2016年09月04日

加藤治郎著 『東海のうたびと』



全体が二部構成となっていて、前半は春日井建、荻原裕幸、小島ゆかり、野口あや子ら東海地方にゆかりの歌人31名について記した「東海のうたびと」、後半は名古屋のスポット37か所を訪ねて歌を詠んだ「吟遊の街」となっている。

前者は2015年6月から2016年1月まで「中日新聞」に連載したもの、後者は1999年4月から2000年3月まで「朝日新聞」名古屋本社版に連載したものである。

加藤治郎の文章は歯切れがよい。短い文を連ねてリズムを生み出していく。接続詞や接続助詞をあまり使わず、ポンポン畳みかけるように文が続けていく。

書き始めの部分にも工夫がある。

それは、一九八五年の夏だった。愛知県立大学のキャンパスである。ひとりの学生が、西田政史に声をかけた。(西田政史)
「岡野、うちへ来ないかい」
そう言ったのは、折口信夫であった。(岡野弘彦)

短い文章の冒頭から、読者をぐいっと引き付ける導入となっている。

短歌に関する箴言的な言葉が随所に盛り込まれているのも、本書の魅力の一つと言って良いだろう。

歌人には二つのタイプがある。日々の生活を詠う歌人。(・・・)もう一つのタイプは、新しい表現を求める歌人だ。
「するだろう」たった五音が短歌史を変えた。鮮やかだった。このインパクトは、この五十年間、短歌を志す者たちを惹きつけてきた。
歌人にとって最高の〈賞〉は、自作が多くの人々の愛誦歌になることではないだろうか。

どれもみな短い言葉で鮮やかに本質を切り取っていて、かっこいい。
少しかっこ良すぎる気もしないではないが。

2016年5月26日、中日新聞社、1200円。

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2016年09月01日

『鳥の見しもの』 のつづき

夕焼けの原料になる雲たちを見上げてゆけり大雨のあと
あけがたに目覚めてここはホテルだった青白い滝のようなカーテン
窓のした緑に輝(て)るを拾いたりうちがわだけが死ぬコガネムシ
きりきりと吊り上げらるる鋼材の或る高さより朝の陽を浴ぶ
無人なるひとときエスカレーターは黒き咀嚼をくりかえしつつ
オカリナのなかに眠れば小さな穴が星座のように見えるのだろう
後ろ歩きしつつ畦(あぜ)塗る男ありいちめんの水が暮れゆく夕べ
亡き人の本に巻かれている帯がつばきの花のいくつか隠す
扇風機の羽透けている向こうには亡き祖母が居て麦茶をはこぶ
血に砂は固まりやすくベッドには砂人形のごときが置かる

1首目、「夕焼けの原料」がおもしろい。雲があるからこそ夕焼けが映える。
2首目、目覚めた時の風景がいつもとは違うので、一瞬あれっ?と思うのだ。
3首目、「うちがわだけが死ぬ」が発見。外観はまるで生きているみたい。
4首目、朝日が低い角度から射している。光と影のコントラスト。
5首目、段差が次々と飲み込まれていく様子は、言われてみればなるほど「黒き咀嚼」である。
6首目、メルヘンのように美しい歌。ふだん外側からしか見ることのない穴の内側を想像している。
7首目、「いちめんの田」ではなく「いちめんの水」。一字の違いで歌が生きる。
8首目、表紙に描かれている椿の花。隠れているということが、死者のイメージともつながる。
9首目、回転する扇風機の向こう側に、懐かしい昔の光景が浮かぶ。
10首目、砂漠での戦争をイメージした連作の一首。生々しくて怖い。

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2016年08月31日

吉川宏志歌集 『鳥の見しもの』

2012年から2015年までの作品433首を収めた第7歌集。

原発事故、特定秘密保護法、集団的自衛権、沖縄の基地問題など、時代の変化に危機感を持って積極的に行動し、歌にも詠んでいる。

磔刑の縦長の絵を覆いたるガラスに顔はしろく映りぬ
陽と月の交合のあと目くらみてどくだみの咲く路をあゆめり
ヘッドライトに照らし出されて赤黒く立ち上がりたり曼珠沙華の花
読み終えし本は水面(みなも)のしずけさのもうすこしだけ机に置かむ
石段の深きところは濡らさずに雨は過ぎたり夕山の雨
春雨は広場のなかに吹き入りて吹奏楽の金銀ぬらす
ほほえみが顔となりつつ原発の案内をする若き女人は
ときどきは白き狐の貌をするむすめが千円くださいと言う
よく見てほしいと言う人がそばにいて泥の覆える家跡を見る
破られてまたつながれて展示さるる手紙に淡き恋は残りぬ

まずは前半から。

1首目、「縦長の」がいい。キリストの磔刑図は構図的にやはり縦長になることが多いのだろう。
2首目は日蝕の歌。空を見上げていた目を転じて、薄暗い路地を歩いて行く。
3首目、花自体はもちろん動かないのだが、ライトに照らされてあたかも立ち上がるように目に入ってくる。
4首目、読書を終えてしばらく余韻にひたりたい気分。
5首目、石段の段の奥の方は濡れなかったのだ。夕方にさっと降った雨の感じがよく出ている。
6首目、普通だったら「楽器をぬらす」とするところ。「金銀」としたことでフルートやトロンボーンのきらめきが見えてくる。
7首目、原発のPR館のようなところだろう。顔が先にあるのではなく、ほほえみが先にあるのだ。
8首目、男親にとっての娘は謎に満ちている。民話の一場面のようでもある。
9首目、東日本大震災の津波被害の跡。そばにいるのはおそらく地元の方。しっかり見なくてはいけないという苦しさも感じる。
10首目、長塚節の生家を訪れた際の歌。一度は破り捨てた手紙だったのだろう。背後の物語を感じさせる。

2016年8月1日、本阿弥書店、2700円。

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2016年08月14日

小紋潤歌集 『蜜の大地』

元・雁書館の編集者で「心の花」の歌人である小紋さんの第1歌集。
1971年から2007年までの作品420首を収めている。

西海の旅籠屋に聴く春潮の満ちくるまでの力を思ふ
赤い小さな椿が咲いて春となる気配 真昼のしづけさにゐる
谷に棲む人の習俗、風俗の翳りさへ明るすぎる午後二時
多摩川を今朝も渡りて楽しまぬことのみおほくなる壮年や
青北風にこころすさびてゆくひと日ねもころに鳴く夜の邯鄲
神神の宿りたまへる大樟の真下にいこふ乳母車あり
ゆふぐれは今日も来たりて一本の煙草のやうな我であるのか
みづからの光の中に冴え返る星あり冬の槻の真上に
卓上に金のミモザは飾られて昼を眠れる猫とをさな子
見下ろせばあを篁のゆくらかに動くと見えてしづまりゆきぬ

1首目、海に近い旅館。潮の音に春の生命力を感じている。
4首目は電車で多摩川を渡る通勤風景。壮年の苦みのこもる歌だ。
5首目、「青北風」(あおぎた)は初秋に吹く北風。ひとり秋の虫の音を聴いている。
6首目、神社の御神木か。「大楠」と「乳母車」の取り合わせがいい。
7首目、煙草が灰になって次第に短くなっていくような心細さ。
10首目は歌集最後の一首。ゆったりとした調べが心地よい。

全体に季節や自然の捉え方が的確で、そこに心情を滲ませていくのがうまい。繊細でありつつ骨太でもある。

小紋さんには昨年7月に長崎で開かれた現代歌人集会春季大会の二次会でお会いした。病気療養中とのことであったが、無事に歌集が刊行されて良かった。

2016年8月7日、ながらみ書房、2500円。

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2016年07月27日

永田和宏著 『あの午後の椅子』


「PHPくらしラク〜る」2015年1月〜12月号連載の「風通しのいい窓」、日本経済新聞2015年1月7日〜6月24日掲載の「あすへの話題」など、全69編を収めたエッセイ集。

河野裕子さん、家族、生い立ち、歌仙、本歌取り、サイエンス、きのこ・・・など、様々な話題が出てくるが、全体に統一感や流れがあるように編集されている。

このところの永田さんの文章の特徴として、「思うものである」「思わざるを得ないのである」「私は・・・する人間である」「私は・・・するものである」といった、文末に重みをつける(もったいぶった?)言い回しがあるように感じた。

東大路通りにはプラタナスの並木がある。このプラタナスにきのこが出ることは、ほとんどの人が知らないだろう。春秋二度、ヤナギマツタケという歯ごたえのしっかりした美味なきのこが出るのである。

永田さんのきのこ好きは有名だが、このヤナギマツタケの話は初めて知った。ヤナギマツタケと言えば、最近生協やスーパーでも売られていて、わが家でも大人気のきのこである。あれが、プラタナスの根元やこぶから生えているとは驚きだ。今度採りに行ってこようかな。

2016年7月10日、白水社、2300円。

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2016年07月22日

虫武一俊歌集 『羽虫群』


新鋭短歌シリーズ26。

1981年生まれの作者の第1歌集。
2008年から2015年までの作品308首を収めている。

ドーナツ化現象のそのドーナツのぱさぱさとしたところに暮らす
ああここも袋小路だ爪のなかに入った土のようにしめって
よれよれのシャツを着てきてその日じゅうよれよれのシャツのひとと言われる
マネキンの首から上を棒につけ田んぼに挿している老母たち
いつも行くハローワークの職員の笑顔のなかに〈みほん〉の印字
雨という命令形に濡れていく桜通りの待ち人として
思いきってあなたの夢に出たけれどそこでもななめ向かいにすわる
ににんがし、にさんがろくと春の日の一段飛ばしでのぼる階段
目撃者を募集している看板の凹凸に沿い流れる光
ゆきのひかりもみずのひかりであることの、きさらぎに目をほそめみている

1首目、大都市圏の郊外の暮らしの様子を「ぱさぱさ」で表している。
3首目、穂村弘の「ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー」を思い出す。穂村の歌には暴力性があるが、虫武の歌はひたすら受身である。
4首目、案山子もこうなふうに詠まれると怖い。
5首目、書類の記入例などによく印字されている〈みほん〉。ハローワークの明るく無機質な雰囲気が出ている。
6首目、「雨」という言葉は、言われてみれば確かに「あめ!」という命令形みたいだ。「書け!」「立て!」「やれ!」のように。
7首目、夢の中ならせめて正面に座りたいところ。でも、それができない。
9首目、「募集している」がユニーク。街で時々見かける看板が、別物のように感じられる。

