2015年04月21日

篠弘歌集 『日日炎炎』

2009年から2014年までの作品875首を収めた第9歌集。
1ページ4首組。

冬日さす珈琲カップの影のびて口閉ざしあふひとときもある
書棚より「論争史」抜きてまた戻す若書きの書がわれより生きむ
ペースメーカー賜りしより何か違ふどこか違ふと枇杷を剥きゐる
午後からの会のはじめに声出して己の声を確かめむとす
川ぞこの駐車場よりくちびるを舐めつつ冬の街に出できぬ
空きたりし壜を逆さに立て掛けて数滴を待つひとりの夜は
ワイパーの拭ひきれざるフロントの隈(くま)きしきしとわが手に磨く
もとめ得しものはなけれど古本に触れきたる手に珈琲をのむ
掠(かす)れくるボールペンの尖を火に炙(あぶ)り書き終へたりし冬の弔文
むらさきの満作の垣に片寄せてバックミラーに妻を待ちゐる

現代歌人協会理事長、日本文藝家協会理事長、詩歌文学館館長といった立場で詠まれた歌が多い。特に会議の場面を詠んだ歌の多さが特徴的だ。作者自身、あとがきで「会議社会に生きる自分が会議に重点をおくことは、むしろ現在では異例であろう」と記している。

2首目は古書店で自著『近代短歌論争史』を見ての感慨。20代から書き継いで、40代で刊行した著書である。自分の死後も、本の中で若き日の自分は生き続けるのだ。
3首目、ペースメーカーの調子が悪いわけではないのだが、どうも以前とは身体の感じが違うような気がするのだ。
5首目、地下駐車場から地上へ歩いて出てきたところ。「くちびるを舐めつつ」が冬の乾燥した空気を感じさせる。
8首目、神保町の古書店街を詠んだ歌も歌集には多い。満ち足りた気分が伝わってくる。
10首目、下句の簡潔な表現がいい。建物から出てくるのを待っているのだろう。

2014年11月30日、砂子屋書房、3000円。

posted by 松村正直 at 07:33| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月14日

さいとうなおこ歌集 『キンポウゲ通信』

1984年に刊行された第一歌集の文庫化。
作者30代の作品297首が収められている。

子の指紋花びらのごと鏡面に乱るるを拭いて夜に対いぬ
言い負けて帰り来し子は弟にひどくやさしいものいいをする
凧の糸引きつつ駆ける少年は項(うなじ)に光るたてがみを持つ
夢の歌はもうつくるなと人言いき夢の中深くうなずきている
たんねんに定規使いて子が描く架空の町の駅の見取図
銀いろの煮干しとなりて身を曲げし魚は何れも小さき口開く
てのひらにきっかりかくれる顔を誰も持つと思いき泣きたるのちに
雨のなかワルツの楽におくれつつ移動図書館の来る水曜日
夜をこめてしずかに火山灰降れりあじさいの葉に山鳩の背に
春深く並木の葉かげ濃くなれり〈関硝子店〉の奥までみどり

1首目、子どもが鏡をべたべた触って遊んだのだろう。「花びらのごと」がいい。
2首目、兄と弟の心情や関わりがよく見えてくる歌。
5首目、「たんねんに定規使いて」に、真剣に取り組む姿が感じられる。
7首目は発想がおもしろい。掌の大きさ=顔の大きさ。
8首目、「楽におくれつつ」が、ゆっくりと進む車の感じをうまく表している。

あとがきの中に

近藤先生から何回か「夫や子供のことは捨てよ」と作歌上のご注意を受けたけれど、私はとうとう捨て切れずに今日まできてしまった。

とある。家族のことなど歌に詠むなということだろうか。その注意に従わなかったのが結果的に良かったのだと思う。近藤芳美という歌人の一面がよく窺える文章である。

2014年8月6日、現代短歌社第1歌集文庫、720円。

posted by 松村正直 at 06:35| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月12日

阿木津英著 「妹・律の視点から―子規との葛藤が意味するもの」

同じく子規庵の販売所にて買い求めた冊子。
2002年の第一回「若葉の子規庵」での講演をまとめたものである。

『仰臥漫録』『病床六尺』に記されている子規の「女子教育」「家庭教育」論や、妹・律に対する不満などをもとに、当時の男女の扱われ方の違いや時代の変化を追っている。

ひとつの食卓を囲む家族のあり方が理想になるのは、今の挿絵で見ましたように、明治も終わりになってからのことで、当時「家庭の団欒」はたいへん新しい概念だったのです。

わたしには、子規と律の関係は、義経と弁慶という「同志」の関係にはまったく見えませんし、子規の罵り意味もたんなる当たり散らしには見えません。そこには、進歩的な「新しい男」子規に対する「古い女」律の抵抗、子規の家庭改革実践に対して笛吹けど踊らぬ律の抗いぶりが潜んでいると思われます。

わかりやすく、しかも興味深い内容で、当時の時代の姿がよく見えてくる。

2003年4月25日初版第一刷発行、2012年10月23日第四刷発行、500円、子規庵保存会。

posted by 松村正直 at 07:21| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

田井安曇著 「生きている子規―付香取秀眞という人」

2月に子規庵を訪れた際に買い求めた冊子。
2002年の「子規庵〈糸瓜忌〉」における講演を収めたものである。

若い頃に子規批判をしていたという著者が、やがて子規の面白さに目覚めていった経緯などが素直に語られている。

途中、根岸短歌会のメンバーであった香取秀眞に触れて

この頃出る本では香取秀眞という人は影がだんだん薄くなってきているんですが、これは僕らもそうなる可能性があるんで、今は一寸ずつ何かに書いてくれていますけれども三十年ぐらい経つと誰も何にも言ってくれなくて消えてしまうことがあるかも知れない。

と述べているのが印象に残る。この講演から十数年がたった今、香取秀眞の影はますます薄くなってきている。そして、昨年亡くなった田井さんとて、「三十年」というのはかなり希望的な観測だったのではないかという気がする。

講演の最後は

皆さんに最後の項の、
8 同時代人としての子規―現代短歌は子規を越えたか?
を宿題としてこれで終らせていただきます。

で終っている。時間切れというよりは、簡単には結論の出ない問題ということなのだろう。そして、この問いは今もなお有効であると思う。

2003年5月15日初版第一刷発行、2009年10月20日第二刷発行、500円、子規庵保存会。

posted by 松村正直 at 09:22| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月09日

佐藤佐太郎著 『童馬山房随聞』

佐藤佐太郎が師の斎藤茂吉の言行を書き留めてまとめたもの。
昭和5年から16年までの記録となっている。

佐太郎の家に使いが来て茂吉宅に呼び出されたり、茂吉が佐太郎の勤め先の岩波書店に寄ったり、頻繁に子弟で行き来している。

茂吉の発言からいくつか。

芸術は何によらずひといろではおもしろくない。それだから意図をもって制作するということも否定できないが、これは不即不離で、ぜんぜんなければ平凡だし、出すぎてもいけない。
工夫するということが力量だからな。ポーズがあるの何のといっても、ポーズがないというのがひとつのポーズで、かえって臭気があるよ。
ぼっきしているときのような精神力がなくては芸術はだめですよ。
牧水の歌も晩年は力がなくなって、白湯を飲むようなもんだ。やはり中期がいい。年がとるほど良くなるとは限らないから歌はむずかしいんだな。
〈居れり〉というのはまちがいだよ。僕も使っているが、悪口をいわれても爆撃ができるか、それだけの用意がなければ使わない方がいい。
世の中の人というのは、論争を好まない人が多いけれども、ショウペンハウエルでもヘエゲルをやっつけた文章は炎を吐くようでいい。全集にあれがなければ精彩のないものだ。

「ぼっきしているときのような」「爆撃ができるか」「炎を吐くようでいい」といったあたり、いかにも茂吉という感じがする。とにかく読んでいて飽きない本だ。

1976年2月16日、岩波書店、1200円。

posted by 松村正直 at 07:12| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月07日

大島史洋歌集 『ふくろう』

2009年から2014年までの作品約400首を収めた第12歌集。
「短歌研究」の連載(30首×8回)が中心になっている。

重箱の隅をつつくもさまざまにてその楽しさを吾は知りたる
顎出して目を閉じる猫 子ら三人(みたり)背を撫で尾を撫で頭を撫でる
藤野駅のホームの端に墓は見え幾人か供花(くげ)をたむけるところ
最後まで愛せし人ら集うなか身から出た錆と言う声はする
うつぶせにまたあおむけに寝てすごす掩体壕のごときわが部屋
昼寝する父と題して兄よりの写真がとどく夜半のメールに
語の意味を考え調べわからねば疲れ果ててぞ夢より覚めぬ
ふるさとに雪は降るとぞ死にそうで死ねない父を見舞いにゆかむ
橋行けば桜の花は足下に咲き満ちておりその奥の宴
江津湖へとそそぐ湧水ゆるやかな流れに黒き鯉をはぐくむ

2首目、一匹の猫を三人の子供が寄ってたかって撫でている。「顎出して」がうまい。
3首目は「塩尻まで」という連作のなかの歌。車窓から見た光景。
4首目は2009年に亡くなった歌人金井秋彦の葬儀の場面。「身から出た錆」に故人の人生を思う。
6首目、ふるさと中津川に住む父の介護をしている兄からのメール。「昼寝」と「夜半」とに、兄と弟の立場の違いが滲み出ているように感じる。
7首目、長らく辞典編纂の仕事をしてきた作者ならではの歌。退職した今も夢に出てくるのだろう。
9首目、「足元に咲き満ちて」が面白い。普段とは違う角度から見る桜。

2015年3月1日、短歌研究社、3000円。

posted by 松村正直 at 06:20| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月03日

永田和宏著 『人生の節目で読んでほしい短歌』


「NHK短歌」のテキストに2年間にわたって「時の断面―あの日、あの時、あの一首」として連載された文章に書き下ろし原稿を加え、加筆修正してまとめたもの。

「恋の時間」「結婚」「出産」「退職」「介護の日々」「死をみつめて」など、人生の節目節目で詠まれた短歌200首以上を取り上げて、鑑賞をしている。

通勤の心かろがろ傷つかぬ合成皮革の鞄に詰めて
          松村由利子『薄荷色の朝に』

(…)この一首では第三句にある「傷つかぬ」がじつに微妙に、そして意味を危うく反転させるように上句と下句とを連結しています。読者は「通勤の心かろがろ傷つかぬ」と読み進みます。(…)ところが実は、第三句は四句以下を修飾する形容だったことが直後にわかるという構造をもっている。

なるほど、的確な読みだと思う。「傷つかぬ」のは「通勤の心」ではなく「合成皮革の鞄」だったと反転するところにポイントがあるのだ。

短歌の鑑賞だけにとどまらず、著者自身の人生についても随所で語られており、エッセイとしての面白さも味わうことができる。

2015年3月10日、NHK出版新書、820円。

posted by 松村正直 at 06:15| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月30日

秋葉四郎著 『鑑賞・現代短歌四 佐藤佐太郎』


佐藤佐太郎の秀歌100首を選んで鑑賞文を付したもの。
あらためて良い歌が多いことに感じ入る。

山葵田(わさびだ)をやしなふ水は一谷(ひとたに)にさわがしきまで音ぞきこゆる
音たてて流るるみづに茂りたる山葵の葉群(はむら)やまず動きぬ
植ゑつけしばかりの山葵二株づつ石に敷かれて水になびかふ
山葵田のふる雨に人働きてわさびの香するところ過ぎゆく
白々と見ゆるわさびの長茎(ながくき)を背に負ひながら帰りゆく人

第3歌集『しろたへ』の「山葵田」15首より。

1首目の歌について、著者は

深閑と静まりかえった谷間の山葵田。そこには、山葵を養う清流が、「さわがしきまで」響くのだ。その音を言って、青々と茂った山葵田のいくつもをめぐる静寂と清澄な空気とを感じさせる。

と述べているが、まさにその通りだろう。
「やしなふ」という動詞の選びが良く、また「やしなふ水は」の「は」の使い方も絶妙だ。「山葵田をやしなふ水の音ぞきこゆる」とつながってしまってはダメなのだ。

著者が「山葵田」の一連を最初に読んだ時の感想として「こんなに清冽な世界が短歌によってかもし出されていることに感動した」と記しているのも、よくわかる。

1991年5月30日初版、2003年4月30日四刷、本阿弥書店、2000円。

posted by 松村正直 at 06:23| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月24日

『短歌清話 佐藤佐太郎随聞 下』の続き

印象に残った佐太郎の言葉をいくつか引く。

あなたたちの歌は皆上手いが、優等生の作文のようなところがあるんだな。何か一つ欠けているところがある。(…)それは何であるか。自分のことに裏打ちされた何かが一首一首の歌に入っていることが必要ですね。

あなた達も、私がやったように、自分で考えて自分で努力することが大事ですよ。自分で考えるという努力さえすれば、教えるという立場の側には不足はないんです。

私たちは事実を大切に思っているが、事実だからただ大事だと言って終わっていたらつまらんですよ。その中に何かがなくてはね。

斎藤茂吉はしきりに即席の歌会をした。時代も変わって、つまらないように思うかも知れないが、われわれは歌が好きなんだから、暇があったら、こういう歌会をした方がいい。

実際に、佐太郎はしばしば即席の歌会をしている。旅先での昼食後やバスでの移動の間など、少し時間があると何人かで歌会をしている。

世間ではよく老成といって年をとった方がだんだんよくなるように言うが、私はこの頃違うと思うようになった。あるところまでは伸びるが、それ以後はもう下り坂だ。

これに続いて「私なんかもう下り坂だ」と述べる佐太郎の姿は痛ましい。当時、佐太郎は74歳。常に向上を目指して努力してきた佐太郎の言葉であるだけに重く響く。

posted by 松村正直 at 06:16| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月23日

秋葉四郎著 『短歌清話 佐藤佐太郎随聞 下』


上下巻あわせて1050ページにのぼる本を読み終えてしまった。
もう佐太郎の声を聞くことができないと思うと寂しい限り。

下巻は昭和53年から昭和61年まで。

翌62年8月に佐太郎は亡くなるのだが、61年12月に入院中の佐太郎を見舞った際に「もう私は歌人佐藤佐太郎の言行を記録してはならない」と決断して、この随聞を終えている。

下巻のハイライトは、やはり昭和58年の連帯退会事件であろうか。この年、「歩道」の古い会員であった長澤一作、菅原峻、川島喜代詩、山内照夫、田中子之吉の5名が「歩道」を退会して新雑誌「運河」を創刊した。当初は「世間ではよくあること」と言って淡々と対応していた佐太郎であったが、やがて激怒することになる。

このあたりの経緯については、双方の言い分を聞いてみないと実際のところはわからない。著者も片方の当事者なので、すべて信用するわけにもいかないだろう。

ちょうど「現代短歌」4月号に「運河」の山谷英雄が長澤一作について書いている文章があったので、あわせて読んでみる。

長澤一作の短歌における最も大きな事件は、先ず師の佐藤佐太郎を得たことであり、また次にはその師と別れなければならなかったことである。

山谷はこのように記した上で、長澤が「終生師を敬い歌と歌論に学び続けた」と結論づけている。このあたり、自分なりにもう少し調べて考えてみたいところだ。

2009年9月27日、角川書店、2857円。

posted by 松村正直 at 12:25| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月18日

『噴水塔』の続き

いい日だぜ「ぜ」をあやつって若枝のわが二十代とおく輝く

これは、加藤治郎の第1歌集『サニー・サイド・アップ』に収められている

マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股(もも)で鳴らして

を踏まえた一首。軽やかな口語を駆使して明るい歌を詠んでいた若き日を振り返っているのだ。この二首の間に約30年の歳月の隔たりがある。

歌集には他にも先行する作品を踏まえたと思われる歌がいくつかある。

青茄子の四、五本朽ちて居たりけりこの路を行く昭和の男
                   『噴水塔』
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
                   斎藤茂吉
平凡にインフルエンザに罹りけりたのみのつなのタミフル十錠
                   『噴水塔』
歌人おおほかた虚空にあそぶ青葉どきたのみの綱の佐佐木幸綱
                   塚本邦雄
代々木野の五輪会場うす闇に馬のまなこはきらめきにけり
                   『噴水塔』
しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼はまたたきにけり
                   斎藤茂吉

こんなふうに連想しながら読んでいくのも愉しい。

posted by 松村正直 at 21:50| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月17日

加藤治郎歌集 『噴水塔』

著者 : 加藤治郎
KADOKAWA/角川学芸出版
発売日 : 2015-02-28

第9歌集。2012年から14年までの作品350首を収める。

滝の水、音を離れて落ちにけり飛沫をあびるこの天地(あめつち)に
年齢差は縮まらないということをランプシェードの埃が落ちる
水仙のひややかにしてまよなかのひかりのなかにあなたはひらく
暗い緑の路面電車がやって来る寺山修司七十八歳
黒犬は舌をたらして居たりけり最終バスの発車のあとに
荒野には一本の道あらあらと3七銀は猟犬のごとし
濡れた髪きりきり絞るゆびさきの静かな冬よゆりかもめ飛ぶ
夜よりも朝は甘くてささやきの羽根はふたりの耳を行き交う
ゆるされてあなたの肌を舐めているときおり跳ねるあなたの肌を
腕時計つけて寝ていたちちのみの父の歳月ゆるやかに去る

2首目、上句の思いと下句の景の取り合わせに味がある。
3首目、「ひややか」「ひかり」「ひらく」の「ひ」の音、「ひややか」「まよなか」「なか」の「か」の音、「まよなか」「なか」「あなた」の「な」の音が響き合う。
6首目は将棋の矢倉3七銀戦法を踏まえた歌。
8首目は一夜をともにした男女の朝の様子で、「ささやきの羽根」が美しい。
10首目、父の挽歌の中の一首。「腕時計つけて寝ていた」に父の性格がよく表れている。

2015年1月28日、角川学芸出版、2500円。

posted by 松村正直 at 19:23| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月13日

『短歌清話 佐藤佐太郎随聞 上』の続き

本書の一番の読みどころは、やはり短歌に関して佐太郎が語っているところだろう。印象に残る言葉がたくさんある。

歌の批評には敬語を一切使わないのがいい。内容をずばずば批評し合うのがいいね、歌を批評し合う会なのだから。

道徳的でないことを仮にするとする。人間だからあり得る。その人がそういう歌を作っても、歌として良くさえあればいい。

よい歌が選ばれず、悪い歌が採られるようであれば結社の歌は駄目になる。

人生をいきてゆく間には実際、苦しいことも悲しいこともある。しかし、短歌を作ることによってそういう苦しみ、悲しみも一つの味わいとして受けとることができる。

歌は君、言い方だからね。どう言うかで決まる。見たところはみな同じなんだから。

一つ一つ、なるほどと頷きながら読んだ。

posted by 松村正直 at 06:18| Comment(2) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月12日

秋葉四郎著 『短歌清話 佐藤佐太郎随聞 上』


秋葉四郎さんが、師の佐藤佐太郎の言行について日録風に記したもの。上巻は昭和45年から52年まで。

上下巻各500ページにも及ぶ分厚い本だが、すこぶる面白い。夢中になって読んでしまう。もっとも、佐太郎に興味がない人には少しも面白くないに違いない。

佐太郎が斎藤茂吉について『童馬山房随聞』を記したように、かつては弟子が師に付き随って、その言行を書き止めておくというスタイルがよく見られた。「随聞」という言葉を調べると、古くは鎌倉時代に懐奘が師の道元について記した『正法眼蔵随聞記』にまで行き着く。

そう言えば、「論語」にしても「聖書」にしても「コーラン」にしても、孔子やイエスやムハンマドが直接書いたわけではなく、弟子たちが師の言行を書き残したものだ。つまり、こうしたスタイルは時代を超えて普遍的な意味を持っているのだろう。

本書を読んで驚かされるのは、師弟の関わりの濃密さである。月に何度も佐太郎の家に通っては、部屋の整理や庭木の手入れ、車の運転、孫の勉強の相手など、様々な用事をしている。もちろん短歌の指導も受けているのだが、感覚としては「内弟子」に近い。

そうした関係は時代遅れだと思う一方で、その濃密さを羨ましく思ったりもする。

2009年9月27日、角川書店、2857円。

posted by 松村正直 at 06:28| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月05日

『新・百人一首』の続き

たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり
               河野裕子『桜森』

について、解説で穂村弘は

「近江」とは琵琶湖を指す。

と記している。ここは解釈の割れるところで、河野自身は

この歌で私は、「近江」を、ひらがなで「あふみ」とは書きたくなかった。必ず「近江」でなければならなかった。「近江」を琵琶湖と読まれたくなかったからである。(『どこでもないところで』)

と述べている。「あふみ」と書くと「淡海=琵琶湖」をイメージさせてしまう。それを避けて、「真水」=琵琶湖、「昏き器」=近江(旧・滋賀県)という意図で詠んだということだ。近江という土地や風土に対する心寄せの歌である。

もちろん作者の自注に随う必要はない。『現代秀歌』の中で永田和宏は

文字通り読めば、近江という器が琵琶湖の水を抱えていると読むべきなのだろうが、イメージとして「昏き器」を琵琶湖と読んでしまうのもわからなくはない。作者自身は、先の読みにこだわっていたが、いまや器=琵琶湖の読みも許しておいていいような気がする。

と書く。たぶん、それで良いのだろう。

posted by 松村正直 at 08:20| Comment(3) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月04日

岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘選 『新・百人一首』


副題は「近現代短歌ベスト100」。

明治天皇、落合直文、伊藤左千夫から俵万智、穂村弘にいたるまで、近現代の歌人100名の歌が生年順に収められている。初出は「文藝春秋」2013年1月号。その時も読んだのだが、あらためて読む。

かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり
             高安国世『Vorfruhling』

について、解説で岡井隆は

作者は進学志望を医師から文科(ドイツ文学)へと変えた時の心理が背景にあるというが、それはこの一首にとってどうでもよい。

と書いている。「どうでもよい」と言い切るのはすごいなあ、と思って読む。この歌は歌集では長い詞書が付いているので作歌の背景は明確なのだが、そうした個別の事情を超えたところに普遍性を獲得しているということだろう。

2013年3月20日、文春新書、880円。

posted by 松村正直 at 08:05| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月02日

『どこでもないところで』の続き

「この世のほか」という短い文章がある。

この世とあの世ということを年来考えている。数年前、松村正直に「あの世ってあるんやろうか」と振り向いて訊くと「あると思いたいんじゃないでしょうか」とまことに明快に答えた。その通りだとわたしも思う。あの世は無いと思う。

このやり取りのことはよく覚えている。
河野さんの癌の再発前の話だ。

「あの世は無いと思う」と本当に思っているならば、「あの世ってあるんやろうか」と訊くはずもない。あの時、もっと違う答え方はできなかったんだろうかと、時々考えることがある。

posted by 松村正直 at 07:40| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月01日

河野裕子著 『どこでもないところで』


河野裕子エッセイ・コレクション3。

軽いエッセイのほかに、正岡子規、与謝野晶子、岡本かの子、馬場あき子、西行などを論じた評論も収められている。

印象に残るのは、河野さんの歌作りに関する話。

原稿依頼があった時、依頼された歌数の十倍の歌を作ることを自分に課している。
歌は理屈で作るものではなく、気合いで作るものだという一面があって、そういう時は、勢い、身体の方が先にことばをつかんでしまう。
歌を作りつづけているあいだに、自分のなかにあった、自分でも気がつかなかったものが現れてきて、驚くことがしばしばある。

河野さんの文章は、生身の河野さんの息遣いを強く感じさせる。

2014年10月25日、中央公論新社、1850円。

posted by 松村正直 at 11:16| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月27日

坂野信彦歌集 『銀河系』

1982年刊行の第1歌集。
表紙には宇宙の写真とともに「THE VIA LACTEA」と書かれている。
VIA LACTEA はラテン語で銀河(天の川)のこと。

全体が1部と2部に分かれていて、各125首、計250首を収める。
小題などはなく、1ページ2首の歌がずっと続いている。

しだれ柳そのしたかげに蝶ひとつ入りゆきしのち時ながれたり
水底にくらくわがかげゆらぎをり蛙およぎのかたちのままに
くさはらの二ほんのレール月の夜はつきのひかりをはなつふたすぢ
しらじらと力士らの肉たゆたふをテレビはうつすひとなき部屋に
トンネルに入りゆくたびにひとのてのあぶらはしろく車窓にうかぶ
数億のわれの精子をはらみたる腹部にしろくつきあかりさす
あゆみよるある地点にてみづたまりふいに金属的にひかれり
まひるベンチにひとねむれるをしよくぶつのぎざぎざの影がをりをり襲ふ
ねしづまる深夜の都市を二分してものおともなく運河はくだる
もうろうとわれはねむりにおちてゆく足のみとほく街路をたどる
ジンに浮く氷のかけら小半時この世のひかりうつして溶けぬ
わが死後の月のぼれどもうしなひし意識はとはによみがへるなし

ひらがなを多用した表記が特徴的。
物や自分の存在を見つめるような歌が多い。

2首目、ゆらゆらと歪んで映っている影の形。
4首目、相撲中継を映しているテレビ。「肉たゆたふ」が巧い。
5首目は暗くなった車窓に映る手の脂。外が明るい時は見えない。
7首目、「ある地点」の一瞬の光景を詠んでいる。それより手前でも先でもこうはならない。
8首目、風に揺れる草木の影が人に被さってくる様子を「襲ふ」と表現した。
11首目、バーのカウンターを思い浮かべた。溶けてなくなった氷を詠んだ歌である。人間の一生もあるいはこんな感じなのかも・・・などと思う。

栞(北川豊)には

坂野信彦は正真正銘の一匹狼である。学生時代に「コスモス」で新人賞までとった彼が、どのようにして一匹狼となったのか、そのいきさつはつまびらかでない。しかしとにかく坂野は、目下どの結社にも属さず、作歌仲間ももたず、おまけに三十五歳で独身、なのだ。

とある。

その後の経歴もかなりユニークだ。歌人としては、第2歌集『かつて地球に』(1988年)、評論集『深層短歌宣言』(1990年)、第3歌集『まほら』(1991年)を出版しており、さらに、学者、大学教授、詩人、自然哲学者として幅広いジャンルにわたって活動を続けている。

1982年7月10日、雁書館、2000円。

posted by 松村正直 at 19:04| Comment(3) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月22日

復本一郎著 『歌よみ人 正岡子規』


副題は「病ひに死なじ歌に死ぬとも」。

正岡子規の生涯を歌人としての側面に焦点を当てて描き出した評伝。先日子規庵を訪れたところなので、その流れで手に取った本である。

従来、あまりにも俳人子規に集中して子規が論じられる傾向にあったように思われる。そこで、本書では、「歌よみ人」子規に照準を合わせて述べてみた。

と、あとがきにある。俳人でもある著者にこう書かれてしまうのは、歌人の側からすると少し悔しい。

子規を論じる中で数多くの資料が引用されているのだが、興味深い内容のものがいくつもある。

歌よみに数派あり。真淵派といひ、景樹派といひ、なにの派といひ、くれの派といひ、各(おのおの)好むところを以て、相争ふがごとし。そは甚だいはれなき事といふべし。真淵翁の歌といへども、よきもあらむ。あしきもあらむ。また景樹翁の歌といへども、たくみなるもあらむ。つたなきもあらむ。よきはよく、あしきハあしく、巧みなるハたくみに、つたなきは拙きなり。

落合直文『新撰歌典』の文章。流派や歌人を問わず、良いものは良い、悪いものは悪いという明快な姿勢が気持ちいい。現代においても当て嵌まる内容だろう。

そこで自分は歌に就て教を受けたいのであるといふと、先生は暫く黙して居つたが、いくらでも作るがいゝのですといつて、また程経て、作つて居るうちに悪い方へ向つて居るとそれがいつか厭になつて来るのです、悪いことであつたら屹度厭になつて仕舞ふのです、といふやうなことを話された。

これは、長塚節が初めて子規庵を訪れた時のことを記したもの。歌作りの方向性について迷った時、良い指針になる言葉だと思う。

2014年2月18日、岩波現代全書、2300円。

posted by 松村正直 at 21:20| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月17日

なだいなだ著 『江戸狂歌』


1986年に岩波書店から刊行された単行本の文庫化。
狂歌を通じて見た日本人論といった内容となっている。

登場するのは蜀山人(四方赤良)、唐衣橘州、朱楽菅江、元木網、智恵内子、節松嫁嫁、宿屋飯盛、鹿都部真顔といった作者。最初は小さな同人誌的なグループから始まった江戸狂歌が、天明期に出版業と結び付いて大流行を見せ、やがて政治的な圧力を受けるまでに至る経過が記されている。

ぼくは昔の文学作品が、すべて文語文で書かれていたと考えるのは、少しはやとちりであったことに気がついた。(…)同じ時代に詠まれたものであれ、短歌はより文語的であり、狂歌はより口語的だったのだ。

こうした指摘は、短歌史を考える上でも大事な点だろう。「短歌往来」3月号のアンケートでも安田純生が吉岡生夫著『狂歌逍遥』を取り上げて

狂歌(とりわけ近世上方の狂歌)は、従来、歌人たちに、あまり読まれて来なかったのではないか。あまり読まれずに、卑俗なものとして遠ざけられて来たようにも思える。しかし、近代短歌の成立を考えるとき、狂歌は無視できないのであって、その意味でも、こういった書物の刊行はありがたいことである。

と記している。「和歌から近代短歌」という流れのほかに、「狂歌から近代短歌」という流れがあったのだ。

ただし、安田や吉岡が再評価を目指しているのは上方の狂歌であって、「天明狂歌」と呼ばれる江戸狂歌ではない。現在では狂歌と言えば天明狂歌の滑稽・諧謔・風刺といったイメージばかりが強いので、近代短歌とのつながりが見えにくくなってしまっている。

1997年3月14日、岩波同時代ライブラリー、900円。

posted by 松村正直 at 11:39| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月15日

花山周子歌集 『風とマルス』


2007年から2010年までの作品482首を収めた第2歌集。

鉛筆の味を知ってるわが舌が感じる黒い顔のデッサン
背中に広く空感じつつ渡りゆく橋なればわが歩幅は広し
ぶらさがり続ける力習得しオランウータンは森に帰還す
歯磨きはもう飽きたからやめようか、というふうにいかない人の営み
君に贈る青いビー玉ぼんやりと手に乗せしのちわがものとせり
夕空はひらたくなって嘘泣きの子供の声が節(ふし)おびていく
空間が減った気がする公園はジャングルジムが取り払われて
顔だけが出ている。顔が寒いなり。関東平野は北西の風
マンホールの蓋にたまった昨夜(きぞ)の雨カラスは黒い脚に飛び越す
小学校集合写真に誰よりもわれに似ている子のわれが居る

2首目、橋を渡る時の、普通の道を歩いている時とは違うちょっと特別な感じがうまく出ている。
3首目は親がいなくなったり怪我をしたりして保護されたオランウータンなのだろう。「習得」「帰還」という漢語を入れてくるところが個性的だ。
5首目は思わず笑ってしまう。君に贈るはずではなかったのか。
7首目、空間が広がったはずなのに「減った気がする」ところがいい。空間が何重にも積み重なったようなジャングルジムの立体感が彷彿とする。
10首目は当り前の話なのだが、不思議に心に残る。「子のわれ」との距離感がおもしろい。

2014年11月3日、青磁社、2500円。

posted by 松村正直 at 20:23| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月02日

『「よむ」ことの近代』の続き

『「よむ」ことの近代』は現代と関わりのない時代のことを扱っているのではない。そこに取り上げられている内容は、現在の短歌のさまざまな問題と深くつながっている。いくつか例を挙げてみよう。

まずは第4章「「旧派」の行方」から。

各地方の歌会に出席して見るに大方は六七十歳以上の老人のみなり老人の歌よみ敢て排斥するにあらず大に歓迎する所なれど歌其物は社会と相対して離るべからざるものなれば老人百名寄つどふ席の半面には青年が三四百名位の割合に列すべきは最も意義ある歌の会なるべく

歌会参加者の高齢化を述べるこの文章は、旧派和歌の歌人が多く参加した大日本歌道奨励会の機関紙「わか竹」1922年7月号に載ったもの。現在の結社の高齢化の問題とも重なり合う話であろう。

続いて第10章「誰が「ヒロシマ」を詠みうるか?」から。

実際この歌集が私たちに与える感動は、身を以て原爆を体験することもなく、ただ遠く外から眺めて筆を走らせた作家たちの作品とは根本的に違って、つぶさに惨苦をなめ、更に九箇年の長きに亙って死生の間を生きながらえて来た広島市民の声といってよかろう。

これは、1954年刊行の合同歌集『広島』の序に記された長田新のコメントである。ここには東日本大震災の震災詠をめぐって問題になった「当事者かどうか」といった観点が既に表れている。

著者の松澤はこれに対して、

ここで『広島』の作品は、身をもって原爆を体験した人々の「声」として長田に認知され、収録作品の真正性にお墨付きが与えられている。しかし裏返せば、それは「遠く外から眺めて筆を走らせた作家」たち、つまり原爆を体験せず、それを詠うものに口をつぐませる言辞でもあった。

と記す。これは非常に鋭い指摘だと思う。
「口をつぐませる言辞」というものは、東日本大震災の時にもたびたび繰り返されたのである。

posted by 松村正直 at 07:15| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月30日

松澤俊二著 『「よむ」ことの近代』


「越境する近代」シリーズの11冊目。
副題は「和歌・短歌の政治学」。

明治期の国民国家の形成に和歌や短歌がどのように関わり、天皇と人々をどのように政治的に結び付けていったのかというテーマのもと、序章+10章の論文が収められている。

天皇巡幸、御製、大日本歌道奨励会、心理学、題詠、和歌革新、自己表現、愛国百人一首、ヒロシマなど、取り上げている内容は幅広いが、大きな流れのもとにまとまっているので、著者の関心や主張はわかりやすい。

本書は「新」「旧」両派の断絶よりも、それらがネイション・ビルディングに果たした役割に注目し、その連続性に留意して記述している。

というスタンスは、私の興味ともつながっていて、教えられることがたくさんあった。特に御歌所長の高崎正風の果たした役割の大きさや旧派和歌のその後について知ることができたのは良かった。また、福沢諭吉『学問のすすめ』や坪内逍遥『小説神髄』に和歌・短歌否定論が含まれていることも、和歌革新の前提として踏まえておくべき事実であろう。

歌人と研究者との交流は現在あまり活発ではないが、今後深まっていく必要がある。そのためにも、多くの歌人にこの本を読んでほしいと思う。単に過去のことを論じている本ではない。まさに現在の短歌の問題に深く関わってくる内容なのである。

2014年12月26日、青弓社、3400円。

posted by 松村正直 at 06:43| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月29日

日高堯子歌集 『振りむく人』

2009年から2014年5月までの490首を収めた第8歌集。

影絵のやうに老父母うごく晩秋の日ざししづけしわれも入りゆく
頭(づ)の中に少女の自分がゐるらしきふしぎな顔の今日の母なり
蝶は昼 草間の水をのみながらするどく光る尿を放てり
うす張りの夏の昼月しらじらと昼寝(ひるい)の父の眉毛はながし
屏風ヶ浦にならびて風をまはしゐる風車はさびし白鳥よりも
蜂蜜漬け胡桃の瓶にしづもれる万の翅音をふかぶかと舐む
水琴窟のやうなる音が胸たたくあなたなのかと問へばまた消ゆ
新米の炊きたてご飯のきらきらをむすべどむすべど昔はむかし
なつかしいものみな失せぬとわらふ母秋の日ことばあそびをすれば
わが貼りしバンドエイド腕につけしまま父はこの世を離(か)れゆきにけり

90歳になる母、100歳になる父を詠んだ歌が歌集の中心となっており、また2011年の東日本大震災も大きく扱われている。全体にゆったりとした時間が流れている歌集だ。

1首目、年老いた両親の静かでゆっくりとした動き。時間の流れる早さが家の外とは違う。
3首目は蝶の尿を詠んだ何とも繊細な歌。きらきら光っている。
5首目は牧水の「白鳥は哀しからずや」を踏まえるか。
6首目、蜂蜜に「万の翅音」を感じ取っているところが良い。
7首目、胸に澄んだ音を立てては消える音。そこに「あなた」の姿を思い浮かべている。
10首目、「バンドエイド」が寂しさでもあり、わずかな救いでもあるようだ。

2014年9月23日、砂子屋書房、3000円。

posted by 松村正直 at 10:04| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

佐佐木幸綱歌集 『ほろほろとろとろ』

2010年から2012年までの作品497首を収めた第16歌集。
全体が3章に分かれていて、さらに「欧羅巴一〇〇首」「欧羅巴五〇首」が入っている。

春の雨に一夜濡れたる石垣のほとりに「登ってはいけません」の札
バイオリンを弾く人ときに目を開けてまた目を閉じる水の中のように
息子とは見るものが違い朝雲のバックミラーを俺は動かす
掌(て)の上に川をながして小さなる筏の行方見ている目つき
釈放されVサインする中国人船長が映る肥えたる妻と
東京湾の底を流るる川のこと言いつつ握る旬の穴子を
二子玉川駅舎をするり低く飛び燕(つばくら)は人の貌を吊り上ぐ
スープ皿の韮のみどりの鮮しさ みどりは動く雷(らい)のひびきに
大いなる氷河をゆったりと抱く力 山のエロスが主語としてある
マルセイユの地下鉄駅の壁の絵の地下鉄 地下鉄が来ればみえない

1首目には「松山城にて」という詞書が付いている。古い石垣と現代的な注意書きの取り合わせ。
3首目は、息子さんと同じ車を運転しているのだろう。バックミラーの角度を調節し直しているところ。
4首目は「終点までケータイを押し・・・」という歌が次にあるので、おそらく携帯電話を詠んだ歌なのだろう。でも、それがわからなくても十分に味わいのある歌だ。
7首目は結句の「貌を吊り上ぐ」で歌が決まった。燕の動きに引っ張られるように視線を上げる人々。
9首目はモンブランの麓にある町「シャモニー」での歌。大柄な詠いぶりが魅力的だ。

あとがきに「この歌集ぐらいから、私の短歌には、自然体、あるがままの表現が多くなったように感じる」とある通り、あまり技巧を凝らさない素直な歌が多い。作者の代名詞でもあった「男歌」らしさも、随分と薄れたように思う。それは年齢のせいなのか、時代のせいなのか、あるいは何らかの短歌観の変化があったのか。そのあたりを知りたい。

2014年12月5日、砂子屋書房、3000円。

posted by 松村正直 at 08:20| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

沙羅みなみ歌集 『日時計』

ご紹介がすっかり遅くなってしまいましたが。

ほんとうはどちらが少し正しいの?羊の柩/柩の羊
月かげに蒼く照らされ横たわるわたしのいない私の体
銀色の一日に倦んだ貴婦人の巻き毛のようなパスタを茹でる
急速にかたむいてゆく傾きのかたむくままに傾かせつつ
揺らされているというより揺れている枝だと気づくゆりの木の下
話さないけど話してたでも今は話すけど何も話していない
本当はわたくしだったかもしれぬ子どもに出会うこども外来
ゆるやかに時間の影は延びゆきてゆりのき通りを西へと下る
断りの手紙を綴り終わりたり日の入りにまだ少し早くて
いつもいつも正しく帰りくる鳩に「迷っておいで」と耳打ちをせり

肯定と否定、右と左の間を詠むような心理詠が多く、非常に個性的な作風。逆説的な表現や箴言風の言い回しがしばしば用いられている。

語彙の面では、「消える」「忘れる」「失う」「なくす」「去る」といった動詞や「これ」「その」「そんな」「あの」「この」「そこ」「あちら」などの指示語が多い。巻頭と巻末の歌の対応が鮮やかであった。

2014年1月17日、青磁社、2500円。

posted by 松村正直 at 22:27| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月07日

小高賢歌集 『秋の茱萸坂』

昨年2月に亡くなった作者の第9歌集。2010年から14年までの作品660首を収める。小高が生前に構成を終えていた4章484首に、その後の176首を加えて一冊としたもの。

咲くときは一緒になどと息ひそめ待っているらしさくらの姉妹
浜ちゃん顔と寅さん顔が並びあい日暮里すぎて浜ちゃん降りる
ショートケーキ慰問袋のようにもち「ご無沙汰」と子が居間に入り来る
気色ばむごとなくなりて唐紙をしずかに閉めてわれは出でゆく
ガス室にいもうと三人運ばれてカフカ一家の血はそこに絶ゆ
段ボール箱に入ればうれしくてたちまち眠るこの三歳児
こういう日は奈良にゆきたしひとすじに菊の香のぼる秋日和なり
さまざまな一生(ひとよ)のひとつガラス越しの永久保存という焉り方
清流のごとく日は入り乳飲み子はふと微笑みぬ秋の車内に
敵を置き味方をなげく二分法ながく戦後の脊梁として

1首目は冬の桜の可愛らしい蕾を詠んだ歌。
2首目は「釣りバカ日誌」の浜ちゃん(西田敏行)と「男はつらいよ」の寅さん(渥美清)。
5首目、カフカの三人の妹はナチスの強制収容所で亡くなっている。カフカも長生きしていれば同じ運命をたどったかもしれない。
6首目、狭い箱などに入る猫の話はよく聞くが、これは人間の三歳児。
8首目はレーニンや毛沢東の遺体のことだろう。保存処理が施されて今も残っている。
9首目、何でもないけれど好きな歌。「秋の」がよく効いている。

2014年11月10日、砂子屋書房、3000円。

posted by 松村正直 at 07:10| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月04日

永田和宏著 『現代秀歌』


2013年に刊行された『近代秀歌』の姉妹篇。
「『近代秀歌』でとりあげた以降」の「一九七〇年までの生まれ」の100名の歌人の100首を取り上げて解説・鑑賞をしている。

全体が「青春」「新しい表現を求めて」「旅」「病と死」など10章に分かれているが、各章の歌のならびはランダムではなく、ゆるやかな流れに沿って読めるようになっている。例えば、

三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや
                    山中智恵子
まつぶさに眺めてかなし月こそは全(また)き裸身と思ひいたりぬ
                    水原紫苑
なべてものの生まるるときのなまぐささに月はのぼりくる麦畑のうへ
                    真鍋美恵子

といった感じである。読み物としても楽しめるように工夫された構成だ。
また、歌の鑑賞だけではなく、永田の短歌観や短歌論が随所に表れているのも本書の読みどころだろう。

ようやく梅内たちの世代になって、第二芸術論の呪縛から解き放たれ、歌を作っていることを堂々と言えるような風潮のなかで作歌が可能になったのかもしれない。
思い出は常に、日常の〈具体〉とリンクして顕ち現われる。
歌は意味が通っていることも大切だが、意味だけで終ってしまっては、詩としての味わいも、奥行きも、幅もすべて失われてしまうものだ。
歌を読むとはそういうことである。一首の歌を読むことによって、それまでとは違った自然との向かい合いが生まれるのである。

ただし、前著『近代秀歌』に比べると、文章はやや伸びやかさに欠けるような印象を受ける。『近代秀歌』が故人を対象としていたのに対して、『現代秀歌』は約半数が存命の歌人なので、好き放題に書くわけにもいかなかったのかもしれない。

2014年10月21日、岩波新書、840円。

posted by 松村正直 at 13:39| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月27日

本田一弘歌集 『磐梯』

著者 : 本田一弘
青磁社
発売日 : 2014-12-11

平成22年から26年夏までの作品311首を収めた第三歌集。
文語定型を守りつつ、会津の風土を詠んだ歌柄の大きな作品が多い。
連作一つ一つの歌数も多く、骨太な印象になっている。

平成23年の東日本大震災と原発事故は福島の人々の暮らしに大きな被害と影響をもたらした。平成25年に亡くなった佐藤祐禎氏への挽歌をも含めて、震災と原発に関する歌がこの歌集の根幹と言っていい。歌数の311首も、3・11を意味しているのだと思う。

いづこにか雨にぬれたる猫がゐる闇やはらかく猫になりゆく
磐梯は磐のかけはし 澄みとほる秋の空気を吸ひにのぼらむ
避難所のおほいなる闇 百三十の寝息のひくくひくくみちたる
さくら花たたふる夜の黒髪をくしけづりゆくつくよみをとこ
福島を切り分くる線 幾十度いくそたび変へられてゆかむか
やはらかく前に後ろに揺られゆく秋のひかりをぶらんこといふ
のどけしな磐梯の田は田植機をあまた侍らせ昼寝をしたる
線量は毎時六・五マイクロシーベルト 防護服着て墓洗ふ人
木偏に冬、くさかんむりに冬と書く歌人ふたりの歌を思ひき
昨夜よりの雨止みにけりテニスコートに雀の貌を映す水あり

2首目は地元の会津磐梯山を詠んだ歌。活火山の荒々しさを秘め持つ山を歩いて、天へと登っていくような清々しさを感じさせる。
4首目は、満開の夜桜に射す月の光を男女の関係に喩えている。
6首目、揺れているのが「秋のひかり」なのだという目の付けどころがいい。
9首目は小泉苳三と宮柊二のこと。ともに日中戦争に従軍して『山西前線』『山西省』という歌集を残している。

2014年11月1日、青磁社、2500円。

posted by 松村正直 at 08:05| Comment(3) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月01日

さらに『佐太郎秀歌私見』のつづき

難癖を付けるようで申し訳ないのだが、読んでいろいろと言いたくなるのは良い本の証だと思っているので、もう少しだけ。

いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚

第7歌集『群丘』のこの歌について、尾崎は

「魚」の題で、「(下関水族館、江ノ島水族館)」の詞書が添えてあるが、この一首はおそらく江ノ島水族館であろう。

と記している。けれども、なぜ「おそらく江ノ島水族館であろう」と推定しているのか、その根拠は記されていない。

歌集の中では「魚(下関水族館、江ノ島水族館)」と題して5首が掲載されている。別々の水族館で詠んだ歌を「魚」という観点でまとめているところが、佐太郎ならではのユニークなところだ。

この歌については、実は佐太郎自身が随筆集『枇杷の花』の中で触れている。

昭和三十一年に下関の水族館を見、それから江ノ島の水族館を見た。両方の材料をもとにして「魚」の歌をいくつか作った。そのなかに「いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚」という一首がある。これは下関で見た鯛が素因になって出来た歌である。

どちらの水族館であっても歌の鑑賞に影響はないのだが、一応、実証的な面から「下関」であることを指摘しておきたい。

posted by 松村正直 at 15:34| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月30日

『佐太郎秀歌私見』のつづき

これは弟子が師について書く時の難しさだと思うのだが、この本にも少し佐太郎を賛美し過ぎのところがある。例えば、佐太郎の歌について述べている中で「天賦の才というべきである」「生来の感性というべきものであろう」「その天分は、天から授かったもの」などと書いては、結局何も言っていないのと同じことになってしまう。

連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音 『帰潮』

この歌について、尾崎は次のように書く。

一首目では、貨車が連結器で繋がれた時の、一種の鉄の響きのような短い音響を捉えているのだが、「連結」の語を重ねて使い、その音がどうだとか、自分がどう思ったかなどのことは、一切言わないのである。同じ語をくり返して使うことの難しさは、短詩型の技術を知る者にとっては自明のことだが、その上、「つぎつぎに伝はりてゆく」と平易に言っていながら、その重量のある音響が一瞬ではなく、ある幅を持って伝わってくるのを、如実に感じさせる。見事な技術である。

「連結」という語の繰り返しにこの歌の特徴があるのは確かだろう。「見事な技術」というのも同感である。でも、技術について言うならば、一番肝腎なのは助詞の使い方ではないだろうか。

連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音
連結を終りし貨車につぎつぎと伝はりてゆく連結の音 (改作)

試みに助詞を2つ変えて改作を施してみた。このように改作すると、非常にわかりやすく、そしてつまらない歌になる。それだけ、助詞の力が大きいということだ。

本来「貨車は・・・連結の音」という言葉運びには、ねじれがある。読んだ時に違和感が残る。けれども、それがこの歌の味わいを生んでいるわけだ。このねじれに言及しないことには、この歌の技術を解説したことにならないと思うのだが、どうだろうか。

posted by 松村正直 at 09:18| Comment(3) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月29日

尾崎左永子著 『佐太郎秀歌私見』

KADOKAWA/角川学芸出版
発売日 : 2014-10-24

佐藤佐太郎に師事した著者が、佐太郎の歌や言葉について解説した本。「星座―歌とことば」「星座α」に連載された文章が元になっている。巻末には「佐太郎秀歌百首」を収録。

佐藤佐太郎の開拓してきた「純粋短歌」の精神と、そしてその作歌の「技術」を、後代に継いで行くべき義務がある、それは今である、と思っている。

と記す著者の思いが強く伝わってくる内容だ。
印象に残るのは、やはり佐太郎の言葉である。

「短歌とは、技術だよ、君」とは、佐藤先生に直接、また度々聴かされたことばである。
心理の表現には具体は要らない。また、「事実」と「真実」は異う。佐太郎からしばしば言われたことばである。
「真の新しさは見られる対象(素材)にあるのではなく、見る主体にある」
「主観語がなくても、またどういう形であっても、詠嘆はこもり得る、詠嘆とは作者のいぶきである」

こうした短歌に関する箴言は、佐太郎の得意技と言っていい。

他にも、昭和20年9月に佐太郎が上京した際の仮住所が「杉並区阿佐ヶ谷六ノ一八四 川村シゲジ方」であったことなど、年譜にない事実も記されており、佐太郎研究の貴重な資料となりそうだ。

2014年10月25日、KADOKAWA、2200円。

posted by 松村正直 at 10:12| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月25日

齋藤芳生歌集 『湖水の南』

第2歌集。
2010年から2014年にかけての作品386首を収める。

製本屋は本を、製本屋の妻は睡蓮の大輪を咲かせる
夕暮れのホンシュウジカは細く啼きひとを呼ぶなり秋の図鑑に
いざべら、というひとが来る坂道を私は隠れて見ていた子ども
圧縮ファイルひらいたように春来たり木々の芽はさらに木々の芽を呼び
桃の花散るように我を忘れゆく祖母なれど桃の花をよろこぶ
ひとたびの雨にてかくもすさまじく草は満つ 我も砂漠であった
おおちちのものさしをもてよれよれになりしこころをぴしりと叩く
祖父よ眼を閉じてもよいか烈風に煽られて針のように雪来る
パーテーションごしに聞きおり来月よりチームのなくなる人が鼻かむ
ブルーシートの中蒸れている除染土の中蒸れている種子もあらんよ

巻頭に「祖父たちへ。祖母たちへ。」という献辞がある。
東日本大震災後のふるさと福島に寄せる思いが数多く詠まれている一冊。
編集プロダクションでの仕事の歌にも印象的なものが多い。

2首目は本物の鹿かと思って読むと、実際は図鑑の中の鹿であるという面白さ。
3首目は連作「いざべら」7首より。イザベラ・バードが見た東北の子どもたちの姿に自分を重ね合わせている。
4首目は初二句の比喩が現代的だ。
7首目、「叩く」だけを感じにした表記が効果的。真っ直ぐな、存在感のある竹のものさし。
8首目、猪苗代湖の南岸の集落で一生を終えた祖父。「針のように雪来る」に冬の厳しい風土性が滲む。
10首目は原発事故後の福島の苦難と再生への思いが感じられる。

2014年9月1日、本阿弥書店、2800円。

posted by 松村正直 at 15:40| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月22日

岡井隆歌集 『銀色の馬の鬣(たてがみ)』

青春が中年へリエゾンするあたりどんな蝶々が訪れてもいい
わが妻を時に見つめて歩みをり梅雨の晴間のかろき坂道
タクシーで越える軽便鉄道の枕木むかしは歩いたんだが
尖るとはやがてゆつくりと鈍(なま)るものしんしんと人を憎しむときも
たくさんの花の中から選ぶのだ時に葉みたいな花もまじるさ
戦時下の名古屋はいやに生(な)ま生ましくよみがへるのに 淡きは今日だ
暑苦しき白南風(しらはえ)のなかFAXを遣りかへりくるFAXを待つ
新年へ向かふ時間を細分して此処へ来てゐる絵をみるために
音(おと)だけの言葉つて無い。金色(こんじき)の輝きだけの葉がないやうに
わが病(やまひ)やうやく癒えて、などといふ常套句もて祝ふべからず

2012年7月から2014年8月までの作品349首を収めた第31歌集(第32作品集)。

文語・口語をまじえた自在な詠みぶりや、どんな素材でも歌にしてしまう修辞の力は健在である。この歌集では、そこに老いの寂しさや回想の懐かしさも加わって、独特な味わいを醸し出している。

1首目は「リエゾン」が面白い。青春がはっきり終わらないうちに中年が始まっている。
2首目は「時に」がいい。そこに深い愛情を感じる。
4首目は、結句まで来て初めて心の話であることがわかる。その語順がうまい。
5首目は「新百人一首(文藝春秋)に寄す」という一連にある歌。でも、単独でも十分に味わえる歌だと思う。
7首目は「FAXを/遣り・かへりくる」の句割れ・句跨りが効果的。「FAXを遣り/FAXを待つ」ではダメなのだ。
9首目、言葉は常に意味を伴ってしまう。〈調べ〉だけの短歌というものも、やはり無いのだろう。

歌集のあとがきに岡井は

ただ、わたし自身としては、世に問ふといつた気概はもう衰へてしまつてゐる。ごく個人的な興味にそそられて編んだ私家集といつた感じだ。

と記している。もちろん韜晦を含んだ言い方でそのまま受け取る必要はないのだが、それでもかつて『鵞卵亭』のあとがきに「もはや青年の心をうごかす文学は成就しがたく、ありていに言って数人の友人知己に見せるだけの私歌集なのだ」と書いた頃とは違って、ある程度、本音なのではないかという気がする。

その間には40年という歳月が流れたわけだ。

2014年11月19日、砂子屋書房、3000円。

posted by 松村正直 at 09:58| Comment(3) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月18日

高野公彦歌集 『流木』

著者 : 高野公彦
KADOKAWA/角川学芸出版
発売日 : 2014-10-24

第14歌集。
2010年1月から2012年6月までの作品から約570首を収める。

時は我を寒き〈余白〉に連れ出せりかかとの皮が硬くなるなど
ふるさとの夜ぞらに居りし大さそり皇居のふかき夜ぞらに思ふ
この世から徐々に離れてゆく老いよ粥の深みに匙沈みゐて
でんせんの弛(たゆ)み静けしあかときは人生(あ)れやすく、死にやすき刻
モノレールに懸垂型と跨座(こざ)型とありてこの世の味はひ深し
うしろよりいだく両乳(もろち)のやはらかさ想ひしのみに電車に目を閉づ
ひつそりと赤い車が〈言の葉〉を集めて回る春のゆふぐれ
雪ふれる因幡と伯耆しろたへの一つ国原となりて年越ゆ
雲照らふ明治公園 高野氏が生前昼寝せしベンチあり
原発は心肺停止して死なず死ぬためになほ血を流しをり

お酒の歌、言葉をめぐる歌、東日本大震災の歌などに加えて、年齢や老いを意識した歌がだいぶ増えたように思う。

1首目は人生の「余白」という感じだろう。
3首目は上句と下句の取り合わせが絶妙。
5首目、例えば湘南モノレールは懸垂型で、大阪モノレールは跨座型。
6首目のようなほのかな性の歌も、作者の変わらぬ持ち味である。
7首目は郵便収集車の歌。「赤い車」「言の葉」という表現に工夫がある。
9首目は、自分の死後の視点から詠んだ歌。

2014年10月25日、KADOKAWA、2600円。

posted by 松村正直 at 06:51| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月12日

『きなげつの魚』の続き

キリンのちひさなあたまのなかにありながらキリマンジャロにうかぶ白雲
ひとに見せなば壊るるこころと知りながらときどきは人にみせては壊す
ぎやくくわうにくもの糸ほそくかがやけどそれら払ひてゆくわれあらぬ
霧のあさ霧をめくればみえてくるものつまらなしスカイツリーも
寒鯉のぢつとゐるその頭(づ)のなかに炎をあげてゐる本能寺
墓石は群れつつもきよりたもちゐてしんしんと雪にうもれてゆくも
ゆくりなく枯野へと鶴まひおりて風景が鶴一羽へちぢむ
足の爪ふかくこごみて切りながら小雨と気づきてゐたり背後は
あはれ蚊のしよぎやうむじやうのひらめきは掌につぶされしかたちとなりぬ
あさきねむりただよひながら淡きわれ醤油のにほひにまじりてめざむ

後半より10首。

1首目、ふるさとの景色を思い出しているのだろうか。「キリン」と「キリマンジャロ」の音が響き合う。
3首目は不思議な歌。私の身体がない。
5首目は「寒鯉」と「炎」のイメージの取り合わせが鮮烈だ。
7首目、下句の型破りな表現が場面を鮮やかに描き出している。
8首目はおそらく視覚や聴覚ではなく、気配で雨を感じているのだろう。
9首目は一瞬にして消えた命の最後の閃き。諸行無常のひらがな書きが効果的だ。

渡辺松男の歌を読む時には、読者も想像力やイメージを最大限に広げて読んでいく必要がある。そうすると、固く狭くなっていた頭がぐんぐん広がっていく感じがして心地良い。

posted by 松村正直 at 06:05| Comment(2) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月10日

渡辺松男歌集 『きなげつの魚』


第8歌集。
先月の毎日新聞の「短歌月評」にも取り上げたのだが、傑作である。

渡辺の歌集にはいくつか思い出がある。「塔」1999年11月号の「歌集探訪」で渡辺の第2歌集『泡宇宙の蛙』について書いたのが、私が初めて書いた短歌の文章だった。

その時に、第1歌集『寒気氾濫』も読み、以後、『歩く仏像』『けやき少年』『〈空き部屋〉』『自転車の籠の豚』『蝶』と、歌集が刊行されるたびに読んできた。

途中、渡辺の歌の飛躍の大きさや独特な文体に付いて行けない気がしたこともあったのだが、前歌集『蝶』、そしてこの『きなげつの魚』と、再び強烈な魅力を覚えるようになってきた。

あしあとのなんまん億を解放しなきがらとなりしきみのあなうら
わがいまのすべてはきみの死後なればみる花々にかげひとつなし
千年の牧場(まきば)はたえず牛の雲おりきて牛となりて草はむ
こほりたる枯蓮の沼日のさせば氷のしたを機関車がゆく
円墳にかかりしわづかなるかげの円墳すべておほふ掌となる
タイルの目朝のひかりにうきあがりタイルひとつにわれはをさまる
押上につまやうじ建つと聞きたればつまやうじの影に泣くひとあらめ
いろいろのこゑのなかみづいろのこゑのやがて死ぬ子のちゑのわあそび
死にしゆゑわれより自在なるきみのけふたえまなくつばなとそよぐ
がうがうたる華厳滝をおもへども滝を背負ひてゐる山しづか

とりあえず、前半から10首。

1、2首目は亡くなった妻を詠んだ歌。もうこの世に足跡を残すことのない足。
3首目は悠久の時間の流れや循環する自然というものを感じさせる。
4首目の「機関車」、5首目の「掌」の飛躍の面白さ。時間や空間のスケールが自在に変化していく。
7首目の「つまやうじ」は東京スカイツリーのこと。
8、9首目からは生と死の問題や、命に対する考え方が伝わってくる。

2014年9月25日、角川学芸出版、2600円。

posted by 松村正直 at 04:44| Comment(4) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月23日

服部真里子歌集 『行け広野へと』

冬の終わりの君のきれいな無表情屋外プールを見下ろしている
雪は花に喩えられつつ降るものを花とは花のくずれる速度
蜂蜜はパンの起伏を流れゆき飼い主よりも疾(と)く老いる犬
回るたびこの世に秋を引き寄せるスポークきらりきらりと回る
酢水へとさらす蓮根(はすね)のうす切りの穴を朝(あした)の光がとおる
ポケットの一つもない服装をしてしんとあなたの火の前に立つ
感覚はいつも静かだ柿むけば初めてそれが怒りと分かる
おだやかに下ってゆけり祖母の舟われらを右岸と左岸に分けて
けれど私は鳥の死を見たことがない 白い陶器を酢は満たしつつ
新年の一枚きりの天と地を綴じるおおきなホチキスがある

第55回短歌研究新人賞次席、第24回歌壇賞受賞の作者の第1歌集。
未来短歌会所属。
19歳から27歳までの作品から289首を収録。

上句から下句への意外な展開や、二物衝撃など、感覚と言葉の扱いに冴えがある。次々と繰り出せれる手品を見ているようで、読んでいて楽しい。

1首目は「きれいな無表情」がいい。「きれいな」も「無表情」もありふれた普通の言葉だが、この組み合わせは新鮮。
3首目は上句の蜂蜜の流れが、下句の時間の流れを巧みに導いている。
4首目は自転車の歌。「スポーク」だけでそれを表現しているのが巧み。
6首目の上句は少しおしゃれな服というイメージなのだろうが、何となく『潮騒』を思い浮かべてしまった。
8首目は祖母の葬儀の場面。「舟」「右岸」「左岸」という比喩が美しい。
10首目は印象的な新年の歌。永井陽子にも通じる新鮮な発想だ。

帯に「はるかなるものへの希求」という言葉があるが、確かにどこか信仰とでも呼ぶべき心の方向性を感じる。
今後がますます楽しみな、期待できる歌人だ。

2014年9月15日、本阿弥書店、2000円。

posted by 松村正直 at 07:30| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月09日

千葉聡著 『飛び跳ねる教室』


横浜市立上菅田中学校に勤めた6年間のことを、短歌186首とエッセイで綴った本。

今年刊行された『今日の放課後、短歌部へ!』の前の時期の作品で、短歌とエッセイの組み合わせというスタイルも同じ。ただし、内容としては『今日の〜』の方がいい。『飛び跳ねる教室』には、ところどころドラマ的なクサさが感じられる。

少年はパラパラマンガのおしまいの絵になったように少女を見てた
「白い海みたいな空が見えました」一行だけの学級日誌
肉まんもアイスも買える晩春のコンビニ ついでにおでんも買おう

あとがきには「学校は、生徒一人ひとりをじっくり育てていける場所であってほしい。そして、あたたかい場所であってほしい。争いではなく、ささえ合いをめざす場所であってほしい」と書かれている。

中学生の息子を持つ親として、共感するところが多い本であった。

2010年9月30日、亜紀書房、1500円。

posted by 松村正直 at 16:46| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月05日

奥村晃作歌集 『造りの強い傘』


第14歌集。
2012年、13年の二年間の歌から450首を収めている。

熱湯の大鍋に足折り曲げて押し込む甲羅剥ぎたる蟹を
ももいろのもろ足ぎゅっと握りしめ鳩は空中の線に憩えり
廃炉まで四十年の原発は四十年の雇用生み出す
信号の〈緑の人〉は自らは歩かず人を歩き出させる
胸に抱く男(お)の子の手足四本が太くはみ出す母の胸から
巨大なる楯岩(たていわ)の一部崩落しなお落ちそうな岩石残る
春風は吹き渡れども白加賀の花びら散らず満開なれば
ラファエロの描く赤子のキリストは丸々と肥え、西洋人の顔
五大堂前にし立ちて写真撮る後ろに堂の屋根まで入れて
腐葉土となるべき落葉 都会ではそのほとんどが燃(も)されてしまう

奥村さんは自ら「ただごと歌」を提唱し、実践している方だが、その「ただごと歌」の中にも面白い歌とそうでない歌がある。それは、歌が単なる事実の報告に終っているか、そこに何か発見や表現の工夫があるか、ということによるのだろう。

2首目は「電線」と言わずに「空中の線」と言っているのがいい。
4首目は典型的な発見の歌。
5首目は「太くはみ出す」に工夫があり、ややデフォルメされた印象を受ける。
8首目は「西洋人の顔」が面白い。当り前のことを新たに見出す面白さ。
9首目は建物の前で写真を撮る時の構図がパッと思い浮かぶ

2014年9月26日、青磁社、2300円。

posted by 松村正直 at 07:37| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月20日

松村由利子著 『子育てをうたう』


挿画:井上文香。
「こどものとも年少版」の折り込みふろくに連載された文章に加筆修正をしてまとめたもの。

「授かる」「生まれる」「親になること」「寝かせる」「食べさせる」など、テーマごとに短歌を引いて鑑賞をしている。私の歌も5首引いていただいた。

夕食の分だけ重くなりし子のからだを高き椅子より降ろす
あめ、あめと子はつぶやいてこの雨を見ているだろう保育所の窓に
アルバムを子どもの写真で埋めていく限りない未来などもうなくて
「東京のおばあちゃん」などとわが母を呼ぶ寂しさの遠からず来る
ようやっと昼寝せる子のかたわらに残る虫食いだらけの時間

そう言えばそんなこともあったなあと、自分の歌を読んで懐かしく思い出す。

2014年9月20日、福音館書店、1300円。

posted by 松村正直 at 23:42| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月16日

阿木津英歌集 『黄鳥 1992〜2014』

第6歌集。1992年から1999年にかけて発表した作品を「あたかも画室に積み重ねたキャンバスの奥から引きだしてきて新たに筆を加え完成させていくかのように」(あとがき)推敲して、まとめた一冊。

白にごる湯をばつくりて膚傷む茄子のごとくにわが沈みたる
起き出でてしばらく坐る誰(た)が夢にわが分け入りて今朝ありにけむ
曇天はひらかむとしてみづうみに鴨の声たつ揺れのまにまに
水仙を一すぢの香の縒り出でてもの読むかうべ緊(し)めつつながる
あらはるるかたちにあればわがからだ泣き咽べるにまかせてをりつ
正月は来て立ちて見つはろばろと阿蘇の外山(そとやま)うすべにのいろ
背戸ごとの汲水場(くみづ)の段(きだ)に桶洗ひ菜を洗ひけむ言(こと)かはしつつ
吹き消すと炎ふくとき蠟燭の炎にちからありて波だつ
塵芥をさげて出で来て紅梅の枝につむ雪ゆびもて崩す
降るあめに枝よろこびてことごとく白ハナミズキかがよふ通り

タイトルの「黄鳥」は詩経の詩句から採られているが、コウライウグイスのことらしい。日本のウグイスと違って、鮮やかな黄色をしている。本の表紙にも田村一村の描いた「梨花に高麗鶯」の絵が使われている。全体に文語定型の力を感じさせる歌が多い。

1首目は入浴剤を溶かした風呂に入っているところ。
4首目は「縒り出でて」がいい。香りが煙のように見える感じがする。
5首目は飼い猫の死を詠んだ歌。ひらがなの多用が溢れ出る感情と合っている。
7首目は柳河(柳川)の光景だが、「けむ」という過去推量の助動詞の力を感じる。
9首目は朝のゴミ出しの場面。手ではなく「ゆびもて」としたところが繊細でいい。

2014年9月9日、砂子屋書房、3000円。

posted by 松村正直 at 07:22| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月31日

江戸雪歌集 『声を聞きたい』

2009年から2014年の作品を収めた第5歌集。

タイトルは「ここにあるただあるのみの真っ白の大皿いちまい声を聞きたい」から取られている。この歌は初出(「塔」2013年6月号)では、結句が「声がききたい」であった。

ネパールの銀の鋏に彫ってある草の紋様やわらかそうな
たわたわとまぶしい朱欒(ざぼん)こえあげて泣いた私はきのうのわたし
もういちど横顔を見て立ち上がるわれが去りゆくものであるから
対(むか)うときいつもあなたのさくら色の爪を見ていたどうしようもなく
少年のうすい胴体つつみたるTシャツにジョン・レノンほほえむ
前髪にからまってくる囀りに母音はなくてかろやかにゆく
横顔のむこうエノコログサが揺れまたおなじことたずねてしまう
あさがおの蔓あちこちにぶつかって夏にはいつも自転車なくす
カサブランカのひらきはじめた部屋のなか繋ぎ目のない時間を過ごす
カーテンを透かす光を見つめてる目覚めたことに気がつきながら

I部(2009年〜2011年)には一部文語が使われているが、だんだんとその数は減っていき、II部(2012年〜)になると、ほぼ使われなくなっている。今では完全な口語文体と言っていいだろう。

1首目は草だけでなく鋏まで「やわらかそうな」気がしてくるのが面白い。
3首目は別れの場面。下句に意志の強さを感じる。
4首目は少し俯いて視線をそらしている様子が「さくら色の爪」から伝わってくる。
6首目は「母音はなくて」が独特な表現。「ch」「t」「k」「s」「p」といった子音だけで鳴いているのだ。それが「前髪にからまってくる」とも合っている。
8首目は上句と下句のつながり方が面白い。「あちこちにぶつかって」が緩やかに下句を導いてくる。
10首目はベッドで目を覚まして、しばらくそのままでいる時の感じ。

2014年7月15日、七月堂、2500円。

posted by 松村正直 at 08:30| Comment(2) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月31日

『海号の歌』の続き

歌集を読んでいると、歌からいろいろと連想が広がっていくことがある。

ひかりたつ崖を飛びたる白ありきあはれ落ちずに空(くう)をただよふ

例えば、この歌を読んで思い出すのは、石垣りんの「崖」という詩。

(前略)
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)

それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。

玉砕の島であるサイパンの崖から飛び降りた女たちの姿だ。

十六歳の少女「むかしのわたしは」とうつむき語る秋の水辺に

この歌からは、今話題になっている佐世保の少女殺害事件のことを思ったりする。

そういう連想は短歌とは直接関係ないのであるが、純粋に作品を読むだけではなく、そういうことも含めて読んで、味わっていることが多い。


posted by 松村正直 at 01:01| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月30日

伊藤一彦歌集 『海号の歌』

1990年から95年の作品583首を収めた第6歌集。
タイトルの中の「海号」は作者が自転車に付けた名前であり、また地球のことも意味している。

1ページ4首組で193ページ。
けっこうなボリュームであるが、途中で飽きるようなことはなく、むしろ充実感が伝わってくる。とにかく付箋がたくさん付く歌集だ。

靴持たぬゆゑに歩けぬ向日葵はぐんぐん空へのぼるほかなし
言ひよどみ言はざるままに終ること多くなりたる父の微笑よ
母は男と家出でゆきし少年の日がな一日掌を洗ひゐる
愛しつつ棲むふるさとやあやまちてこぼしし蜜の卓上に輝(て)る
放たれし火のいきほひて近づけば嫁菜は嫁菜のことばに叫ぶ
紫陽花の花口にせしをさなごの夜はあぢさゐの子となり睡る
薔薇園に声をかぎりに泣きてゐるをさなごのためしづかなれ世は
遠つひと呼ぶか虚空にもの言へる赤トラクターの上の老人
たましひの脱(ぬ)けてはをらぬ蛇の衣(きぬ)しづかにそよぐ朝日射すまへ
あらし過ぎ三日の後を川上ゆ大青竹の泳ぎ来たりぬ
晩(く)れてゆく日本の秋に息絶えしケニア生れの老いたる麒麟
雛の日をはちじふの母の取り出でて飾りし人形七十五歳なり

宮崎の風土や学校のカウンセラーという仕事に関する歌が多くある。
40代から50代にかけての作者の充実ぶりと人生的な苦みが、どの歌からも感じられる。

1首目は初二句の強引な理由付けが面白い。
2首目は年老いた父の姿。「微笑」が何ともいえず寂しい。
3首目はカウンセラーとして接する少年を詠んだ歌だろう。
6首目は「あぢさゐの子となり」がいい。お伽噺のような味わい。
9首目は脱皮したばかりの抜け殻。身体は抜けても魂がまだ残っている。
11首目は「く」「く」「き」「き」「け」「き」というK音の響きが良い。
12首目はお母さんが5歳の時に買った雛人形なのだろう。人形も年を取るのだ。

1995年9月30日、雁書館、2800円。

posted by 松村正直 at 08:31| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月27日

『青昏抄』の続き

阪神淡路大震災で兄を亡くしたことは、この歌集に静かに影を落としている。

夕暮れの雲の映れる机には兄の写真が伏せられたまま
               楠誓英『青昏抄』

部屋の机に置かれている兄の写真。おそらく快活な笑顔の写真なのだろう。毎日見るのが忍びなくて、伏せたままにしてしまう。そこに、かえって亡き人を思う気持ちの深さが表われている。

ひそまりて在り経(ふ)る妻がいつよりか亡き子の写真裏返しおく
               高安国世『Vorfruhling』

楠の歌を読んで思い出したのは、高安国世のこの一首。3歳の長男を疫痢で亡くした後の歌である。子を亡くした妻の心の痛みとそれを思いやる作者の思いがよく伝わってくる。

楠の歌に出てくる写真を伏せたのも、本人なのか、あるいは母親や父親なのか。それによっても、歌の印象が変ってくる気がする。

posted by 松村正直 at 08:13| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月25日

楠誓英歌集 『青昏抄』

1983年生まれで「アララギ派」所属の作者の第1歌集。

丸まつた靴下入りの上靴がプールサイドにならんでゐたり
「コロもいつか死ぬんでせう」と吾が犬の頭撫でつつ言ひたる少女
「だまつてゐるとなんだかコワイ」と言はれたる私の顔がドアノブの上
金魚鉢をのぞく少女の眼球がガラス一杯に拡がりてゆく
遮断機の向かうの夕陽にじわじわと足が生えきて吾が父となる
腕と同じ数だけ腋窩はあるだらう千手観音に向かひゐるとき
カサカサと燕の死骸あらはれぬ夏休み明けの教室掃けば
池の底に深く沈める切り株の浮かばぬはうがよいと思へり
足音が足からずれて鳴り始む夜の校舎を一人ゆくとき
日の落ちて影のみの山に向かひ立ちこの世にゐない君を思へり

昨年「第1回現代短歌社賞」を受賞した300首をまとめたもの。
夕暮れや水のイメージが全体を包んでおり、「夢」「影」という言葉が頻出する。この世界とは別のもう一つの世界が、作者の背後には常に貼り付いているようだ。

1首目はよく見かける光景だが、あらためて歌に詠まれると面白い。
4首目は、丸い金魚鉢がレンズになって少女の目を大きく見せているところ。
5首目は「足が生えきて」がいい。徐々に焦点が合っていく感じ。
7首目、校舎の中に入り込んで出られなくなってしまったのだろうか。
8首目は、実景と忘れたい記憶のようなものを重ね合わせている歌。

作者は短歌だけでなく、茶道や書道もされているらしい。
これからどのように作品の幅を広げていくか、非常に楽しみである。

2014年7月2日、現代短歌社、2000円。

posted by 松村正直 at 13:52| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月17日

今野寿美歌集 『さくらのゆゑ』

第10歌集。

風邪がぬけるやうに終はりの数行を収めると言ふ現代詩人
丹沢の杉の林に十枚の羽のほかには遺さぬ死あり
ツガルさんは津軽からきて野毛山にふたこぶ休める三十五歳
子のズボンの裾のほつれをかがりゐる静かな時間がまだわれにある
ひとたびは冷えねば咲かぬ桜ゆゑ北からほころびそむる沖縄
横顔でなければならぬ瞑想の詩人もレンズの中の野鳥も
速報ののちおもむろに揺れ始め長く揺れたり為すなくて在り
顔あげて川と気づけり明るさは思はぬ方よりきてしづかなり
人肌を伝ふるやうに橋守を置けり鉄道橋梁史のなか
白耳義(ベルギー)も土耳古(トルコ)も耳をもつ国と明治日本は耳そばだてる

2首目は鳥の死骸(の痕跡)を詠んだもの。
3首目は「ふたこぶ」とあるのでラクダなのだろう。動物園の動物のネーミングはこんな感じ。
5首目、桜前線と言えば当り前のように南から北へと思うが、沖縄では反対なのだ。
8首目は電車などに乗っている場面だろうか。初・二句がうまい。
9首目は餘部鉄橋を詠んだ歌。鉄道橋梁という構造物を維持するために、かつては「橋守」がいたのである。灯台守のようなイメージが浮かぶ。

今回の歌集は、何か題材に基づいて詠まれた連作が多い。
それは、人名の多さにも表われている。

葛原妙子、鈴木牧之、(山崎)方代、(釈)迢空、油屋熊八、(与謝野)鉄幹、窪田通治(空穂)、山中智恵子、野田弘志、青木雨彦、キム・ヨナ、浅田真央、堀辰雄、バラク・オバマ、ベルディ、バレンボイム、河野裕子、(土屋)文明、(山村)暮鳥、坂本龍一、藤原龍一郎、澁澤龍彦、芥川竜之介、竹山広、(斎藤)茂吉、和嶋(勝利)、(在原)業平、プーチン、(石川)啄木、(萩原)朔太郎、(北原)白秋、(片柳)草生、(正岡)子規、陸羯南、(樋口)一葉、樹木希林、(与謝野)晶子、滝本賢太郎、カラシニコフ

こうした部分をどのように評価するかが、一つの問題となるだろう。

2014年7月26日、砂子屋書房、3000円。

posted by 松村正直 at 20:56| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月14日

蒔田さくら子歌集 『森見ゆる窓』

昭和40年に短歌新聞社より刊行された第2歌集の文庫化。
26歳で第1歌集『秋の椅子』を出して、この歌集が10年ぶりの第2歌集であった。新たに武下奈々子の解説が付いている。

雛芥子の花あかしあかし芥子畑にめまふほど疼くは若さかもしれぬ
イヤリング揺れつつ耳朶に触れて居り坂多き町にバスは入りて
育ち来し家の雰囲気それぞれに持てるさびしさを夫も知るらし
整然と足場組まれし工事場の深夜どこよりか水がしたたる
燿ひて青葉ゆたけき逢ひなれど人を容(い)るるは易くはあらず
命綱ひとりの男に握らせてためらはず海に入(い)りゆくか海女は
耳の凹凸きはやかに浮かぶ夜の車内 耳あることが不意に恥かし
女の首蛇のごとくに自在ならば男の嘘の表情も見えむ
たをやかにあふられて身のよろめけば歓びに似る春の突風
咲き初めていたましきまで花白き辛夷よ今日は汚(よご)れず了へよ

若々しい青春の歌が多い。自らの若さを誇るような、あるいは持て余すような歌。さらには相手との距離をどう取れば良いのか、どのように心を許せばよいのか迷う歌が目に付く。

1首目は巻頭の「芥子畑」にある一首。真赤に咲き乱れる雛芥子を前にして、圧倒されつつ心惹かれていく様子が描かれている。
2首目はイヤリングが耳に触れるのを感じている歌。自意識の強さが表れている。
5首目の「人を容るる」は、この歌集の一つのテーマともいうべき言葉。
7首目は名歌と言っていいだろう。「耳の凹凸」にかすかなエロスがある。
10首目は「汚れず」を「よごれず」と読ませているが、同時に「けがれず」の意味も浮かんでくる。「今日は」は「せめて今日一日は」といった思いであろう。

2014年3月10日、現代短歌社、700円。

posted by 松村正直 at 10:32| Comment(3) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする