2017年10月02日

釧路北陽高校の校歌


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北海道新聞で9月4日から26日まで12回にわたって、「『校歌』物語 釧路北陽高校」という連載があった。

釧路北陽高校の校歌は、あまり知られていないが元になった歌がある。かつて、樺太・敷香(しすか、ポロナイスク)にあった敷香高等女学校の校歌(土岐善麿作詞・乗松昭博作曲)だ。

以前、『樺太を訪れた歌人たち』に善麿が校歌の作詞をするに至った経緯を書いたことが縁で、北海道新聞社の椎名智宏さんの取材を受け、今回の連載記事も送っていただいた。

連載記事を読むと、土岐善麿や乗松昭博、さらに現在の校歌の作詞をした沖口三郎(釧路北陽高校の初代校長で俳人)について非常に詳しい話が出てくる。

何十年前の出来事であっても、手を尽くして調べれば実にいろいろなことがわかるものなのだ。プロの新聞記者の調査力・取材力に強い感銘を覚えた。

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2017年08月30日

さいかちさんのブログ


さいかち真さんがブログ「さいかち亭雑記」で『樺太を訪れた歌人たち』を取り上げてくださいました。丁寧にお読みいただき、ありがとうございます。

昨年刊行した本ですが、内容的に古くなることはありませんので(何しろ70年以上前の話です)、これからも多くの方にお読みいただければ幸いです。今すぐでなくて構いません。気が向いた時にぜひ。

10年後、20年後でも、多分このテーマでこれ以上の本が出ることはないと思います。それだけの自信を持っている一冊です。

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2017年08月18日

「稚内市サハリン事務所」のブログ


サハリン(樺太)に興味のある方におすすめなのが「稚内市サハリン事務所」のブログ「65RUS−ユジノサハリンスク市アムールスカヤ通から…」。
http://65rus.seesaa.net/

ほぼ毎日更新されるし、内容も具体的でおもしろい。サハリンを旅行している気分を味わうことができる。

サハリンに関する情報はガイドブックでもネットでも極端に少ない。そんな中で、このブログはとても役に立つ。

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2017年07月10日

ベルリンと樺太


『永田和宏作品集T』(第1歌集『メビウスの地平』〜第11歌集『日和』を収録)の初句索引を見ていると、いろいろな発見がある。

その一つはこれ。

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 樺太に行きしことなし樺太と同じ緯度なるベルリンに飲む
                      『日和』

永田さんに樺太の歌があったとは!
『日和』はもちろん読んだことがあるのだが、当時は樺太に関心がなかったのでノーチェックだったのだろう。

いやいや、ぜひ樺太に行きましょう。

ヨーロッパの緯度が日本に比べて高いことは、よく知られている。
主要な都市の緯度を比較してみると、

  ベルリン・・52度
  ロンドン ・・51度
  パリ ・・・・・48度
  札幌・・・・・43度
  ローマ ・・・41度
  青森・・・・・40度
  東京・・・・・35度
  鹿児島・・・31度
  那覇・・・・・26度

といった感じになる。

樺太の緯度は45度〜54度。戦前のソ連と日本との旧国境線が北緯50度なので、ベルリンは緯度だけから言えば樺太でも「北樺太」(ソ連領)の方に位置するわけだ。

ちなみに、京都の四条通りには北緯35度の碑が立っている。

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2017年07月05日

「樺連情報」7月号


全国樺太連盟の機関誌「樺連情報」の7月号に、5月16日に行ったワークショップ「樺太を訪れた歌人たち」の記事が載りました。

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記事をご覧になった方々から、早速、『樺太を訪れた歌人たち』の注文もあり、ありがたいことです。

本の在庫は、僕のところ(masanao-m@m7.dion.ne.jp)にも、版元のながらみ書房 https://www.nagarami.org/ にもあります。

「読んでみたら意外と面白かった」という人が多い一冊です。皆さん、ぜひお読みください。

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2017年06月18日

サハリンへ行くには

サハリン(樺太)に渡るには、船か飛行機に乗ることになります。

〇船
北海道サハリン航路の船(定員80名)が、6月から9月にかけて週に2〜3往復、稚内―コルサコフを4時間30分で結んでいます。
http://hs-line.com/schedule.html

〇飛行機
オーロラ航空の新千歳―ユジノサハリンスク便は週に3往復、所要時間1時間20分。同じく成田―ユジノサハリンスク便は週に2往復、2時間30分です。
http://www.uts-air.com/aurora/annai/

皆さん、ぜひサハリンへ!
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2017年06月17日

那部亜弓著 『知られざる日本遺産』


副題は「日本統治時代のサハリン廃墟巡礼」。
八画文化会館叢書vol.3。
廃墟や珍スポットの紹介で有名な八画文化会館の本である。

「かつて恵須取には樺太で紙生産能力No.1の王子製紙工場があったらしい」との情報を手掛かりに、今は廃墟となっている樺太の工場を訪ね回った記録。

王子製紙の恵須取工場、知取工場、敷香工場、真岡工場、落合工場、豊原工場、大泊工場、さらにサハリン各地に残る日本時代の遺構の写真が収められている。敷香、真岡、大泊の工場には行ったことがあるので懐かしい。

私は人より海外の空気を吸った方だと自負しているが、このサハリン行脚ほど金がかかった旅はない。(…)限られた5泊6日の時間の中で、すべてを回りきるには、自由がきく車のチャーターが必要になる。それも未舗装の砂利道をゆくので4WD車で。(…)そして、何より情報がない。

著者がサハリンを訪れたのは2009年のこと。基本的な状況は今でもそれほど変っていない。

2015年8月、八画出版部、1000円。

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2017年06月13日

海豹島

北原白秋の『フレップ・トリップ』は、大正14年の樺太旅行を描いた紀行文の名作である。2007年に岩波文庫から新版が出ており、現在でも手軽に読むことができる。

その『フレップ・トリップ』の最大の山場と言えば海豹島(かいひょうとう)だろう。白秋が訪れた当時、島には3万頭のオットセイと30万羽のロッペン鳥が棲息していた。その圧倒的な迫力を、白秋は文庫で50ページにわたって描いている。

現在、その島はどうなっているのか。

白秋が訪れてから90年以上が過ぎた今も、実はロシアの自然保護区となって昔のままの姿をとどめているのだ。その様子は、写真家斉藤マサヨシさんのHPの「CHURENI island チュレニー島の海鳥と海獣たち」に記録されている。

全31枚。圧倒的な迫力と美しさである。
http://westen.jp/photos/sakhalin/chureniisland/

ぜひ一度行ってみたいなあ。
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2017年05月23日

樺太の絵カルタ


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今日は「KKRくに荘」で行われた全国樺太連盟近畿支部大会の第50回記念総会に招かれて、「樺太を訪れた歌人たち」と題する講話を行った。参加者は20名。

北原白秋、斎藤茂吉、北見志保子の短歌を引いて話をしたのだが、会員の方が作った樺太の絵カルタにも同じような風物や場面が描かれていて面白かった。

マントの黒き頭巾のふつかけ雨巡査は佇てり蕗の葉のかげ
                  北原白秋

  雨宿り/皆駆け込む/フキの下

麪包(ぱん)を売るロシア人等も漸くに小さき駅へ移りゆくとぞ
                  斎藤茂吉

  樺鉄の/ホームでパン売る/ロシア人

原住人が相寄りむつむとふオタスの杜(もり)いまのうつつに渡りゆかなむ
                  北見志保子

  ツンドラを/馴鹿(となかい)操る/先住民

皆さん私の親くらいの世代である。実際に樺太に住んでいた方々の話をいろいろと聞くことができて、楽しい一日であった。
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2017年04月23日

白秋のオットセイ踊り (その2)

白秋と同行した吉植庄亮の歌集『煙霞集』に、こんな歌がある。

  上陸を待ちつつ甲板にありけるに、海豹の子の
  波間にわれらを見るおもざし、白秋大人に似たりと
  人々のはやせるに、戯歌一首よみておくれる
わが兄子(せこ)に似たる海豹(あざらし)波間よりまなじりさげてわれを見にけり

『樺太を訪れた歌人たち』の中で、私はこの歌について次のように書いた。

アザラシのことを「わが兄子」(=白秋)に似ていると詠んで面白がっている。『フレップ・トリップ』に掲載されている写真を見ると、白秋は当時、鼻の下に髭をはやしているので、そうした点も含めて揶揄しているのかもしれない。いずれにせよ、気の置けない仲間同士の寛いだ旅の雰囲気が伝わってくる一首と言えそうだ。

『フレップ・トリップ』掲載の写真とは、これ。

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白秋というのはすごい人だ。アザラシ(オットセイ)に似ているとからかわれたのを逆手に取って、オットセイ踊りを自ら作り余興として演じていたわけである。
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2017年04月22日

白秋のオットセイ踊り (その1)

鬼頭一枝さんから「原型」昭和58年9月号のコピーを送っていただいた。斎藤史の講話「明治及びそれ以後の短歌」が載っているのだが、その中に面白いエピソードがある。東京の洗足にあった斎藤家を、真夜中に北原白秋と大橋松平が突然訪ねて来た時の話だ。

白秋の踊りというのがある。その昔に石井漠という、御存じかどうか、石井小浪やあの系統があつて、自由な舞踊、表現舞踊みたいなものがはやつたことがある。これを白秋が気分のままに踊るんです。
なかなかレパートリがある。その一つに、オツトセイ踊りというのがあつて、これは大正の末に吉植庄亮と白秋ともう一人白秋門下の由利貞三という人とオツトセイを見に北へ行つたことがあつたんです。
その帰りに旭川へ寄つて、瀏と飲んだんですけれども、そのオツトセイを早速踊りにしちやつたもの。白秋という人は割りに鼻の下の長い人でしよう。そこにおひげがあるでしよう。そのおひげを下へかき下げるわけね。
頭の毛もこうぴつたり押えておかつぱにするでしよう。でぬうつと首を持ち上げる。そうすると波からオツトセイが顔出した感じになる。(笑い)ほんと、そつくりになるの、そこでこんな風に手をひれにして揺れるわけ、波にゆうらゆうらつと。(笑い)

オットセイを見に「北へ」行ったとあるのは、樺太の海豹島のこと。白秋の樺太行きは、名作「フレップ・トリップ」や短歌や童謡だけでなく、オットセイ踊りなるものも生み出していたのである。
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2017年04月21日

樺太連盟の奨励金

昨年刊行した『樺太を訪れた歌人たち』に対して、一般社団法人全国樺太連盟から樺太研究奨励金の交付をいただいた。

樺太連盟は昭和23年に樺太引揚者の援護と相互扶助を目的に結成された組織で、お金のことはともかく、樺太関係の方々とのつながりができたことが嬉しい。

その縁もあって、来月は樺太連盟でワークショップ(東京)と講話(京都)を行う予定になっている。
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2017年04月19日

第7回樺太ワークショップ

一般社団法人全国樺太連盟主催のワークショップで「樺太を訪れた歌人たち」をテーマに話をします。どなたでも参加できますので、皆さんぜひお越し下さい。

日時: 5月16日(火)10:30〜12:00
場所: ホテルグランドヒル市ヶ谷2F「琵琶の間」
     JRまたは地下鉄有楽町線、南北線「市ヶ谷駅」下車徒歩5分
テーマ:「樺太を訪れた歌人たち」
概略: 戦前の樺太には多くの日本人が住んでいただけでなく、仕事や観光、 講演などの目的で訪れる人たちもいました。北原白秋・斎藤茂吉・土岐善麿・北見志保子・生田花世といった歌人も樺太を訪れています。 彼らが残した短歌には、樺太の自然や文化、産業、人々の暮らしといったものが生き生きと描かれています。それらの歌を手掛かりにして、今では忘れられつつある当時の樺太の姿や歴史にあらためて目を向けてみます。

講師: 松村正直
座長: 辻 力
参加資格: 会員、非会員を問いません。どなたでもご参加いただけます。
参加費用: 無料

http://kabaren.org/event/
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2017年04月10日

柳田新太郎の樺太詠(その3)

続いて「小沼の夏」から。
斎藤茂吉が養狐場の見学に訪れた土地である。

 樺太特殊産業発展のための一つと若い身を研究にうち込み、もの言はぬ動物の群にたちまじり、牛酪(ばた)・チーズの製造試験から牛乳の味噌・醤油までも造り試みるといふ、この小沼農事試験所に奉職する青年の数名。遠く中央文化から離れたこの北の果の島に住みつき、生活の単調と環境の寂寥にうち克ち、孜孜として働くこれらの人びとはその名も技手(ぎて)、酬いられるものも多からぬであらうのに、何に慰む心かと訝(いぶか)り問へば、休日の魚釣りの他にまぎるるものは仕事の上の成績ただ一筋、と衒(てら)ひ気もない言葉の響き。

小沼の農事試験所で働く青年たちから話を聞いている。当時の職員の区分を見ると、「技師」「書記」「技手」「嘱託」「雇員」に分れており、「技師」は高級官吏、「技手」は下級官吏であった。

もう一つ、「アイヌ墓地」から。

 沖の漁労(すなどり)からまだ戻りつかぬか、男たちの影みせぬ多蘭泊(たらんどまり)の部落はいま夕餉支度に、薪を折り井戸に集るものみな女ばかり、門口に出て乾魚を焙る老婆の上唇にそれと肯(うなづ)く黥(いれずみ)が見えた。

西海岸の多蘭泊にあったアイヌの集落を訪れた場面である。男性は漁に出ており、女性たちが夕食の準備をしているところ。当時、アイヌの成人女性は口の周りに刺青を入れていることが多かった。
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2017年04月09日

柳田新太郎の樺太詠(その2)

『現代短歌叢書 第九巻』に収められた柳田新太郎の新長歌14篇のうち、樺太を詠んだものは「半田沢国境線」「小沼の夏」「アイヌ墓地」の3篇。

作品を一部引いてみよう。
まずは「半田沢国境線」から。

 ところどころ猿麻裃(さるをがせ)あやしく掛かる椴松(とどまつ)、蝦夷松の原始林はてしなくつづく地表、太く一本に貫く軍用道路を駆(はし)りつづけ、気屯(けとん)の部落をすぎて幾時か、漸くに辿りつく半田沢警部補派出所、住所氏名に職業をも届け、武装警官に護衛(まも)られて来た、ここ北緯五十度、露領樺太に境(さか)ふわが国境線、降り立つ警官の外す安全装置の音もきびしい。

最初の段落はこんな感じだ。音数律は特に決まっていなくて、全体に散文詩のような感じである。

北緯五十度の国境線を見学に行った時のことである。武装警官の護衛付きということで、ものものしい雰囲気が感じられる。

二つ目と三つ目の段落は飛ばして、最後の段落を引く。

 北に対ひ覗きみる双眼鏡に粉糠雨けぶり、さし示される方にゲ・ぺ・ウの監視塔それとさだかには映らぬが、はからずも移す双眼鏡(めがね)に、路上に咲く花勝見の一群、その花の鮮かに、色の紫も冴えざえと浮んで来たではないか。

「ゲ・ぺ・ウ」(GPU)は旧ソ連の国家政治保安部(秘密警察)のこと。双眼鏡でソ連領の方を見る様子や、ソ連側に監視塔が立っていることなど、『樺太を訪れた歌人たち』の「松村英一と国境線」で記したのと同じ場面が詠まれている。

*引用の誤字を訂正しました。(4月10日)
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2017年04月07日

柳田新太郎の樺太詠(その1)

昭和12年7月、柳田新太郎は松村英一とともに樺太を訪れ、山野井洋の案内のもと、北緯50度の国境線などを見て回った。

その時に詠んだ作品が『現代短歌叢書 第九巻』(昭和15年、弘文堂書房)にある。この本は新書サイズで、五島茂、柳田新太郎、前川佐美雄、坪野哲久、五島美代子の5名の歌を収録している。

柳田は他の4名とは異なり、ここに短歌ではなく14篇の「新長歌」を載せている。新長歌とは何であるか。柳田はあとがきの中で次のように説明する。

もはや一首の短歌によつて表現されるには、私たちの現実生活から生れる感情は複雑に過ぎる。これを表現するためには勢ひ連作、群作とならざるを得ない。だが、それでは短歌本来の性格を冒すものとならう。
一首の短歌に表現することが困難なら、昔ながらの長歌といふ形式があるではないか。これを新しく現代に活かさうとしたのが、私のこれらの一聯の作品、所謂「新長歌」である。

どこかで聞いたことのある論理の展開だなあと思って、桑原武夫の「短歌の運命」を思い出した。桑原はこんなふうに書いている。

現代短歌は「近代化」をめざすに相違ない。しかし、それをつづけて行くうちに、がんらい複雑な近代精神は三十一字には入りきらぬものであるから、その矛盾がだんだんあらわになり、和歌としての美しさを失い、これなら一そ散文詩か散文にした方がよいのではないか、ということがわかり、(…)短歌は民衆から捨てられるということになるであろう。

戦後の昭和22年の文章である。第二芸術論は敗戦の影響で生まれたとよく言われるが、何のことはない、こうした短歌滅亡論自体は戦前からずっと続いていたものなのだ。
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2017年03月13日

戦後の山野井洋

『樺太を訪れた歌人たち』を書いた時点では、戦後の山野井洋のことはほとんどわからなかったのだが、先日の東京での聞き取りを含めて随分とわかってきた。

山野井が「山野井博史」の名でも作品を発表していたという事実を手掛かりに、今回二つの資料を入手した。

一つは新日本歌人協会編『人民短歌選集』(伊藤書店、1948)。
赤木健介、大岡博、岡部文夫、小名木綱夫、窪田章一郎、館山一子、坪野哲久、土岐善麿、中野菊夫、矢代東村、山田あき、渡辺順三ら53名のアンソロジーである。

その中に、山野井博史「戦後」20首がある。

ねずみの巣の如き屋根裏をわが家と妻子とくらす『焼け出され』われは
雨風のただに吹きこむ屋根裏も我が家と思う住みつかんとす

という戦後の厳しい生活を詠んだ歌がある一方で、

私が盗んだのだからわるいのよといいながら死んでいつたと書いてある南瓜ひとつ
性欲も食欲も充たされぬままのその眼の色をさげすんで済むことではない

など、自由律のような作品も含まれている。

もう一つは、山野井博文作詞、山田耕筰作曲の「つばくろの秋」「焦土の秋」である。「つばくろの秋」は1945年9月の作品(初出は『音楽文化』3巻2号、1945年10・11月号)で、山田耕筰が戦後最初に手掛けたものであるらしい。「焦土の秋」も同じ時期のもの。

葉桜の 南の風に
かえり来し つばくろよ
宮居(みやい)をめぐる いらかはいずこ
焼けにし跡に 緑はめぐむ
火の雨に 燃えしと知らず
さまよえる つばくろよ
やさしき人の 住居(すまい)はいずこ
焼けにし跡に 柳は揺るる

「つばくろの歌」の1番と3番を引いた。
5・7・5・5・7・7・7・7という音数になっている。
空襲で焼けてしまった東京の町にやって来た燕を詠んだ内容だ。

山野井洋と山田耕筰、二人の接点はどこにあったのだろうか。

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2017年03月06日

山野井洋のこと

『樺太を訪れた歌人たち』の中で、山野井洋という歌人のことを取り上げた。これまで詳しい経歴などがほとんど知られていなかった人物である。

その山野井洋のご子息とたまたま連絡を取ることができ、おととい東京でお会いしてお話をうかがってきた。何とも言えず嬉しい。

いくつもの新たな情報を得ることができたので、備忘のために書いておきたい。

○1908年生まれ、1991年逝去(82歳)。
○歌集『わが亜寒帯』の再版本には、初版にはない「批評抄」が付いている。
○昭和13年に樺太から東京に移って以降は東京暮らし。第2歌集で満州の開拓地を詠んでいるのは、旅行による滞在の結果である。
○戦後は保険の業界紙のコラムを書くなど、文筆業で生計を立てた。
○「山野井博史」の名でも作品を発表しており、山野井作詞・山田耕筰作曲の曲がいくつか残されている。

今回お聞きした話をもとに、今後もさらに調査研究を続けていきたい。

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2017年02月28日

『樺太を訪れた歌人たち』の書評

『樺太を訪れた歌人たち』について、書評等で取り上げていただきました。ありがとうございます。

・内田弘「なぜ樺太か」(「現代短歌新聞」2017年2月号)
・田中綾「書棚から本を」(「北海道新聞」2017年1月29日)
・高木佳子「時代と国と人のありよう」(「短歌往来」2017年3月号)
・田村元「短歌と樺太」(「りとむ」2017年3月号)

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2017年02月13日

『樺太を訪れた歌人たち』覚書

中西亮太さんがブログ「和爾、ネコ、ウタ」で「松村正直『樺太を訪れた歌人たち』覚書」を書いて下さっています。

http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-333.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-334.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-339.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-341.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-346.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-347.html

とても丁寧に読んでいただき、ありがとうございます。

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2017年01月14日

『樺太を訪れた歌人たち』 再版の予定


『樺太を訪れた歌人たち』が amazon で売り切れており、書店でも入手が難しくなっているようです。今月末に再版される予定ですので、しばらくお待ちください。

わが家にまだ少し在庫がありますので、早く入手したいという方は、masanao-m@m7.dion.ne.jp (松村) までご連絡ください。
よろしくお願いします。

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2017年01月05日

北方領土問題と樺太

先月、ロシアのプーチン大統領が来日したが、北方領土問題について特に進展は見られなかった。残念なことである。

実は、この北方領土問題は樺太とも深い関わりがある。

一つは、ロシアの行政区分において、北方領土は樺太と同じ「サハリン州」に属しているという事実である。サハリン(樺太)と北方領土の間には船や飛行機の定期便が就航し、人々や貨物が行き交っている。

 サハリン州旗.png
 (サハリン州旗)

もう一つは、北方領土も樺太も帰属が確定していないという共通点である。日本で発行されている地図において、南樺太(北緯50度以南)と千島列島(ウルップ島以北)は白抜きとなっていることが多い。

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 (外務省のHPより)

これは、1951年のサンフランシスコ講和条約によって日本は南樺太と千島列島に関する権利をすべて放棄したものの、この条約にソ連・ロシアは加わっておらず、「南樺太及び千島列島の最終的な帰属は未定である」というのが日本政府の公式見解であるからだ。

これは、戦後70年以上が過ぎた今も変っていない。ロシアとの平和条約が結ばれるまでは、4島の帰属が決まらないだけでなく、南樺太や千島列島も実は「帰属は未定」の状態に置かれているのである。

この「帰属は未定」という、いわば宙吊りの状態に置かれてきたことこそが、樺太が近くて遠い場所になってしまった一番大きな理由なのだろうと思う。

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2016年12月26日

書評委員が選んだ「今年の3点」


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昨日の朝日新聞の書評委員が選んだ「今年の3点」の中で、評論家・ジャーナリストの武田徹さんが『樺太を訪れた歌人たち』を挙げて下さっています。

歌人の著者が往年の歌人たちの足跡を辿(たど)った。歌に結晶していた「日本帝国北限の領土」の記憶と記録が時を跨(また)いで蘇(よみがえ)る感覚が鮮やか。

短歌や歌人という枠を超えて、広く多くの方々に読んでいただけると嬉しいです。


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2016年12月25日

杉村孝雄著 『樺太 暮らしの断層』

副題に「遠景と近景・第二集」とある。
前作『樺太・遠景と近景』の続編にあたる一冊だ。http://matsutanka.seesaa.net/article/437398945.html

昭和4年に樺太の恵須取町で生まれ、昭和22年に北海道に引き揚げてきた著者は、定年退職後にふるさと樺太の歴史を調べ始める。在野の郷土史研究家と言っていいだろう。

「樺太日日新聞」や樺太で発行された絵葉書のほか、戦前の貴重な本や資料を丹念に収集して一つ一つの出来事を執拗なまでに追いかけていく。文章はあまり上手とは言えないが、とにかく凄い努力である。

今回取り上げられている話題は

・アメリカに渡った答礼人形「ミス樺太」
・飛行船ツェッペリン号の樺太航跡図
・樺太に連行された中国人や朝鮮人のための協和国語読本
・樺太におけるケシ栽培とアヘンの生産
・銅像になった樺太庁第3代長官平岡定太郎

など、いずれもディープでマニアックな話ばかり。それだけに初めて聞く話も多く、樺太好きにはたまらない一冊となっている。

今回の一番の収穫は、樺太庁長官を務めた平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)が、樺太を詠んだ短歌を残しているという事実である。

卯の花の咲つる夏になりぬれどなほ風寒し豊原の里
多来加の波も敷香に納まれと祈るは己が願なりけり
うち返す波音も高しヲコックの島のあたりのヲットセの声

1首目の「豊原」は樺太庁の置かれた中心都市。
2首目の「多来加」(たらいか)は湾の名前。「敷香」(しすか)に「静か」を掛けている。
3首目の「ヲコック」はオホーツク海のこと。

平岡定太郎の短歌については、もう少し調べてみたいと思う。

2000年11月13日、私家版。

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2016年12月10日

山野井洋と幼児(その7)

「ポドゾル」の編集をしていた山野井洋は、幼い一人息子を病気で亡くしてしまう。先に引いた「四月集への挨拶」の続きに、山野井はこんな決意を記している。

 浄を死なしめてよりひとしほ、私は亜寒帯への使命感を覚えて居ります。ささやかな志の一端として、本誌の編輯にもいよいよ心を籠めてゆきたいと思ひます。
 浄と同じ年のこのポドゾルは私の力のつづく限り伸ばしてゆきたく、文化的にも意義のあるものにしたいと切に思つてをります。

「ポドゾル」が創刊された昭和12年は山野井の息子の浄が生まれた年でもあったのだ。その息子が亡くなり、「ポドゾル」は山野井にとって息子代わりの存在になったのだろう。

         *

その後の「ポドゾル」についてであるが、太平洋戦争開戦後の昭和17年6月に樺太歌壇を二分していた「樺太短歌」と合流し、「ポドゾル」の名前は消えることになる。その「樺太短歌」もまた、昭和20年6月号で終刊のやむなきに至った。

「ポドゾル」も「樺太短歌」も幻の雑誌と言ってよいほど、現物が残っていない。その一つの理由として、戦後樺太がソ連に占領され、日本人が引き揚げる際に雑誌等の持ち出しが禁じられたことが挙げられる。わずかに残っている雑誌は、終戦前に内地に転居した人が保存していたものということになる。

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2016年12月09日

山野井洋と幼児(その6)

山野井洋と九鬼左馬之助の深い関わりを示す資料を一つ。

山野井の歌集『わが亜寒帯』(昭和11年)を古本屋で入手したところ、見返しに献辞が書かれていた。

 P1050360.JPG

「この歌集を生ましめたまへる
 九鬼左馬之助先生に捧ぐ
            著者」

なんと、山野井洋が九鬼左馬之助に贈った一冊であったのだ。

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2016年12月08日

山野井洋と幼児(その5)

山野井洋はまだ樺太に住んでいた頃、『樺太人物論』(昭和12年)所収の「九鬼左馬之助論」に、こんなことを書いている。

 樺太庁関係の役人の中で彼くらゐ覇気にみちた鼻ツぱりの強い男はなからう。彼の覇気とは単なる強がりでなくて、身うちにあり余る実力と情熱の噴出の謂である。
 彼の魅力は彼が未完成の人物だといふ感じをすぐ対者に与へながら、とてつもなく博学であり、人の眼の玉を射るごとくみつめながらズバズバ物をいふ、将来大成する器かも知れぬといふ感じは、彼と対座してゐて大ていの人は思はせられるらしい。

山野井が九鬼という人間を非常に高く評価している様子が伝わってくる文章だ。さらに、こんなエピソードも書いている。

昨年の話、或人が腎臓を悪くして、はるばる東大へ診て貰ひに出掛けたところ
「腎臓だつたら何も旅費をかけて東京くんだりまで来るには及ばん。樺太には日本一の腎臓の博士がゐる。」と教へられて樺太へ舞ひ戻り、彼の治療を受けたといふ実話がある。

山野井が息子を九鬼に診てもらえばと思った背景には、こういう話があったのである。

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2016年12月07日

山野井洋と幼児(その4)

「ポドゾル」昭和14年4月号には、山野井洋の「四月集への挨拶」という文章も載っている。その中で、山野井は盟友である九鬼左馬之助(雲心学人)について、こんなふうに書いている。

 浄が入院中電報でご病状を見舞つて下すつた時
 コワバレルアコノテアシヲサスリツツ、クキセンセイハ、ハルカナリケリ
と病状に添へて御返電申上ましたが、実はとつおひつ思ひ悩んで次の文言を控へたのでありました。
 ワレ一セウノネガヒナリ、ヒカウキニテオイデコフ
しかし、今は打てば良かつた、おいで願へずとも諦めがついたであらうと話し合つてゐます。かへりみれば手ちがひばかりして死ぬべからざる子を死なしめました。

九鬼は樺太庁立豊原病院長を務める医師であった。樺太から東京までは随分と遠い。九鬼も忙しい身である。それでもなお、病気の子を診てもらうように頼めば良かったという後悔である。

もちろん、九鬼が診たところでおそらくは助からなかった命であろう。でも、子を亡くした親としては、「あの時、ああすれば、こうすれば」と、どうしても考えてしまうのだ。それが悲しい。

 神の寄託といへば適切でせうか、浄は立派な稟質を有つた子でありました。私ごとに死なしめてはならぬ子であつたとの思ひが肉身別離の感情の中に消すことが出来ずにをります。
 九鬼博士診(み)てたまひなば死なぬ子ぞ確信をもちて思ふなり今も
は歌にはならぬと思ひますが、ありのままの心であります。

九鬼先生に診てもらっていたらと考えることは、山野井をさらに苦しめたかもしれない。けれども、同時にそれは山野井にとって一種の救いでもあったように思うのである。

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2016年12月06日

山野井洋と幼児(その3)

必死の看病の甲斐もなく、山野井の子は2歳に満たない命を終えてしまう。「ポドゾル」昭和14年4月号には「幻の幼児」と題する山野井の作品10首が掲載されている。

光さす北のみどり野(ぬ)肩はばのたくましき子をしかとい抱きぬ
手ごたへのたしかなりしも夢なれや高あげし吾子(あこ)わが手になしも
子が逝きて四十九日のあけがたに命ある子を抱きし夢を見ぬ
病みてより門歯にはかにのびて見ゆ吾子(あこ)のあはれは妻にはいはず
春来(く)とも草は萌ゆとも我が家(いへ)に病みやつれたる妻と二人(ふたり)ぞ
いやいやと臨終(いまは)のきはに泣きたりしあはれを思ひ真夜に泣くかも

一連は夢の場面から始まる。「光さす北のみどり野」には生命力が溢れている。けれども、そこに出てきた子はもう亡くなっているのだ。

残された妻と二人きりの日々。折しも季節は春を迎えようとしている。けれども、愛する子はもうこの世にいない。

死ぬ間際にまるでいやいやするかのように泣いた子。近代短歌には子を亡くす親の歌が数多くあるが、山野井の歌も哀切きわまりない。

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2016年12月05日

山野井洋と幼児(その2)

その後、山野井の妻と幼児も東京に移り、三人の暮らしが始まったようだ。けれども、幼児は病気にかかり入院する事態となる。

「ポドゾル」昭和14年1月号に、山野井洋は「生命の苦闘」という文章を書いている。全文を引こう。

 十二月八日以来四十度の熱を出してゐる幼児の痛み声を聞きつつ本号を編輯した。
 急性肺炎と中耳炎と脳症を併発して慈恵医大付属東京病院の一室に、生きてゐるのが不思議と医師のいふ小さな生命の苦闘を看つつ、ただに慟哭するばかりである。
 本号がお手許に届く頃、この幼児の運命がどうなつてゐるであらうか? 生長途上の我がポドゾルが、かやうな私事に足踏してはならないが、新年を期してのいろいろのプランも、何も出来るものではなかつた。
 眠つてゐないのと十分の後をはかれぬ我が子にひかれる思ひがもつれて、何を書いてゐるか分らない、昭和十三年十二月十九日午前一時の私である。

何と悲痛な文章であろうか。

「坊や、坊や」と呼び掛けていたのは、わずか半年前のことである。その二歳にもならない幼児が、今は四十度の熱が続いて命の危機を迎えている。そんな中で山野井は「ポドゾル」を編集し、この文章を書いたのだ。

今から78年前の冬の夜のことである。

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2016年12月04日

山野井洋と幼児(その1)

「ポドゾル」の創刊は昭和12年6月。その一年後の昭和13年6月に、山野井洋は雑誌「樺太」の東京支社長として東京に赴任する。

妻と前年に生まれた幼い息子を樺太に残しての上京であったようだ。「ポドゾル」昭和13年8月号に山野井は「郷愁通信」と題して、次のような文章を書いている。

 豊原駅で抱つこして別れて来たばかりであるのに、どうしてかうも思はれるのであらう。微風に光る海の上に、幼な児の笑顔が見えるのである。
 坊や、坊や!
 坊や、坊や、坊や!
海に向つて呼べば、海の光と涙の中に坊やが浮んで来る。
 人により、環境により、子を思ふ心の深浅はあらうが、親心のかなしさが、このやうにはげしいものであらうとは――。

  汝(なれ)の顔海に見ゆるぞ波まくら音(ね)にさへ泣きて汝(な)を思ふ父ぞ

子を思ひつつ甲板に立てば、能登呂半島の稜線が海霧(がす)にかすんでゐる。

「能登呂半島」は樺太の南西端に伸びる半島。樺太から北海道へ渡る連絡船の上で、別れたばかりの息子を思い出して涙している姿である。何度も繰り返される「坊や!」という呼びかけがせつない。

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2016年12月03日

『樺太を訪れた歌人たち』


P1050327.JPG


『樺太を訪れた歌人たち』、販売中です。
アマゾン、三月書房(京都)、葉ね文庫(大阪)などにあります。

わが家にも在庫がありますので、注文を受け付けております。
masanao-m@m7.dion.ne.jp までメールして下さい。
代金は2500円(送料無料)。振込用紙を同封して送ります。

かなりマニアックなテーマですが、内容には自信があります。
樺太については私のライフワークとして、今後も引き続き調べていきたいと思っています。

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2016年12月02日

松村英一の樺太旅行

昭和12年の松村英一の樺太旅行については、『樺太を訪れた歌人たち』の「松村英一と国境線」に詳しく書いた。今回、それを補足する資料が見つかったので、引いておこう。

「樺太」昭和12年9月号の編集後記の山野井洋の文章より。

松村、柳田両氏を案内して国境へ、大泊へ、遠淵湖へ八眺嶺を越へ(ママ)て真岡へ、小沼へ、連日汽車自動車の強行軍、夜は歓迎の宴に時の経つのを忘れるといふ一週間あまりの旅は、近頃たのしい旅でしたが、この旅行前の十日ばかりを殆んど眠つてゐないやうな繁忙の中に身を置いたので、両氏を見送ると一時に疲れが出て厠に失神するやうなひどい痔出血、むし暑い真夏の夜を足をあたゝめなければ寝つくことが出来なかつた。

山野井が松村英一と柳田新太郎を案内して、樺太各地を回ったことがわかる。

もう一つは同じ号の「吸取紙」という情報欄から。執筆者は不明。

長浜郵便局長村松輝太郎氏は奥鉢山の宣伝にキチガヒのやうに努めてゐるが、先頃歌人松村英一氏を案内して、東海岸の愛朗岬かけて富内、池辺讃、和愛、遠淵の五湖を眺め中知床、能登岬と左右に開ける雄大な景観は
「富士五湖なぞとは比べものにならん立派なもので、交通の便が開ければ必ず有名になりますよ」
と折紙をつけられて嬉しくてたまらず。
「是非先生のお歌で天下に紹介して下さい」とたのみこむ。先の樺太庁林業課長今見氏も樺太の景観の中であれほど綜合的なものはないと賞めてゐた。
 
いわゆる「奥鉢五湖」の光景である。松村英一がこの景観を詠んだ歌は、後に奥鉢山に歌碑として建てられた。

その歌碑の現状を何とかして知りたい。もし、台座だけでもいいから、何か痕跡が残っているのなら、その調査のためにもう一度サハリンを訪れたいと思っている。

posted by 松村正直 at 21:53| Comment(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月01日

「ポドゾル」昭和14年4月号

「樺太短歌」も「ポドゾル」も、誌面は内地の結社誌とほとんど変わらない。一例として、「ポドゾル」昭和14年4月号の目次を載せておこう。

松村英一がゲストとして作品10首を寄せている。
松村は昭和12年に「ポドゾル」の山野井洋や九鬼左馬之助らの招きで樺太を訪れており、それ以来、付き合いがあったのだろう。

 目次 ポドゾル・第三巻・第四号・昭和十四年四月

 表紙絵 一ツ葉翁草・・・・・船崎光治郎
 扉絵・・・・・・・・・・・・・山本善市

 片品川小吟(短歌)・・・・・・松村英一(四)

 四月集(短歌)・・・・・・・・・・・・(六)
    蝦夷島にて・・・・・・九鬼左馬之助(六)
    幻の幼児・・・・・・・・・山野井洋(六)
    同じく・・・・・・・・・・平原みち(七)
    戦線のあけくれ・・・・・・山内京二(八)
    上京・・・・・・・・・・山口辰三郎(一〇)
    春雪・・・・・・・・・・・林 霞江(一一)
    病間記録・・・・・・・・・眞田光良(一二)
    雪山・・・・・・・・・・・小田真一(一三)
 四月集への挨拶(短歌)・・・・山野井洋(一五)
 雲心山房雑信(二十三)・・・・雲心学人(一八)
 万葉集解義異説・・・・・・・・藤井尚治(二〇)
 ポドゾル集(短歌)・・・・・・・・・・(二四)
    細井たま 澤田貞子 矢田部崇 小暮葉
    中西竹詞 松村初枝 南太郎 奥山龍禅
    廣谷千代太
 ポドゾル集に寄す(短評)・・・・・・・(二四)
 郷愁通信(南支戦線より)・・・山内京二(二七)
 北満開拓譜(短歌)・・・・・・・・・・(三二)
    平山美泉 窪田金平 塩澤準得 吉澤千代
    鈴木壽子 三木太郎 登坂裸風
 開拓譜に寄せて(短歌)・・・・山野井洋(三二)
 ポドゾルの帯(通信抄)・・・・・・・・(三四)
    鷲津ゆき 登坂裸風 阿部悦郎 柳田新太郎

 題字・裏表紙カツト・・・・・菅原道太郎


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2016年11月30日

「ポドゾル」!

昨日は全国樺太連盟の本部へ。

最寄り駅は「六本木一丁目」。近くには外務省飯倉公館やロシア大使館などがあり、あちこちに警備の人や車を見かける。東京に住んでいた頃にも行ったことがないエリアだ。

今回は樺太連盟が保存している資料の中から、短歌関係のものをいろいろと見せていただいた。


 P1050349.JPG

まずは「樺太短歌」。
昭和14年9月号、15年1月号、15年7月号。


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続いて「ポドゾル」。
昭和14年1月号、4月号、8月号。

5年くらい探し続けて実物を見たのはこれが初めて。
感激の初対面である。

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2016年11月11日

『樺太を訪れた歌人たち』 刊行!


  P1050327.JPG

『樺太を訪れた歌人たち』(ながらみ書房)が刊行されました。

「短歌往来」に連載した「樺太を訪れた歌人たち」に、書き下ろしの
「樺太在住の歌人」と「サハリン紀行」を加えました。

目次は以下の通りです。


 第一章 樺太を訪れた歌人たち
   北見志保子とオタスの杜
   松村英一と国境線
   北原白秋・吉植庄亮と海豹島
   橋本徳壽と冬の樺太
   生田花世と木材パルプ
   石榑千亦と帝国水難救済会
   出口王仁三郎と山火事
   土岐善麿と樺太文化
   下村海南と恵須取
   斎藤茂吉と養狐場

 第二章 樺太在住の歌人
   石川澄水『宗谷海峡』
   皆藤きみ子『仏桑華』
   新田寛『蝦夷山家 新田寛全歌集』
   野口薫明『凍て海』
   山野井洋『創作短歌 わが亜寒帯』
   山本寛太『北緯四十九度』

 第三章 サハリン紀行


定価は2500円。
お申込みは、松村 masanao-m@m7.dion.ne.jp または版元の
ながらみ書房までお願いします。

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2016年09月21日

10月号掲載情報など

短歌総合誌の10月号に、作品や評論を載せています。

・作品「王将について」20首(「現代短歌」10月号)
・評論「米と日本人」(「歌壇」10月号)
・エッセイ「樺太からの手紙」(「短歌往来」10月号)
・書評「時田則雄著『陽を翔るトラクター』」(角川「短歌」10月号)

どれも、かなり個人的な趣味に走っていて、あらためて読み直すのがこわくなります。

樺太と言えば、今季の稚内―サハリン航路が終了しました。
夏の間、14往復28便が運航されて511人が利用したとのこと。
来年以降もっと利用者が増えて、安定した航路になってほしいです。
http://mainichi.jp/articles/20160917/k00/00e/040/178000c

もう一つ樺太と言えば(!)、評論集『樺太を訪れた歌人たち』を刊行します。「短歌往来」10月号に「近刊」として広告が載っていますが、校正ゲラはまだ私の机に載っている状態。

急いでやんなきゃ。


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2016年07月09日

『海豹島』 のつづきのつづき

入手した句集『海豹島』は見返しに鈴鹿野風呂自筆の句が書いてある。

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 海豹島銀河の露をいのち水
         野風呂

海豹島には夏のあいだ監視員が駐在していたが、水はたいへん貴重なものであったようだ。「蝦夷行日誌」には次のように記されている。

水といへば島に井戸なく雨垂をためたものにて甕に満ちある濁り水も貴重で、他より来たものは使ふ気になれぬ。それでも同行の一婦人の化粧する水は惜しげもなく呉れる。

雨垂れを「銀河の露」と表現したところにスケールの大きさがある。

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2016年07月08日

『海豹島』 のつづき

樺太から北海道に戻ってきた鈴鹿野風呂は、8月18日に網走を訪れる。ちょうど港には鯨があがったところであった。

 鯨揚ぐ知らせの笛の長鳴りす
 捕鯨船舳の銛の日を返す
 高鳴れる轆轤に鯨あげらるゝ

「轆轤」と言うと茶碗でも作るように思ってしまうが、ウインチのことである。尾びれにロープを掛けて吊り上げるのだ。

 鯨さく長柄包丁両手もち
 鯨さく忽ち磯を赤にそめ
 割かれゆく鯨の肉のなだるゝよ

岸に揚げられた鯨は、その場ですぐに解体されたようだ。
海の水が血に赤く染まってゆく。

 鯨割く仔鯨出でゝいとしけれ
 鯨さく尼も遊女も見てゐたり

解体された鯨はメスだったようで、お腹の中から胎児の仔鯨が出てくる。
港には大勢の見物客が集まっていたようだ。
「尼も遊女も」の句が、一連20句の最後となっている。

ちなみに網走は、現在でも国内に残る数少ない捕鯨の町の一つである。
http://www.city.abashiri.hokkaido.jp

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2016年07月05日

鈴鹿野風呂句集 『海豹島』

鈴鹿野風呂は昭和15年8月8日から27日まで、北海道、樺太、東北をめぐる旅をしている。8日に京都を発ち、樺太に入ったのが12日。そして16日まで樺太に滞在した。

句集『海豹島』は、その旅で詠まれた俳句を集めたものであり、後半には「蝦夷行日誌(俳諧日誌)」も収められている。

 絶え間なく湧く霧に翔けロツペン島
 膃肭獣は吼えロツペン叫ぶ霧の島
 百の成牝(カウ)の王たる成牡(ブル)に秋日爛
 土に化す幾幼獣の屍に秋日
 目に涼しロツペン鳥の青卵子

タイトルともなった樺太の海豹(かいひょう)島を詠んだ句である。「海豹」はアザラシだが、実際はオットセイとロッペン鳥(ウミガラス)の繁殖地として有名な島だ。2句目の「膃肭獣」はオットセイ。今では「膃肭臍」と書くことが多い。

  P1050162.JPG

本の表紙も海豹島。
手前にはオットセイ、崖と空にはロッペン鳥。

  P1050163.JPG

裏表紙はロッペン鳥のアップ。
こうして見るとペンギンみたいだ。

昭和15年10月20日、京鹿子発行所、1円80銭。


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2016年06月14日

稚内―コルサコフ航路

昨年でハートランドフェリーによる営業が終了し、その後、存続が危ぶまれていた稚内―コルサコフ航路。今月に入って、ロシアの「サハリン海洋汽船」(SASCO)によって、夏の運航が行われる見通しとなった。

http://mainichi.jp/articles/20160614/ddl/k01/020/251000c

とりあえず、ホッとする。

でも、来年以降どうなるかはわからない。
利用客が増えないことには根本的な解決にはならないのだろう。

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2016年06月04日

朝日旅行「樺太(サハリン)文学セミナー」

今年の8月に朝日旅行の企画で、「樺太(サハリン)文学セミナー」が行われる。樺太と文学をからめたツアーで、全部で5つのコースがある。
http://www2.asahiryoko.com/djweb/TourList.aspx?mc=1A

Aコース 北原白秋と樺太の旅(松平盟子さん同行)
Bコース 山口誓子が過ごした樺太の旅
Cコース 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』の舞台を訪ねて
Dコース 樺太を深く知る旅
Eコース 南樺太(サハリン)周遊の旅

どのコースも楽しそう。
興味のある方は、ぜひ行ってみてください。

いよいよ樺太ブーム到来か!?

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2016年05月01日

杉村孝雄著 『樺太・遠景と近景』

副題は「歴史のはざまと暮らしの素顔」。

昭和4年に樺太の恵須取町で生まれ、昭和22年の引き揚げまで樺太で暮らした著者が、樺太に関する様々な出来事を調査してまとめた一冊。

日中戦争拡大の余波を受けて、国民学校と改称された小学校の修学旅行が中止に追い込まれ、幼い心に深い傷跡を残した出来事は、未だに脳裏を去ることはない。

と記す著者は、還暦を過ぎてからその空白を埋めようとするかのように、樺太について詳しく調べ始める。「樺太日日新聞」の記事を手掛かりに、興味を持った出来事を追究していくのである。

その対象は「エリクソン電話機」「リヨナイ山」「露国式カンジキ」「捕鯨船オルガ号」「カラフトマリモ」「ばれいしょ日の丸一号」など、かなりマニアックなものばかり。歴史の教科書や研究者の本には出て来ないような話が盛りだくさんである。

絵葉書や新聞の記事などの図版も数多く載っていて、当時の樺太の暮らしの様子がよく伝わってくる。372ページという厚さの本であるが、著者が楽しみながら書いているので、読んでいて飽きることがない。

2000年には続編も出ているとのことで、早速購入した。
また読むのが楽しみである。

1995年、私家版、2000円。

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2016年04月30日

狛犬を探して(その4)

樺太護国神社(当初は樺太招魂社)の創立は昭和10年。
狛犬もその時に作られたものだろう。
靖国神社の狛犬(昭和8年)と制作時期が近い。

しかも靖国神社と護国神社と言えば、本店と支店のようなもの。
もともと関わりが深い場所だ。

さらに調べてみると、サハリンの狛犬と靖国神社の狛犬は、どうやら同じ人が作ったものらしいことがわかった。

彫刻家、新海竹蔵(1897-1968)。

東京文化財研究所の記事
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9047.html
を見ると、

昭和8年 4月靖国神社に献納の狛犬(石彫)を作り13日、献納式。
昭和10年 9月樺太護国神社に建立の狛犬を製作する。

と書かれている。
同じ作者の兄弟狛犬(?)ということになる。

記事にはさらに、「昭和10年4月山形県護国神社社頭の狛犬成り24日献納式」という一文もある。山形に行く機会があったら、訪れてみたい。

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2016年04月29日

狛犬を探して(その3)

左右をよく見ながら参道を引き返す。

すると、大村益次郎の銅像のところから横へ抜ける道があり、靖国通りからの入口になっている。そこに狛犬がいた。

  P1050067.JPG

おお、この狛犬だ!
前肢の踏ん張り方や、後肢の位置、顔の表情など、確かに共通点がある。

狛犬学(?)においては「護国系」「招魂社系」などと分類されているらしい。
胸を張って、背筋が伸びているタイプ。

高い台座に載っているので、こちらも柵の上に乗って撮影する。
そうしないと、かなり下から見上げる角度になって、姿形がよくわからないのだ。近くに警備員の詰所があり、「そんなとこ乗っちゃダメ!」と怒られないかヒヤヒヤした。

  P1050064.JPG

制作は昭和8年。戦前の狛犬である。

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2016年04月28日

狛犬を探して(その2)

サハリンに残る狛犬が靖国神社の狛犬に似ているという話がある。
それを確かめるために靖国神社へ行ってみた。

P1050058.JPG

参道入口の狛犬。
全然、似ていない。

P1050059.JPG

第一鳥居の近くの狛犬。
これも全く似ていない。

その後、参道をずんずん進んで行くも狛犬はおらず、とうとう拝殿まで来てしまった。

あれ? 噂の狛犬はどこ?

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2016年04月26日

狛犬を探して(その1)


  P1040769.JPG

サハリン州郷土博物館の建物の入口には一対の狛犬が据えられている。
「なぜこんなところに狛犬が?」と思うのだが、これは戦後に樺太護国神社から持ってこられたものである。

戦前の樺太護国神社の絵葉書を見ると、確かにそれらしき狛犬が写っている。
http://www.himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=3119

神社は取り壊されてしまったが、狛犬だけは今もかろうじて生き残っているわけだ。

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2016年04月24日

国境とは

国境とは何か。
という問題に最近は関心があって、いくつか本を読んだりしている。

昭和7年の夏に斎藤茂吉は北海道に住む次兄を訪ね、そのついでに樺太まで足をのばした。まさに「ついで」という言葉がふさわしい2泊3日の行程であった。樺太の原生林を見たいという目的があったとはいえ、気軽に樺太に渡っているのである。

それはもちろん、樺太が日本領であったためである。当時の国境線は宗谷海峡ではなく、樺太の北緯五十度に引かれていた。

一方、今ではどうか。北海道旅行の「ついで」にサハリンを訪れる人は皆無である。サハリンは気軽に行ける場所ではなくなってしまった。

当り前の話だが、北海道とサハリンの地理的な距離が遠くなったわけではない。昔も今もサハリンは同じ場所にある。けれども、その間に引かれた国境というものが、私たちに心理的な距離感をもたらしているのである。

あるいは、こんな想像をしてみてはどうだろう。もし津軽海峡に国境線が引かれたとしたら。そうしたら、私たちは北海道という土地に心理的な距離感を覚えるようになるに違いない。

そんなことを考えて、先日、NPO法人国境地域研究センターというところに入会した。
http://borderlands.or.jp/index.html


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2016年04月18日

舟山廣治編著 『樺太庁博物館の歴史』

明治38年から昭和20年まで存在した樺太庁博物館の歴史を、法令、制度、建築、人物、出版物など様々な観点から解き明かした本。編著者は一般財団法人北海道北方博物館交流協会の理事長。同協会の理事が中心となって、分担執筆している。

菅原繁蔵、高橋多蔵、山本利雄など、樺太庁博物館と関わりの深い人々の事績についても詳しく記されていて、ありがたい。

樺太庁博物館の建物や資料は、戦後、ソ連(現ロシア)のサハリン州郷土博物館として使われている。昨年の夏に訪れた時も、予想以上に多くの人々で賑わっていた。

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旧樺太庁博物館に収蔵されていた膨大な量の博物館資料や設備が、サハリン州郷土博物館に再利用されたことは、戦火を交えた国家間での文化遺産継承の例として、あるいは、両国の博物館交流の上からも重要な歴史である。

歴史についての評価はともかく、現在も博物館として残っているのは嬉しいことだ。サハリン観光の目玉と言って良い場所である。

2013年3月31日、北海道北方博物館交流協会、2000円。

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2016年04月11日

アインス宗谷

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昨年の夏にサハリンを旅行した時、往路は稚内からフェリーで行った。
戦前の稚泊航路(稚内―大泊)と同じ、稚内―コルサコフの航路である。
その時に乗った船が写真の「アインス宗谷」。

昨年9月に運航会社であったハートランドフェリーがサハリン航路から撤退。第3セクターが運航を引き継ぐという話であったが、結局まとまらず、今季の定期便の運航はなしということになった。

さらに、アインス宗谷もフィリピンの会社へと売却され、今後はフィリピンの島々を結ぶ船となるらしい。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0256429.html?df=1

現状では、船でサハリンへ行くことはできない。
(千歳空港からの航空便はある)
サハリン航路の復活と、アインス宗谷の第2の人生の無事を祈るばかりだ。

posted by 松村正直 at 07:08| Comment(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする