2013年11月05日

資延英樹歌集 『リチェルカーレ』

右クリック、左ワトソン並び立つ影ぞ巻きつる二重螺旋に
モツァレラとトマトを和へたパスタからしづかな午後がはじまつてゆく
ゆく年とともに出で来てポストまで歩いたあとをかへる年なり
一頭を呼び戻すためもう一頭柵から外へ放ちやりたり
一旦は消されたレーンの石灰がそぼ降る雨に浮いてきたりぬ
しなやかな手つきに首を摑まれた白鳥だつたゆふべのぼくは
道綱の母と呼ばれて八〇〇年わたしもすこし草臥れました
崩れつつある砂山は砂山の本質として崩れつつある
一体にいくつ心は宿るらむまづはここなるたなごころ二つ
生きてゐるものをそのまま摂り入れてみせる行為が愛なんだらう

『抒情装置』(2005年)に続く第2歌集。第3歌集『NUTS』と同時に刊行された。

1首目はコンピューター用語の「右クリック」と、DNAの二重螺旋構造を発見したフランシス・クリック(とジェームズ・ワトソン)を掛けている。機知に富んだ歌だ。

7首目は「蜻蛉日記」の作者である藤原道綱の母のこと。名前が伝わらず「道綱の母」とのみ呼ばれている女性の、かなしみのようなものが感じられる。

2013年3月1日、砂子屋書房、2000円。

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2013年11月01日

渡辺松男句集 『隕石』

涅槃西風(ねはんにし)こころにまるい石ひとつ
みがかれし黒曜石と涼みたり
ゆふぐれのはじまるころのところてん
鉄亜鈴避暑地に行きしことあらず
かたつむり今生分は歩きけり
子らの眸(め)にとつぜん金魚死にてをり
鋸と万力のある大暑かな
揚がるたび河口のみゆる花火かな
鳳仙花子の友だちの友だち来(く)
流星や口の欠けたる益子焼
象の背のほこりうつすら文化の日
入口と出口ばかりの冬木立

渡辺松男さんが歌集ではなく句集を出したことに、まず驚いた。
同時に、何となくわかるような気もしたのはなぜだろう。
近年のシュールで飛躍のある歌風は、俳句との相性が良いように感じていたのかもしれない。

次々と繰り出されるモノとイメージの世界を十分に楽しませていただいた。

2013年10月30日、邑書林、2500円。

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2013年10月27日

永井祐歌集 『日本の中でたのしく暮らす』

なついた猫にやるものがない 垂直の日射しがまぶたに当たって熱い
「台風がもうすぐくるよ」コーヒーに注ぐミルクの口開けながら
スキー板持ってる人も酔って目を閉じてる人も月夜の電車
アルバイト仲間とエスカレーターをのぼる三人とも一人っ子
半そでのシャツの上からコート着てすきとおる冬の歩道を歩く
朝からずっと夜だったような一日のおわりにテレビでみる隅田川
缶コーヒーと文庫をもって立っている足元に吹いてくる夏の風
明るいなかに立っている男性女性 こっちの電車のがすこしはやい
電車の外の夕方を見て家に着くなんておいしい冬の大根
青と黒切れた三色ボールペン スーツのポケットに入ってる

意識を集中するのではなく、拡散していく。同時に二つ以上のことに意識が向いている。そうした歌の作り方に一番の特徴があるように思う。中心が一つの「円」ではなく、焦点を二つ持つ「楕円」のような感じ、とでも言おうか。

それは、私たちの日常の意識のあり方としてはむしろ普通のことなので、短歌でもその方法がうまく行くと、非常にリアルな印象の作品が生まれる。

2012年5月20日、ブックパーク、1300円。

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2013年10月08日

前川佐重郎歌集 『孟宗庵の記』


ありふれた空のをちこち見渡して双眼鏡が鳥をかぞへぬ
一着のスーツにポケットいくつある春の衢(ちまた)を黄砂がつつむ
おそろしき孔雀一羽の変身よ動物園は花ざかりなり
この町に書店の消えし白昼を僧侶が経をとなへつつゆく
昇りつつ二人(ふたり)となりしエレベーター背後の影に殺気はあらず
うつくしき箸の使ひ手まへにして虎魚(をこぜ)は皿に横たはりたり
参道を綿菓子ふたつ手にもちてけむりのやうな童女がよぎる
いつまでも女男(めを)が忘れし影ふたつ鎌倉のうみに夜が近づく
指先でまはす地球儀ゆるやかに風が吹くなり独りの部屋に
遡上するさかなの群れを見下ろしてやうやく家に帰りたくなる

527首を収める第4歌集。

奇想とも呼ぶべき自由な発想や、上句から下句にかけての飛躍が特徴で、ユーモアを交えつつ、日常に潜む不思議や不安を描き出している。モダニズム短歌の代表的な歌集である前川佐美雄『植物祭』(昭和5年)に、遠く通じる部分があるように思う。

鎌倉大仏、七里ヶ浜など、現住所である鎌倉を詠んだ歌も多い。小学生のころから何度も訪れたことのある地なので、懐かしさを覚えた。

2013年4月8日、短歌研究社、3000円。

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2013年10月07日

杜澤光一郎著 『宮柊二・人と作品』

宮柊二生誕百年記念出版、コスモス叢書第1018篇。

第一部には宮柊二についての評論やエッセイ、第二部には宮柊二の秀歌鑑賞100首を収める。本書の特徴は第二部にあると言っていいだろう。

「その一首を声に出して読む場合、どのようなリズムとイントネーションと節調に注意すべきか、筆者の考え方の提示も必要」とあとがきに記すように、著者は一首一首の読み方に関して細かな指示を出す。そのあたりはかなり個性的で、賛否両論があると思うのだが、意味だけでなく調べを重んじる姿勢には共感する。
おそらくは知らるるなけむ一兵(いつぺい)の生(い)きの有様(ありざま)をまつぶさに遂(と)げむ  『山西省』

柊二の代表歌であるこの一首についても、著者はこれまでの鑑賞が「概して気分的で、ことにその下半句に対する詳しい解釈・検討は、ないがしろにされているきらいがある」とした上で、「一兵」「有様」という言葉の意味や使い方に注目する。そして、それらが「柊二の造語といってもよいもの」であることを突き止め、その効果を明らかにしている。

こうした鑑賞から学ぶことは多い。400ページを超える分量も含めて、労作と言うべき一冊である。

2013年5月15日、いりの舎、3500円。

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2013年09月27日

柏崎驍二著 『宮柊二の歌三六五首』

宮柊二の歌365首を選び、それぞれ150字程度の短い文章を付けたもの。
「私の記したメモは全く個人的なもので、歌の鑑賞などではないが、宮柊二の歌を愛する人たちの何かのお役に立てば幸いである」とあとがきにある。

どの歌にも初出を明記しているのが資料的に貴重なところ。
また、別の時期の、あるいは別の歌人の似た素材の歌なども引いていて参考になる。例えば「孤独なる姿惜しみて吊し経(へ)し塩鮭も今日ひきおろすかな」という一首に対しては、佐藤佐太郎の「つるし置く塩鱒(しほます)ありて暑きひる黄のしづくまれに滴(したた)るあはれ」が引かれるといった具合だ。
法隆寺南大門前暑き日を黒き牛のゐて繋がれにけり
稲青き水田見ゆとふささやきが潮(うしほ)となりて後尾(こうび)へ伝ふ
流れつつ藁(わら)も芥(あくた)も永遠に向ふがごとく水(みづ)の面(も)にあり
草むらをひとり去るとき人型に凹(くぼ)める草の起ち返る音
湯口(ゆぐち)より溢れ出でつつ秋の灯に太束(ふとたば)の湯のかがやきておつ
錐(きり)・鋏(はさみ)光れるものは筆差(ふでさし)に静かなるかな雪つもる夜を
海(うな)じほに注(さ)してながるる川水(かはみづ)のしづけさに似て年あらたまる
匍匐するごとく浅瀬に群がりて鯉の背鰭(せびれ)の雨中(うちゆう)に動く
白藤は数限りなき花房を安房清澄(きよずみ)の山に垂りたり
峡(かひ)沿(ぞ)ひの日之影といふ町の名を旅人われは忘れがたくす

2013年3月20日、柊書房、2000円。

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2013年09月14日

山崎聡子歌集 『てのひらの花火』

第1歌集。
ゲームセンターのすみで交わした約束を私はいつか忘れてしまう
終バスに浅い眠りを繰り返しどこにでもゆく体とおもう
冷水で手をよく洗う 親ウサギが子どもを踏んで死なせた朝に
手のひらに西瓜の種を載せている撃たれたような君のてのひら
夏の雨 わたしが濡れてしまうのを見ている黒い目をした犬よ

歌集の最初の方に、かつて高校の演劇部に所属していた頃のことを詠んだ「蛍光ペン散らかる床で」があり、後半に、高校演劇でよく上演される曽我部マコト作「ふ号作戦」を題材にした「グロリア」がある。

劇を演じていた人物が、その劇の中に入り込んでしまうような、入れ子構造となっている。そして、そうした演劇的な要素は、この歌集全体にあるように思う。

2013年5月20日、短歌研究社、1800円。

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2013年09月13日

『近藤芳美論』のつづき

近藤芳美と高安国世はともに1913年生まれ。
二人には、旧制高校的な教養や西洋に対する憧れなど、いくつもの共通点があった。
「未来」は昭和二十六年に創刊された同人誌的な雑誌で、近藤氏のことを先生とは誰も呼ばず、みな近藤さんと呼んでいた。氏が、先生と呼ばれることを嫌ったからである。

これは、「塔」と高安国世の場合も全く同じである。高安も先生と呼ばれることを嫌い、会員はみな高安さんと呼んでいたと聞く。

1960年代頃まで、二人の歌集にはかなりの対応関係が見られる。近藤の第1歌集『早春歌』(1948年)に対して、高安の第1歌集は『Vorfruhling(早春)』(1951年)であり、ともに戦前から敗戦までの歌を収める。第2歌集『埃吹く街』(1948年)と『真実』(1949年)は、ともに戦後の歌だ。

1960年に高安がドイツ留学を題材に『北極飛行』を出せば、近藤も1969年にソ連、ヨーロッパ、アメリカ旅行を中心とした『異邦者』を刊行している。その中には「北極圏飛翔」という一連も含まれている。

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2013年09月12日

大島史洋著 『近藤芳美論』

著者が近藤芳美について論じた文章20編に、講演「近藤芳美の晩年の歌」、インタビュー「近藤芳美に聞く」をあわせて一冊にまとめたもの。巻末には、「近藤芳美百二十首選」「近藤芳美著作目録」「近藤芳美研究書・参考図書一覧」「近藤芳美雑誌特集号」「近藤芳美略年譜」も収められている。

今年は近藤の生誕100年であり、総合誌でも特集が組まれた。その中で私も『早春歌』と『未明』についてそれぞれ短い文章を書いたのだが、初期作品はともかく、近藤の晩年の作品をどのように評価したらいいのか、非常に難しかった。本書はその解明の糸口となる一冊と言っていいと思う。
いま、こうして亡くなられてみると、近藤の晩年は理解されることの少ない、寂しいものであったと思わざるを得ない。自分は近藤の好き理解者ではなかった。

おそらく、著者のこうした悔恨が、近藤の晩年の歌を何とか理解しようという強い思いにつながっているのだろう。それは、一首一首が良い歌かどうかということを越えて、歌人近藤芳美の全体像を掴もうとする試みでもある。

1995年のインタビューを読むと、当時82歳の近藤は、意外なほど明晰かつ冷静に、自分の歌が難解になり理解されなくなっている現状を認識している。それでもなお、「どこかに理解者はいるとぼくは思っているし、思わなければならない」と言って、自分の信念を貫き続けたのである。

歌の良し悪しとは別の次元で、そんな歌人の生き方の重みをずっしりと感じる一冊であった。

2013年7月24日、現代短歌社、2000円。

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2013年09月11日

木下龍也歌集 『つむじ風、ここにあります』


裏側に張りついているヨーグルト舐めとるときはいつもひとりだ
つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる
空を買うついでに海も買いました水平線は手に入らない
背表紙に取り囲まれてぼくたちのパラパラマンガみたいなくらし
コンタクト型のテレビを目に入れてチャンネル替えるためのまばたき
「千円になります」と言い千円になってしまったレジ係員
右利きに矯正されたその右で母の遺骨を拾う日が来る
いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する
カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められる
病室の窓から見えるすべてには音がないのと君は笑った

第1歌集。今年から刊行の始まった新鋭短歌シリーズ(第一期全12冊)の1冊。

現代都市に生きる若者の日常や孤独感が、繊細な抒情をともなって詠まれている。その中に、時おり冷静で鋭い批評性がまじるのが作者の持ち味だろう。

5首目の「コンタクト型のテレビ」や6首目の「千円になってしまったレジ係員」など、SF的な機知があって面白いのだが、あまりこの路線には行かない方がいいように思った。

2013年5月25日、書肆侃侃房、1700円。

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2013年09月04日

『佐藤佐太郎全歌集』

佐藤佐太郎の全歌集を読んでいる。
全歌集は、時間のある時にゆっくり読むのがいい。急いで読んでも、多分おもしろくない。

第5歌集『帰潮』(昭和27年)の後記にこんなことが書いてある。
(…)私の歌には事件的具体といふものは無い。短歌はさういふものを必要としないからである。

佐太郎の言葉はいつも明快である。そして、時々ハッとするようなことを言う。ここもサラリと書いてあるが、実はかなり過激で本質的なことを言っている。

これを読んで思い出したのは、小池光の歌集『日々の思い出』のあとがきである。
思い出に値するようなことは、なにもおこらなかった。なんの事件もなかった。というより、なにもおこらない、おこさないというところから作歌したともいえる。

こうして比べてみると、両者には通じ合うものがあるように感じる。

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2013年09月02日

三枝昂之著 『夏は来ぬ』


2008年から2012年にかけて静岡新聞に連載された文章の中から133編を選んでまとめた本。短歌、俳句、近現代詩、童謡、唱歌、Jポップなど、幅広い詩歌を取り上げて、解説と鑑賞をしている。

タイトルの「夏は来ぬ」は、もちろん佐佐木信綱作詞の唱歌。
作詞に当たって信綱が強く意識したのは和歌が育んだ季節感を生かすことだった。そのためにまず千三百年の短歌形式を採用した。「うのはなの/にほふかきねに/ほととぎす/はやもきなきて/しのびねもらす」とまさに五七五七七の短歌。

私たちの行った勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」の3回目でも、ちょうど同じような話が出ていたところ。信綱は、和歌・短歌史を考える上でキーマンとなる存在だ。

この本を読んで強く感じたのは、唱歌、民謡、童謡、校歌などの「歌」と信綱、白秋、相馬御風ら近代歌人との関わりの深さである。現在では「歌」と「短歌」の距離が離れてしまっため、私たちはそうした「歌」の作詞は、歌人にとって余技だったように思いがちだが、本当はそうではなかったのだろう。彼らはどちらにも同じように、真剣に取り組んでいたのだ。

2013年8月8日、青磁社、2500円。

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2013年08月16日

永田和宏著 『新樹滴滴』


1995年から15年あまりにわたって「塔」に連載された文章をまとめたもの。全67編。

内容は、短歌のこと、結社のこと、身の周りのこと、故人の思い出などと幅広いが、全体として一つの大きな流れに沿っているように感じる。ほとんどの文章は誌上で一度読んでいるのだが、あらためて印象に残る話がいくつもあった。
短詩型のむずかしさは、自分の文体を確立するということ以上に、そこから抜け出すことの困難さにあるのだろう。
組織というものは、できたときから停滞へ向かって動いていくものである。よほどの努力を続けないと停滞は必然的に全体を覆ってしまう。
短歌という短い形式は、何らかの形で幾重にも読者の目を通すことが大切な詩型であり、もっとも身近に、打てば響くような距離に自分の歌を読んでくれる仲間を持つということを大切だと思うのである。

新樹滴滴」の連載が終ってもう2年半が経つ。やはり永田さんの文章を毎月の「塔」で読みたいという思いが強い。

2013年5月31日、白水社、2200円。

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2013年07月28日

佐藤晶歌集『冬の秒針』批評会

昨日は13:00から、愛知芸術文化センターにて、佐藤晶さんの歌集『冬の秒針』の批評会。
参加者約50名。

前半はパネルディスカッション。司会:荻原裕幸、パネリスト:斉藤斎藤、錦見映理子、松村正直、江村彩。後半は会場発言。鈴木竹志、糸川雅子、小塩卓哉、柴田典昭、三井修ほか。

「われら」という言葉の使い方、専門の中世文学を題材にした歌、「光」や「白」のことなど、いくつか突っ込んだ議論ができたように思う。

花束贈呈や版元のながらみ書房の及川さんの挨拶、作者の佐藤晶さんの挨拶などがあり、17:00前に終了。

その後、近くの「トアプラン」というお店に移動して懇親会。「井泉」の皆さんの行き届いた運営により、最後まで楽しい一日であった。
さくらばな月に照らされ湿疹のくすり塗られた犬とみている
ペットボトルの微少の湖さわだてり海が近づく列車の窓に
水紋の干菓子ならべて昼下がり魚鱗の陣を作りてこわす
風すこし潤うころに思いおり安徳天皇女性説のこと
忘れられた場所のどこかでカルピスに浮かぶ氷がちりちり溶ける

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2013年07月27日

『純白光』のつづき

後半(7月〜12月)の中から10首。
西瓜の種ぷつぷつ皿に出すことも一人では全(また)くおもしろからず
わが顔は湯気にかくれて笊盛りの玉蜀黍を家族へ運ぶ
その名前出てこぬ人の顔のみが大きく浮かぶ夜の頭に
みつばちのやうにお尻をふりながら向日葵の迷路ゆく子どもたち
木犀のなかに犀ゐて秋天に去りゆくものの足音を聴く
走る犬見たくて〈ドッグ・ラン〉へ行く今日の予定は猫には言はず
白鷺を舳先に乗せて行く舟の男のからだ傾かず立つ
飛行機のなかの子どもが手に握るその飛行機のなかなるごとし
若武者の林檎と修験者の柿とわが家にて逢ふ時雨降るけふ
心ここにあらずといへどはじめから心はどこにあるかわからず

短文と短歌の組み合わせや距離感も、いろいろなパターンがあって面白い。
短文では8月23日のものが特に良かった。飼い猫の「たますけ」の話。
たますけは蝉取りに夢中だ。身体が弱った蝉がベランダ付近に飛んでくるので、それをジャンプして捕まえる。捕まえた蝉は必ず明子の部屋に持ってゆく。彼女が捨て猫だったたますけを拾ってきたからか、それとも、はじめて蝉を捕まえたときいちばんほめたからか。今日も一匹。その部屋に、もう明子はいないのに。

2013年7月3日、ふらんす堂、2000円。

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2013年07月26日

小島ゆかり歌集 『純白光』


ふらんす堂のHPに1年間連載された作品を収めた「短歌日記シリーズ」の一冊。1ページに、「日付」「短文」「短歌1首」という構成になっている。コスモス叢書第1035篇。

普通の歌集と違って連作仕立てではなく、一首一首別々の歌が並んでいるわけだが、その分、歌そのものの味わいが濃く感じられるように思った。秀歌が多い。
陽のあたる午後の椅子より立ち上がる 猫のかたちのわたしの影が
ランドセルの鈴鳴らしつつゆく子あり鈴はときをり空からも鳴る
海光の町を旅してきさらぎの日焼けの顔の子らに会ひたり
口内炎の痛みに耐へて口ごもるわれは考へぶかきやうなる
一人づつ傘をひらきてビニールのパックに入る春雨の街
君は君で切ないことがあるだらうわたしの足に尻尾を載せて
にぎやかな人としづかな人あれどランチ同時に食べ終はりたり
長椅子でこのまま眠つてはならぬ夜は出歩く長椅子のため
こめかみに力をあつめ腹筋の運動をする夫を見てをり
壇上でしきりに水を飲むわたし汗かきの人隣りに居りて

とりあえず、前半(1〜6月)から10首引いた。
どの歌にも作者の工夫があって、短歌を読む楽しみを十分に味わうことができる。

2013年7月3日、ふらんす堂、2000円。

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2013年07月15日

目黒哲朗歌集『VSOP』

『CANNABIS』(2000年)以来13年ぶりとなる待望の第2歌集。400首を四章に分けて収録している。
今年また雨水のひかり〈東京にゐた頃〉といふ痛み遥けし
出国をすれば切り絵のごとき身を免税店のひかりはつつむ
夕立とわたしの中の夕立が図書館の玻璃をはさみて鳴れり
あんずの実わづかな傷を手にのせて一年ぶりの誕生日来ぬ
オニヤンマ採つて間近に見せてやるこんなことしか子にしてやれず
指さして紋白蝶を教へても「おもしろ蝶」と子は言ふをやめず
夏、従姉妹らは燦然とやつて来てお菓子食べ散らかして帰りぬ
怒りぶつけて電話してゐる事務室に朱肉湿りて置かれゐるかも
冷蔵庫につめ切りをふかく隠しおく息子の遊びひと冬を越す
薔薇園へ地図を頼りに来たりしが入口でまた地図をもらひぬ
庭先をよぎる猫あり夕されば模様をかへてまたあらはれむ
夕立が地面をたたく水しぶき肉屋のまへで見ることになる
燃えながら流されてゆく屋根が見ゆたしかな愛の記憶のやうに
秋分の日の助手席に娘ゐて小石のやうにしやべり続ける
体温計つららのごとく光るゆゑ脇に挟めば熱の子しづか

1971年生まれの作者とは同世代ということもあって、共感するところの多い歌集だった。時代や生活を詠んだ歌は決して明るくないが、確かな手ごたえを感じる。また、小さな息子や娘を詠んだ歌はどれも良く、この歌集の大きな特徴となっている。

第三章は「つなみ 被災地のこども80人の作文集」(「文藝春秋」平成23年8月臨時増刊号)に掲載された作文を元に詠まれた短歌86首が収められている。かなり実験的な試みで、最初はやや懐疑的な思いを抱きつつ読んだのだが、じんと伝わってくるものがあった。

長野に住む作者は、子どもの作文を媒介として、震災にアプローチしたということなのだろう。そこには、作者も同じ年頃の子どもを持っているという意識が強く働いていたのだと思う。

2013年6月15日、本阿弥書店、2500円。

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2013年06月11日

大森静佳歌集 『てのひらを燃やす』

もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く
これが最後と思わないまま来るだろう最後は 濡れてゆく石灯籠
部屋に雨匂うよ君のクリックに〈はやぶさ〉は何度も燃え尽きて
風のない史跡を歩む寡黙なら寡黙のままでいいはずなのに
レース越しに電線ぼやけその息が寝息に変わるまでを聴きをり
雨脚が細くなりゆくつたなさにふたりはひとりよりもしずかだ
マネキンの脱衣うつくし夜の隅にほの白い片腕をはずされ
言葉より声が聴きたい初夏のひかりにさす傘、雨にさす傘
眼と心をひとすじつなぐ道があり夕鵙(ゆうもず)などもそこを通りぬ
紫陽花のふくらみほどに訪れるあなたを産んだひとへの妬み
生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす

第56回角川短歌賞を受賞した作者の第1歌集。274首。

「あなた」「君」を詠んだ相聞歌を中心とした歌集である。〈感情、思い〉と〈景色、モノ〉の取り合わせ方がうまく、繊細なだけでなく激しさも併せ持った内面がよく表れている。

また、そうした歌の中に「きれいな棺」「生前という涼しき時間」「この世を濡らす」など、生前や死後の時間の感覚が入って来るところに、作者独特なものを感じる。普通、相聞歌と言うと「今、ここ」の一点に集中しがちなのだが、そうはなっておらず、不思議な広がりがある。

「雨」「光」「川」「水」「鳥」「指」など頻出する言葉がいくつかあって、歌集全体のまとまりは良く、作者の好みや個性がかなりくっきりと出ている。これは大事なことだろう。表紙の青や本体の水色も、この歌集のカラーによく合っている。

〈情〉と〈景〉の取り合わせは、短歌の最大の武器であるが、パターン化しやすいという危うさも孕んでいる。そのあたりも含めて、今後さらにどう伸びていくのか楽しみだ。どんどんわがままにやっていったらいいと思う。

2013年5月25日、角川書店、2381円。

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2013年06月02日

『高野公彦の歌世界』のつづき

2部は高野が作歌を始めた1963年から1969年までの歌(実質的な第1歌集『水木』の時期の歌)を、「朝日歌壇」や「コスモス」から全て引いて、歌人高野の成り立ちを描き出している。

作品だけではなく、この時期に高野の書いた随筆や「編集と校正」欄の文章なども幅広く引用されており、歌と散文の両方から高野の姿が浮かび上がってくる。資料的な価値も高い。

師弟関係とは何か、歌人が成長するとはどういうことか、結社で歌人はどのように育っていくか、といったことが、非常に具体的に、実例に即して見えてくる。また、初出と歌集収録時の歌の異同も示されているので、高野の推敲の跡をたどることができ、作歌にも役立つ内容であろう。
高野公彦研究という課題は、今後多くの歌人が追究することになるはずであるが、そのための基本資料の意味合いもあるこの論がその一助となることを期待してやまない。

著者が「あとがき」に書いているように、本書は今後の高野公彦研究の貴重な資料となるとともに、高野作品を読み解く上で大きな示唆を与えてくれる一冊だと思う。

2013年5月1日発行、柊書房、2700円。

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2013年06月01日

鈴木竹志著 『高野公彦の歌世界』

第1部「高野公彦のうた」と第2部「高野公彦と宮柊二」の二部構成。

1部は高野公彦の歌を時代順にたどっていく内容で、歌人高野の軌跡がよくわかる。「コスモス愛知」に連載されたものということで、著者の思い出も随所に交えつつ、高野像を描き出している。
五月の日てりわたりけり峠路の北の原発に南の漁村に 『淡海』
原子炉のとろ火で焚いたももいろの電気、わが家のテレビをともす 『水行』
人体にピアス増えゆくさまに似て列島に在る原発(げんぱつ)幾つ 『水苑』

東日本大震災以前から高野に原発の歌があることは知っていたが、それが30年以上も継続的に詠まれていたことを、本書であらためて知った。
今日の短歌は、中味というか主題性ということを重要視しがちで、肝腎の描写ということを問題にしないが、短歌の最も大切なことがらは、描写なのではなかろうか。
歌の世界は、どうも亡くなった者に対して冷たい傾向がある。何かいつも急かされているかのように、新しいものを求める傾向が強く、ある程度実力のあった歌人も、亡くなると、もう話題に上らない。

こんなふうに、現在の短歌に対する著者の思いが述べられているところなども、印象に残る。評論を書くという行為自体が、こうした風潮に対する著者の回答にもなっているのだろう。

2部については、また明日。

2013年5月1日発行、柊書房、2700円。

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2013年05月25日

栗木京子歌集 『水仙の章』

まはしつつ電球はづすゆふぐれは足首細き少女にもどる
すみません力不足で、といふやうに寒の日差しのまた翳りたり
路上にて似顔絵を売る青年は余震ののちを夕空仰ぐ
ひざまづく東電社長を腹這ひのカメラマンが撮る午後の避難所
月の夜に街中の猫つどひ来む尻尾の先に花を咲かせて
スモックを着たる小さな命たち日当たる苑に梅を見てをり
落ちながら凍りてしまふ悔しさをとどめて滝は杉群(すぎむら)のなか
たんぽぽの綿毛につかまり次々に母と子どもは西へ飛び立つ
虐待より期待はときに酷(むご)からむLLサイズの子のシャツを干す
母の自慢ひとつづつ減り娘婿が医師なることを今は言ふのみ
娘あらば秋のソファに翅のごとストッキングなど落ちゐむものを
上流にもう橋はなし月夜茸(つきよたけ)もとめて君と山に入りゆく

2009年秋から2013年初春までの作品470首を収めた第8歌集。
「東日本大震災」「水仙添へて」「漁船動かず」「われも一束」「カレンダー」など東日本大震災を詠んだ一連が中核を占めている。また、施設に入った母や亡くなった河野裕子を詠んだ歌にも印象的なものが多い。

比喩(それも多くは直喩)の巧さや時事的な内容を積極的に詠む姿勢も、これまでと変らない栗木の特徴として挙げられる。ただし、全体的にあまり派手さや華やかさはなく控えめな感じを受けた。そのあたりにも震災後の空気が反映しているのかもしれない。

2013年5月23日、砂子屋書房、3000円。

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2013年05月10日

大隈言道歌集 『草径集』(その2)

  折花
をりとれば枝の花こそすくなけれさきかさなりて見えしまがひに
  鴨
おもしろく波にうかべるあし鴨はおのれ舟なるこゝちとぞみる
  虹
はれのこるたゞ一むらのくもにのみわづかにのこる夏の夕にじ
  まめ
わりて見るたびにおもしろしいついつも並べるさまの同じさや豆
  烏
おのが身にまがふばかりもなれる子を猶はぐゝめるおや烏哉
  時雨
いくさともふりぬらしきてさ計やのこりすくなきしぐれなるらん

1首目、満開の桜の枝を一本折り取ったところ、その枝にはあまり花が付いていなかったのでがっかりしたという歌。
2首目、水面に楽しそうに浮かんでいる鴨は、きっと舟のような気分なのだろう。
3首目、雨上がりの空にひとかたまりの雲があって、そこにだけ虹が残っている光景。
4首目、莢を割ってみると、いつも同じように豆が並んでいて面白い。
5首目、自分と同じくらい大きくなった雛鳥を育てているカラスの親。
6首目、いくつもの里を濡らしてきて、時雨も残り少なくなっているだろうと、まるで如雨露で水を撒いているように詠んでいる。

どの歌にも、現代に通じる発想の面白さや新鮮さがあって、ここから近代短歌まではもうすぐという感じ。

この歌集が明治に入って再評価されるのには、奇跡的な偶然があったらしい。文庫本の解題(正宗敦夫)に次のようにある。
佐佐木信綱博士が明治三十一年の夏の夜、神田の古本屋で見附けて其の斬新なる歌風に驚歎せられ、同三十二年一月発行の続日本歌学全書第八編近世名家家集下巻中に編入せられて出版せられ、(…)世に拾ひあげられてから著名になつたのである。

歌集出版(1863年)から35年後、大隈言道が亡くなって(1868年)から30年後の出来事である。信綱が「神田の古書店で見附けて」いなかったら、今も歴史に埋もれたままだったのかもしれない。

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2013年05月08日

大隈言道歌集 『草径集』(その1)

江戸末期(1798〜1868)の歌人、大隈言道の歌集。上中下の3巻に計971首を収める。

先日の勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」で紹介されて面白かったので、早速読んでみた。大隈言道は福岡の人。ちょうど「塔」4月号の「歌の駅(福岡県)」でも取り上げられている。
  馬
野べとほくかげかさなりて行駒は道をれてこそかずも見えけれ
  風車
いもが背にねぶるわらはのうつゝなき手にさへめぐる風車かな
  夏草
ねこの子のくびのすゞがねかすかにもおとのみしたる夏草のうち
  夕立
ゆふだちのはれてしみればけふのうちにくれて明たる一夜也けり
  秋風
あき風にかどたのいなごふかれきてをりをりあたるまどのおとかな
  山家
わがやどをこゝにもがなとみやこ人いひのみいひてすまぬやまざと

1首目、縦に連なって野を行く馬の頭数が、道を折れるとわかったという歌。
2首目、おんぶされて寝てしまった子どもの手に風車が回っている光景。
3首目、猫の姿は見えないけれど、夏草の中から鈴の音だけが聞こえている。
4首目、夕立が止んで空が明るくなると、まるで一晩過ぎて朝になったかのように見える。
5首目、秋風に吹き飛ばされた蝗が、窓にピシピシ当っている場面。
6首目、田舎暮らしはいいなあと言うだけで、結局田舎に住むことはない都会の人。

1938年3月25日発行(1991年10月9日 第2刷)、岩波文庫、520円。

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2013年05月04日

杉崎恒夫歌集 『食卓の音楽』

第1歌集。1987年に沖積舎より刊行された歌集の新装版。
元の歌集に付いていた前田雪子、永井陽子、井辻朱美、中山明の栞文も収録されている。
地下鉄の窓いっぱいにきて停るコマーシャルフォトの大きな唇
空からも地からも夜の雪ふれば発光エビとなるまで歩む
聖歌隊胸の高さにひらきたる白き楽譜の百羽のかもめ
簡潔なるあしたの図形 食パンに前方後円墳の切り口
曇りたる一枚の海見えながら頭より噛じる鳩のサブレー
ほどほどに仕合せと見ゆる夫婦いて展望台この行き止まり
活気づく朝の光の人波にいっぴきの鮎の背を見失う
背後にていつも鳴る風 自画像のジグソーパズルくずれはじめる
よごれたる真珠の色の春はきて重さをもたぬセスナ機の舞う
喝采に応えて立てるフルーティスト 金の一管を胸に添えたり

発想や見立てが鮮やかで、明るい印象の歌が多い。3首目のかもめたちは、羽ばたいて飛んで行きそうだし、4首目の見立ても飛躍があって面白い。8首目は「じがぞー」「じぐそー」、「ぱずる」「くずれはじめる」の音の重なりが鮮やかである。

『食卓の音楽』という題名にしても、その意味だけでなく、「SHOKUTAKU」「ONGAKU」という音の響きが大事なのだろう。

作者は前田透主宰の「詩歌」とその後継誌「かばん」に参加された方。前田透から厚い信頼を寄せられていたことが、夫人雪子氏の文章からうかがわれる。数々の才能を輩出した初期の「かばん」を考える上で、前田透の存在はもっと注目されて良いのではないだろうか。

2011年9月22日、六花書林、2000円。

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2013年05月01日

石山宗晏・西勝洋一著『道北を巡った歌人たち』

旭川叢書第34巻。

旭川を中心とした道北の地を訪れた歌人たちの足跡を、多くの資料や文献に基づいて丁寧にたどった本。取り上げられている歌人は、石川啄木、九条武子、北原白秋、斎藤茂吉、斎藤瀏と斎藤史。

歴史の分野では、どの地方に行っても郷土史家と呼ばれる人がいて、その土地の歴史について詳しく調べて本にまとめたりしている。短歌でもそういったことがもっと行われて良いのではないだろうか。それは短歌観を複眼的なものとし、東京中心の短歌史を相対化する役目を果たすにちがいない。

現代はインターネットを使ってどの土地のことも調べられる時代である。それは、こうした土地と人との関わりを無意味なものにしてしまうのだろうか。いや、そんなことはない。
私は昭和四十四年の四月に、その「旧志文内」である中川町共和にある僻地四級の中学校に教師として赴任し、そこで三年間過ごした。当時独身であった私に町は旧診療所の一部を改築して二部屋の宿舎として提供してくれた。(…)その旧診療所こそ、守屋富太郎が昭和四年から十七年まで住居兼仕事場として暮らしたところであった。茂吉が訪れて五日間滞在したのも、その診療所兼住宅であった。

西勝氏のこんな文章を読むと、その土地に住んでいることにはやはり大きな利点があることがよくわかる。インターネットで何でも調べられる時代だからこそ、人と土地との関わりは、ますます大きな意味を持つようになっていくのだろう。

取り上げられている歌人のうち、九条武子、北原白秋、斎藤茂吉、斎藤瀏の4人は樺太にも足を延ばしている。その点についても教えられることの多い一冊であった。

2013年3月10日、旭川振興公社、1700円。

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2013年04月25日

後藤由紀恵歌集 『ねむい春』

転倒をくりかえす祖母をささえつつ廊下を歩くわれのスリッパ
常にわたしは後者であった 庭に咲く寒の椿がほたりと落ちる
針葉樹のような人なり改札の向こうにわれを待つ顔をして
夫のほかわたくしの名を呼ぶひとのなき町にいて花を買いたり
惚ける前の夏の笑顔を遺影とす なかったことには出来ぬ六年
派遣会社ことなるわれら時給には触れずランチはなごやかに過ぐ
こうやって君になじんでゆくのだろう どれみふぁそらへのばすゆびさき
ホームには日光月光ほほえみて薬師寺展のはじまりは春
そこぢからまだあると思う冬の朝 圧力鍋に玄米を炊く
諦めもひとつの答え三本の指もてつまむすべらかな塩

2004年半ばから2011年までの歌388首を収めた第2歌集。

大学の事務の仕事、祖母の介護や死、君との結婚、東京での生活、父の手術など、日々の生活が歌の基盤となっている。しかし、事実べったりということはなく、それぞれの歌に十分な修辞の力も働いており、確かな手応えを感じる一冊となっている。

感情を激しく表すというよりは、感情の陰翳や襞のようなものを滲ませるように詠むのが巧みな作者である。結婚生活の中で、むしろ孤独を感じたり、相手のことがわからなくなったりする。そんな場面がなまなましく伝わってきて、印象に残った。

定価2000円という値段設定も好ましく感じる。

2013年3月20日、短歌研究社、2000円。

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2013年04月14日

御供平佶歌集 『河岸段丘』

異なれる軋めきひびき有蓋車無蓋車タンク車つづくホッパ車
ゆらゆらと遠きあかりのひとつ見え濃霧運転の警笛ひびく
一昼夜つとめて昼を帰りきぬひとりなり冬の日のささぬ室
不認可の靴みがきひげの与三郎今日も来てをり襟巻あつく
桑畑のはてに見えそむる低き山父母のありてわが帰りゆく
口中にのこるちぎりの神酒の味汝が口紅のまじりをるべし
番台より子をうけとりて髪あらふ妻より先にわれ帰りゆく
側溝に猫のむくろの骨見ゆるまで風化して冬もをはりぬ
あへぎつつ畳はひましきかたくなにむつき拒みて死の二日前
車輪よりひきだす背広上衣より線路にしろく片腕の落つ

作者の第1歌集。
1974年に新星書房から刊行された本が、今回文庫になって新しく出版された。

作者は国鉄に長く勤務した方。貨車の連結手から駅務員、さらに鉄道公安官になるのだが、そうした仕事を詠んだ歌が、歌集では大きな比重を占めている。

鉄道公安官は、鉄道施設内での司法警察権を持ち、事件の捜査や被疑者の逮捕を行う。歌集には「贋金使い」「痴漢」「スリ」といった犯罪のほか、飛込み自殺の轢死体の処理、皇族の警護、あるいはストやデモの警備といった仕事の様子が生々しく詠まれている。
威力業務妨害デモ三千に公安官三百余名なすすべなきか
逮捕するなできるかぎりと下る指示デモを上司を憎みつつ聞く
デモに向くるほかなき忿に握りしむわが警棒は使用許されず
公安官になりたる吾を罵りし彼がデモ隊の指揮の笛吹く

「あらしの中」(一)〜(五)は、70年安保闘争の時代に、デモを鎮圧する立場から詠まれた歌。デモに参加する側の歌だけでなく、それと対峙する側の歌もあることが、やはり大切なのだろう。短歌史的に注目すべき内容の一連である。

2013年3月15日、現代短歌社第1歌集文庫、700円。

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2013年04月04日

佐伯裕子歌集 『流れ』

千年の戦争の名前数えおり過ぎし季節を指折るように
全線をPASMOに託し電車賃という距離感を喪いにけり
三人に一人は癌になる今日を三人がけの木製ベンチ
世界の何処にも私がいない夕ぐれというを思えりふたたびみたび
眼も耳も消耗品ゆえ減らさぬよう使わぬようにそっと陽を浴ぶ
レールの脇に輝いていた水溜まりいくつもの空震わせながら
ゆさゆさと母を揺さぶり鳴り出だす昔の声を聞かんとするも
ざくざくと馬鈴薯の皮を剥くわたし枯野に立っているのだろうか
たてがみの油を湯浴みのあとに塗る天翔けるその力欲しくて
ものの芽のふくらむ四月うしろから呼ばれて購(あがな)う桜鯛はも

2008年から2011年に発表した作品を収めた第7歌集。

変わりゆく東京の様子やかつて住んでいた町の記憶、老いを深める母の姿などが詠まれており、最後は震災の歌で終っている。それは、団塊の世代の作者が生きてきた道のりであるとともに、この国の戦後の歩みを映し出しているようにも感じた。

2013年2月20日、短歌研究社、3000円。

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2013年04月03日

『帰去来の声』の続き

『帰去来の声』 の特徴の一つに、先行する作品を踏まえて詠まれた歌の多さが挙げられる。いくつか例を引いてみよう。
早春のくれなゐの実を頬ばれば甘けれ酸ゆけれ童貞ならねど
                 『帰去来の声』
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり
                  春日井建 『未青年』
田原町袋物問屋の「久保勘」のせがれの発句や湯豆腐は煮ゆ
                 『帰去来の声』
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   久保田万太郎 『流寓抄以後』
佐太郎がスフィンクスに譬へたる魁偉の戦車はM4なりけむ
                 『帰去来の声』
スフィンクスの如き形をしたるもの夕暮れの街をひびきて来る
                  佐藤佐太郎 『帰潮』

佐太郎のこの一首は昭和27年に出た『帰潮』には入っていなくて、『佐藤佐太郎全歌集』(昭和52年)が編まれた際に「補遺」として『帰潮』に追加されたもの。そういう経緯も含めて、気になる歌ではある。

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2013年04月01日

島田修三歌集 『帰去来の声』

前立腺肥大をぼやく同僚の終はらぬ所用や待つとなく居(を)り
にぎり飯の海苔薫れるを啖らふなり春の光のしぶきに濡れつつ
はららごをまづは喰ひつつ下総の鰈にこころほぐされむとす
つきかげに隈なく刷かるるビルの壁あふげば光は澄むものならず
姉ありて弟ありて縁うすく湯豆腐つつく連れあひと来て
春このかたマスクはづさぬ女学生の最前列にてよろしも姿勢
煙草より悶えながらに昇りゆくけぶり見守るこころといはむ
大伴家に書持(ふみもち)といふ花好きの蒲柳(ほりう)ありしが兄(え)に先立ちぬ
同僚の慈父悲母といふ遠きひとの訃を聞く日々や寒ぬるみゆく
乳にひたり逃げむとするを匙の背につぶして啖らひき昭和の苺よ

平成20年から24年までの作品485首を収めた第7歌集。
還暦を迎えた作者の日々の思いや人生的な感慨が中心となっている。

年齢的なこともあってか、回想や懐旧の歌が増えたように思う。また、歴史的な知識に基づく歌や人名などの固有名詞を使った歌が数多く出てくる。

全体に疲労感や哀愁の濃く滲んだ内容であるが、その中にあって、飲食に関わる歌の多さが目立っている。食欲というのは、やはり人間の根本にあるエネルギーなのかもしれない。

2013年3月21日、砂子屋書房、3000円。

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2013年03月26日

『歌がたみ』の続き

読書の楽しみの一つに、いくつかの本が互いにリンクするように関わり合って理解が深まることが挙げられるだろう。

例えば、『歌がたみ』の中で今野は、唱歌「夏は来ぬ」(佐佐木信綱作詞)の歌詞を分析して、次のように書いている。
卯の花も歌合の代表的な題で、ほととぎすとの組み合わせとなれば『万葉集』までさかのぼることができる。卯の花の垣根と、ほととぎすと、忍び音とは、どうやら和歌において尊んで詠むべき歌語の中でも、とりわけ親和力の強いものどうしだったらしい、と思えてくる。

この部分などは、先日読んだ安田寛著『「唱歌」という奇跡 十二の物語』の 「つまり唱歌集は近代日本の半ば隠された勅撰和歌集であったと言っていい」 という指摘につながっていると言っていいだろう。

また、「恋歌排撃」を唱えていた与謝野鉄幹が「明星」誌上では「恋愛至上」を掲げるに至る経緯について、今野は
鉄幹の和歌革新は、和歌における「恋」の伝統を、近代思潮としての「恋愛」にシフトすることで、イデオロギー的にも盤石になったのだと思う。

と明快に論じている。この部分は、柳父章著『翻訳語成立事情』の 「loveと「日本通俗」の「恋」とは違う。そこで、そのloveに相当する新しいことばを造り出す必要があった。それが「恋愛」ということばだったわけである」 という指摘を思い起こさせる。

こんなふうに、一冊の本を読むと、それが次から次へとつながっていく。そして、頭の中で立体的な理解が進むような、そんな気がするのである。

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2013年03月25日

今野寿美著 『歌がたみ』

江戸千家茶道会の月刊雑誌「孤峰」に連載した和歌についてのエッセイ45編をまとめたもの。

古典和歌と言うと文法や知識の問題もあってどうしても難しく考えてしまうのだが、この本を読むと、まずは自分の感じるように、思うままに読むのが大切だということがよくわかる。
もとより試験問題ではないのだし、正解云々ということはない。この一首はどう読むときに一番魅力を発揮するか、誰もが自由に思いめぐらせればいいのだろう。

こうした歌の読みについての原則は、現代の短歌を読む時だけではなく、古典和歌を読む時にも十分に当てはまるのだ。そう考えただけで、随分と気が楽になる。

以前『歌のドルフィン』を読んだ時にも感じたことだが、今野さんの文章は非常に読みやすく丁寧で、また偉ぶったところがない。歌を読むときの素直な喜びやときめきが、初々しいまでに文章から伝わってくる。

これは、簡単そうで実はけっこう難しいことだ。多くの歌人(特に男性)の文章が、知識をひけらかしたり、自分の論を押し通そうとする強引さを感じさせるのに対して、今野さんの文章の持つやわらかさは、やはり特筆すべきもののように思う。

2012年5月23日、平凡社、2200円。

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2013年02月25日

雨宮雅子歌集『鶴の夜明けぬ』

しぐるるにかなしきものの匂ひして河岸は名のみを路傍に残す
おそき夜の灯に手をさらすまぎれなくみづからの手の動くを見つつ
雷はしる刹那刹那を神の手の白きはのびるはくれんのうへ
草いきれより舞ひあがる黒揚羽母なりし日はとほく小さし
硝子売りなどはきたらず一日を無聊のままに部屋にこもれど
白孔雀ひるのひかりをあゆみつつましろくわたるわが胸のうへ
黒揚羽ゆらりと去りし夏草のうへをほほゑみしばし漂ふ
星影を映すすなはち星ノ井と碑に記されて顧みられず
いたはりの声やさしみの声みちたればわれの苦界ははてなかるべし
一日のひかり書物のうへに閉づ骨の林を風吹きすぎぬ

雨宮雅子さんの第1歌集。昭和51年に鶴工房より出版された本の文庫化。

この歌集は雨宮さん47歳の時のもの。18歳の頃から短歌を作っていたにしては、かなり遅い出版と言っていいだろう。巻末の年譜には、26歳から40歳にかけて「再婚・出産・離婚・子供との離別、いくどかの病気・入院、出版編集などの職業を経験。その間十年ほど作歌を中断(…)」とある。

こうした「悪戦苦闘のにがい物語」(竹田善四郎氏によるあとがき)については、この歌集で直接詠われてはいないが、その影は非常に濃く感じられる。「さびしさ」「かなしみ」を詠んだ歌が多く、全体のトーンは明るくない。その一方で、作者の芯の強さも伝わってくる。そうした強さは昨年出た第10歌集『水の花』まで一貫しているのだろう。

風や空や植物・昆虫などを詠みながら、そこに自身の心情を重ね合わせていく。どの歌も実際の景色であるとともに、作者の心象風景でもあるような、そんな不思議で魅力ある世界が生み出されている。

2013年2月20日、現代短歌社第1歌集文庫。700円。

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2013年02月16日

さらに『近代短歌』のつづき

『近代秀歌』の100首選は、「できるだけ私の個人的な好悪を持ちこまず(…)選ぶよう心がけた」(はじめに)とあるが、もちろんそこには永田さんの好みが微妙に反映しているだろう。

アララギ系の歌人(左千夫、茂吉、赤彦、文明、節、憲吉、子規)が100首中35首を占めている。北原白秋(6首)より土屋文明(7首)の歌が多いことにも異論はあるかもしれない。しかし、それは誰が選をしても起きる問題であって、あまり気にしても仕方がない。

むしろ興味深いのは、次のような部分。
正直に言うと、私は会津八一の歌が苦手である。どうも生理的に受けつけないのだ。
(…)正直に言って、釈迢空の歌も、どちらかと言えば私には苦手な部類と言わなければならない。

何とも正直な告白(?)で、微笑ましさを感じる。これも会津八一や釈迢空の歌が好きな人からすれば「何で?」となるところだろう。

ただ、ここには永田さん個人の好みにとどまらない問題があるようにも思う。それは、この2人の歌人を現在の短歌史がうまく位置づけられていないという問題である。そうした位置づけの不安定さが、2人の歌に対する苦手意識にもつながっているのではないだろうか。

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2013年02月15日

『近代秀歌』のつづき

「短歌往来」に連載中の「樺太を訪れた歌人たち」では、最初に北見志保子を取り上げ、次のように書いた。
志保子はこのように歌壇に大きな足跡を残した歌人であるが、今では不思議と取り上げられることが少なくなっている。残念なことに、歌集を読むのも難しい状況である。

その北見志保子の歌が『近代秀歌』に1首選ばれている。
人恋ふはかなしきものと平城山(ならやま)にもとほりきつつ堪へがたかりき
              北見志保子『花のかげ』

短歌としてよりは、むしろ歌曲として知られている一首だろう。永田さんの鑑賞にも「北見志保子は不思議な歌人である。ほとんどこの一首だけで、短歌史に残る歌人となった」とある。逆に言えば、この一首以外はあまり知られていないということになるのかもしれない。

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2013年02月14日

永田和宏著 『近代秀歌』

「あなたが日本人なら、せめてこれくらいの歌は知っておいて欲しい」(はじめに)という近代短歌100首を選んで鑑賞を付した本。

取り上げられている歌人は全部で31名。引かれている歌の多い順に、斎藤茂吉(11首)、石川啄木(9首)、与謝野晶子(9首)、若山牧水(8首)、土屋文明(7首)、北原白秋(6首)・・・などとなっている。

歌の鑑賞とともに歌人の経歴や歌の作られた背景、あるいは先行する読みや鑑賞、議論になっている問題点なども押さえられているので、近代短歌のアンソロジー、入門書として、非常に具体的でわかりやすい一冊になっていると思う。

全体が「恋・愛」「青春」「家族・友人」「死」といった10の章に分けられているのだが、歌の配列にも著者の工夫がある。
父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり 落合直文
隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁みて生(い)きたかりけり 島木赤彦
篠懸樹(ぷらたぬす)かげ行く女(こ)らが眼蓋(まなぶた)に血しほいろさし夏さりにけり 中村憲吉
街(まち)をゆき子供の傍(そば)を通る時蜜柑の香(か)せり冬がまた来る 木下利玄

といった並べ方を見ると、なるほどという感じがする。

短歌を作っている人にはもちろん、短歌を作っていない人にも広く読んでほしい一冊である。

2013年1月22日、岩波新書、820円。

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2013年02月08日

諏訪兼位著 『科学を短歌によむ』

岩波科学ライブラリー136。

地質学者で朝日歌壇の常連でもある著者が、科学者や技術者の詠んだ短歌を取り上げて解説した本。引用される歌には、朝日歌壇に採られた自身の歌も入っている。

斎藤茂吉、近藤芳美など有名歌人から、初めて聞く名前の人まで、幅広い作品が取り上げられているが、中でも印象に残ったのは湯浅年子と湯川秀樹の二人である。

湯浅は第二次世界大戦中にフランスに留学して、原子核の研究に取り組んだ物理学者。彼女の留学中にパリはドイツ軍に占領され、その後、1944年にベルリンへ移って研究を続け、1945年6月にシベリア鉄道経由で帰国している。何ともすさまじい執念だ。

ドイツ占領下のパリでは「パリ短歌会」が結成されて、歌会も行われていたらしい。
弟はすでにこの世になき人とふたとせをへて今きかんとは
                   湯川秀樹『深山木』

湯川の歌はどれも名のある歌人の歌と比べて遜色のない出来栄えである。この歌は、戦後になって、弟が二年前に戦病死していたという報せを聞いて詠まれたもの。「すでにこの世になき人」という言い方に、深い悲しみが籠もっている。

この本の残念なところは、ルビの間違いが見受けられること。湯川の弟の名前「滋樹」に「しげき」とルビが振ってあるが、正しくは「ますき」。斎藤茂吉の出身地「金瓶」も「きんぺい」とあるが、正しくは「かなかめ」。ちょっと驚いてしまうような間違いである。

2007年5月10日、岩波書店、1200円。

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2013年02月01日

林和清著 『京都千年うた紀行』

2004年から2008年にかけて「NHK歌壇」「NHK短歌」に連載された文章を加筆・再編集してまとめたもの。京都で詠まれた和歌の数々を、その舞台となった場所とともに紹介している。

1回あたりの文章は4ページと読みやすく、また的確で歯切れのよい文体が気持ちいい。古典になじみのない人にも、十分に当時の人々のドラマとその面白さが伝わる内容となっている。

第二次世界大戦中にあったという「白い大文字」の話や清水の舞台から願をかけて飛び降りるのが江戸時代に大流行した話など、初めて知る話も多かった。
この鴨川の源流がどこにあるのかごぞんじだろうか。それは、上賀茂神社から車で三十分ほど北へ分け入った集落・雲が畑のその奥にある。そのむかし、都からながめると薬草が雲のようにしげっていたことから名づけられたという雲が畑。いまも神秘的なところで、川とともに生きる人の住む、隠れ里のおもむきを残す村である。

ああ、ここが近藤かすみさんの歌集『雲ケ畑まで』のタイトルになったところか、などという発見もある。
白日傘さして私を捨てにゆく とつぴんぱらりと雲ケ畑まで  近藤かすみ

どの文章からも、筆者の京都に対する深い愛情がひしひしと感じられる。それは「京都に生まれるということは、まったくの偶然であるが、京都に生きるということは、必然からくる覚悟である」(あとがき)という強い思いから来ているものなのだろう。

2008年9月20日発行、NHK出版、1400円。

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2013年01月23日

黒瀬珂欄著 『街角の歌』


2006年に「ふらんす堂」のホームページに1年間連載された文章を1冊にまとめたもの。
1月1日から12月31日まで、1日1首、全365首に200字程度の鑑賞を付けている。

「煙突」「ポスト」「飛行場」「ビル」「トラック」「変電所」「図書館」「パチンコ」など、都市を彩る様々な風景を詠んだ歌。1首1首も面白いのだが、それらが集まることで、明治から現代にかけての都市の移り変わりと、そこに生きる人々の心理の変化が鮮やかに見えてくる。

日付と対応した歌が引かれていることもある。
ビルあまた悲鳴をあげて立つ街を飲み水求めさまよい歩く
          廣田由佳理  (1月17日)
都べに兵ら乱るる夜ごろなほまどかなる面を妻に向けゐき
          山本友一   (2月26日)
おほいなる天幕のなか原爆忌前夜の椅子らしづまりかへる
          竹山 広   (8月9日)

有名な歌人の歌だけでなく、非常に幅広く歌を集めている点も、本書の特徴だろう。
365首あって、同じ歌人の歌は出てこない。つまり365人の歌が載っている。
そうしたアンソロジーとしての面白さも十分に味わえる1冊である。

2008年4月1日、ふらんす堂、2000円。

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2013年01月16日

大島史洋歌集 『藍を走るべし』

どこまでも走りぬくから死ぬときは人をみおろす眼をくれたまえ
文学史よみ終えてより灰皿に青白き蛾を焼きつぶしおり
湖のほとりに少女立ちながら写されるときの鼻のたてじわ
林檎ひとつ手にとりながら大空にはばたくことを許されており
にわとりの赤きとさかを悲しめば壁のしみさえ動きそめたる
汽車の笛はるかに聞こゆ一抹の望みというは苦しきものを
かつて君は二人の縁を問いしかなおたまじゃくしを追いまわしつつ
新しき花あまたありこの墓地に色あるものはいのちみじかく
砂のなかに傾きている漁師の家夕暮れて黒き屋根つきだせり
卑しさのわがうちにして芽ぶけるを卓上に火と燃えるアネモネ

16歳から25歳までの作品を収めた第1歌集。
昭和45年に新星書房から出た本が、このたび現代短歌社の〈第1歌集文庫〉シリーズから文庫となって刊行された。

巻末の年譜によれば、作者は高校1年生の秋に「アララギ」会員であった父の勧めにより「未来」に入会している。16歳から短歌を作り続けているわけだ。

この歌集に収められているのは、主に東京で学生生活を送っていた時期のもの。青春歌集ならではの若さと観念性、瑞々しさに溢れている。色彩が鮮やかなのも特徴だろう。

こうした作者の原点とも言える歌集を、文庫で手軽に読めるというのは嬉しいことである。

2012年12月19日、現代短歌社、700円。

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2013年01月11日

高木佳子歌集 『青雨記』

合歓の葉の閉づる夜なれば両膝をかたく閉ざして少女も眠る
やうやくに泣きやみたりしをさなごの顔、睡蓮の湿りを持ちて
ぶつぎりの鶏とAとを鍋に入れかぶるくらゐのみづを入れます
この人の母韻を長く引く癖をゆふぐれを飛ぶ黄蜂と思ふ
巨き都市より帰りきたれる疲れあり指先に挟むまなかひの丘
ひいやりと肘が冷たきことを言ふ、腕(かひな)にかひな絡ませながら
濯がれて水菜は水より引き抜かれ息ふきかへすさみどりのひと
バゲットを待つやうに待つわが父の焼きあがり時刻午後四時三十分
  避難する人を見送る
この街を出てゆくといふ、をさなごをかばんのやうに脇に抱へて
目の前にぶらさがつてゐる葡萄へは届く声高、だつたのだらう

第2歌集。作者は「潮音」に所属するかたわら個人誌「壜」を発行し、福島県いわき市から発信している歌人。この歌集で第13回現代短歌新人賞(さいたま市主催)を受賞した。

まずは1首1首の完成度、言葉の凝縮力に注目すべきだろう。巧みや比喩やイメージの融合が豊かな世界を生み出している。また「このをんな」で始まる歌をならべた「鏡像」や「…はずでした」を繰り返す「poule au pot(鶏のポトフ)」など、意欲的な連作も多い。

巻末に置かれた「見よ」50首は、東日本大震災とその後の被曝の状況などを詠んだもの。主題と修辞を十分に兼ね備えた震災詠となっている。被災地で暮らす悩みや不安、それでも失わない希望を描き出していて、強く印象に残った。

2012年7月30日、いりの舎、2000円。

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2013年01月08日

伊藤一彦歌集 『待ち時間』

青春は平凡を嫌ひ月並を忌むものならむ冷ややつこ食ぶ
はつなつの白神岳を登りきてちちいろの霧めをつむり吸ふ
重ければ乳母車に乗りわが家に来し冬瓜のすずしき緑
牧水の泊りし部屋をそのままに時とどまれる法師温泉
花梨ジャム小さい瓶はうすべにに大きい瓶は濃き紅に照る
報道はされず 寄り添ひ仲間なる牛の涎を舐めやりし牛
石灰は雪のごとしも埋葬にあらぬ埋却の巨大なる穴
東日本大震災を語りをりたつた一人の遺体も見ずに
腰弱き日向のうどん食べ終へてともあれ今日を締めくくるなり
仕舞屋(しもたや)の一軒としてある生家他人のごとく通りすぎたり

第12歌集。
2007年から2012年までの作品387首が収められている。

この歌集の特徴の一つとして、旅行詠が多いことが挙げられるだろう。
引いた歌の中では2首目と4首目がこれに該当する。
後記によれば、秋田、群馬、富山、山形、岡山、鳥取、徳島、高知、山口、福岡などへ行った際の歌が入っているとのこと。

もう一つは著者の住む宮崎県で起きた口蹄疫感染の歌。
引用歌では6首目と7首目。
この口蹄疫問題について詠んだ歌が、一番力が入っている。

歌集全体としては、やや擬人法的な詠い方が多いのが気になった。
どれくらいを「ちょうど良い」と感じるかが、人によって随分と違うのかもしれない。

2012年12月19日、青磁社、2800円。

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2013年01月04日

花山多佳子歌集 『木立ダリア』

渋滞にバス止まるたび大犬がかたへの視野にあらはれてくる
思はざるところにメトロの入口があれば降りゆく夜を別れて
しばらくは渚のかぜに吹かれゐるごとくに瞑る地下のホームに
ふつくらと苔にどんぐり埋まりをり冬場れの日の椎の木の下
焼け出され金瓶に来し妻と娘(こ)の影すらあらず歌集『小園』に
米はまづネーミングが大事といふ話(はなし)しつつ山形の蕎麦を味はふ
いつごろか息子の鼻の隆起してわが幼子はゐなくなりたり
かたはらに老女の日傘たたまれて欅通りにバス現はるる
颱風に電車とまりてそれよりは見知らぬ人らと夜をさまよふ
秋の寝覚めのテレビには見るはるかなるカリフォルニアの山火事のいろ

2007年1月〜12月に「歌壇」に連載された30首を中心にまとめた第9歌集。
398首を収める。

日常の何でもない場面のちょっとした感じや味わいを詠んだ歌が多い。
こうした微妙な感覚を言葉でとらえるのは、実は非常に難しい。

例えば、2首目は「あれば」が大事。ここが「ありて」となるとダメ。
10首目は「テレビには見る」がいい。「テレビに見る」ではダメなのだ。

1首目の「かたへ」、7首目の「かたはら」といった意識の向け方も、作者らしいところ。
中心ではなく周辺の、ややぼんやりした部分を詠むのが得意なのである。
うらうらと兵児帯ひきずりつつ歩くマンション四階の独居老人
ひきずられてゆく兵児帯に従(つ)きあるく子でありしかな猫のごとくに

この2首だけではわかりにくいが、父を詠んだ歌である。
後に詠まれることになる
老いて父は逝きにしものを若き父のおもかげのみのまざまざとして
幼くてわれは掴みき若き父が畳に引き摺る兵児帯の先を
          「短歌研究」2011年9月号

といった歌とあわせて読むと、しみじみとした気持ちになる。
「兵児帯」は作者にとって忘れられない父の記憶と深く結びついているのだろう。

2012年8月20日、本阿弥書店、2600円。

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2012年12月11日

「現代短歌朗読集成」CD版

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佐佐木信綱、与謝野晶子、斎藤茂吉、北原白秋、宮柊二、近藤芳美、高安国世、塚本邦雄、岡井隆、馬場あき子、佐佐木幸綱、永田和宏、穂村弘、俵万智ら、近代から現代まで計52名の歌人の自作朗読を収めたCD4枚組+略歴や朗読作品を収めた解説書1冊のセット。

音源は1938年日本コロムビア収録のレコード、1977年大修館書店制作のテープ、そして2007年に新たに収録したものが加えられている。CD1枚で約1時間、合計約4時間分という分量だ。

2008年に発売された時にすぐ買おうかと考えたのだが、8000円という価格に躊躇ってそのままになっていた。それが、今回京都の三月書房で3200円のバーゲン価格となっており、すぐに購入を決めた。

今は亡き河野裕子さんの朗読も入っている。
声を聴くと、やはり何とも言えず懐かしい。

2008年9月27日、同朋社メディアプラン、7619円。

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2012年12月10日

中島裕介著 『もしニーチェが短歌を詠んだら』

宗教や芸術(アート)は世界の花である 大地に近いわけではないが
焦らずに松は聞き入り樅(もみ)は待つ ちいさな人のことなど忘れ
実際のわたしより良く周りには思われてると気付く つらいよ
目的と航路を持っている船だ 僕らは疎遠になったとしても

「うた新聞」12月号に〈現代に甦った「道歌」〉という観点から書評を書かせていただいた。
枡野浩一さんの歌なんかも、現代版「道歌」と考えるとよくわかる気がする。

2012年7月25日、角川学芸出版、1300円。

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2012年12月07日

岡本聡著 『香川景樹』

コレクション日本歌人選16。和歌文学会監修。

近世和歌を読んでみようということで、まずは香川景樹から。
代表歌49首とその鑑賞、略歴、筆者の解説がコンパクトに一冊になっている。
埋火の匂ふあたりは長閑にて昔がたりも春めきにけり
ゆけどゆけど限りなきまで面白し小松が原のおぼろ月夜は
敷島の歌のあらす田荒れにけりあらすきかへせ歌の荒樔田(あらすだ)

鑑賞に取り上げられている文章にも面白いものがいくつもある。「京都は六十くらいの人の如し。江戸は二十斗(ばかり)の人のうきうきしたる国なり」とか、「歌はもてあそびものにあらず、もてあそばるるものなり」とか。

〈柴の戸に鳴きくらしたる鶯の花のねぐらも月やさすらむ〉という自作について、「春夏の月は横からさすなり」と注釈しているのにも注目した。これは、春から夏にかけての満月の軌道の低さを言っているのだろう。

2011年5月25日、笠間書院、1200円。

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2012年12月05日

久々湊盈子歌集 『風羅集』

2007年夏から2012年春までの作品を収めた第8歌集。
現代三十六歌仙シリーズ12。
ねんごろに少女のわれが埋(うず)めたる核(さね)がたわわに枇杷の実をもつ
不祝儀の袋を買いに出でくれば月とはあの世へつづく抜け穴
鋭刃(とば)あててつうと開きし鮭の身をあふれ耀く秋のはららご
着るたびに気づき脱ぐたび忘れたり今にもとれそうな喪服のボタン
身のうちに癌を育てている人と真向えり暖かな冬のカフェテラス
群馬からくるかつぎ屋を待ちて買う木枯漬という沢庵うまし
恋というあやまちもせず胸たてて隣家の猫が雲を見ている
父とゆきし遠い祭りに掬いたる金魚が記憶のなかにて跳ねつ
桃売りの軽トラがいちにち停まりいし日陰に桃のにおい残れる
そして誰もいなくなった浜に拾いたり有田の薄き茶碗のかけら

作者の歌にはさまざまな形で「時間」が含まれているものが多い気がする。
1首目は庭に生る枇杷の実を眺めながら、その種を埋めた日のことを思い返している歌。
4首目や6首目も、直接詠われているのは「今」のことだが、そこには何度かの反復が含まれている。

10首目は「石巻へ」という一連に入っている歌で、震災後に見た浜の様子である。
ここにも、人々の暮らしという長い時間が感じられる。

2012年11月10日、砂子屋書房、3000円。

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2012年11月29日

高島裕歌集 『饕餮の家』

第五歌集。「饕餮」は「たうてつ(とうてつ)」。
亡き父が生きて購ひたるその店へ柱時計を修理に出せり
雪のなかとどろく磯にひとり立つ、海の息吹きに頬を晒して
きんいろの虻とびたちてわがまへに果てなくつづく夏のたかはら
  加茂水族館。
放ちたる乳液のごとけむりつつくらげと呼べるいのち漂ふ
蜘蛛のゐる浴室に朝の沐浴(ゆあみ)せり。窓のひかりに湯気は耀(かがや)く
春までになほいくたびか閉ざされむ。雪こそはわがひととせの繭
われへわれへとあなたを連れて遡上する。夕暮れまでに間に合ふだらう
文机、しづけき夜に物書けばこころの底にみづうみの見ゆ
天空に肋(あばら)晒して喘ぎをり、見えざる「線」を吐き出しながら
ふるさとは取り替へられぬ。くれなゐの同心円の中のふるさと

1首目は「生きて」がいい。「亡き父が購ひたる」なら普通だが、そこを「生きて購ひたる」としたことで、父の存在感と生家に流れる長い時間が感じられる歌となった。

5首目は朝風呂に入っているだけの歌だが、何とも美しい。下句「窓のひかりに湯気は耀く」はシンプルだが、朝日の差し込む感じや湯舟から立ち上る湯気の感じ、そして作者の喜びをうまく表している。

8首目は福島の原子力発電所を詠んだ歌。他にも「体液を噴いてのたうつ象たち」といった比喩も使われている。原発に対する立場は人それぞれであるが、イメージの喚起力の強さに目を見張る。

世の中には器用で歌の上手な歌人はたくさんいるが、「この人は本物だ」と感じる歌人は意外に少ない。高島裕はそんな本物を感じさせる歌人の一人である。

高島のうたの特徴は、歌柄の大きさと調べの良さだろう。うたという様式に対する全幅の信頼がそこからは感じられて、(かすかな危うさを孕みつつも)心地よい。

この歌集は一般的な歌集の出版社ではなく、富山の発行所から出版されている。そんなところにも、高島のふるさとに寄せる一貫した思いが強く滲んでいる。

高島は第1歌集『旧制度(アンシャンレジーム)』でながらみ書房出版賞を受賞して以来、短歌の賞とは縁がない。結社から離れてひとりで歌を作っていることも影響しているのかもしれない。もっともっと評価されてしかるべき歌人だと思う。

2012年10月24日、TOY、2500円。

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2012年11月14日

山田航歌集 『さよならバグ・チルドレン』


2009年に角川短歌賞と現代短歌評論賞を受賞した作者の第1歌集。
花火の火を君と分け合ふ獣から人類になる儀式のやうに
青空に浮かぶ無数のビー玉のひとつひとつに地軸あるべし
旅行鳩絶滅までのものがたり父の書斎に残されてをり
僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向うに揺れる
靴紐を結ぶべく身を屈めれば全ての場所がスタートライン
「いい意味で愚かですね」とコンビニの店員に言はれ頷いてゐる
君が代もテレビゲームも定型に畳まれやがてニッポンになる
うすぐもり天使注意の標識を視野にかすめていつものカーブ
ひなげしといふ形容詞あつたならこんな日はきつとひなげき気分
ブックエンドくらゐの距離をおいたままふたりは日々に赦(ゆる)されてゐた
4首目は春・夏・秋・冬ではない「五つ目」の季節について詠んだ歌。何とも新鮮な発想である。あるいは四季という言葉を持ったことで、私たちは五つ目の季節を見ることができなくなってしまったのかもしれない。

5首目は靴紐を結ぶ姿勢がクラウチングスタートのイメージを呼び起こしたのだろう。「スタートライン」はこの歌集のキーワードである。「スタートライン」という小題の連作が2つ収められているし(これはちょっと珍しい)、献辞にもあとがきにも略歴にもこの言葉が使われている。

全体は4章に分かれているが、1章の角川短歌賞受賞作「夏の曲馬団」に断トツに良い歌が多いと思った。

歌集名「さよならバグ・チルドレン」は、ルイ・マル監督の映画「さよなら子供たち」を踏まえているのだろうか。

2012年8月17日発行、ふらんす堂、2200円。

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2012年11月07日

永田和宏歌集『夏・二〇一〇』


2007年から2011年までの作品568首を収めた第12歌集。
耳遠くなりたる父は向かうむき秋の蜻蛉(あきつ)を眼に飼ふらむか
骨のないねずみを作りにんまりと我も学生も冬の日だまり
ゆふやみが鰓で呼吸をしてゐたり長谷八幡石段のわき
湖へ謐(しづ)かにつづく水の路 舟は朽ちゐつ櫓ももろともに
風に乗りて鳶は行くなりゆつたりと地の凹凸を空に映して
白梅をわたりくるとき濾(こ)されたる光かすかな潤ひを帯ぶ
埒もなききみの怒りを遣り過ごすトローチの穴を舌に載せつつ
換気扇を抜け来る光がキッチンの床にゆつくりまはりつづける
一度目は母が二度目はわが妻が、われを残して行けないと言ふ
春の雪 雪の中洲に目を瞑りユリカモメらは風に梳かるる
2010年8月に亡くなった妻の河野裕子のことを詠んだ歌がたくさんある。それらの歌はここに引くよりも歌集の流れの中で読んだ方がいいと思うので、あまり選ばなかった。

妻の死以外にも、定年による職場の変更、娘の結婚、家の改築など、大きな出来事がいくつも起っている。ただし、歌集の雰囲気はあくまでも静かである。

〈木苺の十粒がほどのたいせつは子らの手のひらにひとつづつひとつづつ〉〈ただひとり永田和宏のほんたうを知る人がゐて…… 頬杖をつく〉など、「たいせつ」「ほんたう」を使った歌がいくつか出てくる。日常的に使われる「大切」や「本当」ではなく、ひらがなの「たいせつ」や「ほんたう」。そうしたものを感じることの多い歳月だったのだろう。

2012年7月24日、青磁社、2600円。

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