2017年03月17日

洞窟と私

高校2年の時に一週間ほど東北を一人で旅行したことがある。その時に、岩手県にある滝観洞(ろうかんどう)という鍾乳洞に行った。全く知らない所だったのだが、地元の方とたまたま話をしていて「龍泉洞と安家洞に行く」という話をしたところ、この近くにも鍾乳洞があると言って教えてもらったのが滝観洞であった。

この鍾乳洞が実に素晴らしくて、それ以来すっかり洞窟好きになってしまった。名前からもわかるように、一番奥まで進むと大きな滝が流れ落ちている。その美しさに見惚れて30分ばかりボーっと滝を眺めていた。

すぐ近くには白蓮洞という柳原白蓮にちなんで名付けられた鍾乳洞もあり、そちらは途中這いつくばって進むような箇所もあって、なかなかハードな洞窟であった。どちれも忘れられない思い出である。

あれから30年。

鍾乳洞や熔岩洞窟、さらには防空壕、地下壕、鉱山、石切場など随分とたくさんの地下空間を訪れてきた。新婚旅行で沖縄へ行った時も、絶好のチャンスとばかり「海軍司令部壕」や「玉泉洞」に行って、今から思うと妻をあきれさせたのであった。

posted by 松村正直 at 07:00| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

吉田勝次著 『洞窟ばか』


副題は「すきあらば、前人未踏の洞窟探検」。

洞窟探検家として国内外1000以上の洞窟に入り、プロの洞窟ガイドとしても活躍する著者が、これまでの半生を語りつつ洞窟の魅力について記した本。

とにかく、洞窟に対する愛と情熱、行動力がすごい。

まさに運命の出会いと言っても過言ではない。運命の女性と出会った男が「オレにはこの人しかいない」と興奮するように、オレは洞窟の中で興奮しまくっていた。
オレは、洞窟をやる人間、洞窟好きの人間には悪い奴はいないと思っている。
洞窟に出会ってから現在までのおよそ二十数年間、オレは自分の人生の全エネルギーを洞窟探検に注いできた。未知の洞窟を探検するために生きてきたと言ってもいい。

どんな分野においても、こんなふうに言い切れる人はなかなかいないだろう。

洞窟探検に関する具体的な話も面白い。
観光用の洞窟とは全く違う世界である。

当初から、おしっこは空になったペットボトルに、ウンコはジップロックのような密封できるビニール袋に入れて、100%持ち帰るようにしていた。
新しい洞窟を探すとき、最初に見るのは地質図と地形図である。
洞窟をやるようになって、いかに人間が太陽のリズム、つまり1日24時間というサイクルに拘束を受け、それに合わせるために行動を左右されているか、ということがかえって実感できるようになった。

巻頭に16ページにわたって載っているカラー写真も素晴らしい。著者は最後に洞窟の写真集を出したいという夢を書いているのだが、確かに洞窟の美しさや大きさが一目で伝わってくる。

2017年1月31日、扶桑社、1400円。

posted by 松村正直 at 15:46| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

日本現代詩歌文学館

岩手県北上市にある日本現代詩歌文学館 http://www.shiikabun.jp/ は、明治以降の日本の詩歌に関連する本や雑誌を収集している文学館で、資料の充実ぶりが素晴らしい。「現代短歌雁」も「塔」も「D・arts(ダーツ)」も、全巻揃っている。

先日届いた日本現代詩歌文学館館報「詩歌の森 第79号」に、学芸員の濱田日向子さんが次のように書いている。

資料に収められるそれぞれの作品には当然その作者が存在し、その作品や論文を求めている読者や研究者も存在している。詩歌の世界では、実作者は同時に読者であり、研究者であることも多い。これは、日々寄せられるレファレンスに対応するなかで初めて知ったことだった。
「どこを探しても見つからなかったものがようやく見つかった」と、利用者の方から笑顔でお礼を告げられたとき、誇らしい気持ちになると同時に、文学館のこれまでの積み重ねを思った。
もし今、その資料を必要とする人がいなかったとしても、十年後、百年後はどうだろうか。いつか来るその時のために、後世に資料を遺し、それを求めている人とつないでいくことが私たちの大切な仕事なのだと感じている。

日本現代詩歌文学館は、コピーの郵送をしてくれるだけでなく、レファレンス(調査・研究の手助け)にもきめ細かく対応してくれるので、短歌の評論を書く人や書きたいという人は、ぜひ利用してほしいと思う。

posted by 松村正直 at 22:51| Comment(0) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

戦後の山野井洋

『樺太を訪れた歌人たち』を書いた時点では、戦後の山野井洋のことはほとんどわからなかったのだが、先日の東京での聞き取りを含めて随分とわかってきた。

山野井が「山野井博史」の名でも作品を発表していたという事実を手掛かりに、今回二つの資料を入手した。

一つは新日本歌人協会編『人民短歌選集』(伊藤書店、1948)。
赤木健介、大岡博、岡部文夫、小名木綱夫、窪田章一郎、館山一子、坪野哲久、土岐善麿、中野菊夫、矢代東村、山田あき、渡辺順三ら53名のアンソロジーである。

その中に、山野井博史「戦後」20首がある。

ねずみの巣の如き屋根裏をわが家と妻子とくらす『焼け出され』われは
雨風のただに吹きこむ屋根裏も我が家と思う住みつかんとす

という戦後の厳しい生活を詠んだ歌がある一方で、

私が盗んだのだからわるいのよといいながら死んでいつたと書いてある南瓜ひとつ
性欲も食欲も充たされぬままのその眼の色をさげすんで済むことではない

など、自由律のような作品も含まれている。

もう一つは、山野井博文作詞、山田耕筰作曲の「つばくろの秋」「焦土の秋」である。「つばくろの秋」は1945年9月の作品(初出は『音楽文化』3巻2号、1945年10・11月号)で、山田耕筰が戦後最初に手掛けたものであるらしい。「焦土の秋」も同じ時期のもの。

葉桜の 南の風に
かえり来し つばくろよ
宮居(みやい)をめぐる いらかはいずこ
焼けにし跡に 緑はめぐむ
火の雨に 燃えしと知らず
さまよえる つばくろよ
やさしき人の 住居(すまい)はいずこ
焼けにし跡に 柳は揺るる

「つばくろの歌」の1番と3番を引いた。
5・7・5・5・7・7・7・7という音数になっている。
空襲で焼けてしまった東京の町にやって来た燕を詠んだ内容だ。

山野井洋と山田耕筰、二人の接点はどこにあったのだろうか。

posted by 松村正直 at 08:38| Comment(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

連想の交点

「いろいろな本を読んでますね」と時々言われるのだけれど、別にいろいろな本を読んでいるつもりはなくて、全部が僕の中ではつながっている。

例えば、今回読んだ『羊をめぐる冒険』について言えば、一つには「樺太」−「山野井洋」−「歌集『龍爪緬羊牧場』」−『羊をめぐる冒険』という流れがあり、もう一つは「高安国世」−「芦屋」−『羊をめぐる冒険』という流れがあった。

人生は連想ゲームに似ている。
連想をつなぐようにして物事が進んでいく。

一つの連想だけであれば、そこには特に必然性はない。でも、二つの別々の連想が交わると、そこには強い必然性が生じる。今回も二つの流れの交点に『羊をめぐる冒険』が出てきたので、読んだという次第。

僕と短歌との出会いもそれと似たようなもので、当時住んでいた「函館」という町と、僕の好きな「文学」の流れが交わるところに「啄木」が現れたのだった。

連想自体は気ままな偶然に過ぎないが、それが交差する点については、僕は強く信じることにしている。


posted by 松村正直 at 11:16| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月11日

村上春樹著 『羊をめぐる冒険(下)』


久しぶりに小説を読んだけれど面白かった。
電車の中で物語を読んでいると、時々自分が今どこにいるのかわからなくなる。

どこまで行っても空には雲ひとつなく、地上には終始飛行機の影が映っていた。正確に言えば我々は飛行機に乗っているのだから、その山野を移ろう飛行機の影の中には我々の影も含まれているはずだった。
「あなたが知ってると思ってるものの殆んどは私についてのただの記憶にすぎないのよ」
寂しさというのは悪くない感情だった。小鳥が飛び去ってしまったあとのしんとした椎の木みたいだった。

読み終った時にちょうど電車が京都駅に着いた。
読み終っていなかったら乗り過ごしていたかもしれない。

2004年11月15日第1刷発行、2014年4月21日第27刷発行。
講談社文庫、500円。

posted by 松村正直 at 23:44| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月10日

ネットと調べもの

中学生の息子と話をしていて感じるのは、「ネットで調べれば何でもわかる」という意識が強いことである。「ネットには何でも載っている」と、ネットに絶大な信頼を置いているように感じる。

それも無理はないことだ。

大阪へ行く電車の時刻や料金、あるいは数学の問題の解き方、神話に出てくるモンスターの名前など、彼が今必要としている知識や情報のほとんどは、確かにネットに載っている。それもかなり詳しく。かつて私が子どもの頃に引いた百科事典の解説の比ではない。

便利な世の中になったと思う。その恩恵は、私も日々受けている。昔だったらわからずじまいだったことが、家にいながら調べられるのは本当にありがたい。

一方で、「ネットには何でも載っている」という感覚は、人生をつまらなくさせてしまうようにも思う。世の中のすべての出来事が、既にわかっていて、決まっていて、もう動かせないものであるかのように感じるからだ。

実際は全くそんなことはない。

例えば僕がここ数年追い続けている「松村英一の歌碑」のことだって、いまだに樺太に現存しているのかどうかわからない。ネットで調べても絶対にわからない。現地に行って歩き回って探して、ようやく「あった!」とか「……ないな」とか、わかるかもしれないといったことである。

あるいは山野井洋のことだってそうだ。これまで、詳しい経歴や人物像がほとんどわかっていなかった。ネットで検索してみても、僕のブログの記事がヒットするくらいである。でも、地道に調べて行く中で、少しずつではあるがいろいろなことがわかってくる。

それが楽しい。

真っ暗な場所を歩いていて、ぽつんぽつんと灯りがともっていくように、少しずつまわりが見えてくる。一か所が見えてくると、それがまた次の灯りにつながって、徐々にあたりが明るくなっていくのである。

そこにあるのは、既にある知識ではなくて、今まさに出来たばかりの知識だ。存在しなかったものが生まれる瞬間と言ってもいい。世の中には、まだ誰も知らないことが、きっと山のように残されている。

それを見つける喜びを、いつか息子も知ってくれたらいいなと思う。

posted by 松村正直 at 12:34| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月09日

石田比呂志歌集 『冬湖』

2011年に亡くなった作者の7回忌にあわせて刊行された遺歌集(第18歌集)。2010年から11年にかけての作品186首と未定稿歌抄39首、さらに自らの生い立ちを綴ったエッセイ「孑孑記(げつげつき)」を収める。

地下街の動く階段のぼり来て大欠伸の口地上にて閉づ
尾の切れし本体よりも切られたる尻尾(しっぽ)の方がよっぽと痛い
寝そべりていたりし犬が立ち上がり思い定めし如くに歩く
海峡の空低くゆく漂鳥を標的として襲う鳥あり
あけぼののきざせる部屋に石に降る雨を聞きおり眼鏡を置きて
背後(うしろ)から光が射せば前方に落つる外なき影に首あり
置き去りにされし鷗も居残れる鷗も白し夕日が中に
一方(ひとかた)に向きて湖面を漂える鴨あり首を風に吹かれて
飛ぶ鳥は必ず墜ちる浮く鳥は必ず沈む人間は死ぬ
石ころは石ころなりに所得て旅心(りょしん)動くということのなし

1首目、地下から地上に出る時のちょっとした緊張感。
2首目、組織と個人の関係としても読める歌だ。
4首目、渡り鳥の群れを襲う猛禽の姿が生き生きと目に浮かぶ。
5首目、「眼鏡を置きて」がいい。雨音だけが心に沁み込んでくる。
6首目、「首あり」と言うことで反対に斬首の場面がイメージされる。
9首目、何ともすごい歌だと思う。身も蓋もない。7首目から9首目は絶詠「冬湖」30首より。力のある歌が多い。

「孑孑記」も非常に味わいがある。未完に終ってしまったのが惜しい。

2017年2月18日、砂子屋書房、2500円。

posted by 松村正直 at 09:54| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

羽生善治著 『羽生善治 闘う頭脳』


2015年3月に刊行された文春ムック「羽生善治 闘う頭脳」の文庫化。

小学校・中学校の頃はよく将棋を指していたが、今はまったくやらない。でも、将棋に関する本を読むのは好きだ。

羽生さんとは同じ年齢ということもあって、いわゆる「羽生世代」の棋士の動向は特に気になる。森内俊之九段がB級1組に降格したニュースなどにも、つい立ち止ってしまう。

本書は羽生善治と池谷裕二(脳科学者)、小川洋子(小説家)、為末大(アスリート)、山折哲雄(宗教学者)、沢木耕太郎(作家)などとの対談やエッセイを収めた一冊。

私はプロになってもう二二年目ですので、何もしないとどうしても安全に、無難に、という手を選んでしまいます。それではプロ同士の戦いに勝てません。
人間はやはり視覚から入って来る情報が非常に大きな部分を占めているので、それは非常に便利なのですが、簡単に入ってきたものは簡単に忘れてしまいます。
ミスはしないに越したことはないのですが、それでもミスはしてしまいます。大事なのはミスをした後、ミスを重ねないことだと思っています。

25歳の若さでタイトル七冠を独占し、現在もトップ棋士の地位を保つ著者の発言は、非常に示唆に富む。一流の人の語る話はやはりおもしろい。

2016年3月10日、文春文庫、660円。

posted by 松村正直 at 11:49| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月06日

山野井洋のこと

『樺太を訪れた歌人たち』の中で、山野井洋という歌人のことを取り上げた。これまで詳しい経歴などがほとんど知られていなかった人物である。

その山野井洋のご子息とたまたま連絡を取ることができ、おととい東京でお会いしてお話をうかがってきた。何とも言えず嬉しい。

いくつもの新たな情報を得ることができたので、備忘のために書いておきたい。

○1908年生まれ、1991年逝去(82歳)。
○歌集『わが亜寒帯』の再版本には、初版にはない「批評抄」が付いている。
○昭和13年に樺太から東京に移って以降は東京暮らし。第2歌集で満州の開拓地を詠んでいるのは、旅行による滞在の結果である。
○戦後は保険の業界紙のコラムを書くなど、文筆業で生計を立てた。
○「山野井博史」の名でも作品を発表しており、山野井作詞・山田耕筰作曲の曲がいくつか残されている。

今回お聞きした話をもとに、今後もさらに調査研究を続けていきたい。

posted by 松村正直 at 23:45| Comment(2) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

「海遊館」吟行

5月11日(木)にJEUGIAカルチャーセンターの講座で、「海遊館で短歌を詠む」という吟行を行います。

http://culture.jeugia.co.jp/lesson_detail_17-23431.html?PHPSESSID=01cporjt6lv54ktpiv0tc2sap1

どうぞ、ご参加ください。

posted by 松村正直 at 08:06| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

週末は東京へ

今週末は1泊2日で東京へ行く。
「樺太関係」「家族関係」「映画」「短歌関係」と4つのことをする予定。

本当は生まれ育った玉川学園にも行ってみたいのだが、なかなかそういう時間は取れない。最後に訪れたのはいつだったろう。

posted by 松村正直 at 23:49| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月01日

映画 「島々清しゃ」

監督:新藤風
出演:伊東蒼、安藤サクラ、金城実、山田真歩、渋川清彦ほか

沖縄の慶良間諸島を舞台に、耳の良過ぎる少女と東京から来たバイオリニスト、そして島の人々の交流を描いた作品。タイトル「しまじまかいしゃ」は映画の中でもたびたび出てくる沖縄民謡の曲名である。

学校や子供たちの場面が多いのだが、子役の演技というのはなかなか難しいなあと思う。みんな真面目に取り組んでいるのだが、いかにも演技してますという感じに見えてしまう。

京都シネマ、100分。

posted by 松村正直 at 20:12| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月28日

『樺太を訪れた歌人たち』の書評

『樺太を訪れた歌人たち』について、書評等で取り上げていただきました。ありがとうございます。

・内田弘「なぜ樺太か」(「現代短歌新聞」2017年2月号)
・田中綾「書棚から本を」(「北海道新聞」2017年1月29日)
・高木佳子「時代と国と人のありよう」(「短歌往来」2017年3月号)
・田村元「短歌と樺太」(「りとむ」2017年3月号)

posted by 松村正直 at 07:32| Comment(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月27日

「塔」2017年2月号(その2)

珈琲に息ふきかけてはつふゆの湖面のように晴れてゆく湯気
                     安田 茜

珈琲から立ち昇る湯気を湖面の霧に喩えているところが鮮やか。スケールの全く違うものが比喩によって一瞬で結び付く。

お母さんも喘息ですね かつてのわが苦しみまでも名を付け
られぬ                  丸本ふみ

子が喘息で苦しんでいるのだろう。医師が軽い気持ちで言った言葉を聞いて、子の病気が自分のせいなのかと思い悩むのである。

自転車ごと乗りこむ二両の飯坂線冬の帽子を目深にかぶり
                     佐藤涼子

近年、自転車を車内に持ち込めるサイクルトレインが少しずつ広がっている。「二両」というところからローカル線の様子も伝わる。

ピーマンは豊かに稔り実の中にいま満ちてゐむみどりの光
                     高橋ひろ子

畑に実るピーマンを見ながら、その中に入ってみたかのような想像をしている。ピーマンには空洞があるので、小人なら住めそうだ。

晩年は光届かぬ目となりし画家のまなうらに光る睡蓮
                     魚谷真梨子

モネのことだろう。目が見えないと言わずに「光届かぬ目」と表現したのがいい。自分がかつて描いた作品が目の奥で光っている。

明け方のどこかで犬が鳴いてゐる声のまはりを滲ませながら
                     岡部かずみ

下句がおもしろい。鳴き声だけを聞きながら、そのまわりの空気の震えのようなものを感じ取っている。そこだけがほのかに明るい感じ。

posted by 松村正直 at 19:20| Comment(1) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

「塔」2017年2月号(その1)

どのビルにも屋上があるということを暮れ残りたる屋上に知る
                        白水麻衣

夕暮れの屋上から町を眺めている様子だろう。地上はすっかり暗くなっているのに屋上にはまだうっすらと明るさが残っている。

鎌倉や耳朶に穴ある仏なれば耳朶の向かうに空の見えたり
                        永山凌平

鎌倉の大仏の耳には穴が開いていて、そこから空が覗くのだ。初句、与謝野晶子の「美男におはす」の歌を思い出させる。

ほんのりと擦れば香るとふ栞こすらず送る手紙に添へて
                        越智ひとみ

香りが薄れてしまわないように、慎重な手付きで封筒に入れているところだろう。相手への大事なプレゼントなのだ。

火にかざしジャム瓶の蓋ゆるめつつ少年という瓶をおもえり
                        中田明子

おそらく頑なな態度を見せることのある少年なのだろう。ジャムの瓶と違って、こうすれば簡単に開くというわけにはいかない。

ロキソニン湿布の裏に書かれたる富山の地名もういちど読む
                        松原あけみ

痛み止めとして一般的によく使われているロキソニン。こんなところにも「富山の薬売り」以来の伝統が生きているのか。

「雨る」を「ふる」と読めぬ我なりたそがれの雨は真直ぐにしらじら
と降る                     丸山順司

渡辺松男の歌集名を受けての歌だろう。「雨る」を「ふる」と読むことへの違和感と、そんな自分の生真面目さを少し疎ましく思う気持ちと。


posted by 松村正直 at 18:59| Comment(0) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

2月はどうして

2月はどうして28日までしかないのだろう。

1月は31日、3月も31日まであるのだから、
そこから一日ずつもらってきて、1月・2月・3月と
全部30日までにしたらどうなんだろう。
そして、うるう年の時は2月31日にしたらいい。

他の月はみんな30日か31日まであるのに、
2月だけが極端に短いのはかわいそうだと思う。

どうして28日までなのか。何か理由を読んだこと
があったような気もするのだけれど忘れてしまった。
とにかくせめて30日までは増やしてあげたい。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・などと考えている暇があったら、
2月末締切の原稿に早く取り掛かれよ!

ごもっともです。

posted by 松村正直 at 11:11| Comment(3) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月24日

村上春樹著 『羊をめぐる冒険(上)』


村上春樹の新作『騎士団長殺し』が発売になった日に、なぜか『羊をめぐる冒険』を読んでいる。

急ぐ読書でもないので、のんびりと5日くらいかけて上巻を読み終えた。小説を読むのも久しぶりな気がする。

面白い比喩がたくさん出てくる。これが無かったら分量は半分くらいになってしまうのではないかしら。

鳩時計みたいに正確だった。
その巨大な車はビルの玄関前の路上に潜水艦みたいに浮かんでいた。
つつましい一家ならボンネットの中で暮せそうなくらい巨大な車だった。
何から何まで新しいトランプのカードを一枚ずつめくる程度の音しかしなかった。
耳栓をつけて湖の底に座っているような静けさだった。
まるで金だらいに乗って水銀の湖面を滑っているような気がした。

115ページ〜116ページだけでも、ざっとこんな感じだ。

途中、芦屋がモデルとなっている街の河口や旧防波堤の光景が描かれていて、以前、高安国世ツアーで行った時のことを思い出したりした。

2004年11月14日第1刷、2014年3月3日第28刷、講談社文庫、500円。

posted by 松村正直 at 16:43| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

謙遜は美徳か?

一般社会において(適度な)謙遜は美徳である。
けれども、短歌の世界ではどうだろう。

歌会の場などでよく、「私は初心者なので・・・」とか、「たぶん間違ってると思うんですけど・・・」などと発言を始める人がいる。本人は謙遜のつもりなのだろうけれど、聞いていて良い気はしない。

歌の前では誰もが平等。
これが基本だと思う。

何十年短歌をやってきた人も、昨日短歌を始めたばかりの人も、歌の前では平等だ。手ぶらで、自分の持っている力だけで、その歌をどのように読むか。それが問われている。

キャリアの長い人が「私は五十年歌をやってきたので(だから、私の言うことを聞け)」と言うのが嫌なのと同じで、「私は初心者なので(大目に見て下さい)」というのも嫌である。それはあなたの話であって、歌の話ではない。

他にも、自作を批評された後などに、「自分でもここが問題だとわかってたんですよ」とか「時間がなくてパッと出しちゃって・・・」などという人も多い。これも聞いていて良い気はしない。

自分なりにベストな歌を出さなければ、そもそも話にならない。言い訳は不要。一体何に向って言い訳をしているの? 誰に何を言われても、それが自分の今の実力と思って真摯に受け止めるしかないのだ。

「私の歌なんか・・・」「ちゃんと勉強ができてなくて・・・」
そういうのも御免だ。

作者自身が良いと思っていない歌を、他人が良いと思うはずがない。自分の子どもと同じで、どんなに出来が悪くたって可愛がってあげないと。勉強が足りないと思ったら、自分で勉強したらいいだけの話。

歌の前では、謙遜も言い訳も要らない。

posted by 松村正直 at 10:50| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月21日

小川軽舟著 『俳句と暮らす』


俳人にして単身赴任中のサラリーマンでもある著者が、「飯を作る」「会社で働く」「妻に会う」「散歩をする」などのテーマごとに、自らの暮らしの話を交えながら俳句について記した本。文章が洗練されていて味わい深い。

俳句とは記憶の抽斗を開ける鍵のようなものだ。読者がそれぞれの抽斗を開けてそこに見出すものは同じではない。
俳句は日々の生活から離れた趣味の世界としてあるものではない。日々の生活とともにあって、それを大切な思い出に変えてくれるものである。
取り合わせの手法は五七五の短い詩型が豊かな内容を得るためにとても重要な働きをするのである。
一句の構造を切ることによって韻文としての格調を得る。(…)その間をああだこうだと理屈で埋めようとしないことが俳句にとって何より大事なことだ。

けっこう短歌とも共通する話が多いように思う。
引用されている俳句にも印象的なものが多い。

秋雨(あきさめ)の瓦斯(ガス)が飛びつく燐寸(マッチ)かな
                中村汀女
除夜の妻白鳥のごと湯浴(ゆあ)みをり
                森 澄雄
さくら咲く生者は死者に忘れられ
                西村和子
死ぬときは箸置くやうに草の花
                小川軽舟
一枚の餅のごとくに雪残る
                川端茅舎

時間を見つけて句集も読んでいけたらと思う。

2016年12月25日、中公新書、780円。

posted by 松村正直 at 22:08| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする