には賑やかになるのかもしれない。

 屋上より向かひの屋上見てゐしと 波来るたびに人流れしと
                      梶原さい子

東日本大震災の津波を体験した人の話。屋上に避難して、向かいの建物の屋上の人が流されるのを目撃したのだ。もちろん、どうすることもできない。

 クレーンをビル屋上に置く術を知ればつまらぬ風景となる
                      小石 薫

仕組みを知らなかった時は不思議な光景として見えていた屋上のクレーン。いったん知ってしまうと、もうその驚きを味わうことはできなくなってしまう。

 歌会を終へたる人はまた杖をつきつつ秋の駅舎へ向かふ
                      今西秀樹

歌会中はきっと元気で年齢を感じさせない振舞いを見せていたのだろう。でも、席を立つと急に一人の老人に戻って、覚束ない足取りで歩いていく。

 ドクターも技師もとつても紳士にて失礼しますとこの胸を見る
                      國森久美子

乳房の手術を受ける場面。礼儀正しいのは有難いが、かえって気恥ずかしいのかもしれない。あるいは、そんなことより治してほしいという痛切な思いか。

 再婚せし母の連れあひ〈おつさん〉と呼んでゐたりきあのころの友
                      川田伸子

まだお互いに若かった頃の思い出。新しく父になった人物を「父さん」とは呼べず「おっさん」と呼んでいた友。いろいろ悩みを聞いたりもしたのだろう。

 あれはどこへ行くのだったかポケットに百円玉を固く握りて
                      中本久美子

大人にとって100円はわずかな金額だが、子どもにとっては大きなお金。手に握りしめていた百円玉の感触だけを今も鮮明に覚えているのである。

posted by 松村正直 at 08:14| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする