2014年02月02日

堀合昇平歌集 『提案前夜』



新鋭短歌シリーズ3。
「未来」所属の作者の第1歌集。2008年から13年初頭までの317首を収めている。
ちぃーすざぁーすうぃーすあざぁーすと原型の分からぬ朝の挨拶をする
みな前を向くから僕も前を向くデスクトップの遠い草原
新月の夜の更けゆけば停止線わずかに越えて停まるプリウス
アイライン整えられてゆくまでを見おろす肘と肘のあいだに
のどあめでのどをうるおすさびしさに読みかけて閉じる回想録(メモワール)
剃刀の刃を差し替える危うさで名刺を渡すもうあわないひとに
離れては近づいてくる笑いごえ風の向こうへブランコを押す
学校はもうこりごりと耳元で妻がつぶやく拍手をしつつ
いっかいてーんにかいてーんさんかいてーんといいながら半回転をつづけるむすめ
折り畳み傘たたみつつ誰ひとり歩みを止めぬ駅コンコース

コンピューターメーカーの営業職という仕事を詠んだ歌が中心となっている。

7、8、9首目は小学生の娘に関する歌。「シオリ1」「シオリ2」「シオリ3」という連作のタイトルは、娘さんの名前「詩織」に因んでいるのだろう。

2013年5月25日、書肆侃侃房、1700円。

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2014年01月27日

『galley ガレー』のつづき

就職を「した」と「しない」と「できない」でさびしきわれら薄く鎧へり
わたくしの白とあなたの水色をかさねて仕舞ふ給与明細
腹がすいたと体のどこが思ふのかぼんやりと手が考へてゐる
じつと手を見てゐる人がひとり、ふたり、さんにん、よにん昼の電車に
退職を決めし同僚と向き合へりかもなんばんに鼻を温めて
三十キロ離れて撮れば青鼠の海市のごとく建屋が並ぶ
ゆめの中で落としてしまつた顔のこときれいな凹凸だつたと思ふ
防護服の人が防護服の人に向き合ひてファスナーぎゆつと喉元へ詰む
八時間赤ボールペン使ひたる手を包む泡がももいろになる
祖父の内にありしシベリアも燃えてゆく鉄扉の向かう火の音たてて

2首目は共働きの夫婦ならではの歌。こういう歌は、これまでありそうでなかったように思う。最初は何のことかなと思って読んでいき、結句の「給与明細」まで来てようやくわかるという語順がいい。

4首目は啄木の「ぢつと手を見る」を想起させるが、実際はケータイやスマホを見ているのだろう。そこに時代の移り変わりが感じられる。

8首目は原発事故の歌。分厚い防護服を着ているので、自分ではうまく閉められないのかもしれない。そこに生々しさがある。

9首目は仕事を終えて手を洗っているところ。石鹸の泡ににじむ「ももいろ」が、仕事を終えた疲れや充実感をよく表している。

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2014年01月25日

澤村斉美歌集 『galley ガレー』

著者 : 澤村斉美
青磁社
発売日 : 2013-12-25

第2歌集。2007年春から2012年秋までの450首を収録。
まずは前半から。
初、春、夏、名、秋、九と覚えたり力士にめぐる六つの季節
赤紫蘇の葉の裏側へ透けながら秋の陽は手に取りてみがたし
サワムラは水の流れる村にして夜勤ののちをふかく冷えこむ
旅一つ終へて失せたるマフラーの濡れて踏まるるさまを思へり
夫をらぬ昼にもぐれる夫の布団の案外寒きその掛け布団
夫のなかに蓮のひらきてうすべにのやる気といふものつねにはかなし
にほんざるのやうに並んで過ごす冬消したテレビに顔の映れる
人の死を伝へる記事に朱を入れる仕事 くるくるペンを回して
君の敵のウチカワのことをなぜか思ふウチカワが勝てばいいと思へり
しらかばとしらかばの影が向かひ合ふ奥蓼科の冬晴れの水

新聞社の校正の仕事を詠んだ歌が歌集のベースとなっている。
また、夫を詠んだ歌も多く、現代的な夫婦のあり方が見えてきて面白い。

1首目は大相撲の「初場所」「春場所」「夏場所」・・・のこと。一年に六場所あることを「力士にめぐる六つの季節」と詠んだのが美しい。

5、6、7首目は夫を詠んだ歌。夫婦の間の距離感をうまく捉えて歌に詠んでいる。これまでの短歌に見られる夫婦像とは違う感じがあり、この歌集の特徴、収穫と言っていいだろう。

8首目、「人の死」と「くるくるペンを回して」の落差に、自分の仕事を客観的に見つめる眼差しが感じられる。

2013年11月11日、青磁社、2500円。

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2014年01月17日

『王仁三郎歌集』のつづき

出口王仁三郎は、とにかく桁外れである。結社にいると、毎月10首の詠草を出すのが大変といった話をよく耳にするが、王仁三郎は一日に二百から三百首、一か月に数千首という数の歌を詠んでいたらしい。
歌人としての出口王仁三郎は、昭和五(一九三〇)年に前田夕暮の結社「詩歌」に入会したのを皮切りに、百以上の結社に次々と入会する。

と笹公人さんが解説に書いているのを読んでも、その桁外れのスケールに驚くほかはない。しかも、中には女性のみの雑誌に女の名前を使って入ったりもしているのである。

王仁三郎の第4歌集『霞の奥』の目次を見ると、まず「昭和六年六月」という章立てがあって、「詩歌 沈默」「つき草 春寒し」「短歌月刊 春の歌」「心の花 天城嶺」「創作 天橋」「都市と藝術 外濠」「水甕 鶴山林」「蒼穹 湯ケ嶋にて」「吾妹 夕月」「香蘭 温泉の村」「アララギ 如月」「潮音 東上」……と、実に50以上の結社誌の名前がならぶ。これはすべて、ひと月に王仁三郎が結社に発表した作品である。しかも、次は「七月」とあって、また同じように続いていくのだ。

今では、というか、当時でも考えられない常識破りの行いであり、作歌量であろう。
そんな王仁三郎は、当時の歌人たちをどのように見ていたのだろうか。
小賢しく主義や主張とあげつらふ歌人の尻の小さきに呆るる
病雁(びやうがん)の一つの歌に数ケ月の喧嘩続くる小さき歌人よ
くやみごと上手に並べ肺病を歌によむ人を歌人といふなり
全国の歌人がわれをにくむとも鎧袖一触(がいしういつしよく)の感だにもなし

2首目は昭和4年から5年にかけて、斎藤茂吉と太田水穂との間で行われた「病雁」論争のことを言っている。王仁三郎という桁外れの人物から見れば、どんな歌人も「尻の小さき」存在でしかなかったであろう。

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2014年01月16日

笹公人編『王仁三郎歌集』

玄界灘のあなたに青々と浮ぶ壱岐の島! 新しい塗料のやうに
久方の天の橋立に風あれてかもめのむれは片寄りにけり
憑依現象だ幽霊研究だとさわぐ学者のやせこけたあをじろい顔
日に幾度鏡のぞけどわが白髪朝もゆふべも白髪なりけり
をさな日のうつしゑのなきわれにして淋しみにつつ自伝記を書く
大いなる牛を曳きつつ牧童が夕べの川に足浸しをり
いかづちの音にもまがふ大瀧の真下に立てば夏なほ寒き
包丁をぐさりとさせばほんのりと匂ふメロンの朝の楽しさ
やまめと思つて食つた膳の魚が鰆(さわら)と聞いて俄かに味が変(かは)る
宗教家の自分をみて人間味たつぷりと評する人がある宗教の真味を知らないのだらう

大本(教)の教祖である出口王仁三郎は、生涯に15万首もの歌を残したことでも知られている。その膨大な歌から328首を選んで収めた本。

1首目は「新しい塗料」という比喩が印象的。
2首目、6首目は写実的な歌で、絵になるような風景を的確に描いている。
4首目は当り前の話ではあるのだが、加齢や老いに対する寂しさが滲んでいる。
9首目は人間の味覚の不思議を感じさせる歌。私たちは料理そのものだけではなく、それに関する情報も含めて味わっているのだろう。昨今の食材の「偽装」問題にも通じる話かもしれない。

王仁三郎については、以前「D・arts ダーツ」第6号(2004年12月)の特集「越境する短歌」の中で、「出口王仁三郎『東北日記』を読む」という文章を書いたことがある。

『東北日記』(全8巻)は北陸・東北・北海道・樺太への巡教の記録であるが、ここにも膨大な数の短歌が収められている。「樺太を訪れた歌人たち」でも、近々取り上げるつもり。

2013年12月28日発行、太陽出版、1800円。

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2014年01月11日

久野はすみ歌集 『シネマ・ルナティック』

窓際は特等席ゆえLPにかすかにまじる木枯らしの音
ひいらぎさん柊さんという人を思い出したり春のはじめに
岬まで白い風車が建ち並びならずものにはなれないふたり
いくつもの沢があなたの腕にあり夏の終わりの瀬音ひびかす
どのドアも朽ちてしまってアンティークショップに並ぶ真鍮の鍵
「つるばらの香る季節となりました」薄きはがきが閉店を告ぐ
舌先は口内炎にふれながらあざみ野行きのバスに揺られる
海沿いのちいさな町のミシン屋のシンガーミシンに砂ふりつもる
ひだまりの祖母は揺り椅子ゆらしつつどこへも行かずどこへでも行く
貝印カミソリいつもしまわれて鏡台は母のしずかな浜辺

2001年から2012年までの作品253首を収めた第一歌集。

日常とは少し違った物語的な歌が多く、「シネマ・ルナティック」「喫茶きまぐれ」「黒猫レストラン」など、お店を舞台にした連作が印象に残る。

2首目は「柊」という名字なのだろう。一度目は平仮名、二度目は漢字にすることで、「柊」という字の中に「冬」があることを気づかせてくれる。

6首目は、時候の挨拶に「つるばら」を持ってくるところに、お店の雰囲気や店主の人柄が滲んでいる。「薄き」がよく効いていて、閉店を惜しむ気持ちが伝わる。

9首目の祖母は一日中うとうとしているのだろう。もうどこへも行けない身体ではあるけれど、記憶や思い出や夢の中で、どこでも好きなところへ出掛けているのだ。

2013年11月10日発行、砂子屋書房、2400円。

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2014年01月07日

小林幸子歌集 『水上の往還』

雨戸すこし開けてねむればその幅に月が収まる夜の深きとき
これだあれ、写真ゆびさすをみなごは死者になりたるひとらを知らず
たましひを抜かれて阿修羅はそののちに筑紫の国へたちゆくといふ
白き繭と黄緑の繭並びゐる 糸つむぎ場の窓べの棚に
ふかぶかと傘さすひとと八月の影かたむけてすれちがひたり
眉毛だけ描いておほきなマスクかけ余震のつづく街へいでゆく
漁をせぬ船ながめつつ小名浜の市場食堂にメヒカリを食ぶ
はつあきのひかりふる日は星鰈など頭(づ)にのせて海辺ゆきたし
おほき波ちひさき波のあひだからきこえてゐたりこどものこゑは
ゆく道にかへりの道にさへづりて身にうぐひすを匿ふごとし

2008年から2012年までの作品526首を収めた第7歌集。

「歌という詩型が、死者とひとつづきの地平から生まれたことをいくたびも思う」(あとがき)とあるように、死者を詠んだ歌が多いのがこの歌集の一番の特徴だろう。上野久雄、河野裕子への挽歌をはじめ、葛原妙子、前登志夫、息子を詠んだ歌がある。さらには、ナチスによって壊滅させられたチェコのリディチェ村の人々、東日本大震災で亡くなった人々を詠んだ連作は、歌集の中核と言っていい。
松戸よりはるばると来し梨原樹は湯梨浜町に母樹となりたり

「鳥取行」の一首。作者の住む千葉県松戸市二十世紀が丘は、二十世紀梨の発祥の地である。この梨の木が1904年に鳥取県にもたらされ、今では県の特産品となっている。

2013年11月22日、砂子屋書房、3000円。

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2013年12月29日

池本一郎歌集 『萱鳴り』

鋤かれたる田に白鷺が六羽立つそれぞれあらぬかたを向きつつ
戸袋という袋だけ残りおり朝あさ入れて夜ごとに出しき
茄子畑に水はこびゆく漣が腕より足に伝わりながら
六月の足守川に水は盈(み)つ水にて陥ちしこの城とひと
口あけて雪を待ちいし日のありきみな逸れてゆく記憶のみある
急停車すれば枯れ葉がゆっくりと降りしずむなりわが前に出て
ひんろろうだいせんやまのとびのすけひんろろう 伯耆のお話おわり
爪きれば爪を運びてゆく蟻よ働きものの季なり五月
50年ぶり、コンパスを手に赤をひく島根原発から100キロの円
くすの根に自転車はみな同じ向き二番手の子がかんじんなのだ

第6歌集。2008年春から2013年初夏までの467首を収める。
過疎化の進む鳥取での暮らし、田や畑における農作業の歌、動植物に対する親しみ、口語を使ったユーモアの歌などに特徴がある。

1首目は「あらぬかた」という語の選びが良い。「あちらこちら」ではダメなのだ。
4首目は、秀吉による備中高松城の水攻めを詠んだ歌。
7首目は、昔話などの終わりの一節だろうか。「お話おわり」で歌も終っているのがいい。
10首目は発見の歌。なるほど、二番目が同じ向きに止めたから、三番目以下も続いたのだ。大事なのは一番手ではなく二番手という面白さ。
哺乳類河野裕子とかつてわれ詠みしがその乳(ち)に奪われたまう

2010年に乳癌により亡くなった河野裕子を詠んだ歌。
上句は次の一首を踏まえている。
水族館出でし広場に哺乳類河野裕子が腰かけており
            『藁の章』(1996)

2013年10月25日、砂子屋書房、3000円。

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2013年12月19日

『エフライムの岸』のつづき

この歌集は2006年から2010年までに発表した作品552首を収めている。

後半から10首。
ここはかつて水路を渡る小橋なりきクランク状の路地をぬけたり
箸づかひうつくしからぬむすめなりうつくしき手に見とれるにあらず
西瓜ふたつ提げて合宿に行きたるは卒業ののちの夏一度のみ
  阿武隈
地図帖に山脈、山地、高地とも名をかへていまだたひらかにあらず
自重せよと言ひて言ふのみにありたるは見殺しにせしことと変はらず
迷ひつつ書きけむ文のおのづから長くはじめと違ふこと書く
ひやくねんは水を入れたることのなき青磁の壺を乾布でぬぐふ
冬の旅はむしろ着がへの少なくて小さな書類かばんで足りる
菜の花の黄ははつかなりあざやかな緑にかかるからし味噌ひと匙
ふたわかれしてゆく水の一方は砂礫のなかに消えてゆきたり

1首目の「水路」は今では埋め立てられたか、暗渠となっているのだろう。道の形から過去の風景が甦ってくる。過去と現在の時間が重なり合う面白さ。

2首目は娘を詠んだ歌。娘、息子、妻といった家族が、この歌集でも良い味を出している。距離の取り方や描き方に工夫があるのだろう。

5首目は思索詠。「のみ」という限定や「変はらず」という打消しが多いのも、真中さんの歌の特徴である。今回引いた中にも、2首目に「うつうくしからぬ」「あらず」、3首目に「のみ」、4首目に「あらず」といった言葉が使われている。

8首目は、佳品とでも呼びたい一首。難しい言葉は何もないが、「むしろ」「足りる」といった語の選びがよく、31文字で「できあがり!」という感じ。

10首目は自然詠なのだが、こういう歌が象徴的、比喩的なニュアンスを帯びるところに、短歌の面白さがあるのだと思う。

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2013年12月17日

真中朋久歌集 『エフライムの岸』


真中朋久さんの第4歌集。

最近は続々と歌集が出版されるので、「あの人の新しい歌集が読みたい」と思うことが少なくなった。そんな中にあって、真中さんの歌集は私が待ち望んだ歌集の一つである。

まずは前半から10首。
すこし前に過ぎたる船の波がとどき大きくひとつ浮橋をゆらす
年わかき女ともだちの結婚を妻は真顔でさびしいかと言ふ
そのかみの蘇鉄地獄を語りやればどうやつて食ふのかと子は問ふ
踏み絵なら踏んだらよいと思ひゐしは踏み絵を前にするまでのこと
空調機のかげのくらがりに走り入りてふりかへる猫のふたつまなこは
背のたかきビルに二方をふさがれて小さき鰻屋が角で商ふ
わたしではなくてお腹(なか)をかばつたといまも言ふあれは冬のあけがた
をばちやんビールもらふよと言ひ正の字のいつぽんをまた書き加へたり
サクソフォンが「春の小川」を吹きながらビルの谷間をひかりつつゆく
壕のなかに絶えしをとめらを語りつついつよりか酔ふごときそのこゑ

1首目、「波がとどき」を「波とどき」、「浮橋をゆらす」を「浮橋ゆらす」とすれば定型に収まるのだが、そうすると調べが軽くなってしまい、このゆったりとした波の感じは出ない。

3首目の「蘇鉄地獄」は沖縄の歴史を語るときに必ず出てくる言葉。食べ物がなくて野生の蘇鉄を食べたという悲惨な話である。それに対して「どうやつて食ふのか」という反応が、何とも子どもらしい。伝えたいことが伝わるとは限らない。

4首目は思索詠とでも言ったら良いのだろうか。こういうタイプの歌が、真中さんの一番の特徴と言っていいかもしれない。苦みと重みのある思索の歌が、他にもたくさんある。

7首目は阪神淡路大震災、10首目は沖縄戦の語り部の人たちのことを詠んだ歌。

9首目は、「春の小川」を演奏するサクソフォンが光を反射しているのだが、まるで本物の川がきらきらと谷間を流れていくようなイメージが湧いてきて面白い。

2013年7月7日発行、青磁社、2700円。

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2013年12月03日

馬場あき子歌集 『あかゑあをゑ』

第24歌集。
年改まりわれ改まらず川に来て海に引きゆくかもめみてゐる
くねりまがり鯰尾坂(なまづをざか)とよぶところ眠り地蔵をみればほほゑむ
ぼんやりしてゐれば何かが見えるといふ隣家にみのる枇杷の明るさ
デパ地下の水の広場に人憩ひポンペイにもあつたひとときのやう
渤海のふるき使節の貌もちてアザラシはゐたり早春の檻
朝鏡無数の亀裂ある顔を写しをり人生も大寒に入る
ごきぶりは見るに大きく死にたれば小さし殺さるる虫として生きる
つがひつつ打ち重なりてありしものふとかがやきて草より飛べり
風神と雷神と来てあらそひし落葉の庭にその香ただよふ
胎内といふ吹雪の街をゆきしとき越後の瞽女のほろびききたり

タイトルの「あかゑあをゑ」は「赤絵青絵」のこと。
「きみは赤絵の茶碗にしろき朝粥をわれは奈良絵の茶碗の茶漬」という歌がある。
10首目の「胎内」は新潟県にある市。

引用した歌以外にも、若くして亡くなった母を詠んだ歌や、「番(つがひ)」という一連が印象に残った。口語や新語なども積極的に取り込んで、85歳とは思えないエネルギッシュな内容となっている。

2013年11月20日、本阿弥書店、2700円。

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2013年11月14日

堂園昌彦歌集 『やがて秋茄子へと到る』

朝靄の市場の広いまたたきのアンデルセンは靴屋の息子
春先の光に膝が影を持つ触って握る君の手のひら
秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
冬にいる寂しさと冬そのものの寂しさを分けていく細い滝
いくつかの拙い措辞が僕たちの短い春を台無しにした
透明な涙が胸に湧き出して目から零れるまで藤が咲く
僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る
ほほえんだあなたの中でたくさんの少女が二段ベッドに眠る
許されて記憶の赤い花が咲く冬それぞれの稲荷神社に

第1歌集。1ページ1首組で195首が収められている。

一首目はまず韻律に惹かれる。上句は「AAOAO」「IIAOIOI」「AAAIO」と、「A」「O」「I」だけが使われている。そして4句目で「AnEUEnA」と「E」と撥音が初めて現れ、結句「UUAOUUO」で「U」が連続して現れるという流れ。

二首目は「触って握る」がいい。いきなり握るのではない。最初に軽く「触って」、相手も嫌がっていないことを確認してから「握る」。恋の初めの感じがよく表れている。

四首目は、結句の「たち」がいい。「小銭」という無機物に「たち」が付くことで、まるで小さな生きもののような愛おしさが生まれる。「小鳥たち」みたいに。

固有名詞のない世界、というのが全体を読み終わった時の第一印象。実際には「アンデルセン」「王子駅」「横須賀線」などいくつかあるのだが、固有名詞に代表される現実との強い結び付きといったものからは、だいぶ距離がある。

春夏秋冬などの季節や時間、天気を表す言葉がとても多い。「春」25首、「夏」14首、「秋」8首、「冬」23首。他にも、例えば「光」「ひかり」は27首もある。どれも、変りゆくもの、移りゆくものばかりだ。

虹のような歌集とでも言えばいいのか。虹というのは「七色」や「弧を描くこと」や「雨上がりに現れること」が本質ではなくて、たぶん「消えること」が本質だろう。この歌集からも、そんな印象を受ける。

2013年9月23日、港の人、2200円。

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2013年11月05日

資延英樹歌集 『リチェルカーレ』

右クリック、左ワトソン並び立つ影ぞ巻きつる二重螺旋に
モツァレラとトマトを和へたパスタからしづかな午後がはじまつてゆく
ゆく年とともに出で来てポストまで歩いたあとをかへる年なり
一頭を呼び戻すためもう一頭柵から外へ放ちやりたり
一旦は消されたレーンの石灰がそぼ降る雨に浮いてきたりぬ
しなやかな手つきに首を摑まれた白鳥だつたゆふべのぼくは
道綱の母と呼ばれて八〇〇年わたしもすこし草臥れました
崩れつつある砂山は砂山の本質として崩れつつある
一体にいくつ心は宿るらむまづはここなるたなごころ二つ
生きてゐるものをそのまま摂り入れてみせる行為が愛なんだらう

『抒情装置』(2005年)に続く第2歌集。第3歌集『NUTS』と同時に刊行された。

1首目はコンピューター用語の「右クリック」と、DNAの二重螺旋構造を発見したフランシス・クリック(とジェームズ・ワトソン)を掛けている。機知に富んだ歌だ。

7首目は「蜻蛉日記」の作者である藤原道綱の母のこと。名前が伝わらず「道綱の母」とのみ呼ばれている女性の、かなしみのようなものが感じられる。

2013年3月1日、砂子屋書房、2000円。

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2013年11月01日

渡辺松男句集 『隕石』

涅槃西風(ねはんにし)こころにまるい石ひとつ
みがかれし黒曜石と涼みたり
ゆふぐれのはじまるころのところてん
鉄亜鈴避暑地に行きしことあらず
かたつむり今生分は歩きけり
子らの眸(め)にとつぜん金魚死にてをり
鋸と万力のある大暑かな
揚がるたび河口のみゆる花火かな
鳳仙花子の友だちの友だち来(く)
流星や口の欠けたる益子焼
象の背のほこりうつすら文化の日
入口と出口ばかりの冬木立

渡辺松男さんが歌集ではなく句集を出したことに、まず驚いた。
同時に、何となくわかるような気もしたのはなぜだろう。
近年のシュールで飛躍のある歌風は、俳句との相性が良いように感じていたのかもしれない。

次々と繰り出されるモノとイメージの世界を十分に楽しませていただいた。

2013年10月30日、邑書林、2500円。

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2013年10月27日

永井祐歌集 『日本の中でたのしく暮らす』

なついた猫にやるものがない 垂直の日射しがまぶたに当たって熱い
「台風がもうすぐくるよ」コーヒーに注ぐミルクの口開けながら
スキー板持ってる人も酔って目を閉じてる人も月夜の電車
アルバイト仲間とエスカレーターをのぼる三人とも一人っ子
半そでのシャツの上からコート着てすきとおる冬の歩道を歩く
朝からずっと夜だったような一日のおわりにテレビでみる隅田川
缶コーヒーと文庫をもって立っている足元に吹いてくる夏の風
明るいなかに立っている男性女性 こっちの電車のがすこしはやい
電車の外の夕方を見て家に着くなんておいしい冬の大根
青と黒切れた三色ボールペン スーツのポケットに入ってる

意識を集中するのではなく、拡散していく。同時に二つ以上のことに意識が向いている。そうした歌の作り方に一番の特徴があるように思う。中心が一つの「円」ではなく、焦点を二つ持つ「楕円」のような感じ、とでも言おうか。

それは、私たちの日常の意識のあり方としてはむしろ普通のことなので、短歌でもその方法がうまく行くと、非常にリアルな印象の作品が生まれる。

2012年5月20日、ブックパーク、1300円。

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2013年10月08日

前川佐重郎歌集 『孟宗庵の記』


ありふれた空のをちこち見渡して双眼鏡が鳥をかぞへぬ
一着のスーツにポケットいくつある春の衢(ちまた)を黄砂がつつむ
おそろしき孔雀一羽の変身よ動物園は花ざかりなり
この町に書店の消えし白昼を僧侶が経をとなへつつゆく
昇りつつ二人(ふたり)となりしエレベーター背後の影に殺気はあらず
うつくしき箸の使ひ手まへにして虎魚(をこぜ)は皿に横たはりたり
参道を綿菓子ふたつ手にもちてけむりのやうな童女がよぎる
いつまでも女男(めを)が忘れし影ふたつ鎌倉のうみに夜が近づく
指先でまはす地球儀ゆるやかに風が吹くなり独りの部屋に
遡上するさかなの群れを見下ろしてやうやく家に帰りたくなる

527首を収める第4歌集。

奇想とも呼ぶべき自由な発想や、上句から下句にかけての飛躍が特徴で、ユーモアを交えつつ、日常に潜む不思議や不安を描き出している。モダニズム短歌の代表的な歌集である前川佐美雄『植物祭』(昭和5年)に、遠く通じる部分があるように思う。

鎌倉大仏、七里ヶ浜など、現住所である鎌倉を詠んだ歌も多い。小学生のころから何度も訪れたことのある地なので、懐かしさを覚えた。

2013年4月8日、短歌研究社、3000円。

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2013年10月07日

杜澤光一郎著 『宮柊二・人と作品』

宮柊二生誕百年記念出版、コスモス叢書第1018篇。

第一部には宮柊二についての評論やエッセイ、第二部には宮柊二の秀歌鑑賞100首を収める。本書の特徴は第二部にあると言っていいだろう。

「その一首を声に出して読む場合、どのようなリズムとイントネーションと節調に注意すべきか、筆者の考え方の提示も必要」とあとがきに記すように、著者は一首一首の読み方に関して細かな指示を出す。そのあたりはかなり個性的で、賛否両論があると思うのだが、意味だけでなく調べを重んじる姿勢には共感する。
おそらくは知らるるなけむ一兵(いつぺい)の生(い)きの有様(ありざま)をまつぶさに遂(と)げむ  『山西省』

柊二の代表歌であるこの一首についても、著者はこれまでの鑑賞が「概して気分的で、ことにその下半句に対する詳しい解釈・検討は、ないがしろにされているきらいがある」とした上で、「一兵」「有様」という言葉の意味や使い方に注目する。そして、それらが「柊二の造語といってもよいもの」であることを突き止め、その効果を明らかにしている。

こうした鑑賞から学ぶことは多い。400ページを超える分量も含めて、労作と言うべき一冊である。

2013年5月15日、いりの舎、3500円。

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2013年09月27日

柏崎驍二著 『宮柊二の歌三六五首』

宮柊二の歌365首を選び、それぞれ150字程度の短い文章を付けたもの。
「私の記したメモは全く個人的なもので、歌の鑑賞などではないが、宮柊二の歌を愛する人たちの何かのお役に立てば幸いである」とあとがきにある。

どの歌にも初出を明記しているのが資料的に貴重なところ。
また、別の時期の、あるいは別の歌人の似た素材の歌なども引いていて参考になる。例えば「孤独なる姿惜しみて吊し経(へ)し塩鮭も今日ひきおろすかな」という一首に対しては、佐藤佐太郎の「つるし置く塩鱒(しほます)ありて暑きひる黄のしづくまれに滴(したた)るあはれ」が引かれるといった具合だ。
法隆寺南大門前暑き日を黒き牛のゐて繋がれにけり
稲青き水田見ゆとふささやきが潮(うしほ)となりて後尾(こうび)へ伝ふ
流れつつ藁(わら)も芥(あくた)も永遠に向ふがごとく水(みづ)の面(も)にあり
草むらをひとり去るとき人型に凹(くぼ)める草の起ち返る音
湯口(ゆぐち)より溢れ出でつつ秋の灯に太束(ふとたば)の湯のかがやきておつ
錐(きり)・鋏(はさみ)光れるものは筆差(ふでさし)に静かなるかな雪つもる夜を
海(うな)じほに注(さ)してながるる川水(かはみづ)のしづけさに似て年あらたまる
匍匐するごとく浅瀬に群がりて鯉の背鰭(せびれ)の雨中(うちゆう)に動く
白藤は数限りなき花房を安房清澄(きよずみ)の山に垂りたり
峡(かひ)沿(ぞ)ひの日之影といふ町の名を旅人われは忘れがたくす

2013年3月20日、柊書房、2000円。

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2013年09月14日

山崎聡子歌集 『てのひらの花火』

第1歌集。
ゲームセンターのすみで交わした約束を私はいつか忘れてしまう
終バスに浅い眠りを繰り返しどこにでもゆく体とおもう
冷水で手をよく洗う 親ウサギが子どもを踏んで死なせた朝に
手のひらに西瓜の種を載せている撃たれたような君のてのひら
夏の雨 わたしが濡れてしまうのを見ている黒い目をした犬よ

歌集の最初の方に、かつて高校の演劇部に所属していた頃のことを詠んだ「蛍光ペン散らかる床で」があり、後半に、高校演劇でよく上演される曽我部マコト作「ふ号作戦」を題材にした「グロリア」がある。

劇を演じていた人物が、その劇の中に入り込んでしまうような、入れ子構造となっている。そして、そうした演劇的な要素は、この歌集全体にあるように思う。

2013年5月20日、短歌研究社、1800円。

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2013年09月13日

『近藤芳美論』のつづき

近藤芳美と高安国世はともに1913年生まれ。
二人には、旧制高校的な教養や西洋に対する憧れなど、いくつもの共通点があった。
「未来」は昭和二十六年に創刊された同人誌的な雑誌で、近藤氏のことを先生とは誰も呼ばず、みな近藤さんと呼んでいた。氏が、先生と呼ばれることを嫌ったからである。

これは、「塔」と高安国世の場合も全く同じである。高安も先生と呼ばれることを嫌い、会員はみな高安さんと呼んでいたと聞く。

1960年代頃まで、二人の歌集にはかなりの対応関係が見られる。近藤の第1歌集『早春歌』(1948年)に対して、高安の第1歌集は『Vorfruhling(早春)』(1951年)であり、ともに戦前から敗戦までの歌を収める。第2歌集『埃吹く街』(1948年)と『真実』(1949年)は、ともに戦後の歌だ。

1960年に高安がドイツ留学を題材に『北極飛行』を出せば、近藤も1969年にソ連、ヨーロッパ、アメリカ旅行を中心とした『異邦者』を刊行している。その中には「北極圏飛翔」という一連も含まれている。

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2013年09月12日

大島史洋著 『近藤芳美論』

著者が近藤芳美について論じた文章20編に、講演「近藤芳美の晩年の歌」、インタビュー「近藤芳美に聞く」をあわせて一冊にまとめたもの。巻末には、「近藤芳美百二十首選」「近藤芳美著作目録」「近藤芳美研究書・参考図書一覧」「近藤芳美雑誌特集号」「近藤芳美略年譜」も収められている。

今年は近藤の生誕100年であり、総合誌でも特集が組まれた。その中で私も『早春歌』と『未明』についてそれぞれ短い文章を書いたのだが、初期作品はともかく、近藤の晩年の作品をどのように評価したらいいのか、非常に難しかった。本書はその解明の糸口となる一冊と言っていいと思う。
いま、こうして亡くなられてみると、近藤の晩年は理解されることの少ない、寂しいものであったと思わざるを得ない。自分は近藤の好き理解者ではなかった。

おそらく、著者のこうした悔恨が、近藤の晩年の歌を何とか理解しようという強い思いにつながっているのだろう。それは、一首一首が良い歌かどうかということを越えて、歌人近藤芳美の全体像を掴もうとする試みでもある。

1995年のインタビューを読むと、当時82歳の近藤は、意外なほど明晰かつ冷静に、自分の歌が難解になり理解されなくなっている現状を認識している。それでもなお、「どこかに理解者はいるとぼくは思っているし、思わなければならない」と言って、自分の信念を貫き続けたのである。

歌の良し悪しとは別の次元で、そんな歌人の生き方の重みをずっしりと感じる一冊であった。

2013年7月24日、現代短歌社、2000円。

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2013年09月11日

木下龍也歌集 『つむじ風、ここにあります』


裏側に張りついているヨーグルト舐めとるときはいつもひとりだ
つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる
空を買うついでに海も買いました水平線は手に入らない
背表紙に取り囲まれてぼくたちのパラパラマンガみたいなくらし
コンタクト型のテレビを目に入れてチャンネル替えるためのまばたき
「千円になります」と言い千円になってしまったレジ係員
右利きに矯正されたその右で母の遺骨を拾う日が来る
いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する
カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められる
病室の窓から見えるすべてには音がないのと君は笑った

第1歌集。今年から刊行の始まった新鋭短歌シリーズ(第一期全12冊)の1冊。

現代都市に生きる若者の日常や孤独感が、繊細な抒情をともなって詠まれている。その中に、時おり冷静で鋭い批評性がまじるのが作者の持ち味だろう。

5首目の「コンタクト型のテレビ」や6首目の「千円になってしまったレジ係員」など、SF的な機知があって面白いのだが、あまりこの路線には行かない方がいいように思った。

2013年5月25日、書肆侃侃房、1700円。

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2013年09月04日

『佐藤佐太郎全歌集』

佐藤佐太郎の全歌集を読んでいる。
全歌集は、時間のある時にゆっくり読むのがいい。急いで読んでも、多分おもしろくない。

第5歌集『帰潮』(昭和27年)の後記にこんなことが書いてある。
(…)私の歌には事件的具体といふものは無い。短歌はさういふものを必要としないからである。

佐太郎の言葉はいつも明快である。そして、時々ハッとするようなことを言う。ここもサラリと書いてあるが、実はかなり過激で本質的なことを言っている。

これを読んで思い出したのは、小池光の歌集『日々の思い出』のあとがきである。
思い出に値するようなことは、なにもおこらなかった。なんの事件もなかった。というより、なにもおこらない、おこさないというところから作歌したともいえる。

こうして比べてみると、両者には通じ合うものがあるように感じる。

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2013年09月02日

三枝昂之著 『夏は来ぬ』


2008年から2012年にかけて静岡新聞に連載された文章の中から133編を選んでまとめた本。短歌、俳句、近現代詩、童謡、唱歌、Jポップなど、幅広い詩歌を取り上げて、解説と鑑賞をしている。

タイトルの「夏は来ぬ」は、もちろん佐佐木信綱作詞の唱歌。
作詞に当たって信綱が強く意識したのは和歌が育んだ季節感を生かすことだった。そのためにまず千三百年の短歌形式を採用した。「うのはなの/にほふかきねに/ほととぎす/はやもきなきて/しのびねもらす」とまさに五七五七七の短歌。

私たちの行った勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」の3回目でも、ちょうど同じような話が出ていたところ。信綱は、和歌・短歌史を考える上でキーマンとなる存在だ。

この本を読んで強く感じたのは、唱歌、民謡、童謡、校歌などの「歌」と信綱、白秋、相馬御風ら近代歌人との関わりの深さである。現在では「歌」と「短歌」の距離が離れてしまっため、私たちはそうした「歌」の作詞は、歌人にとって余技だったように思いがちだが、本当はそうではなかったのだろう。彼らはどちらにも同じように、真剣に取り組んでいたのだ。

2013年8月8日、青磁社、2500円。

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2013年08月16日

永田和宏著 『新樹滴滴』


1995年から15年あまりにわたって「塔」に連載された文章をまとめたもの。全67編。

内容は、短歌のこと、結社のこと、身の周りのこと、故人の思い出などと幅広いが、全体として一つの大きな流れに沿っているように感じる。ほとんどの文章は誌上で一度読んでいるのだが、あらためて印象に残る話がいくつもあった。
短詩型のむずかしさは、自分の文体を確立するということ以上に、そこから抜け出すことの困難さにあるのだろう。
組織というものは、できたときから停滞へ向かって動いていくものである。よほどの努力を続けないと停滞は必然的に全体を覆ってしまう。
短歌という短い形式は、何らかの形で幾重にも読者の目を通すことが大切な詩型であり、もっとも身近に、打てば響くような距離に自分の歌を読んでくれる仲間を持つということを大切だと思うのである。

新樹滴滴」の連載が終ってもう2年半が経つ。やはり永田さんの文章を毎月の「塔」で読みたいという思いが強い。

2013年5月31日、白水社、2200円。

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2013年07月28日

佐藤晶歌集『冬の秒針』批評会

昨日は13:00から、愛知芸術文化センターにて、佐藤晶さんの歌集『冬の秒針』の批評会。
参加者約50名。

前半はパネルディスカッション。司会:荻原裕幸、パネリスト:斉藤斎藤、錦見映理子、松村正直、江村彩。後半は会場発言。鈴木竹志、糸川雅子、小塩卓哉、柴田典昭、三井修ほか。

「われら」という言葉の使い方、専門の中世文学を題材にした歌、「光」や「白」のことなど、いくつか突っ込んだ議論ができたように思う。

花束贈呈や版元のながらみ書房の及川さんの挨拶、作者の佐藤晶さんの挨拶などがあり、17:00前に終了。

その後、近くの「トアプラン」というお店に移動して懇親会。「井泉」の皆さんの行き届いた運営により、最後まで楽しい一日であった。
さくらばな月に照らされ湿疹のくすり塗られた犬とみている
ペットボトルの微少の湖さわだてり海が近づく列車の窓に
水紋の干菓子ならべて昼下がり魚鱗の陣を作りてこわす
風すこし潤うころに思いおり安徳天皇女性説のこと
忘れられた場所のどこかでカルピスに浮かぶ氷がちりちり溶ける

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2013年07月27日

『純白光』のつづき

後半(7月〜12月)の中から10首。
西瓜の種ぷつぷつ皿に出すことも一人では全(また)くおもしろからず
わが顔は湯気にかくれて笊盛りの玉蜀黍を家族へ運ぶ
その名前出てこぬ人の顔のみが大きく浮かぶ夜の頭に
みつばちのやうにお尻をふりながら向日葵の迷路ゆく子どもたち
木犀のなかに犀ゐて秋天に去りゆくものの足音を聴く
走る犬見たくて〈ドッグ・ラン〉へ行く今日の予定は猫には言はず
白鷺を舳先に乗せて行く舟の男のからだ傾かず立つ
飛行機のなかの子どもが手に握るその飛行機のなかなるごとし
若武者の林檎と修験者の柿とわが家にて逢ふ時雨降るけふ
心ここにあらずといへどはじめから心はどこにあるかわからず

短文と短歌の組み合わせや距離感も、いろいろなパターンがあって面白い。
短文では8月23日のものが特に良かった。飼い猫の「たますけ」の話。
たますけは蝉取りに夢中だ。身体が弱った蝉がベランダ付近に飛んでくるので、それをジャンプして捕まえる。捕まえた蝉は必ず明子の部屋に持ってゆく。彼女が捨て猫だったたますけを拾ってきたからか、それとも、はじめて蝉を捕まえたときいちばんほめたからか。今日も一匹。その部屋に、もう明子はいないのに。

2013年7月3日、ふらんす堂、2000円。

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2013年07月26日

小島ゆかり歌集 『純白光』


ふらんす堂のHPに1年間連載された作品を収めた「短歌日記シリーズ」の一冊。1ページに、「日付」「短文」「短歌1首」という構成になっている。コスモス叢書第1035篇。

普通の歌集と違って連作仕立てではなく、一首一首別々の歌が並んでいるわけだが、その分、歌そのものの味わいが濃く感じられるように思った。秀歌が多い。
陽のあたる午後の椅子より立ち上がる 猫のかたちのわたしの影が
ランドセルの鈴鳴らしつつゆく子あり鈴はときをり空からも鳴る
海光の町を旅してきさらぎの日焼けの顔の子らに会ひたり
口内炎の痛みに耐へて口ごもるわれは考へぶかきやうなる
一人づつ傘をひらきてビニールのパックに入る春雨の街
君は君で切ないことがあるだらうわたしの足に尻尾を載せて
にぎやかな人としづかな人あれどランチ同時に食べ終はりたり
長椅子でこのまま眠つてはならぬ夜は出歩く長椅子のため
こめかみに力をあつめ腹筋の運動をする夫を見てをり
壇上でしきりに水を飲むわたし汗かきの人隣りに居りて

とりあえず、前半(1〜6月)から10首引いた。
どの歌にも作者の工夫があって、短歌を読む楽しみを十分に味わうことができる。

2013年7月3日、ふらんす堂、2000円。

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2013年07月15日

目黒哲朗歌集『VSOP』

『CANNABIS』(2000年)以来13年ぶりとなる待望の第2歌集。400首を四章に分けて収録している。
今年また雨水のひかり〈東京にゐた頃〉といふ痛み遥けし
出国をすれば切り絵のごとき身を免税店のひかりはつつむ
夕立とわたしの中の夕立が図書館の玻璃をはさみて鳴れり
あんずの実わづかな傷を手にのせて一年ぶりの誕生日来ぬ
オニヤンマ採つて間近に見せてやるこんなことしか子にしてやれず
指さして紋白蝶を教へても「おもしろ蝶」と子は言ふをやめず
夏、従姉妹らは燦然とやつて来てお菓子食べ散らかして帰りぬ
怒りぶつけて電話してゐる事務室に朱肉湿りて置かれゐるかも
冷蔵庫につめ切りをふかく隠しおく息子の遊びひと冬を越す
薔薇園へ地図を頼りに来たりしが入口でまた地図をもらひぬ
庭先をよぎる猫あり夕されば模様をかへてまたあらはれむ
夕立が地面をたたく水しぶき肉屋のまへで見ることになる
燃えながら流されてゆく屋根が見ゆたしかな愛の記憶のやうに
秋分の日の助手席に娘ゐて小石のやうにしやべり続ける
体温計つららのごとく光るゆゑ脇に挟めば熱の子しづか

1971年生まれの作者とは同世代ということもあって、共感するところの多い歌集だった。時代や生活を詠んだ歌は決して明るくないが、確かな手ごたえを感じる。また、小さな息子や娘を詠んだ歌はどれも良く、この歌集の大きな特徴となっている。

第三章は「つなみ 被災地のこども80人の作文集」(「文藝春秋」平成23年8月臨時増刊号)に掲載された作文を元に詠まれた短歌86首が収められている。かなり実験的な試みで、最初はやや懐疑的な思いを抱きつつ読んだのだが、じんと伝わってくるものがあった。

長野に住む作者は、子どもの作文を媒介として、震災にアプローチしたということなのだろう。そこには、作者も同じ年頃の子どもを持っているという意識が強く働いていたのだと思う。

2013年6月15日、本阿弥書店、2500円。

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2013年06月11日

大森静佳歌集 『てのひらを燃やす』

もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く
これが最後と思わないまま来るだろう最後は 濡れてゆく石灯籠
部屋に雨匂うよ君のクリックに〈はやぶさ〉は何度も燃え尽きて
風のない史跡を歩む寡黙なら寡黙のままでいいはずなのに
レース越しに電線ぼやけその息が寝息に変わるまでを聴きをり
雨脚が細くなりゆくつたなさにふたりはひとりよりもしずかだ
マネキンの脱衣うつくし夜の隅にほの白い片腕をはずされ
言葉より声が聴きたい初夏のひかりにさす傘、雨にさす傘
眼と心をひとすじつなぐ道があり夕鵙(ゆうもず)などもそこを通りぬ
紫陽花のふくらみほどに訪れるあなたを産んだひとへの妬み
生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす

第56回角川短歌賞を受賞した作者の第1歌集。274首。

「あなた」「君」を詠んだ相聞歌を中心とした歌集である。〈感情、思い〉と〈景色、モノ〉の取り合わせ方がうまく、繊細なだけでなく激しさも併せ持った内面がよく表れている。

また、そうした歌の中に「きれいな棺」「生前という涼しき時間」「この世を濡らす」など、生前や死後の時間の感覚が入って来るところに、作者独特なものを感じる。普通、相聞歌と言うと「今、ここ」の一点に集中しがちなのだが、そうはなっておらず、不思議な広がりがある。

「雨」「光」「川」「水」「鳥」「指」など頻出する言葉がいくつかあって、歌集全体のまとまりは良く、作者の好みや個性がかなりくっきりと出ている。これは大事なことだろう。表紙の青や本体の水色も、この歌集のカラーによく合っている。

〈情〉と〈景〉の取り合わせは、短歌の最大の武器であるが、パターン化しやすいという危うさも孕んでいる。そのあたりも含めて、今後さらにどう伸びていくのか楽しみだ。どんどんわがままにやっていったらいいと思う。

2013年5月25日、角川書店、2381円。

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2013年06月02日

『高野公彦の歌世界』のつづき

2部は高野が作歌を始めた1963年から1969年までの歌(実質的な第1歌集『水木』の時期の歌)を、「朝日歌壇」や「コスモス」から全て引いて、歌人高野の成り立ちを描き出している。

作品だけではなく、この時期に高野の書いた随筆や「編集と校正」欄の文章なども幅広く引用されており、歌と散文の両方から高野の姿が浮かび上がってくる。資料的な価値も高い。

師弟関係とは何か、歌人が成長するとはどういうことか、結社で歌人はどのように育っていくか、といったことが、非常に具体的に、実例に即して見えてくる。また、初出と歌集収録時の歌の異同も示されているので、高野の推敲の跡をたどることができ、作歌にも役立つ内容であろう。
高野公彦研究という課題は、今後多くの歌人が追究することになるはずであるが、そのための基本資料の意味合いもあるこの論がその一助となることを期待してやまない。

著者が「あとがき」に書いているように、本書は今後の高野公彦研究の貴重な資料となるとともに、高野作品を読み解く上で大きな示唆を与えてくれる一冊だと思う。

2013年5月1日発行、柊書房、2700円。

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2013年06月01日

鈴木竹志著 『高野公彦の歌世界』

第1部「高野公彦のうた」と第2部「高野公彦と宮柊二」の二部構成。

1部は高野公彦の歌を時代順にたどっていく内容で、歌人高野の軌跡がよくわかる。「コスモス愛知」に連載されたものということで、著者の思い出も随所に交えつつ、高野像を描き出している。
五月の日てりわたりけり峠路の北の原発に南の漁村に 『淡海』
原子炉のとろ火で焚いたももいろの電気、わが家のテレビをともす 『水行』
人体にピアス増えゆくさまに似て列島に在る原発(げんぱつ)幾つ 『水苑』

東日本大震災以前から高野に原発の歌があることは知っていたが、それが30年以上も継続的に詠まれていたことを、本書であらためて知った。
今日の短歌は、中味というか主題性ということを重要視しがちで、肝腎の描写ということを問題にしないが、短歌の最も大切なことがらは、描写なのではなかろうか。
歌の世界は、どうも亡くなった者に対して冷たい傾向がある。何かいつも急かされているかのように、新しいものを求める傾向が強く、ある程度実力のあった歌人も、亡くなると、もう話題に上らない。

こんなふうに、現在の短歌に対する著者の思いが述べられているところなども、印象に残る。評論を書くという行為自体が、こうした風潮に対する著者の回答にもなっているのだろう。

2部については、また明日。

2013年5月1日発行、柊書房、2700円。

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2013年05月25日

栗木京子歌集 『水仙の章』

まはしつつ電球はづすゆふぐれは足首細き少女にもどる
すみません力不足で、といふやうに寒の日差しのまた翳りたり
路上にて似顔絵を売る青年は余震ののちを夕空仰ぐ
ひざまづく東電社長を腹這ひのカメラマンが撮る午後の避難所
月の夜に街中の猫つどひ来む尻尾の先に花を咲かせて
スモックを着たる小さな命たち日当たる苑に梅を見てをり
落ちながら凍りてしまふ悔しさをとどめて滝は杉群(すぎむら)のなか
たんぽぽの綿毛につかまり次々に母と子どもは西へ飛び立つ
虐待より期待はときに酷(むご)からむLLサイズの子のシャツを干す
母の自慢ひとつづつ減り娘婿が医師なることを今は言ふのみ
娘あらば秋のソファに翅のごとストッキングなど落ちゐむものを
上流にもう橋はなし月夜茸(つきよたけ)もとめて君と山に入りゆく

2009年秋から2013年初春までの作品470首を収めた第8歌集。
「東日本大震災」「水仙添へて」「漁船動かず」「われも一束」「カレンダー」など東日本大震災を詠んだ一連が中核を占めている。また、施設に入った母や亡くなった河野裕子を詠んだ歌にも印象的なものが多い。

比喩(それも多くは直喩)の巧さや時事的な内容を積極的に詠む姿勢も、これまでと変らない栗木の特徴として挙げられる。ただし、全体的にあまり派手さや華やかさはなく控えめな感じを受けた。そのあたりにも震災後の空気が反映しているのかもしれない。

2013年5月23日、砂子屋書房、3000円。

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2013年05月10日

大隈言道歌集 『草径集』(その2)

  折花
をりとれば枝の花こそすくなけれさきかさなりて見えしまがひに
  鴨
おもしろく波にうかべるあし鴨はおのれ舟なるこゝちとぞみる
  虹
はれのこるたゞ一むらのくもにのみわづかにのこる夏の夕にじ
  まめ
わりて見るたびにおもしろしいついつも並べるさまの同じさや豆
  烏
おのが身にまがふばかりもなれる子を猶はぐゝめるおや烏哉
  時雨
いくさともふりぬらしきてさ計やのこりすくなきしぐれなるらん

1首目、満開の桜の枝を一本折り取ったところ、その枝にはあまり花が付いていなかったのでがっかりしたという歌。
2首目、水面に楽しそうに浮かんでいる鴨は、きっと舟のような気分なのだろう。
3首目、雨上がりの空にひとかたまりの雲があって、そこにだけ虹が残っている光景。
4首目、莢を割ってみると、いつも同じように豆が並んでいて面白い。
5首目、自分と同じくらい大きくなった雛鳥を育てているカラスの親。
6首目、いくつもの里を濡らしてきて、時雨も残り少なくなっているだろうと、まるで如雨露で水を撒いているように詠んでいる。

どの歌にも、現代に通じる発想の面白さや新鮮さがあって、ここから近代短歌まではもうすぐという感じ。

この歌集が明治に入って再評価されるのには、奇跡的な偶然があったらしい。文庫本の解題(正宗敦夫)に次のようにある。
佐佐木信綱博士が明治三十一年の夏の夜、神田の古本屋で見附けて其の斬新なる歌風に驚歎せられ、同三十二年一月発行の続日本歌学全書第八編近世名家家集下巻中に編入せられて出版せられ、(…)世に拾ひあげられてから著名になつたのである。

歌集出版(1863年)から35年後、大隈言道が亡くなって(1868年)から30年後の出来事である。信綱が「神田の古書店で見附けて」いなかったら、今も歴史に埋もれたままだったのかもしれない。

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2013年05月08日

大隈言道歌集 『草径集』(その1)

江戸末期(1798〜1868)の歌人、大隈言道の歌集。上中下の3巻に計971首を収める。

先日の勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」で紹介されて面白かったので、早速読んでみた。大隈言道は福岡の人。ちょうど「塔」4月号の「歌の駅(福岡県)」でも取り上げられている。
  馬
野べとほくかげかさなりて行駒は道をれてこそかずも見えけれ
  風車
いもが背にねぶるわらはのうつゝなき手にさへめぐる風車かな
  夏草
ねこの子のくびのすゞがねかすかにもおとのみしたる夏草のうち
  夕立
ゆふだちのはれてしみればけふのうちにくれて明たる一夜也けり
  秋風
あき風にかどたのいなごふかれきてをりをりあたるまどのおとかな
  山家
わがやどをこゝにもがなとみやこ人いひのみいひてすまぬやまざと

1首目、縦に連なって野を行く馬の頭数が、道を折れるとわかったという歌。
2首目、おんぶされて寝てしまった子どもの手に風車が回っている光景。
3首目、猫の姿は見えないけれど、夏草の中から鈴の音だけが聞こえている。
4首目、夕立が止んで空が明るくなると、まるで一晩過ぎて朝になったかのように見える。
5首目、秋風に吹き飛ばされた蝗が、窓にピシピシ当っている場面。
6首目、田舎暮らしはいいなあと言うだけで、結局田舎に住むことはない都会の人。

1938年3月25日発行(1991年10月9日 第2刷)、岩波文庫、520円。

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2013年05月04日

杉崎恒夫歌集 『食卓の音楽』

第1歌集。1987年に沖積舎より刊行された歌集の新装版。
元の歌集に付いていた前田雪子、永井陽子、井辻朱美、中山明の栞文も収録されている。
地下鉄の窓いっぱいにきて停るコマーシャルフォトの大きな唇
空からも地からも夜の雪ふれば発光エビとなるまで歩む
聖歌隊胸の高さにひらきたる白き楽譜の百羽のかもめ
簡潔なるあしたの図形 食パンに前方後円墳の切り口
曇りたる一枚の海見えながら頭より噛じる鳩のサブレー
ほどほどに仕合せと見ゆる夫婦いて展望台この行き止まり
活気づく朝の光の人波にいっぴきの鮎の背を見失う
背後にていつも鳴る風 自画像のジグソーパズルくずれはじめる
よごれたる真珠の色の春はきて重さをもたぬセスナ機の舞う
喝采に応えて立てるフルーティスト 金の一管を胸に添えたり

発想や見立てが鮮やかで、明るい印象の歌が多い。3首目のかもめたちは、羽ばたいて飛んで行きそうだし、4首目の見立ても飛躍があって面白い。8首目は「じがぞー」「じぐそー」、「ぱずる」「くずれはじめる」の音の重なりが鮮やかである。

『食卓の音楽』という題名にしても、その意味だけでなく、「SHOKUTAKU」「ONGAKU」という音の響きが大事なのだろう。

作者は前田透主宰の「詩歌」とその後継誌「かばん」に参加された方。前田透から厚い信頼を寄せられていたことが、夫人雪子氏の文章からうかがわれる。数々の才能を輩出した初期の「かばん」を考える上で、前田透の存在はもっと注目されて良いのではないだろうか。

2011年9月22日、六花書林、2000円。

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2013年05月01日

石山宗晏・西勝洋一著『道北を巡った歌人たち』

旭川叢書第34巻。

旭川を中心とした道北の地を訪れた歌人たちの足跡を、多くの資料や文献に基づいて丁寧にたどった本。取り上げられている歌人は、石川啄木、九条武子、北原白秋、斎藤茂吉、斎藤瀏と斎藤史。

歴史の分野では、どの地方に行っても郷土史家と呼ばれる人がいて、その土地の歴史について詳しく調べて本にまとめたりしている。短歌でもそういったことがもっと行われて良いのではないだろうか。それは短歌観を複眼的なものとし、東京中心の短歌史を相対化する役目を果たすにちがいない。

現代はインターネットを使ってどの土地のことも調べられる時代である。それは、こうした土地と人との関わりを無意味なものにしてしまうのだろうか。いや、そんなことはない。
私は昭和四十四年の四月に、その「旧志文内」である中川町共和にある僻地四級の中学校に教師として赴任し、そこで三年間過ごした。当時独身であった私に町は旧診療所の一部を改築して二部屋の宿舎として提供してくれた。(…)その旧診療所こそ、守屋富太郎が昭和四年から十七年まで住居兼仕事場として暮らしたところであった。茂吉が訪れて五日間滞在したのも、その診療所兼住宅であった。

西勝氏のこんな文章を読むと、その土地に住んでいることにはやはり大きな利点があることがよくわかる。インターネットで何でも調べられる時代だからこそ、人と土地との関わりは、ますます大きな意味を持つようになっていくのだろう。

取り上げられている歌人のうち、九条武子、北原白秋、斎藤茂吉、斎藤瀏の4人は樺太にも足を延ばしている。その点についても教えられることの多い一冊であった。

2013年3月10日、旭川振興公社、1700円。

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2013年04月25日

後藤由紀恵歌集 『ねむい春』

転倒をくりかえす祖母をささえつつ廊下を歩くわれのスリッパ
常にわたしは後者であった 庭に咲く寒の椿がほたりと落ちる
針葉樹のような人なり改札の向こうにわれを待つ顔をして
夫のほかわたくしの名を呼ぶひとのなき町にいて花を買いたり
惚ける前の夏の笑顔を遺影とす なかったことには出来ぬ六年
派遣会社ことなるわれら時給には触れずランチはなごやかに過ぐ
こうやって君になじんでゆくのだろう どれみふぁそらへのばすゆびさき
ホームには日光月光ほほえみて薬師寺展のはじまりは春
そこぢからまだあると思う冬の朝 圧力鍋に玄米を炊く
諦めもひとつの答え三本の指もてつまむすべらかな塩

2004年半ばから2011年までの歌388首を収めた第2歌集。

大学の事務の仕事、祖母の介護や死、君との結婚、東京での生活、父の手術など、日々の生活が歌の基盤となっている。しかし、事実べったりということはなく、それぞれの歌に十分な修辞の力も働いており、確かな手応えを感じる一冊となっている。

感情を激しく表すというよりは、感情の陰翳や襞のようなものを滲ませるように詠むのが巧みな作者である。結婚生活の中で、むしろ孤独を感じたり、相手のことがわからなくなったりする。そんな場面がなまなましく伝わってきて、印象に残った。

定価2000円という値段設定も好ましく感じる。

2013年3月20日、短歌研究社、2000円。

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2013年04月14日

御供平佶歌集 『河岸段丘』

異なれる軋めきひびき有蓋車無蓋車タンク車つづくホッパ車
ゆらゆらと遠きあかりのひとつ見え濃霧運転の警笛ひびく
一昼夜つとめて昼を帰りきぬひとりなり冬の日のささぬ室
不認可の靴みがきひげの与三郎今日も来てをり襟巻あつく
桑畑のはてに見えそむる低き山父母のありてわが帰りゆく
口中にのこるちぎりの神酒の味汝が口紅のまじりをるべし
番台より子をうけとりて髪あらふ妻より先にわれ帰りゆく
側溝に猫のむくろの骨見ゆるまで風化して冬もをはりぬ
あへぎつつ畳はひましきかたくなにむつき拒みて死の二日前
車輪よりひきだす背広上衣より線路にしろく片腕の落つ

作者の第1歌集。
1974年に新星書房から刊行された本が、今回文庫になって新しく出版された。

作者は国鉄に長く勤務した方。貨車の連結手から駅務員、さらに鉄道公安官になるのだが、そうした仕事を詠んだ歌が、歌集では大きな比重を占めている。

鉄道公安官は、鉄道施設内での司法警察権を持ち、事件の捜査や被疑者の逮捕を行う。歌集には「贋金使い」「痴漢」「スリ」といった犯罪のほか、飛込み自殺の轢死体の処理、皇族の警護、あるいはストやデモの警備といった仕事の様子が生々しく詠まれている。
威力業務妨害デモ三千に公安官三百余名なすすべなきか
逮捕するなできるかぎりと下る指示デモを上司を憎みつつ聞く
デモに向くるほかなき忿に握りしむわが警棒は使用許されず
公安官になりたる吾を罵りし彼がデモ隊の指揮の笛吹く

「あらしの中」(一)〜(五)は、70年安保闘争の時代に、デモを鎮圧する立場から詠まれた歌。デモに参加する側の歌だけでなく、それと対峙する側の歌もあることが、やはり大切なのだろう。短歌史的に注目すべき内容の一連である。

2013年3月15日、現代短歌社第1歌集文庫、700円。

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2013年04月04日

佐伯裕子歌集 『流れ』

千年の戦争の名前数えおり過ぎし季節を指折るように
全線をPASMOに託し電車賃という距離感を喪いにけり
三人に一人は癌になる今日を三人がけの木製ベンチ
世界の何処にも私がいない夕ぐれというを思えりふたたびみたび
眼も耳も消耗品ゆえ減らさぬよう使わぬようにそっと陽を浴ぶ
レールの脇に輝いていた水溜まりいくつもの空震わせながら
ゆさゆさと母を揺さぶり鳴り出だす昔の声を聞かんとするも
ざくざくと馬鈴薯の皮を剥くわたし枯野に立っているのだろうか
たてがみの油を湯浴みのあとに塗る天翔けるその力欲しくて
ものの芽のふくらむ四月うしろから呼ばれて購(あがな)う桜鯛はも

2008年から2011年に発表した作品を収めた第7歌集。

変わりゆく東京の様子やかつて住んでいた町の記憶、老いを深める母の姿などが詠まれており、最後は震災の歌で終っている。それは、団塊の世代の作者が生きてきた道のりであるとともに、この国の戦後の歩みを映し出しているようにも感じた。

2013年2月20日、短歌研究社、3000円。

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2013年04月03日

『帰去来の声』の続き

『帰去来の声』 の特徴の一つに、先行する作品を踏まえて詠まれた歌の多さが挙げられる。いくつか例を引いてみよう。
早春のくれなゐの実を頬ばれば甘けれ酸ゆけれ童貞ならねど
                 『帰去来の声』
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり
                  春日井建 『未青年』
田原町袋物問屋の「久保勘」のせがれの発句や湯豆腐は煮ゆ
                 『帰去来の声』
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   久保田万太郎 『流寓抄以後』
佐太郎がスフィンクスに譬へたる魁偉の戦車はM4なりけむ
                 『帰去来の声』
スフィンクスの如き形をしたるもの夕暮れの街をひびきて来る
                  佐藤佐太郎 『帰潮』

佐太郎のこの一首は昭和27年に出た『帰潮』には入っていなくて、『佐藤佐太郎全歌集』(昭和52年)が編まれた際に「補遺」として『帰潮』に追加されたもの。そういう経緯も含めて、気になる歌ではある。

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2013年04月01日

島田修三歌集 『帰去来の声』

前立腺肥大をぼやく同僚の終はらぬ所用や待つとなく居(を)り
にぎり飯の海苔薫れるを啖らふなり春の光のしぶきに濡れつつ
はららごをまづは喰ひつつ下総の鰈にこころほぐされむとす
つきかげに隈なく刷かるるビルの壁あふげば光は澄むものならず
姉ありて弟ありて縁うすく湯豆腐つつく連れあひと来て
春このかたマスクはづさぬ女学生の最前列にてよろしも姿勢
煙草より悶えながらに昇りゆくけぶり見守るこころといはむ
大伴家に書持(ふみもち)といふ花好きの蒲柳(ほりう)ありしが兄(え)に先立ちぬ
同僚の慈父悲母といふ遠きひとの訃を聞く日々や寒ぬるみゆく
乳にひたり逃げむとするを匙の背につぶして啖らひき昭和の苺よ

平成20年から24年までの作品485首を収めた第7歌集。
還暦を迎えた作者の日々の思いや人生的な感慨が中心となっている。

年齢的なこともあってか、回想や懐旧の歌が増えたように思う。また、歴史的な知識に基づく歌や人名などの固有名詞を使った歌が数多く出てくる。

全体に疲労感や哀愁の濃く滲んだ内容であるが、その中にあって、飲食に関わる歌の多さが目立っている。食欲というのは、やはり人間の根本にあるエネルギーなのかもしれない。

2013年3月21日、砂子屋書房、3000円。

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2013年03月26日

『歌がたみ』の続き

読書の楽しみの一つに、いくつかの本が互いにリンクするように関わり合って理解が深まることが挙げられるだろう。

例えば、『歌がたみ』の中で今野は、唱歌「夏は来ぬ」(佐佐木信綱作詞)の歌詞を分析して、次のように書いている。
卯の花も歌合の代表的な題で、ほととぎすとの組み合わせとなれば『万葉集』までさかのぼることができる。卯の花の垣根と、ほととぎすと、忍び音とは、どうやら和歌において尊んで詠むべき歌語の中でも、とりわけ親和力の強いものどうしだったらしい、と思えてくる。

この部分などは、先日読んだ安田寛著『「唱歌」という奇跡 十二の物語』の 「つまり唱歌集は近代日本の半ば隠された勅撰和歌集であったと言っていい」 という指摘につながっていると言っていいだろう。

また、「恋歌排撃」を唱えていた与謝野鉄幹が「明星」誌上では「恋愛至上」を掲げるに至る経緯について、今野は
鉄幹の和歌革新は、和歌における「恋」の伝統を、近代思潮としての「恋愛」にシフトすることで、イデオロギー的にも盤石になったのだと思う。

と明快に論じている。この部分は、柳父章著『翻訳語成立事情』の 「loveと「日本通俗」の「恋」とは違う。そこで、そのloveに相当する新しいことばを造り出す必要があった。それが「恋愛」ということばだったわけである」 という指摘を思い起こさせる。

こんなふうに、一冊の本を読むと、それが次から次へとつながっていく。そして、頭の中で立体的な理解が進むような、そんな気がするのである。

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2013年03月25日

今野寿美著 『歌がたみ』

江戸千家茶道会の月刊雑誌「孤峰」に連載した和歌についてのエッセイ45編をまとめたもの。

古典和歌と言うと文法や知識の問題もあってどうしても難しく考えてしまうのだが、この本を読むと、まずは自分の感じるように、思うままに読むのが大切だということがよくわかる。
もとより試験問題ではないのだし、正解云々ということはない。この一首はどう読むときに一番魅力を発揮するか、誰もが自由に思いめぐらせればいいのだろう。

こうした歌の読みについての原則は、現代の短歌を読む時だけではなく、古典和歌を読む時にも十分に当てはまるのだ。そう考えただけで、随分と気が楽になる。

以前『歌のドルフィン』を読んだ時にも感じたことだが、今野さんの文章は非常に読みやすく丁寧で、また偉ぶったところがない。歌を読むときの素直な喜びやときめきが、初々しいまでに文章から伝わってくる。

これは、簡単そうで実はけっこう難しいことだ。多くの歌人(特に男性)の文章が、知識をひけらかしたり、自分の論を押し通そうとする強引さを感じさせるのに対して、今野さんの文章の持つやわらかさは、やはり特筆すべきもののように思う。

2012年5月23日、平凡社、2200円。

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2013年02月25日

雨宮雅子歌集『鶴の夜明けぬ』

しぐるるにかなしきものの匂ひして河岸は名のみを路傍に残す
おそき夜の灯に手をさらすまぎれなくみづからの手の動くを見つつ
雷はしる刹那刹那を神の手の白きはのびるはくれんのうへ
草いきれより舞ひあがる黒揚羽母なりし日はとほく小さし
硝子売りなどはきたらず一日を無聊のままに部屋にこもれど
白孔雀ひるのひかりをあゆみつつましろくわたるわが胸のうへ
黒揚羽ゆらりと去りし夏草のうへをほほゑみしばし漂ふ
星影を映すすなはち星ノ井と碑に記されて顧みられず
いたはりの声やさしみの声みちたればわれの苦界ははてなかるべし
一日のひかり書物のうへに閉づ骨の林を風吹きすぎぬ

雨宮雅子さんの第1歌集。昭和51年に鶴工房より出版された本の文庫化。

この歌集は雨宮さん47歳の時のもの。18歳の頃から短歌を作っていたにしては、かなり遅い出版と言っていいだろう。巻末の年譜には、26歳から40歳にかけて「再婚・出産・離婚・子供との離別、いくどかの病気・入院、出版編集などの職業を経験。その間十年ほど作歌を中断(…)」とある。

こうした「悪戦苦闘のにがい物語」(竹田善四郎氏によるあとがき)については、この歌集で直接詠われてはいないが、その影は非常に濃く感じられる。「さびしさ」「かなしみ」を詠んだ歌が多く、全体のトーンは明るくない。その一方で、作者の芯の強さも伝わってくる。そうした強さは昨年出た第10歌集『水の花』まで一貫しているのだろう。

風や空や植物・昆虫などを詠みながら、そこに自身の心情を重ね合わせていく。どの歌も実際の景色であるとともに、作者の心象風景でもあるような、そんな不思議で魅力ある世界が生み出されている。

2013年2月20日、現代短歌社第1歌集文庫。700円。

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2013年02月16日

さらに『近代短歌』のつづき

『近代秀歌』の100首選は、「できるだけ私の個人的な好悪を持ちこまず(…)選ぶよう心がけた」(はじめに)とあるが、もちろんそこには永田さんの好みが微妙に反映しているだろう。

アララギ系の歌人(左千夫、茂吉、赤彦、文明、節、憲吉、子規)が100首中35首を占めている。北原白秋(6首)より土屋文明(7首)の歌が多いことにも異論はあるかもしれない。しかし、それは誰が選をしても起きる問題であって、あまり気にしても仕方がない。

むしろ興味深いのは、次のような部分。
正直に言うと、私は会津八一の歌が苦手である。どうも生理的に受けつけないのだ。
(…)正直に言って、釈迢空の歌も、どちらかと言えば私には苦手な部類と言わなければならない。

何とも正直な告白(?)で、微笑ましさを感じる。これも会津八一や釈迢空の歌が好きな人からすれば「何で?」となるところだろう。

ただ、ここには永田さん個人の好みにとどまらない問題があるようにも思う。それは、この2人の歌人を現在の短歌史がうまく位置づけられていないという問題である。そうした位置づけの不安定さが、2人の歌に対する苦手意識にもつながっているのではないだろうか。

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2013年02月15日

『近代秀歌』のつづき

「短歌往来」に連載中の「樺太を訪れた歌人たち」では、最初に北見志保子を取り上げ、次のように書いた。
志保子はこのように歌壇に大きな足跡を残した歌人であるが、今では不思議と取り上げられることが少なくなっている。残念なことに、歌集を読むのも難しい状況である。

その北見志保子の歌が『近代秀歌』に1首選ばれている。
人恋ふはかなしきものと平城山(ならやま)にもとほりきつつ堪へがたかりき
              北見志保子『花のかげ』

短歌としてよりは、むしろ歌曲として知られている一首だろう。永田さんの鑑賞にも「北見志保子は不思議な歌人である。ほとんどこの一首だけで、短歌史に残る歌人となった」とある。逆に言えば、この一首以外はあまり知られていないということになるのかもしれない。

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2013年02月14日

永田和宏著 『近代秀歌』

「あなたが日本人なら、せめてこれくらいの歌は知っておいて欲しい」(はじめに)という近代短歌100首を選んで鑑賞を付した本。

取り上げられている歌人は全部で31名。引かれている歌の多い順に、斎藤茂吉(11首)、石川啄木(9首)、与謝野晶子(9首)、若山牧水(8首)、土屋文明(7首)、北原白秋(6首)・・・などとなっている。

歌の鑑賞とともに歌人の経歴や歌の作られた背景、あるいは先行する読みや鑑賞、議論になっている問題点なども押さえられているので、近代短歌のアンソロジー、入門書として、非常に具体的でわかりやすい一冊になっていると思う。

全体が「恋・愛」「青春」「家族・友人」「死」といった10の章に分けられているのだが、歌の配列にも著者の工夫がある。
父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり 落合直文
隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁みて生(い)きたかりけり 島木赤彦
篠懸樹(ぷらたぬす)かげ行く女(こ)らが眼蓋(まなぶた)に血しほいろさし夏さりにけり 中村憲吉
街(まち)をゆき子供の傍(そば)を通る時蜜柑の香(か)せり冬がまた来る 木下利玄

といった並べ方を見ると、なるほどという感じがする。

短歌を作っている人にはもちろん、短歌を作っていない人にも広く読んでほしい一冊である。

2013年1月22日、岩波新書、820円。

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2013年02月08日

諏訪兼位著 『科学を短歌によむ』

岩波科学ライブラリー136。

地質学者で朝日歌壇の常連でもある著者が、科学者や技術者の詠んだ短歌を取り上げて解説した本。引用される歌には、朝日歌壇に採られた自身の歌も入っている。

斎藤茂吉、近藤芳美など有名歌人から、初めて聞く名前の人まで、幅広い作品が取り上げられているが、中でも印象に残ったのは湯浅年子と湯川秀樹の二人である。

湯浅は第二次世界大戦中にフランスに留学して、原子核の研究に取り組んだ物理学者。彼女の留学中にパリはドイツ軍に占領され、その後、1944年にベルリンへ移って研究を続け、1945年6月にシベリア鉄道経由で帰国している。何ともすさまじい執念だ。

ドイツ占領下のパリでは「パリ短歌会」が結成されて、歌会も行われていたらしい。
弟はすでにこの世になき人とふたとせをへて今きかんとは
                   湯川秀樹『深山木』

湯川の歌はどれも名のある歌人の歌と比べて遜色のない出来栄えである。この歌は、戦後になって、弟が二年前に戦病死していたという報せを聞いて詠まれたもの。「すでにこの世になき人」という言い方に、深い悲しみが籠もっている。

この本の残念なところは、ルビの間違いが見受けられること。湯川の弟の名前「滋樹」に「しげき」とルビが振ってあるが、正しくは「ますき」。斎藤茂吉の出身地「金瓶」も「きんぺい」とあるが、正しくは「かなかめ」。ちょっと驚いてしまうような間違いである。

2007年5月10日、岩波書店、1200円。

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2013年02月01日

林和清著 『京都千年うた紀行』

2004年から2008年にかけて「NHK歌壇」「NHK短歌」に連載された文章を加筆・再編集してまとめたもの。京都で詠まれた和歌の数々を、その舞台となった場所とともに紹介している。

1回あたりの文章は4ページと読みやすく、また的確で歯切れのよい文体が気持ちいい。古典になじみのない人にも、十分に当時の人々のドラマとその面白さが伝わる内容となっている。

第二次世界大戦中にあったという「白い大文字」の話や清水の舞台から願をかけて飛び降りるのが江戸時代に大流行した話など、初めて知る話も多かった。
この鴨川の源流がどこにあるのかごぞんじだろうか。それは、上賀茂神社から車で三十分ほど北へ分け入った集落・雲が畑のその奥にある。そのむかし、都からながめると薬草が雲のようにしげっていたことから名づけられたという雲が畑。いまも神秘的なところで、川とともに生きる人の住む、隠れ里のおもむきを残す村である。

ああ、ここが近藤かすみさんの歌集『雲ケ畑まで』のタイトルになったところか、などという発見もある。
白日傘さして私を捨てにゆく とつぴんぱらりと雲ケ畑まで  近藤かすみ

どの文章からも、筆者の京都に対する深い愛情がひしひしと感じられる。それは「京都に生まれるということは、まったくの偶然であるが、京都に生きるということは、必然からくる覚悟である」(あとがき)という強い思いから来ているものなのだろう。

2008年9月20日発行、NHK出版、1400円。

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