2011年03月27日

「短歌研究」2011年4月号

川野里子さんの「疎開という文学空間の誕生」に注目した。

これは昨年11月に東京で行われた「今、読み直す戦後短歌」の三回目のシンポジウム(サブタイトルは「戦中からの視野」)の基調講演である。この中で川野さんは
文学者の年譜にいつどこへ疎開した、と出てくるんですけれども、疎開というものが、ことばに与えた影響は語られてこなかったんじゃないかという気がします。しかし、「戦中からの視野」で考えてみると、これは見逃すことのできないかなり大きな要素だろうということに気がついてきました。

と述べ、葛原妙子・斎藤史・斎藤茂吉という三人の歌人の疎開時の作品を取り上げている。そして、
三者三様の疎開体験ですけれども、疎開という空間、戦中の場が戦時中の文学にもたらしたものは少なくない。そしてたぶん、戦後文学の礎となっていった部分があったのではなかったろうかと思いました。

という結論を導き出すのである。とても重要な指摘だと思う。この三人以外でも、例えば群馬県の川戸に疎開した土屋文明の場合、『山下水』『自流泉』といった歌集を読めば、疎開生活が作品に与えた影響の大きさは明らかだろう。

さらに言えば、これは短歌に限った話ではない。先日読んだ有栖川有栖『作家の犯行現場』の中で、著者は横溝正史をめぐる旅に出るにあたって、次のように記している。
ミステリーファンなら、正史が疎開先だった岡山を舞台にした作品をたくさん遺していることをご存じだろう。彼はそこで昭和二十年春から終戦を挟んで二十三年夏まで過ごし、『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』という日本推理小説史に輝く傑作を書いた。

疎開という出来事がなければ、あるいはこうした横溝正史の傑作は生まれていなかったかもしれないのである。
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2011年03月14日

「塔」3月号

「塔」3月号を読み始めて、最初のページの栗木京子さんの歌に目が止まった。
亡き人との親交誇る歌並べど殉死しますといふ歌は無し
大らかな彼女であれば笑みてゐむ副葬品の歌なぞいらぬと

河野さんのことを詠んだ歌だろう。かなりキツイ内容の歌ではあるが、共感するものがある。河野さんへの挽歌が大量に載る「塔」の誌面に、これらの歌を発表するには大きな覚悟が必要だっただろう。その姿勢を潔いものだと思う。
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2011年02月24日

「短歌」2011年3月号

角川「短歌」3月号が届く。
巻頭は永田さんの作品「二人の時間」30首。その中に、こんな一首がある。
わたくしと竹箒とが壁に凭れ手持無沙汰に冬の陽を浴む

先日の旧月歌会にも、この歌が出ていた。その時に私が発言したのは〈「手持無沙汰」がいらない。私と竹箒が壁に凭れて冬の陽を浴びているというだけで、十分に手持無沙汰な感じは出ているので、「手持無沙汰」があるとダメ押しになってしまう〉ということであった。

その後、〈手持無沙汰なんて言ってないで、竹箒があるんだから自分で掃けばいい〉とか〈「手持無沙汰」はやっぱりこの歌には必要だ〉とか、いろいろな意見が出たのだが、その同じ一首を、妻を亡くしたかなしみを詠んだ一連の中で読むと、全く印象が違ってくる。手持無沙汰でしかあり得ない時間というもののさびしさが、ひしひしと伝わってくるのだ。

短歌というのは本当に不思議だと思う。

竹箒二本買ひ来て落葉らと戦ふやうに掃くうちに冬
                河野裕子『歩く』

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2011年02月04日

「未来」2月号

「未来」2月号を読む。
昨年夏の全国大会で行われた岡井隆さん、大島史洋さん、大辻隆弘さんの鼎談〈「アララギ」から「未来」へ〉が載っている。これが抜群に面白い。

戦中から戦後にかけての「アララギ」と昭和26年に創刊された「未来」をめぐる話である。話に出てくるのは土屋文明、五味保義、吉田正俊、柴生田稔、小暮政次、近藤芳美、高安国世、杉浦民平といった面々。彼らの作品や素顔、交流などが実に生き生きと語られていく。この時期のアララギは本当に面白い。テレビドラマ化しても群像劇として見応えがあるものになりそうだ。

高安国世についての言及も多く、参考になることがいろいろとあった。「塔」にいると高安さんを一人の歌人としてだけ考えてしまうことが多いけれど、やはり土屋文明や近藤芳美など他の歌人との関係のなかで考えることも大切だと思う。大島さんの「僕は高安さんが好きで、昔、進路に迷った時に、高安さんに相談をしましたらね、緑色の万年筆の字で長い返事をくださったことがあった」という発言が印象に残った。

昭和3年生まれの岡井さん、19年生まれの大島さん、35年生まれの大辻さんという30歳以上離れている三人が、それぞれの知識や体験を出し合いながら、このように同じテーマで深い話ができるというのは素晴らしいことだ。これが結社の力というものであろう。「未来」の中で、大辻さんよりさらに下の昭和50年生まれくらいの世代で、この話に入っていける人が出てくると、また面白いだろうと思う。

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2011年01月22日

「短歌往来」2月号

「短歌往来」2月号を読む。
喜多昭夫さんの評論「河野裕子の死生観―「死児」をめぐって」に感銘を受けた。

第一歌集『森のやうに獣のやうに』や第二歌集『ひるがほ』などに登場する死児の歌を中心に、河野さんの死生観について論じたものである。これまであまり正面から論じられてこなかった部分であるが、河野さんの歌を考える際に避けては通れないテーマだと思う。

私も「短歌往来」1月号に書いた「亡きひとのこゑ」という文章の中で、河野さんの亡くなった子の歌を引き、〈この「呼ばむ名」もなく死んだ子は、この後の歌集にも繰り返し登場するのであるが、今回は触れない〉と書いた。いつか論じなければならないと思いつつ、まだそれだけの覚悟ができていなかったのである。

こうしたテーマについて書こうとすると、どうしても単なる歌の話を超えて、作者のプライベートな部分にまで踏み込まざるを得ない場合が出てくる。そのあたりに関しては、当然ためらいもある。踏み込んでいいのかどうか迷うことも多い。

今回の喜多さんの文章は、そうしたデリケートな点にも配慮しつつ、けれども曖昧にするのではなく、必要な部分に関しては何歩も踏み込んで論じており、真剣さの伝わってくるものであった。今後もこうした真摯な評論によって、河野さんの新しい一面がどんどん見えてくると嬉しい。



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2010年12月25日

「短歌人」2011年1月号

「短歌人」の1月号が届く。

この号から編集人が小池光さんから藤原龍一郎さんに交代したことを知って、かなり驚いた。編集室雁信に小池さんは「体調を崩してしまった」と記している。

  わが妻のどこにもあらぬこれの世をただよふごとく自転車を漕ぐ / 小池光
  わがこころちりぢりになりてありしかばわがからだぼろぼろになりて寄り添ふ

作品5首も胸に沁みるものであった。

もう一つ驚いたこと。
2011年度の評論・エッセイ賞募集の案内が誌面に載っているのだが、その課題が「河野裕子の残したもの」なのである。こうして河野裕子という歌人が、結社を超えて広く語られていくのは嬉しいことだ。


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2010年12月15日

「アークレポート」3号

同人誌「アークレポート」3号を読んでいる。北海道の若手歌人が作る超結社「アークの会」の会報だ。メンバーは阿部久美、北辻千展、佐野書恵、樋口智子、真狩浪子、柳澤美晴、山田航。(「やなぎ」の正しい字が環境依存文字なので「柳」で代用してます)

見出しの付け方や字体などに工夫があり、読む気をそそる誌面になっている。全60ページにわたって目配りが行き届いていて、同人誌としてはかなりハイレベルであろう。ところどころ誤字に訂正の紙が貼ってあるのも、その手作業の労力などが思われて好ましく感じる。

メンバーの30首、15首の連作、歌会記、書評などのほかに「ゼロ年代を問い直す」という特集が組まれていて、これが非常に充実している。「ゼロ年代の自然の歌二十五首」や「ゼロ年代の第一歌集」などの選があり、また柳澤さんが「ゼロ年代短歌私史」という文章を書いている。これは2000年から2009年までの短歌界で起こった出来事を一年ごとにまとめたもので、この十年の短歌史が柳沢さんの目を通してよく見えてくる。

ちょうど先月京都でも「ゼロ年代を振り返る」というシンポジウムがあったところ。これからの短歌のあり方を考えるためにも、この十年の流れを整理しておくことは大切なことだろう。
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2010年06月25日

「短歌現代」7月号

歌壇時評に佐藤通雅さんが書いている「信仰と文学について」という文章が良かった。岩井謙一さんの川野里子『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』批判をめぐって、ここしばらくいくつかの議論があったが、それらを踏まえてのものである。

議論の中身を偏りなく公平に捉え、しかもそれを自分の問題として深く考えた上で、実りのある議論へと導こうとする内容で、非常にすぐれた文章だと思った。

沖縄を痛めつけたる軍人の名を冠されてキャンプ・シュワブ在り
英雄といへどシュワブは二十四にて戦死したりき基地に名を残し
              栗木京子「英雄の名」

普天間基地の移設先として名前が挙がっている沖縄のキャンプ・シュワブ。この名前は沖縄戦で24歳で戦死したアルバート・E・シュワブ一等兵にちなんで付けられたもの。彼はこの戦いの功績により名誉勲章を受賞している。
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2010年06月11日

「Esそらみみ」第19号

同人誌「Es」が届く。「Es」は年に2回発行される同人誌で、メンバーは天草季紅・江田浩司・大津仁昭・加藤英彦・崔龍源・桜井健司・谷村はるか・松野志保・山田消児の十名。いずれも作品だけでなく評論も書く個性派揃いが集まっている。

「Es」は不思議な同人誌である。毎号「間氷期」とか「ナシマ」とか変った副題が付いている。もちろんそれだけではなく、誌面から書き手たちのエネルギーが強く感じられる。

今号はまず表紙裏の「そらみみ」についての谷村さんのエッセイが良かった。そして山田消児の評論「作者と作品をめぐる二つの考察―映画『妻の貌』を観て」が印象に残った。

この評論の中に「慟哭」という詩についての考察があるのだが、これは吉川宏志『風景と実感』、山田消児『短歌が人を騙すとき』と続く話の流れを受けてのものである。

ネットでいろいろ調べてみたところ、伝言ヒロシマ2002という新聞記事があった。作品と作者、そして読み手の関係というのは実に不思議なものだと思う。
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2010年06月05日

「現代詩手帖」6月号

「短詩型新時代」という特集が組まれている。座談会に岡井隆・穂村弘が出ているほか、野口あや子・松木秀・望月裕二郎・雪舟えまといった方々が文章を書いている。

「ゼロ年代の短歌100選」(黒瀬珂瀾編)「ゼロ年代の俳句100選」(高柳克弘編)というアンソロジーも載っている。この黒瀬・高柳の二名+詩人の城戸朱理が行った鼎談「いま短詩型であること」が面白かった。
つまりつくる技術、いかに俳句を仕立てるのかというレトリックを教える場というよりも、作品を読む技術を伝えていく場所として結社という場がなくてはならないだろうと私は思います

という高柳さんの発言は短歌にも当てはまることだろう。結社の問題以外にも、私性や口語やインターネットをめぐる様々なやり取りがあり、興味深い。

「ゼロ年代の短歌100選」はこの十年の間に話題になった作品がバランスよく取り上げられている。「新旧の価値観が渾然一体となっている場から選び、それぞれの価値観を並列させていった」と述べる黒瀬さんのスタンスがよく表れた選びだと思う。

「俳句100選」の方から印象に残ったものを少し。
亡き人の香水使ふたびに減る  岩田由美
水遊びする子に先生から手紙  田中裕明
帰りたし子猫のやうに咥へられ 照井 翠
実(じつ)のあるカツサンドなり冬の雲 小川軽舟
ガラス戸の遠き夜火事に触れにけり 村上鞆彦

2010年6月1日、思潮社、1400円

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2010年05月22日

「短歌研究」6月号

特集「雨の歌をよむ」に文章+新作3首掲載。
そう言えば、「歌壇」6月号の特集も「短歌にみる雨の表情」だった。梅雨の時期ということか。

座談会「批評の言葉について」がおもしろい。参加者は坂井修一、大辻隆弘、斉藤斎藤、花山周子。四人それぞれの短歌観や時代への向き合い方などが、かなり率直に述べられている。内容的には賛成のところも反対のところもあるが、そういうふうに読者が意見を言いたくなるというのは、良い座談会であった証だろう。

僕は自分が50年前の歌を読んだり調べたりするのが好きなので、それと同じように50年後の人も今の歌を読んだり調べたりしてくれると思っている。歌というのは自然と「残る」ものではなくて、誰かが「残す」ものだし、あるいは「発掘」するものだろう。

 時刻表をひらけば春がレレレレレレレとわたしを通過してゆく 荻原裕幸
 あ・ま・や・ど・り 軒に水滴ならびゐて「あ」が落ち「ま」が落ち「や・ど・り」が残る 川野里子

荻原さんの歌の「レ」は時刻表の通過のマーク。横書きにすると時刻表らしくなくなってしまうな。
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