2017年03月13日

戦後の山野井洋

『樺太を訪れた歌人たち』を書いた時点では、戦後の山野井洋のことはほとんどわからなかったのだが、先日の東京での聞き取りを含めて随分とわかってきた。

山野井が「山野井博史」の名でも作品を発表していたという事実を手掛かりに、今回二つの資料を入手した。

一つは新日本歌人協会編『人民短歌選集』(伊藤書店、1948)。
赤木健介、大岡博、岡部文夫、小名木綱夫、窪田章一郎、館山一子、坪野哲久、土岐善麿、中野菊夫、矢代東村、山田あき、渡辺順三ら53名のアンソロジーである。

その中に、山野井博史「戦後」20首がある。

ねずみの巣の如き屋根裏をわが家と妻子とくらす『焼け出され』われは
雨風のただに吹きこむ屋根裏も我が家と思う住みつかんとす

という戦後の厳しい生活を詠んだ歌がある一方で、

私が盗んだのだからわるいのよといいながら死んでいつたと書いてある南瓜ひとつ
性欲も食欲も充たされぬままのその眼の色をさげすんで済むことではない

など、自由律のような作品も含まれている。

もう一つは、山野井博文作詞、山田耕筰作曲の「つばくろの秋」「焦土の秋」である。「つばくろの秋」は1945年9月の作品(初出は『音楽文化』3巻2号、1945年10・11月号)で、山田耕筰が戦後最初に手掛けたものであるらしい。「焦土の秋」も同じ時期のもの。

葉桜の 南の風に
かえり来し つばくろよ
宮居(みやい)をめぐる いらかはいずこ
焼けにし跡に 緑はめぐむ
火の雨に 燃えしと知らず
さまよえる つばくろよ
やさしき人の 住居(すまい)はいずこ
焼けにし跡に 柳は揺るる

「つばくろの歌」の1番と3番を引いた。
5・7・5・5・7・7・7・7という音数になっている。
空襲で焼けてしまった東京の町にやって来た燕を詠んだ内容だ。

山野井洋と山田耕筰、二人の接点はどこにあったのだろうか。

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2017年03月06日

山野井洋のこと

『樺太を訪れた歌人たち』の中で、山野井洋という歌人のことを取り上げた。これまで詳しい経歴などがほとんど知られていなかった人物である。

その山野井洋のご子息とたまたま連絡を取ることができ、おととい東京でお会いしてお話をうかがってきた。何とも言えず嬉しい。

いくつもの新たな情報を得ることができたので、備忘のために書いておきたい。

○1908年生まれ、1991年逝去(82歳)。
○歌集『わが亜寒帯』の再版本には、初版にはない「批評抄」が付いている。
○昭和13年に樺太から東京に移って以降は東京暮らし。第2歌集で満州の開拓地を詠んでいるのは、旅行による滞在の結果である。
○戦後は保険の業界紙のコラムを書くなど、文筆業で生計を立てた。
○「山野井博史」の名でも作品を発表しており、山野井作詞・山田耕筰作曲の曲がいくつか残されている。

今回お聞きした話をもとに、今後もさらに調査研究を続けていきたい。

posted by 松村正直 at 23:45| Comment(2) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月28日

『樺太を訪れた歌人たち』の書評

『樺太を訪れた歌人たち』について、書評等で取り上げていただきました。ありがとうございます。

・内田弘「なぜ樺太か」(「現代短歌新聞」2017年2月号)
・田中綾「書棚から本を」(「北海道新聞」2017年1月29日)
・高木佳子「時代と国と人のありよう」(「短歌往来」2017年3月号)
・田村元「短歌と樺太」(「りとむ」2017年3月号)

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2017年02月13日

『樺太を訪れた歌人たち』覚書

中西亮太さんがブログ「和爾、ネコ、ウタ」で「松村正直『樺太を訪れた歌人たち』覚書」を書いて下さっています。

http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-333.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-334.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-339.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-341.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-346.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-347.html

とても丁寧に読んでいただき、ありがとうございます。

posted by 松村正直 at 20:44| Comment(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月14日

『樺太を訪れた歌人たち』 再版の予定


『樺太を訪れた歌人たち』が amazon で売り切れており、書店でも入手が難しくなっているようです。今月末に再版される予定ですので、しばらくお待ちください。

わが家にまだ少し在庫がありますので、早く入手したいという方は、masanao-m@m7.dion.ne.jp (松村) までご連絡ください。
よろしくお願いします。

posted by 松村正直 at 19:23| Comment(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

北方領土問題と樺太

先月、ロシアのプーチン大統領が来日したが、北方領土問題について特に進展は見られなかった。残念なことである。

実は、この北方領土問題は樺太とも深い関わりがある。

一つは、ロシアの行政区分において、北方領土は樺太と同じ「サハリン州」に属しているという事実である。サハリン(樺太)と北方領土の間には船や飛行機の定期便が就航し、人々や貨物が行き交っている。

 サハリン州旗.png
 (サハリン州旗)

もう一つは、北方領土も樺太も帰属が確定していないという共通点である。日本で発行されている地図において、南樺太(北緯50度以南)と千島列島(ウルップ島以北)は白抜きとなっていることが多い。

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 (外務省のHPより)

これは、1951年のサンフランシスコ講和条約によって日本は南樺太と千島列島に関する権利をすべて放棄したものの、この条約にソ連・ロシアは加わっておらず、「南樺太及び千島列島の最終的な帰属は未定である」というのが日本政府の公式見解であるからだ。

これは、戦後70年以上が過ぎた今も変っていない。ロシアとの平和条約が結ばれるまでは、4島の帰属が決まらないだけでなく、南樺太や千島列島も実は「帰属は未定」の状態に置かれているのである。

この「帰属は未定」という、いわば宙吊りの状態に置かれてきたことこそが、樺太が近くて遠い場所になってしまった一番大きな理由なのだろうと思う。

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2016年12月26日

書評委員が選んだ「今年の3点」


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昨日の朝日新聞の書評委員が選んだ「今年の3点」の中で、評論家・ジャーナリストの武田徹さんが『樺太を訪れた歌人たち』を挙げて下さっています。

歌人の著者が往年の歌人たちの足跡を辿(たど)った。歌に結晶していた「日本帝国北限の領土」の記憶と記録が時を跨(また)いで蘇(よみがえ)る感覚が鮮やか。

短歌や歌人という枠を超えて、広く多くの方々に読んでいただけると嬉しいです。


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2016年12月25日

杉村孝雄著 『樺太 暮らしの断層』

副題に「遠景と近景・第二集」とある。
前作『樺太・遠景と近景』の続編にあたる一冊だ。http://matsutanka.seesaa.net/article/437398945.html

昭和4年に樺太の恵須取町で生まれ、昭和22年に北海道に引き揚げてきた著者は、定年退職後にふるさと樺太の歴史を調べ始める。在野の郷土史研究家と言っていいだろう。

「樺太日日新聞」や樺太で発行された絵葉書のほか、戦前の貴重な本や資料を丹念に収集して一つ一つの出来事を執拗なまでに追いかけていく。文章はあまり上手とは言えないが、とにかく凄い努力である。

今回取り上げられている話題は

・アメリカに渡った答礼人形「ミス樺太」
・飛行船ツェッペリン号の樺太航跡図
・樺太に連行された中国人や朝鮮人のための協和国語読本
・樺太におけるケシ栽培とアヘンの生産
・銅像になった樺太庁第3代長官平岡定太郎

など、いずれもディープでマニアックな話ばかり。それだけに初めて聞く話も多く、樺太好きにはたまらない一冊となっている。

今回の一番の収穫は、樺太庁長官を務めた平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)が、樺太を詠んだ短歌を残しているという事実である。

卯の花の咲つる夏になりぬれどなほ風寒し豊原の里
多来加の波も敷香に納まれと祈るは己が願なりけり
うち返す波音も高しヲコックの島のあたりのヲットセの声

1首目の「豊原」は樺太庁の置かれた中心都市。
2首目の「多来加」(たらいか)は湾の名前。「敷香」(しすか)に「静か」を掛けている。
3首目の「ヲコック」はオホーツク海のこと。

平岡定太郎の短歌については、もう少し調べてみたいと思う。

2000年11月13日、私家版。

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2016年12月10日

山野井洋と幼児(その7)

「ポドゾル」の編集をしていた山野井洋は、幼い一人息子を病気で亡くしてしまう。先に引いた「四月集への挨拶」の続きに、山野井はこんな決意を記している。

 浄を死なしめてよりひとしほ、私は亜寒帯への使命感を覚えて居ります。ささやかな志の一端として、本誌の編輯にもいよいよ心を籠めてゆきたいと思ひます。
 浄と同じ年のこのポドゾルは私の力のつづく限り伸ばしてゆきたく、文化的にも意義のあるものにしたいと切に思つてをります。

「ポドゾル」が創刊された昭和12年は山野井の息子の浄が生まれた年でもあったのだ。その息子が亡くなり、「ポドゾル」は山野井にとって息子代わりの存在になったのだろう。

         *

その後の「ポドゾル」についてであるが、太平洋戦争開戦後の昭和17年6月に樺太歌壇を二分していた「樺太短歌」と合流し、「ポドゾル」の名前は消えることになる。その「樺太短歌」もまた、昭和20年6月号で終刊のやむなきに至った。

「ポドゾル」も「樺太短歌」も幻の雑誌と言ってよいほど、現物が残っていない。その一つの理由として、戦後樺太がソ連に占領され、日本人が引き揚げる際に雑誌等の持ち出しが禁じられたことが挙げられる。わずかに残っている雑誌は、終戦前に内地に転居した人が保存していたものということになる。

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2016年12月09日

山野井洋と幼児(その6)

山野井洋と九鬼左馬之助の深い関わりを示す資料を一つ。

山野井の歌集『わが亜寒帯』(昭和11年)を古本屋で入手したところ、見返しに献辞が書かれていた。

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「この歌集を生ましめたまへる
 九鬼左馬之助先生に捧ぐ
            著者」

なんと、山野井洋が九鬼左馬之助に贈った一冊であったのだ。

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2016年12月08日

山野井洋と幼児(その5)

山野井洋はまだ樺太に住んでいた頃、『樺太人物論』(昭和12年)所収の「九鬼左馬之助論」に、こんなことを書いている。

 樺太庁関係の役人の中で彼くらゐ覇気にみちた鼻ツぱりの強い男はなからう。彼の覇気とは単なる強がりでなくて、身うちにあり余る実力と情熱の噴出の謂である。
 彼の魅力は彼が未完成の人物だといふ感じをすぐ対者に与へながら、とてつもなく博学であり、人の眼の玉を射るごとくみつめながらズバズバ物をいふ、将来大成する器かも知れぬといふ感じは、彼と対座してゐて大ていの人は思はせられるらしい。

山野井が九鬼という人間を非常に高く評価している様子が伝わってくる文章だ。さらに、こんなエピソードも書いている。

昨年の話、或人が腎臓を悪くして、はるばる東大へ診て貰ひに出掛けたところ
「腎臓だつたら何も旅費をかけて東京くんだりまで来るには及ばん。樺太には日本一の腎臓の博士がゐる。」と教へられて樺太へ舞ひ戻り、彼の治療を受けたといふ実話がある。

山野井が息子を九鬼に診てもらえばと思った背景には、こういう話があったのである。

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2016年12月07日

山野井洋と幼児(その4)

「ポドゾル」昭和14年4月号には、山野井洋の「四月集への挨拶」という文章も載っている。その中で、山野井は盟友である九鬼左馬之助(雲心学人)について、こんなふうに書いている。

 浄が入院中電報でご病状を見舞つて下すつた時
 コワバレルアコノテアシヲサスリツツ、クキセンセイハ、ハルカナリケリ
と病状に添へて御返電申上ましたが、実はとつおひつ思ひ悩んで次の文言を控へたのでありました。
 ワレ一セウノネガヒナリ、ヒカウキニテオイデコフ
しかし、今は打てば良かつた、おいで願へずとも諦めがついたであらうと話し合つてゐます。かへりみれば手ちがひばかりして死ぬべからざる子を死なしめました。

九鬼は樺太庁立豊原病院長を務める医師であった。樺太から東京までは随分と遠い。九鬼も忙しい身である。それでもなお、病気の子を診てもらうように頼めば良かったという後悔である。

もちろん、九鬼が診たところでおそらくは助からなかった命であろう。でも、子を亡くした親としては、「あの時、ああすれば、こうすれば」と、どうしても考えてしまうのだ。それが悲しい。

 神の寄託といへば適切でせうか、浄は立派な稟質を有つた子でありました。私ごとに死なしめてはならぬ子であつたとの思ひが肉身別離の感情の中に消すことが出来ずにをります。
 九鬼博士診(み)てたまひなば死なぬ子ぞ確信をもちて思ふなり今も
は歌にはならぬと思ひますが、ありのままの心であります。

九鬼先生に診てもらっていたらと考えることは、山野井をさらに苦しめたかもしれない。けれども、同時にそれは山野井にとって一種の救いでもあったように思うのである。

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2016年12月06日

山野井洋と幼児(その3)

必死の看病の甲斐もなく、山野井の子は2歳に満たない命を終えてしまう。「ポドゾル」昭和14年4月号には「幻の幼児」と題する山野井の作品10首が掲載されている。

光さす北のみどり野(ぬ)肩はばのたくましき子をしかとい抱きぬ
手ごたへのたしかなりしも夢なれや高あげし吾子(あこ)わが手になしも
子が逝きて四十九日のあけがたに命ある子を抱きし夢を見ぬ
病みてより門歯にはかにのびて見ゆ吾子(あこ)のあはれは妻にはいはず
春来(く)とも草は萌ゆとも我が家(いへ)に病みやつれたる妻と二人(ふたり)ぞ
いやいやと臨終(いまは)のきはに泣きたりしあはれを思ひ真夜に泣くかも

一連は夢の場面から始まる。「光さす北のみどり野」には生命力が溢れている。けれども、そこに出てきた子はもう亡くなっているのだ。

残された妻と二人きりの日々。折しも季節は春を迎えようとしている。けれども、愛する子はもうこの世にいない。

死ぬ間際にまるでいやいやするかのように泣いた子。近代短歌には子を亡くす親の歌が数多くあるが、山野井の歌も哀切きわまりない。

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2016年12月05日

山野井洋と幼児(その2)

その後、山野井の妻と幼児も東京に移り、三人の暮らしが始まったようだ。けれども、幼児は病気にかかり入院する事態となる。

「ポドゾル」昭和14年1月号に、山野井洋は「生命の苦闘」という文章を書いている。全文を引こう。

 十二月八日以来四十度の熱を出してゐる幼児の痛み声を聞きつつ本号を編輯した。
 急性肺炎と中耳炎と脳症を併発して慈恵医大付属東京病院の一室に、生きてゐるのが不思議と医師のいふ小さな生命の苦闘を看つつ、ただに慟哭するばかりである。
 本号がお手許に届く頃、この幼児の運命がどうなつてゐるであらうか? 生長途上の我がポドゾルが、かやうな私事に足踏してはならないが、新年を期してのいろいろのプランも、何も出来るものではなかつた。
 眠つてゐないのと十分の後をはかれぬ我が子にひかれる思ひがもつれて、何を書いてゐるか分らない、昭和十三年十二月十九日午前一時の私である。

何と悲痛な文章であろうか。

「坊や、坊や」と呼び掛けていたのは、わずか半年前のことである。その二歳にもならない幼児が、今は四十度の熱が続いて命の危機を迎えている。そんな中で山野井は「ポドゾル」を編集し、この文章を書いたのだ。

今から78年前の冬の夜のことである。

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2016年12月04日

山野井洋と幼児(その1)

「ポドゾル」の創刊は昭和12年6月。その一年後の昭和13年6月に、山野井洋は雑誌「樺太」の東京支社長として東京に赴任する。

妻と前年に生まれた幼い息子を樺太に残しての上京であったようだ。「ポドゾル」昭和13年8月号に山野井は「郷愁通信」と題して、次のような文章を書いている。

 豊原駅で抱つこして別れて来たばかりであるのに、どうしてかうも思はれるのであらう。微風に光る海の上に、幼な児の笑顔が見えるのである。
 坊や、坊や!
 坊や、坊や、坊や!
海に向つて呼べば、海の光と涙の中に坊やが浮んで来る。
 人により、環境により、子を思ふ心の深浅はあらうが、親心のかなしさが、このやうにはげしいものであらうとは――。

  汝(なれ)の顔海に見ゆるぞ波まくら音(ね)にさへ泣きて汝(な)を思ふ父ぞ

子を思ひつつ甲板に立てば、能登呂半島の稜線が海霧(がす)にかすんでゐる。

「能登呂半島」は樺太の南西端に伸びる半島。樺太から北海道へ渡る連絡船の上で、別れたばかりの息子を思い出して涙している姿である。何度も繰り返される「坊や!」という呼びかけがせつない。

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2016年12月03日

『樺太を訪れた歌人たち』


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『樺太を訪れた歌人たち』、販売中です。
アマゾン、三月書房(京都)、葉ね文庫(大阪)などにあります。

わが家にも在庫がありますので、注文を受け付けております。
masanao-m@m7.dion.ne.jp までメールして下さい。
代金は2500円(送料無料)。振込用紙を同封して送ります。

かなりマニアックなテーマですが、内容には自信があります。
樺太については私のライフワークとして、今後も引き続き調べていきたいと思っています。

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2016年12月02日

松村英一の樺太旅行

昭和12年の松村英一の樺太旅行については、『樺太を訪れた歌人たち』の「松村英一と国境線」に詳しく書いた。今回、それを補足する資料が見つかったので、引いておこう。

「樺太」昭和12年9月号の編集後記の山野井洋の文章より。

松村、柳田両氏を案内して国境へ、大泊へ、遠淵湖へ八眺嶺を越へ(ママ)て真岡へ、小沼へ、連日汽車自動車の強行軍、夜は歓迎の宴に時の経つのを忘れるといふ一週間あまりの旅は、近頃たのしい旅でしたが、この旅行前の十日ばかりを殆んど眠つてゐないやうな繁忙の中に身を置いたので、両氏を見送ると一時に疲れが出て厠に失神するやうなひどい痔出血、むし暑い真夏の夜を足をあたゝめなければ寝つくことが出来なかつた。

山野井が松村英一と柳田新太郎を案内して、樺太各地を回ったことがわかる。

もう一つは同じ号の「吸取紙」という情報欄から。執筆者は不明。

長浜郵便局長村松輝太郎氏は奥鉢山の宣伝にキチガヒのやうに努めてゐるが、先頃歌人松村英一氏を案内して、東海岸の愛朗岬かけて富内、池辺讃、和愛、遠淵の五湖を眺め中知床、能登岬と左右に開ける雄大な景観は
「富士五湖なぞとは比べものにならん立派なもので、交通の便が開ければ必ず有名になりますよ」
と折紙をつけられて嬉しくてたまらず。
「是非先生のお歌で天下に紹介して下さい」とたのみこむ。先の樺太庁林業課長今見氏も樺太の景観の中であれほど綜合的なものはないと賞めてゐた。
 
いわゆる「奥鉢五湖」の光景である。松村英一がこの景観を詠んだ歌は、後に奥鉢山に歌碑として建てられた。

その歌碑の現状を何とかして知りたい。もし、台座だけでもいいから、何か痕跡が残っているのなら、その調査のためにもう一度サハリンを訪れたいと思っている。

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2016年12月01日

「ポドゾル」昭和14年4月号

「樺太短歌」も「ポドゾル」も、誌面は内地の結社誌とほとんど変わらない。一例として、「ポドゾル」昭和14年4月号の目次を載せておこう。

松村英一がゲストとして作品10首を寄せている。
松村は昭和12年に「ポドゾル」の山野井洋や九鬼左馬之助らの招きで樺太を訪れており、それ以来、付き合いがあったのだろう。

 目次 ポドゾル・第三巻・第四号・昭和十四年四月

 表紙絵 一ツ葉翁草・・・・・船崎光治郎
 扉絵・・・・・・・・・・・・・山本善市

 片品川小吟(短歌)・・・・・・松村英一(四)

 四月集(短歌)・・・・・・・・・・・・(六)
    蝦夷島にて・・・・・・九鬼左馬之助(六)
    幻の幼児・・・・・・・・・山野井洋(六)
    同じく・・・・・・・・・・平原みち(七)
    戦線のあけくれ・・・・・・山内京二(八)
    上京・・・・・・・・・・山口辰三郎(一〇)
    春雪・・・・・・・・・・・林 霞江(一一)
    病間記録・・・・・・・・・眞田光良(一二)
    雪山・・・・・・・・・・・小田真一(一三)
 四月集への挨拶(短歌)・・・・山野井洋(一五)
 雲心山房雑信(二十三)・・・・雲心学人(一八)
 万葉集解義異説・・・・・・・・藤井尚治(二〇)
 ポドゾル集(短歌)・・・・・・・・・・(二四)
    細井たま 澤田貞子 矢田部崇 小暮葉
    中西竹詞 松村初枝 南太郎 奥山龍禅
    廣谷千代太
 ポドゾル集に寄す(短評)・・・・・・・(二四)
 郷愁通信(南支戦線より)・・・山内京二(二七)
 北満開拓譜(短歌)・・・・・・・・・・(三二)
    平山美泉 窪田金平 塩澤準得 吉澤千代
    鈴木壽子 三木太郎 登坂裸風
 開拓譜に寄せて(短歌)・・・・山野井洋(三二)
 ポドゾルの帯(通信抄)・・・・・・・・(三四)
    鷲津ゆき 登坂裸風 阿部悦郎 柳田新太郎

 題字・裏表紙カツト・・・・・菅原道太郎


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2016年11月30日

「ポドゾル」!

昨日は全国樺太連盟の本部へ。

最寄り駅は「六本木一丁目」。近くには外務省飯倉公館やロシア大使館などがあり、あちこちに警備の人や車を見かける。東京に住んでいた頃にも行ったことがないエリアだ。

今回は樺太連盟が保存している資料の中から、短歌関係のものをいろいろと見せていただいた。


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まずは「樺太短歌」。
昭和14年9月号、15年1月号、15年7月号。


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続いて「ポドゾル」。
昭和14年1月号、4月号、8月号。

5年くらい探し続けて実物を見たのはこれが初めて。
感激の初対面である。

posted by 松村正直 at 23:24| Comment(2) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月11日

『樺太を訪れた歌人たち』 刊行!


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『樺太を訪れた歌人たち』(ながらみ書房)が刊行されました。

「短歌往来」に連載した「樺太を訪れた歌人たち」に、書き下ろしの
「樺太在住の歌人」と「サハリン紀行」を加えました。

目次は以下の通りです。


 第一章 樺太を訪れた歌人たち
   北見志保子とオタスの杜
   松村英一と国境線
   北原白秋・吉植庄亮と海豹島
   橋本徳壽と冬の樺太
   生田花世と木材パルプ
   石榑千亦と帝国水難救済会
   出口王仁三郎と山火事
   土岐善麿と樺太文化
   下村海南と恵須取
   斎藤茂吉と養狐場

 第二章 樺太在住の歌人
   石川澄水『宗谷海峡』
   皆藤きみ子『仏桑華』
   新田寛『蝦夷山家 新田寛全歌集』
   野口薫明『凍て海』
   山野井洋『創作短歌 わが亜寒帯』
   山本寛太『北緯四十九度』

 第三章 サハリン紀行


定価は2500円。
お申込みは、松村 masanao-m@m7.dion.ne.jp または版元の
ながらみ書房までお願いします。

posted by 松村正直 at 12:59| Comment(2) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月21日

10月号掲載情報など

短歌総合誌の10月号に、作品や評論を載せています。

・作品「王将について」20首(「現代短歌」10月号)
・評論「米と日本人」(「歌壇」10月号)
・エッセイ「樺太からの手紙」(「短歌往来」10月号)
・書評「時田則雄著『陽を翔るトラクター』」(角川「短歌」10月号)

どれも、かなり個人的な趣味に走っていて、あらためて読み直すのがこわくなります。

樺太と言えば、今季の稚内―サハリン航路が終了しました。
夏の間、14往復28便が運航されて511人が利用したとのこと。
来年以降もっと利用者が増えて、安定した航路になってほしいです。
http://mainichi.jp/articles/20160917/k00/00e/040/178000c

もう一つ樺太と言えば(!)、評論集『樺太を訪れた歌人たち』を刊行します。「短歌往来」10月号に「近刊」として広告が載っていますが、校正ゲラはまだ私の机に載っている状態。

急いでやんなきゃ。


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2016年07月09日

『海豹島』 のつづきのつづき

入手した句集『海豹島』は見返しに鈴鹿野風呂自筆の句が書いてある。

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 海豹島銀河の露をいのち水
         野風呂

海豹島には夏のあいだ監視員が駐在していたが、水はたいへん貴重なものであったようだ。「蝦夷行日誌」には次のように記されている。

水といへば島に井戸なく雨垂をためたものにて甕に満ちある濁り水も貴重で、他より来たものは使ふ気になれぬ。それでも同行の一婦人の化粧する水は惜しげもなく呉れる。

雨垂れを「銀河の露」と表現したところにスケールの大きさがある。

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2016年07月08日

『海豹島』 のつづき

樺太から北海道に戻ってきた鈴鹿野風呂は、8月18日に網走を訪れる。ちょうど港には鯨があがったところであった。

 鯨揚ぐ知らせの笛の長鳴りす
 捕鯨船舳の銛の日を返す
 高鳴れる轆轤に鯨あげらるゝ

「轆轤」と言うと茶碗でも作るように思ってしまうが、ウインチのことである。尾びれにロープを掛けて吊り上げるのだ。

 鯨さく長柄包丁両手もち
 鯨さく忽ち磯を赤にそめ
 割かれゆく鯨の肉のなだるゝよ

岸に揚げられた鯨は、その場ですぐに解体されたようだ。
海の水が血に赤く染まってゆく。

 鯨割く仔鯨出でゝいとしけれ
 鯨さく尼も遊女も見てゐたり

解体された鯨はメスだったようで、お腹の中から胎児の仔鯨が出てくる。
港には大勢の見物客が集まっていたようだ。
「尼も遊女も」の句が、一連20句の最後となっている。

ちなみに網走は、現在でも国内に残る数少ない捕鯨の町の一つである。
http://www.city.abashiri.hokkaido.jp

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2016年07月05日

鈴鹿野風呂句集 『海豹島』

鈴鹿野風呂は昭和15年8月8日から27日まで、北海道、樺太、東北をめぐる旅をしている。8日に京都を発ち、樺太に入ったのが12日。そして16日まで樺太に滞在した。

句集『海豹島』は、その旅で詠まれた俳句を集めたものであり、後半には「蝦夷行日誌(俳諧日誌)」も収められている。

 絶え間なく湧く霧に翔けロツペン島
 膃肭獣は吼えロツペン叫ぶ霧の島
 百の成牝(カウ)の王たる成牡(ブル)に秋日爛
 土に化す幾幼獣の屍に秋日
 目に涼しロツペン鳥の青卵子

タイトルともなった樺太の海豹(かいひょう)島を詠んだ句である。「海豹」はアザラシだが、実際はオットセイとロッペン鳥(ウミガラス)の繁殖地として有名な島だ。2句目の「膃肭獣」はオットセイ。今では「膃肭臍」と書くことが多い。

  P1050162.JPG

本の表紙も海豹島。
手前にはオットセイ、崖と空にはロッペン鳥。

  P1050163.JPG

裏表紙はロッペン鳥のアップ。
こうして見るとペンギンみたいだ。

昭和15年10月20日、京鹿子発行所、1円80銭。


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2016年06月14日

稚内―コルサコフ航路

昨年でハートランドフェリーによる営業が終了し、その後、存続が危ぶまれていた稚内―コルサコフ航路。今月に入って、ロシアの「サハリン海洋汽船」(SASCO)によって、夏の運航が行われる見通しとなった。

http://mainichi.jp/articles/20160614/ddl/k01/020/251000c

とりあえず、ホッとする。

でも、来年以降どうなるかはわからない。
利用客が増えないことには根本的な解決にはならないのだろう。

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2016年06月04日

朝日旅行「樺太(サハリン)文学セミナー」

今年の8月に朝日旅行の企画で、「樺太(サハリン)文学セミナー」が行われる。樺太と文学をからめたツアーで、全部で5つのコースがある。
http://www2.asahiryoko.com/djweb/TourList.aspx?mc=1A

Aコース 北原白秋と樺太の旅(松平盟子さん同行)
Bコース 山口誓子が過ごした樺太の旅
Cコース 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』の舞台を訪ねて
Dコース 樺太を深く知る旅
Eコース 南樺太(サハリン)周遊の旅

どのコースも楽しそう。
興味のある方は、ぜひ行ってみてください。

いよいよ樺太ブーム到来か!?

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2016年05月01日

杉村孝雄著 『樺太・遠景と近景』

副題は「歴史のはざまと暮らしの素顔」。

昭和4年に樺太の恵須取町で生まれ、昭和22年の引き揚げまで樺太で暮らした著者が、樺太に関する様々な出来事を調査してまとめた一冊。

日中戦争拡大の余波を受けて、国民学校と改称された小学校の修学旅行が中止に追い込まれ、幼い心に深い傷跡を残した出来事は、未だに脳裏を去ることはない。

と記す著者は、還暦を過ぎてからその空白を埋めようとするかのように、樺太について詳しく調べ始める。「樺太日日新聞」の記事を手掛かりに、興味を持った出来事を追究していくのである。

その対象は「エリクソン電話機」「リヨナイ山」「露国式カンジキ」「捕鯨船オルガ号」「カラフトマリモ」「ばれいしょ日の丸一号」など、かなりマニアックなものばかり。歴史の教科書や研究者の本には出て来ないような話が盛りだくさんである。

絵葉書や新聞の記事などの図版も数多く載っていて、当時の樺太の暮らしの様子がよく伝わってくる。372ページという厚さの本であるが、著者が楽しみながら書いているので、読んでいて飽きることがない。

2000年には続編も出ているとのことで、早速購入した。
また読むのが楽しみである。

1995年、私家版、2000円。

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2016年04月30日

狛犬を探して(その4)

樺太護国神社(当初は樺太招魂社)の創立は昭和10年。
狛犬もその時に作られたものだろう。
靖国神社の狛犬(昭和8年)と制作時期が近い。

しかも靖国神社と護国神社と言えば、本店と支店のようなもの。
もともと関わりが深い場所だ。

さらに調べてみると、サハリンの狛犬と靖国神社の狛犬は、どうやら同じ人が作ったものらしいことがわかった。

彫刻家、新海竹蔵(1897-1968)。

東京文化財研究所の記事
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9047.html
を見ると、

昭和8年 4月靖国神社に献納の狛犬(石彫)を作り13日、献納式。
昭和10年 9月樺太護国神社に建立の狛犬を製作する。

と書かれている。
同じ作者の兄弟狛犬(?)ということになる。

記事にはさらに、「昭和10年4月山形県護国神社社頭の狛犬成り24日献納式」という一文もある。山形に行く機会があったら、訪れてみたい。

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2016年04月29日

狛犬を探して(その3)

左右をよく見ながら参道を引き返す。

すると、大村益次郎の銅像のところから横へ抜ける道があり、靖国通りからの入口になっている。そこに狛犬がいた。

  P1050067.JPG

おお、この狛犬だ!
前肢の踏ん張り方や、後肢の位置、顔の表情など、確かに共通点がある。

狛犬学(?)においては「護国系」「招魂社系」などと分類されているらしい。
胸を張って、背筋が伸びているタイプ。

高い台座に載っているので、こちらも柵の上に乗って撮影する。
そうしないと、かなり下から見上げる角度になって、姿形がよくわからないのだ。近くに警備員の詰所があり、「そんなとこ乗っちゃダメ!」と怒られないかヒヤヒヤした。

  P1050064.JPG

制作は昭和8年。戦前の狛犬である。

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2016年04月28日

狛犬を探して(その2)

サハリンに残る狛犬が靖国神社の狛犬に似ているという話がある。
それを確かめるために靖国神社へ行ってみた。

P1050058.JPG

参道入口の狛犬。
全然、似ていない。

P1050059.JPG

第一鳥居の近くの狛犬。
これも全く似ていない。

その後、参道をずんずん進んで行くも狛犬はおらず、とうとう拝殿まで来てしまった。

あれ? 噂の狛犬はどこ?

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2016年04月26日

狛犬を探して(その1)


  P1040769.JPG

サハリン州郷土博物館の建物の入口には一対の狛犬が据えられている。
「なぜこんなところに狛犬が?」と思うのだが、これは戦後に樺太護国神社から持ってこられたものである。

戦前の樺太護国神社の絵葉書を見ると、確かにそれらしき狛犬が写っている。
http://www.himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=3119

神社は取り壊されてしまったが、狛犬だけは今もかろうじて生き残っているわけだ。

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2016年04月24日

国境とは

国境とは何か。
という問題に最近は関心があって、いくつか本を読んだりしている。

昭和7年の夏に斎藤茂吉は北海道に住む次兄を訪ね、そのついでに樺太まで足をのばした。まさに「ついで」という言葉がふさわしい2泊3日の行程であった。樺太の原生林を見たいという目的があったとはいえ、気軽に樺太に渡っているのである。

それはもちろん、樺太が日本領であったためである。当時の国境線は宗谷海峡ではなく、樺太の北緯五十度に引かれていた。

一方、今ではどうか。北海道旅行の「ついで」にサハリンを訪れる人は皆無である。サハリンは気軽に行ける場所ではなくなってしまった。

当り前の話だが、北海道とサハリンの地理的な距離が遠くなったわけではない。昔も今もサハリンは同じ場所にある。けれども、その間に引かれた国境というものが、私たちに心理的な距離感をもたらしているのである。

あるいは、こんな想像をしてみてはどうだろう。もし津軽海峡に国境線が引かれたとしたら。そうしたら、私たちは北海道という土地に心理的な距離感を覚えるようになるに違いない。

そんなことを考えて、先日、NPO法人国境地域研究センターというところに入会した。
http://borderlands.or.jp/index.html


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2016年04月18日

舟山廣治編著 『樺太庁博物館の歴史』

明治38年から昭和20年まで存在した樺太庁博物館の歴史を、法令、制度、建築、人物、出版物など様々な観点から解き明かした本。編著者は一般財団法人北海道北方博物館交流協会の理事長。同協会の理事が中心となって、分担執筆している。

菅原繁蔵、高橋多蔵、山本利雄など、樺太庁博物館と関わりの深い人々の事績についても詳しく記されていて、ありがたい。

樺太庁博物館の建物や資料は、戦後、ソ連(現ロシア)のサハリン州郷土博物館として使われている。昨年の夏に訪れた時も、予想以上に多くの人々で賑わっていた。

  P1040770.JPG

旧樺太庁博物館に収蔵されていた膨大な量の博物館資料や設備が、サハリン州郷土博物館に再利用されたことは、戦火を交えた国家間での文化遺産継承の例として、あるいは、両国の博物館交流の上からも重要な歴史である。

歴史についての評価はともかく、現在も博物館として残っているのは嬉しいことだ。サハリン観光の目玉と言って良い場所である。

2013年3月31日、北海道北方博物館交流協会、2000円。

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2016年04月11日

アインス宗谷

P1040575.JPG

昨年の夏にサハリンを旅行した時、往路は稚内からフェリーで行った。
戦前の稚泊航路(稚内―大泊)と同じ、稚内―コルサコフの航路である。
その時に乗った船が写真の「アインス宗谷」。

昨年9月に運航会社であったハートランドフェリーがサハリン航路から撤退。第3セクターが運航を引き継ぐという話であったが、結局まとまらず、今季の定期便の運航はなしということになった。

さらに、アインス宗谷もフィリピンの会社へと売却され、今後はフィリピンの島々を結ぶ船となるらしい。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0256429.html?df=1

現状では、船でサハリンへ行くことはできない。
(千歳空港からの航空便はある)
サハリン航路の復活と、アインス宗谷の第2の人生の無事を祈るばかりだ。

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2016年01月08日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その6)

年祝ぐとうから華やぐ夜の卓にくばられて来し採用通知
昭和十九年一月一日と墨匂ふ辞令大きくいただきてわれは
増産をめざす現場は勢ひ居む電話絶ゆるなし原木課製材課の卓
朝開く二号金庫の冷え切りて静かに音するその重量感
暗号電話ひねもすせはし事務の窓こころ落ちつけて札数へゐぬ

「新職場」20首より。
「樺太製材株式会社就職」と注がある。

作者は昭和14年に子供の教育のために樺太日日新聞社を退社し、真岡から豊原へ転居。樺太医薬品配給統制株式会社を経て、樺太木材株式会社に就職した。

1首目、新年の祝いの場に採用通知が届いて、何ともめでたい正月となった。
2首目、「大きく」に新たな仕事に取り組む意気込みが感じられる。
3首目、戦時中ということで、樺太での木材の供給も急ピッチで進められている。
4首目、作者は出納主任を経て用度課長となった。お金を扱うことが多かったのだろう。
5首目、「暗号電話」というところに、仕事が戦争に直結している緊迫感が滲む。


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2016年01月03日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その5)

川尻を立つ白鳥の羽ばたきや冬日に白く漣(なみ)かへすなり
中野川さして群立つ白鳥の羽耀ふやとほき冬日に
冬空を群立つ羽のおほらかに白鳥はまさに風に光れり
冬日なか靄立つ山の裾とほく風に乗りゆく白鳥の群
群立ちて白鳥は陽にかがやけり遠去りゆくに声のかなしさ

「白鳥の賦」14首より。

1首目、河口付近から飛び立ってゆく白鳥の群れ。さざ波が立っている。
2首目、「中野川」は豊原と真岡の間の山中を流れている川。やがて留多加川となって亜庭湾に注いでいる。ここでは河口から上流の方へと移動していくのだろう。本州などで越冬を終えて樺太経由でシベリアへ渡っていく途中なのかもしれない。
3首目、ゆったりと羽を光らしながら飛んでいく白鳥の姿。
4首目、海岸から山の方へ風に乗って進む白鳥を見送っているところ。
5首目、遠ざかっていく白鳥の鳴き声が聞こえる。

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2016年01月02日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その4)

夕じりが身におそひ来る岩壁に浚渫船は汐噴き揚ぐる
蝦夷千入鳴きたつこゑの稚きが朝靄くらき崎山にして
戦日日にけはしき世なりひねもすを思ひ歯がゆく事務急ぎゐつ
〇〇ケーブルの工事は急げ門畑の稔りは捨てて何悔ゆるなし
この島の夏は短かきプールにて日焼の子らがしぶきを上ぐる

「港街に居て」14首より。
昭和14年夏の樺太西海岸の真岡の様子が詠まれている。

1首目、「夕じり」は夕方に発生する海霧のこと。「海霧(じり)」は俳句では夏の季語。その中で船が港の土砂を浚う作業をしている。
2首目、「蝦夷千入(エゾセンニュウ)」は鳥の名前。夏季にシベリア、サハリン、北海道などで繁殖する。「稚き」とあるので雛の声だろうか。
3首目、昭和12年に始まった日中戦争が拡大し、この年には「国民徴用令」が施行され、生活必需品の配給統制も始まっている。
4首目、「〇〇」は伏字。おそらく「海底ケーブル」だろう。昭和9年に樺太と北海道の間に電話用の海底ケーブルがつながっているが、それが真岡まで伸びたのではないか。
5首目、樺太の短い夏を楽しもうとプールで遊ぶ子どもたちの姿である。

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2015年12月29日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その3)

さくら一もとほころび初めて塀ぬちの明るさよ昼の雨は降りつつ
華街に近き住居の春闌けてさざめき通る芸子らのこゑ
三味太鼓ひびくは何処の部屋ならむ夜靄に濡るる青き板塀
訪ね来て白粉くさき芸妓部屋お茶曳きの妓らは身欠鰊喰み居る
退け前の妓らのうたたね部屋寒く不漁の影響は見すぐしがたき

「栄町界隈」8首より。
真岡の栄町にあった花街の様子を詠んだ一連。

1首目、長い冬が終わり、樺太にもようやく春が訪れた。雨が降っていても、春らしい明るさが満ちている。
2首目、作者の家は花街の近くなので、道を行く芸子たちの話し声が聞える。
3首目、夜になって三味線や太鼓の音が塀の中から響いてくる。
4首目、茶屋を訪ねると、暇な芸妓たちは身欠鰊を食べている。「お茶曳き」は客がいなくて暇なこと。
5首目、春になっても鰊が不漁続きで、花街の客も少ないのだろう。

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2015年12月28日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その2)

歯痛堪へて居る汽車窓の昼吹雪汽笛は太く山にこもらふ
汽車の窓にもり上り来る雪塊や吹雪のなかの除雪夫の顔
両側の雪の深さは汽車窓をとざして昼もなほうすぐらき
混み合ふて身じろぎならぬ汽車の中雪の明りの窓に本読む
除雪人夫一列にならび雪を掻くスコップの動き車窓の上にあり

「豊真山道」10首より。
樺太の中心地豊原と西海岸の真岡を結ぶ「豊真(ほうしん)線」の光景を詠んだ一連。豊真線は樺太山脈を横断する路線で、多くのトンネルやループがあった。

1首目、吹雪の中を汽笛を鳴らしながら走る汽車の様子。
2首目、窓からは除雪する人の姿が見える。
3首目、線路の両側には壁のように雪が積もっているのだ。
4首目、昼も薄暗い車両の中で、かろうじて雪の明りを頼りに本を読んでいる。
5首目、「車窓の上」の方に、除雪する人たちの動きが見えるのである。

保線作業の大変さがよく伝わってくる。
この路線は、1994年の大雪でトンネルの落盤があり、現在は残念ながら使われなくなっている。

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2015年12月27日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その1)

石川澄水(健三)は明治38年、青森県弘前市生まれ。昭和4年に樺太日日新聞社入社。17歳の頃に「潮音」に入会して短歌を始め、その後「樺太短歌」や「多摩」に作品を発表した。

『宗谷海峡』(昭和50年)は樺太在住時代の歌411首を集めたもの。「落合時代」(昭和6〜9年)、「真岡時代」(昭和10〜14年)、「豊原時代」(昭和14〜20年)の三部に分かれている。

大汐の満ち来るころは宵かけてこの浜人はみな舟出しぬ
海はいま盛りの汐に鰊群来て沖にたむろの舟の灯うごく
わめき立つ大漁の声沖に揚ぐる舟火は陸への合図なるらし
鰊おろす舟に交りてたをやめの運ぶも声す朝の渚に
あざらしの皮干してある軒毎に積みかさねたる鰊の山山

「東海岸白浦外」17首より。
樺太東海岸の白浦付近で見かけた鰊漁の様子を詠んだもの。

1首目、春に産卵のため群れをなして沿岸にやって来る鰊を待ちかまえている人々。
2首目、沖に停まっていた漁船が鰊の群れに遭遇して慌ただしく動いている。
3首目、浜にいる人に向けて大漁を告げる合図を送っているところ。
4首目、浜に着いた舟から大量の鰊を降ろす人のなかに女性の姿もある。
5首目、水揚げされて軒先の積まれている鰊の山。

この年、昭和6年は樺太における鰊の水揚げのピークであった。その量は72万9000石。しかし、やがて北海道に続き樺太でも鰊は獲れなくなっていく。

昭和50年8月15日、原始林社、1000円。

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2015年12月21日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その4)

山腹の急斜面すべりすべりつつひたにすみたるわが心かも(スキー)
両岸に雪ふかぶかとつみたれば流れほそまりて川流れたり
吹雪風ふきすぐる街の四つ角に糞まりてゐる犬の子あはれ
大吹雪昨夜ひと夜ふりわが家の玄関の戸をうづめたるかも
ふかぶかと野に雪あれど川岸の柳つのぐむ日となりにけり

「冬小景」5首より。

1首目、スキーをして次第に心が澄み切ってゆく。樺太はスキーが盛んで、豊原近郊の旭ヶ丘には当時東洋一と言われたスキー場があった。
2首目、雪が積もって川幅が普段よりも狭く見えている。
3首目、寒い吹雪の中で糞をしている子犬の姿。
4首目、一晩で玄関が埋まってしまうほどの激しい雪である。
5首目、柳が芽吹いて長い冬もようやく終わりを迎えようとしている。

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2015年12月20日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その3)

堅氷を割きて入り来し軍艦のしづかに泊て居りこの湾の中に
軍艦はまくろきかもよしらじらと続く氷原の中に泊てつつ
沖つ辺にとどまる軍艦見に行くとこほれる海の上ゆく人々
氷上をたどり来りて軍艦の吊りはしごのぼる心やすけく
冬まひる軍艦に居れば軍艦の機関のひびき身ぬちに通ふ

「軍艦大泊」8首より。
軍艦大泊は日本海軍の砕氷艦。日本海軍唯一の砕氷艦として北方の警備に活躍した。  軍艦大泊の絵葉書(函館市中央図書館デジタル資料館)

1首目、樺太の亜庭湾に軍艦大泊が停泊しているところ。
2首目、凍った海の白さと軍艦の黒さとの対比。
3首目、多くの人々が停泊中の軍艦を見物に行く。
4首目、外観を眺めるだけでなく、艦内も一般公開されたようだ。
5首目、艦内にいてエンジンの唸りを体感している。

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2015年12月19日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その2)

荒浪のうねりとだえて海づらにはろばろはれる堅氷あはれ
はりつめし堅氷の上にふりおけるいささかの雪はあはれなるかな
この海の沖つ辺かけてとざしたる堅氷の上をふみてあゆめり
この湾の氷の上をはろばろと犬つれて行く人のかげ見ゆ
この湾の堅氷さきて入り来し汽船はならすのどぶとの笛を

歌集のタイトルともなった「凍て海」8首より。

1首目、冬の荒れていた海が凍って、一面に氷が広がっている。
2首目、氷の上にうっすらと降り積もる雪。
3首目、氷は厚く張っていて、人が歩いても大丈夫だ。
4首目、犬を連れて氷の上を通る人の姿。
5首目、氷を割って湾の中へ入ってくる船が汽笛を鳴らす。これは冬の大泊の光景だろうか。

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2015年12月18日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その1)

大正9年から昭和4年にかけての作品341首を収録。

作者の野口薫明は、大正13年に小学校の教員として樺太に渡り、短歌同人誌「かはせみ」「いたどり」などを発行した。

この街の出はづれ道にさしかかりゆくりなくきけりたぎつ瀬の音
橋の下に砂利すくふ音ざくざくとさむけくしひびく橋を渡るに
今ここゆ下りゆきし馬車は川下の浅瀬の中を渡りゆく見ゆ
浅瀬をかちわたる馬が足もとにあぐるしぶきは白くひかりつ
川越えて行きし荷馬車は砂原に歩みとどめて砂利つめる見ゆ

「豊原郊外にて」5首より。

1首目、樺太の中心地豊原の町外れを歩いていると、川音が聞こえてくる。
2首目、川原で砂利を採取しているのだ。建築用の資材にするのだろう。
3首目、道から川へと降りて行った馬車が浅瀬を渡っていく様子。
4首目、橋の上から眺めていると、水しぶきがきらめく。
5首目、採取した砂利を荷馬車に積んでいるところ。今ならトラックだ。

1931年6月15日、冷光社、1円30銭。

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2015年11月18日

別冊正論25号「「樺太―カラフト」を知る」


樺太に関する特集号。全306ページ。

・竹野学「移民政策めぐる官と民とのすれ違い」
・三木理史「「棄景」の語る樺太産業と鉄道の関係誌」
・杉本侃「サハリンプロジェクトのルーツは戦前」
・渡辺裕「北太平洋沿岸諸民族の歴史」

など、興味深い内容の文章が多数収められている。

ムック全体としては「ニッポン領土問題の原点!!」という政治的な姿勢が濃厚で、そこは私と立場が異なる。けれども、これだけ本格的な樺太の特集が組まれるということ自体は、実に喜ばしいことだと思う。

竹野学「移民政策めぐる官と民とのすれ違い」は、樺太を支える新産業として期待された甜菜製糖が挫折した経緯について触れている。

一九三六年から操業を開始した樺太製糖は、年々の産糖高が当初の計画から乖離し続けた結果、連年赤字を計上していた。それは原料である甜菜の作付および収穫量の少なさが原因であった。

このあたり、皆藤きみ子歌集『仏桑華』の中で

農作に恵まれぬ嶋の農民が希望をかけしビート耕作
国はての凍土曠野にかにかくに大き創業は成しとげられつ
  (官民合同の樺太製糖)
  ビートは隔年作なれば農家は耕作を心よしとせず、
  ビート不足のため製糖は三カ月にて完了せんとす
事業家と農民のこころ相容れぬけはしき事も利にかかはりぬ
一年に三月の操業やうやくにビート完収をつげてきにけり

と詠まれていることに見事に対応している。

2015年11月13日、産経新聞社、1000円。

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2015年10月22日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その7)

今日よりは吾子にしたしき校門ぞ積み雪はいまだなかば埋めつ
身につけしものみな重しこの国の新入生よ汝があはれなり
六キロの雪道とほし今日よりは汝(なれ)が通はむこのみち遠し
父母を離(か)れて幾日も経(た)たなくにものいふことも学童さびて
道くさをけさ戒めて行かせたる子がポケットより石あまた出づ

「長男入学」13首より。

1首目、長男の国民学校初等科(小学校)の入学式。4月になってもまだ校門は雪に埋もれている。
2首目、「いまだ防寒具着けてあれば」と注がある。厳しい寒さの中で学校に通う子ども。「この国」は樺太を指している。
3首目、自宅から学校まで6キロの道を通う。親としては心配だろう。
4首目、親の心配をよそに、子どもは学校にも慣れて、しっかりしてきたのだ。
5首目、石をたくさん拾って帰って来る子。このあたり70年前も今も変らない。

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2015年10月20日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』から(その6)

枯れ草の秀さへ埋めし雪の原氷採取の橇道つづく
朝光にさだまる原や橇を曳く馬の太腹蒸気(いき)たちのぼる
馬さへや深ゆきに馴れて雪洞の中にことなくまぐさ食みゐる
室内に襁褓を干してこの国に子を育つると我が一途なる
ストーブの上に襁褓を掛け並べ乳児(ちご)を育つるみ冬のながき

「朝光」12首より。

1首目、冬の雪の積もった野原を、氷を採るための橇が行き来する。
2首目、下句に臨場感がある。厳しい寒さの中で仕事をする馬の身体から湯気が立ちのぼるのだ。
3首目、深い積雪にも慣れて、どうということもなく餌を食べている馬の様子。
4首目、作者は樺太に来て4人目の子を出産している。「この国」は日本ではなく、樺太のことを指しているのだろう。
5首目、長い冬が続く土地で小さな子を育てる作者。心細さと母としての覚悟が伝わってくる。

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2015年10月11日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その5)

海霧は嶋山こめて今宵ふかし鰊の群来(くき)を人ら語れり
鰊漁場に男女(をとこをみな)も出稼ぎて街に人手なき鰊季に入る
貧しくてあれば日やとひ七円の収入(みいり)羨しむをあはれと思ひつ
身欠鰊(みがきにしん)つくると魚をさきてゐる婢(をんな)は仕事たのしむらしき
頭並めて藁に下げたる鰊より血潮したたる魚鮮(あた)らしき

「鰊季」7首より。

北海道の各地に残る鰊御殿は往時の鰊漁の賑わいを物語るが、樺太においても西海岸や亜庭湾で鰊漁が盛んに行われた。

1首目、春のいわゆる「鰊曇り」の夜に、鰊が産卵のために沿岸へとやって来る。
2首目、街に住む人もこの時期ばかりは漁にたずさわる。内地からも多くの出稼ぎ労働者が樺太に渡って来たらしい。
3首目、1日に「七円」というのは、今で言えばどれくらいの収入なのだろう。
4首目、内臓を取り除いて鰊の干物を作る場面。京都名物の「にしんそば」に乗っているアレだ。大量の鰊を捌く軽快な動きが見えてくる。
5首目、藁縄につないだ鰊を浜に干しているところ。「頭並めて」とあるので、頭は付いたままの状態である。

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2015年10月10日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その4)

ビートビンに合図のベルは鳴り渡り凍る夜頃を人動く見ゆ
もろもろの気鑵どよみつつ工場をつつむ蒸気は西風(にし)なびきをり
新進の圧搾機械が吐く蒸気もり上りつつ夜をなびく見ゆ
事業家と農民のこころ相容れぬけはしき事も利にかかはりぬ
一年に三月の操業やうやくにビート完収をつげてきにけり

「製糖期」5首より。

1首目、「ビートビンは原料のビートを貨車より降し、工場よりの合図によりて流送溝に掻き降す露天作業場」という詞書がある。秋から冬にかけての寒い時期、それも夜の屋外の作業である。
2首目、ボイラー(気鑵)から音を立てて盛んに蒸気が立ち昇っている。
3首目、夜空に白い蒸気がなびいている光景。
4首目、「ビートは隔年作なれば農家は耕作を心よしとせず、ビート不足のため製糖は三ヵ月にて完了せんとす」と詞書にある。ビートを栽培する「農民」と製糖会社の「事業家」との思惑にズレがあったようだ。
5首目、ビートの収穫が終わり、工場の稼働も三か月で終わりを迎える。

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2015年10月07日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その3)

焼死木くろく残れる裾野原蝦夷りんどうは茜さしつつ
岩が根をつたひ踏みのぼる登山道かそけきものか清水湧きつつ
鈴谷嶽の三峰のなだり寄るところ渓水合し滝と落つるも
頂上とおもふに霧の深くして二つ巨岩はいづ方ならむ
手をふれてほろほろと落つるフレップの小粒赤実は霧しづくして

「鈴谷嶽登山」11首より。

鈴谷嶽は標高1021メートル。栄浜―大泊間に南北に通る鈴谷山脈の主峰で、豊原から近いこともあって、登山客が多かったようだ。現在はチェーホフ山と呼ばれている。

1首目、山火事の跡が広がる裾野を歩いて行く。エゾリンドウは青紫の花なので、「茜さしつつ」は日に照らされている様子だろう。
2首目、岩の多い登山道の途中に見つけた湧き水。けっこう険しい道のようだ。
3首目、渓を流れる水が合流して、滝となって落ちているのである。
4首目、霧が立ち込めていて山頂に着いたかどうかはっきりと確認できない。二つの巨岩が頂上の目印だったのだろう。
5首目、「フレップ」(こけもも)は樺太の名物。これを採ってジャムや果実酒を作った。

posted by 松村正直 at 22:04| Comment(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする