2016年09月03日

おかべたかし・文、山出高士・写真 『くらべる東西』


「いなり寿司」「桜餅」「線香花火」「銭湯」「タクシー」「ひな人形」など、東日本と西日本では形や習慣が異なるもの34個を取り上げて、大きな写真とともに解説した本。

見開きの左ページに「東の○○」、右ページに「西の○○」の写真を載せているので、一目でその違いがわかる。さらにその後に2頁の詳しい説明が付くというスタイル。

いなり寿司なら

俵型が「東のいなり寿司」 三角形が「西のいなり寿司」

タクシーなら

カラフルなのが「東のタクシー」 黒が主流なのが「西のタクシー」

というわけだ。私は東に生まれて、今は西に住んでいるので、なるほどそうだったのかと思うことが多い。

日本の地域による文化の差というのは、漠然と残っているのではなく、意志によって残っている。あらゆるものが発達した今の社会では、地域差というのは、意志が生み出すものなのだと思います。

この本自体もまた、そうした意志の表れと言って良いだろう。

2016年6月13日、東京書籍、1300円。

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2016年09月02日

『銀の海峡』

副題は「魚の城下町らうす物語」。
制作は北海道アート社。
北海道羅臼町のPR本である。

と言っても別に羅臼に強い興味があるわけではなく、ノンフィクション作家・渡辺一史の文章が読みたくて、羅臼町役場から取り寄せたのである。

(詳しくは下記をご参照ください。)
http://www.edia.jp/watanabe/watanabe/Hokkaido_2.html

全4章のうち、第1章「漁師の食卓」と第2章「魅せられし者たち」の中の2篇を渡辺が執筆している。

男たちの「漬け物観」は、結局のところ、「わが家の漬け物自慢」に行き着くことが多いのだが、それは同時に、羅臼の男たちにとっての微笑ましい“かかあ自慢”でもあるのである。
知床が、その「秘境」としての性格を最もあらわにするのは、冬よりも、夏であるといわれる。例えば、その主脈をびっしりと埋めつくす「ハイマツ」である。

羅臼町は北海道目梨郡に属する。メナシはアイヌ語で「東方」を意味する言葉との説明を読んで、「クナシリ・メナシの戦い」に思い当たる。
http://matsutanka.seesaa.net/article/435963678.html

こんなふうに、頭の中にバラバラにある知識や記憶がふいに結び付くのは気持ちがいい。

知床半島は東側の羅臼町と西側の斜里町に分かれている。以前、北海道旅行をした時に斜里町のウトロや知床五湖は訪れたが、羅臼町には行ったことがない。

う〜ん、行ってみたいな。

2003年8月、羅臼町、500円。

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2016年08月27日

井上章一著 『関西人の正体』


1995年に小学館の単行本、2003年には小学館文庫から刊行された本が、新たに朝日文庫に入ったもの。『京都ぎらい』の大ヒットを受けて、古い本が再刊になったということだろう。

関西と言っても、本書に取り上げられているのは主に大阪と京都である。関西への愛とともに、皮肉や笑いがふんだんに盛り込まれている。キーワードは「没落」だ。

ちなみに、底力がうんぬんされるのは、没落地帯の特性である。じっさい、東京に底力があるといわれることは、あまりない。よく使われるのは、関西の底力。
大阪のなまり、関西弁は、今、他地方に住むひとびとの耳におもしろくひびく。こっけいに聞こえる。これも。上方文化が没落過程にある現代ならではの状況だといえるだろう。
ユニークなアイデアにみちた街。この京都につきまとうキャッチフレーズは、この街がすでに文化の中心地でないことを示している。ありていにいって、辺境地であることを物語っていると思う。
奈良の二の舞を演じるな。明治の遷都以後、京都ではそういわれつづけていた。だが、京都は、ながらく停滞したままである。奈良化の傾向はとめがたい。

著者は「関西復権」など「関西」という言葉がしばしば使われる現状にも異議を呈する。

関東では「首都圏」という言いまわしが浮上した。辺境地の「関東」は、中央を意味する「首都圏」へと、格上げされていったのだ。この変容は、「畿内」から「関西」へと格下げされた地方とくらべて、まことに対照的である。

「関東/関西」と対にはなっているものの、そう言えば東京に住んでいたころ、「関東」という言葉はほとんど見かけなかったのを思い出す。

とにかく、面白い。特に東京に生まれ京都に住んでいる私には、思い当たること、学ぶことの多い一冊であった。

2016年7月30日、朝日文庫、640円。

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2016年08月18日

森達也著 『オカルト』


副題は「現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」。
2012年に角川書店から出た単行本の文庫化。

恐山のイタコ、大谷宗司(心霊科学協会理事長)、荒川靜(スピリチュアル・ワーカー)、木原浩勝(怪異蒐集家)、山本大介(OFU代表)、堤裕司(ダウザー)、木内鶴彦(臨死体験者)など、オカルトに関わる人物に取材したルポルタージュ。

著者のスタンスは、超常現象やオカルトを「ある」か「ない」かの二元論で裁こうとしないところにある。

オカルトの語源はラテン語の「occulere」の過去分詞「occultus」で、意味は隠されたもの。

という原義の通り、著者が不思議な現象を取材し、観察しようとすると、それは常に隠れてしまう。「あきらめようと思えば視界の端にちらりと何かが動く。凝視しようとすると二度と見えなくなる」といった具合だ。

肯定であれ否定であれ、断定したい。曖昧さを持続することは、実のところけっこうつらい。

立場を決めて断定するのは、むしろ簡単なこと。肯定と否定の狭間に居続ける執念こそが、この本を支えている。それは、他の社会問題に関しても一貫している著者の姿勢であろう。

2016年6月25日、角川文庫、720円。

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2016年08月09日

田中輝美、法政大学藤城裕之研究室著 『地域ではたらく「風の人」という新しい選択』


旅先の本屋に入ると、まず郷土関連の本の棚を見る。
この本も、先日松江に行った時に購入した一冊。

島根県に来て働いている8人の人物に学生がインタビューをしてまとめたもの。地域で働くとはどういうことか、人と地域との結び付きはにはどのような形があるのか、考えさせる内容となっている。

「風土」という言葉もあるように、地域には「土の人」と「風の人」がいる、と言われます。土の人とは、その土地に根付いて、受け継いでゆく人のことです。(・・・)一方、風の人は、一カ所に「定住」せず、わずかな期間で他の地域に移動することも少なくありません。(田中輝美)
地域や社会を元気にしたいんです!っていうよりも、自分が何をやりたいかってこと。結果的にそれが社会や地域を元気にするってスタンスが自然だと思う。(三浦大紀)
やっぱり旅人は何か特殊なことがないといけないよね。地域の人たちが持っていない何かを運んでくる。旅人が触媒になって地域の文化が変わるとか、そういうことに意義がある。(白石吉彦)

この本自体、地域応援型のクラウドファンディングで支援者を募り、松江の出版社から発行されている。そうしたところから、新しい流れが生まれていくのかもしれない。

2015年8月11日、ハーベスト出版、1400円。

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2016年08月03日

井上章一著 『愛の空間』


副題は「男と女はどこで結ばれてきたのか」。
1999年に角川選書から刊行された『愛の空間』の第1章から5章を文庫化したもの。

近代以降、男女の性愛がどこで行われてきたのかを調べた風俗史である。野外、遊郭、待合、ソバ屋、銘酒屋、木賃宿、円宿、温泉マーク、アパートなど、時代による移り変わりを含めて、実に詳細に例が挙げられている。

かつての皇居前広場は、野外で性交をしあう男女のあつまる場所だった。多くのカップルが、愛しあうためにここへやってきた。第二次世界大戦の敗戦後、二〇世紀なかごろのことである。

あの皇居前広場で! 何とも驚きの事実である。

プロレタリア文芸の小林多喜二が、『工場細胞』(一九三〇年)という小説を書いている。作品のなかで、小林はお君という女工に、工場へつとめる女たちの批判を語らせた。たとえば、「日給を上げて貰うために、職長と……『そばや』に寄るものがある」などと。

こうした表現も、「そばや」が単なるソバ屋ではなく、当時、性愛の場所として利用されていた事実を踏まえないと意味不明なものとなってしまう。

一九三〇年代の日本、わけても大東京の横顔を……一瞥しようとする時、見落すことの出来ない三つの『円』がある。円本、円タク、円宿ホテル

「円本」「円タク」は歴史の教科書にも載っているが、「円宿」は初めて知った。時間制で一円という料金設定のホテルのことらしい。なるほど、教科書には載せにくい話だ。

当時の新聞・雑誌、さらに小説などの資料に非常に幅広く当たって、著者はこの一冊を書いている。しかも、1960年代以降のラブホテルに関する記述は、元版を全面的に書き直したいとのことで、この文庫版からは省かれた。その衰えない熱意に感嘆する。

2015年10月25日、角川ソフィア文庫、1120円。

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2016年07月30日

万城目学著 『とっぴんぱらりの風太郎』


買ったまま積んであった本を読む。
全746ページ。弁当箱みたいに厚い。
「風太郎」は「ふうたろう」ではなく「ぷうたろう」。プータロー。

伊賀の忍者の話ということで、鴨川ホルモー(京都)、鹿男あをによし(奈良)、プリンセス・トヨトミ(大阪)、偉大なるしゅららぼん(滋賀)に続いて、今度は三重の話かと思ったが、それは第1章だけ。第2章からは京都と大阪が舞台である。

これまでの作品とはだいぶ感じが違って、けっこうシリアスな内容。面白いところもたくさんあるのだが、読み終えた後はずっしりとした重みが残った。

小説のテクニックとして気づいたこと。

「Boa Sorte(ボアソルチ)、――風太郎」
黒弓が妙な言葉を唱えた。
「何だ、それ?」
「向こうの言葉で、『幸運を』っていう意味だよ」

このやり取りだけで、仲間の「黒弓」が異国から来たことがわかる。
説明を省いて会話だけで読者に伝えている。

蝉は俺より二つ年を食っている。つまり、今年で二十歳になる。

要するに主人公の俺(風太郎)は、18歳ということだ。
「俺は十八歳」と読者に向けて自己紹介するより、よっぽど自然である。

このあたりは短歌にも応用できる部分だろう。

2013年9月30日、文藝春秋、1900円。

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2016年07月21日

渡辺一史著 『こんな夜更けにバナナかよ』



副題は「筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」。
2003年に北海道新聞社から刊行された本の文庫化。

以前、この著者の2作目『北の無人駅から』(すごい本!)について、ブログで取り上げたことがある。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138721.html

このデビュー作もまた、すごい本であった。

進行性筋ジストロフィーでほぼ寝たきりの重度障害者と、その介助をするボランティアをめぐるノンフィクション。本を買って3年、ずっと読むのを躊躇っていたのだが、読み始めると圧倒的な力でぐいぐいと引き込まれた。

この人はすごい。

自らも介助のボランティアに参加しながら、著者は障害とは何か、介助とは何か、ボランティアとは何かについて考える。さらには、他者と関わるとはどういうことか、生きるとはどういうことなのか、といった問題へと話を深めていく。

障害者もボランティアも、決してやさしかったり、純粋なだけの人間集団なのではなく、ときには危ういドロドロとした、ひどく微妙な人間関係の力学の上に成り立つ世界なのだ。
従来の自立観では、「他人に依存せず、自分だけでやってゆける」のが自立と考えられていた。しかし、重度障害をもつ自立生活者たちというのは、いわば、「他人と関わること」を宿命づけられた人たちである。
「よかれ」と思ってやったことが、そうではなかったときの驚き。やさしさが裏目に出、アドバイスが裏目に出、互いの意志と意志、気持ちと気持ちがチグハグに食い違う瞬間。そのとき人は、「他者」というものの存在を思い知らざるをえないのだ。

何十人という人物から話を聞き、一人一人の考えや意見に寄り添いながら、それら全体を一冊の本にまとめ上げる粘り強さ。書きながら、自問自答を繰り返しつつ、決して安易な結論に導いてしまわない忍耐力。本当にすごいものだと思う。

本を読んで久しぶりに泣いた。

2013年7月10日、文春文庫、760円。

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2016年07月16日

『訓読みのはなし』のつづき

短歌に関係する部分をいくつか。

消えた和語について他の例も挙げると、古くは「脳」には「なづき」、「地震」には「なゐ」、「暗礁」には「いくり」という和語があった。

「なづき」「なゐ」など、確かに日常の言葉としてはもう使はない。でも、短歌の中にはしばしば出てくる。

今日の短歌や俳句の作品には、「瞑(めつむ)る」「瞑(めつむ)りて」「瞑(めつむ)れば」など、「瞑」を「めつむ‐る」と読ませる例がある。これも、一語と認定する辞書は少ない。もし「め」「つむる」の二語と認定すれば、これは二語にまたがる訓読みを持つ漢字となる。

確かに『広辞苑』では「瞑(つむ)る」は載っているが、「めつむる」は載っていない。

「我」も一人称「われ」という字義は仮借義である。この字は、のこぎりの象形文字で、すなわち、のこぎりが本義であり、同音語で代名詞「ガ」というような単音節の古代中国語にそれを当てて用いた。そして、その後、「我」に「のこぎり」の意味は失われたのである。

「我」が「のこぎり」を意味する漢字だったとは!
そこで思い出したのが、先日読んだ次の歌。

「我」という文字そっと見よ 滅裂に線が飛び交うその滅裂を
                大井学 『サンクチュアリ』

「我」がのこぎりの象形文字であるならば、ギザギザで滅裂なのも道理である。象形文字の持つ力とでも言えばいいのか。「のこぎり」の意味を失った今も、「のこぎり」的なニュアンスはちゃんと伝わっているのだ。

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2016年07月14日

笹原宏之著 『訓読みのはなし』


副題は「漢字文化と日本語」。
2008年に光文社から刊行された『訓読みのはなし―漢字文化圏の日本語』を改題し、文庫化したもの。

日本語が漢字をどのように取り入れてきたのかという問題を、訓読みというユニークな方法を中心に紹介し、さらには朝鮮・韓国やベトナムなど東アジア圏における漢字の受容の歴史にまで話を広げている。

一つの漢字に対して音読みと訓読みの二つがあるというのは、普段あまり意識しないけれども、実はかなりユニークなことなのだ。

体系的な記述と言うよりは雑学的な部分が多いのだが、新しい発見がいろいろとあって楽しい。

日本における漢語は、亜「ア」、小「ショウ」、白「ハク」など、一音節か二音節と拍数が短い。また、二拍目に来る音は、(・・・)「イ」「ウ」「キ」「ク」「チ」「ツ」「ン」といった限られたものしかないなど、発音の種類が一定であり、概して硬質な感じが漂う。
「キク」は、花そのものが身近なこともあって、訓読みのように意識されがちであるが、音読みなのである。「胃(イ)」も、胃腸をまとめた語は別として、その臓器そのものと一対一で対応する和語がなかったようで、字音が単語として定着した。
江戸期には、その(漢文訓読の)技術を応用して、オランダ語や英語などの横書きの文に対しても、レ点や一・二点のような記号を単語と単語の間に加えながら読んで訳す「欧文訓読」「英文訓読」が行われることがあった。
奈良時代までさかのぼれば、和語のハ行はP音で発音されていたことが万葉仮名や擬音語に関する分析などから知られており、(・・・)「ひかり」は、奈良時代には「ぴかり」のように発音されていたのであった。

「ひかり」だとあまり光っている感じがしないけれど、「ぴかり」だと確かに光っている。

2014年4月25日、角川ソフィア文庫、760円。

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2016年07月03日

高橋和夫著 『中東から世界が崩れる』


副題は「イランの復活、サウジアラビアの変貌」。

テレビの解説などでもおなじみの著者が、今年1月のイランとサウジアラビアの断交のニュースを皮切りに、現在の中東情勢と今後の見通しについて記している。

中東の歴史や宗教に関しても最低限必要な知識をまとめてくれていて、ありがたい。専門家にとっては当り前のことでも、意外と知らないことが多いものだ。

サウジアラビアなどはアラブ人の国だが、イランはペルシアの国だ。この違いは、私たち日本人が思っている以上に大きい。
イラン人は、自分たちは巨大なペルシア帝国をつくった人々の子孫だという強烈な意識を持っている。地理的な広さに基づく大国意識だけでなく、歴史的な意識に支えられた大国意識をも抱く、誇り高い人々なのだ。
「石油の時代」がいつまでも続くのがサウジアラビアの国益である。石油関係者がよく言うように、「石器時代が終わったのは石がなくなったからではない」。石器に代わる鉄器が現れたからである。
現在のトルコという国は、オスマン帝国の継承国である。オスマン帝国は、かつてはイスタンブールを首都とし、アジア、アフリカ、ヨーロッパにわたる広大な領土を支配していた。

その昔、世界史の授業で習った「ペルシア帝国」や「オスマン帝国」の話が、まさに現在の問題へとつながっていることがよくわかる。学生時代は「こんなこと習って何の役に立つのか」などと文句を言っていたけれど、現在起きている問題を考える際にも歴史は大きなヒントや手掛かりとなるのである。

本書を読んで一番衝撃だったのは、

ありていに言えば、中東で“国”と呼べるのは三つだけだ。先ほど述べたイラン、そしてエジプトとトルコである。

という話。著者によれば、それ以外のサウジアラビアやイラクやシリアは「国もどき」ということになる。私たちが近代国民国家をベースに考えている国という概念は、そもそも普遍的なものではないということなのだろう。

イギリスのEU離脱、トルコのイスタンブール空港でのテロについて自分なりに考える際にも、この本は非常に役に立つ。歯切れの良い文章で読みやすく、中身は濃い。タイトルはやや刺激的過ぎるが、別に何かを煽るわけではなく、内容はバランスの取れた記述となっている。

2016年6月10日、NHK出版新書、780円。

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2016年07月02日

岩下明裕・花松泰倫編著 『国境の島・対馬の観光を創る』


特定非営利活動法人「国境地域研究センター」が刊行する「ブックレット・ボーダーズ」の1冊目。

近年韓国人観光客が増加している対馬の現状を分析するとともに、ボーダーツーリズム(国境観光)の導入や商店街の活性化など、今後への具体的な提言がまとめられている。

国境地域は、外国から自国を守るための「砦」であるとともに、外国へ開かれた「ゲートウェイ」(入口、通路)でもある。

「砦」になれば、その地域はどんづまりになる。隣国との間に誰も通れない壁ができる。およそ地域としての自立やビジネスなどの展開は不可能だろう。
まちが生き残るには「ゲートウェイ」しかない。住民たちはそのことを肌で理解している。

国境問題を考える上で、こうした観点は非常に大事だと思う

対馬には歴史的な遺産や豊かな自然が多くある。福岡から対馬を経由して釜山へと至る「国内+海外」観光ルートの創設など、今後さらなる可能性が秘められている。

ぜひ一度、訪れてみたい。

2014年7月25日、国境地域研究センター、800円。

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2016年06月29日

内澤旬子著 『世界屠畜紀行』


2007年に解放出版社から刊行された本の文庫化。

バリ島の豚の丸焼き、エジプトのラクダの屠畜、チェコの肉祭り、モンゴルの羊の屠畜、韓国の犬肉、沖縄のヤギ肉、インドの犠牲祭、アメリカの大規模屠畜、日本の芝浦屠場など、世界中を回って家畜が肉になるまでの様子を取材したルポルタージュ。

雑誌「部落解放」に連載されたことからもわかるように、屠畜という仕事やそれに従事する人に対する差別はなぜ起きるのか、というところから話は始まる。けれども、難しい話や主義主張を語るわけではない。ひたすら屠畜という仕事の魅力や大切さを丁寧に描き出している。

まさに興味津々といった感じで作業の一つ一つについて書き、詳細なイラストを付けている。現場の様子が目に浮かんでくるようだ。

しっぽといえども背骨に連なる骨がある。一見、すぱすぱと簡単に切っているように見えるが、刃を入れる場所を数ミリでも間違えれば、絶対(!)切れないのであった。
豚のおちんちんは股の間ではなくて、お腹の真ん中近くにある。食用の豚は、柔らかく味良くするために去勢してあるため、タマはないし、おちんちんもまるで出ベソみたいだ。

外国の牧場や屠畜の風景は、日本のイメージとは随分違うことも多い。

どこのイスラム国でも、都市部は肉屋が家庭に呼ばれて肉を捌くのが一般的だ。この日の肉屋は、まるでお盆の坊さんのように各家庭をはしごして回り、屠畜料をもらう。
見学したのは、テキサスの4大ランチのひとつ、ピッチフォークランチ。17万エーカー(687.9平方キロメートル)の面積を誇る。山手線の内側約11個分だ。

屠畜をめぐる話は、やがてBSEなど食の安全をめぐる問題や動物福祉という観点、さらには屠畜場の郊外移転と都市の関係など、様々に広がっていく。

現在、家畜が肉になるまでの工程を私たちはほとんど意識することがない。それを目に見える形で示したことは、この本の大きな功績だろう。

2011年5月25日初版、2014年3月15日4版。
角川文庫、857円。

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2016年06月18日

田中康弘著 『猟師食堂』

著者 : 田中康弘
エイ出版社
発売日 : 2016-03-25

全国にある「猟師が自ら料理を提供する店」を取材した本。

愛知県名古屋市の「百獣屋然喰(ももんじぜんくう)」、石川県白山市の「CRAFT WORKS ER」、滋賀県大津市の「猪ゲルゲたこゲルゲ」、大分県佐伯市の「RYUO」、佐賀市の「GABAIいのしし食彩」など9店が紹介されている。

著者の本を読むのはこれで4冊目。

『マタギとは山の恵みをいただく者なり』
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139111.html
『女猟師』
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139286.html
『日本人は、どんな肉を喰ってきたのか?』
http://matsutanka.seesaa.net/article/394034729.html

いずれもカラー写真が豊富で、読んでいて楽しい。
(解体の場面なども多いので、苦手な人は苦手かもしれない)

獣肉はスーパーで売っている肉とは完全に別物だ。畜産肉は飼育期間が短く若いうちに処理される。
それに比べると野生肉は(・・・)雌雄、年齢による個体差は大きく、それが肉質に影響するのだ。いつどこで買っても差のないスーパーの肉とはここが決定的に違うのである。

人間に置き換えて考えてみればわかりやすい。男女によって、また子供からお年寄りまで年齢によって、同じ人間でも身体は大きく違う。それが普通のことなのだ。

本書の中で繰り返し語られるのは、狩猟の方法やその後の処理の仕方で肉の味が全く違ってくるということ。その点において「猟師兼料理人」は最も良い形で野生肉を提供できる人ということになる。

ジビエ料理の背景には物語があると私は思っている。肉となった獣それぞれの人生(獣生?)、それを仕留めた猟師、そして料理をした人の哲学が混ざり合うのがジビエ料理ではないだろうか。

料理だけではなく「物語」も味わうこと。
そこにジビエ料理の美味しさと魅力の秘密があるのだろう。

2016年4月10日、えい出版社、1500円。

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2016年06月16日

武田知弘著 『教科書には載っていない! 戦前の日本』


戦前(主に昭和初期)の日本の社会がどんなものであったのか、34のトピックを挙げて解説した本。「国会議員にヤクザの親分がいた」「危ないクスリが薬局で買えた!」「大阪が日本最大の都市だった!」「サラリーマンはエリートだった!?」「海を渡った移民たち」といった話題が並んでいる。

著者は「軍国主義」や「暗黒の時代」という面だけでは戦前の日本は捉えられないことを指摘し、「思想的な解釈をせずに見た場合、戦前の日本ほど面白い時代はない」と述べる。これがあまり行き過ぎると歴史修正主義に陥ってしまうのだが、そのあたりのバランスはよく取れているように感じた。

昭和5年、大阪の北新地に、女給とキスができる接吻カフェ「ベニア」が登場。たちまち大評判になり、雨後のタケノコのように次々と同種の店が誕生した。
自転車の製造は、フレーム部など鉄砲と共通する技術が多かった。そのため、鉄砲鍛冶たちは自転車が普及しはじめると、まず修理業をはじめ、そのうち自ら自転車を製造するようになったのである。
松坂屋は関東大震災の復興を機に、畳敷きの売り場をやめて、土足のまま入ることのできるフロアに改装したのである。それまでの日本のデパートや小売店は、玄関先で履物を脱ぎ、中に入ることになっていた。

このように描かれた一つ一つの事実の中から、戦前の日本の姿が少しずつ浮かび上がってくる。

残念なのは一目でわかるような誤植が非常に多いこと。「対象(大正)のはじめ」「日本軍に終われ(追われ)」「東方(東北)帝国大学」「社会は(社会派)ルポ」など、かなりお粗末である。

2009年1月14日、彩図社、1200円。
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2016年06月12日

円満字二郎著 『昭和を騒がせた漢字たち』


副題は「当用漢字の事件簿」。

1946年の当用漢字の公布から始まる戦後の漢字の歴史について、社会を賑わしたいくつかの出来事を中心に、時代を追って記している。

『青い山脈』(1947年)の「恋」、郵政省改名騒動(1958年)の「逓」、誤字を理由にした解雇問題(1967年)の「経」、水俣病患者の幟(1970年)の「怨」、「よい子の像」碑文裁判(1976年)の「仲」など、漢字にまつわるエピソードが数多くあることに驚く。

当用漢字という制度は、一つの思想であった。漢字を制限し、日本語を一般民衆にとって覚えやすく使いやすいものに作り変えていくことは、民主主義のために必要だ、という思想である。
「当用漢字字体表」は、たしかに漢字の字体の基準を示している。その基準が、極端に厳密に求められるようになったのである。それは、漢字に関する「基準を求める心」が、受験戦争と結び付いた結果であった。
教育の平等が行きわたれば行きわたるほど、当用漢字の存在価値は、軽くなっていく。(・・・)その結果、あらわになってくるのは、自己表現の手段としての漢字の自由の拡大である。

漢字の制限と漢字の自由という相反する考えは、互いに消長を繰り返しつつ、長い目で見れば自由の拡大へと向かってきた。これは、戦後の日本の歩みとも深く関わっている。

今年に入ってからも、漢字の「とめ」や「はね」の有無を広く許容するというニュースが話題になった。現在、文化庁のホームページにて公開されている「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)の概要」には、「字の細部に違いがあっても,その漢字の骨組みが同じであれば,誤っているとはみなされない」とある。

これも本書の描いた戦後の流れに位置づけられる話であろう。

2007年10月1日、吉川弘文館歴史文化ライブラリー、1700円。

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2016年06月08日

武田徹著 『暴力的風景論』


2012年から13年にかけて7回にわたって「新潮45」に連載した「戦後史の風景」に加筆・修正を施して改題したもの。

大きな事件が起きるたびに「これで日本は変わる」と人々は言う。けれども

しばらく時間が経てば自体は平穏を取り戻し、社会は結局、何も変わらなかった。

それは何故なのか、というところから著者の思考はスタートする。そして、戦後の大きな事件やブームとその現場を訪ねつつ、そこに人々が見ようとした「風景」を探り当てていく。

取り上げられるのは、「沖縄」「連合赤軍事件」「田中角栄『日本列島改造論』」「村上春樹『ノルウェイの森』」「宮崎勤事件」「オウム真理教事件」「酒鬼薔薇聖斗事件」「秋葉原連続殺傷事件」。

この本で語られる「風景」とは、単に目に見える景色のことではない。私たちの先入観や解釈や気分といったものによって形作られる「風景」のことである。

現実を前にして私たちは物語、つまり出来事を解釈する枠組みを求める。世界を、ただ事実の偶然の連なりとしてではなく、意味の連関を持った統一体として見たい、そんな欲望は抗いがたい。それは世界をひとつの「風景」として見ようとする欲望に通じる。

この「風景」という切り口を用いて、著者は戦後の日本の歩みそのものを問い直しているのである。

2014年5月25日、新潮選書、1200円。

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2016年06月07日

日本語記述文法研究会編 『現代日本語文法3』


現代日本語文法の本。
第5部「アスペクト」、第6部「テンス」、第7部「肯否」を収録。

むちゃくちゃ面白い。
夢中になって読んでいたら付箋が50枚くらい付いてしまった。

日本語の文法について、いかに自分が知らないかということがわかって、実に新鮮である。

アスペクトの表現には、表現者である話し手がその事態をどのように観察しているかということが反映される。
テンスは、非過去形と過去形という述語の形態によって表し分けられるので、非過去形・過去形の対立をもたない述語には、テンスがない。
動き動詞の非過去形には、目の前で展開している動きを観察して述べる用法がある。
過去形を用いると、話し手が何らかの形で直接体験したようなニュアンスが生じるのに対し、非過去形にはそのようなニュアンスはないという違いがある。
否定文は、現象をそのまま述べる文よりも、話し手の判断を述べる文で用いられやすい。

印象に残った部分を少し抜粋した。これだけ読んでも何のこと?という感じだが、本の中では一つ一つ例文を挙げながら体系的に説明しているので、非常にわかりやすい。

全7巻のシリーズなので、他の巻も読んでいきたい。

2007年11月25日第1刷、2012年4月1日第2刷、くろしお出版、2800円。

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2016年06月06日

昭和ノスタルジック愛好会編著 『廃校遺産』

著者 :
ミリオン出版
発売日 : 2012-12-26

全国に残る廃校を写真と文章で紹介した本。

取り上げられているのは、沼東小学校(北海道美唄市)、松尾鉱山中学校(岩手県八幡平市)、高松分校(神奈川県足柄上郡山北町)、徳山小学校(岐阜県揖斐郡揖斐川町)、須賀利中学校(三重県尾鷲市)、島小学校(高知県安芸郡北上村)、端島小中学校(長崎県長崎市)など、全部で26校。

いわゆる廃墟マニアの人たちが写真を提供して、それに学校の歴史等を記した文章を付けて構成しているようだ。廃墟系の本の中には心霊スポット紹介的なものも多いのだが、この本はいたって真面目である。

小学校・中学校は誰もが通ったことのある場所だけに、訴えてくる力が強い。味わいのある木造校舎の階段や廊下だけでなく、黒板、時計、人体模型、とび箱、「今月の生活目標」の貼り紙など、一つ一つが記憶の深いところに触れてくる。

2012年12月29日、ミリオン出版、1800円。

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2016年05月30日

想田和弘著 『演劇vs.映画』


副題は「ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか」。

平田オリザと青年団の活動を取材した映画「演劇1」「演劇2」について、監督である著者が記した本。平田や青年団の俳優との対談、座談会なども収録されており、平田の現代口語演劇の理論や、想田の観察映画の方法論がよくわかる内容となっている。

以前、この映画を観た時に買って長らく「積ん読」状態になっていたのを、新作「牡蠣工場」を観たのをきっかけに思い出して、本棚の奥から発掘して読んだのである。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138986.html

ドキュメンタリーとは何か、演技とは何か、リアルとは何か、といった問題について実に多くの示唆を与えてくれる内容となっている。著者自身、撮影や編集をする中で何度も自問自答を繰り返しつつ、ようやく作品を完成させている。

「ありのまま」を映画にする作業は、容易ではない。被写体を漫然と撮って編集したのでは「ありのまま」は映らない。「ありのまま」の再現には、綿密な計算や操作、技術や鍛錬が必要なのだ。
「作り手が出会い、体験した世界を描く」ということは、「作り手が出会わなかった、体験しなかった世界は描かない」ということでもある。それは「あれも、これも」ではなく「あれか、これか」を選択する態度であり、引き算の思想なのだ。
構成がうまくいき始めると、ひとつのシーンが映画の中で単一の役割ではなく複数の役割を果たし始める。それが起こり始めたら、その構成は正しい。

最後の文章など、例えば短歌の連作をどのように並べるかといった問題にも通じる話だろう。

それにしても、当初「90分〜120分」を予定していた映画が、実際には「演劇1」2時間52分+「演劇2」2時間50分の計5時間42分になるのだから、相当な入れ込みようである。

しかも、実際に撮影した時間は何と約307時間。全撮影時間のうち映画になったのは、わずかに1.8%なのだ。でも、その残り98.2%の部分が陰で映画の質を支えているのだろう。

2012年10月19日、岩波書店、1900円。

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2016年05月21日

岩下明裕著 『入門 国境学』


副題は「領土、主権、イデオロギー」。

タイトルには「国境学」とあるが、実際は本の中で何度も使われる「ボーダースタディーズ」という言葉の方が相応しい内容である。国境を含めた様々なボーダー(境界)がどのように生まれ、人々の暮らしにどのように影響を与えるかを述べ、さらには机上の論にとどまらず、実際の国境問題等に関する政策的な提言も行っている。

国境というものは人間が生み出したものである。それは時代とともに変化することがある。ソ連・東欧の社会主義圏の崩壊やEUの拡大などを踏まえて、著者は

国家のスクラップ・アンド・ビルドは、境界の喪失=「脱境界化」(de-bordering)と境界の誕生=「再境界化」(re-bordering)、そして「越境化」(trans-bordering)という三つの現象を同時に生じさせるものとなった。

と述べる。境界であった場所が境界でなくなるとともに、別の新たな境界が生まれる。さらに、境界を超えた人や物の移動によって境界は絶えず揺さぶりを受ける。境界や国境というものは決して固定したものではなく、常に組み替えられ、流動するものだというわけだ。

本書で具体的に取り上げられているのは、ベルリンの壁、ベルファストのピースライン、イスラエルのグリーンライン、板門店、アメリカとメキシコの国境、中露国境、竹島、北方領土、尖閣諸島、稚内、根室、対馬といった場所である。

領土問題、移民問題、安全保障、地域振興といった様々な問題を含んだ「ボーダースタディーズ」は、今後大きな可能性を秘めているように感じる。

2016年3月25日、中公新書、860円。

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2016年05月19日

伴野準一著 『イルカ漁は残酷か』


和歌山県の太地町で行われているイルカの追い込み漁は、近年、国際的な批判にさらされている。関係者へのインタビューや資料に基づいて、この問題をどのように考えれば良いのかを示したノンフィクション。

こうした問題に関して公平・中立な立場を取るのは難しいし、そのような立場が存在するかもわからない。それでも著者が努めて冷静に客観的に記述しようと心掛けていることはよく伝わってくる。好著と言っていいだろう。

和歌山県が最も多くイルカやゴンドウを捕っているわけでもない。小型鯨類の捕獲頭数を県別にみると一位は常に岩手県で、(・・・)和歌山は捕獲頭数では大きく水をあけられた万年二位の県である。

といった事実や、太地町のイルカ追い込み漁が伝統的なものではなく1972年頃に新しく始まった漁法であること、「ザ・コーブ」に主演した活動家リック・オバリーがかつてイルカの調教師であったことなど、私の知らなかったことが多く記されている。

また、バンドウイルカに関して言えば、食肉としての利用(1頭1万円程度)よりも水族館への販売(1頭40万〜70万円)が目的となっていることなども明らかにする。

そのうえで、著者は漁師へのヘイトスピーチや違法行為を繰り返すシーシェパードなどに対して厳しく非難するとともに、私たち自身の問題についても問いかけるのだ。

傲慢不遜な彼らに対する反発から、私たちのなかからイルカ漁について虚心坦懐に考えようとする気運が失われてしまったことも事実である。

文化と伝統、漁業の衰退、地域振興、環境保護、動物福祉など、多くの問題を考えさせる一冊であった。

2015年8月11日、平凡社新書、840円。

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2016年05月13日

平田オリザ著 『地図を創る旅』


副題は「青年団と私の履歴書」。
2004年に白水社より刊行された単行本を新書化したもの。

大学1年で初めて戯曲を書いた1982年からの10年間、著者の二十歳代の出来事が記されている。当時発表された文章や公演のパンフレットからの引用も多く、時代の雰囲気と現代口語演劇が完成するまでの軌跡がよくわかる。

私は劇団員に戯曲を渡すと、まず初期の段階で、「首を動かすこと」「手を動かすこと」「セリフに間を入れること」の三点を禁止する。   /「AIジャーナル」12(1987年12月)
悲しいという感情は、悲しいという言葉では表現されない。悲しさを表わす比喩も、無前提を条件とするならば、よほど高度で、緊張感の伴ったものでないかぎり、押し付けに終わってしまうのが大抵である。 /同上
ディテイルにこだわること。会話と意識のディテイルにこだわって、逆に大事なことは全て省略し、物語の展開は、観客の想像力に完全に委ねてしまうこと。 /1991年「ソウル市民」再演のチラシ

こうした理論的な裏付けに基づいて、平田オリザの「静かな演劇」は生まれたのである。

帰国後、猛烈な勢いで、私は『ソウル市民』を書き上げた。
この作品を書き上げて、もうその瞬間に、私は日本演劇史に名を残したと思った。不遜な言い方になるが、事実そう思ったのだから仕方がない。

この自信の強さに、目を見張る思いがする。
これくらいの矜持や気概がなければ、何かを成し遂げることはできないに違いない。

その一方で、「ソウル市民」に対する最初の劇評には「やはり結果はまったく退屈でした。まして、俳優の基礎訓練ができていない。主張は結構ですが、方法は明らかに誤りでしょう」などと、散々に書かれる。けれども著者は、そんな無理解に対してめげはしない。

いまも、この号の『悲劇喜劇』は、私の机のいちばん目立つところに置いてある。そして、私は、この雑誌をときどき手にとって、この劇評の部分を眺め、少しだけ勇気づけられる。

誉められた評ではなく貶された評を置いているのだ。それをエネルギーに変えているのである。この姿勢は見習いたいと思う。

2013年8月25日、白水Uブックス、1200円。

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2016年05月09日

サラーム海上著 『イスタンブルで朝食を』


副題は「オリエントグルメ旅」。

音楽評論家で料理研究家でもある著者が、トルコ、レバノン、モロッコ、イスラエルなどを訪れて、現地で食べた料理や教わった料理をレポートしたもの。初出は双葉社文芸WEBマガジン「カラフル」2013年7月〜16年2月配信。

中東の旅行記でもあり、中東料理の紹介でもあり、また中東料理の作り方の本でもある。巻頭にはカラー写真が多数載っていて、鮮やかな色彩や見たことのない料理に想像が膨らむ。

長年、トルコ料理と日本料理を食べ比べてきたが、日本のほうがはるかに量が多いものを初めて見つけた。(・・・)かき氷だけは日本のほうが何倍も大盛りだ。なぜなんだろう?

現地の人とのやり取りも面白い。普段は当り前に思っている日本の食生活が、実は当り前ではないことに気づかされるのだ。

「野菜は必ず手にとって、状態を調べてから買うようにして下さいね。えっ、日本では野菜は全部袋に入ってるんですか?」
「羊肉はできるだけ新鮮なものを使ってね。えっ、日本では新鮮な羊肉を手に入れるのが難しいのですか?それは残念ですね」

食の話を通じて、国境や民族、宗教についても考えさせられる話が出てくる。

現在の世界地図だけ見ていると、タジキスタンから(イスラエルに)来た彼女たちが、ウズベキスタンの都市であるブハラの料理を作る理由がわからないかもしれない。
トルコ人が知らずにいるイスラエルとトルコの共通性を、好事家のポーランド人や日本人が知っているというのもおかしな話だが、外の人間だからこそ見えてくるものもあるのだろう。

料理や音楽は国境を越える。
それを経験し自らも実践している著者は、なんとも楽しそうだ。

2016年3月13日、双葉文庫、833円。

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2016年04月14日

舛田佳弘/ファベネック・ヤン著 『「見えない壁」に阻まれて』


ブックレット・ボーダーズNo.2。
副題は「根室と与那国でボーダーを考える」。

国境と言うと紛争や壁といった負のイメージを持つことも多いが、そこは二つの国や地域をつなぐ窓口でもある。地理的にも中央から見れば辺境であるが、国境を越えた交流が深まれば、そこは貿易や往来の最先端になるのだ。

この本は、ボーダースタディーズ(境界研究)を推進する「境界地域研究ネットワークJAPAN」を通じて根室市と与那国町に派遣された、2名の若手研究者が記した現地の状況や問題点の報告である。

与那国町から台湾へ渡る際に

新石垣空港から台湾の桃園空港までは週二便あるが、意外と使いづらい。やむを得ず那覇経由で行くことになるのだが、一〇〇キロそこそこの台湾へ渡るために五〇〇キロ以上も反対方向へ移動しなければならない。

という現状や、根室について

最も印象に残ったのは、根室が自らを「国境の街」と表現できないことだった。日本政府が国境線を「択捉島の北」だと主張している限り、外交上この表現がタブー視されるのは理解できるが、「境界地域」とさえ呼べないことには驚いてしまった。

という問題など、現地に長く滞在した人ならではの話が次々とあり、考えさせられた。

国境というものは、捉え方によって全く違った姿を見せる。国境問題や境界地域を考えるに当っては、岩下明裕氏(国境地域研究学会会長)の

「端っこ」が豊かであれば、それは国自体が豊かである証拠

という言葉を大事にしていく必要があるだろう。

2015年7月10日、国境地域研究センター、900円。

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2016年04月12日

石黒浩著 『どうすれば「人」を創れるか』


副題は「アンドロイドになった私」。
アンドロイド(人間酷似型ロボット)研究の第一人者である著者が、これまでのロボット研究の成果や今後の展望を記した本。

ロボットの研究を通じて、著者は人間や技術についての考察を深めていく。

人類は、新しい技術を発明するたびに、人間の定義をより深化させてきた。
人間は、普段見ることができる表面形状が人間らしいのであって、体内の構造を見ても人間らしくない。
技術は想像から始まるわけで、その意味ではSFは技術の種の宝庫である。
ジェミノイドを作って、初めて他人の方が自分のことをよく知っているということがわかった。

この著者のすごいところ(変人ぶり?)は、本書に載っている数々のエピソードを読めばわかる。

「どうして同じ服ばかり、それも黒い服ばかり着るのですか?」と、人によく尋ねられる。それに対して、私はいつも、「どうして毎日違う服を着るのですか?」と聞き返す。

さらにすごいのは、著者そっくりに開発したジェミノイドが、5年経って年取った著者との違いが出てきた時に、

ジェミノイドの修理の手間や費用について考えてみると、実は私を修理する方がはるかに早くて安くすむことが明らかであった。(・・・)私自身が若返った方が早いのだ。

と考えて、自ら顔の整形手術に踏み切るところである。
これくらいでないと、その道の第一人者にはなれないのだろうな。

2014年11月1日、新潮文庫、550円。

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2016年04月09日

『国境の人びと』の続き

国境や領土、領海といった話は、どうしてもナショナリズムを刺激しやすい。
この本も、

海を狙われる国「日本」と海を狙う国「中国」「ロシア」「韓国」との対立が生まれている。そして、その対立の中にある「異なる領土の主張」は、国家間の紛争の火種となり、いつ暴発してもおかしくない状態になっているのだ。

という立場に基づいて書かれている。国境問題が大切なことは間違いないが、危機意識を煽るだけでは、ますます解決から遠ざかるばかりだろう。

著者は韓国について

教育の現場においては、「独島はわが領土」という歌までつくり、わざわざ竹島=独島の存在を子供に教えている。本来自国の島であれば、わざわざ竹島はわが領土などという必要はないのだ。

と書く一方で、日本については

二〇一四年四月、文部科学省は、一五年度から小学校で使う教科書の検定結果を公表した。その中で、島根県の竹島、沖縄県の尖閣諸島に関して、社会の教科書と「地図」の一四点中、五、六年生用の計七点が「日本(固有)の領土」と明記している。小学校の教科書に竹島と尖閣諸島の領有権が明記されたのはこれが初めてである。

と誇らしげに書いている。こんな単純な矛盾にも気づかなくなってしまうほどに、領土をめぐるナショナリズムは根が深いのである。

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2016年04月08日

山田吉彦著 『国境の人びと』


副題は「再考・島国日本の肖像」。
「新潮45」の2013年1月号〜14年6月号に連載された文章に加筆修正を加えてまとめたもの。

著者は国境に近い島や辺境の地域を訪ね、日本の領土や海洋権益、安全保障について考察する。訪れたのは、尖閣諸島、対馬、五島列島、隠岐、根室半島、小笠原諸島、与那国島、大東諸島、壱岐、奄美大島、甑島、能登半島、西表島、津軽海峡、沖ノ鳥島、国後島と、日本の隅々に及んでいる。

日本は世界で六番目に広い「海」を持つ国である。

領海と排他的経済水域を合わせた広さは、実に447万平方キロメートル。海のことを考えると、日本は決して小さな国ではなかったのだ。

従来、海と言えば漁業の話が中心であったが、今後技術開発が進めば、海底油田やレアアースなど、この広い排他的経済水域が大きな意味を持つようになる。日本人はもっと海に対して関心を寄せるべきなのだろう。

国境にある島々で人が暮らし、コミュニティを築くことこそが、国の安全を守るためには、最も重要なことである。
離島の過疎化は、日本の海上安全保障上の最大の問題点である。

本書ではこうした主張が繰り返し述べられている。著者と私ではだいぶ立場が違うのだが、離島の過疎化、高齢化への対策が必要という点では共通した思いがある。

2014年8月30日、新潮選書、1300円。

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2016年04月02日

小川三夫著 『宮大工と歩く奈良の古寺』


宮大工の小川三夫の話を塩野米松が聞き書きしたもの。

取り上げられている寺は、法隆寺、法輪寺、法起寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、興福寺、元興寺、十輪院、室生寺、秋篠寺、長弓寺の12か所。

法隆寺の建立当時の大工道具についての説明に、

縦挽きの鋸はなく、板を挽いたり、角の柱を挽いたりは出来ませんでした。表面を平らにする台鉋も鎌倉後期から室町まで伝わっていません。大きな木を割るには楔を打って割りました。

とある。それであの見事な金堂や五重塔を建てたのだ。あらためて、その苦労や技術に驚かされる。

塔には安定感と同時に、動きがあると、美しさが増します。
芯柱というのは、実は塔の構造には関係がありません。一番てっぺんの相輪を乗せるだけの役目です。
屋根反りは縄ダルミみたいな曲線がいいんです。棟に立って縄の端を持つ。それで軒でそれを受けて持ちますと、縄が美しい曲線をつくります。

こうした指摘は、実際に寺の修復や建築に携わっている著者ならではのものだろう。そこが、単なる観光案内とは大きく違っている。

建物を、姿や様式、部材を個別に判断するんじゃなく、風景の中で建物を見ることも大事ですな。

法隆寺や薬師寺、室生寺など、そう言えば中学の修学旅行で訪れたきりだ。せっかく関西に住んでいるのだから、また行ってみよう。

2010年7月20日、文春新書、905円。

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2016年04月01日

彩帆

彩帆なるうつくしき名を持つ少女/サイパンといふうつくしき島
          山田航『水に沈む羊』

という一首を読んで思い出すのは、半田良平の「信三を偲ぶ」という一連。

生きてあらば彩帆島にこの月を眺めてかゐむ戦ひのひまに 『幸木』
彩帆はいかにかあらむ子が上を昨日(きのふ)も憂ひ今日も憂ふる
彩帆にいのち果てむと思はねば勇みて征きし吾子し悲しも

昭和19年7月、戦局を伝える報道を聞いてサイパンにいる息子の安否を気づかう内容である。半田の3人の息子のうち、次男克二は昭和17年に、長男宏一は18年に病気で亡くなっており、三男信三は唯一残った男の子であった。

昭和20年の始めには

サイパンに生き残れりと思はねば今宵は繁(しじ)に吾子ししぬばゆ

とも詠んでいる。信三ももう帰ってくることはないという悲痛な思い。

この歌は「床上詠」という一連に入っており、半田良平自身もこの歌の数か月後には亡くなるのである。

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2016年03月30日

松本博文著 『東大駒場寮物語』

著者 : 松本博文
KADOKAWA/角川書店
発売日 : 2015-12-09

かつて駒場寮の第132期寮委員長を務めた著者が、1993年の入寮当時の思い出や、戦前から続く自治寮としての歴史、さらには駒場寮の存続運動や最後の日々を綴ったノンフィクション。

単なる青春時代の回顧にとどまらず、一つの学生寮の歴史を通じて日本の社会や政治のあり方までも見えてくるところが面白い。いろいろと考えさせられる一冊だ。

九州出身の黒川や光内と、気づいたことが一つある。それは、東京は自分たちが暮らしていた西日本に比べて、朝が早くやってくる、という事実だった。

こうした何気ないディテールに、初めてふるさとを離れて暮らし始めた当時の実感がよく表れている。

一研の裏には、ロールプレイングゲームの隠し部屋のような、意外な位置に安い床屋があって、90年代にも営業を続けていた。

何とも懐かしい。学生時代、ここで何度も髪を切ってもらったことがある。

駒場寮は多くの有名人を輩出している。歴史を振り返る中で、小柴昌俊、畑正憲、亀井静香、柄谷行人、内田樹、野田秀樹、堀江貴文といった人の話やエピソードが次々と出てくる。

10年にわたった存続運動や裁判の末に、2001年に駒場寮は解体された。けれども寮にあった膨大な量の記録文書は奇跡的に残され、現在も無事に保存されているそうだ。

この本もその記録に基づいて書かれた部分が多いとのこと。記録や資料を残すことの大切さをあらためて感じさせられた。

2015年12月10日、株式会社KADOKAWA、1800円。

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2016年03月28日

磯田道史著 『歴史の愉しみ方』


副題は「忍者・合戦・幕末史に学ぶ」。

『武士の家計簿』で知られる著者は、13歳の時に家に伝わる古文書を譲り受けて以来、数多くの古文書を読み続け、その成果や発見を一般の人向けに書き続けている。

著者の持ち味は、フットワークの軽さである。少しでも気になることがあると、そのままにはしておかない。

忍者はどれぐらい危険な仕事だったのか。ふとそんなことを思い調べることにした。
武士がちょんまげを結わないと、どうなるか。校則のきびしい学校のように頭髪検査があって叱られるのか。ふと、そんなことが気になった。
いま、津波避難タワーの建設がさけばれている。海岸ぞいで高台のない人口密集地ではまさに命綱だ。ふと考えた。江戸時代に津波避難タワーはなかったのか。

こうした疑問を持つと、著者は古文書を探し始める。古文書の速読ができ、「発見困難な古文書をみつける運がある」著者は、次々と新史料を発掘していく。本当に史料や歴史が大好きなことが、文章の端々から伝わってくる。

新幹線が天王山に一番接近するところから先が激戦地。右の車窓に日立物流の建物がみえるあたりが光秀軍の布陣地だ。古来、合戦は交通の要衝で起きる。古戦場は物流センターになっていることが多い。

「古来、合戦は交通の要衝で起きる」は歴史家なら誰でも言えることだろう。しかし、その次の「古戦場は物流センターになっていることが多い」は実際に現地を訪れた人にしか言えない言葉だ。ここに、著者の持ち味がある。

2012年10月25日、中公新書、740円。

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2016年03月26日

浅田次郎選 『うなぎ』


うなぎを題材にした文学作品10篇を収めたアンソロジー。

収録されているのは、内海隆一郎「鰻のたたき」、橋治「山頭火と鰻」、岡本綺堂「鰻に呪われた男」、井伏鱒二「うなぎ」、林芙美子「うなぎ」、吉行淳之介「出口」、吉村昭「闇にひらめく」、樹のぶ子「鰻」、浅田次郎「雪鰻」、そして最後は斎藤茂吉の短歌となっている。

鰻という題材はエロスと結び付きやすいようで、男と女の話が多い。そんな中にあって一番印象に残ったのは、戦時中を舞台にした浅田作品であった。

俺は参謀や副官たちのひとりひとりに向かって、挙手の敬礼をした。俺が選ばれた理由はわかっていた。つらい任務を果たしたからではなく、齢が若いからでもなかった。後方からの能天気な命令が届いたとき、たまたまそこに俺が居合わせなかったからだった。

というところなど、実によく人間心理が表されている。

無性に鰻が食べたくなってきた。

2016年1月10日、ちくま文庫、780円。

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2016年03月18日

宮本常一著 『私の日本地図5 五島列島』


1968年に同友館から刊行された同名の本を、新たに「宮本常一著作集別集」として刊行したもの。「私の日本地図」全15巻のうちの1冊。

昭和27年、36年、37年、39年と計4回にわたって五島列島を旅した記録。宇久島、小値賀島、野崎島、六島、藪路木島、大島、宇々島、中通島、頭ヶ島、若松島、福江島、日ノ島、男女群島など、数多くの島を一つ一つ丁寧に歩き回って、人々の暮らしや風俗、地理、歴史について考察をしている。

五島は、東京や大阪からみれば西のはてのように思うけれども、海ひとつへだてればそこには朝鮮や中国がある。向う側から見れば入口なのである、決して国のはてではない。それを国のはてのように思わせるにいたったのは、中国や朝鮮との往来がむずかしくなってきたことからではなかったかと思う。

五島列島と言えば西の辺境というイメージが強いが、歴史的に見れば、ここは海外との交流の最先端の場所であったのだ。

宮本の視線は、常にその地に根差して暮らしている人々に向けられている。離島の暮らしをどのように豊かにしていくかは、彼の長年にわたる課題でもあった。

宇久島はレンコダイ釣の船の基地であったが、今はそのことも一〇年まえのように盛んではない。笛吹にはイワシ巾着網の船の影は見えなかった。生産があがって島が近代化したのではない。周囲の風潮と公共設備投資によって、はなやかになってきたまでであって、生産のともなわないことが、島民を島外へ押し出さざるを得ない状態になしつつあった。

こうした思いはさらに、国の施策に対する疑問や、戦後の風潮に対する反省へとつながっていく。

国を今日のようにまで発展させ、文化を高め得たものは土着の思想であったと思っている。その土を愛し、その土に人間の血をかよわせようとする努力が、この国を生き生きさせたのである。そのような愛情と努力は、すくなくとも戦前までは国の隅々にまで見られた。

かつては農業や漁業などの第一次産業を中心として、国土の隅々まで毛細血管が伸びるように人々の暮らしがあった。その後の高度経済成長、産業構造の転換、都市部への人口集中と地方の過疎化。そうした問題を、宮本はいち早く肌で感じていたのだろう。

半世紀近く前に書かれた本でありながら、今の私たちの生活や、日本の今後を考えるヒントが、ここにはたくさん詰まっている。いつ読んでも、宮本常一は圧倒的だ。

2015年7月30日、未來社、2400円。

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2016年03月17日

飯間浩明著 『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』


季刊誌「楽園」の2006年4月号〜2015年4月号までの連載に、大幅に加筆修正を行い、再編集したもの。

『三省堂国語辞典』編集委員を務め、「国語辞典編纂者」の肩書きを持つ著者が、コミュニケーションや分かりやすい表現などについて、言葉の面から記している。

ことばの中には、指すものの実態が変わっても、なおも使われ続けているものが少なくありません。靴を入れても「下駄箱」、ペンを入れても「筆箱」と言うのは、その典型的な例です。
従来の常用漢字表にあって、すでによく使っている漢字も、改めて見ると、活字のとおりに書くとおかしいものがあります。典型的なのは「人」です。誰だって、こんなとんがり屋根のような形には書きません。
一般に、形容詞を多用すると、感情や評価を含む主観的な表現になりがちです。一方、動詞を使うと、批判も称賛も含まない、客観的な言い方がしやすくなります。このことは、形容詞「汚い」と動詞「汚れる」を比較するとよく分かります。

最後の引用部分は、短歌にも関わる内容であろう。さらに、形容詞の中にも、「うれしい」「おそろしい」「恥ずかしい」などの感情形容詞と、「広い」「長い」「赤い」などの属性形容詞があることが別の個所で述べられている。

このあたり、少し前にブログに書いた「描写の言葉」と「心情の言葉」の話とも、深く関係してくる。

2015年5月1日、PHP新書、780円。

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2016年03月15日

黒田涼著 『大軍都・東京を歩く』


「江戸歩き案内人」として東京の歴史ガイドツアーを行っている著者が、東京に残る旧軍関連施設や戦争遺跡を訪ね歩いて記した案内書。

かつての東京は軍都中の軍都、大軍都でした。

とある通り、東京の至るところに、その痕跡が残されている。

本書は「千代田・丸の内など」「赤坂・青山など」「外苑前・代々木など」「水道橋・護国寺など」「市ヶ谷・早稲田など」「板橋・赤羽」「十条・王子」「池尻大橋・駒場・三軒茶屋など」と、全部で8つのコース(+おまけ)を紹介している。それぞれに地図も付いていて、実際に順路通りに歩くことができる内容となっている。

私が戦争遺跡に興味を持ち始めたのは、東京を離れて以降のことなので、東京の戦争遺跡はあまり見ていない。「駒場」コースの中に

東に進む道を行き、警視庁の駒場住宅が途切れたあたりからは近衛輜重兵大隊駐屯地で、今は駒場東邦中高、警視庁第三方面本部などがあります。この一角、学校や警察関係の宿舎、施設が非常に多いです。これは旧軍用地の特徴でもあります。

という記述がある。「駒場東邦中高」は私の母校で、6年間通った場所。毎日歩いていた道の近くに、いくつも記念碑があるらしい。今度ぜひ訪ねてみよう。

2014年12月30日、朝日新書、1000円。

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2016年03月14日

藤森照信×山口晃著 『探検!東京国立博物館』


『日本建築集中講義』の名コンビが、今度は「トーハク」こと東京国立博物館を見て回って書いた(描いた)案内書。二人の本音かつ時にとぼけたやり取りが面白い。

表慶館の屋根裏や五棟の茶室、館長室など、一般の人が入れない場所にも潜入して、その様子を伝えてくれる。

印象に残ったところを2つ挙げる。
1つは高橋由一筆「酢川にかかる常盤橋」について山口が

この人は「リアリズム」といっても本質を描くんじゃなくて、絵画性を一切打ち捨ててとにかく再現性に特化した人。描いたモノはわかるんですが、主題がまったく見えてこないのがおもしろいですね。

と書いているところ。
もう1つは、初代の本館がイスラム様式で建てられたことについて藤森が

「美術館」というシステム自体、西欧の概念で造られていて、機能としても西欧的。ただ、日本の伝統を意識する以上、ヨーロッパ建築をそのまま造るわけにはいかない。

と述べ、東洋と西洋の間を取ってイスラム様式を取り入れたと指摘しているところ。

どちらにも明治時代の日本の苦闘が滲み出ている。

2015年12月1日、淡交社、1700円。

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2016年03月11日

甲斐崎圭著 『山人たちの賦』


副題は「山暮らしに人生を賭けた男たちのドラマ」。
1986年に山と溪谷社から刊行された単行本の文庫化。30年前の本ということになる。

「北の山の羆撃ち」「阿仁のマタギ」「白馬岳のボッカ」「イワナの養殖師」「修験者の宿坊守」「最後の木地師」など、北海道から岡山まで、全国各地の山に暮らす人の姿を追った13篇のルポルタージュを収録。

私が自分に枷(か)したのは、お茶を飲んだり酒を呑んだりして話を聞くだけでなく、必ず現場に同行させてもらうということだった。

強風の中を猟師とともに獲物を追い、絶壁にぶら下がって岩茸を採り、急斜面の細道をたどって山の中の仕事場へ行く。現場に同行することで初めて実感できることが多いのだ。

30年以上前の記録なので、今では状況も随分と変っている。文庫版付記として「行方のオヤジさんは二〇〇五年に逝去された」「松橋さんは二〇一一年一月、静かに逝去された」といった記載があり、歳月の経過を感じさせる。

最も興味を引かれたのは「京都修道院村」。あらゆるセクトを超えた修道院を目指して1972年から京都北山の奥深くに建てられた修道院。1980年の取材当時は、日向美則氏を中心として4人の修道士、2人の修道尼、そして2人の村人が住んでいた。ここも、現在は活動停止状態になっているらしい。

2015年12月23日、ヤマケイ文庫、880円。

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2016年03月09日

安藤宏著 『「私」をつくる』


副題は「近代小説の試み」。

近代の小説において、「私」がどのように生み出され、小説の中でどのような役割を果たしてきたのか。著者は、二葉亭四迷、夏目漱石、志賀直哉、太宰治、泉鏡花、川端康成、牧野信一、芥川龍之介など数多くの例を引きながら、「私」の構造や本質に迫っていく。

扱っているのは小説の話なのだが、一人称や事実と虚構の問題など、短歌とも深い関わりがある。

実は一人称の「私」もまた、もう一人の「私」によってつくられ、演出されている「私」なのである。
一人称は非現実的な内容にリアリティを与えたり、ありきたりの日常を眺め変えてみたりするためにこそ有効な手立てでもある、ということになる。
「事実」の「報告」を前提に出発するからこそ、逆に作者は「いかにも事実に見えるウソ」を表現することができるわけで、そもそも虚構とは、こうしたダブルバインド(二重拘束状況)を仕掛けていく技術の謂(いい)にほかならない。
そこには作者を主人公に重ね合わせて読もうとする慣習を逆手にとって「事実」を攪乱していこうとする、したたかな戦略があるのではないだろうか。

こうした部分は、そのまま短歌の「私性」や「虚構」の話にも当て嵌まるだろう。「私」(短歌で言う「われ」)を用いることによって、表現の幅や可能性が格段に広がるというのが大事なところである。

近代歌人ももちろん、このことに気が付いていた。それを元にして数々の近代短歌の成果を生み出したわけである。近代の歌人たちが単に「ありのままの事実」を詠んでいたなどという、素朴な短歌観や近代短歌批判は、そろそろ終わりにしなければならない。

それは

「単なる私小説」などという“敵役”は、実際にはどこにも存在しないものだったかもしれないのである。

という私小説批判への疑問とも重なることなのだろう。

2015年11月20日、岩波新書、760円。

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2016年02月24日

村上春樹/安西水丸著 『日出(いず)る国の工場』


1987年に平凡社から刊行された本の文庫化。

1986年1月から8月にかけて取材した7つの工場について、エッセイとイラストで記した訪問記。

取り上げられているのは、「人体標本工場」(京都科学標本)、「結婚式場」(松戸・玉姫殿)、「消しゴム工場」(ラビット)、「酪農工場」(小岩井農場)、「コム・デ・ギャルソン工場」、「コンパクト・ディスク工場」(テクニクス)、「アデランス工場」の7つ。このちょっと変った選びにも、著者のセンスが光っている。

文章は軽快で楽しい。それだけでなく、鋭く本質へと切り込んでいく。

人々は結婚式というセレモニーにおいて感動もし、涙ぐんだりもする。しかしもし涙ぐんだとしても、その涙は一定の時間をもって収束するように設定されている。
かつらというのは非常に特異な商品なんです、とアデランスの広報担当者は言う。何が特異かというと「クチコミがまったくない」ということである。

書かれているのは30年前の話なので、今とは異なっている部分も多い。そのことが、むしろこの本の価値を高めているように感じた。時代の記録にもなっているのである。

CDの生産が現在のところまだ需要に追いついていないということ。要するにとてつもなく忙しいのである。

これらの工場が30年後の今はどうなっているのか、続篇が読みたい気がする。

1990年3月25日発行、2014年5月15日16刷、新潮文庫、710円。

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2016年02月22日

水戸岡鋭治著 『鉄道デザインの心』


副題は「世にないものをつくる闘い」。

「883系特急ソニック」「九州新幹線800系」「ななつ星in九州」など数々の鉄道車両をデザインしてきた著者が、仕事をする上での心構えや信念を記した本。内容的にはビジネス書と言っていいだろう。

自分の力で人生を切り拓いてきた人の持つ強さが言葉の端々に表れている。そういうタイプはどちらかと言えば苦手なのだが、著者のデザインに対する考えや仕事に対する思いには共感することが多い。

椅子のメーカーが椅子を設計するとダメなんです。彼らは技術的に自分が一番得意な技の中に形をはめようとするんで、昔の流れを汲んだものしかできてこないんです。
人間工学のダメな点は、人間が同じ姿勢でずっと座ることを前提にしている。人間って、椅子に座って同じ姿勢でいられないようになってるんです。
豊かな国には、やはり仕事の種類がたくさんあります。無駄な仕事もたくさんあって、多くの人が生きていくためのいろんな仕事がたくさんある国が素晴らしい国ですよ。
勘でこの色がいいとかこの形でいいとか決めて当たったときは、それはその人が蓄積したノウハウがたくさんあるからであって、それは十分一生懸命生きてきた証と言っていいと思います。
雑事っていうと低く見る人がいるけど、仕事は雑事が大事ですから。段取りさえ全部できて、雑事ができれば、仕事はもう70パーセント、80パーセントできたも一緒です。

著者は鉄道車両のデザインにとどまらず、乗務員の制服やロゴマークなどもすべてデザインする。さらに、駅舎のデザインや船のデザインもやるし、将来的には街づくりのデザインも手掛けたいようだ。

デザインの持つ力や可能性を強く感じさせてくれる一冊である。

2015年6月29日、日経BP社、2000円。

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2016年02月18日

品田悦一編 『鬼酣房先生かく語りき』


帝都大学教授の鬼酣房(きかんぼう)先生が残した原稿を、編者の品田さんがまとめたという体裁のエッセイ集。大学の校友会誌や学内報に載ったものに書き下ろしを加えて一冊としている。

内田百閧フ「百鬼園先生」や松下竜一の「松下センセ」のような感じで、品田さんの分身である「鬼酣房先生」が登場する。エッセイではわりとよくあるスタイルなのかもしれない。

ことによると〈教科書・読本〉は「テキスト」で、〈言葉で織り出されたもの〉なる高級な概念は「テクスト」、というような使い分けが成立しているのかもしれません。でもそれは英語人の与り知らぬことですよね。
ある日、東海道新幹線で関西方面へ向かっていたときのこと――熱海付近で車両がトンネルに入ったのだが、子息がトンネルを経験するのはこのときが生まれて初めてだった。彼は思わず叫んだ。
「あれえ。おんもなくなっちゃったよ。」
 順番にKKS・GSS・SIS・GSIS・KYS・SKS・SZS・SKKS……なんだかお分かりになりますか。
 実は、北米の日本文学研究者のあいだで通用している勅撰和歌集の略称です。
 『古今集』『後撰集』『拾遺集』と来て、『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』『千載集』『新古今集』……この先も二十一代集の分がすべて揃っていますが、もうたくさんですね。

全体が4章に分かれていて、内容的には雑然としているのだけれど、読んでいくとけっこう面白い。いつの日か続篇も出るのだろうか。

2015年7月20日、青磁社、1500円。

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2016年02月15日

野矢茂樹著 『哲学な日々』


副題は「考えさせない時代に抗して」。

前半は「西日本新聞」に50回にわたって連載されたエッセイ、後半はさまざまな場に書かれた文章を集めた一冊。気楽に読める内容であるが、いろいろとヒントを与えられる。

授業は教師のパフォーマンスの場ではない。そんな授業は、ちょうど体育で教師だけが運動しているようなものだ。
根拠のない自信は強い。なんたって根拠がないんだから。誰も覆せない。
考えることは雨乞いのようなものである。こうすれば必ず答えが降りてくるなんてマニュアルなど、ありはしない。
人との出会いってほんとうにだいじだなと思いますね。話している内容だけでなく、その話し方、声の調子、表情、そうした活字では伝えきれない力が直に伝わってくる。

次のような箇所は、短歌にも共通する話だと思う。

あなたは自分ではよく分かっていることを書く。しかし、読む人はそうではない。このギャップに無頓着だと、伝えたいことが相手に伝わらない。
芸術的表現の場合には、書きたいことが明確でない場合もしばしばであり、むしろ、書くことによってはじめて、自分が何を表現しようとしているのかが形になってくる。ときには、読者の深読みによってようやく、著者の意図が姿を現わすということも起こる。

もちろん、哲学の本なので「バラは暗闇でも赤いか?」とか「「犬」ってどういう意味?」といった話も載っている。ああでもない、こうでもないと考えながら、自分でものを考えることの楽しさを実感できる。

2015年10月27日、講談社、1350円。

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2016年02月13日

西畠清順著 『そらみみ植物園』


花と植木の卸問屋「花宇」の5代目にしてプラントハンターの著者の文章と、武蔵野美術大学4年生による絵描きユニット「そらみみ工房」のイラストをあわせた本。

「おそるべき才能をもった植物」「イラっとする植物」「記録より記憶に残る植物」「秘境・ソコトラ島の植物」「マジで!?な植物」「残念な植物」「ムラムラくる植物」「愛を語る植物」「世界を変えた植物」の9章、全61種類の植物に関するエピソードが載っている。

鉤爪のような形をしてゾウやサイに踏まれるのをひたすら地面で待つ「ライオンコロシ」(ヒッカケイカリ)や、幹だけで1385トンもあるセコイアスギ「シャーマン将軍の木」、メス蜂そっくりな花を咲かせてオス蜂が交尾しにくるのを待つ「ハンマーオーキッド」など、不思議な植物が続々と登場する。

「おれ、植物が大好きなんです」と言う著者の熱い思いと楽しさが伝わってくるオシャレな一冊だ。

2013年7月13日、東京書籍、1400円。

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2016年02月11日

安西水丸著 『ちいさな城下町』


全国各地の小さな城下町20か所を訪ね歩いた紀行文。
「オール讀物」に連載された17篇に書き下ろし3篇を追加している。

ぼくの城下町の好みは十万石以下あたりにある。そのくらいの城下町が、一番それらしい雰囲気を今も残している。

この本の一番の特徴は、この町選びの方針にある。観光地としてはあまり有名でない町が多い。僕も日本全国かなりの町を旅している方だと思うけれど、20か所のうち行ったことがあるのはわずかに6か所であった。

単なる旅行記ではなく、エッセイの要素も多く含んでいて、だいたい自分の若い日の思い出から話が始まる。ガイドブック的な客観性よりも、作者の好みや癖が濃厚に滲み出ていて、それが面白い。

特徴の一つは、歴代の藩主をきちんとたどることである。どこも小さな藩だったところなので、藩主が転封や改易などで次々と変わる。それを「誰々が何万石でどこそこから移って来て・・・」と丁寧に記す。

もう一つの特徴は、すべて列挙することである。例えば、日本三大桜の一つ「三春の滝桜」の名前を出したら、必ず他の二つの「根尾谷淡墨桜」と「山高神代桜」も挙げる。一つだけでやめない。

「最上八楯」の一つである天童氏の名前を出したら、他の七氏の名前もきちんと挙げる。「西尾五か所門」も「賤ヶ岳の七本槍」も「日本三大山城」も「真田十勇士」も、全部の名前を平等に書き記すのである。

そこには

ぼくは子供の頃から変なところがあり、映画でも小説でも芝居でも、妙に傍役に惹かれるところがあった。

という性格も関係しているのだろう。
作者の持ち味が十分に発揮されて楽しい一冊である。

2014年6月25日、文藝春秋、1400円。

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2016年02月07日

室井康成著 『首塚・胴塚・千人塚』


副題は「日本人は敗者とどう向きあってきたのか」。

日本各地に、戦いに死んだ者を弔うための「首塚」「胴塚」「千人塚」などが残されている。その数は著者の調査によれば、実に665か所にものぼる。

本書は645年の大化の改新の蘇我入鹿の首塚から1877年の西南戦争における西郷隆盛の埋葬地まで、歴史を順にたどりながら、それらにまつわる伝承や現在の姿を追っている。

取り上げられている塚は、大友皇子の自害峯、平将門の首塚、平忠度の腕塚、新田義貞の首塚、関ヶ原古戦場の東首塚・西首塚、井伊直弼の首塚、近藤勇の首塚など、日本史を一通りおさらいするかのように多彩である。

「壬申の乱」と「関ヶ原の合戦」、「一ノ谷合戦」と「湊川合戦」がほぼ同じ場所で戦われていることを指摘した上で「平場の少ない日本列島においては、合戦を行なうに適当な場所は限られていたのである」と述べるなど、歴史の本としてもすこぶる面白い。

けれども、歴史学の本ではなく、民俗学の本である。

本書は、戦死者の亡骸を埋葬したとされる塚の伝承を論じるものの、その真偽や形成過程を歴史的に明らかにすることを目的としていない。それは、私が柳田国男と同様、そうした伝承は「人が之を信じて居るといふこと」にこそ、その意義があると考えるからだ。

というのが著者の立場なのだ。

「塚に仮託されて語られる、人々の戦死者に対する想い」は、どのようなものであったのか。故郷を離れた土地で無残にも亡くなった人の霊魂をどのように処遇したら良いのか。「霊的処遇」と言うと言葉は硬いが、要は「慰霊」である。

それは、決して過ぎ去った昔の話ではない。靖国神社の問題や、天皇陛下のパラオやフィリピン訪問など、現在も続いている問題である。

丁寧なフィールドワークと文献調査を通じて、これまであまり手掛けられてこなかった歴史学と民俗学の隙間に果敢に踏み込んだ力作と言っていいだろう。

2015年11月19日、洋泉社、1800円。

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2016年02月02日

『食味往来』のつづき

島根県の江津(ごうつ)と広島県の福山のつながりの話も印象に残った。江津から江川(ごうのがわ)を遡ると、三次(みよし)、塩町を経由して上下まで行く。この上下から芦田川を下って行くと福山に出るのだ。

江川からのぼり、三次を通って福山へ行くには交通のきびしい時代でも、かなりたやすく往き来できたということである。

今でも、鉄道で言えば、江津から三次には三江線が、三次から福山には福塩線が通っている。しかし、どちらもかなりのローカル線で、利便性が良いとは言えない。

試しに、江津から福山まで最短で行こうと思えば

江津7:44―(スーパーおき)―新山口10:14
新山口10:21―(山陽新幹線)―福山11:16

というルートが最も速くてで3時間32分。
これに対して、三江線、福塩線を使うと

江津6:00―三次9:21
三次14:43―府中16:32
府中16:41―福山17:27

と、実に11時間27分もかかるのである。

江津と福山のつながりが現代では想像しにくくなっている理由は、このあたりにあるのかもしれない。

でも、例えば中村憲吉は1889年に三次(布野町)に生まれ、1934年に尾道で亡くなっている。尾道は福山に近い。なぜ終の住処が尾道だったのかを考える上でも、こうしたつながりを知っていることは役に立つのではないだろうか。

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2016年02月01日

河野友美著 『食味往来』


副題は「食べものの道」。
1987年に三嶺書房より刊行された本を改題、文庫化したもの。

北海道で採れるコンブがなぜ沖縄でよく食べられているのかという話を皮切りに、食べものがどのようなルートをたどって伝わり広まっていったのかを考察した本。

著者の幅広い知識と現地探訪によって綴られる話は、どれも非常に面白い。黒潮の流れ、海や川の舟運、街道、気象条件、中国大陸や朝鮮半島からの影響、集団移住など、様々な形の伝わり方がある。

房総半島は紀州、つまり和歌山県とのつながりが非常に深い。例えば、房総半島にある地名をみても、勝浦、白浜といった紀州で有名な地名がここにもある。
水(水上輸送)がどんなに便利であるかは、京都府の北側、日本海に面した丹後地方から有名な織物である丹後ちりめんや米が、船によって関門海峡を通り、瀬戸内から大阪を経て京都に運ばれていたことからもわかる。
山形が大阪や京都といった上方とつながっていた理由は、上方文化が日本海の舟運とともにはいってきたこと、さらに東側、つまり仙台側とは山に隔てられていて交通が不便であったことがあげられる。
信州でも、東信になる千曲川の流域から北信にかけては、東北地方と同様にサケがハレの日の魚になっている。これに対して、天竜川の流域や木曽川の流域など、南信から中信にかけてはブリが祝い魚として用いられてきた。

私たちの暮らしのあり方を考える上で、多くのヒントを与えてくれる一冊である。

1990年9月10日初版、2015年1月25日改版、中央公論新社、1000円。

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2016年01月30日

服部文祥著 『ツンドラ・サバイバル』


『サバイバル登山家』『狩猟サバイバル』に続くシリーズ(?)の3冊目。

サバイバル登山とは装備を最小限にして、食料を現地調達しながら長期間おこなう登山である。

鹿、岩魚、ヌメリスギタケモドキ(茸)、ヌメリイグチ(茸)、ヤマブドウ、エゾライチョウ、エゾ鹿、ブルーベリー、ハリウス(カワヒメマス)、カリブーなどを食べながら、著者は登山や縦走をしていく。

この本に収められているのは

 ・奥多摩、奥秩父、冬期サバイバル登山
 ・南アルプス、夏期サバイバル登山
 ・南会津、夏期サバイバル登山
 ・知床半島秋期サバイバル継続溯下降
 ・四国、剣山山系、冬期サバイバル登山

そして、ロシアの北東端、チュコト半島にあるエル・ギギトギン湖への旅である。

中でもチュクチ族のトナカイ遊牧民ミーシャとの出会いは、著者に大きな刺激を与えたようだ。

 ミーシャは本物だ。猟師として完成している。(…)生まれもった自然児としての才能。その上に、いったいどれだけの試行錯誤をくり返し、どれだけの経験を積み重ねて、ミーシャは今の深みに達したのだろう。
 いや、おそらくミーシャだけじゃない。私が知らないだけで世界中にそんな猟師がたくさんいる。(…)猟師だけにとどまらない。木こり、漁師、遊牧民、罠師、なんでもいい。世界中にミーシャがいる。

旅の記録と様々な思索が一体となって、著者の文章は深い味わいを醸し出す。「この世界に対してゲストではありたくない」という信条が、ぐいぐいと伝わってくる一冊だ。

2015年6月25日、みすず書房、2400円。

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2016年01月20日

岡本太郎著 『神秘日本』


1964年に中央公論社から出た単行本の文庫化。

日本にある神秘的なもの、芸術の根源となるものを探して、恐山のイタコ・川倉の地蔵堂(青森)、出羽三山(山形)、壬生の花田植(広島)、熊野(和歌山)、高野山(和歌山)、神護寺(京都)を訪ね歩いたエッセイ。

単なる物見遊山の記録ではなく、信仰とは何か、芸術とはどうあるべきか、といった考察が随所にあり、民俗学的な視点も含まれている。

イタコは神おろしの時にだけ、みんなが言うことを聞き、尊敬するけれども、ふだんは全然知らん顔して、むしろ軽蔑している。
信仰の素朴な根はいわゆる神社、お寺などの重たい形式・儀式で、厚くおおわれており、われわれは生れた時から、そういう出来上ったパッケージングしか見ないし、見せられていない。
受け入れられなければならない、と同時に絶対に受け入れさしてはいけないのだ。その矛盾した強力な意志が、それぞれの方向に働く。よく私が芸術は好かれてはいけない、と象徴的にいうのは、まったくその意味なのだ。

岡本の日本文化に寄せる情熱的な関心は、伝統重視やナショナリズムによるものではない。

はじめ、私は「日本人」であるよりも、「世界人」であればよいのではないかと考えた。青春の十年以上もパリに住み、世界のあらゆる文化圏に通ずる場所で、世界人になりきろうと努力し、実践した。

その上で彼は「日本人としての存在を徹底してつかまないかぎり、世界を正しく見わたすことはできない」と考えたのである。50年以上前に書かれた文章であるが、グローバリゼーションが叫ばれる現在にも十分に当て嵌まる問題であろう。

2015年7月25日、角川ソフィア文庫、1000円。

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