2016年6月20日、書肆侃侃房、1700円。

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2016年07月13日

大井学歌集 『サンクチュアリ』


しどけなく電車に眠る少年の微かにひらくくちびる憎し
はるのみず首都の蛇口にのむときを北国の雪たりしみず鳴る
柔らかくかつ棘だちてあることの職場のすみの亀の子たわし
海底の静もりに生きし白蝶貝楽器のいちぶとなりてうたえり
真夜中のコンビニでコピーとるわれのコピーが窓からわれをみており
事務机ひとつ空きたり「一身上の都合」といえる一行ののち
しゃがむという女性の動詞はなにらの花の白きにすいよせられて
辞表を出す部下の伏目を見ておりぬ「驚く上司」という役目にて
このはなに「紫雲英」の文字をあたえたるひとのいのりよいちめんに咲く
さくはなとはなとのあわい空間を咲かせてしろきかすみそうたつ

「かりん」所属の作者の第1歌集。

1首目、自分が失ってしまった少年性に対する憧れと憎しみ。
3首目、「亀の子たわし」に職場で働く人の心を重ね合わせている。
4首目、サックスの指を当てるキーボタンが白蝶貝なのだろう。「海底」と「楽器」の組み合わせに広がりを感じる。
5首目、夜のコンビニの窓に映った自分の姿。面白い切り取り方だ。
8首目、内心それほど驚いてはいないのだ。部下もまた「伏目の部下」を演じているのかもしれない。
10首目、花束の歌と読む。かすみ草は花束のボリュームアップに欠かせない。

2016年6月19日、角川文化振興財団、2600円。

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2016年07月07日

時田則雄著 『陽を翔るトラクター』


副題は「農文一体」。

「文化連情報」「読売新聞」「十勝毎日新聞」に連載されたエッセイをまとめた本。北海道で農業と短歌にたずさわる生活のあれこれを、自作の歌をまじえつつ記している。

今年は長芋を二・五ヘクタール作付けするが、その種子の量は十二トンだ。
私の本職は百姓だ。耕作面積は約三十三ヘクタール。
私のヤマの内訳はカラマツの人工林が十五ヘクタール。天然林は十ヘクタール。

こんなスケールの大きな話がぽんぽん出てくる。

日々の農作業の話に始まって、農家数の減少、食糧自給率の低下、TPPなど、日本の農業をめぐる問題についても筆をふるう。

雪を食へばしらゆき姫になるといふわが嘘を聴く耳やはらかし
獣医師のおまへと語る北方論樹はいつぽんでなければならぬ
離農せしおまへの家をくべながら冬越す窓に花咲かせをり

エネルギッシュにひたすら前へ突き進む日々。その中にあって、作者は跡取りとも期待した娘婿を30歳という若さで失う。そのことを記した文章は、何とも胸に迫るものであった。

2016年5月25日、角川文化振興財団、1600円。

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2016年06月25日

窪田空穂の長歌

窪田空穂は短歌だけでなく数多くの長歌を詠んだことで知られている。
第10歌集『鏡葉』にも38首の長歌があり、これがなかなかいい。

  国民生活
九つのわが女(め)の童(わらは)、その母に語るをきけば、第一に尊きものは、かしこしや天皇陛下、第二には神蔵(かみくら)校長、第三は亀岡先生、第四はといひたゆたひつ、護国寺の交番の巡査、第五には我家(わぎへ)の父か、何とはなけれど。

娘が尊敬する人の順番で5番目だった作者。
3番まではともかく、「交番の巡査」に負けたのはつらい。

  素朴なるよろこび
正月の三(み)日といふ今日(けふ)、三人子(みたりご)を連れて家いで、神楽坂(かぐらざか)の洋食屋にて、いささかの物を食はしぬ、十八となれる兄の子、大人(おとな)びてフオークを執れば、八つとなれる末(をと)の暴(あば)れ子、取り澄まし顔よごし食ひ、十三となれる中の子、少女(をとめ)さびナイフ扱ふ、さりげなくそを見つつ食ふ、この肉の味のうまさよ、うまきやと問へばうなづく、三人子(みたりご)におのづと笑まれ、マチ摺(す)りてつくる煙草(たばこ)の、ほのかにも口にしかをる、いざ行きてまじりはすべし、今日(けふ)の大路(おほぢ)に。

お正月ということで贅沢をして家族で外食をした場面。
難しい言葉はどこにもなく、幸せな気分が溢れている。
大正という時代の雰囲気も感じられる内容だろう。

この歌に出てくる「兄の子」は章一郎、「末の子」は茂二郎。「寝かされてゐる弟に童話読みわかるやときく読みさして兄」という歌もあるように、年齢は十歳近く離れているが仲の良い兄弟であったようだ。

空穂の代表的な長歌「捕虜の死」を読む際には、こうした歌のことも頭において読むのが良いのだろう。こんな幸せな時間もあったのである。

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2016年06月24日

三井修歌集 『汽水域』

2005年から2013年までの作品506首を収めた第9歌集。

継子(ままこ)なる我ら四人が引き取らぬ母なり老いて家を去りたり
縁(えにし)ありて母となりたる人のまだ熱(ほめ)く胸骨を箸もてつまむ
絶筆にあれども読めぬ 麻痺の手に父が書きたる葉書一葉
古九谷の皿の中ゆく赤き雉三百年経てまだ皿を出ず
スモーキングエリアの中のうすけむり透かして耳のいくひらが見ゆ
黙祷をするは人間のみにして蟬は鳴き継ぐその一分を
夜のうちに遥かな海を航海し夜明けに庭に戻る紫陽花
工事場の囲いに細き隙間あり子供と犬は必ず覗く
背中より腕より椅子より幼な子はずり落ちやすし秋の一日(ひとひ)を
流れゆく霧にわが身は冷えながら屋嶋の城の石垣に寄る

1首目、ふるさとの能登に暮らす継母。前歌集『海図』にも、「抱(いだ)かれしことなき人の細き腕取りて階段ゆっくり下る」という印象的な歌があった。
2首目、その母が亡くなった時の歌。「縁ありて母となりたる」が、母と子の複雑な関係や思いを伝えている。「縁」を「えん」ではなく「えにし」と読ませているのもいい。
4首目、三百年前の皿に描かれた雉の絵。永遠にその中から出られない。
6首目、黙祷の間、蝉の鳴き声がひときわ高く響いたのだろう。
7首目、何とも美しい発想の歌である。夜中に見たら本当に庭にいなかったりして。
9首目、孫を詠んだ歌。「ずり落ちやすし」というのが一つの発見である。
10首目、作者は石垣が好きであるらしい。竹田城跡の石垣の歌もあった。

もしかして我でありたるかも知れず砂漠で頸を刎ねられたるは
さはあれど刎ねられたるはわが頸にあらねば朝の味噌汁啜る

2015年1月にイスラム国によって日本人の人質2名が殺害された事件を詠んだ歌。作者は仕事で中東に長く生活をしたことがあり、他人ごとではなかったのだろう。2首が対になっていて、1首目だけならよくあるパターンの歌なのだが、2首目があることで深みが生まれている。

2016年5月25日、ながらみ書房、2800円。

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2016年06月21日

森垣岳歌集 『遺伝子の舟』

第2回現代短歌社賞(300首)を受賞した作者の第1歌集。

一秒前の姿を示す月面の光に揺らぐビーカーの水
採卵鶏のケージのごとし教師らが職員室に昼飯を喰う
五限目のチャイムが鳴って作業着の少女の群れが日を浴びている
魚屋の魚はいまだ新鮮で商う人が年を経ている
まひるまの家に白菜きざむ音 見知らぬ女が母だと名乗る
キッチンにセルリの青き匂いして君を待つ夜にスープ煮ており
公園の遊具の一つの新幹線動くことなく春雨のなか
アントシアン色素を含む葉を刻み夕餉の皿に乗せて並べつ
山峡を列車とろとろ進み行き化粧を直す女を運ぶ
鳥類に産まれることもできたのだ我が子の背なの産毛に触れる

小題がユニークで、「栽培実習」「生物工学」「農業教育概論」「解剖学」「分子生物学」・・・などとなっている。これは作者が農業高校の教師をしているためでもあるのだが、別にすべてが職場詠というわけではなく、こういう題で統一してみたということなのだろう。

1首目、月と地球の距離は約38万キロ。光の速さは秒速約30万キロなので、私たちが見ている月は「一秒前」の姿なのだ。
4首目、扱う魚は常に新鮮であるけれど、店主は齢を取っていく。発想がユニーク。
6首目、「セルリ」がいい。「セロリ」と書くよりオシャレな感じ。
8首目、赤紫蘇だろうか。こんなふうに日常生活の場面にも科学的な知識がしばしば顔を出す。
10首目、進化の歴史をたどるようでもあるし、人間に生まれてしまった悲しみを見ているようでもある。

後半になると、父親の再婚、自らの結婚、子どもの誕生といった歌が中心となってくる。特に父親との葛藤は、作者にとって大きなテーマと言って良いだろう。

2016年3月30日、現代短歌社、2000円。

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2016年06月17日

加古陽治著 『一首のものがたり』


副題は「短歌(うた)が生まれるとき」。

2013年2月から2015年2月まで、東京新聞、中日新聞、北陸中日新聞の夕刊に連載された「一首のものがたり」を加筆、修正してまとめたもの。著者は東京新聞文化部長で、「心の花」に所属する歌人でもある。

小野茂樹、筑波杏明、菱川善夫、俵万智、鶴見和子など27名の歌人の一首を取り上げて、その背後にある出来事や時代状況などを詳しく解き明かしている。

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで
              仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』

中でも1980年代から90年代にかけて活躍した仙波についての物語は、その悲しい最期とも相まって印象深い。入院中の日記に記された言葉の数々が、せつなく胸に響いてくる。

2016年4月27日、東京新聞、1300円。

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2016年06月13日

大口玲子著 『神のパズル』

著者 : 大口玲子
すいれん舎
発売日 : 2016-04-08

思いつくままに感想をいくつか。

国境を越えて放射性物質がやってくる冬、耳をすませば
学校で習わぬ単位、シーベルト、ラド、レム、グレイ、キュリー、レントゲン
流れざる北上川の水のなか燃料棒は神のごと立つ
原発から二十キロ弱のわが家かな帰りきて灯を消して眠りにつけり

2004年発表の「神のパズル」100首より。
福島の原発事故の7年前に詠まれた作品である。
いま改めて読み直すと、その先見性に驚かされる。

放射能汚染のリスクについて、自分の中にある基準をうまく説明できなくて、両親とこの問題について話すことはありません。私がいちばん深刻に考えている問題について、夫や両親とさえ対話することが難しい状況にあると思っています。

身近な家族の間にも亀裂が入ってしまう悲しさ。
震災と原発以降に広まった分断が、こういう場にも現れているのだ。

捨つべしとある日は思ふ われが見捨てられるかもしれない東北を
                 『東北』

第2歌集『東北』(2002年)の中に、こんな歌を見つけてハッとした。

許可車両のみの高速道路からわれが捨ててゆく東北を見つ
              『トリサンナイタ』

震災後に話題になったこの一首の「捨ててゆく」という厳しい言い方の背後には、先の歌が響いているのかもしれない。

あとがきの日付は「二〇一六年二月二十九日」。
竹山広の誕生日である。

2016年4月8日、すいれん舎、1400円。

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2016年06月01日

高野公彦歌集 『無縫の海』


副題は「短歌日記2015」。
2015年1月1日から12月31日まで、ふらんす堂のホームページに発表された短歌365首を収めた第16歌集。

どの婦人も耳が一つで口二つありて姦し昼の車内は
一人なる夕餉を終へて俎板の使はなかつた裏も洗へり
漱石といふ宝石がてのひらに在る思ひして「文鳥」読めり
ケースワーカー、ケアマネージャー、ホームヘルパー会ふこともなし妻逝きてより
桜島山体膨張説あれどふもとに実るデコポンうまし
見ることのありて触れたることのなき虹、さるをがせ、白き耳たぶ
女人らの髪はたはたす地下鉄がトンネルの丸き空気押し来て
国々に酒(しゆ)と肴(かう)ありて白ワイン旨からしむるにしんのマリネ
三十で被爆し〈原爆ドーム〉として立ち続け今年百歳の翁(をう)
富有柿手に持ちがたきほど熟れて頽(くづ)るるを口で啜りつつ食ふ

1首目、相手の話を聞くよりも自分が喋る方が優先。
2首目、「裏も」がいい。ここに暮らしの手触りがある。表だけ洗ったのでは歌にならない。
4首目、以前は頻繁に家にやって来た人たち。親しい人のようにも感じたのだろうが、それはあくまで仕事の上での付き合いであったのだ。
6首目は下句に挙げる三つの順番がいい。「さるをがせ」は木の枝から垂れ下がる地衣類。
7首目、地下鉄のホームで見た光景だろう。「丸き空気」がいい。空気砲みたいだ。
9首目、元は広島県産業奨励館であった建物。擬人化して詠まれることで、建物の経てきた歴史が身近に感じられる。
10首目、ウ段の音がよく響く一首。特に下句は15音のうち実に11音がウ段である。

作者の嫌いな鵯は今回も何度か登場する。そして、それにもまして多いのが「スマホ」の歌。特に歩きスマホがお嫌いなようだ。

ついには「スマホ」を「須藤真帆」と擬人化して、

平成も四半世紀を過ぎたぞな国ぢゆう須藤真帆が行くぞな

などと詠んでいる。
ここまで行くと、怒っているというよりも、むしろユーモラスである。

2016年5月20日、ふらんす堂、2000円。

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2016年05月31日

土岐善麿著 『啄木追懐』

このところ啄木関係の本を少しずつ読んでいる。
いろいろと知らなかったことがわかって面白い。

例えば、この本には大正8年から9年に新潮社から刊行された『啄木全集』全3巻に、善麿が書いた凡例が収められている。その中に

一、故人の日記は多年に亘りて堆(うづたか)く、記述細大を洩さず、頗る価値多き資料なりしも、その歿後、夫人節子また病を獲(え)、遂に日記の全部を焼却して今影を止めず。その一部をもこの全集に収むる能はざるを遺憾とす。

とある。ドナルド・キーンが啄木作品の中で最も高く評価する「日記」は、この時点では焼却されたものと思われていたのだ。

もともと啄木は、日記は焼却するようにとの遺言を残していた。それが様々な経緯を経て残され、公開されるに至ったのである。そこには多くの関係者の尽力や争いがあったらしい。
http://www.shahyo.com/mokuroku/culture/bungei/ISBN978-4-7845-1910-1.php

啄木関連の本は、非常に数が多い。
自分が関心を持っている部分を中心に少しづつ読んでいこうと思う。

1932年4月10日、改造社、1円80銭。

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2016年05月25日

ドナルド・キーン著 『石川啄木』


今年生誕130年を迎えた石川啄木の評伝。
全375ページ。角地幸男訳。
初出は「新潮」2014年6月号〜12月号、2015年2月号〜10月号。

特に新しい事実が示されているわけではないが、啄木の生涯を丁寧に描き出している。啄木の専門家とは違う視野の広さも魅力の一つだろう。

子規と違って、啄木は明らかに現代歌人だった。何が歌人を現代的にするかを定義することは難しい。しかし啄木の書いた作品のどれ一つを取ってみても、子規やそれ以前の日本の歌人とは違う世界に啄木が属していたことを明らかにしている。
啄木の成熟を示す見事な短歌を称賛する人々は、「ロマンティック」時代の優雅な装飾が施された啄木の詩には、ほとんど目をくれようともしない。
短歌は啄木に初期の文学的興味を蘇らせ、ついには散文より遥かに大きな名声をもたらすことになる。しかし、啄木に幸福をもたらしたわけではなかった。

そして、著者が啄木作品のなかで最も評価するのは、詩でも短歌でも小説でもなく、意外なことに「日記」である。

啄木は、千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ。日記を単に天候を書き留めたり日々の出来事を記録するものとしてでなく、自分の知的かつ感情的生活の「自伝」として使ったのだった。

こうした見方は、日本文学研究者である著者ならではのものかもしれない。新鮮な指摘であった。

2016年2月25日、新潮社、2200円。

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2016年05月08日

三枝昂之歌集 『それぞれの桜』

270首を収めた第11歌集。
第1部は「現代短歌」の20首×8回の連載、第2部は「りとむ」に発表した作品がもとになっている。

まだ細き白樺の木が立っている創刊号の表紙の野辺に
雨音を聴きながら食むどら焼きは三時に半ときほどを遅れて
耳だけが酔いの遠くで聞いている夕べの秘密はどんな秘密か
切株となりて学びを支えたる大欅あり故郷の庭に
メールにてわれを去りたる一人あり静かな静かな過ぎゆきである
妻のあるおのこ夫のあるおみな青梅ふとる皐月闇なり
違うところへ行ってしまった 雪のようにわれをさいなむ遠き声あり
「労働者・学生・市民を結集し」まず定型から抜け出よ言葉
アカシヤの蜜をすくいて含みたり妻と二人のあしたの卓に
遠き日のブリュッケという同人誌二年はもたぬ若さであった

「清春白樺美術館」(山梨)、「摩文仁の丘」(沖縄)、「干潟よか公園」(佐賀)、「ホキ美術館」(千葉)、「無言館」(長野)、「茂吉の里」(山形)、「大隈講堂」(東京)、「山梨美術館」(山梨)、「石下」(茨城県)など、旅行や用事で出かけた場所に材を取った歌が多い。

1首目、1910(明治43)年の「白樺」創刊号。上句が最初は実景のように感じられる語順がおもしろい。雑誌を創刊した人々の志は今も生き続けているというニュアンスもある。
2首目、おやつと言えば一般的には三時であるが、この歌では三時半。その遅れと雨の日の気分とが合っている。
5首目、「メールにて」が何とも寂しい。最後に会うこともなければ、手紙で伝えられたのでもないのだ。
6首目、二人の関係をあれこれ想像できるが、特に深読みしなくても雰囲気だけで十分に味わえる歌だ。
8首目、アジ演説やビラなどでよく使われる言い回し。こうした言葉は、1960年代や70年代ならともかく、今ではもう人々の心に届かない。
10首目、「ブリュッケ」はドイツ語で「橋」。同人誌がたいてい短命に終わるのは、それが若さそのものだからなのだろう。

2016年4月15日、現代短歌社、2500円。

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2016年04月23日

『斎藤茂吉 異形の短歌』 の続き

著者の歌の読み方は、テキスト重視である。

解読上肝要なのは、この厳粛感がどこから来るものなのか、テキストに沿って見極めることです。原因を作者の感動の深さだの真率な態度だのに帰して事足れりとするのは、まともな解読とはいえません。

これは多くの歌人にとって耳の痛い言葉ではないだろうか。何しろ、歌集の書評などを読むと、この手の批評をいくらでも目にするのが現状だ。

もっとも、著者の主張は歌に書かれた一語一語を丁寧に読んでいこうというものであって、いわゆる「テクスト論」とは少し違う。それは

欧米の文学理論に精通した人たちは、“text”に由来する外来語を「テクスト」と表記したがる傾向にあります。私が大学生のころにはもうそうなっていましたが、困った風潮ではないでしょうか。原語は同じなのに、〈教科書・読本〉には昔ながらの「テキスト」をあてがい、〈ことばの織物〉という高級な概念は「テクスト」と呼んで差別化を図る――知的特権階級の策謀以外の何物でもないと思うのです。

という皮肉によく表れている。
作者の丁寧な読みを、例えば「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」という著名な歌について見てみよう。

「死に近き」は「死に」つまり〈死ぬこと〉が近いということ。「死」に近いのではありません。
母に添寝の」は〈母に添寝する心地が〉の意と解されますが、「〜に」という句は連用修飾句となるはずなのに、これを名詞「添寝」で受けたのは文法上破格です。
上二句/sini-tikaki-hahani-soineno/には子音/s/と母音/i/がちりばめられていて、それらが第三句の/sinsinto/に引き取られ、互いに共鳴する関係になっています。
「遠田」は作者の造語かもしれません(『日本国語大辞典』には「遠くにある田」として、用例にはこの歌が挙げてあります)。

実に細やかで的確な分析と言っていいだろう。
これだけ丁寧な読みをする人は、歌人でも少ないのではないだろうか。

著者がテキスト重視で歌を読むのは、「伝統」や「規範」「道徳」「ナショナリズム」といったものを纏いつかせることなく、純粋に短歌そのものを味わうためなのだ。

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2016年04月22日

品田悦一著 『斎藤茂吉 異形の短歌』


「学校で習った範囲でしか茂吉の歌を知らないというのは、およそ衣食に事欠かない人間が置かれうる限りでは、相当不幸な境遇です」と断言する著者が、茂吉の作詩法を解き明かし、代表作「死にたまふ母」を独自の視点から読み直した本。

従来の説や先入観にとらわれることなく、著者は歯切れの良い文章で自らの説や歌の読みを語っていく。

例えば「写生」について。

「写生」は「字面にあらわれただけのもの」などではありません。現実の事物・事象を見慣れないものに変えてしまう技法――少なくともそういう可能性を潜在的に有した技法なのです。
現実を直写したはずの表現が現実を凌駕してしまう逆説(・・・)茂吉にとってはそこにこそ写生の醍醐味があったのだと思います。

茂吉にとっての写生とは単なるスケッチではなく、現実を異化するものであったのだ。

また、和歌においては「主人公を取り巻く状況は題が指示してくれていた」のに対して、近代短歌ではそれが欠けていることを指摘したうえで、

そこに、近代短歌が自己表白の文芸として展開せざるをえなかったもっとも大きな原因があるはずなのです。この件は従来、「近代的自我の目覚め」という点から説明されてきた経緯がありますが(・・・)

と指摘している部分など、まさに慧眼と言って良いだろう。
「死にたまふ母」の読解においても、印象的な部分が多い。

白ふぢの垂花(たりはな)ちればしみじみと今はその実(み)の見え
そめしかも     (其の一、2首目)
ふるさとのわぎへの里にかへり来て白ふぢの花ひでて食ひけり
            (其の四、5首目)

の二首を踏まえて、著者は

東京ではとっくに散ってしまった藤が、郷里ではまだ咲き始めたばかりなのでした。「其の一」の冒頭から読み進めてきた読者に、気候のずれが自然に了解されるようになっています。

と鑑賞する。
実に鋭い分析だと思う。単に時系列に沿って並んでいるだけではない連作の組み立ての妙を味わうことができる。

2014年2月25日、新潮選書、1300円。

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2016年04月17日

『森岡貞香の秀歌』 の続き

引用されていた歌の中から、特に印象に残ったものを。

薄氷の赤かりければそこにをる金魚を見たり胸びれふるふ
                『白蛾』
ぬかるみは踏み場なきまで足跡がうごめきてをりきのふも今日
(けふ)も           『未知』
今日もむかし夏のゆふべに倒れゐる空罐に雨かがやきてふる
                『珊瑚數珠』
新萌の欅木立にカ音もて入りこむものが鴉にてある
                『黛樹』
ゆふかたにかけて久しく煮こみゐる大き魚はかたち没せり
                『黛樹』
十三夜の月さし入りて椎の實のころがる空池(からいけ)のなかの
あかるし            『百乳文』
昨(きそ)ひと夜ゆたんぽ抱けば追熟といふべくわれのやはらかに
ある              『夏至』
朝光(あさかげ)のひろびろしきに昨(きぞ)の夜のつきかげありし
あたりを掃きぬ       『敷妙』
覆はれて見えずなりゐる川なればここは呑川といひて道踏む
                『九夜八日』
薔薇のつる雪の重みに下りゐしなほくだりこむと椅子にゐておもふ
                『九夜八日』

こうして見ると、「きのふ」「きぞ」「今日」などの時間を指す言葉、「そこ」「ここ」などの場所を指す言葉が、不思議な効果を生み出しているのがわかる。

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2016年04月16日

花山多佳子著 『森岡貞香の秀歌』


森岡貞香の全11冊の歌集から歌を引き鑑賞をほどこしたもの。
「短歌現代」2009年8月号〜2011年12月号の連載した文章を元にまとめた一冊である。

定型を所与のものでなく、一首一首ことばを動かすことでかたちをつくっていく森岡さんの歌には一首一首付き合いたい。

と序にあるように、一首ずつの丁寧な鑑賞の光る内容となっている。
例えば

ゆきずりに赤き電話が空(あ)きながらわれ近づかぬとき戀ひてゐつ

の鑑賞の中で「自分がそこに近づかない、ということによって恋う気持を強く意識する」「近づかない、という身体の在りようによって、思いが発見されているのである」と書いているところや、

戸のすきより烈しくみえてふる雪は一隊還らざる時間のごとく

について「「戸のすきより見えて烈しくふる雪は」でなく「戸のすきより烈しくみえてふる雪は」という語順である。自分の体験した時間がそこに烈しく見えているのである」と述べているところなど、新鮮な視点であり納得させられる。

こうした一首一首の丁寧な鑑賞の積み重ねの中から、著者は森岡貞香の歌の特徴をいくつも見出していく。

森岡には心理や自意識をまとまったものとして整理、叙述する歌はほとんどない。
「考へもなく」とか「ゆゑんもなく」とかあえて挿入するのが森岡流である。
移動など動作の意識を強く出すのは森岡の特徴の一つであり、叙述にとどまらないリアルさを付加するのである。
同じ場所の異なる季節の表情に時間の推移を見るのが、森岡の好みなのである。

森岡貞香の歌の魅力がじわじわと迫ってきて、森岡の歌がもっと読みたくなる本である。

2015年12月10日、砂子屋書房、2000円。

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2016年04月10日

渡辺松男歌集 『雨(ふ)る』


現代歌人シリーズ11。2002年から十年余り間に「かりん」に発表した作品から457首を収めた第9歌集。

調べてみると第6歌集『自転車の籠の豚』と第8歌集『きなげつの魚』は総合誌等に発表した作品、第7歌集『蝶』は未発表作ということで、長らく「かりん」の歌は収められていなかったのだ。

そこに揺れながらそこにはなきものを遊行柳と言ひてかなしむ
まんじゆ沙華馬力をあげて咲きにけりたつたいつかい死なば亡きひと
死後の永さをおもひはじめてゐるわれはまいにち桜はらはらとちる
ひとをつよくおもふとき気球うかびたりつよくみあげてをればおちない
黒煙を鴉と気づきたるときに鴉の多さに黒煙のきゆ
防犯用カメラは空気をうつしゐて空気にうごくすずかけのかげ
まひるまをなにできるなきかなしさは鰺のひらきのうへを雲ゆく
喰ふ子規のあさましさこそいとしけれくひてくひてくひてくひてすなはち死にき
トマトよく熟れたるにゆびくひこみてぬけざるをわがゆびの四五秒
朝とよぶもののけはひのさみしさはかたちとなりて窓のあらはる

1首目、奥の細道の旅で芭蕉が訪れ、能の演目にもなっている「遊行桜」。時空を超えた広がりを感じさせる歌だ。
2首目、人はたった一回死んだだけで、もう二度と生き帰ることはない。
3首目、「われに」ではなく「われは」である。われと桜が一体化している。
5首目、一度鴉だと気づいてしまうと、もう黒煙に見えることはない。
8首目、下句「くひて」を4回繰り返したところに圧倒的な迫力がある。
10首目、まだ暗い部屋の中にいて、うっすらと白み始めた窓を見ている。

この歌集の特徴として、自らの病気のことをかなり具体的に詠んでいる点が挙げられる。

ちれうはふあらざるからだよこたへて対流圏のそこひに灯す
えーえるえす、ゆめではなんと自由です、牧水の脚で渋峠こゆ
痰のどにみづあめじやうにあるひそとこのみづあめは太るひとりで

現在のところ治療法のないALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹った作者。のどに痰が溜まる様子なども詠まれている。渡辺の一見自由奔放に見える歌の背後には、こうした厳しい現実があるのだ。

総合誌の作品ではそうした面をあまり出さない作者であるが、結社誌「かりん」においてはかなり素直に歌にしている。良い意味での身内意識の表れと言っていいだろう。

2016年3月23日、書肆侃侃房、2100円。

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2016年04月06日

沖ななも歌集 『白湯』

2004年から09年までの作品519首を収めた第9歌集。

秋の歯にこころもとなくおきうとの骨も髄もなきこの舌ざわり
バスを待つきのうもバスを待ちおりき思えば一生(ひとよ)待つばかりなる
目薬をさせば海面(うなも)を漂えりひかりながるる水のおもてを
スーパーの袋をさげて歩み来る敵将の首を下ぐるごとくに
見目(みめ)悪しき魚は味がよいというわが安堵することにあらねど
考えて考えて流れはじめたり三和土(たたき)に垂れし傘のしずくが
値札みて買うをやめたるカシミヤの朱のセーターのあのやわらかさ
植えられて苗しずかなり水面におのれの丈の影を映して
窓越しにぼうと見ているきつね雨昨夜のことをよみがえらせて
アイスコーヒー飲み終えしグラス引き寄せて氷の溶けし水すこし吸う

1首目の「おきうと」は福岡の人がよく食べる海藻食品。
2首目、バスに限らず人生には待ち時間が多い。
3首目、目薬を差した時の感覚がおもしろく表現されている。
5首目はユーモアの歌。言外に自分が美人ではないことを伝えている。
6首目、三和土の微妙な凹凸を流れていく水の様子。
7首目、家に帰って来てから思い出しているのだろう。
10首目は結句の「吸う」がいい。もうほとんど味はしない。

タイトルの由来について、あとがきに

母が亡くなってからの十年、わたしの考え方感じ方が少し変わったように思う。肩の力が抜けたというか、日常の生活が大事だと思い始めた。凝った味付けではなく、白湯の味わいを好むような日常になったということかもしれない。

とある。短歌においても「白湯の味わい」を目指しているということだろう。白湯を美味しく飲ませるために、おそらく作者はいくつもの工夫が施しているのだ。

2015年9月10日、北冬舎、2200円。

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2016年04月05日

『桜前線開架宣言』の誤植訂正

『桜前線開架宣言』の初刷の誤植訂正が、版元の左右社のホームページに載っています。

http://sayusha.com/news/etc/p=201604042113

ネットの情報によれば、他にも何か所か誤植があるようです。
気づいた方は版元に連絡してあげると喜ばれます。

歌の引用というのは、何度確認してもし過ぎるということがないですね。
自分の書いた文章を校正していて、時々驚くことがあります。

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2016年03月27日

山田航歌集 『水に沈む羊』


短歌176首と長歌1首を収めた第2歌集。

花と舟と重なりあひてみづうみを同じ速度で流れゆく見ゆ
〈失はれた十年〉は過ぎしきしまのやまとに止まぬPHANTOM PAIN
白樺の姿勢ただしく終はりなき行軍のごとき防風林よ
大根は天衣のごとく干されゐて水路は朝のひかりへ潜る
スタッフロール流れ始めてゆふやみの窓のごとくに液晶が灯る
振り上げた鎌のかたちの半島の把手あたりにひかるまほろば
監獄と思ひをりしがシェルターであつたわが生(よ)のひと日ひと日は
彩帆なるうつくしき名を持つ少女/サイパンといふうつくしき島
改札をくぐるときのみ恋人はほぐれけり春の花びらのごと
食パンの耳の額縁そのなかに少し呆れた顔のモナ・リザ

1首目、舟に落ちた花びらが運ばれて行く。「ふ・ね」と「は・な」の音の響き合いがよく効いている。
2首目の「PHANTOM PAIN」は幻肢痛。切断してないはずの手足が痛む症状のこと。3句以下の音の響きがいい。
5首目、映画が終って、まだ暗い場内で観客が携帯電話の電源を入れ始めている。
6首目は下北半島のことだろう。下句は六ヶ所村の核燃料再処理施設と読む。
8首目、「あやほ」「さほ」という女性の名前と、戦前のサイパンの漢字表記「彩帆」の取り合わせ。
9首目、待ち合わせ場所でこちらに気づいた時の、はにかむような微笑み。
10首目の歌から始まる連作「ふたりぼっちの明日へ」は、不妊治療とその断念を詠んだ内容で、歌集の中で一番心に残った。

2016年2月28日、港の人、1200円。

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2016年03月10日

池田はるみ歌集 『正座』

青磁社
発売日 : 2016-01-21

2010年から2015年までの作品427首を収めた第6歌集。

箸立てに箸が咲いてるゆふまぐれ二本をぬいてうどん食ふひと
らつきようは瓶の中にて眠るひと小さいあたまを酢につけながら
ゆりの木のいちまいの葉は留まれば夕日のなかに散りてゆきたり
冬の日の寒いはずだよ我でさへこのごろ本はパソコンで買ふ
決めたがる男(を)を立てながら誘ひこむ昭和のをんな少なくなりぬ
日本の鰻はふつくらやはらかし靴をそろへて座敷に上がる
鰤(ぶり)炊けば蒼き男の臭ひせり海原ゆきしをとこの群の
ながい長いまつげの人が近づいて長いまつげを勧めてくれぬ
陽だまりのやうな時間があるといふ丸椅子の上がさうかもしれぬ
こんなにもすずめのゐない町となり朝に夕べにわれは寂しも

1首目、「咲いてる」がいい。無造作に広がるように立っている。
2首目、言われてみれば確かに「小さいあたま」という感じ。
4首目、「寒いはずだよ」から三句以降へのつながりが因果関係になっていないところがいい。
5首目、男性を立てつつ自分の思い通りの結論へと導いていた、かつての女性のしたたかさ。
6首目、上句と下句の時間が前後しているのが面白い。
8首目、まつげエクステの販売員だったのだろう。「長いまつげ」の繰り返し。
10首目、近年、雀が減っているというニュースがあった。シンプルに思いを述べた歌。

あとがきに「昔ひとりの息子を産みました。ひとりの息子から三人のあたらしい命をさずかりました」「孫が居ることによって知らなかった不可思議な世界が現れてきました」とあるように、孫を詠んだ歌が多くある。

連作としては「大鵬とその父」26首が印象に残った。これについては、雑誌に載った時にこのブログで取り上げたことがある。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139098.html

2016年1月21日、青磁社、2600円。

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2016年02月29日

真野少歌集 『unknown』

鴉啼き、雀囀り、犬吠えて、やがて人間が雨戸繰る音
おこのみやき焼き疲れたるゆうぐれに焼いて食うとぞおこのみやきを
腹ふくれて店出でしとき松の木のかたえに地蔵の前垂れ赤し
死にかけの蟬咥えきて翅もぎて脚もぎて部品となしゆくはよし
かなぶんが狗尾草(えのころぐさ)の穂を抱けばはつか撓いて平衡得たり
エンジンをかけたるままのトラックの窓に対なす足の裏見ゆ
複写機がホチキスどめまでするからににぎりめし二個食い終わりたり
口頭に聞きてメモする懲罰の「けんせき処分」また「ゆしかい雇」
妻とゆきし伊豆大島の思い出がロープに揺るる雑巾となりて
蛇の肉はげしくつつく嘴のしばしば瓦に打ちつくる音

1995年から2010年までの作品380首余りを収めた第1歌集。
作歌期間から考えて相当に厳選したにちがいない。

仕事の歌、職場の歌、そして食べたり食べられたりする歌が多い。仕事関係だろうか、パリ、ネバダ、台湾、香港、北京、広州など海外詠もある。

1首目、屋外から聞えてくる音の順序によって、巧みに朝の時間の流れを表している。
4首目、猫が蝉の身体をバラバラにしているところ。「よし」と肯定的に捉えているのが印象的だ。
5首目、飛んできたカナブンが止まってしばらく揺れていた狗尾草の穂が、また動かなくなるまで。映像的で美しい一首。
6首目、建築現場や道路作業などの昼休みか。「対なす足の裏」が簡潔でいい。
9首目、「○○旅館」などと書かれたタオルが、今では雑巾となっているのだ。
10首目、蛇の肉を食らう鴉。この暗い激しさは、作者が心に秘め持つ激しさでもあるのだろう。

2015年12月1日、現代短歌社、2500円。

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2016年02月19日

林和清著 『日本の涙の名歌100選』


2011年に淡交社より刊行された『日本のかなしい歌100選』を改題して文庫化したもの。

「かなわぬ恋」「わかれの歌」「世は無常」の3部に分かれていて、万葉集から現代に至るまでの短歌100首が解説されている。取り上げられている歌人は、額田王、大伴家持、在原業平、紫式部、藤原定家、源実朝、後醍醐天皇、石川啄木、永井陽子、笹井宏之など。

歌の背景や人物関係などが丁寧に説明されているので、歴史物語としても楽しむことができる。

 君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
              狭野茅上娘子
 恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物思ふ時に来鳴き響むる
              中臣宅守

京都から宅守が配流された越前市まで、今なら特急サンダーバードで1時間10分あまりだが、当時ははるかな距離に感じられたことだろう。

2014年4月1日、新潮文庫、490円。


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2016年02月16日

山田航編著 『桜前線開架宣言』


副題は「Born after 1970 現代短歌日本代表」。

1970年以降に生まれた歌人40名のアンソロジー。
山田航が40名の歌人の各56首を選び、さらに歌人論を書いている。

三輪車つめたく錆びて置かれをり子に叛かれし老母のごとく
                 高木佳子
銀縁の眼鏡いっせいに吐き出されビルとは誰のパチンコ台か
                 松木 秀
しばらくを蜜吸ひゐたる揚羽蝶去りゆきて花浮きあがりたり
                 横山未来子
あなおとなしき駱駝の腹に浮きでたるホースのように太き静脈
                 齋藤芳生
そよかぜがページをめくることはなくおもてのままにKindleをおく
                 光森裕樹
白というよりもホワイト的な身のイカの握りが廻っています
                 岡野大嗣
レシートは冬の陽射しを記録してやがて無文字となる白い土地
                 吉岡太朗
かあさんは食べさせたがるかあさんは(私に砂を)食べさせたがる
                 野口あや子
雪が降る(イル・ネージュ) かくも空疎な例文をとなへてあれば
口中さむし           吉田隼人
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
                 小原奈実

他にも「歌集が欲しいんだけどどうすれば手に入るかな?」「歌集ってどういう出版社から出ているの?」といった疑問に答えるコラムや、ブックガイドなどもあり、手に取りやすい内容となっている。

こうしたアンソロジーで好きな歌人を見つけて、さらにその人の歌集を読んでみる、といった流れが広まるといいなと思う。

2015年12月25日、左右社、2200円。

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2016年02月08日

吉田隼人歌集 『忘却のための試論』


古書店に文学全集『白鯨』の巻のみ残し海とほき町
喪、とふ字に眼のごときもの二つありわれを見てをり真夏真夜中
音もなく氷雨降りくるまよなかのバス停に来ぬバス待つ死者ら
つなぐ手をもたぬ少女が手をつなぐ相手をもたぬ少年とゐる
びいだまを少女のへそに押当てて指に伝はるちひさき鼓動
早朝のこほりかけたるみづにゆれまるで貞女のやうな豆腐だ
カフカてふ姓は烏の謂(いひ)にしてゆふつかた貨車みな消ゆる朱夏
われは死をなれはわが身を恋ひゐたり壜に酒精の冷ゆるこの宵
あなうらにすなのながるるくににありてわれら夭死のほかのぞむなし
まよのうみくろくふるへてまばらなるゆきのひとひらひとひらを呑む

2013年に角川短歌賞を受賞した作者の第1歌集。
現代歌人シリーズ9。
文学の香りとエロスと死といったテーマが濃厚に立ち昇る。

1首目、『白鯨』と「海とほき町」の取り合わせがいい。
2首目、死者に見られているという意識が強く感じられる歌。
4首目、欠けているものを持つ同士だが、互いに満たされることはない。
5首目、「びーだま」のひらがな表記がいい。ほのかなエロス。
7首目、下句はどこか強制収容所をイメージさせる。「烏」と「貨車」の黒。「貨車」と「朱夏」の音の響き合い。カフカの三人の妹はみな収容所で亡くなった。
9首目、足の裏の砂が波で流されて沈んでいく感覚で、現代の日本を捉えている。
10首目、ひらがなを多用して、夜の海に降る雪を美しく詠んだ一首。

2015年12月11日、書肆侃侃房、1900円。

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2016年02月04日

広坂早苗歌集 『未明の窓』

2003年から2015年の作品450首を収めた第2歌集。

教職に関する歌、三人の子どもを詠んだ歌が特徴として挙げられる。タイトルは〈chaos(カオス)より空と大地の生まれにし朝を思いぬ未明の窓に〉という一首から取られている。

抽斗の奥は河口へ続くのか子は宿題を次々なくす
植木算は木を描きながら解くのだと子はいう枝に葉をつけながら
教職の奥のふかさよなじみなき小の便器も磨き慣れたり
葦原につめたき石を投げいれぬ夏さらば青きほたるとなれよ
ある朝はわが子を食みてきらきらと光るたまごを産みゆくめだか
三平方の定理の証明問題が机上にありて子の姿消ゆ
男性の担任だったらよかったと言われしことを思う年の夜
みかん屋のむすめは息子の幼なじみきれいな指で伝票を書く
新秋の草生を飛べるあきあかね風の縫目にふっと止まりぬ
官吏より奸吏が先にくる辞書のルールたのしくつれづれに引く

1首目、抽斗にしまったはずのプリントが、いつもどこかへ行ってしまう。
2首目、算数がいつの間にかお絵描きに。
3首目、男性用の小便器は最近の家庭にはない。学校の男子トイレを掃除する時にだけ触れるのだ。
4首目、「夏さらば」は「夏になったら」の意味。石が蛍になるイメージが美しい。
5首目、水槽に飼われているめだかの生々しい生態。
6首目、問題を解きかけて、どこかへ行ってしまった子。
7首目、長年教師をやってきた作者にとって、この言葉は何ともつらい。
8首目、遠くに住む息子へ送る蜜柑。いつの間にか大きくなっている娘を見ながら、自分の息子のことを思う。
9首目、「風の縫目」がいい。空中に停止しているのだろう。
10首目、漢字の字数が少ない順に並ぶルールのため、「官吏」(役人)の前に「奸吏」(不正をはたらく役人)が来るのだ。

2015年10月27日、六花書林、2400円。

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2016年01月31日

森井マスミ歌集 『まるで世界の終りみたいな』


2009年から2014年までの作品395首を収めた第2歌集。

絵画、演劇、小説、映画などを踏まえて詠まれた意欲的な連作が多い。また、イラク日本人外交官射殺事件、インドのバス集団強姦事件、岡崎市の冷凍乳児遺体遺棄事件などに取材した時事詠・社会詠も多い。

悪夢なら覚めればよいが 現実と夢の境を漏れ出す汚染水
死はいづれやつてくるバスのやうなもの 待つひとのないバスはからつぽ
老婆のうちに、少女は眠る 時折は、少女が目覚め老婆眠れり
もはや神はひとを裁かぬ 自動式洗浄トイレに水は渦巻く
減るだけの時間の嵩に身を寄せて ひとは逆さにできぬ砂時計

1首目、福島第一原発の汚染水。とめどなく漏れ続ける汚染水をどうすることもできない。
2首目、「からつぽ」という言葉の空虚感。いつやって来るかはわからない。
3首目、夢の中で少女の頃に戻っているのか。現実と夢が入り混じり、どちらがどちらかわからなくなる。
4首目、詞書に「かつて洪水は神の裁きだつた」とある。「神」と「自動式洗浄トイレ」の取り合わせの面白さ。
5首目、時間は一方向に進み、人は永遠に若返ることはない。

2015年10月25日、角川文化振興財団、1800円。

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2016年01月27日

千種創一歌集 『砂丘律』

著者 : 千種創一
青磁社
発売日 : 2015-12-10

マグカップ落ちてゆくのを見てる人、それは僕で、すでにさびしい顔をしている
海底に夕立ふらず鮃やらドラム缶やら黄昏れている
溶けかけのソーダの飴をわたすとき城ヶ浜まであと12Km
手に負えない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない
どら焼きに指を沈めた、その窪み、世界の新たな空間として
窓際の秋のパスタはくるくると金のフォークが光をかえす
正しさって遠い響きだ ムニエルは切れる、フォークの銀の重さに
骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな
卓袱台に茶色い影が伸びてゆくグラスへとCoca-Cola注げば
煙草すうように指先持ってきてくちびるの皮むく春の駅
爪が食い込むとシーツは湖でそこにするどく漣がくる
偶然と故意のあいだの暗がりに水牛がいる、白く息吐き

410首を収めた第1歌集。

1首目、マグカップを落とした時の自分の姿がスローモーションで再生されるような不思議な感覚。
2首目、「海底に夕立ふらず」に発見がある。
3首目、ドライブしているところか。「城ヶ浜まであと12Km」という道路標識の言葉が、そのまま歌に入ってくる面白さ。
5首目、手に持つまでは存在しなかった空間が、この世に出現する。
7首目、初二句と三句以下がかすかに響き合う。力を入れずに切れる柔らかなムニエルと硬いフォークの感触。
9首目、「卓袱台」と「Coca-Cola」の取り合わせがいい。
11首目、性愛の場面を美しく詠んだ歌。映像的でもある。
12首目、偶然と故意とは明確に区別できるものではないのだろう。水牛の存在感がなまなましい。

句読点を多く用いた多様な韻律や文体によって、口語短歌がまた一段と深化した印象を受ける。中東在住の作者で、シリア内戦などに取材した作品もある。

2015年12月7日、青磁社、1400円。

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2016年01月11日

尾崎左永子歌集 『薔薇断章』


第13歌集。
長年連れ添った夫に続いて、この歌集で作者は一人娘を亡くす。
しみじみとした寂しさが歌集全体から伝わってくる。

八幡宮の公孫樹仆れて果(み)の熟るるごとき残香が永く匂ひぬ
午後となりて暑熱厳しき室の内に過去の雫のごとくわが坐す
つばさの影さして過ぎゆく鳶のありつばさの影は若葉をわたる
書き進み書き澄みて無心となる折を神の訪れと思ひつつ待つ
蟬声(せんせい)をききわけて山に棲みをれば蟬の生にも長短のあり
日が差せばものの翳濃き雪の街たしかなるもの持たぬ吾が往く
いつしかに好みてぞ飲む鎌倉館のキナコチーノとよぶ珈琲を
今日なすべきことのいくつかを数へゐてすでに事了へしごとき安堵感
涙流すこと恥として生きて来し世代ゆゑのみこむ涙が熱し
お前はもう充分堪へた吾娘(あこ)の死を褒めつつその髪撫でゐたりけり


1首目、「果の熟るるごとき残香」が印象的。倒れてもなお残る生命力。
2首目、「過去の雫のごとく」に何とも言えない寂しさがある。
4首目、文章を書きながら、徐々に雑念が消えていく感じ。
5首目、蝉も一匹一匹声が違うのだ。それを聴き分けているのがいい。
7首目、きな粉入りのカプチーノだろうか。最初は「何これ?」と思っていたのが、今ではお気に入りになっている。
9首目、10首目は亡くなった娘への挽歌。思い切り泣きたいのに涙を堪えてしまう性はどうすることもできない。「もう充分堪へた」は癌で亡くなった娘にかける最後の言葉である。

「遂に全く孤りになってしまった私の一首の力綱ともなった短歌」という言葉が、実によく感じられる一冊であった。

2015年10月6日、短歌研究社、3000円。

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2016年01月06日

吉川宏志著 『読みと他者』


副題は「短歌時評集二〇〇九―二〇一四年」。

2011年4月から2014年3月まで3年間にわたって共同通信に連載された時評「短歌はいま」を中心に、時評的な文章や鼎談などを収めた時評集。

「短歌はいま」以外の文章は既に総合誌などで読んだものなのだが、構成・配列が良く、全体が一つのつながりとして読めるように工夫されている。

短歌の読みとは、自他のあわいに新しいものを創造する行為なのではないか。

という主張が、この本を貫く大きな柱となっている。これは「はじめに」に記されている言葉であるが、「はじめに」の部分は書き下ろしなので、最初からこの結論があったわけではなく、本書に収められている文章を記していく中で著者がたどり着いた結論ということなのだ。

本来、別物であるはずの作者と読者の間に何かが生まれるためには「身体的なものが非常に重要になってくる」と著者は述べる。

「手」とか「耳」とか「乳房」とかいった身体の部位を歌に詠むから身体性があらわれてくるのではない。 (河野裕子論 声と身体)

では、身体性は一体どこから生まれてくるのか。

短歌において身体性を生み出すのは、定型が生み出すリズムであると言っていい。

というのが著者の主張である。

定型に合わせて読むということは、作者と読者が同じリズムを体験するということであり、作者と読者のあいだに、身体的な交感を生じさせることになる。

短歌の韻律の魅力というのは古くから言われていることだが、それを「身体的な交感」という観点から捉えているところに新しさがあるように思う。

また、「読者としての自分が、固定したものであってはならない」とも著者は言う。

他者に触れることでさまざまに変化してゆく、柔軟な自己であろうとすることが大切なのである。

これは、歌集を読む時や歌会に参加する時に、常に心掛けておくべきことだ。

本書には東日本大震災や、特に原発事故に関する文章が多く収められている。著者は昨年9月に京都で行われたシンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」を企画し、12月に東京で行われたシンポジウム「時代の危機に向き合う短歌」にも参加した。こうした活動の原動力となっているものを知るためには、この本を読んでおく必要があるだろう。

2015年11月15日、いりの舎、2700円。

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2016年01月04日

米川千嘉子歌集 『吹雪の水族館』


2012年から2014年までの作品409首を収めた第8歌集。

亡き人を語りて書きてそののちにもつと本当のことを思ひ出す
細くかたく鋭いこんな革靴で一生歩いてゆくのか息子
江戸切り子赤いボンボン入れのなか母の心臓のくすりかがやく
階段をのぼれぬゆゑに母はもう使ふなしこのふるさとの駅
すごいねえとみんなが坂を降りゆけばまたひとり記念館の芙美子は
藤咲けば蜂は朝(あした)の六時からからだぢーんと震はせて来る
ばんえい競馬われの賭けたるアバレンボーもホンインボウも坂を上らず
夕すぎて海暗むとき船虫の体色あはくなることあはれ
熱気球一つあがりてまだ青い秋野にうすい痣はうごきぬ
いつまでの子の手のひらを知りゐしか革手袋を送りたけれど

1首目、追悼の文章を書いたり話したりする時の、どこか実際とはずれてしまう感じがよく表れている。
2首目、就職活動をしている息子に寄せる思い。もう見守ることしかできない。
4首目、健康な人にとっては何でもない階段が、のぼれない人にとっては決定的な障害となる。
6首目、どこからか匂いを嗅ぎつけてやって来る勤勉な蜂の姿。
7首目、「暴れん坊」に「本因坊」だろうか。名前がおもしろい。
9首目、「うすい痣」は地面に落ちる影のことだろう。普通なら「うすい影」としてしまうところ。

時事詠、社会詠、旅行詠など、何かに取材した歌が多く、いわゆる日常詠は少ない。作者の作歌意識が強く感じられる一冊と言っていいだろう。

2015年11月1日、角川文化振興財団、2600円。

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2015年12月24日

駒田晶子歌集 『光のひび』


現代歌人シリーズ7。
2009年から2015年までの作品251首を収めた第2歌集。

不定期に休むナカムラ理容室木の鏡台をふたつ並べて
立つことを知りはじめたる子はひとり額に星を貼りておとなし
カーテンを閉ざして一人ひとりずつ妊婦は胎児を膨らましおり
薬缶みがきみがき上げたる曲線に夜の疲れた君は浮かびぬ
ひざ掛けはいかがでしょうか?ほほ笑みを左右にわけて女通れり
子の下着ばかりを畳む三人の子あれば三つの異なるサイズ
牛乳は福ちゃん牛乳しか知らず盆地は雪に包まれゆけり

1首目、昔ながらの個人経営の理容室。「木の鏡台」が時代を感じさせる。
2首目、遊んでいたシールが貼り付いてしまったのか。1歳くらいの赤子。
3首目、産婦人科の部屋の光景。「一人ひとりずつ」が生々しい。
5首目の「女」は飛行機のキャビンアテンダント。「左右にわけて」がうまい。
7首目には「十代の頃」という詞書が付いている。作者のふるさとは福島市。福島乳業の「福ちゃん牛乳」である。

2015年11月26日、書肆侃侃房、1900円。

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2015年12月14日

『桜前線開架宣言』

今月下旬に山田航編著『桜前線開架宣言』という短歌のアンソロジーが発売されます。
http://sayusha.com/catalog/books/literature/p=9784865281330c0095

1970年生まれ以降の歌人40名の作品各56首と解説を収録した本で、
私(1970年生まれ)もギリギリ入れてもらってます。

収録歌人は下記の通り。

大松達知、中澤 系、松村正直、高木佳子、松木 秀、横山未来子、しんくわ、松野志保、雪舟えま、笹 公人、今橋 愛、岡崎裕美子、兵庫ユカ、内山晶太、黒瀬珂瀾、齋藤芳生、田村 元、澤村斉美、光森裕樹、石川美南、岡野大嗣、花山周子、永井 祐、笹井宏之、山崎聡子、加藤千恵、堂園昌彦、平岡直子、瀬戸夏子、小島なお、望月裕二郎、吉岡太朗、野口あや子、服部真里子、木下龍也、大森静佳、藪内亮輔、吉田隼人、井上法子、小原奈実

どうぞ、お読みください。

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2015年12月11日

『駅程』 のつづき

水もはやふき上ぐるなき噴水の孔(あな)より細き草は出でつも
駆け抜くる馬群の後に緩慢なうごきを見する土のけむりは
転売によりて膨らむ価(あたい)あり桜花のごときあかるさならん
梅苑は夕あかりして行間に分けいるごとき歩みをさそう
さかしまに麒麟翔けつつ空き缶の鳴子が冬の畠を守る
あ、雨と口々にひと言えるとき大いなるものすぎゆくごとし
滝壺につながる径に流れくる冷たき靄に顔は触れたり
建築は書物とおもう日の暮れを古書肆のごとき街をあゆめり
城山の県庁県警県図書館県美術館県旗をかかぐ
伝えきく臨終までの経緯(いきさつ)の脚色さえも謹みて聞く

後半から10首。

1首目、噴水の孔から「細き草」が出ているところに着目したのがいい。
2首目は競馬場の歌。疾走する馬と「緩慢なうごき」を見せる土煙の対比。
3首目、膨らみきった後で散ってしまう明るさなのかもしれない。
4首目は「行間に分けいるごとき」という比喩が印象的。どこか別世界のような。
5首目、キリンビールの空き缶なのだろう。「麒麟」が守ってくれるから強そうだ。
6首目、その一瞬が生み出す隙間のようなものをうまく表している。
7首目、滝が見えてくる前に、まず冷気がやって来るのだ。
8首目、「建築」と「書物」という全く違うものが重ね合わされる面白さ。
9首目、城や城跡の周辺に県の施設が集中しているのは、全国的によく見かける。以前このブログでも「県立図書館とお城」
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138407.html という文章を書いたことがある。この歌は愛媛県かな。
10首目は師の石田比呂志の死を詠んだ歌。多少の脚色が混じっていることを承知の上で、細大漏らさず聞いているのである。

一つだけ気になった点を書くと、一首一首の完成度の高さに比して、連作としての流れや重みを感じさせる部分が少ない。

「鉄の香」20首、「欣然」21首、「墨西哥」26首、「エコー」24首などの大きな連作もあるのだが、いずれも連作の中をいくつかの「*」で区切っていて、小連作の集合になっている。連作よりも一首一首で勝負するタイプと言えるだろう。

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2015年12月10日

島田幸典歌集 『駅程』

2002年以降の十年間の作品605首を収めた待望の第2歌集。
文語定型を守った端正で落ち着きのある歌が多い。

鉄琴に鉄の匂いし木琴に木の香は立ちぬ教室の秋
春日(しゅんじつ)にさそわれ出でし中庭の壺を覗けばわたくしのかお
軒下に火除けの赤きバケツありてバケツの色の水を湛えつ
天丼に海老の一尾は残されて飯の少なくなるを待ちおり
灌木の繁りのきわをい行きつつバスは自転車を躱(かわ)さんとすも
日の射せるなだりに眠る村のうえ村の十倍の白雲うごく
頌歌(ほめうた)を身を傾けて唱いつつ少年は神を忘れつつあらん
冬ざれのぶどう畑に大鴉小鴉は見ゆ髭文字のごと
白鳥が湖中になせる排泄の始終を見たり水浄ければ
発音をされぬ子音のかそけさに窓を日照雨の斜線がよぎる

良い歌がいくらでもあるという感じの歌集だが、まずは前半から10首。

1首目、「鉄の匂い」に対して「木の匂い」ではなく「木の香」とする細やかさ。
2首目、壺の中に雨水が溜まっていたのだろう。「覗けば」→「かお」という流れにインパクトがある。
3首目、京都ではよく見かける光景。水が赤く見える。
4首目、主役である海老とご飯のバランスを慎重に考えながら食べているところ。
5首目、バスが巨体の生き物のように感じられる面白さ。
6首目は大きな景が見える歌。「村の十倍の」が独特な捉え方だ。
7首目はイギリス滞在中の1首。教会などの合唱団だろう。「身を傾けて」がいい。歌うこと自体の心地良さに没入している姿が見えてくる。
8首目はウィーン滞在中の1首。葡萄の枝とそこに止まる鴉のシルエット。なるほど、ドイツ語の「髭文字」的である。
9首目、何でもかんでも見えれば良いというものではない。写生の歌だが象徴的にも読める。
10首目、「knife」の「k」とか「hour」の「h」とか。それを日照雨の様子の喩えに持ってきたのが素晴らしい。

2015年10月10日、砂子屋書房、3000円。

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2015年12月06日

伊藤一彦歌集 『土と人と星』

現代三十六歌仙シリーズ27。
2012年から15年の作品464首を収めた第13歌集。

それほどに広くあらねど出でゆきて妻はかへらず春の庭より
秋空に始まり桂露、雨山となり白雨、野百合ののちの牧水
はしはしと瞳の中を覗かれてわれに見えざるもの見られたり
天馬にはあらざるがよき野生馬の空を行かずに冬草を食む
厄年は六十一歳が最後らしそののち厄のなきがごとくに
延岡の旬のおこぜの白き刺身醜(しこ)なる顔を呼びよせて食ふ
生きてゐてむなしいと言ふ百歳の母の言葉の古陶のひかり
言霊のことに力もつ元日は酒を酌みつつ口をつつしむ
赤き実にビニール袋かぶせらる千両は鳥に食べられたきを
おのづから喉より出でて異なれり冬は冬のこゑ春は春のこゑ

2首目は牧水の号の変遷を詠んだ歌。若い頃は次々と名前を変えたのだ。
3首目、眼科で検査や治療を受けている場面。自分の目の奥は自分では見ることができない。
5首目、男性の厄年は25歳、42歳、61歳。寿命が延びた現在では、確かにその後にも厄がありそうな気がする。
6首目、わざわざ元の姿を思い起こして食べるところに、おこぜに対する心寄せがある。
9首目、鳥に食べられてこそ、糞になって種が運ばれるのだ。
10首目、季節によって人の声が変わるという捉え方が新鮮。

2015年9月12日、砂子屋書房、3000円。

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2015年12月03日

江戸雪歌集 『昼の夢の終わり』


現代歌人シリーズ8。
第6歌集。

うしなった時間のなかにたちどまり花びらながれてきたらまたゆく
もし泣くとしたらひとつの夏のため ほそいベルトのサンダルを買う
とどかない場所あることをさびしんで掌はくりかえし首筋あらう
はてしない秋の浪費よ くれないもおうごんもみな水にしずんで
あさがおの素描かざってある部屋のドアぬうっすらノブの影ある
きわまりて声のかすれるそのときに言葉はもっとも美しくある
沈黙というかがやきのなかに咲くモクレン属の白木蓮は
きっぱりと列車は橋をわたりゆき川のすべてが夕暮れとなる
水晶橋わたって蕎麦を食べに行く夏至のあおぞらゆるゆるとして
飛蝗からみればわたしは巨大なり眼から涙を流したりして

1首目、流れてきた花びらを見て、ふいにわれに返った感じ。
3首目、上句の心情と下句の動作がよく合っている。
4首目、紅葉や黄葉が川や池に沈んでいる場面だろう。「くれないもおうごんも」という表現がいい。
5首目、「ノブ」ではなく「ノブの影」に目を止めている。
7首目、「白木蓮」の中には「黙(もく)」があるのだ。
9首目、「水晶橋」と「蕎麦」の取り合わせがいい。「水晶橋」と「青空」も響き合う。
10首目、おもしろい視点の歌。巨大な眼から大量の水が溢れ出す。

今回の歌集は作者の住む「大阪」色がかなり強く出ている。
一つは地名・固有名詞。

「長堀通り」「南方」「中津」「靱公園」「なにわ筋」「馬場町」「堂島ビル」「土佐堀通り」「箕面ビール」「谷町線」「本町通り」「上町台地」
「淀川」「安治川」「木津川」「堂島川」「東横堀川」「土佐堀川」
「大渉橋」「千代崎橋」「栴檀木橋」「肥後橋」「平野橋」「玉船橋」「昭和橋」「水晶橋」

こうして見ると、水都大阪、浪華八百八橋と言われるように、川や橋の名前が多いことがわかる。

もう一つは大阪弁。

「そんなんとちゃうねん」「きれいやなあ」「なんでなん」「どないしよ」「いかせられへん」「あほやなあ」「そんなもんできるかあ」「ほなまたね」「ようさんおるからに」「あんたはんどこにおるんよ」「笑っときなはれ」「いいひとになりたいのんか」「飛んでいくがな」「のぼってゆくのんか」

大阪という町が、作者の心の大きな支えとなっているのだろう。

2015年11月26日、書肆侃侃房、2000円。

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2015年12月01日

香川ヒサ歌集 『ヤマト・アライバル』


第8歌集。「短歌研究」に2012年から14年までに掲載された30首×8回とその他の連作2編、計297首を収める。

古書店に本選びつつ自づから選ばれゆかむ一冊の書に
花あまた咲かせて庭に立つ人の囲まれてをり花の名前に
この街の博物館にある石器どこの博物館にもありて
人のため何かしたい人あまたゐて受付で人に名前書かしむ
老人も子供もしたがる買ひ物をせぬ死者のため花を買ふ人
どこにでもをりて何とも思はれず存在してゐて鳩なれば飛ぶ
木木の間に人を歩かせ歩かない木木は木の葉を降らしたりする
道路沿ひに廃線の線路走るなり鉄道沿ひに道路造られ
麻薬犬災害救助犬警察犬帰りに一杯やることもなし
少年の百年前に見た瀧が落ち続けをり詩集の中に

全体に抽象度が高く、哲学的な思考の歌が多い。
白黒の画像を反転させるように、私たちの日常のモノの見方を引っ繰り返す発想が鮮やかである。

1首目、本を選んでいるのではなく、実は本に選ばれているのだという発想。
3首目、石器に関してはあまり地域差がなく、広く共通しているということか。
4首目、ボランティア希望者の登録作業の場面。
6首目、いかにも鳩の感じ。公園や神社や駅などあちこちで見かける。
8首目、鉄道がまず敷かれて、その後、道路ができ、やがて鉄道は廃線に。
10首目、「瀧」が旧字になっているのは、百年前の詩集の表記に従っているのだろう。

2015年11月1日、短歌研究社、2800円。

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2015年11月30日

小見山泉歌集『みづのを』批評会

昨日、龍短歌会の小見山泉さんの第1歌集の批評会があった。
14:00からハートンホテル京都にて。

パネリストは田中教子、中津昌子、松村正直、魚村晋太郎(司会)。

棺の中で目を閉ぢゐるは同姓の老女にてその人生を知らず
茶畑を歩みて着きし山の家の奥にはひかるまなこが四つ
父をまね湯呑み茶碗に白湯(さゆ)を入れ富乃宝山をなみなみと注ぐ
風邪癒ゆと庭に出づればやはらかに山芋の葉が日にひかりをり
まなうらの薄やはらかい水の珠が壊れぬやうに夢に入りゆく
葉唐(はとん)を煮つつ「辛い辛い」と泣き笑ひして母と食べゐし夏を思ひぬ
水路(みづみち)には根雪がとけて流れつつさみどりの蕗の薹をそよがす
笠岡の「ちーちー烏賊」のちーちーは網にかかりし烏賊の鳴き声
このうみの淡海でありしいにしへを思ひつつ浜名湖今切(いまぎれ)をわたる
ぬばたまの厨の闇にかぎりなく黒木耳(きくらげ)が広がりてゆく

17:00から「シェ・モア」にて懇親会。

歌人だけでなく、作者の知り合いの学者、詩人、彫刻家、編集者など、さまざまなジャンルの人が参加して賑やかな会だった。

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2015年11月26日

小池光著 『石川啄木の百首』


シリーズ「歌人入門」の1冊目。
石川啄木の歌100首を取り上げて、鑑賞を付している。
右ページに短歌、左ページに250字の鑑賞というスタイル。

煙草は人を孤独にし、またつかのまの孤独を誘うのである。
懐かしいという感情が人のこころに訴えるのは、このように思い出にディテールがあるからである。啄木の歌が愛唱されるのはそのディテール性によるところが大きい。
啄木はたくさん鉄道の歌を残しており、それだけ移動激しく活動したということだが、今日でいえば一種の鉄道マニアのようにもみえる。
さすらう人の鞄に中には必ずや一冊の本が入っているものである。

など、印象的なフレーズや分析が多くあり、読んでいて楽しい。
巻末には啄木の生涯を記した解説も付いており、啄木の入門書として格好の一冊であろう。

2015年10月27日、ふらんす堂、1700円。

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2015年11月20日

『近代短歌の範型』のつづき

この本は4部構成になっていて、計25編の論考が収められているのだが、全体がうまくつながっていて、一つの流れとして読むことができる。また、文章も読みやすく、論旨が明快に伝わってくる。

著者の論考の大きな特徴は、一首一首の歌の読みが非常に丁寧なことだろう。丁寧な読みに基づいて話を進めていくので説得力がある。さらに言えば、どの論にも新鮮な発見があって、読んでいて飽きない。

私たちは、ついつい結果論的な歴史観で過去を見てしまう。和歌改良運動が起こり、「歌よみに与ふる書」が発表され、「明星」が創刊される。そういった和歌革新の動きこそが歌壇の主流であり、あとは無視していい。そんな乱暴な歴史観で明治の和歌の歴史を見てしまいがちだ。

御歌所派歌人の税所敦子(さいしょあつこ)について論じる文章で、著者はこう述べる。引用されている税所の歌を読めば、なるほど単に古臭い旧派和歌として無視してしまうには惜しいことがよくわかる。

また、佐藤佐太郎の歌に見られる助詞「て」や「を」の独特な使い方を分析した上で、著者は

佐藤佐太郎はたった一音の助詞にこだわり、それを新たな作品世界を創造する梃子とした。短歌という小さな韻文形式の中では、たった一音、たったひとつの助詞が決定的な力を発揮する。

と記す。これも抽象的な論考ではなく具体的な作品に即して論じているので、助詞の大切さが非常によくわかる。佐太郎についての論であるとともに、著者の短歌観が十分に滲み出た内容と言って良いだろう。

評論の書き方という点でも学ぶことの多い一冊であった。

posted by 松村正直 at 00:05| Comment(3) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月19日

大辻隆弘著 『近代短歌の範型』

主に近代短歌に関する論考24編を収めた第3評論集。
「範型」は耳慣れない言葉だが、「パラダイム」の訳語である。

近代短歌を読むときに感じる肉厚で彫りの深い重厚な作者像。それを齎すものは一体何なのか。私たちがそれを感じるとき、私たちはどのような「読み」のパラダイムの中で作品を読んでいるのか。

ということが本書の大きなテーマになっている。
結論に当たる部分だけを引用すれば

作者の視点を「今」という時間的定点と「ここ」という空間的定点に固定し、助詞・助動詞を駆使して、作者の意識に生起したわずかな時間の流れを表現する。そのような文体の獲得によって近代短歌は「今ここ」にありながら、過去を想起し未来を想像する「主体」の像を歌のなかに彫り深く刻みこむことを可能にしていった。

ということになる。
さらに著者は、近代短歌においては「作中主体」=「作者像」=「作者」という定式があったことを指摘した上で、

近代短歌の「読み」のなかでは、そのような読者と作者の信頼関係が成り立っていた。その意味で、近代短歌の「読み」の枠組は、三十一音という短い短歌のなかに、肉厚で彫り野深い人物像の造形をもたらした効率的な叙述システムだったと言うことができる。

と述べる。
近代短歌のパラダイムは、まさにこれで言い尽されていると言って良いだろう。

現代短歌(あるいは現代の短歌)を論じようと思えば、まずは近代短歌がどういうものであったかを十分に知らなくては始まらない。近代短歌について考え、検討することは、私たちが今後どのような歌を詠んでいくかという問題と深くつながっているのである。

2015年11月13日、六花書林、2700円。

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2015年11月12日

川野里子著 『七十年の孤独』


副題は「戦後短歌からの問い」。

23篇の評論を収めた評論集。全体は「出発について」「源について」「今について」「未来について」の4章に分かれている。

現代短歌とは、第二芸術論以後の短歌のことだ。第二芸術論への賛同も反対も、それらすべてをひっくるめて、現代短歌とは第二芸術論に代表されるような否定論を核として抱きながら展開してきた戦後の詩型のことだ。

現代短歌とは何か、現代短歌はどうあるべきか、そういった問題意識が常に著者の中には存在するようだ。その問題意識に基づいて、葛原妙子、塚本邦雄、山中智恵子や現代の永井祐、笹井宏之らの作品を分析していく。

東日本大震災後、私にとって親たちの昔話の世界に過ぎなかった戦後がにわかに近くなった。七十年前の焦土と震災後の日本とは繋がっている、と思えた。

「あとがき」にこう書かれているように、この本は短歌についての論であるとともに、短歌を通じて見えてくる戦後の日本についての論でもあるのだろう。

けれども、私が一番心惹かれたのは、評論ではなく「挿話」としてところどころに挟まれている5篇のエッセイであった。その中で著者は、ふるさと九州に一人で暮らす母のことをしみじみとした筆致で描いている。

明快な枠組みを提示して鋭い切り口で論じる評論と、この懐かしく温かで、そして寂しさの滲むエッセイとの違いは何なのだろう。そこにこそ、戦後の日本が抱え込まざるを得なかった大きな矛盾が表われているように感じるのだ。

2015年9月1日、書肆侃侃房、1800円。

posted by 松村正直 at 22:43| Comment(2) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

落合けい子歌集 『赫き花』

2001年から2014年までの作品503首を収めた第4歌集。

このあさけ夜久野(やくの)峠を下りくる肉冠うすき雄鶏ひとつ
月光に漬物樽の並びゐて樽それぞれに母坐りをり
母よりも年を重ねて母さんはわたしの生みし子供のやうな
左側二番目の脚から蟻は歩くと聞けど確かめられず
水道の蛇腹の腹の腹ごとにとても小さなあなたが笑ふ
あぢさゐの葉を食べながらまひまひの壊れし殻のもどりてゆかむ
瓶と瓶ふれあふ音にめざめたる少女のころの靄のしろさよ
安来節ちよこつと名人修了書いただく夫の礼(ゐや)の深さや
コンビニのミートスパゲティくにくにとプラスチックのフォークで食べる
かげりくるひかりとともに降りゆきし少女のあとの席に移りぬ

1首目、「あさけ」という時間と地名の「夜」の絶妙な組み合わせ。
2、3首目は、作者が9歳の時に亡くなった母を詠んだ歌。第1歌集『じゃがいもの歌』から一貫して詠まれ続けているテーマである。
5首目、「腹」を3回繰り返しているのが面白い。
6首目、殻のひび割れが治っていく様子が目に見えてくるような歌。長時間撮影した映像を早送りしているみたいなイメージだ。
8首目、観光で踊りを体験してみたのだろう。夫の生真面目さが微笑ましい。
9首目、カタカナの多用と「くにくに」というオノマトペがいい。ちょっと食べにくい感じがよく表れている。

2014年11月29日、現代短歌社、2500円。

posted by 松村正直 at 23:59| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月06日

三島麻亜子歌集 『水庭』

片耳の冷えに覚めたる早天をおくれて目覚まし時計が響(とよ)む
取り急ぎと書かれしままに夏過ぎて秋過ぎてなほ置かれたる文
あさゆふに月のひかりを吸ひこみて高層ビルの屋上(うへ)の隠し田
旋回をしつつ降り来るしらさぎはつね横顔をわれに見せをり
指先より冷え初むる朝ポケットに切符の稜(かど)の尖りたしかむ
花冷えの三日シャッター下りしまま扇(ファン)は逆さに回転しをり
ふるさとに二度の大火を見しといふ君よ歯並みがうつくしきひと
洗ひ場はいまだ名残の水ながれ踏み板なかば崩れつつあり
ゆふまぐれ水神祭の車座に「ほんのすこし」を三度いただく
朝明(あさけ)まで踊れば切れる鼻緒ゆゑ夜通し商ふ下駄屋のありぬ

370首を収めた第1歌集。

2首目、なかなか返事を書けずにそのままになっている手紙。
3首目、歴史的な言葉である「隠し田」と現代的な「高層ビル」の取り合わせが面白い。
5首目、切符の角に触れる指先の感覚が鮮やかに描かれている。
6首目、換気扇のファンに外気が吹き込んで逆回転している場面。
9首目、地元の祭なのだろう。「ほんのすこし」と言ってお酒を受けているのだ。
10首目、郡上踊りを詠んだ歌。夜通し踊ることは知っていたが、夜通し営業している下駄屋があるとは知らなかった。

2014年10月20日、六花書林、2400円。

posted by 松村正直 at 06:10| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする