2015年11月24日

杉山正明著 『海の国の記憶 五島列島』


「歴史屋たわごと」シリーズの1冊目。
副題は「時空をこえた旅へ」。

モンゴル史、中央ユーラシア史の専門家である著者が、大陸との交流や世界史的な観点から五島列島の歴史について記した本。

遣隋使・遣唐使、モンゴル襲来、倭寇、キリスト教伝来、朝鮮出兵、鎖国から開国へといったトピックが取り上げられている。今では国土の西端の小さな島々といった印象が強い五島列島であるが、歴史的に見れば海外との交流の最前線であったのだ。

自らの学生時代の旅の思い出を交えつつ、「です・ます」調の柔らかな文体で述べる話のなかに、これまでの歴史の見方を覆すような指摘がいくつも出てくる。

例えば、中国の「北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋・唐」といった王朝については

国家としてのかたちや権力のあり方、その基幹勢力としての構成や顔触れなどは、北魏から隋・唐までほぼ一貫しており、いわば王家だけが交代したといってもいいすぎではないでしょう。

と述べる。
また、モンゴル襲来における対馬・壱岐の状況に関しては、

これまでともすれば両島とも制圧されたのち、島民たちは殺され、家々は焼かれ、残虐行為がおこなわれたとされがちですが、それをしるす確かな記録は実のところありません。

と指摘するのだ。
他にも

「大航海時代」をあえて英訳するならば「グレイト・マリタイム・エイジ」(the Great Maritime Age)といったところでしょうが、欧米ではそういってもまったく通じません。日本独自の造語というか、きわまて“内向き”の用語なのです。
江戸湾すなわち現・東京湾入口部分の海流はきつく、動力船でなかった当時は湾内に入るのは簡単ではありませんでした。
「鎖国」なる表現は、十九世紀の初年、長崎出身の天文学者でオランダ語通詞であった志筑忠雄が命名したいい方で、あくまでも江戸日本が孤立主義・閉鎖主義であったことの弊害をいわんがための、まさに十九世紀的な発想による造語であったというほかはありません。

など、なるほどと思う話が盛り沢山であった。
とにかく面白い。このシリーズは続けて読んでいきたい。

2015年1月15日、平凡社、1500円。

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2015年11月16日

畠山重篤著 『日本〈汽水〉紀行』


2003年に文藝春秋社より刊行された単行本の文庫。
初出は「諸君!」2001年7月号〜2003年6月号。

全国各地の「汽水」を旅したエッセイ。陸奥湾、有明海、屋久島、四万十川、富山湾、揚子江などが舞台となっている。

気仙沼で牡蠣の養殖を手掛ける著者は、「森は海の恋人」を合言葉に、各地で植樹や講演活動を行っている。「汽水」とは海の水に川の水が混ざっている水域のこと。

河川水が流れ込む海とそうでない海とでは植物プランクトンの発生量が約三十倍から百倍もちがう。これはそのまま魚介類の漁獲量のちがいだと思っていい。

著者はその例として、面積がほぼ等しい東京湾と鹿児島湾を比較する。多摩川、鶴見川、荒川、江戸川など16本の川が流れ込む東京湾に対して、鹿児島湾は火山の爆発でできた湾のため大きな川が流れ込まない。そのため、漁獲量は東京湾が鹿児島湾の約30倍にのぼるのだと言う。

国の中央に背骨のように位置している脊梁山脈の森から、日本海と太平洋の双方に約五万本の川が流れ落ち、沖積平野で稲穂が波打ち、汽水域で魚介類や海藻が育つ

森と川と海の深い関係がよくわかる文章だろう。海のことを考えるには、森や川のことも考える必要があるのだ。

本書には気仙沼の歌人、熊谷龍子の歌も随所に引用されている。

冬海の石蓴(あおさ)の森のそよぎ聴かむ 海苔の胞子の飛び交うなかの
寒鰤を育みしもの 杳(とお)い日の立山連峰に降りし雪のひとひら
胎内の記憶のごとき川の匂い忘れずに生く 鮭の一世は

2015年10月10日、文春文庫、700円。

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2015年11月07日

大林千茱萸著 『未来へつなぐ食のバトン』


副題は「映画『100年ごはん』が伝える農業のいま」。

子どもたちの給食を地元農産物でまかないたい。有機野菜に変えていこう。そのためにまず「土」をつくろう―。

という構想のもとに、現在、大分県臼杵市は有機農業の取り組みを推進している。それを記録した映画「100年ごはん」の監督である著者が、食と農の問題や取材で出会った人々、初めての映画作りのエピソードなどを記した本。

以前、大分に住んでいた時に、臼杵市や今は合併して臼杵市の一部になった旧野津町には何度も行ったことがあるので、懐かしい。

100年先というのはずいぶん未来の話のようですが、自分の子どもの、そのまた子どもの時代だと考えれば、そう遠くない時代の話です。100年先のことを考えるためには、人が変わってもちゃんと続いていくこと、つなげていくことが大切。

こうした長いスパンでものを考えるということが、現代の私たちにはなかなかできない。刻々と移り変る目先の出来ごとに追われてしまう。

120時間の映像を65分の作品に編集する作業は、一生終わりが来ないんじゃないかと思うほどでした。(…)パソコンに取り込んだ映像を並べたり並べ替えたりの繰り返しですが、映画には「これが正解」という着地点があるわけではありません。

どの映像を、どのくらいの長さで、どういう順番に並べるか。考えただけでも大変そうな作業だが、きっと面白いのだろうな。

2015年6月10日、ちくまプリマー新書、950円。

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2015年11月04日

山口直樹著 『日本妖怪ミイラ大全』

著者 : 山口直樹
学研パブリッシング
発売日 : 2014-08-19

全国各地の寺社や旧家、資料館などに残された「鬼」「河童」「人魚」「天狗」「龍・大蛇」「異形獣」のミイラや骨を紹介した本。長年にわたる取材をもとに、ミイラや資料のカラー写真240点以上を掲載し、詳細な解説を付けている。

その多くは、もちろん科学的に見れば作り物であるのだが、著者は作り物だから価値がないとは考えない。

幸い、近年日本でも、公的な博物館が妖怪のミイラや遺物を所蔵し、展示するようになった。作り物だからといって価値を下げず、われわれの祖先が妖怪に託した思いを具現化した遺物ととらえ、見てほしい。

これまでキワモノ扱いされてきたこれらの遺物が、ようやく民俗学的な資料として日の目を見るようになってきたということだろう。

本書には「興行師が所蔵する驚愕の珍宝」として、あぐらをかいて座る河童のミイラが紹介されている。入方興業が巡業で公開してきたものとのこと。

同社代表の入方勇さんは、かつては演劇を志し、テント小屋芝居を目指していた。その勉強のため、見世物小屋の「大寅興業」に弟子入りを志願。(…)その際、先輩興行師から特別に譲られたのが河童のミイラだった。

このミイラの取材は、少し前のことなのだろう。入方興業が一世を風靡した後、2010年に入方さんの突然の自殺によって幕を閉じたことを知っているだけに、懐かしいような悲しいような、何とも複雑な気持ちになった。

2014年9月2日、学研パブリッシング、2500円。

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2015年10月31日

COMMUNITY TRAVEL GUIDE VOL.1 『海士人』


副題は「隠岐の島・海士町 人々に出会う旅」。

総勢138名の海士町の人を取り上げた観光ガイドブック。「COMMUNITY TRAVEL GUIDE」というシリーズの1冊で、人に焦点を当てたユニークな内容となっている。他にも「福井人」「三陸人」「大野人」「銚子人」などが刊行されているようだ。

5年前に隠岐の中ノ島(海士町)に旅行して以来、この町について書かれた本を見つけると読むようにしている。

島のあちこちで見かける、この町のスローガンは「ないものはない」。
この言葉には2つの意味が込められています。
一つは、「ないものはない、なくてよい」という意味。(…)
もう一つは、「ないものはない、大事なことはすべてがここにある」という意味。

こうした発想の転換が、町起こしには不可欠なのだろう。無いものねだりをするのではなく、その土地にあるものを大事にするのである。

2012年6月1日発行、英治出版、800円。

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2015年10月28日

上原善広著 『被差別のグルメ』


路地(被差別部落)の「アブラカス」、アイヌの「キトピロ」、ニブフ(北方少数民族)の「モース」、沖縄の「イラブー」、在日韓国・朝鮮人の「焼肉」など、差別されてきた人々のソウルフードでもある食べ物について描いたノンフィクション。

著者は実際に現地を訪ね歩き、さまざまな料理を食べている。その中には、アレンジを加えて一般社会に広まったものもあれば、今も地域の中で細々と食べられているものや既に食べられなくなってしまったものもある。そうした食べ物を通じて、著者は差別・被差別、民族といった問題を考えていく。

この本にはウィルタ・ニブフなど北方少数民族のことも取り上げられている。

北海道といえばアイヌが有名だが、実はさらに少数のウィルタ・ニブフという民も住んでいたことはほとんど知られていない。ウィルタとは、かつて「オロッコ」と呼ばれていた北方少数民族で、主に樺太、今のサハリン南部に住んでいた。

彼らの食を探し求めて、著者はサハリンも訪れている。そうした地道な姿勢を私は信頼する。

ノンフィクションを読む時に、こうした「著者に対する信頼感」というのはけっこう大事なものだ。短歌はノンフィクションではないけれど、やはり「作者に対する信頼感」が大事な点では共通しているように思う。

2015年10月20日、新潮新書、740円。

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2015年10月24日

大久保潤・篠原章著 『沖縄の不都合な真実』


帯には「政治家、建設会社、知識人、公務員、地元とメディア……利権とタブーを炙り出す」と大きく書かれている。基地問題の背景にある沖縄の支配階級の利権や振興予算の問題点を指摘した本。

辺野古移設問題を「善良な県民の総意を無視して強引に移設を進める政府の悪行」といったシンプルな勧善懲悪の視点から捉えるのを好むジャーナリズムが、ほとんど触れてこなかったことばかりです。

という内容である。タイトルや帯文が週刊誌のように煽情的だし、ところどころデータの扱い方も恣意的で、「米国で勤務経験がある保健師さんは・・・」「先の労組幹部は・・・」「沖縄のある大学教授は・・・」といった匿名の発言の引用が多かったりと、気になる点もある。その一方で、なるほどと納得する部分も多かった。

「日本vs.沖縄」「悪vs.善」「加害者vs.被害者」といった見方で解くことができるのであれば、問題はとうの昔に決着していたでしょう。

これは、まさにその通りという気がする。そんなに単純な話ではないからこそ、解決に長い時間がかかっているのだ。

10月21日の新聞に「沖縄振興強化で一致 島尻沖縄相、翁長知事と会談 辺野古触れず」という記事が載っていた。基地問題で激しく対立していることを思えば、政府と沖縄知事とが和やかに会談しているのが不思議な気もする。けれども、

二〇一四年一一月に初当選した翁長雄志知事は、那覇市長時代に「振興策なんかいらない」と言ったことがあります。これを知事としても言い続けることができるかどうか。県民ならずとも注視していくべきでしょう。

という本書の「あとがき」は、1年前に既にそうした事態を予言していたと言っていいだろう。

2015年1月20日、新潮新書、740円。


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2015年10月23日

松島泰勝著 『琉球独立宣言』


文庫書き下ろし。

辺野古移設問題で揺れる沖縄の独立に向けた道筋を示した本。1609年の島津藩の侵攻に始まり、1879年の琉球処分、沖縄戦、アメリカによる統治、そして現在も残る多くの米軍基地といった歴史を踏まえ、沖縄に対する差別を解消するために、「琉球人の琉球人による琉球人のための独立」を説く。

著者の視点は沖縄だけでなく、スコットランドの独立運動や島嶼国パラオの政治、あるいは国際法にも及び、独立のための具体的な方策を探っていく。

琉球は日本固有の領土ではありません。琉球はかつて国であり、琉球併合は国際法上でも違法なのです。

これは、明治期に日本が台湾や朝鮮を植民地化していった流れの発端に琉球併合があるとの見方である。その根拠として、琉米修好条約(1854年)、琉仏修好条約(1855年)、琉蘭修好条約(1859年)の締結という事実が挙げられており、その主張には合理性がある。

独立に向けた著者の意気込みはよくわかるし、共感する部分もあるのだが、全体にやや精神論に傾き過ぎている点が気になった。同じ主張の繰り返しも多い。

日本政府がこのまま辺野古新基地建設を進めていくと、琉球は「独立」というカードを切って自らの道を進もうとするでしょう。

「独立」が交渉におけるカードとして捉えられている限り、それはまだ現実的な話ではないと言えるのかもしれない。

2015年9月15日、講談社文庫、690円。

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2015年10月17日

木山捷平著 『新編 日本の旅あちこち』


昭和42年に永田書房から刊行された『日本の旅あちこち』に、その後の作品などを加え再編集し、文庫化したもの。紀行文27篇と詩2篇を収録。

昭和30年代後半から、43年に亡くなる少し前まで、ノサップ岬、秋田、粟島、伊豆、伊良湖岬、城崎、天理、長門湯本温泉、佐世保など、全国各地を旅して味わいのある文章を残している。

「それはタラバガニです。北海道では大体カニが三種類とれますが、タラバは人妻の味、ケガニは女房の味、ハナサキガニは生娘の味ということになっております」

これは、根室の人に教わった少々きわどい話を書き留めたもの。

再び自動車の人となって、三里(約十二キロ)の道をぶっとばして渥美町折立の杉浦明平氏宅の前に車を止めた。

伊良湖岬へ行った際には、杉浦明平の家を訪れている。

私の郷里地方で、最も大衆的に発達しているのは、マゼメシである。マゼメシはつまりマゼズシ、標準語的にいえば、五目ずしのことである。

ふるさと岡山の料理について述べた文章である。ここに出てくる「マゼメシ」というのは、今で言う「ばら寿司」のことだろう。

この晩は鹿児島泊まりで、夜は城山のてっぺんにある観光ホテルで、県知事と市長の歓迎レセプションがあった。

これは今年の夏に行った城山観光ホテルではないか。調べてみると、ホテルの開業は昭和38年。木山が訪れたのは昭和42年のことなので、まだ出来たばかりという感じの頃である。

2015年4月10日発行、講談社文芸文庫、1600円。

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2015年10月16日

岡本信明・川田洋之助著 『金魚』


日本の伝統文化を伝える「ジャパノロジー・コレクション」シリーズの1冊。
先日、大和郡山へ行って金魚田や金魚資料館を見て来たので、その関連で。

豊富なカラー写真を載せ、「金魚物語」「金魚の基礎知識」「金魚の粋」「金魚水族館」「金魚と暮らす」の5章にわたって、金魚の魅力を多面的に描き出している。

「朱文金」「コメット」「三色琉金」「東錦」「らんちゅう」「頂天眼」など、様々な品種があり、眺めているだけでも楽しい。長年にわたって品種改良とその維持を続けてきた人々の努力に感嘆するとともに、自然界では生きられそうもない畸形を生み出し珍重することに対するちょっとした怖さも感じた。

2015年7月25日、角川ソフィア文庫、920円。

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2015年10月13日

益岡隆志著 『24週日本語文法ツアー』


全24回にわたって、「補足語」「ヴォイス」「テンスとアスペクト」「ムード」「主題」「副文」「品詞」など、日本語文法の見どころと面白さを記した本。『基礎日本語文法―改訂版―』とあわせて読むと良い。

紹介の場面を文で表現しようとすれば、どのような言い方になるでしょうか。文の中心は、「紹介する」という動詞ですね。(…)「紹介した。」と言うだけで、「誰かが誰かを誰かに紹介した。」といった内容の文であることが了解されるはずです。

日本語文法においては、文の構造を「主語―述語」とは見なさない。文の中心は「述語」であって、それが「補足語」を伴うという考え方である。例えば「紹介する」という述語は「ガ格」「ヲ格」「ニ格」を必要とする。そこでは、従来主語と呼ばれていた部分(「ガ格」)は「ヲ格」や「ニ格」と同じ補足語に過ぎない。

テンスは、過去・現在・未来という時間の流れに関係すると言いましたが、日本語の述語の表現は、基本形とタ形という2つの形を区別するだけです。時間そのものには過去・現在・未来という3つの区別が考えられても、述語の表現は2つの区別しかないわけです。

「テンス」(「今」を基準として出来事の時を位置づける述語の形式)と「アスペクト」(動きの時間的展開の段階を表す形式)の話も大切だ。口語短歌や文語短歌の「時制」の話をする時も、「テンス」と「アスペクト」をきちんと区別して考える必要があるだろう。

その他、「限定的(制限的)な修飾」と「非限定的(非制限的)な修飾」の違いや、「連用形並列」と「テ形並列」の違いなど、短歌を読んだり作ったりする上で示唆に富む話がいくつも出てくる。

短歌を読んだり作ったりする上で文語文法を学ぶことは大切だが、現代の日本語文法を知ることも、それに劣らず大事なことであるに違いない。

1993年10月31日 第1刷、2014年5月8日 第13刷。
くろしお出版、2200円。

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2015年10月02日

『京都ぎらい』のつづき

筆者が繰り返し述べるのは、嵯峨や宇治は「京都」ではないということだ。

嵯峨でそだち宇治にくらす私のことを、洛中の人なら、まず京都人とはみなすまい。だが、東京をはじめとする他地方の人々は、ちがう。私の経歴を聞いたうえで、それでも私のことを京都人よばわりする人が、ずいぶんいる。こまった人たちだなと思う。

「京都」と一口に言っても、「洛中」と「京都市」、さらに「京都府」では、全然ニュアンスが違うのである。

私は今、京都市伏見区に住んでいるのだが、そこはどんな位置付けかと言うと、

伏見区は、京都市にくみこまれている。行政的には京都市内の一区をなしていると、そう言わざるをえない区域である。しかし、洛中の京都人たちは、伏見区を京都の一部だと考えない。彼らは、あのあたりを洛南、つまり洛外にあたるところとして位置づける。だから、京都人をよそおう伏見の人がいれば、それを思いあがっているとうけとめる。

ということになる。

まあ、「京都」と言われて一般にイメージされる碁盤目の通りも、神社仏閣も、比叡山も鴨川も、私の住む周囲にはないので、京都という感じがほとんどしないのは確かだ。

こうした居心地の悪さ(?)は、私が自分の出身地を答える時にも感じる。私は「東京出身」であるが、「東京」と言って一般にイメージされる高層ビルや人混みや繁華街とは無縁の場所で育った。だから、必ず、「東京と言っても、町田市と言って神奈川県との県境のところで・・・」と慌てて言い訳のように付け足すことになるのである。

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2015年10月01日

井上章一著 『京都ぎらい』


京都郊外の嵯峨に生まれ、現在は宇治に住む著者が、京都人(洛中に住む人)の洛外に対する差別意識や、外からは見えない京都の裏話を記した本。

「まえがき」から京都あるあるネタの続出で、何度も笑ってしまった。京都について辛辣に書いていて相当に毒のある内容なのだが、その底には京都愛が滲んでいる。きっと、この本は京都の人がむしろ好んで読むのだろう。

別にお笑い目的の本ではなく、京都の歴史や文化に関する深い考察が随所にある。あまり知られていない事実も多く、京都の見方が変わりそうだ。

ちなみに、世間ではうやまわれる回峰行も、比叡山ではそれほど重んじられていない。立派だと思われてはいるが、ある種体育会系的な業績としても、位置づけられている。
くりかえすが、室町時代の京都では、武将たちの一行をうけいれる寺が、ふえだした。人目をよろこばせる庭が、寺でいとなまれるようになったのは、そのせいだろう。
いずれにせよ、江戸時代の堂塔や庭園は、京都の主だった観光資源になっている。多くの観光客が見ているのは、江戸幕府がささえた京都の姿にほかならない。

杉本秀太郎(フランス文学者、エッセイスト)や梅棹忠夫(民族学者、国立民族学博物館名誉教授)といった京都人のエピソードも実名で紹介されている。いやはや、おそるべし、京都人。

2015年9月30日、朝日新書、760円。

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2015年09月27日

大山顕×佐藤大×速水健朗著 『団地団』


副題は「ベランダから見渡す映画論」。

写真家の大山顕、脚本家の佐藤大、編集者の速水健朗の3名が、新宿の「ロフトプラスワン」で4回にわたって行ったトークライブ「団地団夜」をもとに、加筆・再構成してまとめた本。

「ウルトラマン」「耳をすませば」「しとやかな獣」「団地妻 昼下りの情事」「デジモンアドベンチャー」「ピカ☆ンチ」など、様々な映像作品に登場する団地について、かなりディープに語り合っている。

映像やシナリオや団地について、興味深い話が次から次へと出てくる。

アニメでは「ないもの」を描くことが一番難しい。でも、ここでは手紙が落ちていくことによって生まれた、風と空気と重力が見事に描かれている。
天才を説明する立場としての、受け手側の代表となるキャラクターが、物語には必要である。例えば、主人公が自分のことを天才と語るより、周囲の人間から天才だと説明してもらうことで、嫌味なく自然に観客へと伝えられる。
畳って、四畳半とか六畳をひとつの基本ユニットとして配置していくための規格であって、さらに言うとモジュール化なんですよね。この畳の規格に沿っていろんなもののサイズが決められます。

本のはじめには、「団地団、団地へ行く」と題して、狭山団地、大蔵住宅、多摩川住宅、高島平団地、都営西台アパートの5か所の団地を訪れた様子が、カラー写真入りで紹介されている。

2012年2月10日、キネマ旬報社、1900円。

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2015年09月23日

今野真二著 『盗作の言語学』


副題は「表現のオリジナリティーを考える」。

小説、俳句、短歌、辞書など、数多くの実例を引きながら、「盗作」と呼ばれる現象を日本語学的に分析し、さらには表現におけるオリジナリティーとは何かを考察した本。

最近話題になったオリンピックのエンブレム問題とも関わる話だろう。ただし、刺激的なタイトルが付いているものの、「盗作」の事件性や話題性について書かれているわけではない。あくまで言語表現自体についての話である。

木俣修や北原白秋の添削指導、寺山修司「チェホフ祭」、白秋の同一テーマによる短歌と詩など、短歌作品も多く取り上げられている。

言語は始まりがあって終わりがあるという「線状性(linearity)」を備えている。だから、情報がどのような順序で提示されるかということは重要である。
和歌や俳句をかたちづくる言語は、語そのものはいわゆる「散文」と同じであっても、働き方は「散文」とまったく異なると考える。
俳句のような短詩型文学では、説明はしない方がいい。というより、説明しないのが短詩型文学であろう。
誰も使ったことのない単語というものをつくりだして使うということは通常はできないし、言語に関しては、複合語として新しいとか、語句(=単語の組み合わせ)として新しいとか、さらに大きな言語単位として新しいとか、そうした「新しさ」以外は考えられない。

このあたり、どれも短歌の実作の手引と言っても良い内容だろう。
それにしても、近年、著者の今野真二さんの本が続々と刊行されている。おそろしいほどの仕事量だ。

2015年5月20日、集英社新書、720円。

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2015年09月21日

原武史著 『団地の空間政治学』


著者の専門である政治思想史の観点から、主に高度経済成長期の団地という空間を捉えた本。40年以上団地に住み続けた著者ならではのユニークで鋭い考察が光る。

当時団地で発行されていた新聞や自治会報などの資料も駆使しながら、大阪の香里団地、東京の多摩平団地、ひばりヶ丘団地、千葉の常盤平団地、高根台団地などを例に、そこに住む人々の政治意識や行動を詳しく分析している。

団地は戦後の近代的な生活システムを目指したという点においてはアメリカ的な存在であったが、その内実はソ連を中心とした社会主義的な側面を強く持っていた。

集団生活という居住形態や自治会での活動が、平等や公平といった価値を重視する社会主義に対する共感を生み出す一因となっているのは容易に想像できよう。

具体的に言えば、当時の団地は選挙において革新政党の強力な地盤となっていたのである。

私が生まれ育った東京の町田市の話も出てくる。

東京都町田市では、都営、公社住宅を合わせた団地の面積が七〇年五月に六〇三ヘクタール、団地人口は総人口の四四.五%に達した。

私が住んでいた1970年から90年まで、町田市は大下勝正(社会党)市長の率いる革新自治体であった。今から思えば、それも団地が多いことと深く関係していたのである。

2012年9月30日、NHKブックス、1200円。

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2015年09月10日

千松信也著 『けもの道の歩き方』


『ぼくは猟師になった』の著者のエッセイ20篇を収めた本。副題は「猟師が見つめる日本の自然」。「日本農業新聞」2012年12月から13年3月まで連載された「森からの頂き物」に加筆、再構成したもの。

京都に住んで普段は運送会社で働きながら、猟期にはくくり罠でイノシシやシカを捕獲する著者が、猟師ならではの視点から山の自然や動物、そして自らの暮らしについて記している。

よく「野生動物の肉は硬い」と言われるが、〇歳や一歳の若い個体の肉は軟らかいし、歳をとった個体の肉は硬い。家畜の豚も生後半年で出荷されるから軟らかいだけで、何年も飼育した老豚の肉は硬くなる。
利用されなくなってしまった現在の巨木が林立する里山林を、この現状のまま維持するのは無理がある。放置され続けてきたところに起きたナラ枯れは防ぐべきものなのだろうか?
白色レグホンはメスしか必要とされないので、オスはヒヨコのうちに殺され、産業廃棄物となるのがほとんどだ。また、メスも大規模な養鶏場では、産卵効率が落ちて生後二年を待たずに廃鶏にされるのは前述の通りだ。

近年、農作物への獣害が深刻となっていることもあり、狩猟がにわかに注目を集めている。けれども、著者はそうしたブームを歓迎しつつも、「狩猟の素晴らしさばかりが強調される昨今の風潮はちょっと気持ちが悪い」と冷静に見ている。

そこには「自分で食べる肉は自分で責任をもって調達したい」という思いのもと14年にわたって猟師を続けてきた著者の矜持がにじむ。

2015年9月16日、リトルモア、1600円。

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2015年09月08日

森見登美彦著 『新釈走れメロス 他四篇』


中島敦「山月記」、芥川龍之介「藪の中」、太宰治「走れメロス」、坂口安吾「桜の森の満開の下」、森鴎外「百物語」という近代文学の名作5篇を、現代の京都を舞台にした作品へと仕立て直したパロディ小説集。

読み始めてすぐに、「あれっ?どっかで読んだことあるな」と思ったのだが、2007年に祥伝社から出た単行本を読んでいたのだった。中村佑介のイラストを使った表紙が、以前読んだものと全く違っていたので気づかなかった。

それにしても、わずか8年前のことを忘れてしまうなんて・・・。

京都が舞台ということで、祇園祭、大文字山、叡山電鉄、鴨川デルタ、蹴上インクラインなど、京都に住んでいる人には馴染みの行事や場所がたくさん出てくる。それで、ついつい読んでしまうんだろうな。

2015年8月25日、角川文庫、520円。

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2015年09月04日

『戦争画とニッポン』のつづき

『戦争画とニッポン』に会田誠が出ているのは、彼が「戦争画RETURNS」というシリーズを制作したことが大きな理由であろう。

シリーズの一つである「紐育空爆之図」も、最初の方に見開きで掲載されている。1996年の作品だ。
http://mizuma-art.co.jp/artist/popup.php?uid=0010&imgID=10

この作品については、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを詠んだ

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
             大辻隆弘『デプス』

の歌と関連付けて、以前、論じたことがある。(「サブカルチャーと時代精神」2003年、『短歌は記憶する』所収)

今回初めて知ったのは、この作品の元ネタ(実際には違うのだが)と噂されている戦争画があるということだ。1943年刊行の『大東亜戦争海軍美術』に掲載されている古城江観の「紐育制圧図」で、ニューヨークのマンハッタン島を日本軍が爆撃する様子が描かれている。

ニューヨークというのは、昔も今も、やはり象徴的な場所なのだ。

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2015年09月03日

椹木野衣×会田誠著 『戦争画とニッポン』


美術批評家の椹木野衣と現代美術家の会田誠が、戦争画をめぐって行った対談をまとめたもの。藤田嗣治「○○部隊の死闘―ニューギニア戦線」、宮本三郎「萬朶隊比島沖に奮戦す」、小川原脩「アッツ島爆撃」、小磯良平「カンパル攻略(倉田中尉の奮戦)」、さらには会田の「紐育空爆之図」など30点近い戦争画を掲載している。

この本を読んで驚いたのは、茅葺き屋根の古民家の絵で有名な向井潤吉に、多くの戦争画があるということ。そうした過去は戦後、封印されてしまったのだろう。

戦争画は戦意高揚や軍部の宣伝といった文脈で語られることが多い。あるいは反対に、藤田の玉砕画に反戦の意図が込められていると賞賛されることもある。けれども、そのどちらも一面的な見方に過ぎるだろう。戦争画は何よりもまず「戦争記録画」であった点を忘れてはならない。

単に「戦争協力の是非」という話なら、今たいていの芸術家は「非」と答えるでしょう。けれど当時の日本の戦争画を見ていると、ことはそう単純でないことがわかります。「全体と個」という永遠にややこしい問題がそこにはあります。

「あとがき」に記された会田の言葉は、戦争画の奥にあるより大きな問題を浮き彫りにしている。それは、現代の短歌にとっても避けられない問題であろう。

2015年6月22日、講談社、2000円。

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2015年09月01日

荒川洋平著『日本語という外国語』


日本語教師になりたい人向けの入門書であるが、そうでない人が読んでも十分におもしろい。国文法(いわゆる学校文法)とは違う日本語文法についても、概略が記されており、知らなかったことがいっぱい出てくる。

国文法における動詞の終止形と連体形は同じ形ですが、日本語教育ではこれを「辞書形」として、一つにまとめ上げています。

国文法においては文語(古文)との継続性を重視して、口語の動詞の活用でも「終止形」「連体形」を区別しているが、確かに口語だけに限って考えれば区別する必要はないわけだ。

学校で勉強した英文法では「十二時制」と呼んで、時制を現在進行形や過去完了形などに分類していますが、これは「テンス」と、後で述べる「アスペクト」を一緒にしたものです。

この「テンス」と「アスペクト」の区別というのが、けっこう大事なのだろう。学校では国文法でも英文法でも、そのあたりは習わなかった気がする。

実は日本語の動詞には(…)前のことを示す「過去形」と、そうではない「非過去形」しかありません。
動作を示す動詞が、現在のことを示すためには、「いま食べている」のように、「食べる」をテ形「食べて」に変え、それにプラスして「いる」の助けを借りなければなりません。

こうした日本語文法の基本的な知識は、例えば角川「短歌」9月号に大辻隆弘さんが書いている「口語の時間表現について」という問題を考える際にも、大いに役に立つのではないかと思う。

2009年8月20日、講談社現代新書、800円。

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2015年08月27日

高野秀行著 『イスラム飲酒紀行』


2011年に扶桑社より刊行された単行本の文庫化。

「私は酒飲みである。休肝日はまだない」という著者が、原則として飲酒が禁じられているイスラムの国々で酒を求めて奮闘する旅行記。訪れた国は、カタール、パキスタン、アフガニスタン、チュニジア、イラン、マレーシア、トルコ、シリア、ソマリランド(ソマリア北部)、バングラデシュ。

多くのイスラムの国を訪れて、著者が感じたのは

イスラム圏にも地域性が歴然として存在し、それがイスラム自体を多様で豊かなものにしているのだ。
一口に「イスラム国家」と言っても、国民が百パーセント、ムスリムという国は存在しない。

という、よく考えてみれば実に当り前のこと。けれども、現地を訪れてみないと、こうしたことさえ実感としてはなかなかわからない。

イラン旅行の話の中に

彼らは英語をまったく話さず、私もペルシア語の単語は何ひとつ知らない。私は『旅の指さし会話帳 イラン』を取り出して、「酒」という単語を黙って指差した。

という場面が出てくる。
おお、「旅の指さし会話帳」!

先月のサハリン旅行に、この『旅の指さし会話帳』を持って行ったところ、かなり役に立った。現地の方とコミュニケーションが取れるというのは、やはり楽しい。



2014年7月15日、講談社文庫、770円。
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2015年08月20日

『「昭和」という国家』のつづき

この人(富永仲基・松村注)を明治二十年代で発見したのが内藤湖南です。そのほかたくさんの人を発見しています。埋もれた江戸時代の無名の知識人を、われわれに教えてくれたのは内藤湖南です。
江戸時代の不思議な思想家として、山片蟠桃がおります。この人も高砂の出身です。職業的には一生番頭さんだったものですから、蟠桃と、ユーモラスな号をつけた。無神論を展開し、彼も内藤湖南に発見されています。
今は安藤昌益の全集もありますから、それを見ればよいのですが、この人は狩野享吉が発見するまで、ほとんど無名でした。

今では日本史の教科書にも載っている山片蟠桃や安藤昌益も、誰かがその存在を発見するまでは無名の存在であったのだ。司馬遼太郎もまた、歴史に埋もれた人物を発見すべく、歴史小説を書き続けたのかもしれない。

他人の書いたものや他人の評価に乗っかるのではなく、自分の眼で見出す努力。これは、短歌の世界においてもますます大事になっていくにちがいない。

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2015年08月18日

森達也著 『たったひとつの「真実」なんてない』


副題は「メディアは何を伝えているのか?」。
書き下ろし。

かつてテレビ・ディレクターの仕事をしていた著者が、テレビを含めたメディアをどのように批評的に読み解き、主体的に活用していけば良いかを述べたもの。大学でメディア・リテラシーの講義もしている著者は、自分の体験や数々の例を挙げながら、説得力のある話を展開している。

でも人は、集団になったとき、時おりとんでもない過ちを犯してしまう。集団に自分の意思を預けてしまう。これも歴史的事実。そして人が持つそんな負の属性が駆動するとき、つまり集団が暴走するとき、メディアはこれ以上ないほどの潤滑油となる。
世界は複雑だ。事象や現象は単純ではないし、一面だけでもない。でもテレビ・ニュースに代表されるメディアは、その複雑さを再構成して簡略化する。
メディアは視聴者や読者を信頼させてはいけない。なぜならメディアは信頼すべきものではない。あくまでもひとつの視点なのだ。受け取る側も絶対に信じてはいけない。これはひとつの視点なのだと意識しながら受け取るべきだ。

近年は映画監督・作家として、言論の分野においても存在感を発揮している著者の丁寧な語り口が印象に残る一冊であった。

2014年11月10日、ちくまプリマー新書、820円。

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2015年08月17日

司馬遼太郎著 『「昭和」という国家』


1986年から87年にかけてNHK教育テレビで計12回にわたって放映された「雑談『昭和』への道」をまとめたもの。

戦争を体験した著者が、昭和(元年から敗戦まで)の日本はなぜあのような道を進んでしまったのかを考察している。

と言っても、明快な答が示されているというわけではない。江戸時代の多様性を評価し、「私は明治日本のファンです」と述べ、日露戦争を「祖国防衛戦争だった」と肯定的に捉える著者にとって、昭和の歴史は何とも扱いにくいものだったのだろう。

日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。

このように著者は記して、その魔法を解くカギとして「参謀本部」や「統帥権」といった問題を持ち出す。けれども、それで何かがわかったという感じもしない。

これは何も司馬個人の責任ではなく、今もなお私たちが明治維新から敗戦までの歴史をうまく位置付けられていないことによるのだろう。それは、先日の戦後70年の安倍談話の曖昧さにもつながっている問題なのだと思う。

1999年3月30日第1刷発行、2003年12月5日第10刷発行、NHKブックス、1160円。

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2015年08月14日

原沢伊都夫著 『日本人のための日本語文法入門』


東郷雄二さんや中西亮太さんとの議論の中で、「ル形」という用語が出てきた。どうも日本語文法と呼ばれるものは、学校で習った文法とは随分と違うらしい。そんな興味から読んだ一冊。

現在、日本語文法というとき、日本人のための国語文法(本書では学校文法と呼ぶことにします)と外国人に教えるための日本語文法があり、両者には共通する用語も多くありますが、基本的な文の構造に対する考え方はまったく異なっているのです。

読んでみると実におもしろい。今の文法はこんなことになっていたのか!とワクワクすることばかり。「ル形」「タ形」「テイル形」「テアル形」「ガ格」「ヲ格」「イ形容詞」「ナ形容詞」「子音動詞」「母音動詞」といった用語も初めて理解した。

「主題と解説」「自動詞と他動詞」「ボイス」「アスペクト」「テンス」「ムード」といった基本的な事項を、具体例をいくつも挙げながら丁寧に説明してくれる。また、横書きというスタイルや「〜なんですね」「〜わけではないんですよ」といった語りかける口調の文章など、読みやすいようによく工夫されている。

これはざっくりとした印象なのだが、文語短歌を読むには古典との継続性を重視した学校文法の知識で良いが、口語短歌について考える時には日本語文法の知識が求められるのではないか。

このテーマはしばらく追ってみたい。

2012年9月20日、講談社現代新書、740円。

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2015年08月10日

司馬遼太郎著 『ロシアについて』



副題は「北方の原形」。
1986年に文藝春秋社から刊行された単行本の文庫化。

ロシアという巨大な隣国をどのように理解すれば良いのかという観点から書かれた歴史エッセイ。それほど長くないエッセイ集であるが、歴史というものの醍醐味を十二分に感じさせる内容となっている。

体制がどうであれ、その国が、固有の国土と民族と歴史的連続性をもっているかぎり、原形というものは変わりようがない、と私は思っている。逆にいえば、体制の如何をとわず、不変なものをとりだすものが、原形に触れるという作業でもある。

この本で司馬が一貫して追求するのは、ロシアの原形とは何かということである。そのために広い視野に立って歴史をたどっていく。

ヨーロッパを真にヨーロッパたらしめたルネサンスの二百年という間、ロシアはひとり「タタールのくびき」によって、その動き、影響から遮断されつづけたのです。
火器の普及によって、騎馬軍の優位の時代はおわり、これがために遊牧国家は農業地帯の征服といううまみをうしなったのである。
欧露というみじかい右腕をまわして長大な左腕のシベリアの痒みを掻こうとする場合、右腕の寸法が足りず、たえずむりな体形をとったり、不自然な運動をせざるをえなくなった。

この本が書かれたのは、まだソ連が崩壊する前のことで、もう30年近い歳月が経っている。けれども、ここに描かれたロシアの原形はおそらく今も変らない。昨今のクリミア半島の問題や、日本とロシアの関係を考える際にも、有効であり続けている。

ソ連には、シベリアがある。そのそばに、日本の島々が弧をえがいている。日本が引越しすることができないかぎり、この隣人とうまくつきあってゆくしかない。

1989年6月10日第1刷、2012年2月15日第27刷、文春文庫、505円。

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2015年07月28日

三田英彬著 『忘却の島サハリン』

副題は「北方異民族の「いま」を紀行する」。
20年以上前に出た本である。

1990年の秋に、外国人に開放されたばかりのサハリン(当時、ソ連領)を2週間にわたって取材した内容をまとめたもの。主に、かつては日本人でありながら、戦後サハリンに取り残されたアジア系少数民族の人々の話が中心となっている。

戦後、サハリンからの引き揚げは日本人に限られ、朝鮮半島出身者はサハリンに留まらざるを得なかった。こうした人々は、サハリン残留韓国人(朝鮮人)と呼ばれ、数万人(本書では43000人)にのぼると言われる。

また、その他のサハリン先住少数民族(ウィルタ、ニブヒなど)についても、本書はいくつもの貴重な証言を記録している。これまでに読んだ本とつながる話も多かった。

ポロナイスク近郊に住む金正子さん(ニブヒ名はマヤック・ニフ、戦前の名は加藤正子)の話の中に

「イノクロフっていえば、オタスの王様みたいな人でしたよ。ヤコッタの人でしょ。トナカイは何千頭って持ってたし、大きな屋敷を構えてたんです」

とあるのは、N・ヴィシネフスキー著『トナカイ王』に出てくるヤクート人のドミートリー・ヴィノクーロフのことだ。

また、ウィルタの小川初子さんに関して

最初は同族の北川源太郎さんと結婚するはずであった。ところが一九四五年になって源太郎さんはソ連軍に逮捕されシベリアに抑留されたまま帰ってこなくなった。

とあるのは、田中了著『ゲンダーヌ』の主人公ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名は北川源太郎)のことである。

日本とソ連という国家の狭間に置き去りにされた人々。国と国との戦争が終ったのちも、その人生は長きにわたって翻弄され続けてきたのである。

1994年5月20日、山手書房新社、1600円。

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2015年07月16日

『折口信夫 魂の古代学』の続き

国文学者、民俗学者である著者が、学問について書いている部分も心に残る。

国文学は国文学で、民俗学は民俗学で、それはそれとして純粋な科学として成り立つ学問である。しかしながら、それらの学問は日本人が日本を語る日本人の「応援歌」という側面をも持っている。
今日においては、研究者と創作者がともに語り合う場すらもない。対して、折口は最後まで創作の世界を捨てようとしなかった。
近代の学問は、「分けること」からはじまって、細分化することで緻密になり、専門性を高めていった。今日の眼から見れば折口が取り組んだ学問領域はおそろしく広いが、江戸期の国学者はもっと広い。

この本の面白さは、学問や折口に対する著者の愛情とでも呼ぶべき思いがひしひしと伝わってくるところにあるのだろう。

折口信夫のようにジャンルを跨いで活動した人の全体像を掴むのは容易ではない。ウィキペディアを見ても

日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空と号した詩人・歌人でもあった。

と書かれている。けれども、折口自身にとっては、そうした活動はバラバラのものではなく、すべて同じ一つのものであったのだと思う。

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2015年07月12日

上野誠著 『折口信夫 魂の古代学』


2008年に新潮社より刊行された『魂の古代学―問いつづける折口信夫』を改題して文庫化したもの。

折口信夫の遺影の飾られた研究室で学び、三十代では「折口を蛇蝎のごどくに嫌っていた」著者が、四十代に入って「折口を肯定的にとらえることができるように」なり、折口の人生や考え方の総体を一つのイメージとして示したいと考えて記した本。

第5章の「芸能を裏側から視る」は、2012年に行われた現代歌人集会秋季大会の講演「折口信夫の挑戦」(とても面白かった!)と重なる内容で、講演の口調を思い出しながら読んだ。

本書でも強調されているのは、折口と大阪の結び付きの深さである。

関西の人びとは、歴代の天皇の御陵のなかで暮らしているので、きわめて天皇というものを近しく感じている。(…)大阪人である折口も、そういう文化的風土のなかで暮らしていたのである。
ことに都会的文化の中でも、「芋、蛸、南京・芝居」という言葉に象徴されるような女の文化にとっぷりと漬かって折口は育ったのであった。折口の芸能史は、マレビト論を核とする文学発生論から派生した史論なのだが、その背後には自ら生活を楽しむ享楽的な大阪の女の家の文化があったのである。

東京や地方の都市と比べた時のこうした違いは、折口信夫を考える上でやはり欠かせないものだという気がする。

2014年9月25日、角川ソフィア文庫、920円。

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2015年07月04日

金水敏著 『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』


「もっと知りたい!日本語」シリーズの一冊。

「そうじゃ、わしが博士じゃ」という博士に会ったことがありますか?「ごめん遊ばせ、よろしくってよ」としゃべるお嬢様に会ったことがありますか?

といった疑問を出発点として、特定のキャラクターと結びついた特徴ある言葉づかいを「役割語」と名づけ、その起源や意義などを考察した本。非常におもしろく、刺激的な一冊だ。

著者は、江戸時代以降の文章や小説、童謡、マンガなど様々な資料を用いて、役割語の起源を追求し、その変遷を描き出す。

結局、〈老人語〉の起源は、一八世紀から一九世紀にかけての江戸における言語の状況にさかのぼるということがわかった。当時の江戸において、江戸の人たちの中でも、年輩の人の多くは上方風の言葉づかいをしていたのであろう。

さらには、物語の中で「標準語」と非「標準語」を話す人物が登場する場合、読者は「標準語」を話す人物に感情移入する点を指摘する。その上で、中国人を描く際に使われる〈アルヨことば〉などを踏まえて、

異人たちを印象づける役割語は、(…)〈標準語〉の話し手=読者の自己同一化の対象からの異化として機能し、容易に偏見と結びつけられてしまう

といった問題点に言及するのである。

「役割語」という見方・捉え方をすることによって、言葉をめぐる実に多くの可能性や問題点が浮き彫りにされてくる。

この本はもう10年以上前のものだが、著者はその後も『コレモ日本語アルカ? 異人のことばが生まれるとき』(岩波書店、2014年)、『〈役割語〉小辞典』(研究社、2014年)といった本を出している。引き続き読んでいきたい。

2003年1月28日 第1刷発行、2014年11月14日 第13刷発行、岩波書店、1700円。

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2015年07月02日

宇田智子著 『本屋になりたい』


副題は「この島の本を売る」。
絵:高野文子。

ジュンク堂書店池袋本店で働いていた著者は、那覇店の開店に伴って沖縄に移り、その後、退職して「市場の古本屋ウララ」を開いた。その経緯については、『那覇の市場で古本屋』(ボーダーインク)に詳しい。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139340.html

本書は「本を仕入れる」「本を売る」「古本屋のバックヤード」「店番中のひとりごと」「町の本を町で売る」の5章に分かれていて、古本屋の仕事や地域の人々との関わりなどが、わかりやすく記されている。

那覇の観光スポットにもなっている第一牧志公設市場の向かいにある店は、わずかに三畳。路上にはみ出た分を含めても六畳だ。そこで、沖縄に関する本を中心に扱っている。

大変なことももちろん多いのだろうが、自分で決めた人生を歩んでいる著者は楽しそうだ。

私も毎日の売上に一喜一憂しながら暮らしています。自分で店をやっている限り、これで安泰ということはないのでしょう。時間とお金をどう使うか。楽しければ赤字でもいいのか、何のために仕事をしているのか、いつも考えています。

このあたり、実際に一日/一か月の売上がいくらで、支出がいくらかといった現実的な話があっても良かったかもしれない。

2015年6月10日、ちくまプリマー新書、820円。

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2015年07月01日

『ひとびとの跫音』のつづき

この本が書かれたのは昭和56年、今から30年以上前のことだ。
当時と今とで、いくつか状況の変っていることがある。

どの子規研究書にも律のその後については書かれていない。

子規の死後、妹の律がどのような生涯を送ったか、今では詳しくわかっている。けれども、当時はそうではなかったようだ。

軒下に、ここが子規の旧居であると識した東京都の表示が出ているものの、いまは他の人がすんでいるために入りにくく、私もついぞ入ったことがない。

現在、子規庵として一般に公開されている建物も、当時は公開されていなかったのである。

他に、印象に残った話を2つほど。

もともと大原姓であった拓川が明治十二年、ながく廃家になっていた加藤氏を継いだのは、一家の当主や長男は鎮台兵にとられずに済むという徴兵のがれのためで、こういう忌避法はこの時代の常識になっていた。

江戸期の武家の家の躾のひとつは、走らぬことであった。にわか雨などに遭って走りだすというのは中間や小者のすることであり、武士のすることではないとされ、そういう風儀が明治期にもうけつがれた。

こんな話も読むのも歴史を知る楽しさであろう。

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2015年06月29日

司馬遼太郎著 『ひとびとの跫音(あしおと)』(上)(下)



1981年に中央公論社より刊行された単行本の文庫化。

歴史小説のような、ドキュメンタリーのような、評伝のような、エッセイのような、何とも不思議な本である。著者の言葉を借りれば

人間がうまれて死んでゆくということの情趣のようなものをそこはかとなく書きつらねている。

ということになる。確かに、その通りという気がする。

主人公と言うべき人物は、正岡忠三郎(正岡子規の妹・律の養子)と西沢隆二(詩人・社会運動家、ぬやまひろし)の二人。この二人は司馬とともに1975年から78年にかけて刊行された『子規全集』(全22巻+別巻3巻)の監修に名前を連ねている。

その他、正岡子規、正岡律、正岡あや子(忠三郎の妻)、西沢麻耶子(隆二の妻)、西沢吉治(隆二の父)、富永太郎(詩人)、加藤拓川(子規の叔父、忠三郎の実父)、ユスティチア(忠三郎の妹)といった人々が登場する。

現在と過去を行き来しつつ、時おり「以上は、余談である」といった脱線もしながら、著者の筆はこれらの人々の姿を浮き彫りにしていく。その手腕は見事と言うほかない。

上巻:1983年9月10日初版、2010年1月30日改版13刷、667円、中公文庫。
下巻:1983年10月10日初版、2010年1月30日改版11刷、552円、中公文庫。

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2015年06月21日

肉食研究会著 『うまい肉の科学』


監修:成瀬宇平。
副題は「牛・豚・鶏・羊・猪・鹿・馬まで肉好きなら読まずにはいられない!」。

牛肉、豚肉、鶏肉の品種や部位、調理法などを写真入りで詳しく解説した本。他にも、羊、馬、猪、鹿、ガチョウ、ハト、カモなどの肉についての記述もある。

最近、肉というものに興味を持っているのだが、知れば知るほど奥深い世界である。この本で知った雑学的なことをいくつか。

(肉の格付けは歩留級数ABCと肉質等級54321の組み合わせになっていて)歩留級数は肉の質には直接的な関係がない。
日本では「ビフテキ」ともいうが、これはフランス語の「bifteck」(ビフティック)からきている。
大型にしたものをロースター(roaster:蒸し焼き)、中型のものをフライヤー(fryer:揚げ)、小型のものをブロイラー(broiler:炙り焼き)と、それぞれ調理に適した分類で分けていた。

他にも、フランクフルトソーセージは豚ひき肉を「豚の腸」に詰めるのに対して、ウインナーソーセージは「羊の腸」に詰めることとか、なるほど!という話が満載であった。

2012年9月25日、サイエンス・アイ新書、952円。

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2015年06月20日

武田砂鉄著 『紋切型社会』


副題は「言葉で固まる現代を解きほぐす」。

1982年生まれの若きライター・批評家が、「決まりきった言葉が、風邪薬の箱に明記されている効能・効果のように、あちこちで使われすぎている」という問題意識のもと、世の中の様々な紋切型を取り上げて批評した本。

「育ててくれてありがとう」「国益を損なうことになる」「誤解を恐れずに言えば」「逆にこちらが励まされました」など20の言葉を引いて、それらがどのような意識のもとに使われ、またどのような意識を生み出しているか考察している。

あらかじめストックされている言葉をサラダバー的に調合して、ベルトコンベアに流すように自分だけの花嫁の手紙は量産されていく。花嫁の手紙がいたって平凡なのは、サンプルがいたって平凡なのに、その平凡さを特別なものとして享受したつもりになるからなのだろう。
「うちの会社」というフレーズを冷静に解くと、それは「私の会社」という意味ではない。あくまでも「私が勤めている会社」ということ。ここには明らかなる距離がある。
外国人ミュージシャンのインタビューが常時「今回のアルバムは最高さ、日本のファンも気に入ってくれると思うぜ。一緒にロックしようぜ」と無暗にトゥゲザーしたがるのは、彼の真意を丁寧に日本語に落し込んだというよりも、こちらが彼のテンションを推し量って勝手な語尾を付着してきたからだろう。

どれも鋭い分析だと思う。指摘されてあらためて気が付くことも多い。

文章のテンポがとにかく速くて、追い付くのがなかなか大変だ。それにところどころ毒がある。好き嫌いの分かれそうな文章ではあるけれど、魅力のある書き手だと思う。

2015年4月25日、朝日出版社、1700円。

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2015年06月19日

石川文洋著 『フォトストーリー 沖縄の70年』


沖縄で生まれ4歳の時に本土に移住した著者が、「在日沖縄人」という立場から、戦中戦後の沖縄の歴史を綴った本。著者の撮影したものを中心に約200点の写真が掲載されている。

沖縄戦、アメリカによる統治、ベトナム戦争、本土復帰、現在も残る米軍基地と、1945年から2015年に至る70年の沖縄の歴史には、様々な苦難があった。

一九六九年一月、「いのちを守る県民共闘会議」は二月四日にゼネストで一〇万人を動員して基地の機能をマヒさせる方針を決めた。(…)この沖縄の動きに対して佐藤政権はゼネスト阻止の構えを見せた。(…)一月二九日、東京で佐藤首相と会見した屋良主席は、改めてゼネストの回避を要請された。
このこと(1987年にビザ発給に際してベトナム人の沖縄訪問が認められなかったこと)は当時、『琉球新報』『沖縄タイムス』両紙で大きく扱われ、読者からも様々な反響が寄せられた。しかし、本土の三大紙は一行も扱わなかった。

こうした部分を読むと、現在の沖縄をめぐる問題の構図が、戦後ずっと同じように存在し続けてきたことがわかる。著者の願う「基地のない平和な島・沖縄」の実現は、いつのことになるのだろうか。

2015年4月21日、岩波新書、1020円。

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2015年06月14日

渡邊杉菜著 『スギナの島留学日記』


兵庫県に生まれ、隠岐島前高校に「島留学」している著者が、3年間の高校生活や島前地域の暮らしについて記した。他に、島での親代わりを務める「島親」の濱田哲男・佳子夫妻、担任の山田伸太郎、卒業生の西澤一希、隠岐國学習センター長の豊田庄吾、海士町長の山内道雄が文章を寄せている。

ジュニア新書ということもあって活字が大きく、内容的にはやや物足りない面もあるので、先日の『島の学校が未来を変える―隠岐・島前高校の奇跡』とあわせて読むと良いだろう。

山内町長が良いことを言っている。

教育は、投資したものがどんな形になって返ってくるか、目に見えない。それでも、人を育てることは目に見えない大きな財産になると思う。県立高校だけれど、いま建設中の新しい寮も町でつくっている。財政は厳しいけれど、教育の予算は減らしていない。

以前、家族で海士町を訪れた時に、タクシーの運転手さんが「息子さんも高校生になったら、ぜひ島の高校へ」と言っていたのを思い出す。町ぐるみで隠岐島前高校を応援しているのだろう。

2014年12月19日、岩波ジュニア新書、800円。

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2015年06月07日

山内道雄・岩本悠・田中輝美著 『未来を変えた島の学校』


副題は「隠岐島前発ふるさと再興への挑戦」。

西ノ島(西ノ島町)、中ノ島(海士町)、知夫里島(知夫村)の3つの島、3つの町村からなる隠岐の島前(どうぜん)地域。高齢化や過疎化が進む現状を何とかしようと、唯一の高校である「隠岐島前高校」を核に奮闘する人々の姿を描いた本。

地元の人だけでなく、外部からも人を招き、行政・学校・住民の連携のもと、観光甲子園への出場、観光ツアー「ヒトツナギ」の開催、「隠岐國学習センター」の開設、「島留学支援制度」の創設など、次々と新たな取り組みを行っていく。

その根本には、時代の変化に伴う発想の転換がある。

これまで「小規模校」という弱みに捉えられがちだったことが、逆に全教員が全生徒の顔と名前や性格まで把握している「少人数教育」という、圧倒的な強みに転換できる。

一枚目は、高度成長社会で、欧米を先頭に、日本、そしてこの島が最後尾にある図。二枚目は、それが逆向きになり、小さなこの島を先頭に、日本、欧米と続いていた。「最後尾から最先端へ 持続可能な社会への曳船(タグボート)に」。

2010年に隠岐に旅行して以来、島前地域には関心を持っている。十年後、二十年後に、この本に書かれた試みがどのように実を結ぶか(あるいは結ばないか)、見続けていきたい。

・隠岐旅行
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138308.html
・山内道雄 『離島発 生き残るための10の戦略』
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138291.html

2015年3月24日、岩波書店、1500円。

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2015年05月29日

笹田昌宏著 『よみがえる鉄道文化財』


副題は「小さなアクションが守る大きな遺産」。

歴史的価値のある鉄道の車両や施設などを、どのように保存・活用していくか。長年、鉄道文化財を守るために尽力してきた著者が、全国各地さらには海外の事例を紹介しながら、今後に向けての提言をしている。

解体寸前に救い出されて立派な鉄道博物館へ収蔵された車両もあれば、公園に永久保存されていたはずが老朽化して廃棄されてしまったものもある。

鉄道文化財は一見頑強そうに見えて、実は案外脆いという側面も持っている。現役を退いて数年も風雨にさらされると、たちまち荒れ始めてしまう。現役時代は定期的に車体の塗り直しなどの手入れが行われていたから美しさを保てただけで、決してメンテナンスフリーなどではないのだ。

これは、家などの建築物にも同じことが言える。保存するのは簡単なことではない。常に手入れをし続けなくてはならないのだ。

著者と友人との合言葉は「物さえ残っていれば、あとは何とかなる」。歴史的に価値あるものと認められるまで待っていては遅いのだ。一度失われてしまった物は、もう元には戻らない。後で歴史的な価値に気が付いても、物自体が残っていなければどうしようもない。

鉄道文化財に寄せる著者の熱意と愛情が、ひしひしと伝わってくる一冊である。

2015年4月15日、交通新聞社新書、800円。

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2015年05月27日

上野誠 著 『はじめて楽しむ万葉集』


2002年にPHP研究所から刊行された単行本『みんなの万葉集 響きあう「こころ」と「ことば」』を改題して、文庫化したもの。

万葉集の歌の中から80首あまりを選んで鑑賞をしている。語り口が楽しく、また現代語訳も付いているので、気軽に読むことができる。

『万葉集』の時代には好きになった男性に女性が自分の着ている下着を贈ることは、一般的な行為であった。
この時代、眉が痒いと恋人がやって来るという俗信があった。そこで、恋人に会いたいと思う坂上郎女は痒くもないけれども、自分の描き眉を一生懸命掻いたのである。
男女が共寝をして別れる時には、彼女は彼氏の下着の紐を丁寧に結ぶという行為によって、好きなんですよという気持ちを表したのである。

といったあたり、「へぇ〜、そうなのか」と感心してしまった。
そういう背景を知って読むと、歌の味わいがぐんと増してくる。

2012年9月25日、角川ソフィア文庫、705円。

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2015年05月22日

小川靖彦著 『万葉集と日本人』


副題は「読み継がれる千二百年の歴史」。

8世紀末に成立した『万葉集』が、その後どのように読まれてきたのか。
菅原道真、紀貫之、紫式部、藤原定家、源実朝、仙覚、賀茂真淵、佐佐木信綱らを例に挙げながら、平安〜中世〜江戸〜近代という1200年にわたる歴史を順にたどって解説している。『万葉集』の受容史と言っていいだろう。

『万葉集』を「読む」ためには、「訓(よ)む」こと、つまり漢字本文を解読して日本語として読み下すことが必要です。そして、「訓む」ことは機械的に漢字本文を〈ことば〉に起こしてゆく作業ではなく、「解釈」を伴う創造的な行為なのです。
今日の目からすると、古点は漢字本文から離れてしまっているように見えます。しかし、漢字と和語との対応が比較的ゆるい平安時代の漢文訓読に習熟していた源順(みなもとしたごう)らは、自らの「訓読」を漢字本文に即していると考えていたと思います。

最近、ちょっとしたことをきっかけに、『万葉集』に興味が湧いてきた。
これから少しずつ『万葉集』関連の本を読んだり、学んだりしていきたい。

2014年4月25日発行、角川選書、1600円。

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2015年05月21日

木村元彦著 『オシムの言葉 増補改訂版』


2008年に集英社文庫から出た本に新章を加えた増補改訂版。
最初は2005年に集英社インターナショナルから単行本が刊行されている。

名著。
これは、すごい本だと思う。

元サッカー日本代表監督イビツァ・オシムについての本だが、単なるサッカーの話やスポーツの話ではない。政治や歴史や人生までも含んだノンフィクションである。

「ライオンに追われたウサギが逃げ出す時に、肉離れをしますか? 要は準備が足らないのです」
「トレーニング方法で言えば、教師がこういうメニューがある、と黒板に書いた段階ですでに過去のものになっている」
「『しょうがない』という言葉は、ドイツ語にもないと思います。『どうにもできない』はあっても、『しょうがない』はありません。これは諦めるべきではない何かを諦めてしまう、非常に嫌な語感だと思います」

こうしたオシムの言葉を読むだけでも、もちろん十分におもしろい。

けれども、人をひきつけるオシムの優れた言葉は、彼の経歴と切り離せないものであったのだ。内戦前のユーゴスラビア代表の最後の監督を務め、サラエボ内戦によって2年半も妻や娘と離れ離れになり、後にボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会の正常化委員会の委員長として民族融和に尽力したオシム。

この本を読んで、自分がユーゴスラビアの内戦やその後の歴史について、あまりに何も知らなかったことに気づかされた。

オシムは、戦争による艱難辛苦によって何ごとにも動じない精神や他文化に対する許容力を得たのではないかという問いに対して

「確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響を受けていないと言ったほうがいいだろう」「そういうものから学べたとするならば、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……」

と答えている。

言葉というのは、こんなにも強く、深いものであったのだ。

2014年1月10日、文春文庫、690円。

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2015年05月14日

黒岩幸子著 『千島はだれのものか』


副題は「先住民・日本人・ロシア人」。
ユーラシアブックレット186。

18世紀以降、ロシアと日本の間で領有をめぐる争いがあり、国境が移り変ってきた千島列島について、その歴史と現状を記したもの。

先住民である千島アイヌ、さらには北海道アイヌを含めて、国境線により分断された人々の苦難が浮き彫りにされる。

国境線がどこに引かれるにしても、ユーラシア大陸と日本を繋ぐ踏み石としての千島列島の姿や価値に変わりはない。そして千島の特異な環境に相応しい生活圏、文化圏、経済圏というものがある。過去の国境線は、そのような一体性を保つべき地域を分断して日ロが対峙する空間を生み出した。

「日本」「ロシア」という国家単位の枠組みからではなく、「千島列島」という枠組みで歴史や文化を捉え直す視点が、今後ますます必要になってくるのだろう。

2013年12月10日、東洋書店、800円。

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2015年05月12日

高桑信一著 『山の仕事、山の暮らし』


2002年に「つり人社」より刊行された単行本の文庫化。
元は月刊「つり人」別冊「渓流」1993年夏号〜2002年夏号に連載された「山に生きる」をまとめたもの。

「只見のゼンマイ採り」「檜枝岐の山椒魚採り」「会津奥山の蜂飼い」「岩手・浄法寺町の漆掻き」など、山で生きる19名の姿を記したドキュメンタリー。時代とともに失われつつある暮らしの様子が、生き生きと描き出されている。

この連載が書かれてから、既に十数年〜二十数年が経過した。現在この方たちはどうしているのだろう。

例えば、南会津の駒止峠の「峠の茶屋」で岩魚を焼いていた中村源治さんと奥さんの武子さん。1993年の取材当時「定年もないしねえ、まだ二十年ぐらいは頑張れるでしょ」と話していた。

けれども調べてみると、1999年に源治さんが亡くなり、「峠の茶屋」も2005年に廃業。現在は更地となっているそうだ。時の流れとはいえ、やはり寂しい。

2013年3月5日、ヤマケイ文庫、950円。

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2015年05月08日

徳田耕一著 『ガイド サハリンの旅』

副題は「未知の世界への初の案内」。

今年の夏にサハリンへ行くべ予定なのだが、サハリン関係のガイドブックは本当に少ない。手に入りやすいのは『地球の歩き方 シベリア鉄道とサハリン』であるが、サハリンについてはわずかな量の記述しかない。

そんなこともあって、1991年刊行の古いガイドブックを読んでいる。四半世紀以上も前のものなので、あまり役に立ちそうはないのだが、それでも読まないよりはマシだろう。

1989年、ソ連のペレストロイカ政策によって、外国人の立ち入りが禁止されていたサハリンが開放され、サハリン旅行ができるようになった。91年には戦前と同じコルサコフ(大泊)―稚内の航路が開かれ、95年からは定期航路となっている。この本には、その当時の観光への熱い期待が込められている。

サハリンは戦争による暗い痛手を持つ望郷の島から、新「北のリゾート」として新たな時代を迎えようとしている。
近くなったサハリン、幻から現実に一変した北の大地は、新しい観光スポットとして脚光を浴びて来た。

けれども、現在の状況を見てみると、こうした予測は外れたと言わざるを得ない。ソ連、ロシアとの関係改善は進まず、サハリン観光や交流は停滞している。コルサコフ―稚内の定期航路も今年9月で廃止になる見込みだ。
http://www.sankei.com/economy/news/140925/ecn1409250032-n1.html

せめてその前に、船でサハリンへ行ってこようと思う。

1991年9月15日、風媒社、1700円。

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2015年05月07日

小倉美惠子著 『オオカミの護符』


2011年に新潮社から刊行された本の文庫化。
おススメの一冊です。

実家の土蔵に貼られた一枚の「オイヌさま」の護符をきっかけに、著者はふるさと川崎市土橋の歴史や民俗に関心を持ち始め、やがて失われゆく暮らしの姿や山岳信仰の世界を映像で記録するようになる。

百姓の家に生まれた私もまた、家や村の歴史には無頓着だった。学校で習う「大きな歴史」と家や村の「小さな歴史」は、まったく交わることがなく、教科書に載らず、したがって試験に出るはずもない。「小さな歴史」を、むしろ軽んじていた。

というあたり、まさに同感である。この本を読むと、「小さな歴史」の大切さがよくわかる。一つ一つの「小さな歴史」を調べていくうちに、思いがけない「大きな歴史」が見えてくるのである。

「オイヌさま」の護符から、「御嶽講」、そして「オオカミ信仰」「山岳信仰」へと、話は広がりつつ深まっていく。見事なフィールドワークと言うべきだろう。

「宗教」、「信仰」は明治時代に生まれた翻訳言語である。だから厳密にいうなら、江戸時代までの日本には宗教も信仰も存在しなかったのであり、このような概念ではくくることのできない別の祈りだった。(…)しかしいまでは、私も「信仰」という言葉を用いなければ、何も語れなくなっている。

近代以降の日本人は、こうした矛盾を常に抱えつつ生きてきたのだろう。歴史を解き明かすことを通じて、今の私たちの姿もまた、よく見えてくるのである。

2014年12月1日、新潮文庫、490円。

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2015年05月03日

駒田牧子著 『根付』


「ジャパノロジー・コレクション」と題されたシリーズの一冊。

根付についての入門書。数多くの作品の写真を載せ、題材、作者、材料、歴史などについて解説している。写真を眺めているだけでも楽しい。

根付は見るだけでなく手に持ったり握ったりすることを前提とした「触覚の芸術」である。
根付は年月の経過や使用により美的価値が増していく「進行する美術」なのだ。

といったあたり、これまであまり意識していなかったので、ハッとさせられた。

作品タイトルの英訳も面白い。「浪人」は「Masterless samurai」、「松茸狩」は「Mashroom gathering」、「あっぷっぷ」は「You laugh first!」。なるほど。

2015年2月25日、角川ソフィア文庫、920円。

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2015年04月29日

『日本の民俗 暮らしと生業』の続き

他にも、印象に残った箇所をいくつか挙げておこう。

旧暦では、正月は冬から春へ移行する折り目にあたり、盆は夏から秋へ移行するときの折り目で、一年間の季節を二分している。

2015年で言えば、旧暦の正月(1月1日)は2月19日、お盆(7月13日〜15日)は8月26日〜28日となり、確かに季節の変わり目と一致する。

昭和二十五年(一九五〇)からは「年齢のとなえ方に関する法律」により、年は人それぞれの誕生日に満で数えるようになった。

戦前は「数え年」で数えていや年齢を、戦後になって「満年齢」で数えるようになったことは知っていたが、それが法律に定められているとは初耳であった。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24HO096.html
(年齢のとなえ方に関する法律)

著者は「あとがき」に次のように記す。

大正十年(一九二一)旧満州の大連市で、鉄道会社に勤めるサラリーマンの家庭に生まれた。我が家には神棚はなく、両親が盆行事をしていたおぼえもない。二〇世紀初めの植民地に暮らしていた日本人の核家族は、母国の習俗やしがらみに無関心だったのである。

こうした生い立ちが、後に著者が年中行事や郷土芸能に関心を抱く遠因になったようだ。私の生まれた家(1970年代の東京郊外のサラリーマン家庭)も同じ環境だったので、よくわかる気がする。

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2015年04月28日

芳賀日出男著 『日本の民俗 暮らしと生業』


2007年にクレオより刊行された本に加筆修正をして、文庫化したもの。

全国各地の暮らしに関わる民俗写真を解説付きで多数収めている。章立ては「正月」「盆行事」「稲作」「漁村の暮らし」「海女」「巫女」「人形まわし」「木地師」「さまざまな生業」「運ぶ」「市」「親族集団」「人生儀礼」。

主に昭和30年代から50年代にかけての写真が多く、今では見られなくなってしまった光景も多い。例えば「丸薬師」という仕事。写真の解説には次のようにある。

練薬をへらできざんで台の上にならべ、木ぶたをかぶせて軽く押してまわす。30秒たらずで700粒ができあがる手練の早技。

この仕事は、昭和51年に「医薬品の製造及び品質管理に関する基準」が定められたことによって廃絶になったとのこと。

これまで知らなかった風習や行事もあったので、いくつか引く。

豆占(まめうら) 正月14日の夜、いろりの灰の上に12個の大豆をならべて置く。
餓鬼棚 盆棚には先祖や家族の霊を祭る「本棚」と、無縁仏を祭る「餓鬼棚」がある。
水口祭り わが家の田圃の水口に菖蒲、小手毬などの花をかざり、饌米を供え、神酒をそそぐ。

2014年11月25日、角川ソフィア文庫、1280円。

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