2013年05月16日

「短歌往来」2013年6月号

連載「樺太を訪れた歌人たち」は6回目。
「北原白秋・吉植庄亮と海豹島(1)」を書きました。

大正14年に白秋と庄亮が樺太観光団に加わって、樺太を訪れた時の話。
3回続く予定です。

どうぞ、お読み下さい。

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2013年04月26日

『森の不思議』のつづき

この本の著者が森に興味を持つようになったきっかけは、実は樺太にある。
わたしと森林とのめぐりあいは、樺太の“オタスの社(もり)”から始まる。一九四五年の正月、東京から樺太に向けてわたしは出発したのである。

当時、中央気象台に勤めていた著者は「寒冷気象が生体に与える影響」の調査のために、終戦7か月まえの樺太へ出張したのだ。樺太のオタスの社で見たエゾマツの森と、そこで偶然出会って行動をともにした先住民族オロッコ(ウィルタ)の少年は、著者に強い印象を残したらしい。
「名前は何でいうの?」
「上村良太郎」
「え? カミムラリョウタロウ?」
わたしは思わず耳を疑った。何らかのオロッコ族らしい名前を予想していたわたしには、いかにも平均的な日本人の名前であるのが妙に思われた。

十歳くらいのこの少年は、巧みにスキーを操って、著者を先導するように森のなかを進んでいく。途中、一緒におむすびを食べたりして、半日の森林行を終える。その後の別れの場面が美しい。
 わたしは凍りついた川に再び臨んだ。少年の方を振り向くと、まだ彼は入口のところに立ってこちらを見ていた。
 わたしは手を振った。少年はそれに答えて手を振ってくれた。わたしはホッとした気持ちになった。と同時に目頭が熱くなるのを覚えた。わたしは振り切るように、川の向こう岸を見た。(…)
 川の氷原を渡りながら、何回となくオタスの杜を振り返ってみた。森と部落とがいつまでもわたしを追いかけてくるような風景を感じた。少年はまだ手を振っているかも知れない……。

戦争中、それも大戦末期のできごととは思えない温かさと人間味に溢れた場面だろう。この半日の出来事が、著者のその後の人生を決定づけたのかもしれない。

この話には、後日譚がある。

著者は1982年に網走を訪れ、ウィルタの民族衣裳、刺繍、狩猟器具などを展示する資料館「ジャッカ・ドフニ」(現在は閉館)を見学する。そして、当時館長を務めていたダーヒンニェニ・ゲンダーヌと話をするのだが、そこで「上村良太郎は、終戦後しばらくして亡くなりました」という話を聞かされるのであった。

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2013年04月22日

「短歌往来」5月号

連載「樺太を訪れた歌人たち」は5回目。前回に続いて「松村英一と国境線」の2回目を書きました。松村英一についてはとりあえずこれで終りで、次回はまた別の歌人を取り上げます。

今回、樺太に建てられる予定だった松村英一の歌碑の話に触れて、「こうして歌碑の場所は無事に決まった。しかし、はたしてこの歌碑は実際に建てられたのかどうか。時代はこの時期、大きな曲り角に差し掛かっていた」と書きました。

実はその後、この歌碑についての新たな資料が見つかり、歌碑が実際に建てられたことが明らかになりました。連載というのは、こういうところが難しくもあり、また面白くもあります。今さら調べようもないと思っていたことが、ひょんなことからわかってしまったのです。

歌碑が建てられたのは昭和14年。今から70年以上も前の話ですし、戦後はずっとロシア(ソ連)領になっているので、今も歌碑が建っているのか壊されてしまったのかはわかりません。ただ、街中の碑と違って山頂近くに建てられたものなので、壊されずに残っている可能性もあるように思います。

そんなことを考えていると、居ても立ってもいられない気持ちになります。誰に見られることもなく草に埋もれている歌碑の姿が目に浮かんできて、サハリンに行って、その歌碑を見つけ出したい、歌碑が私を呼んでいる(←これは妄想)という思いが、だんだん募ってくるのです。

ああ、でもサハリンは遠いなあ・・・

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2013年04月18日

さらに「歌壇」2013年5月号

池田はるみさんの特別作品「大鵬とその父」30首に注目した。

先日亡くなった大鵬とその父であるマルキャン・ボリシコについて詠んだもの。大鵬と樺太の関わりについては、以前このブログでも取り上げたことがある。(→1月21日)池田さんは『お相撲さん』というエッセイ集を出しているほどの相撲好き。
戦争がふかぶか落とす影のある大鵬ならむ樺太に生れき
しら雲のコサック騎兵隊長の若きマルキャン速駆けをせり
マルキャンは敷香(しすか)に渡りほのぼのと巡り合ひにき大鵬の母と
み棺が国技館を出づるとき大鵬、たいほうとこゑは叫びぬ
ユーラシアをはろばろと飛びその父も大鵬もまた見えなくなりぬ

大鵬の父の生涯については、現在ではかなり詳しくわかっている。それは、サハリン在住の研究者N.ヴィシネフスキーが2001年4月号の「文藝春秋」に「大鵬の父親サハリンに死す」(小山内道子訳)という文章を発表してからのこと。

ヴィシネフスキーは同じく小山内道子訳で『トナカイ王―北方先住民のサハリン史』という本も出しており、樺太研究に大きな業績を残している。

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2013年04月17日

ユーラシア・ブックレット

『南極に立った樺太アイヌ』は東洋書店のユーラシア・ブックレットの1冊。
他にもこのシリーズでは
108 井澗裕著『サハリンのなかの日本―都市と建築』
137 藤原浩著『宮沢賢治とサハリン 「銀河鉄道」の彼方へ』
169 長縄光男著『ニコライ堂小史 ロシア正教受容150年をたどる』

といった本を読んだことがある。

どれもあまり類書のない内容がコンパクトにまとめられていて、面白く、また役に立つ。こういう本はそれほど売れないのではないかと思うのだが、2000年の創刊以来、既に179点が刊行されていて、出版社の熱意を感じる。

他にも『明治日本とロシアの影』『ボリショイサーカス』『漱石と「露西亜の小説」』『シベリア野鳥紀行』『美味しい中央アジア』など、魅力的なタイトルがいっぱい並んでいる。

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2013年04月16日

佐藤忠悦著 『南極に立った樺太アイヌ』

ユーラシア・ブックレット64。副題は「白瀬南極探検隊秘話」。

明治43年から45年にかけて南極探検を行った白瀬矗(のぶ)の一隊に同行した2人の樺太アイヌ、山辺安之助と花森信吉。犬橇係として樺太犬を連れて参加したこの2人の生涯を描いた本。

アイヌ民族の地位の向上を願って探険隊に参加した2人の奮闘ぶりがよく伝わってくる。それだけに、その後の2人がたどった運命やアイヌの置かれた立場について、いろいろと考えさせられる内容となっている。

南極探検と犬と言えば、戦後の第1次南極観測隊で南極へ置き去りにされた犬たち(そして奇跡的な生還を果たしたタロとジロ)の話が有名だが、白瀬隊でも同様のことがあった。南極を離れる際に、26頭のうち20頭が収容できずに置き去りにされたのである。

山辺と花森の2人は樺太に戻ってから、犬を置き去りにした罪によりチャランケ(査問)にかけられている。それほどに、樺太アイヌにとって犬は大事な存在であったのだ。

2004年6月20日、東洋書店、600円。

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2013年03月22日

悲恋塚(その3)

「樺太を訪れる歌人たち」でもいずれ取り上げる予定の土岐善麿は、昭和14年に樺太を訪れて「樺太雑詠」と題する78首の歌を残している。その中に次のような一首がある。
露西亜帆船の船長の塚を建てし長崎娘おみつといふはいづこへ行きし
                  土岐善麿『六月』

今まで何のことかよくわからない歌だったのだが、これはこの悲恋塚を詠んだ一首だったのだ。おみつという名前の女性が、愛するロシア人船長ネイの死を悼んで建てたということなのだろう。善麿は真岡を訪れた際に、この塚を見学したのかもしれない。

そう思って調べてみると、確かにその通りであった。善麿の随筆集『斜面の悒鬱』に、こんな一文がある。
北海道へ、ひとあし先きに行かれる汐見博士が、真岡線の汽車で出発されたのを送つたあと、朝から、しんみりとした訪問者を三人ほど迎へて一緒にその辺を散歩し、露深い雑草を踏んで、観測所の構内近くにある露船長と長崎娘との「悲恋塚」の前に立つたり、紫のやや萎れた菖蒲の花を眺めたりした。

ロシア人船長ネイと長崎娘おみつ、2人の間には一体どんなドラマがあったのだろう。

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2013年03月21日

悲恋塚(その2)

一方の赤い方のスタンプは「樺太真岡駅」「9.6.11」という文字と、樺太西海岸の町、真岡の風景の図柄である。この図柄には、山と港と工場と石碑が描かれている。山は真岡の背後にある「春風山(しゅんぷうざん)」、港は真岡港、工場は王子製紙真岡工場だとわかるのだが、左側に立つ石碑のようなものがわからない。

よく見ると、石碑には十字架のマークと英語らしい文字が書かれている。石碑ではなく外国人のお墓だろうか。気になって調べてみたところ、これは「悲恋塚」というものであることがわかった。ロシア人男性と日本人女性の悲しい恋を伝える碑であるらしい。

刻まれている文字は次の通り。
IN MEMORY OF E.NEY CAPTAIN OF THE RUSSIAN SCHOONER “ALEUTE” WHO DIED HERE 3TH OCTOBER 1884.
「1884年10月3日、この地に亡くなったロシア帆船〈アリュート号〉船長E.ネイを悼んで」

これを読んで、アッと思った。

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2013年03月20日

悲恋塚(その1)

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「短歌往来」に連載中の「樺太を訪れた歌人たち」には、毎回絵葉書などの写真を載せている。文章だけでは伝わりにくい当時の様子を、具体的にイメージする助けになればという考えからである。

こうした戦前の絵葉書は、専門店もあるしオークションなどにも大量に出ているので、珍しい品でなければそれほど高くない。1枚300円〜1000円程度である。絵葉書は今でも観光土産によく売られているが、かつては時事的なニュースを伝えるメディアとしても幅広く流通していた。

さて、今日入手した樺太の絵葉書には文面を書く側にスタンプが押してある。青いスタンプと赤いスタンプの2種類。青の方は「鉄道省 稚内 大泊 連絡船」「砕氷船 亜庭丸 乗船記念」「9.6.11」と船の図柄。昭和9年に樺太を訪れた人が買ったものなのだろう。

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2013年01月21日

大鵬と樺太

元横綱の大鵬(納谷幸喜)さんが亡くなった。
新聞などでも報じられている通り、大鵬は1940年、樺太生まれ。
戦後すぐに、母に連れられて北海道に引き揚げてきた人である。

今、連載「樺太を訪れた歌人たち」で敷香(しすか、しくか)郊外にあった「オタス」の話を書いているが、この敷香という町が大鵬の出身地。

当時のガイドブックには
北方ソヴェート領内に源を発した国際河川幌内川の河口、多来加湾に臨む奥地樺太に於ける屈指の都市である。(…)幌内川流域一帯の土木及毛皮の集散地として市況活発、殊に最近は人絹パルプ工場の建設に依り更に興隆の機運に輝いてゐる。人口二万九千。

とある。

大鵬の父はウクライナ人で、ロシア革命を嫌って国外に脱出・亡命した「白系ロシア人」と呼ばれる人々の一人である。日本領の樺太には、こうした人たちが数多く住んでいた。そうした歴史がなければ、大鵬の父と母が出会うこともなかったわけである。

生き別れになった大鵬の父のその後や、引き揚げ船「小笠原丸」の撃沈など、大鵬と樺太をめぐる話には興味が尽きない。
還り来ぬ国土ゆゑことさらになつかしき樺太敷香町北一番街
                  林田恒利『歴洋』

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2013年01月20日

「短歌往来」2013年2月号

連載「樺太を訪れた歌人たち」は2回目。
「北見志保子とオタスの杜(2)」を書きました。
どうぞ、お読みください。

北見志保子については、次号にもう1回書きます。

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2012年12月17日

「短歌往来」2013年1月号

「短歌往来」で「樺太を訪れた歌人たち」という連載を始めました。
第1回は「北見志保子とオタスの杜」という題で書いてます。

毎号4ページで、松村英一、北原白秋、吉植庄亮、橋本徳壽、生田花世、
土岐善麿、斎藤茂吉、石榑千亦といった歌人を取り上げる予定。

1歌人につき1テーマというスタイルで、短歌の話であるとともに、
樺太の話でもあるような、そんな内容で書いていきたいと思います。

皆さん、ぜひお読みください。

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2012年11月16日

田中水江著 『奇妙な時間(とき)が流れる島サハリン』


1993年〜94年にかけてサハリンのユジノサハリンスク教育大学で日本語を教え、その後も何度もサハリンを訪れることになった著者の記したドキュメンタリー。あまり期待せずに読んだのだが、実に良い本だった。

著者は足掛け6年にわたって、ホルムスク、ユジノサハリンスク、オハ、ノグリキ、ドリンスク、ネヴェリスク、モネロン島、ウグレゴルスク、アレクサンドロフスク・サハリンスキー、ポロナイスクなど、サハリンの主要都市をめぐっている。

そこで著者が出会ったのは、ロシア人だけでなく、朝鮮人、日本人、ポーランド人、ニヴヒ、タタール人など、多くの民族の血を受け継ぐ人々であった。第二次世界大戦後に引き揚げが認められなかった朝鮮人をはじめ、様々な理由でサハリンに留まった人がいたことは知っていたが、この本にそうした人々から直接聞いた話が多数収められている。

民族、言語、国家、戦争、家族など、実にさまざまなことを考えさせられる一冊であった。

1999年11月25日発行、凱風社、1800円。

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2012年10月18日

井椋有紀著 『ロシア・ビギナーのサハリン紀行』


副題は「船で5時間のヨーロッパひとり旅」。

2002年7月に4泊5日でサハリンを訪れた著者の旅行記。
海外旅行先としてはあまり有名でないサハリンの旅を軽快な文章で綴っている。

著者のたどったルートは次の通り。

15日 稚内→(フェリー)→コルサコフ→(車)→ユジノサハリンスク(泊)
16日 ユジノサハリンスク→(鉄道)(車中泊)
17日 →スミルヌイフ→(車)→パペジノ→(車)→ポロナイスク(泊)
18日 ポロナイスク→(鉄道)→ユジノサハリンスク(泊)
19日 ユジノサハリンスク→(飛行機)→函館

サハリン最大の都市ユジノサハリンスクを拠点に、北緯五十度の旧国境地帯まで足を伸ばしている。サハリンの町の様子や鉄道の中の様子が詳しく描かれていておもしろい。

もちろん、ここに書かれているのは十年前の旅行であるから、その後のロシアの経済成長を受けて、今ではだいぶ変っている部分もあるだろう。一度ぜひ訪れてみたいと思う。

2003年6月15日、文芸社、1000円。

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2012年09月29日

和田一雄編著 『海のけもの達の物語』


副題は「オットセイ・トド・アザラシ・ラッコ」。

鰭脚(ききゃく)目アシカ科の「オットセイ」「トド」、アザラシ科の「ゼニガタアザラシ」「ゴマフアザラシ」、食肉目イタチ科の「ラッコ」という5種類の海の動物について、その誕生から繁殖、回遊などの生態や分布、さらには人間との共存や保護の問題までを記した本。

舞台となるのは北海道東部、サハリンのチュレニイ島、千島列島、カムチャツカ半島、コマンドルスキー諸島といった北太平洋の島々である。1991年にロシアの極東地域が外国に向けて開かれて以降、日露の共同調査なども進んでいるらしい。現地で行われた観察のエピソードや写真なども豊富に載っていて楽しい。

驚いたのは、こうした海の動物の母乳に含まれる脂肪分の多さ。人間や牛の場合3〜4%のところ、トドは20%、ラッコは23%、ゴマフアザラシに至っては何と50%もある。その代わり、ゴマフアザラシであれば母乳をもらえる期間は2〜3週間で、その後は自立しなければいけないのだそうだ。

2004年2月8日、成山堂書店、1600円。

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2012年06月25日

「からふと」か「かばふと」か(その2)


「かばふと」という言葉の使用状況について調べてみると、1913(大正2)年8月6日の「東京日日新聞」に、次のような文章が見つかった。「樺太島」という連載の第一回目である。
 「からふと」か、「かばふと」か、以前我領土であった時は「からふと」と言うのが通称だったが、千島と交換して露国の領土になってからは「かばふと」と言うのが流行して来た、樺太の文字通りに読むと「かばふと」だが実際はそうではなくて、樺太を「からふと」と読むのが本当だ、日露戦役の結果再び我領土に帰してから「からふと」と、「かばふと」と併用されたが、今では概ね「からふと」になって来た(…)
つまり、もともと「からふと」であったものが、1875年(樺太千島交換条約)〜1905年(ポーツマス条約)の間に「かばふと」と読まれるようになり、その後、再び「からふと」に戻ったということらしい。

「からふと」の語源については、諸説があってはっきりしない。はっきりしているのは、本来「からふと」であった名前が「樺太」と漢字で表記された結果、「かばふと」という別の読み方を生んだことである。

漢字の表記に引きずられて、元の地名の読み方が変ってしまうことは、しばしば見られる現象だ。北海道のアイヌ語地名「つきさっぷ」は「月寒」という漢字をあてられて、今では「つきさむ」と読むようになっている。また、沖縄の「豊見城(とみぐすく)」も「とみしろ」と読まれることが近年増えている。

今では「からふと」という本来の読み方が定着しているので、「樺太」を「かばふと」と読んだら笑われるだろう。でも、「かばふと」という読み方も、かつては存在したのである。

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2012年06月24日

「からふと」か「かばふと」か(その1)


「樺太」と書いて何と読むか。
これが簡単そうで意外と難しい問題なのだ。

石川啄木のローマ字日記のなかに、樺太に関する記述がある。1909(明治42)年4月17日、友人の金田一京助の樺太行きが決まりそうだという話を受けて、次のように書かれている。
 キンダイチ君に ドッポの“疲労”その他 2,3篇を読んでもらって聞いた.それから カバフトのいろいろの話を聞いた.アイヌのこと,朝空に羽ばたきするワシのこと,舟のこと,人の入れぬ大森林のこと…….
 “カバフトまで 旅費がいくらかかります?”と予は問うた.
原文のローマ字の綴りを見ても、確かに「Kabafuto」となっている。
この日の日記には計4回、樺太という言葉が出てくるのだが、そのうち「カバフト」が3回、「カラフト」が1回となっているのだ。

どうも当時は「からふと」でなく「かばふと」という呼び方があったらしい。

先日読んだ工藤信彦著『わが内なる樺太』の中にも、この「かばふと」が登場する。1906(明治39)年8月16日、初めての樺太移住定期船が小樽を出航した際の「小樽新聞」「函館新聞」「北海タイムス」の記事が紹介されているのだが、そこに
 なお、三紙とも、〈樺太〉に〈かばふと〉とルビがふられているのが、印象に残った。
と書かれているのである。

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2012年06月22日

樺太と歌人


死ぬまでに一度サハリンへ行ってみたい。

ソ連時代と違って、今はサハリンへ渡るのも制限はないし、不定期ではあるがツアーもある。お金と時間さえあれば、行くことができる。

以前「樺太の見た夢」という文章を書いたことがある(『短歌は記憶する』所収)。斎藤瀏、吉植庄亮、石榑千亦、出口王仁三郎、斎藤茂吉、橋本徳壽、土岐善麿、林田恒利らの樺太詠を取り上げて、樺太の歴史とそこに住んだ人々の暮らしについて記したものだ。

あれ以来、樺太と歌人の関わりについてもっと詳しく書きたいという思いが、私の中に強くなっている。調べれば調べるほどおもしろい。今では忘れられてしまったような出来事や物語が数多く眠っている。

短歌を通じて、そうした歴史を掘り起こすことができればと思う。

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2012年06月21日

工藤信彦著 『わが内なる樺太』


副題は〈外地であり内地であった「植民地」をめぐって〉。

著者は1930(昭和5)年、樺太の大泊町生まれ。14歳まで樺太で過ごした方。

戦前は外地でも内地でもない曖昧な扱いを受け、戦中は対ソ連の和平工作の切り札として考えられ、戦後は失われてしまった樺太の歴史と今を、多くの資料に当りながら丁寧に描き出している。

著者は樺太を〈すでに無く、もはや無い〉ものと考える。今さらそこに戻りたいと思っているのでもない。しかし、樺太が歴史の本から消え、語られることさえなく忘れられてしまうことは許せないのである。

その理由は次の一文に明らかであろう。
樺太は他者にとっては辺境であったとしても、父母や私にとっては生きた大地であり、ぬくもりを分けた郷土でもあったのだから。

著者の両親をはじめとした多くの人々が40年にわたって築き上げた生活や文化。それを「無かったこと」にはできない。そのために、著者は樺太を調べ、樺太(現サハリン)を訪れ、樺太について書き続けているのである。

その姿勢に教えられることは非常に多い。

2008年11月20日、石風社、2500円。

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2012年04月28日

北方異民族慰霊之碑

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芦屋に用事があったついでに、昨日は午後から神戸護国神社を訪ねた。
快晴の汗ばむような陽気である。
神社の横の公園では小さな子どもたちが遊んでおり、母親たちが集まって立ち話をしている。

境内にはいくつもの慰霊碑が建っているのだが、そのうちの一つに「大戦殉難 北方異民族慰霊之碑」がある。第二次世界大戦やその後のシベリア抑留で亡くなったウィルタ(オロッコ)やニブヒ(ギリヤーク)の人々を弔う碑だ。

この碑は、戦時中樺太にあった敷香陸軍特務機関の機関長を務めた扇貞雄・元陸軍少佐が、1975年に建立したものである。先住民を徴集した側の人が建てたものであり、しかも神戸という土地は扇氏の地元というだけでウィルタやニブヒとは何の縁もない。

それでも、こうして石に刻まれた文字は、埋もれつつある歴史をかろうじて伝えるという役割を果たしている。かつてゲンダーヌも死んだ仲間たちのことを思って、この碑に参拝したということだ。

護国神社は高台にあり、遠くには海が見える。
シベリアで亡くなった樺太先住民たちの霊は、今ごろどこにいるのだろうか。

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2012年04月24日

田中了/D.ゲンダーヌ著 『ゲンダーヌ』

副題は「ある北方少数民族のドラマ」。

ウィルタ(オロッコ)のダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名 北川源太郎)の足跡をたどったドキュメンタリー。ゲンダーヌの口述を元に、高校教師の田中了(ウィルタ協会事務局長)が記したもの。

ゲンダーヌは戦前の日本領樺太で生まれ、戦時中は陸軍の特務機関によって徴集され、北緯50度の日ソ国境付近で諜報活動に従事。戦後、スパイ幇助の罪により重労働8年の刑を言い渡されてシベリアに抑留される。

昭和30年に日本に引き揚げてきた後は、ふるさと樺太に近い網走に住み、日雇い労働で生計を立てる。日本政府に対して軍人恩給の支給を求めるものの、軍人としての召集ではなかったとして拒否されるなど、様々な苦難を乗り越え、やがてウィルタとしての誇りを取り戻していく。

何ともすごい本である。

日ソ両国間で翻弄され続けてきた少数民族の悲哀が、一人のウィルタの人生を通じて、まざまざと甦ってくる。そして、戦後になっても戦前と同じように続いた民族差別について深く考えさせられる。

もちろん、今から30年以上前に書かれた本なので、古くなってしまった部分もある。「連帯」「勤労人民」「抑圧民族」「歴史的必然」といった左翼的な言葉や考え方は、今では力を持たないだろう。

けれども、そうした運動を通じてこの本が生まれ、ゲンダーヌをはじめとした少数民族の人々の人生が記録されたことは、やはり特筆すべきことだと思う。本になって残されたことで、私たちは何年たっても埋もれた歴史を知ることができるのだ。

1978年2月20日、現代史出版会、1500円。

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2012年04月19日

N・ヴィシネフスキー著 『トナカイ王』


小山内道子訳。副題は「北方先住民のサハリン史」。

日本とロシア(ソ連)という二つの国の間で翻弄され続けてきた樺太(サハリン)先住民の歴史の記録。時代は、日本がロシア革命後の混乱に乗じて北樺太を占領した1920年から終戦後の1950年代までを描いている。

主人公は「トナカイ王」と呼ばれて日本領の南樺太で活躍した商人ドミトリー・ヴィノクーロフ。ヤクート人である彼は数百頭のトナカイを飼育して財をなしただけでなく、故郷の北シベリアのヤクーチア(現ロシア連邦サハ共和国)独立に向けて日本の支援を要請するなど、日本とも関係の深い人物であった。

専門的な学術書や個人的な思い出を記した本を除くと、戦前の樺太に関する本は非常に少ない。そんな中にあって、本書は今ではほとんど忘れられてしまった歴史に光を当てた貴重な一冊と言えるだろう。

この本の出版に至る経緯は平坦なものではなかったようだ。1994年に訳者が原著を読み、1996年に翻訳を完了した後も、出版社が見つからず、2005年になってようやく北海道大学の学内出版(非売品)として刊行。その反響を受けて、2006年に一般向けに出版されたのだそうだ。12年もの歳月をかけて出版にこぎつけた訳者と著者の尽力には、本当に頭が下がる。

2006年4月19日、成文社、2000円。

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2011年02月25日

山川朱実著 『国境まで』

昭和16年出版の随筆集。「日本の古本屋」で数千円で購入したもの。山川朱実は歌人北見志保子の別名である。

昭和15年秋に北見志保子が文化講演会のため樺太を回った時の文章が、全体の約半分を占めている。樺太については、昨年出した評論集『短歌は記憶する』の中に「樺太の見た夢」という文章を書いたが、触れられなかった歌人も多く、まだまだ書きたいという思いが強い。いつの日か「樺太を訪れた歌人たち」という連載をして、一冊の本にまとめたいと思っている。

樺太旅行以外の文章も、テンポがよくて、はっきりとした物言いが気持ち良い。内容的にもあまり古びた感じはなく、面白く読むことができる。冒頭部分を引くと、こんな感じ。
 私は或るとき血圧が高くなつて医者のもとに行つた。医者は私の顔を見ると、いつものやうに「どうしました?」と聞きながら、円い回転椅子に私をかけさせた。そして、血圧を計りながら、「ところで、斎藤茂吉と北原白秋とは、どつちが偉いんですか?」と話し出した。聴診器を私の心臓の上や肺の上に移しながら話すので、私はこれでわかるのかしらと思つた。(診察室)

 影のない明るく曇つた日で、まことに初夏らしいよい日であつた。さすがにまだ山の上は肌寒いと思ふほどの風がバスの窓から吹き入りながら、どんどん御殿場から須走へ登つてゆく。あのバスガールが地方々々の名所旧蹟を案内する音調はいつどこから始まつたものか、私は聞く度に何とかならないものかと思ふ。一日に何遍となく同じことをくりかへしていつてゐると自然ああなるものかとも思ふけれど、デパートのエレベーターガールや案内お知らせの場内に聞えわたる声にしても同じことで、少しの温みも親しみもなく、ただ野卑の一語に尽きてゐる。 (須走の小鳥たち)

こうした本が、今ではほとんど入手不可能になっているのは残念なことだ。

昭和16年9月5日発行、大同印書館、1円80銭。
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2010年06月23日

藤原浩『宮沢賢治とサハリン』


旧植民地関連本。

大正12年7月31日〜8月11日にかけて、宮沢賢治は樺太へ旅をした。行先は栄浜(現スタロドゥプスコエ)。前年に亡くなった妹トシの鎮魂の旅であった。
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
        『オホーツク挽歌』

今回、この本を読んで初めて知ったことがある。それは北海道の稚内と樺太の大泊(現コルサコフ)とを結ぶ稚泊航路の就航がこの年の5月1日であったこと。これにより本土と樺太は鉄道で結ばれることになったのだ。

そして、その終点が栄浜なのである。つまり、栄浜は当時日本の最北端の駅であったわけだ。宮沢賢治が栄浜に降り立ったことにも時代的な必然があったということになる。

一度、行ってみたいな。

2009年6月20日、東洋書店ユーラシア・ブックレット137 600円。


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