2016年11月17日

「塔」2016年11月号(その1)

沈む陽は窓より深く射し入りて冷蔵庫の把手しばし耀ふ
                   田附昭二

夕方の陽ざしが家の奥まで射し込んで来て、金属の把手部分を美しく光らせている。その輝きはやがて消えてしまうものだ。

少女とわれの夏の時間はみじかくて西瓜の種をならんで飛ばす
                    石井夢津子

「少女」はお孫さんだろうか。ありふれた何気ない場面。でも、それが掛け替えのない時間であることを作者は知っている。

客二人乗務員一人ゴンドラは霧に見えざるロープを下る
                    久岡貴子

「客二人」は作者と連れの人なのだろう。唯一の頼りであるロープが見えないことの不安と楽しさ、そして浮遊感。

倒木の覆ふ流れを汲みて飲む木の香を帯ぶる冷たき水を
                    富樫榮太郎

「木の香を帯ぶる」がいい。山の中のきれいな流れなのだろう。歩き疲れた身体に鮮烈にしみてくる。

肢そろへ横腹見せて寝ねてをり殺されやすき姿で犬は
                    野 岬

よく見かける光景であるが、下句にハッとさせられる。確かに、横腹を見せるというのは、野生の動物とは違う無防備な姿なのだ。


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2016年11月12日

「九大短歌」第四号

全32ページ、中綴じ。最近の学生短歌会の機関誌には立派な装丁のものも多いのだが、これは手作り感のある素朴な仕上がり。誌面を見る限り主に4名で活動しているようで、楽しそうな会の雰囲気が伝わってくる。

主なき千度の春に削られて飛べない梅に触れる霧雨
                 松本里佳子

太宰府吟行で詠まれた歌。千年の風雪に耐えてきた「飛梅」の姿が彷彿とする。

とろろわさび牛丼辛くて東京のすき家でこっそりたくさん泣いた
                 真崎愛

一人で牛丼を食べて涙を流す。「東京」で何かつらいことがあったのかもしれない。

教卓に潜ればふかく沈みゆく水兵リーベぼくたちの船
                 松本里佳子

かくれんぼでもしているところか。「潜れば」「沈み」「水兵」「船」と縁語のように言葉が続く。「ぼくの船」を「ぼくたちの船」に変えたところがいい。

青い実に並べる歯形どうしてもべつべつの地獄におちてゆく
                 松本里佳子

一緒の地獄に落ちることはできないということだろう。果実に付いた「歯形」と「地獄」の取り合わせがうまい。

平地より五度は低い、と説明をここでも聞いて風呂へくだりつ
                 山下翔

「温泉」50首から。雲仙の温泉宿での歌。雲仙は涼しいというのが謳い文句になっているのだろう。かぎ括弧がないのがいい。

正直に話さうとして説明がややこしくなるを湯に浮かべたり
                 山下翔

「きみ」と湯につかりながら、作者には何か話さなくてはならないことがあるようだ。でも、なかなか言い出せない。

この夏をいかに過ごしてゐるならむ花火のひとつでも見てれば
いいが              山下翔

母のことを詠んだ歌。しばらく会っていないようだ。なかなか会いに行けない事情があるのかもしれない。

「温泉」50首はかなり読ませる連作だと思う。「きみ」との関係や、家族の形、母に対する思いなど、作者の心の微妙な揺らぎが丁寧に詠まれている。具体的な事情ははっきりとはわからないけれど、それは別にわかる必要もない。どの家族にもそれぞれの事情があって、だからこそ哀しくも愛しいのだ。

2016年10月30日、300円。

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2016年10月28日

「レ・パピエ・シアンU」2016年10月号

特集「佐藤佐太郎を読む」に大辻隆弘さんが書いている評論「冗語のちから」が良い。佐太郎短歌のかなり本質的な部分に迫る内容だ。

短歌は、短い歌、と書く。が、実際に歌を作る時、短いと感じる事はほとんどない。短歌はいつも長すぎる。

これは、ある程度短歌を続けてきた人には、よくわかる感覚だろう。初心者の頃はぎゅうぎゅうに言葉を詰め込んで、それでも31音に入り切らなかったりするのだが、短歌に慣れてくると逆に31音は長すぎるくらいなのだ。

大辻は佐太郎の歌によく出てくる「あるときは」「おしなべて」「おほよそに」「あらかじめ」「ひとしきり」「をりをりに」「おのづから」などを例に挙げて、次のように言う。

佐太郎は「何も足さない言葉」を実に豊富に駆使する歌人である。彼はそれを「冗語」と呼んだ。ほとんど意味を付与しない言葉を一首のなかにサラリと挿入する。それによって歌が驚くほどのびやかになる。
歌の叙述内容は、極限まで削ぎ落とす。省略を利かせ、事象のエッセンスだけを精錬する。その上で、そこに出来た間隙に何でもない、ほとんど意味内容のない、しかし、調べの美しさを醸し出す「冗語」を入れる。

非常に鋭い指摘であり、短歌にとって大切なことを言っている。

カルチャーセンターで短歌を教えていると、「結句が要らない」といった批評をすることがしばしばある。四句目までで意味としては十分ということだ。けれども、そう指摘すると、生徒さんは元の結句の代わりに得てしてさらに不要な結句を持って来ようとする。

特別な意味を持たない言葉で字数を埋めるというのは、実はけっこう難しいことなのだ。

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2016年10月27日

角川「短歌」2016年11月号

穂村弘さんの「熱い犬」31首が、何だかおもしろい。
(以下、ネタバレあり。まだ作品を読んでいない方はご注意下さい)

熱い犬という不思議な食べ物から赤と黄色があふれだす夏

1首目。ホットドッグからはみ出す原色のケチャップとマスタード。

海からの風きらめけば逆立ちのケチャップ逆立ちのマスタード

5首目まで来てまるで答え合わせをしているみたいに、この歌がある。「逆立ちの/ケチャップ逆立/ちのマスタード」の句跨りが効果的。

さっきまで食べていたのに上空を旋回してるホットドッグよ

7首目。突然、ホットドッグが空を飛ぶ。なぜ???

そして、ホットドッグのことなどすっかり忘れかけていた31首目(最後の歌)になって

僕たちの指を少しも傷つけずホットドッグを攫っていった

おお! 鳥(トンビ?)に持って行かれたわけか! だから「旋回してる」んだ。

7首目から31首目へ、こんなに間を空けて話がつながることにグッと来た。

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2016年10月21日

「現代短歌」2016年11月号

特集「わたしの誌面批評」がおもしろい。
28名が短歌総合誌についての率直な意見を述べている。

共感したものをいくつか引こう。

【安田純生】
一例をあげると、俳諧(俳句)や川柳、歌謡の歌詞、さらに狂歌といった隣接のジャンルと短歌との繋がりを視野に入れた企画である。
【坂井修一】
委員の選評は、賞の価値が重くなるほど短い感想文となる傾向があるように見えます。これはなぜでしょうか。選者にはもっときちんとした説明責任があるのではないでしょうか。
【藤島秀憲】
依頼原稿を送った後で、ダメ出しというものをされたことがない。わたしが優秀なのではなく、書き直しなどのダメ出しの習慣が総合誌にはないのだろう。あっても良いと思う。
【佐藤弓生】
短歌誌は「総合誌」ではなく「専門誌」と称すればいいのに、とも思う。
【光森裕樹】
執筆依頼の際に原稿料もご連絡いただけますか。「業界の慣習」と言われれば黙す他ありませんが、時代にそぐわない悪習だと思います。

こうした意見を受けて編集者が編集後記に書いていることも、なかなかすごい。

☆編集者の仕事は一義的には、原稿の依頼です。寄せられた作品、評論、エッセイ、コラム等の質がその号の質を決定します。言い換えれば、一本の原稿がその号の水準を引き上げます。そういう原稿に接する瞬間に、編集者の幸福はあります。
☆しかし、そんな幸福を与えてくれる書き手は残念ながら、そう多くはない。

あれこれ文句ばかり言ってないで歌人はもっと良い原稿を書けよ、ということか。これは、奮起を促しているのか、喧嘩を売っているのか、どっちなんだろう。

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2016年10月20日

「梁」91号

九州の歌人を中心とした「現代短歌・南の会」発行の同人誌。
大森静佳さんの連載「河野裕子の歌鏡」がいよいよ最終回を迎えた。

86号から全6回にわたって河野さんの歌集15冊を読み進めていった力作である。何よりも引用歌の選びや一首一首の読みが光っている。これは評論にとって非常に大切なことだ。

