2017年09月02日

短歌総合誌


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短歌における「総合誌」とは「結社誌」や「同人誌」に対する言葉で、一般に言う「商業誌」のことである。現在、短歌総合誌と呼ばれるものには「短歌研究」「角川短歌」「歌壇」「短歌往来」「現代短歌」の5誌がある。

わが家ではこれらをすべて定期購読しているので、毎月5冊の雑誌が届くことになる。それに加えて「現代短歌新聞」「うた新聞」の2紙も定期購読している。(金持ちだという自慢ではありません、念のため)

もう15年も前になると思うが、永田和宏さんから「短歌の世界で本格的にやって行こうと思うなら、痩せ我慢してでも雑誌を定期購読することだ」と言われて、それ以来ずっとそうしている。

短歌総合誌については、「毎月毎月、読み切れない」「どの雑誌も似たり寄ったりで特色がない」「値段が高過ぎる」「掲載されている作品がマンネリ」「保存しておく場所がない」「近くの書店で売っていない」「新人賞の発表号だけ買えばいい」といった話を聞く。

どれも、その通りだと思う。別に反論するところはない。

では、なぜ定期購読を続けているのかと言えば、ただ一点だけ。短歌というジャンルを応援しているからである。資本主義社会においては、自分の価値観はお金の使い方によって示すしかない。僕は短歌が好きだから、短歌にお金を使う。単純なことだ。

定期購読者の数は、その雑誌の力になる。読みたいだけでなく応援する気持ちがあるから、定期購読しているのである。

posted by 松村正直 at 11:08| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月01日

欠詠

あれはどの歌集に入っている歌だったかな、と思って探したら1冊目で見つかった。

欠詠の若きらをもはや頼まざり私にはもう時間がない
               河野裕子『家』

1996年の歌なので、当時河野さんは50歳。
欠詠する若者たちを、一体どんな思いで見ていたのだろう。

欠詠してはいけません。一回欠詠するとズルズルと休み癖がついてしまい、短歌引きこもりになるから御用心。一首でもいい。日本語が並んでさえいればいいと思って出詠してください。ええカッコして、褒めてもらおうと思うから歌ができなくなるのですよ。駄作、凡作がいつのまにか作歌の元肥やしになってくれます。諦めてはあきません。

『河野裕子読本』に収められた「河野裕子語録」より。
「塔」に入って20年になるけれど、一度も欠詠したことはない。
河野さんにこういう話を何度も聞かされていたからである。

「諦めてはあきません」、そう、大事なのは諦めないことだ。
posted by 松村正直 at 23:37| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月28日

気になる言葉(つづき)

昨日書いたことでツイッター等を非常に騒がせてしまっているようですが、もしご意見や苦情、反論などがありましたら、ブログのコメントや松村にメールなどで直接言って来ていただければと思います。
masanao-m@m7.dion.ne.jp

どれも昨日初めて思い付いたことでも何でもなくて、普段から歌会等ではいつも言っていることです。SNSの拡散力というのはすごいものですね。ただ、僕のいない場でいろいろと書かれても返事のしようがありません。

「歌の前ではみんな平等」というのが、僕の基本的な考えです。参加者全員がざっくばらんに意見を述べ合えるのが一番大切なことです。僕なりの歌会の三原則というのがあって、

 ・遠慮しない (思ったことは何でも自由に言う)
 ・下を見ない (歌会中は顔を上げて発言者を見る)
 ・私語をしない (意見があるなら全員に向けて言う)

ということを大事にしています。

ベテランの人が威張るのが良くないのと同じで、初心者の人が必要以上に遠慮したり萎縮したりするのも感心しません。もちろん、慣れの問題もあります。誰だって歌会に行き始めたばかりの頃は、なかなか思い切った発言ができません。

でも、それ以上に大事なのは意識の持ち方です。「自分の読みは間違っているんじゃないか」「トンチンカンなことを言って恥をかくんじゃないか」「厳しいことを言って嫌がられたらどうしよう」などといった思いがあると、歌会は楽しめませんし、歌会の議論自体が空疎なものになってしまいます。

まあ、こうした机上の論だけを言っていても仕方がありませんね。

僕はふだん、「塔」の旧月歌会(第3土曜)、京都平日歌会(第4木曜)、フレンテ歌会(第1金曜)に参加しています。どんな歌会をしているのか見てみたいという方は、ぜひ一度ご参加下さい。どなたでも大歓迎です。

posted by 松村正直 at 21:38| Comment(5) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月27日

気になる言葉

歌会の批評などを聞いていて、気になる言葉あれこれ。

・「お歌」
   歌で十分。

・「後で作者に聞いてみたい」
   それなら何のために歌会をやっているのだか。
   斎藤茂吉の歌についても本人に聞くの?

・「間違ってるかもしれませんが・・・」
   歌の読みに間違いも正解もない。
   自分はこう読んだという点においてどれも正しい。

・「皆さんのご意見をお聞きしたい」
   いや、その前にあなたの意見を言いなさいよ。

・「えっ、私ですか?」
   はい、あなたです。

・「私は短歌初心者で・・・」
   いつまでそれを言うつもり? 言い訳は不要。

・「ちょっと別のことを考えていて・・・」
   歌会中は常在戦場でお願いします。

【追記】
「気になる言葉(つづき)」も書きましたので、あわせてお読みください。
posted by 松村正直 at 12:48| Comment(4) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

歌集のあとがき

以前、「塔」の全国大会で池本一郎さんにインタビューをした時、印象的な話を聞いた。(「塔」2011年11月号)

池本 『街上』のあとがきに有名なことが書かれています。受身一方でない現実のとらえ方が大事だという、それから日常の連続じゃなしに、非連続の瞬間に詩が成立するって、そういうところを大事にして、精神の抽象作用とか、表現主義的な傾向を考えていかなきゃいけないと、そういうことをはっきり宣言されてます。それが作品として一番追求されたのが『虚像の鳩』じゃないかということですね。ところが『虚像の鳩』になると、あとがきはもう全然違うことが書いてあるんですよ。もう穏やかな、自然と一致していかなきゃいけないようなね。一つ前の歌集に次の宣言をしてしまったみたいな、そんな感じが私はしてるんですけど。

松村 『虚像の鳩』の作品とあとがきとがちょっと食い違ってるということですね。

つまり、高安国世の第7歌集『街上』のあとがきに書かれている内容は、作品の上では第8歌集『虚像の鳩』に表れていて、第8歌集『虚像の鳩』のあとがきの内容は、次の第9歌集『朝から朝』に反映しているということである。

確かに、歌集に収められた作品の時期とあとがき執筆の時点とでは時差があり、あとがきを書いているのは実は次の歌集の作品を詠んでいる時期に当たるわけだ。

これは意外と盲点となっていることではないだろうか。よく歌集のあとがきを引いてその歌集の説明をする人がいるけれど、そこにはこうした時差が存在することを意識しておいた方が良いと思う。
posted by 松村正直 at 07:41| Comment(0) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

日本現代詩歌文学館

岩手県北上市にある日本現代詩歌文学館 http://www.shiikabun.jp/ は、明治以降の日本の詩歌に関連する本や雑誌を収集している文学館で、資料の充実ぶりが素晴らしい。「現代短歌雁」も「塔」も「D・arts(ダーツ)」も、全巻揃っている。

先日届いた日本現代詩歌文学館館報「詩歌の森 第79号」に、学芸員の濱田日向子さんが次のように書いている。

資料に収められるそれぞれの作品には当然その作者が存在し、その作品や論文を求めている読者や研究者も存在している。詩歌の世界では、実作者は同時に読者であり、研究者であることも多い。これは、日々寄せられるレファレンスに対応するなかで初めて知ったことだった。
「どこを探しても見つからなかったものがようやく見つかった」と、利用者の方から笑顔でお礼を告げられたとき、誇らしい気持ちになると同時に、文学館のこれまでの積み重ねを思った。
もし今、その資料を必要とする人がいなかったとしても、十年後、百年後はどうだろうか。いつか来るその時のために、後世に資料を遺し、それを求めている人とつないでいくことが私たちの大切な仕事なのだと感じている。

日本現代詩歌文学館は、コピーの郵送をしてくれるだけでなく、レファレンス(調査・研究の手助け)にもきめ細かく対応してくれるので、短歌の評論を書く人や書きたいという人は、ぜひ利用してほしいと思う。

posted by 松村正直 at 22:51| Comment(0) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

謙遜は美徳か?

一般社会において(適度な)謙遜は美徳である。
けれども、短歌の世界ではどうだろう。

歌会の場などでよく、「私は初心者なので・・・」とか、「たぶん間違ってると思うんですけど・・・」などと発言を始める人がいる。本人は謙遜のつもりなのだろうけれど、聞いていて良い気はしない。

歌の前では誰もが平等。
これが基本だと思う。

何十年短歌をやってきた人も、昨日短歌を始めたばかりの人も、歌の前では平等だ。手ぶらで、自分の持っている力だけで、その歌をどのように読むか。それが問われている。

キャリアの長い人が「私は五十年歌をやってきたので(だから、私の言うことを聞け)」と言うのが嫌なのと同じで、「私は初心者なので(大目に見て下さい)」というのも嫌である。それはあなたの話であって、歌の話ではない。

他にも、自作を批評された後などに、「自分でもここが問題だとわかってたんですよ」とか「時間がなくてパッと出しちゃって・・・」などという人も多い。これも聞いていて良い気はしない。

自分なりにベストな歌を出さなければ、そもそも話にならない。言い訳は不要。一体何に向って言い訳をしているの? 誰に何を言われても、それが自分の今の実力と思って真摯に受け止めるしかないのだ。

「私の歌なんか・・・」「ちゃんと勉強ができてなくて・・・」
そういうのも御免だ。

作者自身が良いと思っていない歌を、他人が良いと思うはずがない。自分の子どもと同じで、どんなに出来が悪くたって可愛がってあげないと。勉強が足りないと思ったら、自分で勉強したらいいだけの話。

歌の前では、謙遜も言い訳も要らない。

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2016年11月09日

佐太郎の言葉

思うところがあって古い「歩道」を読んでいる。
「歩道通信」に載っている佐藤佐太郎の文章を味わいながら読む。

蛇崩の道を往反し、途中喫茶店で一憩して即席の歌を考へたりする。さういふ毎日をくりかへしてゐる。かうして二日に一首、三日に一首といふ具合に作りためた歌を「歩道」に出す。(昭和53年7月号)
こんなに健康の具合が変つてゐては、たまに逢つた人は、挨拶にも困るだらうし、私も挨拶のしようがない。これから、私の健康について、訪問者はふれないやうにして貰ひたいし、私も話さない事にしようと思ふ。(昭和53年9月号)
そこにゆくと短歌はいい詩形だ。短歌ではこみいつた事は言へないし、また言ふ必要もないが、端的に思ふ事を言ふとしたら、これほど自分を表白し得る詩形はない。われわれは自信を以て短歌に傾倒していい。(昭和56年8月号)

どれもこれも、良い言葉だなと思う。
おそらく、短歌は一生をかけるに足るものだと70歳を超えた佐太郎は言っているのだ。

posted by 松村正直 at 22:49| Comment(0) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月07日

結社について考える (その4)

その後、小池は2010年まで「短歌人」の編集人を務め、永田は2014年まで「塔」の編集発行人(主宰)を務めた。

短歌人編集人たりし二十五年ただ黙々ときみあればこそ
            小池光『思川の岸辺』
よくやつたとほんとに思ふわたくしを出さず抑へて来し三〇年
こんなにも力を注ぎ来しことを見てゐてくれしは妻なりし人
  永田和宏「三〇年に三〇年」(角川「短歌」2014年6月号)

二人が「二十五年」「三〇年」という歳月を振り返りつつ、そこに妻の存在を詠み込んでいることが印象深い。それだけ結社のトップというのは孤独なものなのだろう。誰にもわかってもらえない苦労があり、でも妻だけはわかってくれているという思いが、かろうじて心の支えとなっているのである。

「塔」の30周年記念号の編集ノートに永田は

一世代、二世代……と数えてゆくときの、一世代という時間は三十年に当たるのだそうだ。「塔」が創刊されてから三十年、丁度一世代分の時間が流れたことになる。
「塔」ばかりではない。この数年、多くの短歌雑誌で三十周年の記念号が編まれた。多くは、いわゆる〈戦後派〉と呼ばれた歌人たちによって戦後のある時期、競うようにして創刊された結社である。それらいわば同級生、同期生に当たる結社が、ともに三十年という時間を生きてきて、いまいっせいに世代交代の時期にさしかかったのだと、私たちは考えたい。

と記している。自らが結社を「三〇年」率いることになるという現実を、永田の言葉は既に先取りしていたかのようでもある。

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2016年05月06日

結社について考える (その3)

小池の文章の中に、次のような個所がある。

過日「短歌人」で座談会を企画し、永田和宏にも出席してもらった。話が結社のことに及び、永田和宏はしきりと現状を憂えた。今のような物わかりのよい、ひらかれた、民主主義的結社でなく、かつてのような巨大なカリスマが君臨し、断固としたヒエラルヒーが確立して、そこに反抗のエネルギーを醸成してくれるような結社へのアコガレを語った。ぼくは、うるわしいゆめのように、それを聴いた。

小池光と永田和宏は、ともに昭和22年生まれ。
「塔」30周年記念号が出たときは、ともに37歳になる少し前である。

永田は君臨される側からだけ結社をみている。君臨する側から発想してない。佐太郎が「歩道」を始めたのが三十七才、芳美の「未来」は三十八才、年齢的には君臨する側に立ってもちっとも不思議でないのである。しかし永田には(むろんぼくにも)それはゼッタイに不可能である。個人の資質の問題でなし、時代の流れがそうさせる。自ら大きな父親になることの不可能性を知りつつ、大きな父親のいる「家」にアコガれる、うるわしくもまたうらがなしい夢でなくてなんであろうか。

奇しくも、この記念号が出て3か月後の1984年7月に高安国世が亡くなる。永田はアメリカから帰国した1986年より「塔」の編集責任者となった(発行人は高安和子)。

一方の小池も、1985年に「短歌人」の編集発行人であった高瀬一誌が「短歌現代」の編集長になるため退任したのを受けて、「短歌人」の編集人となった(発行人は蒔田さくら子)。

まだ30歳代だった二人は、相次いで結社を率いる立場に立たされたのである。

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2016年05月05日

結社について考える (その2)

小池は「結社のあるべき姿」について、次のように書く。

その答えはかんたんである。
そんなものは、ぼくには「ない」のである。
つまりぼくは結社というシステムを利用してきたのであって、それは結社の将来がどう変貌しようと変りない。変れば変ったなりに別の利用の仕方を考えるだけで、したがって、あるべき姿のようなものは「ない」。考える必然性がないのである。
こういう態度は無責任だろうか。無責任だろう。しかし、責任とは何か。ぼくは結社のため、伝統詩型の明日のため、書いているのじゃない。そんなものは全然どうでもよろしい。利用ということであれば、ぼくはたぶん、この詩型すら利用しているのである。

「この詩型(短歌)すら利用している」というのは、なかなか含蓄のある言葉だと思う。

文章の最後は、次のように締めくくられている。

とまれ、太宰治曰く、子供より親が大事。
然り、結社の明日よりわが歌の今日が大事。

当り前の話ではあるが、結社のために歌人や短歌があるのではなく、歌人や短歌のために結社がある。その前提を踏まえたうえで、さらに話を続けていきたい。


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2016年05月04日

結社について考える (その1)

近年、結社に関する特集が短歌雑誌で組まれることが多い。結社の先行きに不安を覚え、今後どうなるのか心配する人が多いのだろう。

もっとも、そうした話題は何も今に始まったことではない。例えば「塔」1984年4月号(30周年記念号)を見ると、「現代短歌の問題」の一つとして「結社とは何か」が挙げられ、小池光さんが文章を書いている。

結社ということばは、なにやらあやしげである。ぼくが「短歌人」に入ったとき、母は「抜けられなくなるんじゃないか―応援団みたいにさ」と心配した。

という一文から始まる6ページの文章(「塔」のみな様こんにちは)はユーモアに満ちていて面白い。そして面白いだけでなく、30年以上前に書かれたとは思えないほど、現在の状況を鋭く見通している。

流派とか「文学」とかの結社を本然的に結社たらしめた大義名分は、今日ほぼかいめつしたと言ってよいのである。それでは何がちがうのか。「塔」と「短歌人」のちがいは何か。しみじみ考えてみるに、それは専らふんいきの違いであり、ふんいきの差異でしかない。

「かいめつ」「ふんいき」はひらがな書きで傍点が振ってある。
その上で、結社の未来像については、

結社もますます都市型に、ふんいき中心になる。ますます大学のゼミ的に、明るくニコヤカのびのびの快適なマンション生活みたいなイメージのものになろう。つまり、外見的には同人誌を量的に拡大しなおかつシステム効率を上げたようなものになる。

と記している。現在の大きな結社のあり方は、まさにこの通りと言っていいと思う。


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2016年03月13日

藤原為家のエピソード

新聞に載っていた京都の公立高校の国語の問題を見ていたら、最初の設問が古文で、和歌に関する話であった。

為家卿は俊成の孫、定家の子孫成りしが、壮年の頃数多歌よみ給ひしに・・・

出典は江戸時代の随筆『耳嚢』。

和歌の家に生まれた藤原為家は、いくつ歌を詠んでも父に褒められることがなく、自分でもうまく詠めた気がしないので、「歌は詠まじ」と心に決めたのだが、僧の慈円に励まされて考え直す。そして「寝食を忘れて此道を修行なし」「五日の内に千首」詠んで歌集にしたのだと言う。

結びには

物は精心に寄りて其業を成就なすと、人の語りぬ。

とある。何ともすごい話だ。

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2016年03月06日

省略とは

短歌において「省略」が大切なことは、しばしば言われることだ。

けれども、なぜ「省略」が大切かという話になると、「短歌は短いから」とか「31音にすべては入りきらないから」といった答を聞くことが多い。短くて入りきらないから言葉を省略すると考えているわけだ。

そうではない。

「省略」というのは、そんな消極的な理由で行うものではない。読み手の想像力を喚起するために、あえて「省略」するのである。

その本質をしっかり踏まえておかないと、効果的な「省略」は生まれない。

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2016年03月05日

描写の言葉と心情の言葉

短歌では「悲しい」「寂しい」など自分の心情を直接言葉にするよりも、具体的な物や動作を描写することによって心情を伝えた方がうまくいくことが多い。

けれども、ここにちょっとした落とし穴がある。

ページの端を丁寧に折る

先日、ある歌会でこういう下句があった。作者は「丁寧に」という言葉を描写の言葉のつもりで使っていたのだが、一人称の歌の場合、これはむしろ心情の言葉になってしまう。「(気持ちの上で)丁寧に」「心をこめて」「思いをこめて」といったニュアンスだ。

もし、これが三人称主体の歌であった場合は違う。「丁寧に」は「(外から見て)丁寧に」「端を揃えて」「ずれることなく」といった客観的な描写の言葉となる。

つまり、主体が一人称か三人称かによって、同じ言葉が心情の言葉にもなれば描写の言葉にもなるということだ。

椅子からゆっくり立ち上がる

という表現はどうだろう。これが一人称の場合、「ゆっくり」は「(意識的に)ゆっくり」「(気持ちを落ち着かせるために)ゆっくり」といったニュアンスをまとう。そのため、客観的な速さの話とは少し違った心情の言葉になる。

一方で三人称主体の場合は、「(立ち上がる速度が)ゆっくり」という客観的な描写の言葉になるだろう。

「悲しい」や「寂しい」が心情の言葉なのは誰にでもすぐにわかることだが、「丁寧に」や「ゆっくり」が心情の言葉になってしまう場合があるというのは、意外と気が付かないことなのかもしれない。

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2015年12月04日

されたりするんだろうな

日本語文法の本を読んでいて面白いのは、現代の口語短歌の読み方についての示唆を得られるところである。

例えば、荒川洋平著『日本語という外国語』は、

山田選手はかなり練習させられていたらしいよ。

という例文を使って、述語部分に関する文法形式の「テンス」「アスペクト」「ボイス」「ムード」の4つについて説明している。

「させ」ボイス(使役)
「られ」ボイス(受け身)
「てい」アスペクト(進行)
「た」テンス(過去)
「らしい」ムード(推測)
「よ」ムード(判断)

「練習させられた」でも「練習させられていた」でも「練習させられていたらしい」でもなく、「練習させられていたらしいよ」。一つ一つの言葉にすべて意味がある。文末の「よ」も、あるのとないのとでは大きくニュアンスが変ってくるのだ。

こうした分析は、例えば永井祐の

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな
              『日本の中でたのしく暮らす』

という、かつて議論を呼んだ歌の読みにも役立つだろう。

つまり、この歌は「電車にぶつかればはね飛ばされる」といった内容よりも、むしろ「はね飛ばされたりするんだろうな」という言い回しに重点があるということだ。

「はね飛ばされるだろう」でも「はね飛ばされたりするだろう」でも「はね飛ばされたりするんだろう」でもなく、「はね飛ばされたりするんだろうな」。文末の「な」まで、きちんと読み解いていく必要がある。

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2015年09月17日

選歌についての私感(その3)

自分が納得できるかどうかで、選を判断してはいけない。自分を基準に考えている限り、その人は永遠に変わることはできない。それは自分の殻に閉じこもっているのと同じことだ。それだったら、そもそも他人の選なんて受けなければいい。

選を絶対のものとして捉えるというのは、選者が偉いとか、絶対に服従すべきとか、そういうことではない。一つの絶対的な座標軸を設定することによって、初めて自分の現在地が見えてくるということなのだ。もし、仮に選が相対的なものであるとしたら、それはランダムに選ばれるのと変らないことになってしまう。

誰だって、最終的には自分の歌を自分で選ばなくてはいけなくなる。自分の歌の良し悪しを自分で決めることの難しさは、歌人なら誰でも知っていることだろう。その前に、どれだけ自分の殻を破って、多くのことを学ぶことができるのか。そこが問われているのだ。

もちろん、そのためには、自分の歌を選歌する人に対する信頼が不可欠である。選者に対する信頼こそが、「選による学び」が機能するための唯一にして最大の要因なのだ。複数選者のローテーション制で、そうした信頼関係が築けるのかどうか。確かにそれは、なかなか難しい問題であろう。

(以上はすべて松村個人の考えであり、塔短歌会とは一切関係ありません。もし何かご意見等がございましたら、松村個人にお伝え下さい)

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2015年09月16日

選歌についての私感(その2)

選を受けて、その選に完全に納得できる人はいないだろう。当り前のことだ。自分が採られると思った歌が採られて落ちると思った歌が落ちるのなら、選を受ける必要などないのである。

だから、納得できないと不平を言っても仕方がない。諦め悪く他の選者に送り直すのも賛成できない。納得できない選を、それでもいったん自分の中に受け入れることが大切なのではないか。そこに学びの第一歩があるのだと思う。

なぜ、その歌が落とされたのか。あれこれ考えて、何となくわかることもあるし、その時は全くわからないこともある。何年か経って初めてその意味に気付くこともあるだろう。それが選者の考えと一致しているかどうかはもちろんわからない。それは永遠に知りようがない。

でも、それで一向に構わないのだ。大切なのは、そうやって「自分で考えること」だからである。最終的には、自分で考えたこと、自分で気が付いたことだけが、自分の歌作りの役に立つ。

どんなに偉い歌人でも、歌作りの大事な部分を言葉で伝えることはできない。それはそうだろう。もし歌作りが言葉で教えられるものなら、短歌入門書を読めば済む話だ。

posted by 松村正直 at 07:13| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

選歌についての私感(その1)

結社の歌会の後の雑談の席などで、「Aさんには落とされたけど、もう一度出してみたらBさんは採ってくれた」とか「Cさんだといつも5首だけど、Dさんはたくさん採ってくれる」といった話を聞くことがある。「塔」には複数の選者がいて、ローテーションで回っているので、そういうことが起こり得る。

「選者の選は絶対ではない」と選者自身もよく言うし、誌面でもそのように説明することが多い。そうした考え方は、選者に落とされた歌にも救いの道が残されるという点で、多くの会員を慰めてもいるのだろう。

でも、本当にそれで良いのだろうか?

本来、選というのはもっと厳しくて、絶対的で、時に理不尽で暴力的なものでさえあったのではないか。○か×かの二者択一。△はない。採られなかった作品は、永遠に日の目を見ることもなく葬られる。しかも、どこが悪くて落とされたのか説明やアドバイスも一切ない。

そうした昔ながらの選のあり方が、現代では受け入れられにくくなっていることも事実だ。だから「絶対ではない」という話が出てくる。けれども、選を相対的なものと捉えている人は、はたして本当に選から学ぶことができるのだろうか。

選を軽く見る人は、選から学ぶことも少ないに違いない。選の結果を重く受け止めない限り、選から多くを学びとることはできないのだ。

posted by 松村正直 at 07:27| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月09日

ぬえ的

文語と口語の問題が、短歌雑誌ではしばしば取り上げられる。それぞれの優劣を競い合うかのような文章もよく目にする。その一方で、近年、文語と口語のミックス文体を用いる歌人が多くなっているのも事実だ。

そうした問題は何も今に始まったことではない。

いったいそれなら口語と文語というものの区別がどこにあるか。―そんなものはない。
現在の短歌が使っておる文語というものは、これは厳格な意味においての文語ではない。文法からいっても、造語法からいっても、厳格な文語あるいは標準文法というものからしたならばでたらめの日本語だと、そういった批評が文法学者なんかからはしばしばされるのでありますが、それは私はそのとおりだと思う。その点からいえば、今の短歌の用語というものは口語でもなく、文語でもなく、一種異様なもので得体の知れないものだと、悪く取ればそうもいえましょうが、また考え方によっては、一つのそういう古い言葉も生きておるし、口語の発想法もはいっておるし、新たに形式化されておる新しい用語ということができるんじゃないか。これも程度の問題で、それが全く日本語として通じないものというふうになればとにかく、まあともかく日本語として通じておる。ただその要素が非常に新旧取りまぜで、悪くいえばぬえ的、よくいえば両者の長を取った新しい一つの領域というものを私は持っているんじゃないかと思います。    土屋文明 『新編 短歌入門』

昭和22年に行われた講演「短歌の現在および将来について」の話なので、もう70年近く前のものだ。けれども、現在の状況にもそのまま当てはまるのではないか。

そして、この「一種異様」「得体の知れない」「ぬえ的」という点を嫌って、完全な口語で(そういうものがあるかどうかは別問題として)歌を詠もうとする若手が増えているのだろう。

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2015年09月06日

新しい歌?

短歌に新しいも古いもないんです。
「万葉集」の歌を読んで、「これは古いからダメ!」なんて言う人はいないでしょ?

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2015年07月18日

口語短歌の結句「ル形」の問題

東郷雄二さんが「橄欖追放」第164回で指摘し、僕も「現代短歌新聞」7月号の「歌壇時評」で取り上げた口語短歌の結句「ル形」の問題について、中西亮太さんのブログ「和爾、ネコ、ウタ」でゆるやかに議論をしています。

これはかなり面白い問題だと思いますので、皆さんどうぞお読みください。
そして、漠然とした印象でも構いませんので、どんどんご意見をお寄せいただけるとありがたいです。

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2015年06月26日

歌会について(その1)

歌会というものに初めて参加したのは、1998年11月のことである。

私は1996年に短歌を始めて、97年11月に「塔」に入会した。当時は福島に住んでいたのだが、近くに「塔」の歌会はなかった。今でこそ福島歌会や仙台歌会をはじめ、全国に40もの歌会があるが、その頃は東京、東海、大垣、入善、滋賀、舞鶴、京都、京都旧月、青葉の会(京都)、大阪、芦屋、姫路、鳥取と全国に13の歌会しかなかった。北海道、東北、四国、九州は歌会空白地だったのである。

ぜひ一度歌会に参加してみたいと思って、思い切って東京歌会に参加したのが98年11月のこと。28歳であった。「塔」1999年1月号掲載の歌会記を見ると、参加者は11名だったらしい。今から考えると随分少ない。「郡山(正しくは福島)から松村正直君が初参加した」と書いてある。

花山多佳子さん、小林幸子さん、進藤多紀さん、辻井昌彦さん、佐藤南壬子さんといった方々と、この時、初めてお会いした。私が出した2首のうち1首が歌会記に載っている。

一列になって子供の渡りゆく橋の長さも夕暮れていく

批評では、「ゆく」と「いく」の重なりを指摘され、「橋」ではなく「橋の長さ」とした点を褒められたと記憶している。

歌会が終ってから、みんなで食事に行った。壁がレンガでできている洋風居酒屋のようなところだったと思う。1993年に角川短歌賞を受賞した岸本由紀さんもいて、短歌や結社のことをいろいろと教えてくれた。岸本さんが同じ年齢だと聞いて、自分ももっと頑張らなくてはと決意したのだった。

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2015年05月25日

短歌結社についての雑感

▼結社に入ったばかりのころ、素敵な歌を詠む人がいて、毎月その人の歌を読むのを楽しみにしていた。結社誌が届くと、自分の歌を探す前にその人の歌を探すくらいに好きだった。でも、ある時から歌を見かけなくなり、とうとう辞めてしまったという話を耳にした。結局一度も会うことのないままに。

▼結社に入って2、3年経ったころ、ある方から非常に親切にしてもらったことがあった。どんなふうにお礼をしたら良いのか考えていたら、「別にお礼はいらない。もし、いつか同じように困っている人がいたら、今度は君が手助けしてあげて欲しい」と言われた。

▼先日、結社の年配の会員の方が施設に入所されたという話を聞いた。その方が一人暮らしをされていた家には、何度か用事で行ったことがある。自分の家をとても愛していて、歌にもよく詠んでいた。おそらくもう二度とあの家に帰ることはないのだろう。

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2015年01月24日

ラグビーの歌

おとといの歌会の後のお茶の席でスポーツの話が出て、中学・高校時代はラグビーをしていたという話をした。

家に帰って砂子屋書房のHPに連載されている「一首鑑賞 日々のクオリア」を見たところ、こちらもたまたまラグビーの歌だった。
http://www.sunagoya.com/tanka/?p=12993

球を中に一つに動くルーズ・スクラムこの時の間を心張り来る
            松村英一『初霜』(1936年)

という歌を取り上げて、さいかちさんが鑑賞を書いている。

「ラグビー試合」と題する5首が引かれているのだが、どれもラグビーの様子が臨場感あふれる表現で描かれていて良かった。初めて読む歌である。自分がやったことのあるスポーツだと、歌の味わいも一層増すように感じられる。

さいかちさんは「スクラムの時は、フォワードの選手が組み合って押し合い、試合がゆっくりと再開される時間帯だ」と書いているのだが、この「ルーズ・スクラム」は現在で言うラックのことであって、スクラム(セット・スクラム)のことではない。プレーが中断した後に再開するスクラムとは違い、プレーの流れの中で起きるもの。

まあ、細かいことですが・・・。

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2014年05月20日

作者と作中主体(その2)

本当に作者と作中主体は別なのだろうか?

同じく「本郷短歌」第三号に安田百合絵「『ガラスの檻』を読む―孤独・情念・原罪―」という評論が載っている。稲葉京子の歌について論じた文章だが、その中に次のような箇所がある。

しばしば指摘されることだが、雨宮雅子はクリスチャン歌人である。そのことを抜きにして彼女の歌を語ることはできない。

稲葉と雨宮の比較が語られている部分である。この〈雨宮雅子がクリスチャンであることを抜きにして、雨宮雅子の歌は語れない〉という考えは、作者と作中主体を「別」ではなく「深い関係がある」と捉えているものと言っていいだろう。

もっと簡単な話をすれば、私は昨年『高安国世の手紙』という評伝を出版した。これは高安が残した手紙を元に、高安の交友関係や時代状況を分析し、高安の歌と関連付けながら、その人生を追ったものである。

もし、作者(高安国世)と作中主体(高安作品の主体)が「別」であるならば、こんな作業には何の意味もない。作者についての情報や理解は、歌の読みには全く関わりがないということになるだろう。でも、私はそうは思わない。

「作者=作中主体」という考えが多くの問題を含んでいるのと同じように、「作者と作中主体は別」という考えにも問題があるのではないだろうか。


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2014年05月15日

作者と作中主体(その1)

最近、作者と作中主体の関係に触れた文章をいくつか読んだ。
「かりん」5月号の時評では松村由利子が、俵万智の震災詠に対する阿木津英の批判に反論した上で、次のように書く。

一方、いかなる場合も作者と作中主体は別であり、作者の実生活は論考の対象ではない。震災詠においても、原発に賛成か反対か、震災後に居を移したか否か、などで歌の評価が違ってはいけないはずだ。(…)歌論は歌によってのみ展開されるべきである。

また、「本郷短歌」第三号では宝珠山陽太が、評論「〈母性〉の圧力とその表現」の最初の部分で次のように述べている。

その前に、ここで一つ確認しておきたいことがある。それは作者と作中主体の距離についてだ。前述のとおり『トリサンナイタ』は大口の私生活を下敷きにしている。しかし、歌集で詠まれている「私」は一つのフィクションであると言える。(…)よって作中の主体は、歌集を貫いて同一の人物であるように思われるが、その人物と、大口自身のパーソナリティのようなものを引きつけて考えることは避けるべきである。

二人の言っていることはよくわかる。「作者と作中主体は別」という考えは、現代短歌においてはむしろ当然の前提となっていると言ってもいいだろう。歌会においても、「あくまで歌に対する批評であって、作者について言っているのではない」といった言葉をよく耳にする。

私自身、基本的にはそうした考えに同意するのだが、いつもどこか割り切れないような、もやもやした思いが残るのだ。

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2013年10月01日

歌集の後記

歌集を読んでいて、後記に書かれた文章に励まされることがある。
どんな歌人でも、やはり悩みながら、迷いながら歌を作っていたんだなあと感じる。
歌境は個性にもとづく特徴をもちながら年齢の推移に応じて変化してゆく。何時までも変化がないとしたら、それは流動進展がないのだからよろこぶべきことではあるまい。また周囲に反応してたえず変化するとしたら、それも神経が弱いといふことになるだらう。         佐藤佐太郎『形影』後記
私の作品はもう変心したものなのだらう。ただ、私は自分に課して悔いざらんとしたことが一つある。作者自らが自分の作品を信じないで誰が信じてくれるだらうかと言ふことである。           宮 柊二『晩夏』後記

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2013年08月09日

歌会について

歌会は、短歌の「読み」を学ぶのに絶好の場である。一首について、多くの人がそれぞれの「読み」を出し合って、対等に議論する。議論を通じて少しずつ、その歌の意味や魅力が明らかになっていく。自分では気づかなかった「読み」や、思わぬ角度からの「読み」も出されて、歌が立体的に立ちあがる。それは、ライブならではの刺激的な瞬間だ。

けれども、歌会は決して万能ではない。歌会は言葉によって短歌を批評し合う場であるから、言語化できない部分については話をすることができない。それは当たり前のことではあるのだが、意外と忘れがちなことかもしれない。

例えば100の魅力を持っている短歌があったとして、そのうち90までを言葉で解明できたとしよう。歌会の場では、それでわかった気になってしまう。けれども、本当に大切なのは残りの10の方なのだ。

歌会をやっていると、得てして言葉で説明できる90の方に歌の本質があるような気になるのだが、実はそうではない。歌の本質は、言葉で説明できない10の方にある。けれども、その10は最初から見えているわけではない。言葉で説明できる部分を説明していくことによって、初めて浮き彫りにされるのである。

歌の魅力を言葉で説明しようとして、もし説明し尽くすことができるなら、それは大した歌ではないだろう。何とか説明しようと言葉を尽くして、けれども説明し尽くせないところに、歌の一番の魅力はある。その差を知るために、歌会はあるのだ。

そういう意味では、歌会という場は最初から矛盾を抱えている。そのことを、まず初めに認識しておく必要があるのだろう。

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2013年05月24日

結社の独立

藤原龍一郎氏が砂子屋書房の連載コラムに「短歌結社の存在価値」という文章を書いている。「水甕」創刊100年の記念式典や「うた新聞」5月号の特集を受けた内容で、現在「短歌人」の編集人を務めている藤原氏にとって、結社をめぐる問題はやはり大切なものなのだろう。

このコラムの中に、篠弘氏が「うた新聞」に書いた「有力歌人が同調者を募って独立し、あらたな会員を結集することが必要なのではなかろうか」という提言が引かれている。これは藤原氏が言うように、確かに「過激」ではあるが「有効」かつ「必然的」な方法であると私も思う。

歌壇全体を眺めてみれば、独立して新たな結社を率いてもおかしくないだけの実力と人気を兼ね備えた歌人はたくさんいる。けれども、独立しようという動きは現在ほとんど見られない。それは、なぜか。答えは簡単である。独立してもほとんどメリットがないからだ。

会員を募り、詠草を集め、選歌をして、毎月結社誌を発行する労力や手間というのは、実は大変なものがある。それを一から始めようとするには、相当な覚悟と熱意が要求されるのだ。短歌結社を日本舞踊や生け花の家元のように思っている人も多いが、一番の大きな違いは主宰にお金が入るわけではないということだろう。

時間はかかる、手間はかかる、その上お金は入らない。となれば、それらを上回るだけの文学的な情熱や野心がなければ、新たに結社を立ち上げようなどと、誰も思わないわけである。現状ではどう考えても割に合わない。もともといる結社に所属し続ける方が、はるかに楽だし、居心地がいいのだ。

でも、よく考えてみれば、戦後、近藤芳美が「未来」を創刊したのは38歳の時、宮柊二が「コスモス」を創刊したのも40歳、高安国世が「塔」を創刊したのも40歳の時である。今では考えられないくらい若い時期に、彼らは新たな結社を立ち上げて、歌壇の活性化に貢献したのであった。それを支えたのは、ある種の使命感のようなものではなかったか。

そういうことが、今後もはたして起こり得るのか。あるいは、それは「結社」とは違う何か別の形で行われていくことになるのか。あるいは、既に行われつつあるのか。そんなことを考えさせられる内容であった。

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2013年03月07日

初学び

先月の勉強会の安田純生さんの講演は「旧派和歌の初まなび」というものだった。今朝の新聞に京都府の公立高校の国語の入試問題が載っていて、そこにも「初学び」という言葉が出てきたのでびっくり。思わず読んでしまう。

江戸時代の歌人・清水浜臣の歌論書「泊なみ筆話」(「なみ」は三水に百)の文章で、師の言葉が書き取られている。問題文についている註を参照して現代語訳すると、ざっとこんな内容だ。
だいたい習い始めの頃は、意外に歌数が多くできたり、思うままに口から出て来ることがあるものだ。これは本当にできたのではなくて、考えが浅くてうわべの心から出て来ているに過ぎない。だから安心してはいけない。また、ある時は一日じっと考え続けても、全く歌が出て来ないこともある。そんな時は、自分の才能の拙いのを恨んで、「もう歌は詠まないでおこう。こんなにまで出て来ないものか」と嘆いてしまうものだ。けれどもそれは、むしろ歌が上達する関なのだ。そこで心が緩んでしまったら、結局その関を越えることなく、中途半端なまま、やがて歌を詠むのを止めてしまう。反対にそこで心を奮い立たせて、休むことなく関を越えれば、また口がほどけてうまく詠めるようになるのである。いつも歌に心を寄せて詠んでいる人は、一年に二度三度とこうした関に行き当るのだよ。習いはじめの諸君は、このことに気をつけるように。

なるほどなあと思う。歌に関するこうした教えや悩みは、今でもあまり変らないことだろう。古い歌論書を読んでみるのもけっこう面白そうだ。

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2013年01月30日

役に立たざる涙

被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは役に立たざる涙流さず
            米川千嘉子『あやはべる』

米川千嘉子の歌集『あやはべる』は、終りの方に東日本大震災に関する歌を収めている。
(…)前年末までの歌を集めた第七歌集が終ったころ、東日本大震災がありました。毎日のように続く余震のなか、次々にあきらかになる震災・原発事故の状況があり、さらにそれが自分の身の回りにもわずかに静かに及ぶ日常があらわれました。

このように「あとがき」に書く米川は、震災の歌を含む約1年分の歌を追加して、歌集を再編集したのであった。
波ありて人の影なき映像の意味を遅れてくらく飲みこむ
産むからだ産みたいからだ産むかもしれないからだ 怖れるからだ夏を白くす
絶句する人になほ向くマイクあればなほ苦しみてことばを探す

震災と原発事故を詠んだこうした米川の歌には、「よそごと」や「ひとごと」ではない痛みとかなしみが籠もっている。深いところにまで届いた社会詠だと言っていいだろう。

冒頭の歌も、そうした中にある一首。
単なる同情の涙など、被災した子たちにとって何の役にも立たないことを、自ら痛いほど感じている歌である。この歌がどれくらい「深い」のかは、次のように比較して考えてみるとよくわかる。

 被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは堪え切れずに涙を流す(改作1)
 被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは涙流せど役には立たず(改作2)
 被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは役に立たざる涙を流す(改作3)

改作1であれば、どこにでもある歌だ。改作2は、そこにわずかに自省が加わる。改作3になると、自省の度合いが大きくなるように感じるだろう。自身の行為を客観的に見る眼が備わっていると言ってもいい。さらに、
被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは役に立たざる涙流さず

という米川の歌になると、「役に立たざる」「涙流さず」の二回の否定によって、感情を幾重にも折り畳んでいるのが感じられる。それが作者の内面の葛藤や思考の深さを表し、歌の「深さ」を生み出しているのだ。

そうした点を、もちろん私は評価する。現代において社会詠を詠む時に、こうした感情の折り畳みは必然であるし、大切なことだと思う。単純に迷いなく詠んだ歌は力を持ち得ない。

その一方で、それが本当に短歌にとって良いことなのかどうか、かすかな疑問も感じるのである。例えば改作1の「堪え切れずに涙を流す」といった感情の折り畳みのないストレートな歌こそが、実は本来の歌の姿であったのではないか。時おりそんな気もしてしまうのだ。

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2012年10月22日

短歌の固有名詞


今日の夕食後に食べた巨峰は長野県産だった。パックの包装に「JA信州うえだ」と印刷されていて、六文銭のマークが付いている。長野県上田市と言えば真田氏の城下町。六文銭は真田氏の家紋である。

IMG_3153.JPG

包装には、他にも「JA信州うえだ 清水宣彦」というシールが貼られている。きっと生産者の名前だろう。最近、よくこのように名前が入っている商品を見かける。顔写真やコメントなどが添えられていることもある。

この「清水宣彦」という名前を見ていて、ふと短歌における固有名詞の働きについての考えが思い浮かんだ。短歌では固有名詞が効果的な働きをすることがしばしばある。「橋」ではなく「○○橋」と具体的な名前を出す方法だ。

その際、橋の名前が「永代橋」とか「五条大橋」とか「心斎橋」など有名なものである必要はない。誰も知らない橋でも良いのである。橋の名前が風土や歴史を感じさせるような趣きがあった方が良いのは確かだが、それも絶対の条件ではない。

要はどんな名前でもいい。うちの近くにある橋で言えば「綿森橋」とか「中郷橋」とか「墨染橋」で良いのである。その時に固有名詞の果たしている役割というのは、たぶん巨峰の包装に貼られた「清水宣彦」と同じなのではないだろうか。

私はもちろん、この清水宣彦さんのことを知らない。知らなくて構わないのだ。要は「誰かの名前が書かれていること」が大事なのであって、「誰の名前が書かれているか」は、さして問題ではないのである。

短歌に固有名詞が入ることで感じられる現実性。もちろん、それは歌の内容が事実かどうかといった話とはまた別のことである。

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2012年02月20日

修辞

短歌の「修辞」に関しては、いくつもの誤解が付きまとっているように思う。

例えば短歌の入門書などを見ると、修辞の例として、「比喩」「オノマトペ」「リフレイン」「本歌取り」「枕詞」「序詞」「縁語」「擬人法」「ルビ」「固有名詞」「数詞」といったものが並んでいて、それぞれ例歌が載っている。

これも、確かに修辞には違いない。でも、修辞というのは、本来そんな狭い範囲のものではないだろう。上に挙がっているものなど、全体の5%くらいに過ぎないのではないか。

実作の経験から言えば、

「語順」・・・言葉をどう並べるか
「てにをは」・・・言葉をどうつなげるか
「省略」・・・何を言葉にして、何を言葉にしないか
「漢字・ひらがな」・・・言葉をどう表記するか

といったことの方が、はるかに修辞として大切なように思う。

また、〈「主題」か「修辞」か〉〈「人生派」か「言葉派」か〉といった話も、そもそもの問題設定が間違っている気がする。この二つは分けられるものでも、対立するものでもないだろう。こうした分け方をする人は、一見、修辞や言葉を大事にしているようでいて、実は軽くしか思っていないのではないだろうか。

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2011年11月22日

ネットと歌会

スマートフォンが普及してきて(僕は持ってませんが)、歌会中に見慣れない言葉をネットで調べることができるようになった。辞書に比べてネットの情報量は圧倒的だ。作者の造語以外のものは、ほとんどすべて調べることが可能になったと言っていいだろう。

それは、もちろん便利なことだし、歌会で迷走していた読みを一つの方向に導くものでもある。僕自身、家で歌集を読みながら、わからない言葉をネットで検索することがしばしばある。

ただ、どうも気になるのだ。

歌会でネットを検索することに違和感を覚えるのである。言葉の意味が判明すると、それでみんな何か「わかった」ような気になるのだが、本当にそうなのだろうか。いつもそんな気持ちになる。

「この言葉は知らないのだけど、音の響きがとっても面白い」とか「たぶん地名じゃないかなあ」「いや、商品名でしょう」とか、そんなことを言い合う時間が、実はけっこう大切だったのではないかと思うのだ。それは一見無駄なようでいて、豊かな時間である。

人と歌との出会いは一期一会だ。特に歌会という場ではそうだろう。これは自戒をこめて書くのだが、初めて出会う歌に素手で立ち向かう気持ちを、いつまでも忘れないようにしたい。

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2011年11月07日

愛人でいいの

愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う
         俵万智『サラダ記念日』(1987年)
先日、この歌についての評を書く機会があった。そこに〈「愛人でいいの」「言ってくれるじゃないの」といった話し言葉を、句跨りを用いて無理なく定型に当て嵌めている〉と書いたのだが、書き終えてはたと気が付いたことがある。これは、本当にただ当て嵌めただけなのだろうか?

この歌の素材となっているのは、おそらく1985年に大ヒットしたテレサ・テンの「愛人」だろう。その歌詞は、次のようなものである。
あなたが好きだから それでいいのよ
たとえ一緒に街を 歩けなくても
この部屋にいつも 帰ってくれたら
わたしは待つ身の 女でいいの
(以下略)
1番に「わたしは待つ身の女でいいの」、2番に「わたしは見送る女でいいの」という言葉はあるが、「愛人でいいの」という言葉は、実はどこにもないのである。つまり、「愛人でいいの」は、この歌のタイトルや歌詞からアレンジして俵万智が作りだした言葉なのである。

もし、これが歌詞通りであったら、どうだろう。
待つ身の女でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う (改作例)
見送る女でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う (改作例)
どちらも定型からはみ出してしまうし、内容的にも弱くなってしまう。やはり、ここでは「愛人」という言葉が必要なのだ。

この一例を見ただけでも、『サラダ記念日』という歌集は、表面的な見かけに比べて随分と工夫のあることがわかるのではないだろうか。何でもないようでいて、実は意外にしたたかな歌集なのである。


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2011年05月31日

短歌の価値

「塔」創刊以来の歌人の方が亡くなり、お一人で住んでいた京都の家を処分することになった。遠方から弟さん夫妻が来られ、二日間かけて業者の方が家財道具や荷物の運び出しを行う。「短歌関係の本は塔短歌会へ」という故人の遺言にもとづいて、私も蔵書の引き取りのためにうかがった。

古いものを捨てずに残しておく方だったようで、戦前のものも含めて手紙や写真などのすべてが残っていた。しかし、慌ただしい作業の中ではそれらを選別する余裕もなく、数枚の写真を残してすべて廃棄されることになった。長年使われてきた調度品や手作りの立派な家具も、もう捨てるしかないのだそうだ。

玄関脇の部屋で、弟さん夫妻と故人についての思い出を語り合った。亡くなる直前まで毎月10首の出詠を欠かさない方であり、入院中も何度も電話をかけてきた方であった。弟さんにそのことを話すと、「姉は歌だけが生きがいでした」とおっしゃり、それから少しして、「姉の歌は残るものなのでしょうか?」と尋ねられた。

私はしばらく言葉に詰まった。

残ります、とは言えなかった。後の世に歌が残るというのは、そんなに簡単でないことは私も知っている。でも、弟さんの気持ちも痛いほどによくわかった。姉が一生をかけて作ってきたものが、何らかの意味のあるものであってほしいと願うのは当然のことだろう。故人は70年以上も歌を作ってこられた方なのだ。

私は、晶子や茂吉のような超一流の歌人の歌にだけ価値があるのではなく、どんな歌人の歌にも、その人の人生の時間や生きざまが込められていて、それはそれでとても価値があるものなのだと、精一杯の話をした。だから、きっとこれからも読んでくれる人がいると思いますよ、と。

短歌とはまったく縁のない弟さんに、その話がどれだけ通じたかはわからない。でも「そうですか、ありがとうございます」と安心したようにおっしゃった言葉に、私はとても救われる思いがした。

短歌の価値とは、何なのだろう・・・。
しばらくそんな思いが頭を離れなかった。

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2010年12月14日

結社というもの

高安国世や土屋文明に関する文章を書いていて、しばしば参照している資料に、以下のようなものがある。

・『土屋文明論考』(1976年、短歌新聞社)
・『復刻「ぎしぎし會々報」』(1981年)
・『「未来」と現代短歌』(1991年、六法出版社)

これら3点には共通する点がある。それは、いずれも「未来短歌会」が企画・刊行したものだということだ。

『土屋文明論考』は「未来」の25周年を記念して出版されたもの。土屋文明論が18編載っているほか、資料として「土屋文明年譜」「土屋文明著作一覧」「土屋文明研究文献一覧」「アララギ年表」「土屋文明全歌集初二句索引」が付いている。

この資料部分がとにかく凄い。これだけ詳細で精密なものは、もう二度とできないのではないかと思われるほどだ。野場鑛太郎・吉田漱の両氏が中心になって作成したものである。

『復刻「ぎしぎし會々報」』は戦後に出た同人誌「ぎしぎし」全36巻を手作業で復元・コピーしたもの。限定200部の発行。井上美地・田井安曇・吉田漱といった方々の労作である。戦後の短歌史に名前を残す「ぎしぎし」を今日読むことができるのは、こうした方々の努力のお蔭だ。

『「未来」と現代短歌』は副題に「アルバムと年表による40年史」とあるように、未来の40周年を記念して出版されたもの。250枚にも及ぶ写真と詳細な年表とによって、時代の移り変わりが非常によくわかるように工夫されている。吉田漱・小野寺幸男・今西久穂といった方々が中心になって刊行されたもの。

こうした出版物を作るのには、おそらく気の遠くなるような時間と労力を要したことだろう。しかも、その割には報われることの少ない作業であったに違いない。けれども、そうした手間を惜しまずにかけているからこそ、今もなお非常に資料的な価値の高いものとして、残っているのだと思う。

結社というものの存在意義は、何よりもこういうところにあるのではないかと、この頃しきりに考えるのである。
posted by 松村正直 at 01:29| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月16日

Based on a true story

近年、映画の冒頭などに「Based on a true story」という表示が出るのをよく目にする。「これは実話に基づいた映画です」という意味だ。

これは、短歌の私性とよく似ている。「実話に基づいている」という意味においてではなく、「『実話に基づいている』と表示する」という意味において。



posted by 松村正直 at 01:20| Comment(0) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする