2017年05月14日

鈴木博之著 『日本の地霊(ゲニウス・ロキ)』


1999年に講談社現代新書から刊行された本の文庫化。

「地霊」という観点から、都市や建築を読み解くというスタイルで書かれた本。普遍的な「空間」として建築を捉える西欧的な考え方に対し、著者はその土地固有の「場所」を意識した建築の捉え方を提示する。

「地霊(ゲニウス・ロキ)」とは、土地の単なる因縁話や因果律ではなく、土地へのまなざしなのであり、都市や建築とわれわれとを橋わたしするものなのである。

取り上げられているのは、国会議事堂、広島祈念平和公園、耕三寺、三菱・岩崎家、常盤台住宅地など。どれも刺激的な話ばかりである。

広島平和記念公園の計画は、原爆ドームをすべての中心に置き、この一種聖性を帯びた廃墟に捧げられた場所を造り出すための計画なのである。こうした場所のデザインは、ただちにわれわれに厳島(いつくしま)神社の境内配置を想起させる。

何という鮮やかな切り口だろう。「平和記念資料館」―「慰霊碑」―「原爆ドーム」という軸線構造を持つ平和祈念公園と、厳島神社の「大鳥居」―「拝殿」―「本殿」―「弥山」という配置を重ね合わせているのである。

確かに1階がピロティとなった資料館やアーチ状の慰霊碑の形は、言われてみれば鳥居をイメージさせる。ものを見る、考えるとは、なるほどこういうことなのだ。

2017年3月25日、角川ソフィア文庫、880円。
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2017年05月07日

復本一郎著 『正岡子規 人生のことば』


今年は子規の生誕150年。様々な特集やイベントが行われている。

本書は子規の残した手紙や随筆から80の文章を引いて、子規の人生や魅力を論じたもの。全体が「泣」「希」「友」「笑」「識」「独」「親」「進」の8章に分れていて、章の冒頭にはそれぞれのテーマに即した俳句6句が挙げられている。

どの文章からも、子規の率直で力強い息遣いが伝わってくる。やはり魅力のある人だとあらためて思う。特に弟子たちに向けての厳しく真摯な言葉には驚かされる。

四、五冊の俳諧文庫さへ備へ置かず、七部集の捜索までも人の文庫をあてにするやうな人が、書物の評釈を書くなど余り大胆な事と存候。(「消息」にある碧梧桐への批判)
依頼心をやめて独立心を御起し被可成(なさるべく)候。金が足らぬといひては人に金を借るやうにては、迚(とて)もいつ迄も金ハ足るまじく候。(香取秀真宛書簡)
貴兄はたやすく決心する人で、なかなか実行せぬ人ぢや。これは第一、書生的の不規則な習慣が抜けぬためであらう。(高浜虚子宛書簡)

いずれも厳しい言い方であるが、それだけ期待もかけていたということなのだろう。子規の歯に衣着せぬ物言いには嫌味がない。

2017年4月20日、岩波新書、820円。

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2017年05月01日

山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏著 『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』


京都産業大学で行われている講演・対談シリーズ「マイ・チャレンジ」の第1回から4回までを収めた一冊。実際の講演や対談を聞いている感じですらすらと読める。

今、インターネットなどによって世界の距離は近くなっていると言われます。でも、実際に行くのとはまったく違う。僕が毎月アメリカに行く理由の一つはそれなんです。(山中伸弥)
大事なのは、研究データをディスカッションするときに、身分の上下があっては絶対にいけないんです。教授が言うことだから正しいなどということは、本来ありえない。(永田和宏)
最近、スマホを持っていると、ほとんど道に迷うこともないじゃないですか。以前は道に迷ったりして、でも迷子になりながら、なんとか目的地にたどり着くという楽しみもあった。(羽生善治)
自分の予想を超えるもの、予想と違うものが出てこないと満足しなくなってしまったところがあります。(是枝裕和)
重要なのはディベートではなく、ダイアローグにすること。つまり、どちらが正しいか、どちらが勝つかということが重要なのではない。勝ち負けを目的とせず、お互いを高め合うような議論をするということです。(山極壽一)

一流の人の話というのは、どんなジャンルの人であってもやはり面白いものだ。

2017年2月20日、文春新書、700円。
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2017年04月26日

石山修武(文)・中里和人(写真)『セルフビルドの世界』


副題は「家やまちは自分で作る」。

2008年に交通新聞社から刊行された『セルフビルド―自分で家を建てるということ』を増補、再編集して文庫化したもの。
初出は「STUDIO VOICE」「Memo 男の部屋」の連載。

一畳だけの書斎、トタンでできたバー、ビニールハウスのレストラン、自動車に乗る二階建ての家、貝殻だらけの公園など、人が手作りした家やモノなど30の物件を取材して写真入りで紹介している。

そこには「セルフビルドとは身の回りの環境を作る歴然たる方法」「セルフビルドとは皆一様に今の文明文化の危機的状況に対しての批評表現の事例群」「セルフビルドとは自己構築である。まず何よりも自分世界を構えようとする意志なんである」という著者の信念がある。

子どもが家の近所に秘密基地を作る気持ちと行動力に似ているかもしれない。

今は少しばかりややこしい時代だ。アーティストがアートを大いに意識して作ったものが作品として日常の壁を越えられることは稀だ。ほとんどないと言ってもよい。
家を買うために一生を不自由に暮らさなければならないとしたら、そんな家は疫病神であるとしか考えようがない。
二十世紀最大級の発明品は明らかに自動車である。それなのに我々は、それを収納する場所は発明できなかったのだ。

こうした現代社会に対する鋭い批評が随所に盛り込まれている。カラー写真も豊富で、あれこれと想像を掻き立てられる。

2017年4月10日、ちくま文庫、1400円。
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2017年04月20日

橋本陽介著 『日本語の謎を解く』


副題は「最新言語学Q&A」。

著者は高校で「言葉の謎に迫る」という授業を始めるにあたって、生徒から言語に関する疑問を募集した。この本はその疑問に答える形で73個のQ&Aを収めている。

日本語の起源、音声、語彙、言語変化、書き言葉と話し言葉、「は」と「が」、主語、活用形と語順、「た」と時間表現など、話題は多方面に渡っているが、全体を通して著者のものを考える姿勢が一貫しているのでバラバラな感じは受けない。

7か国語をほぼ独学でマスターしたというだけあって、英語や中国語など様々な外国語との比較も多く、日本語の性質や特徴がよく見えてくるところも良かった。

印象に残った部分をいくつか引く。

形の上では「全然+肯定形」でも、話者の気持ちは依然として否定なのです。文法を見る時に、文字だけ見て分析すると、本質を取り逃すことがあります。
主語の本質とは何でしょうか。主語というくらいですから、文のメインになるものだと思ってしまいそうですが、じつはそうではありません。文の主役は述語です。
日本語では、ものごとを上から客観的に眺めるのではなく、状況の内側からの視点に同化してしまうのが普通です。
日本語の小説で、「タ形」と「ル形」が混在しているのは、過去の出来事を振り返って語るのではなく、物語の場面(物語現在)を現在として語っているからです。
タ形を使うと、その動作の終わったところを点で捉えます。一方、ル形を使うと、線で捉えるような感じになります。最近の小説、特に流行小説はスピード感を出すためか、ル形の使用が増えています。

最後の引用部分など、近年の口語短歌における「ル形」の多さとも関連してくる話のようで、とても興味深い。

2016年4月20日、新潮選書、1300円。
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2017年04月15日

中田考著 『イスラーム入門』


副題は「文明の共存を考えるための99の扉」。

イスラームについて99のトピックを挙げて解説した本。「クルアーン」「スンナ派」「六信五行」「カリフ」「サラディン」「ムスリム同胞団」「アルカーイダ」など、イスラームの教えや暮らし、歴史、さらに現代の問題に至るまで、様々な話題を取り上げている。

アラビア語の原典だけがクルアーンであり、翻訳はあくまでも外国語での注釈に過ぎず、ムスリムは毎日五回の礼拝でクルアーンの第1章とその他の章句をアラビア語原典で読み上げる義務があります。
家事や子供の養育は妻の義務ではなく、召使の雇用が夫の扶養義務に含まれます。授乳ですら妻の義務ではなく、夫が乳児に乳母をあてがわねばなりません。
イスラーム法は属人法であり、異教徒には課されませんが、使徒を誹謗した者は不信仰者であっても殺害されることもあります。
イラン・イスラーム革命は、西欧型の政教分離、世俗化が世界中で不可逆的に進行すると信じていた西欧にとって大きな衝撃であり、その後の世界的なイスラーム復興現象の顕在化の狼煙となるものでした(・・・)

この本の基本的な立場は、「理解はできないけれども共存するために知っておくべき」という点にある。例えば、上に挙げた「殺害される」というところなど、そんなのおかしいと私たちの多くは思うのだけれど、まずはそうした事実を知っておくことが大切なのだろう。

相手の持つ価値観や考え方を「肯定」「否定」するのではなく、まずはそれをきちんと知ること。それは今後ますます大事になっていく態度なのだと思う。

2017年2月22日、集英社新書、760円。
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2017年04月08日

三上延著 『ビブリア古書堂の事件手帖7』


人気シリーズの完結編。第6巻から二年以上間が空いた。もう読まなくてもいいかなと思いつつ、新刊が出るとやはり買ってしまう。

今回は1623年出版のシェークスピアのファースト・フォリオ(最初の作品集)をめぐって話が展開していく。途中、『ヴェニスの商人』『ロミオとジュリエット』『お気に召すまま』『リア王』『ハムレット』などからの引用もあり、シェークスピア尽くしといった感じ。

帯文には「実写&アニメ 映画化決定‼」とあり、実写とアニメでそれぞれ映画になるらしい。そうなったら、また観に行ってしまうんだろうなあ。

2017年2月25日、メディアワークス文庫、650円。

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2017年03月30日

平田オリザ著 『下り坂をそろそろと下る』


「日本は、もはや工業立国ではない」「もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならない」「日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではない」という現状認識に立って、今後の日本の進むべき方向性や考え方を示した本。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』に象徴される上り坂の明治の日本に対して、下り坂の平成の日本をいかに生きるか。「小豆島」「豊岡」「善通寺」「女川」「双葉」など様々な実践例を挙げつつ丁寧に説いている。

印象に残った箇所をいくつか引こう。

私が生業とする演劇は、そこに行って、やって見せなければ何も始まらないというやっかいで古くさい芸術なので、国内外を巡る旅がもう二〇年以上も続いている。
今回の改革は、大学入試の変容だけの問題ではない。今後、学力観そのものが変わっていくのだろうと私は思う。
これからの日本と日本社会は、下り坂を、心を引き締めながら下りていかなければならない。そのときに必要なのは、人をぐいぐいとひっぱっていくリーダーシップだけではなく、「けが人はいないか」「逃げ遅れたものはないか」あるいは「忘れ物はないか」と見て回ってくれる、そのようなリーダーも求められるのではあるまいか。
今回の震災で、あらためて明らかになったことの一つは、いかに東北が東京の、あるいは京浜工業地帯の下支えになってきたかという事実だった。それは電力やサプライチェーンだけのことではない。東北は長く、東京に対して、中央政府に対して、主要な人材の供給源だった。

私は平田の論の全てに賛成するわけではない。もう少し明るいビジョンも欲しい気がする。その一方で、この本が私たちに多くのヒントを与えてくれることも確かだと思う。

2016年4月20日、講談社現代新書、760円。

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2017年03月20日

舞の海秀平著 『テレビでは言えない大相撲観戦の極意』


元力士で現在はNHKの大相撲の解説を務める著者が、相撲の魅力や観戦法などを記した本。わかりやすい文章で記述のバランスも良く、テレビでの解説の語り口が彷彿とする。

当初は「柏鵬」にするつもりでしたが、当時62キロしかなかった細身の少年には荷が重過ぎると判断し、肌が白かったことから「白鵬」に変更した、と聞きます。
相撲界にはドラフト制度がなく、新弟子の獲得は師匠の手腕にかかっています。
本場所中に国技館で1日に使用される塩は約45キロに及ぶそうです。

現在活躍中の高安についての話も出てくる。

例えば、大関に手が届くところまできた高安の最近の稽古を見れば、彼が強くなることはすぐに想像ができます。意識と稽古は比例するのです。

ただ漫然と稽古していても強くはならない。高い意識を持って取り組んで初めて中身の濃い稽古ができ、強くなっていくのだ。これはどの世界でも同じことだろう。

2016年12月8日、ポプラ新書、800円。

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2017年03月16日

吉田勝次著 『洞窟ばか』


副題は「すきあらば、前人未踏の洞窟探検」。

洞窟探検家として国内外1000以上の洞窟に入り、プロの洞窟ガイドとしても活躍する著者が、これまでの半生を語りつつ洞窟の魅力について記した本。

とにかく、洞窟に対する愛と情熱、行動力がすごい。

まさに運命の出会いと言っても過言ではない。運命の女性と出会った男が「オレにはこの人しかいない」と興奮するように、オレは洞窟の中で興奮しまくっていた。
オレは、洞窟をやる人間、洞窟好きの人間には悪い奴はいないと思っている。
洞窟に出会ってから現在までのおよそ二十数年間、オレは自分の人生の全エネルギーを洞窟探検に注いできた。未知の洞窟を探検するために生きてきたと言ってもいい。

どんな分野においても、こんなふうに言い切れる人はなかなかいないだろう。

洞窟探検に関する具体的な話も面白い。
観光用の洞窟とは全く違う世界である。

当初から、おしっこは空になったペットボトルに、ウンコはジップロックのような密封できるビニール袋に入れて、100%持ち帰るようにしていた。
新しい洞窟を探すとき、最初に見るのは地質図と地形図である。
洞窟をやるようになって、いかに人間が太陽のリズム、つまり1日24時間というサイクルに拘束を受け、それに合わせるために行動を左右されているか、ということがかえって実感できるようになった。

巻頭に16ページにわたって載っているカラー写真も素晴らしい。著者は最後に洞窟の写真集を出したいという夢を書いているのだが、確かに洞窟の美しさや大きさが一目で伝わってくる。

2017年1月31日、扶桑社、1400円。

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2017年03月11日

村上春樹著 『羊をめぐる冒険(下)』


久しぶりに小説を読んだけれど面白かった。
電車の中で物語を読んでいると、時々自分が今どこにいるのかわからなくなる。

どこまで行っても空には雲ひとつなく、地上には終始飛行機の影が映っていた。正確に言えば我々は飛行機に乗っているのだから、その山野を移ろう飛行機の影の中には我々の影も含まれているはずだった。
「あなたが知ってると思ってるものの殆んどは私についてのただの記憶にすぎないのよ」
寂しさというのは悪くない感情だった。小鳥が飛び去ってしまったあとのしんとした椎の木みたいだった。

読み終った時にちょうど電車が京都駅に着いた。
読み終っていなかったら乗り過ごしていたかもしれない。

2004年11月15日第1刷発行、2014年4月21日第27刷発行。
講談社文庫、500円。

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2017年03月08日

羽生善治著 『羽生善治 闘う頭脳』


2015年3月に刊行された文春ムック「羽生善治 闘う頭脳」の文庫化。

小学校・中学校の頃はよく将棋を指していたが、今はまったくやらない。でも、将棋に関する本を読むのは好きだ。

羽生さんとは同じ年齢ということもあって、いわゆる「羽生世代」の棋士の動向は特に気になる。森内俊之九段がB級1組に降格したニュースなどにも、つい立ち止ってしまう。

本書は羽生善治と池谷裕二(脳科学者)、小川洋子(小説家)、為末大(アスリート)、山折哲雄(宗教学者)、沢木耕太郎(作家)などとの対談やエッセイを収めた一冊。

私はプロになってもう二二年目ですので、何もしないとどうしても安全に、無難に、という手を選んでしまいます。それではプロ同士の戦いに勝てません。
人間はやはり視覚から入って来る情報が非常に大きな部分を占めているので、それは非常に便利なのですが、簡単に入ってきたものは簡単に忘れてしまいます。
ミスはしないに越したことはないのですが、それでもミスはしてしまいます。大事なのはミスをした後、ミスを重ねないことだと思っています。

25歳の若さでタイトル七冠を独占し、現在もトップ棋士の地位を保つ著者の発言は、非常に示唆に富む。一流の人の語る話はやはりおもしろい。

2016年3月10日、文春文庫、660円。

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2017年02月24日

村上春樹著 『羊をめぐる冒険(上)』


村上春樹の新作『騎士団長殺し』が発売になった日に、なぜか『羊をめぐる冒険』を読んでいる。

急ぐ読書でもないので、のんびりと5日くらいかけて上巻を読み終えた。小説を読むのも久しぶりな気がする。

面白い比喩がたくさん出てくる。これが無かったら分量は半分くらいになってしまうのではないかしら。

鳩時計みたいに正確だった。
その巨大な車はビルの玄関前の路上に潜水艦みたいに浮かんでいた。
つつましい一家ならボンネットの中で暮せそうなくらい巨大な車だった。
何から何まで新しいトランプのカードを一枚ずつめくる程度の音しかしなかった。
耳栓をつけて湖の底に座っているような静けさだった。
まるで金だらいに乗って水銀の湖面を滑っているような気がした。

115ページ〜116ページだけでも、ざっとこんな感じだ。

途中、芦屋がモデルとなっている街の河口や旧防波堤の光景が描かれていて、以前、高安国世ツアーで行った時のことを思い出したりした。

2004年11月14日第1刷、2014年3月3日第28刷、講談社文庫、500円。

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2017年02月21日

小川軽舟著 『俳句と暮らす』


俳人にして単身赴任中のサラリーマンでもある著者が、「飯を作る」「会社で働く」「妻に会う」「散歩をする」などのテーマごとに、自らの暮らしの話を交えながら俳句について記した本。文章が洗練されていて味わい深い。

俳句とは記憶の抽斗を開ける鍵のようなものだ。読者がそれぞれの抽斗を開けてそこに見出すものは同じではない。
俳句は日々の生活から離れた趣味の世界としてあるものではない。日々の生活とともにあって、それを大切な思い出に変えてくれるものである。
取り合わせの手法は五七五の短い詩型が豊かな内容を得るためにとても重要な働きをするのである。
一句の構造を切ることによって韻文としての格調を得る。(…)その間をああだこうだと理屈で埋めようとしないことが俳句にとって何より大事なことだ。

けっこう短歌とも共通する話が多いように思う。
引用されている俳句にも印象的なものが多い。

秋雨(あきさめ)の瓦斯(ガス)が飛びつく燐寸(マッチ)かな
                中村汀女
除夜の妻白鳥のごと湯浴(ゆあ)みをり
                森 澄雄
さくら咲く生者は死者に忘れられ
                西村和子
死ぬときは箸置くやうに草の花
                小川軽舟
一枚の餅のごとくに雪残る
                川端茅舎

時間を見つけて句集も読んでいけたらと思う。

2016年12月25日、中公新書、780円。

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2017年02月12日

片岡弥吉著 『長崎の殉教者』



副題は「キリシタン弾圧の歴史」。

長崎に生まれキリシタン研究で知られる著者が、江戸時代の約250年にわたる禁教と弾圧、そしてその後の信徒発見に至る歴史を描いた本。

昭和32年に角川新書で刊行され、その後、昭和45年に増補改訂され角川選書の一冊となっている。古書店で入手。

長崎、平戸、大村領、有馬領、五島など、長崎県各地における殉教の様子が詳細に記されている。その中には、日本二十六聖人や、遣欧少年使節の一人中浦ジュリアンなどのほか、数多くの無名の人々の名前があり、犠牲者の多さや信仰の強さに驚かされる。

この人たちは、ただ一言信仰を捨てる、といえば助かることができたのだが、キリシタンの信仰こそ、真の救いの道、唯一の幸福の道、また神に対する人間の最大の義務であることを確信し、その信仰に間違いがないことを証明するために、喜んで生命を捨てた。

こうした見方をする著者は、棄教者・背教者に対しては実に厳しい。

人間の弱さのゆえに、この責め苦に堪えられないで、信仰を捨てた人もあった。後に沢野忠庵と呼ばれたクリストゥアン・フェレイラもその一人であった。穴づりの苦しさに堪えかねたのである。しかし背教によって肉体の生命はながらえたが、良心の呵責は、彼らの生活を幸せなものにはしなかったと思う。

これは確かに正論であろう。本書で殉教者の感動的な行為や言葉を読めば読むほど、確かにそうだとの思いは強まっていく。

けれども、殉教者への賛美の裏側にこうした棄教者への軽侮が伴うというのは、何とも言えず悲しいことではないだろうか。

1970年3月30日初版、1980年6月30日4版。
角川選書、760円。

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2017年02月05日

青野照市著 『プロ棋士という仕事』


副題は「将棋界の不思議な仕組み」。

史上最年少棋士のデビュー、映画「聖の青春」の公開、竜王戦の挑戦者変更、日本将棋連盟の谷川浩司会長の辞任、加藤一二三九段の引退決定など、最近何かと話題になることが多い将棋界。その内側を現役9段のプロ棋士がわかりやすく記した一冊である。

「対局料は1局いくら?」「対局中はどんなことを考えている?」「引退はいつ?定年はある?」「将棋会館のなかはどうなっている?」「奨励会受験者の何人が合格し、そのうち何人が棋士になれる?」など、全95の問いに見開き2ページで答えている。

目隠し将棋でプロが苦手とするのは、持ち歩の数である。盤面の配置を間違えることはまずないが、持ち駒の歩をポンポン使っているうちに、残りが何歩かわからなくなることがある。
「しまった!」と思った手は、じつはたいした悪手ではなく、あせって指した次の手が致命傷というのは、将棋にかぎらず人生に通ずるものがあると思う。
年間20数局となると、年中対局があるというわけではない。昔、ある棋士の奥さんが近所の方に「ご主人は今日もお休みですか」と言われた、という話を聞いたことがある。

こんなふうに、現役の棋士ならではの話がぽんぽん出てきて面白い。

A級通算11期、通算勝ち星745勝。63歳の今もB級2組に在籍する著者の今後ますますの活躍が楽しみだ。

2016年月10月20日、創元社、1400円。

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2017年01月23日

浅井淳子著 『たったひとりでクリルの島へ』

副題は「ホームステイでサハリン、北方領土を行く」。

1990年11月にテレビ番組のレポーターとして戦後の日本人女性としては初めて北方領土を訪れた著者が、翌1991年8月に、今度は個人で北方領土を訪れた記録である。

四半世紀以上前の記録なので現在とは状況が異なっている部分もあるが、それでも北方領土の旅行記は少ないので貴重である。全4章の構成で「1サハリン」「2択捉島」「3色丹島」「4国後島」となっている。

ホームステイ先の人々との交流や町の様子、軍事基地、サケの加工場、日本人の墓、カニ漁、ハイキング、温泉を訪れた話など、どれも興味深い。

もちろん、領土問題についての様々な意見も収められている。

【著者】
ソ連は、クリルをどう考えているのだろう。日本と根本的に違うところは、領土は伸び縮みすると考えている点だろう。(…)ロシアはさまざまな隣国、トルコや西ヨーロッパと戦い、敗れ、勝利して、世界一の大国になったのである。だから、領土は“固有”という考え方ではなく、戦争により書き替えられるという考え方なのである。
【サーシャ(択捉島のクリリスク博物館の助手)】
日本はイトルプを自分の土地だとばかり言うけど、それは一八〇〇年代にロシアとの条約で決めたことでしょ。たかだか二〇〇年の歴史だよ。その前の数千年、アイヌとアイヌの先祖が島には住んでいたんだ。(…)日本に返せというなら、アイヌの人たちに返せというのが正しいだろう?
【ニコライ(南クリル地区の人民代議員議会議長)】
私が一番言いたいのは、クリルには二世代、三世代の人たちがここを故郷として島で生まれ、生活しているということなんです。一九四五年から長い時間が経ち、島には私たちの歴史もあるんです。私たちからすると、日本の人たちはそういうことは念頭に置いてないような気がするんです。

四半世紀前のこうした話を読むと、北方領土問題の解決がいかに難しいかがよくわかる。私としては、旅行者の自由な往来が早く可能になることを願うばかりだ。

1992年9月20日、山と渓谷社、1200円。

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2017年01月18日

白石あづさ著 『世界のへんな肉』


ネットの連載「世界一周“仰天肉グルメ”の旅」に加筆修正して書籍化したもの。http://otonano-shumatsu.com/column_list/gyotenniku.html
これまでに100以上の国や地域を旅してきた著者が、世界各地で食べた様々な肉について記している。

水牛(インド)、ラクダ(エジプト)、キリン(ケニア)、リャマ(ペルー)、アルマジロ(グアテマラ)、雷鳥(スウェーデン)、ビーバー(リトアニア)、カブトガニ(中国)など、国や食材もいろいろで、一つ一つのエピソードも楽しい。

元がネットの連載ということもあって、文章は軽快で短い。それぞれの国の歴史や文化、民俗といったところまで踏み込んだ話が読みたい気もするのだけれど。

2016年10月30日、新潮社、1200円。

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2017年01月16日

『ポケモンの神話学』 のつづき

「ポケモン」の生みの親であるゲームクリエイター田尻智さんは東京都町田市で少年時代を過ごしている。その生活環境はポケモン誕生にも大きく関わっていたらしい。本書で引かれているインタビューの中で、田尻さんは次のように語っている。

田尻 町田はその頃、名前だけは東京都のうちってことになっていましたけれど、まだまったくの郊外の田舎で、広々とした田んぼや森が残っていたんです。ぼくはそういうところで育って、田んぼや森で虫を取ったり、ザリガニを飼育するのが好きな子どもでした。
田尻 ぼくの住んでいた町田も、急激な変化をおこして、都市化して、土がどんどんなくなっていきました。田んぼや森があったところが造成地になって、つぎつぎに家が建てられていきました。

ああ、そうだったのかと、個人的にとても納得するところがあった。私も町田市で少年時代を過ごしたので、こうした話が自分自身の体験としてよくわかるのである。田尻さんは私より5歳年上であるが、育った環境には共通点が多い。

以前、私の兄が書いた文章の中から、私の育った地域の様子を引いてみよう。http://nora-yokohama.org/reading/archives/2009/0701000009/

家から高級住宅街を抜けると、里山があるはずでした。この坂を登り切ると、そこには畑が拡がっているはずだ、と思って歩くと、そこは住宅地になっていました。この坂を下りていくと、そこにはぬかるんだ湿地があるはずだ、と思って歩いていくと、やはりそこも住宅地になっていました。
かつて、私の町の周りは東西南北どこへ行っても、田畑や雑木林が拡がっていました。友だちと一緒に自転車を飛ばし、普段遊び慣れている町を越えると、カブトムシを取る雑木林や、ザリガニを釣り、オタマジャクシをすくう谷戸がありました。

少年時代の暮らしの近くにあった田畑や雑木林。それらはやがて開発のために失われてしまったのだが、今でも私の記憶の深くに眠っている風景である。ポケモンというゲームが私にとってどこか懐かしい感じがするのは、なるほどそういう理由だったのだ。

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2017年01月15日

中沢新一著 『ポケモンの神話学』


副題は「新版 ポケットの中の野生」。

2004年に新潮文庫から刊行された『ポケットの中の野生 ポケモンと子ども』に加筆修正し、新たな序文を収録したもの。昨年の「ポケモンGO」の大ヒットを受けて、20年前に出た本(単行本は1997年の刊行)が新装版になって登場したわけだ。

と言っても、単なる便乗商法というわけではない。本書には「ポケモンGO」の登場を予言するような内容も含まれているのである。

私がじっさいにこのゲームについて話をしてみた子どもの何人かは、『ポケモン』に夢中になりだしてからというもの、近所にあるちっぽけな藪や公園の草むらから、ふいに「ポケモン」みたいな変な生き物が飛びだしてきそうな気配を感じるようになって困った、と話をしてくれた。この子どもたちにとっては、ゲーム機の中でおこっていた「多神教的感覚」が、そのまま現実の町の中で働きだしてしまったのである!

ゲームの世界と現実の世界が融合する。ポケモンというゲーム自体が、もともとそうした可能性を秘めていたということなのだろう。

それにしても、レヴィ=ストロースの「野生の思考」など人類学や神話学の理論によって、ポケモンというゲームを分析するというのは魅力的な試みだ。学問は本棚に埃をかぶっているものではなく、今の社会や暮らしを生き生きと解き明かすものなのだ。

RPGの旅に出た主人公の心の構造と、道の途中でそれに襲いかかってくる敵対者とは、もともと同じ本質を持ったもので、ただあらわれ方がちがうというだけで、いっぽうはエロスと呼ばれ、もういっぽうがタナトスと呼ばれることになっている。
宇宙創造以前の力が、ことばによって物質性に執着をおこすと悪魔が生まれる。その反対に、ことばによって知性化を果たすと天使になる。悪魔と天使は、このようにもともとは同じ存在なのだ。
贈与される品物には、贈り主の人格の一部がかならず付着している。品物と人格が一体となって、じつは贈与品というものはできあがっているのである。

2016年10月20日、角川新書、800円。

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2017年01月12日

内田樹・釈徹宗著 『聖地巡礼リターンズ』


副題は「長崎、隠れキリシタンの里へ!」。
聖地巡礼シリーズ第3弾。

「長崎市中心部」「長崎市出津(しつ)・黒崎地区」「京都・大阪」と3日間にわたってキリシタン関連の場所を訪れた旅の記録。

キリスト教の布教や受容、弾圧などの歴史、さらには信仰や身体、グローバリズムの問題など、様々な話題をめぐって示唆に富む話が展開する。

内田 日本のアメリカに対するアンビバレントな感情って、社会心理学の教科書に出したいぐらいの典型的な症候ですよ。
内田 殉教することで列聖されて、末永く人々の崇敬の対象となるっていう想像はたぶん強烈な快感をもたらすものなんでしょうね。
 コアに強い宗教性があって、周りにそれを取り巻く芸能やアートがあって、その外側にさらにお土産などを売る観光施設がある。強い宗教施設があるところはその三重構造があるんですが(…)
 世界にブッダの遺骨とされているものはたくさんあって、全部合わせると巨大な人間になっちゃうそうです。
内田 「お国自慢」も「お国なまり」も「国境(くにざかい)」も、日本語の「国」の使い方の多くは幕藩体制における藩のことです。

長崎で処刑された二十六聖人は、もともと京都や大阪で捕まった人たちである。耳を削ぎ落とされ、長崎まで徒歩で連行された彼らの姿を想像すると胸が痛くなる。

長崎を案内した地元の下妻みどりさんが随所に長崎愛に溢れるコメントを述べているところも、深く印象に残った。

2016年12月1日、東京書籍、1600円。

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2017年01月09日

『〆切本』

著者 : 夏目漱石
左右社
発売日 : 2016-08-30

締切に関するエッセイ、手紙、日記、マンガ、研究など、計94篇を集めたアンソロジー。

夏目漱石、志賀直哉、江戸川乱歩、松本清張、手塚治虫、大澤真幸、小川洋子ら、近代以降の作家、マンガ家、評論家がそれぞれの立場から締切の苦しみや対処法、さらには効用などを書いている。

締切に直接関わらない部分もおもしろい。

実際、一つのセンテンスにうっかり二つの「て」切れが続いても、誰でも作家は後で皮を斬られたやうな痛さを感じるものである。
               横光利一「書けない原稿」
生きている人間の見た言葉にも通わせ、そこからいつでも人間が生きている世界にまた戻ってくることが出来るのでなければ、言葉が相手の商売も大して意味がない。
               吉田健一「身辺雑記」
書きたいという主題があっても、それを適当にひっかける一つのイメージがつかまらないと、どうしても筆をおろせない。
               遠藤周作「私の小説作法」
仕事にかかるのは気迫だが、仕事をし終えるには諦めが必要である。大論文を書こうと思ったら決して完成しない。
               外山滋比古「のばせばのびる、か」
いまの私が、どうやら、自分の段取りをつけられるようになったのは、戦争中に徴用され、芝浦の工場で旋盤工をしていたときの経験が基本になっている。
               池波正太郎「時間について」

ものを書く時の心構えや考え方など、参考になる話がたくさん載っている。

奥付を見ると、「印刷・製本 創栄図書印刷株式会社」とある。「塔」の印刷をお願いしている会社だ。

2016年9月20日、左右社、2300円。

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2017年01月07日

橋本崇載著 『棋士の一分』


副題は「将棋界が変わるには」。著者は現役8段の棋士。
「一分」は「いっぷん」ではなく「いちぶん」=「一人の分際。一身の面目、または職責」(広辞苑)である。

将棋界ではソフトの不正使用疑惑により竜王戦の挑戦者が変更になるという大きな事件が起きたばかり。当然、便乗商法のようにも感じられるのだが、中身の大半は事件以前のものである。

事件の経緯については本書に記されているが、著者がツイッターで「1億%クロ」と発言したこと(その後、取り消し)や、その後に新たな展開(第三者委員会による裁定はシロ)があったこともあり、何とも後味が悪い。

それ以外に取り上げられているのは、コンピュータ将棋の問題、将棋連盟の運営の問題、斜陽化する将棋界の問題など。いずれも真面目で真っ当な話であり、著者の危機感や改革への思いはよく伝わってくる。

コンピュータ将棋の歴史は、お金が絡んでいなかったなら始まらなかったものだった。
将棋連盟の運営に関して、四十代、五十代の棋士たちのほとんどの人が何も言わない、何も動かない。
将棋において指し手は有限だ。それをいかに無限であるかのように見せるかが棋士の役割の一つであるはずなのに、それとは真逆の方向に向かっている。

こうした指摘には納得させられる。

その一方で、具体的なデータや数字的な裏付けに乏しく、有効な打開策が示せていないことが、本書の弱点であろう。檄文として読むには面白いが、具体的な改革の道筋はよく見えてこない。

2016年12月10日、角川新書、800円。

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2017年01月04日

河出書房新社編集部編 『やまとことば』


1989年に河出書房新社より刊行された単行本『ことば読本―やまとことば』を再編集したもの。

副題は「美しい日本語を究める」、帯にも「日本人の心にひびく大和言葉の秘密」とあって、何だかなあと思うのだが、内容は日本語に関する上質なエッセイや論考のアンソロジーである。

丸谷才一、大岡信、田辺聖子、井上ひさし、森鴎外、柳田國男、山本健吉ら18篇の文章が載っていて、どれも面白い。

個人としての好みを言えば、私は考えるという言葉よりは思うという言葉の方が好きである。考えるという言葉は何か理性的で冷く、鋭く、そして狭くひびく。思うという言葉は茫洋としていて、それで何かあたたかく深いような感じがする。
            宮柊二「「思う」という言葉」
実は「あはれ」という言葉は、古くは「アファレ」と発音されていた。その「ファ」を強めると「アッパレ」になるんですね。つまり「あはれ」が示す感動を明るいほうの意味に寄せて――感心した、賛成だ、お見事だという場合は、「アッパレ」になったんです。
            大野晋「感動詞アイウエオ(対談)」
『日本書紀』を訓読しえたとき得られたものは、原文の意味に対応するとして再建された日本語であっても、『日本書紀』を書いた人々の頭にあったものと同じであるとはいえまい。
            山田俊雄「日本語語彙―固有語と外来要素」
若し現代の語が、現代人の生活の如何程微細な部分迄も、表象することの出来るものであつたなら、故らに、死語や古語を復活させて来る必要はないであらうが、さうでない限りは、更に死語や古語も蘇らさないではゐられない。
            折口信夫「古語復活論」

「故らに」は「ことさらに」。

どの人の論も切れ味が良いので、読んでいて刺激的である。

2003年3月20日発行、2015年7月30日新装版発行、河出文庫、680円。

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2016年12月14日

蒲田正樹著 『驚きの地方創生「京都・あやべスタイル」』


副題は「上場企業と「半農半X」が共存する魅力」。

京都府綾部市は、「グンゼ」や「日東精工」の本社が置かれている町であり、大本教の聖地となっている町でもある。また「半農半X」や「世界連邦都市宣言」や「水源の里条例」といったライフスタイルや施策の発祥の地でもある。この人口わずか3万5千人弱の町に一体どのような魅力が秘められているのだろうか。

以前、私が綾部を訪れた時もその不思議な魅力を肌で感じた。一つ一つは別のことでありながら、どこか不思議な線でつながっているのである。「善い人が良い糸をつくる」(グンゼ)と「モノづくりは人づくり」(日東精工)というモットーもよく似ているし。

http://matsutanka.seesaa.net/article/407780135.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/407813251.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/407931367.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/408029497.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/408176917.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/408266192.html

本書は全体に引用や受け売りの部分が多くそれほど深い内容ではないのだが、綾部という町の概要を知るには良い本だと思う。

著者はあとがきに

綾部は「つなぐ」というテーマにふさわしい街だと思っています。

と書く。これは日東精工がねじの会社であることからの発想なのだろうが、案外うまいところをついているように感じた。

2016年11月1日、扶桑社新書、800円。

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2016年11月25日

金原みわ著 『さいはて紀行』

京都の書店でよく行くのは「丸善京都本店」「ジュンク堂京都店」「大垣書店烏丸三条店」。近年、書店はどこも経営が大変なようで、文具やコミックの売場が広がるなど、私にとって魅力のある本屋が減っている。「ブックファースト京都店」「大垣書店四条店」なども、そういう意味で行かなくなってしまった。

そんな中にあって「ふたば書房京都マルイ店」は、売り場面積は小さいながらも品揃えがユニークで、しばしば足を運ぶ。本書もふたば書房の入口付近の一番良い場所に都築響一さん推薦といったポップ付きで平積みにされていたのであった。

この本の著者は全く知らなかったのだが、都築響一『珍日本紀行』を愛読している私は迷わずに買った。そして、実に良い本であった。こうした出会いは嬉しい。

内容は以下の通り。

・性のさいはて (芦ノ牧温泉)
・罪のさいはて (和歌山刑務所白百合美容室)
・水のさいはて (淀川河川敷、ピカソの家)
・異国のさいはて(タイのゴーゴーボーイズ)
・食のさいはて (団欒亭のゴキブリ食)
・宗教のさいはて(キリスト教看板総本部)
・夢のさいはて (熱海銀座劇場)
・人のさいはて (祖父の葬儀)

いわゆる珍スポット巡りなのだが、文章が抜群にいい。面白おかしく読んでいくと、最後にほろっとさせられたりする。著者自身の感情の動きや起伏がダイレクトに読者に伝わってくるような文体だ。

解説に都築響一が

若者の書く文章がダメなのではなくて、文字の多くがもう活字ではなくディスプレーで読まれる時代にあって、文章の書きかた自体がすでに往年の「名文」とは異なる次元に突入しつつあるのではないかと、ウェブ上で自分の文章を発表しながら、つくづく思う。

と書いている。これは、けっこう大事な問題であろう。

2016年5月10日、シカク出版、1000円。

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2016年11月15日

出井康博著 『ルポ ニッポン絶望工場』


実習生、留学生、日系人として日本で働く多くの外国人労働者。その暮らしを取材するとともに、日本の抱える問題点を鋭く分析した本。

コンビニ弁当の製造工場、宅配便の仕分け現場、新聞配達、ホタテの加工場、建設現場など、現代の様々な職場で外国人労働者なしでは成り立たない状況が生まれている。

以前、私が働いていた物流倉庫やプラスチック成型工場でも、中国人やベトナム人の実習生が働いていた。今年見た映画「牡蠣工場」でも中国人の実習生の姿があった。

その一方で、日本は単純労働を目的とした外国人の入国を認めていない。そのため、「国際貢献」「人材育成」を掲げた外国人技能実習制度による実習生や、「留学生30万人計画」により推進されている留学生という形で、実際には単純労働に従事する多くの外国人労働者を受け入れている。

その実態は、本書の見出しを拾えば「現代の奴隷」「蟹工船」「日本語学校によるボッタクリ」「違法就労と残業代未払い」「ピンハネのピラミッド構造」といったものだ。

本音と建前の大きな乖離と多くのごまかし。著者はそうした実態を明らかにしたうえで、次のように提言する

日本人の嫌がる職種で人が足りないのであれば、まずはそれを認めたうえで、外国人労働者の受け入れについて本音で議論すればよい。「実習」などでごまかさず、あくまで現場にとって何が最善なのかを優先して考える。

さらには、将来的な移民の受け入れという問題についても次のように述べる。

移民の受け入れとは、単に労働力を補充することではない。日本という国を構成するメンバーとして、生まれ育った環境や文化の違う人たちを迎え入れることなのだ。言語の習得、就職、さらには子弟の教育などへの支援を通じ、日本社会に適応してもらえるよう、私たちの努力も求められる。まるでモノでも輸入するかのような発想では、後にさまざまな問題が起きるに違いない。

現在の、そしてこれからの日本社会を考えるうえで、避けては通れない大事な問題だと思う。

2016年7月20日、講談社α新書、840円。

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2016年11月06日

斎藤潤著 『ニッポン島遺産』

著者 : 斎藤潤
実業之日本社
発売日 : 2016-07-30

日本には6852の島があるらしい。その中から、礼文島、八丈島、小豆島、屋久島、西表島など40の島を取り上げて、祭や民俗、文化、産業、自然、名産品などを紹介した本。

島の様々な魅力を紹介するだけでなく、著者は新たな活用方法の提言もしている。

戦没者慰霊公園を整備して、明暗併せもつ硫黄島の歴史を学ぶ場にできないか。ジャンボ機が離発着できる巨大な空港もあるのだから、貴重な領土の利用をもっと考えてはどうだろう。(硫黄島)
閉山時にぼくが夢見たツアーが、現実のものとなったのだ。期日や人数に制限があるし、さすがに立坑を降りることもできないが、元炭鉱マンがガイドするということもあって、かつての炭鉱の様子を堪能できるだろう。(池島)

カラー写真がふんだんに使われていて楽しい。
眺めていると、あちこちの島に行きたくなってくる。

2016年8月10日、実業之日本社、1600円。

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2016年11月03日

坂口裕彦著 『ルポ難民追跡』


副題は「バルカンルートを行く」。

シリアの内戦やアフガニスタン、イラクなどの治安の悪さから国を逃れ、ドイツなどヨーロッパの国々を目指す人々。その実態を描き出すために、あるアフガン一家に密着取材したルポルタージュである。

難民や移民という「記号」ではなく、「生身の人間」の予想がつかない行動や垣間見せる表情こそが、事態の核心を映し出すはずだ。

という考えのもと、著者はギリシアで出会ったアフガニスタン人の家族(夫婦と4歳の娘)に同行取材する。ギリシア、マケドニア、セルビア、クロアチア、スロベニア、オーストリアを経てドイツへ。

その取材の中で見えてくるのは、これまでの「難民」のイメージとは少し違う風景である。

「新難民」「新移民」とでも、こちらが呼びたくなるほど、スマートフォンを巧みに操り、画一的な行動パターンを見せる人々は、まさにインターネットの申し子だ。

多くの難民がたどったバルカンルートはどのようにして生まれ、その後どのような変遷をたどったのか。難民排斥を訴えるハンガリーや、ユダヤ人の大量虐殺への反省から憲法で難民の庇護権を認めているドイツの歴史も取り上げながら、著者は考察を深めていく。

「生身の人間」の姿に迫ろうとした本書の一番の驚きは、あとがきの最後に書かれていることかもしれない。著者もまた当然のことながら一人の「生身の人間」であったのである。

2016年10月20日、岩波新書、840円。

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2016年10月22日

二宮敦人著 『最後の秘境 東京藝大』


副題は「天才たちのカオスな日常」。

一般にはあまり知られていない東京藝術大学の内側を描いたノンフィクション。執筆のきかっけは、藝大生の妻を見ていて興味が湧いたからということらしい。サブカルっぽい表紙であるが、中身はいたって真面目で、多くの藝大生に取材して書かれている。

一口に藝大と言っても、「美術学部(美校)」と「音楽学部(音校)」の二つに大きく分かれる。さらに細かな学科や専攻があり、登場する学生の所属を見ると、「絵画科日本画専攻」「楽理科」「音楽環境創造科」「工芸科陶芸専攻」「器楽科ホルン専攻」「建築科」「指揮科」「声楽科」「先端芸術表現科」「邦楽科長唄三味線専攻」「作曲科」「芸術学科」「デザイン科」「彫刻科」など、実に多彩だ。

そしてみんな、一癖も二癖もありそうな人ばかり。

「僕、没頭してしまうんです。四十時間描きつづけるとか、よくやります」
「口笛にはいろいろな奏法があるんです。ウォーブリングとか、リッピングとか・・・」
「はい、それはもう、かぶれます。漆芸専攻では『かぶれは友達』です」
「楽器は体に合わせるのも大事になってきます。/ヴァイオリン奏者って、骨格が歪んでいるんです」
「彫金はですね、金とか銀とか、場合によってはプラチナとか、貴金属を使うので材料にお金がかかるんですよね。だから、学生はみんな相場を毎日チェックしてます!」

どれもこれも初めて知る話ばかりで面白い。こんな世界があったのかと驚くことばかり。

藝大の学園祭「藝祭」を一度見に行ってみたいものだ。

2016年9月15日、新潮社、1400円。

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2016年10月17日

祖田修著 『鳥獣害』


副題は「動物たちと、どう向きあうか」。

近年、シカ、イノシシ、サル、クマなどによる鳥獣害が非常に大きな問題となっている。その現状と対策、さらには西洋と東洋の鳥獣観の違いや歴史的な変遷なども交えつつ、今後の人間と動物との共棲のあり方を記した本。

農業経済の研究者である著者は、京都府南部の中山間地域に90坪の田と140坪の畑を持ち、夏場は週に2〜3日、冬場は週に1日程度通っている。そこで目の当たりにした鳥獣害の話から始まる前半は、非常に具体的な話が続き面白い。

一方で後半の宗教学や民俗学に基づいた鳥獣観の話は、「・・・だという」「・・・とされる」「誰々は・・・としている」といった伝聞や引用が多くなり、人間と動物の関わり方を理論的に体系づけようとする意図はわかるのだが、やや退屈に思われた。

ディープ・エコロジーの関連書はいずれも、近代科学の基礎理念を確立したデカルトが動物には人間と異なり、理性や感情がなく、一種の機械である(『方法序説』)といっていること、またキリスト教では、動物は人間によって利用され、食されるのは当然で、そのためにこそ世界に生を受けたとされてきたことについて触れ、その不当性を訴えている。

このあたり、欧米を中心としたクジラの保護運動とも関わる話で、なるほどと納得するところがあった。

2016年8月19日、岩波新書、820円。

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2016年10月11日

内藤正典著 『となりのイスラム』


テロやイスラム国などの問題をめぐって最近よく話題になる「イスラム(教)」について、長年にわたって研究してきた著者が、中東滞在の経験も踏まえて記した本。要点がわかりやすく、また書き方も非常にフェアであると感じる。

イスラムの大きな特徴は、商売人の宗教として生まれたということです。ここはよく誤解されていますが、沙漠の宗教でも、遊牧民の宗教でもないのです。イスラムは都市の商人の宗教として誕生した。
イスラムがユダヤ教やキリスト教をどうみているかは、イスラム教徒の名前をみればよくわかります。(・・・)先代のトルコの首相はダウトオウルという読みにくい名前ですが、ダウトというのはダビデのこと、オウルというのは息子の意味ですから、「ダビデの息子」という名前をもつ人がトルコの首相をつとめていたのです。英語ならDavidsonです。
彼らに「イスラム教徒でなくなるってどういう感じですか?」と聞いたときに返ってくる言葉。どんなに世俗的に見えるイスラム教徒でも決まってこう言います。
「人間でなくなる感じがする」

こうした丁寧な説明や実例が、いくつも挙げられている。

一五億人とも一六億人ともいわれるイスラム教徒の姿を西欧経由のめがねを通して見る必要はありません。もっとふつうに、市民としての生活のなかで彼らがどういう価値観をもち、どういう行動をする人なのかを知ることのほうが、はるかに大切です。

世界の人口の3人に1人はイスラム教徒になるという時代にあって、彼らをどのように理解し付き合っていくかは、大きな課題であろう。そのための格好の手引きとなる一冊である。

2016年7月21日発行、ミシマ社、1600円。

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2016年10月09日

岡本太郎著 『美の呪力』


1971年に新潮社から刊行された本の文庫化。
「芸術新潮」1970年1月号から12月号に連載された「わが世界美術史」がもとになっている。(8月号の「仮面脱落」は省かれたようだ)

最近、万博公園の「太陽の塔」の耐震改修工事が始まることもあって、岡本太郎が何かと話題になっている。彼の著書を読んでいると、本当にスゴイ人だということがよくわかる。文章も非常にエネルギッシュで、しかも鋭い。

石器時代という言葉自体、なんだかおかしい気がして仕方がない。石が残ったというにすぎないではないか、と思ってしまうからだろう。
修験道は庶民の生活にとけ込んでいた。あたかも火・水が聖なる対象であると同時に、生活のなかの親しいふくらみであったように。
山中至るところにある岩の中から、まことに偶然に、その一つが選ばれる。神聖な儀礼をもって。そうすると、とたんに呪術をおびてくるのだ。これが特に美しかったり、変った形態で、誰にでも一眼でわかるようなものだったら、逆に呪術をもたないだろう。
綾とりは紐の形作る抽象形態の方に目をひかれがちだが、しかし、それを支えるなめらかな指先の方に実は呪術の主体があることを忘れてはならない。

「恐山の石積み」「オルメカ時代の石像」「グリューネヴァルト『磔のキリスト』」「両界曼荼羅」「赤糸威大鎧」「アルトドルファー『アレキサンダーの戦い』」「平治物語絵巻」「男鹿半島のなまはげ」「ボッシュ『快楽の園』」「ゴッホ『馬鈴薯を食う人々』」「縄文土器」など、古今東西、実に幅広いものが取り上げられている。

それらは古いも新しいも、東洋も西洋もなく、太郎の心に触れるかどうかが唯一の判断基準となって選ばれているのだ。

俳優が演技する。役になりきってしまうのが最高の名優であるという考えがある。スタニスラフスキー・システムなどといって、自然主義を最高とする近代劇はそんな看板を掲げるかもしれないが、それは大ウソである。私に言わせれば、なりきってしまうのは下司な職人であって、本当に神秘的な演技者ではないと思う。明らかに自分の演じている人間と自分との距離を計りながら、その間に交流する異様な波動を身に感得しながら、遊ぶ。それ自体が本当に生きることであり、演技することである。

一見素裸のように見える岡本太郎であるが、実は冷静な部分と情熱的な部分とを常にあわせ持ち、演技する人であったのかもしれないと思う。

2004年3月1日発行、2011年2月25日6刷、新潮文庫、590円。

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2016年09月20日

『行商列車』のつづき

列車を使った魚の行商は高度経済成長期にピークに達し、その後は次第に衰退し、平成に入った頃にほぼ全国的に終焉を迎えた。

昭和六十二年の国鉄分割民営化はひとつの転換期だった。このときに廃線になったり、列車の本数が減ったり、経路が変わったりしたことで、細々と商売を続けていた行商人の足が最終的に奪われる結果となったところも多い。

著者が密着取材を行った行商人夫妻の店も、昨年、55年の歴史に幕を下ろした。

スーパーマーケットやコンビニエンスストア、さらにはインターネットによる商品の流通という便利を享受する一方で、私たちが失ってしまったものは何であったのか。

それは「売り手と買い手が直接顔を突き合わせ、物のやりとりをする」「五感を駆使して初めて、互いに納得のいく取引が成立する」ということであり、人と人との触れ合いや結び付きであったのだろう。

本書は単なる民俗誌の調査・研究にとどまらない面白さを持っている。それは、取材を通じて著者が多くの人々と出会い、その魅力を肌で体感したことによるのだろう。フィールドワークというよりも、ぶっつけ本番の真剣勝負なのである。

本当に大切なことは、メモしなくても、写真にとらなくても、覚えているものである。もちろん、すべての場面でそれが通用するわけではないが、ここぞというときには丸腰で向かっていく覚悟を、あのとき教えてもらったように思う。

この気概こそが、本書の一番の魅力ではないかと思った。

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2016年09月19日

山本志乃著 『行商列車』


副題は「〈カンカン部隊〉を追いかけて」。

朝早く大きな荷物を持って鉄道に乗り、魚の行商に出掛ける人々。彼女たちは運搬用のブリキ製のカンにちなんで「カンカン部隊」とも呼ばれた。戦後から高度経済成長期にかけて活躍した行商人たちの歴史と生活を描いた探訪記。

伊勢湾で獲れた魚を近鉄の専用列車で大阪まで運ぶ人々、鳥取から因美線で県境を越えて岡山県北部に魚を売りに行く人々、鳥取の泊から山陰本線・旧倉吉線に乗って、倉吉近郊へ行く人々。魚の獲れるところから、魚を求める人のいるところへ、鉄道を使って多くの行商人が魚を運んだ。

その姿を追ううちに、著者は多くのことに気が付く。

漁師という職業は、自分で食べるために魚介類をとるわけではない。その魚介類を売るためにとる。農産物の場合、特別な商品作物以外は自給用を兼ねるものが多いが、海産物は、あくまで交易と流通を前提にしているところに特徴がある。
正月に魚を食べるという地域は、全国各地に広がっている。中には、海から遠く離れた山間地であることも珍しくない。正月と海の魚。この関係こそが、実のところ日本人にとって魚が大切な食材であることの原点なのである。
日本の列車は、規則正しく、そして確実で安全な移動手段である。ただしそれだけに留まるものではない。鉄道は、人と人とをとり結ぶ時空間を運ぶ乗り物なのである。

どれも、魚の行商や日本人と魚の関わりを考えるうえで大切な観点であろう。

2015年12月10日、創元社、1800円。

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2016年09月13日

筒井康隆著 『旅のラゴス』


昭和61年に徳間書店より刊行され、平成元年に徳間文庫に収録され、さらに平成6年に新潮文庫に入ったもの。一昨年くらいから、かなり売れているらしい。帯に大きく「口コミで人気爆発!」とある。

短歌をやるようになってから小説はあまり読まなくなったのだが、以前はよく読んでいた。筒井康隆も好きな小説家の一人。

題名の通り、ラゴスという旅をする男を主人公とした物語。12の話が連作風に続いていて、短い話もあれば、長い話もある。

人間はただその一生のうち、自分に最も適していて最もやりたいと思うことに可能な限りの時間を充(あ)てさえすればそれでいい筈(はず)だ。

という一文など、まさにその通りという気がする。

解説で村上陽一郎も書いているが、「ビルドゥングス・ロマン」(主人公が様々な経験を経て成長していく物語、教養小説、自己形成小説)と言っていい内容だ。そうした点では古典的でありつつ、随所にSF的な要素も混ざってくるあたりが、筒井康隆らしいところだろう。

私も旅に出たくなった。

平成6年3月25日発行、平成26年1月25日16刷改版、平成27年8月30日30刷、新潮文庫、490円。

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2016年09月12日

『不屈の棋士』 のつづき

将棋ソフトに関する話の中で特に興味深かったのは「人間にしか指せない将棋というものはあるのか」という問題。著者はこの質問も棋士にぶつけている。

羽生 人間にしか指せない将棋・・・。うーん・・・何とも言えないですね。ソフトがドンドン進化した時に、この人っぽい将棋というのを指せるようになる可能性はかなりあると思います。たとえば昔の大山(康晴)先生っぽい棋風のソフトを作るというのは多分できるんじゃないかと。

このあたり、「エミー」という自動作曲ソフトがバッハ風の曲を生み出した話を思い出す。短歌で言えば、「斎藤茂吉風の歌」とか「塚本邦雄調の歌」といったものを人工的に作成できる可能性があるわけだ。

実際に、石川啄木の『悲しき玩具』の巻末に記された未完成の歌を復元するという試みも行われている。
https://sunpro.io/c89/pub/hakatashi/introduction

渡辺 人間にしか指せない将棋とかそういうことではなく、人同士がやるからゲームとして楽しめるんです。たとえばマルバツゲームがそうでしょう。あれをコンピュータとやる人はいない(笑)。

これも、ある意味で正論だろう。この本を読み終えて一番感じたのは、結局人間同士の戦いだから面白いということである。このあたりは、相手がいない短歌とは違うところだ。短歌で戦いと言えば「歌合せ」くらいか。

森内 厳しい質問ですね。プロ棋士としてやっている以上、少しでも内容を充実させたいと思いますが、人間は必ずどこかで間違える。それが現実です。将棋の世界に限らず、どんな世界でもミスをしない人はいないのです。

ミスすることも含めての人間である。そう言えば先日、郷田真隆王将が公式戦で「二歩」を指して反則負けとなった。そんなことが起こり得るのも人間ならではのことであり、そこにドラマがあるのかもしれない。

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2016年09月11日

大川慎太郎著 『不屈の棋士』


2015年10月、情報処理学会は「トップ棋士との対戦は実現していないが、ソフトは事実上トップ棋士に追い付いた」と宣言した。今年から始まった電王戦においても、将棋ソフトがプロ棋士に2連勝している。

このように将棋ソフトが年々進化を続ける状況下で、棋士たちは何を考え、どのような将棋を指し、今後をどう見ているのか。著者は、羽生善治、渡辺明、勝又清和、西尾明、千田翔太、山崎隆之、村山慈明、森内俊之、糸谷哲郎、佐藤康光、行方尚史という11名の棋士にインタビューをしている。

将棋ソフトとの付き合い方はそれぞれで、徹底的に活用している棋士もいれば、ほとんど触らない棋士もいる。それでも将棋界全体として考えると、ソフトのもたらした影響にはかなり大きなものがあるようだ。

それは、単に従来の定跡が覆されるとか、新しい手が生み出されるといったことにとどまない。棋士の存在価値そのものが揺らぎかねないのである。

長らく棋士は最強の存在として君臨し続けてきた。だが、ソフトの登場によって、そうでなくなったら棋士としての価値をどこに見出していけばいいのか。

これはおそらく将棋に限らず、今後様々なジャンルで問われる問題であろう。そうした意味でも、この本は非常にスリリングな内容を含んでいると言っていい。

2016年7月20日、講談社現代新書、840円。

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2016年09月03日

おかべたかし・文、山出高士・写真 『くらべる東西』


「いなり寿司」「桜餅」「線香花火」「銭湯」「タクシー」「ひな人形」など、東日本と西日本では形や習慣が異なるもの34個を取り上げて、大きな写真とともに解説した本。

見開きの左ページに「東の○○」、右ページに「西の○○」の写真を載せているので、一目でその違いがわかる。さらにその後に2頁の詳しい説明が付くというスタイル。

いなり寿司なら

俵型が「東のいなり寿司」 三角形が「西のいなり寿司」

タクシーなら

カラフルなのが「東のタクシー」 黒が主流なのが「西のタクシー」

というわけだ。私は東に生まれて、今は西に住んでいるので、なるほどそうだったのかと思うことが多い。

日本の地域による文化の差というのは、漠然と残っているのではなく、意志によって残っている。あらゆるものが発達した今の社会では、地域差というのは、意志が生み出すものなのだと思います。

この本自体もまた、そうした意志の表れと言って良いだろう。

2016年6月13日、東京書籍、1300円。

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2016年09月02日

『銀の海峡』

副題は「魚の城下町らうす物語」。
制作は北海道アート社。
北海道羅臼町のPR本である。

と言っても別に羅臼に強い興味があるわけではなく、ノンフィクション作家・渡辺一史の文章が読みたくて、羅臼町役場から取り寄せたのである。

(詳しくは下記をご参照ください。)
http://www.edia.jp/watanabe/watanabe/Hokkaido_2.html

全4章のうち、第1章「漁師の食卓」と第2章「魅せられし者たち」の中の2篇を渡辺が執筆している。

男たちの「漬け物観」は、結局のところ、「わが家の漬け物自慢」に行き着くことが多いのだが、それは同時に、羅臼の男たちにとっての微笑ましい“かかあ自慢”でもあるのである。
知床が、その「秘境」としての性格を最もあらわにするのは、冬よりも、夏であるといわれる。例えば、その主脈をびっしりと埋めつくす「ハイマツ」である。

羅臼町は北海道目梨郡に属する。メナシはアイヌ語で「東方」を意味する言葉との説明を読んで、「クナシリ・メナシの戦い」に思い当たる。
http://matsutanka.seesaa.net/article/435963678.html

こんなふうに、頭の中にバラバラにある知識や記憶がふいに結び付くのは気持ちがいい。

知床半島は東側の羅臼町と西側の斜里町に分かれている。以前、北海道旅行をした時に斜里町のウトロや知床五湖は訪れたが、羅臼町には行ったことがない。

う〜ん、行ってみたいな。

2003年8月、羅臼町、500円。

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2016年08月27日

井上章一著 『関西人の正体』


1995年に小学館の単行本、2003年には小学館文庫から刊行された本が、新たに朝日文庫に入ったもの。『京都ぎらい』の大ヒットを受けて、古い本が再刊になったということだろう。

関西と言っても、本書に取り上げられているのは主に大阪と京都である。関西への愛とともに、皮肉や笑いがふんだんに盛り込まれている。キーワードは「没落」だ。

ちなみに、底力がうんぬんされるのは、没落地帯の特性である。じっさい、東京に底力があるといわれることは、あまりない。よく使われるのは、関西の底力。
大阪のなまり、関西弁は、今、他地方に住むひとびとの耳におもしろくひびく。こっけいに聞こえる。これも。上方文化が没落過程にある現代ならではの状況だといえるだろう。
ユニークなアイデアにみちた街。この京都につきまとうキャッチフレーズは、この街がすでに文化の中心地でないことを示している。ありていにいって、辺境地であることを物語っていると思う。
奈良の二の舞を演じるな。明治の遷都以後、京都ではそういわれつづけていた。だが、京都は、ながらく停滞したままである。奈良化の傾向はとめがたい。

著者は「関西復権」など「関西」という言葉がしばしば使われる現状にも異議を呈する。

関東では「首都圏」という言いまわしが浮上した。辺境地の「関東」は、中央を意味する「首都圏」へと、格上げされていったのだ。この変容は、「畿内」から「関西」へと格下げされた地方とくらべて、まことに対照的である。

「関東/関西」と対にはなっているものの、そう言えば東京に住んでいたころ、「関東」という言葉はほとんど見かけなかったのを思い出す。

とにかく、面白い。特に東京に生まれ京都に住んでいる私には、思い当たること、学ぶことの多い一冊であった。

2016年7月30日、朝日文庫、640円。

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2016年08月18日

森達也著 『オカルト』


副題は「現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」。
2012年に角川書店から出た単行本の文庫化。

恐山のイタコ、大谷宗司(心霊科学協会理事長)、荒川靜(スピリチュアル・ワーカー)、木原浩勝(怪異蒐集家)、山本大介(OFU代表)、堤裕司(ダウザー)、木内鶴彦(臨死体験者)など、オカルトに関わる人物に取材したルポルタージュ。

著者のスタンスは、超常現象やオカルトを「ある」か「ない」かの二元論で裁こうとしないところにある。

オカルトの語源はラテン語の「occulere」の過去分詞「occultus」で、意味は隠されたもの。

という原義の通り、著者が不思議な現象を取材し、観察しようとすると、それは常に隠れてしまう。「あきらめようと思えば視界の端にちらりと何かが動く。凝視しようとすると二度と見えなくなる」といった具合だ。

肯定であれ否定であれ、断定したい。曖昧さを持続することは、実のところけっこうつらい。

立場を決めて断定するのは、むしろ簡単なこと。肯定と否定の狭間に居続ける執念こそが、この本を支えている。それは、他の社会問題に関しても一貫している著者の姿勢であろう。

2016年6月25日、角川文庫、720円。

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2016年08月09日

田中輝美、法政大学藤城裕之研究室著 『地域ではたらく「風の人」という新しい選択』


旅先の本屋に入ると、まず郷土関連の本の棚を見る。
この本も、先日松江に行った時に購入した一冊。

島根県に来て働いている8人の人物に学生がインタビューをしてまとめたもの。地域で働くとはどういうことか、人と地域との結び付きはにはどのような形があるのか、考えさせる内容となっている。

「風土」という言葉もあるように、地域には「土の人」と「風の人」がいる、と言われます。土の人とは、その土地に根付いて、受け継いでゆく人のことです。(・・・)一方、風の人は、一カ所に「定住」せず、わずかな期間で他の地域に移動することも少なくありません。(田中輝美)
地域や社会を元気にしたいんです!っていうよりも、自分が何をやりたいかってこと。結果的にそれが社会や地域を元気にするってスタンスが自然だと思う。(三浦大紀)
やっぱり旅人は何か特殊なことがないといけないよね。地域の人たちが持っていない何かを運んでくる。旅人が触媒になって地域の文化が変わるとか、そういうことに意義がある。(白石吉彦)

この本自体、地域応援型のクラウドファンディングで支援者を募り、松江の出版社から発行されている。そうしたところから、新しい流れが生まれていくのかもしれない。

2015年8月11日、ハーベスト出版、1400円。

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2016年08月03日

井上章一著 『愛の空間』


副題は「男と女はどこで結ばれてきたのか」。
1999年に角川選書から刊行された『愛の空間』の第1章から5章を文庫化したもの。

近代以降、男女の性愛がどこで行われてきたのかを調べた風俗史である。野外、遊郭、待合、ソバ屋、銘酒屋、木賃宿、円宿、温泉マーク、アパートなど、時代による移り変わりを含めて、実に詳細に例が挙げられている。

かつての皇居前広場は、野外で性交をしあう男女のあつまる場所だった。多くのカップルが、愛しあうためにここへやってきた。第二次世界大戦の敗戦後、二〇世紀なかごろのことである。

あの皇居前広場で! 何とも驚きの事実である。

プロレタリア文芸の小林多喜二が、『工場細胞』(一九三〇年)という小説を書いている。作品のなかで、小林はお君という女工に、工場へつとめる女たちの批判を語らせた。たとえば、「日給を上げて貰うために、職長と……『そばや』に寄るものがある」などと。

こうした表現も、「そばや」が単なるソバ屋ではなく、当時、性愛の場所として利用されていた事実を踏まえないと意味不明なものとなってしまう。

一九三〇年代の日本、わけても大東京の横顔を……一瞥しようとする時、見落すことの出来ない三つの『円』がある。円本、円タク、円宿ホテル

「円本」「円タク」は歴史の教科書にも載っているが、「円宿」は初めて知った。時間制で一円という料金設定のホテルのことらしい。なるほど、教科書には載せにくい話だ。

当時の新聞・雑誌、さらに小説などの資料に非常に幅広く当たって、著者はこの一冊を書いている。しかも、1960年代以降のラブホテルに関する記述は、元版を全面的に書き直したいとのことで、この文庫版からは省かれた。その衰えない熱意に感嘆する。

2015年10月25日、角川ソフィア文庫、1120円。

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2016年07月30日

万城目学著 『とっぴんぱらりの風太郎』


買ったまま積んであった本を読む。
全746ページ。弁当箱みたいに厚い。
「風太郎」は「ふうたろう」ではなく「ぷうたろう」。プータロー。

伊賀の忍者の話ということで、鴨川ホルモー(京都)、鹿男あをによし(奈良)、プリンセス・トヨトミ(大阪)、偉大なるしゅららぼん(滋賀)に続いて、今度は三重の話かと思ったが、それは第1章だけ。第2章からは京都と大阪が舞台である。

これまでの作品とはだいぶ感じが違って、けっこうシリアスな内容。面白いところもたくさんあるのだが、読み終えた後はずっしりとした重みが残った。

小説のテクニックとして気づいたこと。

「Boa Sorte(ボアソルチ)、――風太郎」
黒弓が妙な言葉を唱えた。
「何だ、それ?」
「向こうの言葉で、『幸運を』っていう意味だよ」

このやり取りだけで、仲間の「黒弓」が異国から来たことがわかる。
説明を省いて会話だけで読者に伝えている。

蝉は俺より二つ年を食っている。つまり、今年で二十歳になる。

要するに主人公の俺(風太郎)は、18歳ということだ。
「俺は十八歳」と読者に向けて自己紹介するより、よっぽど自然である。

このあたりは短歌にも応用できる部分だろう。

2013年9月30日、文藝春秋、1900円。

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2016年07月21日

渡辺一史著 『こんな夜更けにバナナかよ』



副題は「筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」。
2003年に北海道新聞社から刊行された本の文庫化。

以前、この著者の2作目『北の無人駅から』(すごい本!)について、ブログで取り上げたことがある。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138721.html

このデビュー作もまた、すごい本であった。

進行性筋ジストロフィーでほぼ寝たきりの重度障害者と、その介助をするボランティアをめぐるノンフィクション。本を買って3年、ずっと読むのを躊躇っていたのだが、読み始めると圧倒的な力でぐいぐいと引き込まれた。

この人はすごい。

自らも介助のボランティアに参加しながら、著者は障害とは何か、介助とは何か、ボランティアとは何かについて考える。さらには、他者と関わるとはどういうことか、生きるとはどういうことなのか、といった問題へと話を深めていく。

障害者もボランティアも、決してやさしかったり、純粋なだけの人間集団なのではなく、ときには危ういドロドロとした、ひどく微妙な人間関係の力学の上に成り立つ世界なのだ。
従来の自立観では、「他人に依存せず、自分だけでやってゆける」のが自立と考えられていた。しかし、重度障害をもつ自立生活者たちというのは、いわば、「他人と関わること」を宿命づけられた人たちである。
「よかれ」と思ってやったことが、そうではなかったときの驚き。やさしさが裏目に出、アドバイスが裏目に出、互いの意志と意志、気持ちと気持ちがチグハグに食い違う瞬間。そのとき人は、「他者」というものの存在を思い知らざるをえないのだ。

何十人という人物から話を聞き、一人一人の考えや意見に寄り添いながら、それら全体を一冊の本にまとめ上げる粘り強さ。書きながら、自問自答を繰り返しつつ、決して安易な結論に導いてしまわない忍耐力。本当にすごいものだと思う。

本を読んで久しぶりに泣いた。

2013年7月10日、文春文庫、760円。

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2016年07月16日

『訓読みのはなし』のつづき

短歌に関係する部分をいくつか。

消えた和語について他の例も挙げると、古くは「脳」には「なづき」、「地震」には「なゐ」、「暗礁」には「いくり」という和語があった。

「なづき」「なゐ」など、確かに日常の言葉としてはもう使はない。でも、短歌の中にはしばしば出てくる。

今日の短歌や俳句の作品には、「瞑(めつむ)る」「瞑(めつむ)りて」「瞑(めつむ)れば」など、「瞑」を「めつむ‐る」と読ませる例がある。これも、一語と認定する辞書は少ない。もし「め」「つむる」の二語と認定すれば、これは二語にまたがる訓読みを持つ漢字となる。

確かに『広辞苑』では「瞑(つむ)る」は載っているが、「めつむる」は載っていない。

「我」も一人称「われ」という字義は仮借義である。この字は、のこぎりの象形文字で、すなわち、のこぎりが本義であり、同音語で代名詞「ガ」というような単音節の古代中国語にそれを当てて用いた。そして、その後、「我」に「のこぎり」の意味は失われたのである。

「我」が「のこぎり」を意味する漢字だったとは!
そこで思い出したのが、先日読んだ次の歌。

「我」という文字そっと見よ 滅裂に線が飛び交うその滅裂を
                大井学 『サンクチュアリ』

「我」がのこぎりの象形文字であるならば、ギザギザで滅裂なのも道理である。象形文字の持つ力とでも言えばいいのか。「のこぎり」の意味を失った今も、「のこぎり」的なニュアンスはちゃんと伝わっているのだ。

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2016年07月14日

笹原宏之著 『訓読みのはなし』


副題は「漢字文化と日本語」。
2008年に光文社から刊行された『訓読みのはなし―漢字文化圏の日本語』を改題し、文庫化したもの。

日本語が漢字をどのように取り入れてきたのかという問題を、訓読みというユニークな方法を中心に紹介し、さらには朝鮮・韓国やベトナムなど東アジア圏における漢字の受容の歴史にまで話を広げている。

一つの漢字に対して音読みと訓読みの二つがあるというのは、普段あまり意識しないけれども、実はかなりユニークなことなのだ。

体系的な記述と言うよりは雑学的な部分が多いのだが、新しい発見がいろいろとあって楽しい。

日本における漢語は、亜「ア」、小「ショウ」、白「ハク」など、一音節か二音節と拍数が短い。また、二拍目に来る音は、(・・・)「イ」「ウ」「キ」「ク」「チ」「ツ」「ン」といった限られたものしかないなど、発音の種類が一定であり、概して硬質な感じが漂う。
「キク」は、花そのものが身近なこともあって、訓読みのように意識されがちであるが、音読みなのである。「胃(イ)」も、胃腸をまとめた語は別として、その臓器そのものと一対一で対応する和語がなかったようで、字音が単語として定着した。
江戸期には、その(漢文訓読の)技術を応用して、オランダ語や英語などの横書きの文に対しても、レ点や一・二点のような記号を単語と単語の間に加えながら読んで訳す「欧文訓読」「英文訓読」が行われることがあった。
奈良時代までさかのぼれば、和語のハ行はP音で発音されていたことが万葉仮名や擬音語に関する分析などから知られており、(・・・)「ひかり」は、奈良時代には「ぴかり」のように発音されていたのであった。

「ひかり」だとあまり光っている感じがしないけれど、「ぴかり」だと確かに光っている。

2014年4月25日、角川ソフィア文庫、760円。

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2016年07月03日

高橋和夫著 『中東から世界が崩れる』


副題は「イランの復活、サウジアラビアの変貌」。

テレビの解説などでもおなじみの著者が、今年1月のイランとサウジアラビアの断交のニュースを皮切りに、現在の中東情勢と今後の見通しについて記している。

中東の歴史や宗教に関しても最低限必要な知識をまとめてくれていて、ありがたい。専門家にとっては当り前のことでも、意外と知らないことが多いものだ。

サウジアラビアなどはアラブ人の国だが、イランはペルシアの国だ。この違いは、私たち日本人が思っている以上に大きい。
イラン人は、自分たちは巨大なペルシア帝国をつくった人々の子孫だという強烈な意識を持っている。地理的な広さに基づく大国意識だけでなく、歴史的な意識に支えられた大国意識をも抱く、誇り高い人々なのだ。
「石油の時代」がいつまでも続くのがサウジアラビアの国益である。石油関係者がよく言うように、「石器時代が終わったのは石がなくなったからではない」。石器に代わる鉄器が現れたからである。
現在のトルコという国は、オスマン帝国の継承国である。オスマン帝国は、かつてはイスタンブールを首都とし、アジア、アフリカ、ヨーロッパにわたる広大な領土を支配していた。

その昔、世界史の授業で習った「ペルシア帝国」や「オスマン帝国」の話が、まさに現在の問題へとつながっていることがよくわかる。学生時代は「こんなこと習って何の役に立つのか」などと文句を言っていたけれど、現在起きている問題を考える際にも歴史は大きなヒントや手掛かりとなるのである。

本書を読んで一番衝撃だったのは、

ありていに言えば、中東で“国”と呼べるのは三つだけだ。先ほど述べたイラン、そしてエジプトとトルコである。

という話。著者によれば、それ以外のサウジアラビアやイラクやシリアは「国もどき」ということになる。私たちが近代国民国家をベースに考えている国という概念は、そもそも普遍的なものではないということなのだろう。

イギリスのEU離脱、トルコのイスタンブール空港でのテロについて自分なりに考える際にも、この本は非常に役に立つ。歯切れの良い文章で読みやすく、中身は濃い。タイトルはやや刺激的過ぎるが、別に何かを煽るわけではなく、内容はバランスの取れた記述となっている。

2016年6月10日、NHK出版新書、780円。

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2016年07月02日

岩下明裕・花松泰倫編著 『国境の島・対馬の観光を創る』


特定非営利活動法人「国境地域研究センター」が刊行する「ブックレット・ボーダーズ」の1冊目。

近年韓国人観光客が増加している対馬の現状を分析するとともに、ボーダーツーリズム(国境観光)の導入や商店街の活性化など、今後への具体的な提言がまとめられている。

国境地域は、外国から自国を守るための「砦」であるとともに、外国へ開かれた「ゲートウェイ」(入口、通路)でもある。

「砦」になれば、その地域はどんづまりになる。隣国との間に誰も通れない壁ができる。およそ地域としての自立やビジネスなどの展開は不可能だろう。
まちが生き残るには「ゲートウェイ」しかない。住民たちはそのことを肌で理解している。

国境問題を考える上で、こうした観点は非常に大事だと思う

対馬には歴史的な遺産や豊かな自然が多くある。福岡から対馬を経由して釜山へと至る「国内+海外」観光ルートの創設など、今後さらなる可能性が秘められている。

ぜひ一度、訪れてみたい。

2014年7月25日、国境地域研究センター、800円。

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