今回は『母系』『葦舟』『蟬声』の3歌集について論じている。

晩年の河野の歌について、特に言葉や文体に即して論じた文章は、現時点ではまだ少ない。

とある通り、病気や死をめぐる境涯や物語ばかりが語られがち晩年の河野について、冷静にその歌の持つ魅力や特徴を丁寧に解き明かしている。

自分一人では支えきれないような現実の重さを、少しだけ植物や花に預けるような、縋るような文体が、晩年の河野にはあった。
口語では「詠嘆」が難しいと言われているが、河野はそこのところを「〜よ」「ああ」「なんと」「どんなに」、あるいはこそあど言葉や命令形、疑問形などを縦横無尽に駆使して、とても息遣い豊かな文体を生み出している。
晩年の河野裕子は、その文体からしても精神のありようからしても、呼びかけの歌人であり、対話の歌人であった。それを考えると、後期の河野裕子の口語化は、偶然や時代の要請、影響というのみならず、やはり紛れなく必然のものだったのではないだろうか。

こうした指摘は、大森が河野の歌を読み解く中で自らつかみ取ったものばかりだ。だからこそ、読んでいて楽しく生き生きとした評論になっているのである。

いずれ一冊の本にまとめられる日を楽しみに待ちたい。

2016年10月20日、現代短歌・南の会、1500円。

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2016年10月15日

「塔」2016年10月号(その2)

台所中にちらばる飯粒を拭きおえしのち焼飯を食う
                   田村龍平

相当豪快にフライパンを振ったんだろう。でも、食べる前にちゃんと拭いているところが微笑ましい。一人の食事の感じ。

バスの窓ガラスに額を押しつけて昆布のゆらぐ海を見ており
                   松浦わか子

旅先の風景だろうか。海岸沿いを走るバスから、海の中に揺らめく昆布が見えるのだ。「額を押しつけて」に体感がある。

トンネルの合間にのぞく熱海から秘宝館など見つけるあそび
                   山名聡美

今では全国でも数少なくなった秘宝館。新幹線の車窓から眺めているのだろう。上句の描写が的確で、「のぞく」という語の選びが良い。

屋久島できかぬ名まへと尋ねれば種子島から来たのだと言ふ
                   山尾春美

島によって特徴的な名字があるのだろう。例えば対馬には阿比留さんが多い。隣り合う屋久島と種子島でも随分と違うのだ。

封筒に息をふきこみふくらませ遠くの人への手紙を入れる
                   高原さやか

息を吹き込むのは封筒を広げるためだが、相手に思いを届ける祈りのようでもる。「遠くの人」がよく効いている。

何にでもなれる(なれない)者としてビニール傘をコンビニで買う
                   山口 蓮

人は何にでもなれる可能性を持ちながら、実際は何にでもなれるわけではない。その二面性が、色のないビニール傘とよく合っている。

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2016年10月14日

「塔」2016年10月号(その1)

ときをりは薄暗がりに溶けてをり書棚の隅の二ポポ人形
                    川田伸子

「二ポポ人形」は北海道でよく売られているアイヌの人形。「溶けてをり」がおもしろい。忘れられたように長年飾られている人形の感じ。

才能がなくてと謝り食べているいわしフライのいわしの体を
                    片山楓子

「いわしフライを」なら普通だが、「いわしフライのいわしの体を」としたのが良い。やるせない思いが滲み出ている。

炎天にはためく「氷」の波がしらをくぐりて母といもうとは消ゆ
                    田中律子

家族に対するかすかな屈折を感じさせる歌。上句の描写が、かき氷の旗を吊るした店の様子を端的に表している。

猫避けに眼のよく光るふくらうを日日草の中に置きたり
                    祐徳美惠子

本物のふくろうかと思って読んでいくと、実は置物のふくろうの話。目が光るようになっているのだろう。

あまやかな水にいくすぢかたちのぼる気泡はほそき鎖のごとし
                    小田桐 夕

グラスの底から立ち昇る炭酸飲料の泡を「ほそき鎖」に喩えたのが秀逸。泡を見つめる作者の繊細な意識まで感じられるようだ。

二人では折り畳み傘は小さくて香林坊の雨に駆け出す
                    濱松哲朗

香林坊は金沢の繁華街。映画のシーンのように突然の雨に走り出す二人。迷惑というよりは、どこか楽しんでいる気分が伝わってくる。

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2016年09月23日

「塔」2016年9月号のつづき

『日本の橋』読みしのちもとめたる全集いくらも手にとらざりき
                    竹下文子

保田與重郎の『日本の橋』に感動して全集を買ってみたものの、あまり読まなかったのだろう。「いくらも」に寂しさがにじむ。

肩甲骨すでに大人になっている息子の背中と背くらべする
                    石井久美子

中学生くらいの子だろうか。体つきや骨格はもう大人の男だ。「肩甲骨」に着目したところが良い。「背中」もくどいようで効いている。

ドアホンのピンとポンとのそのあひの時間の永き夏の午後なり
                    清水良郎

ピンポン、ピンポンと慌ただしく鳴るのではなく、指でゆっくり押してから離した感じ。時が止まってしまったかのような時間帯の様子である。

きみの手を握って眠ったはずなのにコピー用紙を抱えて歩く
                    阿波野巧也

上句から下句への時間的な意識の飛躍がおもしろい。下句は目覚めた時の話が来ると思って読んでいくと、突然、昼間の場面に飛ぶ。

遮断機の下をながれて水草は遠き河口へ導かれゆく
                    吉田 典

遮断機が上がるのを待つ間、踏切の下の水路を見るともなく見ている。流れる水草につられるようにして、見えない河口へと想像が広がっていく。

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2016年09月22日

「塔」2016年9月号

勉強会、はた宴会と騒ぎいしかの日のボンジョルノ難波はいずこ
                   小川和恵

イタリアンレストランだろうか。若かった頃によく仲間たちと利用していた店が、今では姿を消している。残っているのは思い出だけ。

やわらかきところを鍬の刃にさぐりひとふりふたふり竹を倒しぬ
                   吉川敬子

「さぐり」がいい。鍬を持つ手に伝わってくる感覚がよく表れている。竹を倒すにも力任せではだめで、コツのようなものがあるのだろう。

かあさんはやさしいねえと育親書でも読んだみたいに眠る間
際を                 宇梶晶子

褒めて育てる方法が書いてある育児書のように、親にいたわりの言葉を掛けてくれる子ども。やさしくない自分に気付いているだけに胸が痛むのだ。

通勤の橋わたるとき海へ吹く風はパルプの匂いをはこぶ
                   小林貴文

橋の上はよく風が通る。上流の方から匂いが流れてくるのだろう。朝の通勤で仕事へと向いていた意識が、その瞬間だけ少し緩むのだ。

ちょる、ちょると耳をくすぐる方言が飛びかうテーブル揺りかご
のよう                大森千里

故郷に帰った場面だろう。「ちょる、ちょると」がおもしろい。「〜しちょる」という語尾が心地よく響いて、懐かしさと安心感に包まれている。

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2016年09月07日

「塔」2016年8月号のつづき

どこからを遠いというのか砂しろき丘に駱駝が目を伏せて立つ
                   福西直美

「遠い」は距離の遠さとも読めるし、時間的な遠さや関係の遠さとも読める。「目を伏せて」がいい。

声もたぬひとりとなりて森に入る湿つた落葉のあつき堆積
                   山尾春美

上句がいい。森に立つ木々は声を持たない。その中に人間である作者も入っていく。森の中では言葉はいらないのだ。

ささやかなやくそくひとつ果たすごと木の芽をぱん、と叩きて
祖母は               小田桐夕

香りを出すために木の芽を叩く。小さなことだけれども大事な手順だ。「ぱん」の後の読点がよく効いている。

湖西線新快速で敦賀まで湖(うみ)を右手に本を読み継ぐ
                   児嶋きよみ

湖西線はその名の通り琵琶湖の西岸を走る路線。車窓に広がる湖の明るさを感じつつ、本を読み続けているのだ。

均一にスポットライトを浴びている生えてる時より緑のサラダ
                   黒川しゆう

商品として店に並んだサラダ。畑に生えていた時よりも鮮やかな緑色をしている。きれい過ぎて少し不気味でもある。


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2016年09月06日

「塔」2016年8月号

目玉焼きのあかるい丘が運ばれてきたかなしむにはほど遠い朝
                澤村斉美

目玉焼きを「あかるい丘」と捉えたのがいい。黄身の部分のふくらみが希望を感じさせる。

終末の迎へ方をばたれに聞かむあぢさゐの花芽ふくらみて来ぬ
                山下れいこ

「終末の迎へ方」を知っている人は誰もいない。自分一人で向き合わなくてはならないのだ。8月19日に亡くなった作者の歌。

速報を見つつ娘に電話すれば「また揺れてる」と直ぐに切られぬ
                伊東 文

娘の身を案じて電話する作者と、それどころではない娘のぶっきらぼうな対応のずれ。親子の関係がよく見えてくる。

少しだけミルクを足していくように五月の午後のかるいお喋り
                塚本理加

上句の比喩がうまい。コーヒーにミルクを入れるような軽やかさ。下句の韻律も軽快だ。

ほめられることに慣れない ピスタチオつまんだ指に塩きらきらと
                安田 茜

初二句と三句以下の取り合わせが良い。指先に付いた塩の輝きとかすかな違和感と。

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2016年08月13日

人と関わる手段?

「うた新聞」8月号に、石井僚一が「四半世紀歌会」という文章を書いている。

谷川由里子という人がいて二〇一六年六月某日都内某所にて「四半世紀歌会」というものを開いた。二十五年に一度行われるというメンバー固定のスペシャルな歌会だ。ぼくのところにもその招待状が届いた。

と始まり、最後は

「四半世紀歌会」の次の開催は二〇四一年だ。そのときに自分が何をしているかさっぱり想像がつかないけれども、この歌会には参加するのは間違いない、死んでも参加しようじゃないか。本当の言葉なら未来にも現前化するだろう。否、現前化させるのだ。ぼくは「四半世紀歌会」という言葉を、そして谷川由里子という人をすっかり信じてしまっている。四半世紀後に必ず会える。

と終わる。

この内輪のノリは一体何なんだろう。中学校の卒業アルバムか? 
自閉していて、まったく外部の人に届かない話を延々と続けている。

これを読んで思い出したのが、「ユリイカ」8月号に同じく石井が書いている「たたたたたたた魂の走る部屋」という文章だ。

僕は短歌をやっている人が好きなのだ。人と関わる手段がたまたま歌会というものだっただけで僕の興味は最後には人に帰着する。僕は歌会を信じるということ以上に、歌会という場に集う人たちを信じているし、愛している。

「人と関わる手段」として、石井は歌会をやっているらしい。そこが根本的に私とは違う。短歌を通じて人との関わりが増えることはあるけれど、友達作りのために短歌をやるというのはどうなのか。

まあ、大学のサークル活動のノリということなのだろう。
そう考えれば、別に不思議でも何でもない話なのかもしれない。


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2016年08月02日

「ユリイカ」 2016年8月号

特集「あたらしい短歌、ここにあります」。

特集とは関係なく、巻頭の中村稔「故旧哀傷・松田耕平」がすごくいい。

松田耕平さんは失格経営者として当時の東洋工業株式会社、現在のマツダ株式会社の社長職からの退陣を余儀なくされた方である。

という一文から始まり13ページ、少しも隙のない文章が続く。
まさに読ませる文章の見本という感じだ。

穂村弘と最果タヒの対談「ささやかな人生と不自由なことば」は、二人の率直なやり取りが印象に残る。

穂村さんの発言からいくつか。

僕は「なんで詩でも俳句でもなく短歌なんですか」って訊かれたときに、なんでハンマー投げの選手は円盤でも砲丸でもなくて、ハンマー投げるんだろうって思ったことがあって(笑)。
短歌は上手い人ほど、そこだけラインマーカーが引いてあるように見えることがある。「ここがツボだ」って。
(“あざとさ”みたいなことですか。)
仮に“あざとい”としても抗えない、なにか「味」みたいなものかなあ。
表現のための専用ツールである音楽や踊りだったら、現実の出来事からもっと独立した強さを持ち得るんじゃないか。でも、言語は短歌や詩の専用ツールじゃなくて、いわば兼用ツールだから、必ず意味の汚染を受けてしまう。

こうした鮮やかな比喩や的確な分析は、さすが穂村さんという感じがする。

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2016年07月29日

「塔」2016年7月号のつづき

湯浴みせしむすめのからだ拭きやればタオルに残る湿りのすくなさ
                   小林貴文

まだ小さな娘さんなのだろう。全身を拭いてやっても、バスタオルがそれほど濡れることがない。子を愛おしむ気持ちが伝わってくる。

今じゃない季節のにおい図書館の本のページをぱらぱらすれば
                   上澄 眠

前に誰かが読んだ時の季節の匂いかもしれない。本の間に密封されていた時間が再び流れ始めるような感じがする。

言ったのにメールしたのに 寝ころべば雲に寝ころぶ桜花見ゆ
                   澤端節子

何か約束をしていたのに、相手が忘れてしまっていたのだろう。ぽっかり空いてしまった時間に空を眺めると、まるで桜が雲に寝ころんでいるみたい。

「受験者は実技を終了しなさい」とテープの声に救助は終はる
                   近藤真啓

何の実技かと思って読んでいくと「救助」の実技だというところに意外性がある。実際の救助の場面だったら途中では終われないのだが。

夕立を聴きながら飲むミルクティー洗濯物は濡れてるだろう
                   内海誠二

喫茶店でゆっくりしていたら夕立の音がし始めたのだ。外に干してきた洗濯物のことを思うが、今さらどうしようもない。

何もない線路の横で手をあげて列車に乗り込むアラスカ鉄道
                   双板 葉

田舎のバスなどで時々フリー乗降区間というのを見かけるが、これは鉄道の話。人家の少ない広野に伸びる線路が思い浮かぶ。

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2016年07月28日

「塔」2016年7月号

友のもつ悩みを電話に聞きてをり金さへあれば解決するとふ
                   岩野伸子

悩みの電話を聞くのもなかなかしんどいものだ。「金さへあれば解決する」という言葉は、借金の申し込みを匂わせているのかもしれない。

春昼にパスタを巻けば菜の花はフォークの元に集まりてゆく
                   北辻千展

下句がうまい。春らしい菜の花のパスタを食べながら、作者の心はどこか浮かない様子である。ぼんやりとフォークの先を見つめている。

十五年の弟の生の証(あかし)とし一中慰霊碑にその名を残す
                   小菅悠紀子

十五歳だった弟は原爆で亡くなった。広島第一中学校の慰霊碑。遺骨も見つからなかった弟が、この世に生きた唯一の証なのだ。

妹はふたりいるけどふたりともわたしのきらいな椎茸が好き
                   空色ぴりか

一瞬、ふたりの妹のことが嫌いなのかと思って読んでいくが、そうではない。私が嫌いなのは椎茸。でも、妹との微妙な関係が感じられる気もする。

諦めることになれたるわたくしが十薬を十薬の根と引き合ふ
                   久岡貴子

「十薬」はドクダミ。庭にはびこるドクダミを抜こうとするが、なかなか抜けないのだ。下句の言い回しに味がある。まるで綱引きをしているみたい。

象のいるプールにぷかりぷかり浮く桃のやうなる糞の四・五個が
                   ぱいんぐりん

「桃のやうな」が絶妙。形と言い、大きさと言い、確かにその通り。美味しそうな桃とゾウの糞とのイメージの落差がおもしろい。

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2016年07月01日

「黒日傘」第6号

高島裕の個人誌。特集は「日本」。ゲストは澤村斉美。

  幼い私のためだけのクリスマスだつた。
耶蘇嫌ひの祖母の面輪も照らしたるクリスマスケーキの蝋燭あはれ
公用語を英語に切り替へたときの膨大な「国益」を想へり
(座布団を足でずらした!)宰相に株価を上げてもらつて感謝

高島裕「残光の祖国」30首より。

「日本」についての作者の思いをかなり正面から詠った一連。1首目、今になって思い出す祖母の姿。2首目は「国益」という観点だけで判断して良いのかという問い。3首目の初二句はテレビに映った安倍首相の仕種を詠んだもの。

海の果ての日本列島しなやかに反りつつ春の鳥たちを待つ
十センチほど開きたる窓からの風のまんなか子が手を合はす
倒壊家屋映れば指がテレビを消す子を抱くわれはソファに在りて

澤村斉美「つばめつばめ」30首より。

子を産んで母となった作者。全体に柔らかな言葉遣いによって子の様子や母としての思いを詠んでいる。1首目、弓なりに反る日本列島の形を俯瞰したような大きな歌。2首目、「十センチ」「まんなか」といった言葉がうまい。3首目、小さな子には見せたくないという思いと、消すことへのある種の後ろめたさ。

ゴミ出しの未明の路地の白鼻芯、その白線の鮮やかならず
背景に桔梗を長く咲かせつつ真夏の母は健やかに笑む
便意怺(こら)へつつ見て回る春画展、人間といふ襞をかなしむ

高島裕「ひとたび」30首より。
高島の歌では日常を詠んだこちらの連作の方が私の好み。

1首目、「ハクビシン」は額から鼻にかけて白い線があるのが名前の由来。都会暮らしのためか、それがぼやけてしまっている。2首目、元気だった頃の母の写真であろう。3首目「人間といふ襞」が印象的。その襞が様々な喜びや悲しみを生み出すのだ。

2016年6月3日、TOY、600円。

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2016年06月28日

「塔」2016年6月号の続き

母校という言葉が嫌いだと言えば子を産んでいないからだと言わる
                    白水麻衣

けっこう近しい関係の人に言われたのだと思う。だからこそ一層ショックであり、腹も立ったに違いない。「母音」「母国」「母艦」など、考えてみると「母」の付く熟語は多い。

「電話にて弱気を叱る」病状を解らず書きしわれの字を見る
                    安永 明

親か友人か、電話の声に元気がないので励ますつもりで叱ったことがあったのだ。今、日記などを見てその時のことを思い出しながら、既に病気の重かった相手に対してどうしてもっと優しい言葉を掛けられなかったのかと後悔しているのである。

ルビ多き『阿部一族』はエアコンの風量〈しずか〉に切り替えて読む
                    中澤百合子

森鴎外の歴史もの。文字がごちゃごちゃしているので、集中して読みたいのだろう。エアコンの音や風で気が散ることのないようにして。

夫をらぬ夜に柿ピーの柿ばかり残りゆくなり黄金(こがね)の色の
                    広瀬明子

普段は夫が柿の種、作者がピーナツという感じでうまくバランスを取っているのだろう。残った柿の種が夫の不在をありありと示している。

本といふ字が真ん中できつぱりと割れて書店の自動ドア開く
                    清水良郎

上句だけでは何のことかわからないが、下句で自動ドアに書かれた文字の話だとわかる。「本」という字が左右対称なのも良くて映像的な一首だ。

イソップの北風でなく太陽になればと娘(こ)にいふ なれない我が
                    一宮雅子

娘の話を聞いて、相手に優しく接してはどうかとアドバイスする作者。でも、作者自身はそれができない性格なのを知っている。あるいは娘も作者に似た性格なのかもしれない。

息継ぎが上手くできないわたくしは春の光の中で溺れる
                    中山悦子

満ち溢れるような春の光の感じがよく出ている。光を液体であるかのように捉えて、水泳の息継ぎを持ってきたのが面白い。春の明るさにくらくらするような気分だろう。

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2016年06月26日

「塔」2016年6月号

たまには自分の所属する結社誌から印象に残った歌の紹介を。

きれいごと言ふ人苦手さはあれど我の折々言ふきれいごと
                    岩野伸子

初二句だけなら他人に対する批判で終わりなのだが、この歌の良いのは下句で批判が自分にも返ってくるところ。誰しも「きれいごと」を言う時があるものだ。

マスクしてマスクの医者に診てもらふどちらも言語不明瞭なり
                    上田善朗

ユーモアのある歌。マスクをかけた者同士が向き合ってモゴモゴ言っている姿である。風邪やインフルエンザが流行っている季節なのだろう。

毀しゆく明治の煉瓦そのなかの「五百枚目」の墨書きに遭ふ
                    尾形 貢

国鉄で土木関係の仕事をしてきた作者。明治時代に造られた構造物を壊す作業中に、煉瓦に書かれた文字を見つけたのだ。時間を超えて昔の技術者の思いが伝わってくる。

人形に餡は充ちたり断面があらわれるとき見つめてしまう
                    相原かろ

人形焼を一口かじったところだろう。中に詰まっている餡をじっと見つめる作者。よく考えると人形の姿の中に餡が入っているのは奇妙なことに違いない。

風貌を問われナミヘイさんと言い いや良い人と付け加えたり
                    澁谷義人

サザエさんに出てくる波平さんみたいに頭が禿げているのだろう。そう言った後で慌ててフォローしている感じがよく出ていて面白い。

金色のオイルの瓶に子鰯の死につつ並び光をかへす
                    村田弘子

オイルサーディンを手作りしているところだろうか。オリーブオイルの中に小さな鰯がたくさん漬かっている。美しくも残酷な姿。

花の名をわれよりも知る父となり男岳に立ちて女岳をほめる
                    山下裕美

退職してハイキングや山登りをするようになった父。以前は知らなかった花の名前を今では作者よりもよく知っていて教えてくれるのだ。下句、山頂から見える隣りの山の姿がきれいだったのだろう。

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2016年05月26日

角川「短歌」2016年6月号

第50回迢空賞が発表になっている。
受賞作は大島史洋さんの歌集『ふくろう』。
http://matsutanka.seesaa.net/article/416896116.html

この歌集は兄の大島一洋さんの著書『介護はつらいよ』(小学館)とあわせて読むと、さらに味わいが深まるように思う。父・兄・弟という男3人の関係が浮かび上がってくる。

今回驚いたのは、高野公彦さん(選考委員)の選評だ。

「五冊の候補歌集の中で、私は水原紫苑の『光儀』にいちばん魅力を感じた という一文から始まって、最後まで水原作品についてだけ書いている。『ふくろう』には一切触れていない。これはなかなかスゴイことである。

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2016年05月02日

角川「短歌」2016年5月号

対談「31文字の扉―詩歌句の未来を語る」は、小池光(歌人)と大木あまり(俳人)。

最近の小池さんの発言や文章は、何でもはっきり言っていて面白い。

私の印象だと、フィクションの短歌ってやっぱり作った世界だから弱くなる。現実って強いからね。有無を言わせぬ力で運べるので。ほとんどありのままにしか今は作ろうと思わない。
短歌っていうのはね、最後まで私が出るんだよ。(・・・)我って書いてなくても我が出て、その我が何をしたか、何を思ったか、こうなったかという構造を、どうしても。俺に言わせれば。前衛短歌だって、大きな構造は同じなんだな。みんな、私がこうしました、こうしましたって作っている。
(人のものを)読まなくてはいけない。それを、今の若手に強く言いたい。ちゃんと歌を読めるような、リーディングね。読む力というか、読む常識を持つ。(・・・)歌会に行って若者がいてどういう批評をするかと聞いていると、全然分かっていない。そういう批評に度々遭遇するね。

かなり思い切ったことを言ってるなという気がする。
ここまで言い切っていいのかなという気もする。

でも、遠慮した言い方やバランスをとった発言よりも、こんなふうに自分の考えをはっきり言うことが大切なのだろう。異論・反論のある人は、またそれを自分で言えばいいのだから。


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2016年02月03日

「短歌」2016年2月号

阿波野巧也さんの歌壇時評「〈近代〉へのアクセス/永井祐の「人間」」を読んだ。そうだよなと思ったり、そうかなと思ったり、いろいろと議論したくなる内容だ。

とりあえず1点だけ。

短歌における人間の問題について、阿波野は

短歌に「人間」を見出して鑑賞するとき、作品群から作者像が結ばれるという主従関係は、壊されてはならない。作者情報を〈主〉、作品を〈従〉となして鑑賞した結果〈濃厚な人間〉が歌に現れる、という鑑賞態度ばかり取っていると、作品から作者像を結ぶという「読み」の営為は虚しいものとなってしまうだろう。

と述べる。基本的には私もこの考えに賛成である。
ただ、一番の問題は、短歌において「作品」と「作者情報」を明確に分けることが、非常に難しいという点にあるのではないか。

例えば、永井祐の歌を引いて阿波野は

これが永井の見えている世界であり、東京で生まれ育った永井自身に芽生えている感覚なのだと思うと、この歌の背後に平成の今を生きている人間がいるように感じられないだろうか。

と書く。でも、永井の「作品」のどこから「東京で生まれ育った」ということが読み取れるのだろう? それこそ「作者情報」ではないのかといった疑問が湧く。少なくとも時評に引かれている歌からは、そういったことはわからない。

永井の歌集『日本の中でたのしく暮らす』を読めば「東京」「山手線」「五反田駅」「池袋」「渋谷」「品川区」といった地名が出てきて、彼が現在東京に暮らしていることはわかる。けれども、東京に生まれたという点はどうか。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる

という歌から推し量ることは可能であるけれど、実際にはどうなのだろう。それよりも、歌集の最後に記された「1981年、東京都生まれ。」というプロフィールに依拠しているのではないかとの思いが拭えない。

どこまでが「作品」から純粋に読み取れることで、どこからが外部の「作者情報」なのかという問題は、無記名の歌を批評する歌会の場ならともかく、通常の歌集や歌人について論じる時には、明確に切り離せるものではないように思う。両者は渾然一体となっているのだ。

もちろん、だから切り離す必要がないと言っているわけではない。切り離して論じることで、短歌という詩型について見えてくるものも多い。けれども、実際にはなかなか切り離せないという点も、短歌の特徴として踏まえておく必要があるのではないだろうか。

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2016年01月28日

「短歌人」2016年2月号

編集室雁信(編集後記に当たるところ)に発行人の川田由布子さんが次のように書いていて、身につまされた。

●昨年十二月号に平成二十七年度の会計報告を掲載したが、残念ながらマイナスの収支であった。今後の会計の事情を考えると誌面の見直しが必要となり、まず三月号から作品の掲載数を減らすこととした。最大掲載数は同人は七首、会員1は六首、会員2は五首とする。一年かけて誌面を全面的に見直すことにしましたので皆様のご理解とご協力をお願いします。

どの結社も会計事情は似たようなものだろう。「塔」もまた会費収入だけでは足りずに、寄付や多くのボランティアによってかろうじて会計を支えている。

雑誌を定期刊行するというのは、非常にお金のかかることなのだ。

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2016年01月13日

「りとむ」2016年1月号

編集後記に今野寿美さんが「出づ」「出ず」の問題について書いている。

●文語「出づ」の新かな遣い表記は「出ず」と初歩の頃に教わった。そうすると「出(い)ず」なのか「出(で)ず」なのか紛らわしい例があるため、ある全国紙の歌壇では、これのみ新かな遣いでも「出づ」を許容していると聞いた。(・・・)広辞苑の場合、見出し語の下に(イヅ)【出づ】とあるが、(イヅ)は旧かな遣いを【出づ】はその漢字表記を示しているとみることができる。ということは「片づける」「基づく」などと同じく、「出づ」も発音表記は「いず」だが新・旧かな遣いともに「出づ」(ダ行)が適正だろう。

これまで新かなは「出ず」、旧かなは「出づ」と考えていたものを、新旧ともに「出づ」とするという考えであり、なるほどと思って読んだ。

「出づ」「出ず」問題は、結社誌の校正などをしていても頭を悩ませることが多い。有島武郎の名著にしても、岩波文庫では『生れ出ずる悩み』、新潮文庫や集英社文庫では『生れ出づる悩み』と表記が分かれている。

広辞苑の漢字表記は確かに【出づ】なのだが、こうした例は他にも【閉づ】【撫づ】【恥づ】【愛づ】などがあって、これらの新かな表記はどうするかという問題にも派生していく。

この4つの動詞にしても一様ではない。「撫ず」「愛ず」という表記には「出ず」と同じ違和感を覚える。それに対して「閉ず」「恥ず」は、(私の場合)あまり違和感がない。これは、日常使っている口語新かなで「撫でる」「愛でる」とダ行であるか、「閉じる」「恥じる」とザ行であるかという点が関係しているのだろう。

結局どうすればいいのか、結論を出すのは難しい。

私自身について言えば、「出ず」「撫ず」「愛ず」という表記はたぶん使わない。「出る」「撫でる」「愛でる」と口語を使うことによって回避できる問題であるからだ。

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2015年12月12日

角川「短歌年鑑」平成28年版

@ 篠弘「定型に欠かせない文語」に私の書いた時評が孫引き的に言及されているのだが、その要約の仕方に異議がある。

松村は言語学者で作歌する東郷雄二が、「ある」「いる」のような動作動詞のル形(いわゆる現在形)の終止は出来事感が薄い、何かが起きたという気がしないと、すでに論じていたことに首肯する。

東郷さんは短歌についての文章は書いているけれど「作歌」はしない。
それに「ある」「いる」は状態動詞であって動作動詞ではない。

私が引用した東郷さんの文章(「橄欖追放」第164回)は次の通り。

「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す(ex.僕は明日東京に行く)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。

どうしてこの文章がそのまとめになってしまうのか、と残念に思う。

A 座談会「現代短歌のゆくえ」に参加してます。藤島秀憲、大井学(司会)、松村正直、大松達知、島田幸典、笹公人の6名。昨年から今年にかけて角川「短歌」にリレー評論を書いたメンバーなのだが、見事に結社に属する中年男性ばかりとなってしまった。

B 特集「話題の歌集を読む」で、服部真里子が小池光『思川の岸辺』について書いている。「水仙と盗聴」で話題になった二人の組み合わせだ。可能性としての死や「われ」の交換不可能性を論じた丁寧な内容なのだが、小池の妻の死には一言も触れていない。

無論あえて触れなかったのだろう。かなりの力技である。私は妻の死に触れなければこの歌集を論じたことにならないという立場なのだが、一方で服部の意志の強さや態度には清々しい印象さえ受ける。

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2015年11月27日

六花書林十周年

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六花書林(りっかしょりん)が創業10周年を迎えた。
その記念冊子に、私もお祝いの文章を書かせていただいた。

これまで、評論集『短歌は記憶する』(2010年)、評伝『高安国世の手紙』(2013年)、歌集『午前3時を過ぎて』(2014年)と、3冊の本をこの六花書林から刊行している。

このうち『高安国世の手紙』は、最初別の出版社に見積りを取ったところ、驚くほど高くて出版を諦めかけていたもの。六花書林のお蔭で3年間の連載を一冊にまとめることができた。

大辻隆弘著『近代短歌の範型』、『高瀬一誌全歌集』など、最近も注目すべき本を次々と出している。ますますのご発展を。

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2015年11月11日

「立命短歌」第3号

「顧問作品」「会員作品」「OB作品+ミニエッセイ」「エッセイ」「企画」「評論」「立命短歌史」「吟行」「前号評」「活動記録」「規約」と、充実した内容。全144ページ。

印象に残ったものを順番に挙げていく。

○エッセイ 菊池まどか「菊池まどかの電子書籍を買わない暮らし」

「少しくらい値段が高くても、ちゃんとしたものを売ってまっとうに商売をしている、小さな商店にお金をまわすことに決めたの」という友人エミリーの言葉に触れて、それを実践するようになる作者。私も共感する。以前だったら「何を青臭いこと言ってんの」と言われそうな内容なのだが、こういう「まっとう」な感覚が実は大事なのだ。

○会員作品
いつからかヒエラルキーの枠外に置かれたほうれん草のおひたし
                 加藤綾那
座らせてあなたに缶を手渡せばあらゆる花としてさくらばな
                 村松昌吉
新設の書架のひかりを浴びながらレーニン全集、とほい呼吸よ
                 濱松哲朗

○宮ア哲生「立命短歌史U」

「立命短歌」創刊号に掲載された「立命短歌史」の続編、補足編。
その後あらたに判明したことや見つかった資料などを取り上げつつ、第一次から第四次までの立命短歌会の歴史を描き出している。非常に緻密な内容で、資料の探索力にも驚かされる。

今後我々が立命短歌史を編んでいくにあたって、先代「立命短歌史」(1970年に書かれたもの:松村注)が明らかに出来なかったことをいかに盛り込めるかは、重要な課題点である。
立命短歌史について文章化するとき、思い起こせばいつも意識していることがある。それは、四〇年後の立命短歌会に所属する後輩に、見知らぬ先輩が通ってきた過去を学びたいとする後輩に、少しでも自分の調査事項、知識、考察を伝えたい、ということである。

40年前に書かれた文章を読みながら、40年後のことを意識する著者。歴史のバトンをつなぐこうした観点は、今、非常に大切なものだと思う。

○評論 濱松哲朗「坂田博義ノート〈前篇〉」

第3次立命短歌会に所属し、1961年に24歳の若さで亡くなった坂田博義について、残された作品や資料を丁寧に読みつつ、著者はその実像に迫っていく。

興味深かったのは、坂田が教育実習で訪れた北海道の中学校の校長が、坂田の父だったのではないかという推論である。その上で著者は「教員である父への思いの屈折」「家や父に対する坂田の屈折」を導き出す。こうした指摘は、たぶん初めてのことだろう。これは重要な点だと思うので、ぜひ確証を掴んでほしい。

坂田のライバルであった清原日出夫については、野一色容子さんの2冊の評伝によって、かなり詳細なことまでわかってきた。坂田博義についても、同じようにいろいろなことが明らかになっていくのを期待したい。

2015年9月20日、立命館大学短歌会、500円。

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2015年10月15日

「歌壇」2015年11月号

現在発売中の「歌壇」11月号に、「サハリンの息」30首を発表しました。
夏に1週間ほどサハリンを訪れた時のことを詠んだものです。
どうぞ、お読みください。

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2015年08月31日

「短歌往来」2015年9月号

「思い出の歌人」という特集があり、馬場あき子さんが2012年に亡くなった武川忠一さんのことを書いている。

お酒が入る席では、私は必ず武川さんの近くに座った。いい話、つまりけっこうきびしい批判が笑いの中できけるからだ。あの狭量が頭をもたげて放ってはおけなくなるのである。「あんたはなあ」とくればしめたもので、あとは「うそだ、うそだ」と防衛していればちくりちくりとやってくれるのが何だか浮き浮きとうれしいのである。

いい関係だなあと思う。年を取るとともに、みんななかなか本当のこと、まして批判めいたことは言ってくれなくなるものだ。それを武川さんは言ってくれたし、馬場さんも喜んで素直に聞いたのだろう。

そう言えば、馬場さんの歌集『記憶の森の時間』の中に、「武川さん」という一連があった。

語りたき武川忠一は耳遠しわれも八十を過ぎしよと叫ぶ
忠一は婉曲にして鈍刀をよそほひて斬りしよ夜更けて痛し
斬られることわかつてゐるが面白く武川忠一の隣に坐る

八十歳を過ぎた馬場あき子に意見できる人というのは、そう多くないにちがいない。長年にわたる二人の交友の深さを思うのである。


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2015年07月09日

「歌壇」2015年7月号

付箋なきバスの読書に謹呈票はさみ剥ぎたる帯も挟みぬ

島田幸典「鉛筆」12首より。

ちょっと変った状況であるが、歌人にはよくわかる歌だ。

バスの車内で歌集を読んでいて、好きな歌や気になる歌に付箋をつけようと思ったものの、あいにく手元に付箋がない。そこで、謹呈の紙(もらった歌集だったのだろう)や本の帯を挟んでおいたというのである。

私も付箋を忘れた時には、よくレシートやちぎった紙を挟んだりする。付箋をつけながら歌集を読むという人はきっと多いのだろう。あまりたくさん付け過ぎると、何が何だかわからなくなってしまうけれど。

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2015年07月08日

「短歌往来」2015年7月号

島内景二さんの連載「短歌の近代」は19回目。
タイトルは「大和田建樹の新体詩の戦略」。

鉄道唱歌の作詞者として知られている大和田建樹について取り上げている。

「汽笛一声」や「汽車」という漢語が、「たり」という文語と絶妙に入り交じり、融和している。歌詞には、洋語も混じる。

鉄道唱歌の成立事情については、以前、下記の本で読んだことがある。
 ・中村建治著 『「鉄道唱歌」の謎』
 http://matsutanka.seesaa.net/article/387139177.html

大和田はまた旧派和歌の歌人でもあり、歌集に『大和田建樹歌集』がある。

大和田は、狂歌にも当意即妙の冴えを見せ、俗語や漢語も自在に駆使した。だが、それらは「歌集」には含まれない。大和田建樹は、三十一音の短詩形においては、洋語はもちろん、漢語を交えない、純然たる旧派歌人だった。

ここに、狂歌と和歌の違いが端的に示されている。
大事なことは、同じ作者が狂歌も詠み和歌も詠んでいたことだろう。

「和歌」と「唱歌」、あるいは「和歌」と「狂歌」、こうした部分まで視野に含めないことには、明治の和歌革新運動の姿は見えてこないのである。

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2015年05月26日

「短歌研究」2015年6月号

大島史洋さんの「田井安曇のこと」という追悼文に注目した。
こんなことまで書いてしまって大丈夫なのかと、他人事ながら心配になる。

例えば、こんなところ。

近藤芳美は、田井安曇が「未来」を継ぐほうが心安らかに晩年を送ることができたであろう。そうなったとき「未来」は百貨店のような今の雑誌にはなっていず、まったく違うものとなっていたはずである。

あるいは、こんなところも。

私と田井さんは「未来」の仕事を一緒にやり、仲が良かったけれど、どこか、隔てを置いているようなところがあった。石田比呂志もそうだった。これは私が常に相手をどこか警戒させるような、妙な態度をとるせいなのだと思ってきたが、もう一つ、田井さんは私の背後にいる岡井を気にして或る程度以上のことは言わなかったような気がする。

もっといろいろ書いてあるのだが、引用はこれくらいにしておこう。
正直と言えば正直な感想だが、ちょっとびっくりした。

田井安曇も近藤芳美も石田比呂志も、もうこの世にはいない。
あるいは大島さんにも、自分が書き残しておかないといけないといった覚悟があるのかもしれない。

どうなんだろう。

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2015年05月04日

角川「短歌」2015年5月号

島田幸典さんの「論じられた佐藤佐太郎(2)―戦後短歌史の鏡像として」が、先月に引き続き面白かった。

「短歌に欠けるものを埋める革新論的方向性ではなく、欠陥と見えるもののなかに積極的な意義を見出す道を選んだ」佐太郎の歌論や作品が、長い間あまり理解されずに、しばしば批判されていた点を明らかにしている。

先日読んだ『斎藤茂吉言行』の昭和25年のところにも

卓に「日本歌人」十月号がおいてあった。国見純生の私にあてた公開状が載っている。それを先生は読む。途中から声をたてて読まれた。「然し不満は沢山あります。例えばその見つめ方にどういう具体的な基準があるのか或いはあなたは何を理念としてこの現実を生きているのかよく分かりません」という一節があった。先生はいわれた。「詩でこういうことを言ってはいけないんだ」。

といったやり取りがある。これは島田が取り上げている佐太郎批判とも重なるものだろう。

そうした中にあって、島田は上月昭雄の「佐藤佐太郎論」(「短歌」昭和37年8月号)を「出色のもの」として引き、

注目すべきは、上月がここに前衛短歌運動との接点を認める点にある。この運動が求めた「人工美」は佐太郎のそれとは別物だが、にもかかわらず佐太郎が先行して「現代の美のひとつの典型」を打ち出したからこそ、「新しい美学への大胆な営為」が推進されたと見るのである。

と述べる。佐太郎の歌を近代短歌の延長として捉えるのではなく、そこに前衛短歌にも通じる現代性を見出している点が、今から見ても示唆に富む。

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2015年04月10日

「うた新聞」2015年4月号

秋葉四郎と田村元の対談「酒と詩(うた)を友として」がとても面白い。
6面と11面の2ページにわたって続いている。

神田の鮟鱇料理の老舗「いせ源」で、二人は茂吉や佐太郎の歌を引きながら、そこに出てくる店や酒について語る。中でも、佐太郎の歌で有名な「酒店加六」がどこにあったのか、資料や地図をもとに突き止めた田村の話がすごい。

秋葉と田村は師弟の関係ではないが、佐太郎の書いた『茂吉随聞』、秋葉の書いた『短歌清話 佐藤佐太郎随聞』の系譜を受け継ぐような内容と言っていいだろう。

印象に残った発言を引く。

秋葉 (…)ひらめいたものは、あまりいじらない、推敲しない。若いときは推敲しないと駄目だよ。作歌を始めて五十年になると、あまり上手く作ろうという発想ではなくなってくる。

田村 もちろん「作品が第一」ということもあるんですが、作品の向こうにある作者の素顔みたいなもの、そういったものを伝えていきたいです。

昭和12年生まれの秋葉と昭和52年生まれの田村。40歳差の二人の息がぴったり合って、実に楽しい対談であった。

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2015年03月27日

角川「短歌」2015年4月号

島田幸典さんの評論「論じられた佐藤佐太郎(1)―戦後短歌史の鏡像として」が良かった。前衛短歌運動が盛り上がっていた昭和30年代に、佐太郎がどのように論じられてきたかをたどることで、戦後の短歌史を再検討しようというもの。

前衛短歌運動が主題・方法・私性の全面的「拡大」に革新の行方を見出そうとしていたとき、「純粋短歌論」はまさに対極的方向に活路を求めた。

佐太郎の立言は、一面において戦後の短歌が志向したものとの対照性を際立たせる。だが、同時に方法意識の鋭さ・強さという点で佐太郎は紛れもなく現代的であり(…)

時代・社会を詠えという強い圧力のもとで、純粋短歌論は孤独であった。

近代短歌が前衛短歌を経て現代短歌になったという従来の短歌史観では、佐太郎の歌業をうまく位置付けることができない。そういう意味でも、佐太郎に焦点を当てて戦後短歌史を捉え直そうというのは良い着眼点だと思う。この後どのように話が展開していくのか、次号が楽しみだ。

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2015年03月11日

「佐佐木信綱研究」第3號

第2号の「校歌・軍歌特集」に続いて、第3号は「新体詩特集」。
信綱の幅広いジャンルにわたる活動を視野に収めようという意図がよく伝わってくる内容だ。

座談会「新体詩とは何か?」の中で研究者の勝原晴希氏がいくつも興味深い論点を提示している。

(新体詩は)黙って読むと退屈なんだけれども、歌うと、あるいは歌っているのを聞くと、そんなに退屈でもない。

歌人たちは和歌を革新したというよりは、長歌を革新した。別の言い方をすると、歌人たちの和歌革新は、長歌の革新(改良)から始まったのではないでしょうか。

だいたい近代詩は藤村からというのが普通ですね。ただ現代詩になると、朔太郎からだと言う人と、昭和のモダニズムからだと言う人とちがってくるんです。現代詩の出発はどこからかというのは、まだはっきりとしてないですね。

誌面には明治26年の「國民之友」に発表された信綱の新体詩「長柄川」が掲載されている。五七調で385句も続く長い詩で、この年の8月に長良川の洪水により多数の死者が出た出来事を詠んでいる。声に出して読んでみると、なかなかいい。

編集後記には「和歌と短歌、短歌と歌、江戸と明治をつなぐ物として、新体詩の姿が浮かび上がってきた」とある。和歌と短歌、江戸と明治を「切断」ではなく「連続」として見る観点は、今後ますます大事になってくるに違いない。

2014年12月2日、佐佐木信綱研究会、1500円。

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2015年02月03日

「龍」2015年2月号

岡山の小見山輝さんを主宰とする龍短歌会の結社誌。
今月はなんと「九十代特集」が組まれている。
しかも20名もの参加があるのがすごい。

人形に服着せるごとゆつくりと腰かけて吾は着替へしてをり
               出井義子
店の客は日当り良きを褒めくれどわたしは店先ばかりに居れず
               武内重子
作りたる順に並べし干支の馬が貰はれて行くも順位崩さず
               長岡すみえ
夫の背骨つなぎてをりしこのボルト焼けずに残りて四年を経たり
               土屋智子
映されし航空写真に吾が家あり庭に出でヘリコプターに手を振りし
               福原千重

1首目、「人形に服着せるごと」という比喩に実感がある。身体がなかなか思い通りに動かず、時間がかかるのだ。
4首目は亡くなった夫の形見となったボルト。もとは単なる金属であったものが、今では夫の面影を感じさせる大切なものになっている。

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2015年01月20日

「合歓」第67号

「合歓」第67号(2015年1月)に、インタビュー「松村正直さんに聞く―短歌と時代、過去から現在へ」が掲載されました。聞き手は久々湊盈子さんです。

お読みになりたい方は、松村までご連絡ください。
コピーをお送りします。

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2015年01月18日

「中東短歌3」

中東をテーマに掲げた同人誌の第3号で、終刊号。
コンパクトなサイズの冊子ながら、短歌、評論、アラブ小説、対談、エッセイ、書評と盛り沢山な内容になっている。

サハラとは砂漠の意味とこの子には教えるだろう遠い春の日
                    柴田 瞳
偶然と故意のあいだの暗がりに水牛がいる、白く息吐き
                    千種創一

1首目、「この子」は妊娠中のわが子のこと。やがて生まれてくる子との会話を想像している。
2首目、抽象的な歌であるが、「水牛」になまなましい存在感がある。偶然とも故意ともはっきりしない出来事に対する疑いのような思い。

イブラヒーム・サムーイールの小説「このとき」(町川匙訳)は、サキの短編小説のような味わいがある。この作者と齋藤芳生の対談も面白かった。

サム (…)読書の味覚というのは、訓練なのです。良い作品を読めば、味覚もまた良くなるのです。そして「弱い」作品を大量に読むと、味覚も「弱く」なります。

中東情勢がますます混迷を深めていくなか、この同人誌がこれで終ってしまうのが残念でならない。

2014年10月10日、700円。

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2015年01月15日

「八雁」「未来」2014年1月号

「八雁」1月号で島田幸典さんが、「塔」60周年記念号掲載の座談会「編集部、この十年」に触れて下さった。結社の歌会について論じる中で

 松村 「選歌から学べ」とも言いますけど、普段まったく歌会に出ていないと、何をどう学べばいいのか、自分一人ではなかなか難しいですしね。

という発言も引用していただいた。
「未来」1月号では、黒瀬珂瀾さんの歌にこんな一首があった。

  「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ 松村正直
 「やさしいバイクきた」と指さす土手をゆくカブが明日へと児をいざなへり

子どもの発想や言葉遣いは本当に自由だ。
島田さん、黒瀬さん、ありがとうございました。

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2014年12月29日

「外大短歌」第五号

幻影の花かざるべく花瓶より花抜き取りて生ごみに出す
                  上條素山
湯の中でジャスミンの葉がゆるく開き、謝るまでは許されていた
                  永山 源
かりかりに油まわして鶏を焼く よりよく生きる誓いのように
                  黒井いづみ
朝六時過ぎの着信 i phoneが震へた瞬間理解してゐた
                  藤松健介

上條作品、本物の花ではなく「幻影の花」を飾るという発想がいい。花瓶の上に残像が浮かんでくるようだ。藤松作品は祖父の死を詠んだ一連の1首目。これだけで誰かの訃報であることが読み手にも伝わってくる。

評論では山城周「ジェンダーを持つ短歌」が良かった。服部恵典「「歌人」という男―新人賞選考座談会批判」(「本郷短歌」第3号)に続いて、歌人のジェンダー観を問うこうした指摘が若手歌人から出るのは頼もしい限りだ。

座談会「短歌と私、私たち」の中では、北海道の屯田兵の家系に生まれたという永山源さんの発言が印象に残った。

「屯田魂」っていう言葉が本当にあって、あの、フロンティアスピリットなんですね、要するに。(…)すべてにおいてその心を忘れちゃいけないなって思うことによって、屯田兵の子孫なんだからっていう、なんだろう、誇りじゃないんですけどそういう自負?みたいなものを抱いているんで、切り開いていくっていう……そういう感じですね。

こうした気持ちをいつまでも持ち続けてほしいと思う。

2014年11月1日発行、500円。

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2014年12月25日

角川「短歌」2015年1月号

「歌壇時評」がないことに驚く。
編集後記等でも何も触れていないので、詳細はわからない。
今月号だけ無いのか、今後ずっと無いのか。

そもそも2012年までの「歌壇時評」は2頁×1名だった。
それが2013年から4頁×1名となり、2014年7月号からは6頁×2名となった。

そして今回のゼロである。
12頁からゼロへ。
迷走しているとしか言いようがない。

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2014年12月24日

「穀物」創刊号(その2)

後半の歌から。

やめてしまふことの容易き生活の、ごらん青海苔まみれの箸を
読みさしの詩集のやうに街があり橋をわたると改行される
                濱松哲朗

濱松作品2首目、静かな人通りの少ない街を一人で歩いている感じ。「橋をわたると改行される」という発想がおもしろい。橋を渡って風景が切り替わる感じが、「改行」のイメージと重なり合い、まるで本の中に入り込んでしまったような不思議な雰囲気がただよう。

冬の朝また冷ややかに始まりて薄い光に眼を馴染ませぬ
雪がまた雪を濡らしてゆく道を行くんだ傘を前に傾げて
                廣野翔一
街灯にくくられてゐる自転車を4桁の数字で解き放つ
手羽先にやはり両手があることを骨にしながら濡れていく指
                山階 基

山階作品2首目、鶏の手羽先を食べながら、そこに右と左の二種類があることに気が付いたのだろう。考えてみれば当然のことであるが、こうして言われてみると生々しい。下句は脂にまみれていく自分の指を詠んでいるのだが、「手羽先」→「両手」→「指」という流れにあることで、まるで自分で自分の手を食べているような怖さを感じる。

一首評では、小林朗人さんが平岡直子作品の「悲しいだった」という言い方の分析をしているのがとても良かった。確かに「悲しかった」と「悲しいだった」では、読み手の感じるニュアンスはだいぶ違ってくる。

2014年11月24日、400円。

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2014年12月23日

「穀物」創刊号(その1)

同人8名の各20首と「二人称をよむ」「時間をよむ」というテーマの一首評が載っている。以下、前半の印象に残った歌から。

感ぜざるふるへに水が震へゐる卓上にこの夜を更かしたり
窓鎖して朴の花より位置高く眠れり都市に月わたる夜を
時計草散りゆくさまを知らざればその実在をすこしうたがふ
特急の窓に凭るるまどろみはやがて筋(すぢ)なす雨に倚りゐき
                小原奈実

小原作品2首目、背の高い朴の木に上を向いて咲く朴の花。マンションの部屋からその花がよく見下ろせるのだろう。月明かりの照らす空間に浮遊して寝ているような感覚がおもしろい。小原作品はどの歌を引こうか迷うほど良い歌の多い20首であった。

電話越しに怒鳴られている現実が電車の風に薄まっていく
                狩野悠佳子
たれかいまオルゴールの蓋閉ぢなむとしてゐる われに来(きた)るねむたさ
エル・ドラド、アヴァロン、エデン、シャングリラ 楽園の名がいだく濁音
                川野芽生

川野作品2首目、エル・ドラド(アンデス奥地の黄金郷)、アヴァロン(イギリスの伝説上の島)、エデン(旧約聖書の楽園)、シャングリラ(チベットの理想郷)のいずれにも濁音が入っている点に注目した歌。下句にも「が」「だ」「だ」と濁音があり、「いだく」「だくおん」という音の響き合いも良い。

憎むなら燃えて光っているうちに。看取るなら花の象(かたち)のうちに
                小林朗人


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2014年12月22日

「羽根と根」2号

「あなたの好きな歌集」という企画が面白い。
他のメンバーから薦められた歌集を読んで、評論を書くというもの。それだけでなく、その評論を読んで、さらに薦めた人がその評を書いている。

こういう機会がなかったら絶対に読まなかったというような歌集との出会いがあり、また評論評も単に同意したり褒めたりするだけでなく、「虫武の書き方はややミスリーディングなのではないかと感じた」(七戸雅人)、「この章はもう少しひとつひとつを詳細に追ってもよかったと思う」(虫武一俊)といった意見もあって、相互のやり取りによる深みを感じさせる。

以下、印象に残った作品を引く。

肩までをお湯に浸してこれまでとこれからのゆるいつなぎ目に今日
                佐伯 紺
そしてまたあなたはしろい足首をさらして春の鞦韆に立つ
                坂井ユリ
火縄銃渡来せしとき屋久島のいかなる耳はそばだちにけむ
                七戸雅人
公園に白いつつじがつつましくひらく力のなかを会いにいく
(そういうのはじめてだからもうちょっと待って。)外には樹を濡らす雨
スーパーの青果売り場にアボカドがきらめいていてぼくは手に取る
                阿波野巧也
「parents」エスが消えた日 伸びきった絆創膏が身体に溶ける
母親が父親もして母親もしているきっと花を枯らして
                上本彩加

佐伯作品は初二句の景と三句以下の心情との照応がうまい。
坂井作品は初句「そしてまた」がおもしろく「足首をさらして」の描写も良い。

七戸作品は、種子島に火縄銃が渡来した時に、隣りの屋久島の人(あるいは猿や鹿や樹木かもしれない)はどんなふうにその銃声を聞いただろうかという想像の歌。屋久島自体が耳をそばだてて聞いているような面白さがある。

阿波野作品は瑞々しい相聞歌。一首目、「つつじ」「つつましく」の音の響きが良く、結句の字余りに力がある。二首目、ちょっと読むのが照れくさいほどの初々しさ。三首目は「きらめいていて」→「ぼくは」のかすかなねじれに面白さがある。

上本作品は両親の離婚を読んだ歌に惹かれた。一首目は上句が鮮やかにその事実を伝えている。二首目の「きっと花を枯らして」は自分の夢や望みを犠牲にしてといったニュアンスだろう。僕の両親も別れているので、この寂しさは胸にしみる。

2014年11月24日発行、500円。

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2014年12月19日

「立命短歌」第二号(その3)

濱松哲朗の編集後記にも、小泉苳三の話が出てくる。

そんな小泉の残した蔵書「白楊荘文庫」から、第二次立命短歌会の合同歌集『火焔木』(一九四三年)を発見し、昨年の九月に、宮崎哲生と二人ですべて書き写しました。

おそらく複写が許されていないので書き写したのであろう。こういう努力が大切なのである。

それにしても、「白楊荘文庫」はもう少し外部に開かれても良いのではないでしょうか。近代短歌の歴史的資料として、研究者だけでなく歌人にとっても極めて有益なものであるはずなのに、閲覧できるのは学内関係者のみで、しかも担当教授のサインが必要です。

本当にその通りだと思う。せっかくの資料も死蔵されていては仕方がない。活用されてこその資料であろう。

以前、中西亮太さんのブログ「和爾、ネコ、ウタ」に、この白楊荘文庫のことが出てきた。白楊荘文庫で新芸術派の短歌誌「エスプリ」を見つけたという内容である。
(→http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-107.html

白楊荘文庫には、まだまだたくさんのお宝が眠っていそうだ。

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2014年12月18日

「立命短歌」第二号(その2)

「立命短歌」第二号には、「立命短歌会OB競詠」として昭和32年から49年に卒業したOB8名の各10首とエッセイが載っている。このような過去(短歌史)への向き合い方が「立命短歌」の特徴だと言っていいだろう。

その中で、井並敏光さんの「立命短歌会の預かりもの」というエッセイが心に残った。

一年先輩の西尾純一(西王燦)君が私の下宿に置いて行った立命短歌会の資料などが詰まった段ボール一箱は、私が第四次立命短歌会の最後の一人であるという事実を指し示すエビデンスとして四十余年私の書庫にあった。
今回、第五次立命短歌会の発足に際し、宮崎哲生君に引き継ぎが出来て喜んでいる次第である。

学生は4年で順々に卒業していってしまう。その「最後の一人」になってしまった心細さ。40年余り持ち続けていた資料は、第5次立命短歌会が発足しなければ永遠に日の目を見ることはなかったかもしれないのだ。

立命短歌会の歴史に関するものが、もう一つある。濱松哲朗の評論「立命短歌会史外伝―小泉苳三と立命館の「戦後」」である。これは、今号で最も注目すべき作品と言っていい。

濱松は、戦後「侵略主義宣伝に寄与した」との理由で立命館大学を追われた小泉苳三の歌を取り上げる。そして、戦前戦後の立命館大学の思想的な変化と、小泉が味わった苦汁を明らかにするのである。

丹念に資料に当っているだけでなく、文章が読みやすいので、小泉苳三について特に興味や知識がなくても十分に面白い。「立命短歌」のレベルの高さを感じさせる内容であった。

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2014年12月17日

「立命短歌」第二号(その1)

全122頁と、創刊号に続いて充実した内容である。
まずは印象に残った作品から。

墜落機を見にゆくような、わるいことしているつもりのふたりだったね
               安田 茜
もうずっと目蓋に夏が居座ってまぶしい 小鍋にチャイを煮出して
               稲本友香
べろべろに酒を飲みつつ何らかの方眼である部屋を見つめる
               村松昌吉
ひそやかな森に似ている理科室で蝶の時間を永遠にする
               北なづ菜
バス停がいくつも生えてくるような雨だねきつと海へ向かふね
               濱松哲朗
さういへば白い桔梗が咲いてゐた花といふには現実的な
               柳 文仁

安田作品は比喩がおもしろく、相手に語りかけるような文体に味がある。
稲本作品は「目蓋に夏が居座って」に実感があり上句と下句の取り合せもいい。
村松作品は酔った目に映る四角い部屋。前川佐美雄風である。
北作品は蝶の標本を作っているところか。静けさを感じる。
濱松作品は雨が降ってバス停が生えるという発想が楽しい。
柳作品は「現実的」という言葉が桔梗の雰囲気をよく表している。

濱松哲朗の評論「抽象性と自意識―小野茂樹の「整流器」と「私」に関する試論」は、小野茂樹が自らの作風について述べた「整流器」という言葉を手掛かりに、小野の歌の作り方や歌集のまとめ方を分析したもの。その分析を通じて、人物と作者と作中主体の関係や小野作品の「私」のあり方を考察している。

作者は自らの作品の読者となった時に初めて、おのれの作風を自覚するのであって、その逆ではない。
作品は解釈を誘発することはできるが、解釈を限定することはできないのである。

こうした箴言風の言い切りが、読んでいて心地よい。

2014年11月24日発行、500円。

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2014年12月08日

角川「短歌」2014年12月号

小池光の巻頭作品「球根」31首が良かった。

カーテンより朝光(あさかげ)の射す床上に猫のいのちはをはりてゐたり
なきがらの猫の首よりはづしたり金の鈴つきし赤き首輪を
すぎこしをおもへばあはれむすめ二人の婚礼があり妻の死があり
猫の骨壺妻の遺影とならびをり秋のつめたき雨は降りつつ
死のきはの猫が噛みたる指の傷四十日経てあはれなほりぬ

最初は「猫が死んだくらいで、なんて大袈裟な」と思ったのだが、読み進めていくうちに15年という歳月や奥さんの死のことが重なってきて、じわじわと胸に沁みた。

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2014年11月28日

「短歌人」2014年12月号

夏季集会における坪内稔典さんの講演「短歌的と俳句的」が掲載されている。その中にある次の部分に注目した。

例えば、〈たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ〉というのがありまして、これなんか、あちこちでよく引かれたりします。「たんぽぽのぽぽ」という言い方は、江戸時代の俳句にもしょっちゅう出て来る言い方で、(…)ある意味で、「たんぽぽのぽぽ」までは、今までの表現そのまま。ぼくがしたのは何かといえば、最後の「火事ですよ」と言っただけなんです。

この俳句については、河野裕子の「たんぽぽのぽぽのあたりをそっと撫で入り日は小さきひかりを収(しま)ふ」(『歳月』)の本歌取りだと思っていたので、「江戸時代の俳句にしょっちゅう出て来る言い方」というのに驚いた。

肝腎のその江戸時代の俳句というのが挙げられていないので、はっきりわからないのだが、「たんぽぽのぽぽのあたり」という言い方もあるのだろうか。少し調べてみたい話である。

posted by 松村正直 at 09:07| Comment(4) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする