2017年05月22日

「塔」2017年5月号(その2)

なまじろき項(うなじ)あらはになりてをりなほ立ち上がる赤鬼
青鬼                    篠野 京

節分の追儺式の場面。本物(?)の鬼ではないから、赤や青のかぶり物の隙間から人間の白っぽい皮膚が覗いているのだ。

ささずとも濡れないほどの、でも傘に徐々に雨粒はりついてゆく
                      中田明子

二句で切って「、でも」とつなぐ文体が印象的。「ささずとも濡れないほどの雨なれど」みたいにすると、全然面白くなくなってしまう。

かりそめの家族だろうかお湯割りは怒りを溶かすこともできない
                      大橋春人

かりそめのものと思っていた方が家族関係は楽かもしれない。焼酎のお湯割りを飲んでも家族の誰かに対する怒りが消えないのだ。

改修の済みたるトイレはずかしくしばらく別のフロアを使う
                      山名聡美

最近のトイレはとても明るく清潔になって、でも何だか落ち着かない。改修前は少し薄暗いけれど居心地の良いトイレだったのだ。

言ひづらきことも言ひたるわれの影千日草の花に触れゆく
                      朝井一恵

帰り道に相手の反応を思い返したりしながら、やや俯いて歩いているのだろう。千日草の丸い花に触れることで少し自分を慰めている。

何となく入れたくなったと言い添えて夫がはじめて買うバスクリン
                      大森千里

長年連れ添ってきた夫婦の感じがよく出ている。きっと何かしんどいことがあったのだろう。でも夫はそれを言わないし妻も訊きはしない。

ローマ字ではNANKOKUとある「南国」の標識あをし海が近づく
                      岡部かずみ

高知県南国市。「なんごく」ではなく「なんこく」であることを知って驚いたのだ。旅行の途中だろうか。明るい海の感じも伝わってくる。

晩柑をともしびとして食卓に船をいざなふごとく待ちをり
                      有櫛由之

誰かの訪れを待っている場面だろう。「船をいざなふごとく」がいい。夜の灯台のように、黄色い晩柑が一つ食卓に載っているのだ。
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2017年05月19日

「塔」2017年5月号(その1)

とかげのごと目蓋おしあげうたたねの母がときどきわたしを
さがす                     上條節子

「目蓋おしあげ」から高齢の母の様子がよく伝わってくる。作者の姿が近くに見えないと不安になるのだろう。

閑職に移されへこむわれでなし へこんだふりはせねばなら
ぬが                      森尻理恵

人事異動により閑職に回された作者。それくらいのことでは落ち込まない強さを持っているが、職場における駆け引きや戦いはまだ続く。

由比ヶ浜に唐船朽ちてゆくまでを実朝の聞きていし波の音
                        山下裕美

源実朝が宋に渡る計画を立て唐船を建造させた歴史を踏まえた歌。計画が失敗に終わって朽ちてゆく船をどんな思いで見ていたのか。

ゴールして抱へられゆく少女から冬枝のごとき腕(かひな)の
垂れる                     広瀬明子

マラソンを走り終えた女子選手の細い腕を「冬枝」に喩えているところが生々しい。鍛えられた肉体ではあるけれど、可哀そうにも感じる。

厨房で何かもめてる中華屋のアンニンドーフだけ聴き取れる
                        相原かろ

言い合いをする中国語が飛び交っているのだろう。杏仁豆腐という言葉だけが意味のあるものとして、かろうじて聞き取れるのだ。

清潔なロビーのようなこのひとの心に落とす夜のどんぐり
                        白水麻衣

少しよそよそしさもあって、相手の心に入り込めない感じがするのだろう。少しでもいいから自分の存在や思いを伝えたいのだ。

おまえも早く寝たほうがいいふりむけば遠赤外線ストーブの立つ
                        小川ちとせ

上句は誰かの台詞なのだろうが、まるでストーブが話し掛けたような感じがするのが面白い。離れた所から自分を見守ってくれている。

熾の上に灰のうつすら積る見ゆこの淋しさは人間のもの
                        高橋ひろ子

下句の思い切った断定がいい。暖炉や火鉢にある熾火に灰が白く積もっている場面。火の赤さは表からは見えずひっそりと静まっている。
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2017年05月17日

「歌壇」2017年6月号

小谷奈央「沼杉」20首がいい。かなり良い一連だと思う。

全体にひらがなが多く柔らかな詠みぶりが印象的。植物や生き物がたくさん出てくる。頭の中で思いを巡らせつつ自然の中を歩いているのだが、両者がない交ぜになっている感じもあって面白い。

からっぽと人に言われてかんがえるからっぽをいま繁縷が蔽う

誰かに「君はからっぽだ」とか「頭をからっぽにしろ」とか言われて、その意味を考えているのだろう。下句は空地や庭に繁縷がはびこるイメージ。

枯れ草のいろのつばさが揚がるとき辺りにあかるい音がちらばる

ひばりの明るい鳴き声が聞こえてくる場面。「ひばり」と言わずに表しているのがいい。大伴家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」を思い出す。

やったことひとつずつ消しやらなかったことはリストにそのままのこる

「やることリスト」を作って一つ一つ消しているのだ。やったことよりもやらなかったことの方が、後々までリストだけでなく胸にも残る。

なだらかな草の斜面を越えて行く小さな虫とぶつかりながら

蚊柱などだろうか。上句だけなら何でもないのだが、下句に体感があることで、ぐっと臨場感のある歌になった。

にんげんは笛だったからここで死ぬこともそのうち笛になるんだ

人間の身体が管であることから笛が出てきたのだと読む。一連の中でピークとなっている力強い歌。笛が人間になって、やがてまた笛に戻っていくということか。1首目の「からっぽ」とも響き合う。

たんたんと離れてゆけばつまずきぬ沼杉の根はここまで伸びる

水辺に生えている木。思わぬ場所まで気根が延びていたのだ。おそらく好きな木なのだろうが、逃げられないような不気味さも感じる。
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2017年05月13日

時評いくつか

各結社誌の時評欄には必ず目を通すようにしているが、毎月かなり充実していると思う。

「八雁」5月号の渡辺幸一「「合評余滴」について思うこと」は、率直で歯に衣着せぬ書き方が印象的であった。歌をめぐる議論の大切さを述べた文章である。

大切なのは「誰の作品のどこがいいか(あるいは悪いか)、その理由は何か」を具体的に明らかにすることである。当然ながらそうでなければ議論は始まらない。

歌壇の現状や歌の批判などをする際に、一般論ではなく具体的な人名や作品を挙げることの大切さを指摘していて、確かにその通りだと思う。この点、歌人は少し優しすぎるのかもしれない。

「梁」92号の上村典子「「読み」は金字塔」は、短歌の読みについての話。いくつもの話題を挙げているのだが、「ね」や「レチサンス」の話もあって、ちょうど「角川短歌」5月号の歌壇時評に私も書いたところだったので、面白かった。

「未来」5月号の服部真里子「内的要請と外的要請」は山中千瀬や石井辰彦の折句の歌を挙げて、「作者の内面の表白」という短歌観に疑問を呈したもの。

作者が内面を表白した歌が、名歌となることは確かにある。しかしその確率は、外的要請が名歌を生む確率とさほど変わらないのではないか。(・・・)作者自身の「表白」より、外的要請によってにじみ出てしまう何かの方が、作者を深く反映することはないだろうか。

これは確かにその通りだと思うところがあって、例えば「題詠」と「自由題」で一首ずつ歌を出してもらったりすると、外的要請のある「題詠」の方が意外と良い歌が多かったりする。

(ただし、そもそも短歌においては「定型」が最大の外的要請になっているのではないかという疑問もある。)

「短歌研究」5月号の短歌時評「歌読みは何を信じるか」では、高島裕が「人の〈本心〉がまず実体として存在し、短歌作品は、言葉によってその〈本心〉を表現したもの(であるべき)だ」という短歌観を批判しており、服部の指摘ともつながる内容だと感じた。

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2017年05月06日

「塔」2017年4月号(その2)

ミニカーの運転席に人はなくエアコンの風吹いてくるのみ
                       田村穂隆

ミニカーには人が乗っていないという発見の歌。その無機質な感じにエアコンの人工的な冷たい風がよく合っている。

吾の部屋の家主ノーマン・ブレッドと電話に話せど会いたる
ことなし                   高橋武司

家主が外国の方なのだ。確かに賃貸契約を結ぶ時も不動産屋を介してなので、家主と直接会うことはあまりない。何だか謎めいている。

思い出すときにあなたとその奥に降るぼたん雪、いつまでも冬
                       川上まなみ

思い出の中の時間は進むことがない。作者にとって忘れられない相手であるあなた。それが永遠に失われてしまったことも感じさせる。

開かない日もあるけれど止まり木のような一冊かばんにいれて
                       山名聡美

「止まり木のように」がいい。忙しく大変なことの多い生活の中で、ほっと一息つけるのが読書の時間。お守りのように鞄に入れている。

水差しが傾くような礼をしてしずかなるバスに乗りゆくきみは
                       石松 佳

「水差しが傾くような」がいい。相手の人のたたずまいがよく見えてくる。その礼儀正しさが、作者には少し寂しくもあるのだろう。

転ぶなと言う人のいて転んでもいいよと言う人のいて 冬の月
                       岩尾美加子

年配の方に「転ぶな」と言うことは多い。骨折が寝たきりの原因になるからだ。そんな中で「転んでもいい」という言葉が嬉しかったのだろう。

ポケットに両手つっこみ帰路につくわら半紙色の雲を見ながら
                       中西寒天

「わら半紙色の雲」がいい。晴天ではないのだけれど、どこか懐かしさや温かさを感じる。「両手つっこみ」の素っ気なさも微笑ましい。
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2017年05月05日

「塔」2017年4月号(その1)

われの死を諾はざらむものひとつ小さき心臓ペースメーカー
                       尾形 貢

「諾はざらむ」という把握が独特でおもしろい。自分の死後もずっと動き続けるペースメーカーのことを想像している。

君のこゑが雪と言ひたり覚めやらぬままになづきの仄か明るむ
                       溝川清久

寝床にいながらぼんやりと、窓を開けた君の少し驚いたような声を聞いている。「仄か明るむ」が雪明りもイメージさせる。

豊島屋の三和土に小さき板おかれ白猫すわる寒き目をして
                       佐原亜子

昔ながらの古いお店。三和土に直に座るのは冷たいので、ちゃんと猫の居場所が設けられているのだ。「豊島屋」という固有名詞がいい。

干拓地の町の名前は福、富、輝、栄、あけぼの付きてめでたし
                       加藤久子

干拓地には古い歴史や由緒が何もない。そこで人工的に付けられた縁起の良い名前の町ばかりが続くことになる。

住宅地のなかをゆったりカーブするミシン目はあり地図上の
暗渠                     北辻千展

暗渠はもとは地上にあった河川であるから、街区や道路と違って自然なカーブを描いている。地図にだけ残る失われた風景。

閉じている薔薇をゆさぶり今咲けというごと言葉は子を追い
つめる                    橋本恵美

花に向ってこんなことをする人がいたら変だと思うけれど、子育ての場面において、親はついつい同じようなことをしてしまう。

十五年着しセーターを捨てて今朝我が吉祥寺の街は消えたり
                       野 岬

吉祥寺の店で買ったのか、吉祥寺に住んでいたのか。物を捨てるというのは、それにまつわる思い出も捨てることなのである。
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2017年05月03日

「未来」2017年5月号

昨年「未来」に電撃的(僕のイメージ)に復帰した高島裕さんのインタビューが載っている。全8ページ。聞き手は錦見映理子さん。

高島さんの歌や人生の軌跡がよくまとまっていて、とても良かった。

みんな、親がアメリカに旅行に行ったとか仕事で行ったとかそういう話をしているなか、私が「父はマレーシアに戦争に行きました」っていうと大笑いされて(笑)
最初の頃は都市的な猥雑さを歌にしていましたけど、そのうち、そういうものを忌むようになって、「伝統詩としての短歌」というところに自分の根拠を求めるようになったんです。
やっぱり、私は岡井さんの弟子だっていうことですよね。岡井さんから学んだことは絶大だと思います。
歌である以上、今を生きている命のリアリティがないとだめなわけで、今を生きている以上、様式的な美からははみ出すことが常にあるわけです。
妻のグラフィックデザイナーの石崎悠子と出会ったということが大きいですね。他者の力で自分が変わっていくのに驚いたし、いい形で変わっていける相手だったんです。

どれも歌人高島裕や高島の歌を論じる際に、大事なポイントと言って良いだろう。今後の活躍がますます楽しみである。

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2017年04月30日

文明の後半戦

『景徳鎮』を読んでいて、思わず笑ってしまった歌がある。

『南集』『續南集』と読み継ぎて『續々南集』に倦み果つ
              大辻隆弘『景徳鎮』

そうだよなあ〜(笑)。これは、土屋文明の全歌集を読んだ人は誰しも感じるのではないかという思いだ。しかも、その後に、まだ『青南後集』『青南後集以後』が控えているのである。

アンソロジーや評論によく引かれる文明の歌は、第8歌集『自流泉』(昭和28年、文明63歳)までのものが多い。けれども、実はそれはまだ前半戦であって、第9歌集『青南集』以降の後半戦が相当に長いのである。何しろ文明は満100歳まで生きたのだ。

『青南集』1355首、『続青南集』1413首、『続々青南集』1290首という圧倒的なボリュームに、読んでも読んでも終わらないという感想を抱く。ひょっとすると、その苦行(?)に耐えることが文明の歌を理解するには不可欠なのかもしれない。
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2017年04月25日

平井弘インタビュー

「塔」2017年3月号・4月号に掲載された平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」が、とてもおもしろい。平井さんのファンは必読だと思うし、短歌の文体や口語、他者、社会詠の問題を考えるヒントもたくさん出てくる。

私が歌を作り始めた頃一番影響を受けたのは相良宏ですね。
あと作家で言えば、最初の頃は大江健三郎の影響はもうたくさん受けてます。
短歌というのは、やっぱり一人称の詩型だから、相手を見るときにどうしても自分の投影になっちゃうんですね。どうしてもその相手は他者としての性格をなくしちゃってるんですよ。
主体のねじれがあると嫌われますけど、私の歌の中ではそれが無意識にいっぱい出てくるんですよ。
多義性は絶対手放したくないし、手放せないんですよね。私の歌から多義性取ったらもう何も残らない。
安倍政権が悪いったって、対者を倒したらそれでいいのかというと、そういう問題じゃないと思う。選んだ自分たちの方が変わらないと、安倍さん倒したところで何も本質は変わらないですよ。

最初から最後まで、驚くほど率直に語って下さっている。
記憶も思考も非常に明晰で、やはりただ者ではないという感じだ。
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2017年03月24日

「塔」2017年3月号(その2)

三人の子は三様の声なれど三様にしてわれと似てをり
                   千名民時

別々の声なのだけれど、それぞれにどこか自分と似ている。声を通じて親子という関係をあらためて捉え直した歌。

瘤白鳥 沼に生まれて沼にすみ沼より出でずひくく空とぶ
                   田中ミハル

「沼」を三回繰り返したところが良い。「白鳥」ではなく「瘤白鳥」であること、また「ひくく」という表現にも、翳りが感じられる。

食事終へて気づきぬ背後に立つものが人ではなくてゴムの木
だったと               野 岬

レストランだろうか。何かが立っている気配をずっと感じながら食事をしていたのだ。拍子抜けしたような気分がよく表れている。

食欲のまたなくなりし吾がために夫は山形の「とびきりそば」
求めき                岩淵令子

ネーミングが面白い。きっととびきり美味しいそばで、作者の好物なのだろう。少しでも食べられるものをと考える夫の愛情もよく伝わる。

エコー見て子宮全摘われに言う女医は今月産休に入る
                   身野佳奈

上句だけでもショックな内容の歌であるが、下句があることで凄味を増している。偶然の出来事で、誰が悪いわけでもないのだけれど。

牛乳代百円もらいに娘たちのれんをくぐり男湯へゆく
                   茂出木智子

お金を持っている父親がいるのだ。まだ幼くて無邪気に男湯へと入って行く娘たち。数年もすれば見られなくなる光景である。

デスクには「白い恋人」二枚あり忌引を終えし同僚からの
                   和田かな子

同僚は北海道の出身なのだろう。忌引明けに職場のデスクにお土産を配って回ったのだ。「白い恋人」二枚という具体が効いている。

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2017年03月23日

「塔」2017年3月号(その1)

しない方がよい練習といふものはそれをたくさんした後わかる
                    河野美砂子

逆説を含んだ格言のような歌。ピアノの練習の話なのだろうが、他のいろいろなことにも当て嵌まりそうな気がする。

あかりひとつ消せば隣の部屋の声くきやかになるホテル東洋
                    小林真代

電気を消して部屋が暗くなると、聴覚が敏感になる。あまり防音が良くない少し古めかしいホテルが思い浮かぶ。

地穴子の弁当のへぎに輪ゴムかけ母との夕食六時に終えぬ
                    上條節子

昔ながらのへぎ板の箱に入った穴子弁当。年を取った母と二人で早い夕食をとる。穴子は母の好物なのかもしれない。

三十万も仔がいるという平茂勝(ひらしげかつ)は黒光りする
銅像の牛                北辻千展

三十万という数に驚くが、非常に優秀な種牛だったのだろう。「平茂勝」がまるで人名のように見えるところが面白い。

仏像の五指の反り見てしばらくをまねしてをりぬ仏のやうに
                    中野敏子

美しく伸びた指を見ているうちにふと真似したくなったのだろう。結句「仏のやうに」が不思議な味わいを生んでいる。

妖精のようだとわれは評されて焼き鳥、串から外しにくいね
                    白水麻衣

誉め言葉のつもりなのだろうが、言われてあまり嬉しい譬えでもない。下句の居酒屋の場面との取り合わせがいい。

願ひごとのせし土器(かはらけ)落ちゆくはあまた土器積りし
ところ                 久岡貴子

土器投げで投げられた土器が、みな同じような所に落ちていくのだろう。本当にこれで願い事が叶うのかなあと苦笑しているような感じ。
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2017年03月21日

「羽根と根」 5号

10名の同人の作品が載っている。数は14首、26首、22首、20首、10首、50首、10首、8首、10首、47首と、人によって大きく違う。

コンビニの前のベンチにほそぼそと煙草燃やして薄着のふたり
野球部がまた野球部を連れてくるそろそろやめたいなこのバイト
        中村美智「きみはファンキーモンキーベイベー」

1首目、「吸って」ではなく「燃やして」なのがいい。特に何をしているでもない感じ。
2首目、同じ野球部の仲間をバイトに引き込んだのだ。バイトする人たちの中で大きな勢力になっていくのが鬱陶しい。

近況は途中で爪にある白いところがないって話に変わる
脚注をさがす半分手のひらを今のページのはさんでおいて
信じることと信じるふりをすることの間にモッコウバラがあふれる
        牛尾今日子「にんにくを刻む」

1首目、近況を話しながら爪をいじったりしていたのだろう。
2首目、「脚注をさがす」で切れる。「元のページ」ではなく「今のページ」としたところに臨場感がある。
3首目、少し翳りのある上句とモッコウバラのひたすらな明るさの取り合わせが印象的。

ボーダーを着てボーダーの服買いに行くのはながいきの
おまじない   橋爪志保「世界中の鳥の名前」

「服買いに/行くのはながい/きのおまじない」の句跨りが面白い。イ音が響く。

渡るとき渡り廊下は保ちたり川の澱みのごとき暗さを
自習する時間を人は窓に向くときおり鳥の眼差しをして
辞めるのも選択だろうと笑いあう辞めたるのちの選択もなく
樹を植えるように机をそろえればまた教室にゆうぐれはくる
        坂井ユリ「花器の欠片が散らばるごとく」

1首目、学校の渡り廊下が持っている独特の質感。
2首目、「時間を人は窓に向く」の助詞の使い方がいい。
3首目、仕事を辞めてしまえばその後はないという現実の厳しさ。
4首目、「樹を植えるように」という比喩がにいい。一台ずつ一人で丁寧に揃えていく。

忘れたら思い出すだけ どの鞄にも入れっぱなしのハンド
クリーム    佐伯紺「いつでも急な雨に備えて」

初二句の言い切りに明るさがある。三句以下との取り合わせも面白い。とにかく大丈夫という安心感がある。

2016年11月23日、500円。

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2017年02月27日

「塔」2017年2月号(その2)

珈琲に息ふきかけてはつふゆの湖面のように晴れてゆく湯気
                     安田 茜

珈琲から立ち昇る湯気を湖面の霧に喩えているところが鮮やか。スケールの全く違うものが比喩によって一瞬で結び付く。

お母さんも喘息ですね かつてのわが苦しみまでも名を付け
られぬ                  丸本ふみ

子が喘息で苦しんでいるのだろう。医師が軽い気持ちで言った言葉を聞いて、子の病気が自分のせいなのかと思い悩むのである。

自転車ごと乗りこむ二両の飯坂線冬の帽子を目深にかぶり
                     佐藤涼子

近年、自転車を車内に持ち込めるサイクルトレインが少しずつ広がっている。「二両」というところからローカル線の様子も伝わる。

ピーマンは豊かに稔り実の中にいま満ちてゐむみどりの光
                     高橋ひろ子

畑に実るピーマンを見ながら、その中に入ってみたかのような想像をしている。ピーマンには空洞があるので、小人なら住めそうだ。

晩年は光届かぬ目となりし画家のまなうらに光る睡蓮
                     魚谷真梨子

モネのことだろう。目が見えないと言わずに「光届かぬ目」と表現したのがいい。自分がかつて描いた作品が目の奥で光っている。

明け方のどこかで犬が鳴いてゐる声のまはりを滲ませながら
                     岡部かずみ

下句がおもしろい。鳴き声だけを聞きながら、そのまわりの空気の震えのようなものを感じ取っている。そこだけがほのかに明るい感じ。

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2017年02月26日

「塔」2017年2月号(その1)

どのビルにも屋上があるということを暮れ残りたる屋上に知る
                        白水麻衣

夕暮れの屋上から町を眺めている様子だろう。地上はすっかり暗くなっているのに屋上にはまだうっすらと明るさが残っている。

鎌倉や耳朶に穴ある仏なれば耳朶の向かうに空の見えたり
                        永山凌平

鎌倉の大仏の耳には穴が開いていて、そこから空が覗くのだ。初句、与謝野晶子の「美男におはす」の歌を思い出させる。

ほんのりと擦れば香るとふ栞こすらず送る手紙に添へて
                        越智ひとみ

香りが薄れてしまわないように、慎重な手付きで封筒に入れているところだろう。相手への大事なプレゼントなのだ。

火にかざしジャム瓶の蓋ゆるめつつ少年という瓶をおもえり
                        中田明子

おそらく頑なな態度を見せることのある少年なのだろう。ジャムの瓶と違って、こうすれば簡単に開くというわけにはいかない。

ロキソニン湿布の裏に書かれたる富山の地名もういちど読む
                        松原あけみ

痛み止めとして一般的によく使われているロキソニン。こんなところにも「富山の薬売り」以来の伝統が生きているのか。

「雨る」を「ふる」と読めぬ我なりたそがれの雨は真直ぐにしらじら
と降る                     丸山順司

渡辺松男の歌集名を受けての歌だろう。「雨る」を「ふる」と読むことへの違和感と、そんな自分の生真面目さを少し疎ましく思う気持ちと。


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2017年02月06日

橋本喜典さん

2月号の総合誌を読んでいて気づいたのだが、「角川短歌」「短歌研究」「歌壇」の巻頭作品の最初がすべて橋本喜典さんである。

聞こえざる耳傾けて聞かむとし目の前にある天婦羅食へず
                 「角川短歌」2月号
わが思惟はいま活発にうごきをり雨に打たるる石見つつゐて
                 「短歌研究」2月号
亡くなりしひとはこの世に会へぬなりその当然をなぜまた思ふ
                 「歌壇」2月号

それぞれ31首、15首、20首の連作。「現代短歌」2月号にも7首載っているので、あわせて実に73首(!)だ。

橋本さんは昨年11月に歌集『行きて帰る』を出されたので、それを受けて原稿依頼したところ、たまたま重なったということだろう。しかも、巻頭作品が何人かいる時は年齢順に並べるのが慣習なので、3誌とも橋本さんが一番最初になったわけである。

このあたりに総合誌の編集方法の限界を見ることもできるわけだが、橋本さんに注目が集まること自体はとても嬉しいことだ。『行きて帰る』も味わいのある良い歌集であった。
http://matsutanka.seesaa.net/article/443295594.html

結社誌「まひる野」の巻頭も橋本さんである。

歓びと驚きとそして可憐さを まあ。の一字に伝ふる手紙
                  「まひる野」2月号

後記によれば、橋本さんは昨年末を持って「まひる野」の編集委員を退任されたとのこと。

○昨年十二月を以て編集委員(運営委員)を辞することにしました。視覚障害が進み選歌の責任が十分に果たせないと判断したことが最大の理由です。昭和23年夏、入会するや編集のお手伝いから始まって、編集・運営に関するすべてを経験し、じつに多くのことを学びました。七十年近い作家生活の根源にはこれらの仕事による「まひる野」への愛着がありました。もちろん退会するわけではありません。これからは一会員として作品を(時には文章も)発表したいと思います。多くの病気をかかえる身ですが、この書屋爽庵でたのしく歌の生活をつづけたいと念じています。ときにはどうぞ、お尋ねください。(橋本)

書き写しているだけで涙がこぼれそうになる。
長年たずさわってきた役割を離れて、今どんなにか寂しいことだろう。
本当にお疲れさまでした。

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2017年02月02日

「塔」2017年1月号(その2)

洞(うろ)みせて舟屋ゐならぶ伊根湾に遊覧船はターンをはじむ
                     竹下文子

「舟屋」は一階部分が海に面して船を入れられる造りになっている。その暗がりを「洞」と表現したのがうまい。湾の風景が見えてくる。

客のない料理店(レストラン)の窓はなたれて額縁の中に貴婦人
立てり                 朝日みさ

開店準備をしているところだろうか。壁に飾られた絵の中の貴婦人がまるで生きているかのような存在感を放っている。

片側に止まりて待てばすれ違ふ少女の腰の熊鈴の音
                     穂積みづほ

山道を歩いているところだろう。道幅が狭くて、どちらかが止まらないとすれ違えないのだ。「熊鈴の音」だけがあたりに響いている。

アメンボが一匹二匹三匹とどんどん増えて雨粒となる
                     村ア 京

水面にできた波紋をアメンボに喩えている歌。最初はアメンボが動いているかと思ったら実は雨だったという感じかもしれない。

頼ることの苦手な母より電話ありいつかくる日が今きたと知る
                     八木佐織

もう自分一人ではどうしようもなくなって、母が助けを求めてきたのだ。覚悟していた事態がいよいよ現実になったという緊迫感がよく表れている。

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2017年02月01日

「塔」2017年1月号(その1)

兄姉を持たざるわれが妹にその味をきく法事の席に
                 大橋智恵子

作者は長女なのだろう。年上のきょうだいがいるというのはどんな気分なのか、妹に聞いてみたのである。「味」という言葉の選びがいい。

シャッターを上げた幅だけ陽のさして一生(ひとよ)をおえし
金魚を映す           中村佳世

陽の光が死んだ金魚の姿を浮かび上がらせている。「シャッターを上げた幅だけ」という描写が巧みで、場面が見えてくる。

おとろえる猫に添いつつ短篇をいくつも読んで夏が過ぎゆく
                 桶田夕美

年老いた猫がいるので、なかなか外出もできないのだ。長篇に没頭する気分にもなれず「短篇」を読んでいるところに実感がある。

春光は明朝体と思うとき文字で溢れる僕たちの庭
                 千種創一

春の明るく鮮やかな光を「明朝体」のようだと感じたのだろう。二人の庭に無数の明朝体の文字が躍っている。

優秀なデジタルカメラは外壁に描かれし啄木のかほ認識す
                 逢坂みずき

文学館などを訪れた場面だろう。カメラの顔認識機能が、壁に描かれた顔にピントを合わせたのだ。「優秀な」にユーモアが感じられる。

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2017年01月20日

「現代短歌」2月号(その2)

もう一つ感じたのは、沖縄に関する特集で樺太の話を出してもらえたことに対する喜びである。沖縄と樺太では全く関係ないと思う人もいるかもしれない。でも、歴史をさかのぼり、近代国民国家としての「日本」の成り立ちを考えれば、沖縄と樺太にはいくつもの共通点がある。

例えば、『樺太を訪れた歌人たち』の最初の「北見志保子とオタスの杜」の中で、私は北方少数民族に対する現在の目から見れば差別的な意識や扱いについて触れた。本の中に載せた当時の絵葉書には「オロツコ土人」というキャプションが付いている。

この「土人」という言葉は、昨年大きな話題となった。今回の特集の中でも何人もの歌人が、沖縄で警備にあたる機動隊員が「土人」という言葉を発した問題を歌に詠んでいる。つまり、戦前の樺太で起きていた出来事を国家の「中央―周辺」という問題として捉え直せば、それは現在の沖縄の問題にもつながってくる話なのだ。

私は「戦前」の「樺太」について調べているけれど、それは単に過去の、既に終ってしまった、現在とは無関係のことをほじくり返すということではない。すべては現在に深くつながる問題として興味を持っているのである。

昨年末に新聞の取材を受けた時もちょうどそういう話をしたところだったので、今回の光森さんの文章をとても嬉しく読んだのであった。

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2017年01月19日

「現代短歌」2月号(その1)

「沖縄を詠む」という特集が63ページにわたって組まれていて、じっくりと読んだ。この特集については、また別の場所で書こうと思う。

ここでは一点だけ。
光森裕樹さんの文章の最初に僕の名前が出ているのに驚いた。

松村正直がサハリンを訪れたことを知ったのは、昨年の夏だった。樺太についての連載が「短歌往来」で展開されていた頃から、その情熱が松村を現地に導く予感はあった。それが実現したということが頭の中を一日中巡り、夜更けになって急に涙が溢れた。

ええっ! 何で泣いているの? とびっくりする。
光森さんとは特に親しい間柄でもなく、批評会などの場で何度か会ったことがあるだけだ。

でも、光森さんの2ページの文章を読んでみて、いろいろと自分なりに納得するところがあった。

一つは、光森さんも書いているように、私は『樺太を訪れた歌人たち』という本を書いただけでなく、自分もまた「樺太を訪れた歌人たち」の一人になったのだな、ということである。これは、今回言われてみて初めて気づいたことだった。

短歌には、きっとこんなふうに人を動かす力があるのだろう。詠む人や読む人の心を動かすだけでなく、実際に人の身体を動かし、人生を動かすことがある。短歌はそれだけの力を持っているのだ。(つづく)

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2016年12月22日

「塔」2016年12月号(その2)

花火の音をこわがる子を抱いて母でしかない夜を肯う
                     春澄ちえ

小さな子なので家に聞こえてくる花火の音を怖がるのだろう。「母でしかない夜」という表現が強烈で、それを「肯う」と言い切ったところに強さを感じる。

滝のぼるごとくうねりて塩まとひあゆはじりじり焼かれてゆきぬ
                     足立訓子

うねるような姿で串に刺されている鮎。初二句で生き生きとした姿が思い浮かぶだけに、下句の現実との落差が哀れを誘う。

新選組の羽織の色を思はせてアサギマダラの庭に舞ひをり
                     黒瀬圭子

アサギマダラと言うと長距離を移動することや藤袴の蜜を吸うことがよく題材になるが、これは水色と黒の色に着目している。そう言えば、羽織もひらひらする。

スカートをはかなくなってもう二年 置き去りの足が砂浜にある
                     大森千里

下句がとても印象的。スカートから出ていた素足が、今もそのまま砂浜に残されているようで、寂しさが滲む。年齢的なことだろうか。

新刊の本の間に栞紐「の」の字うっすら紙に沈めて
                     平田瑞子

結句の「沈めて」という動詞が良い。栞紐の跡が本に付いている光景はよく詠まれるが、これは「沈めて」で歌になった。

4の段を終へて5の段6の段 6×7(ろくしち)あたりでいつも
つまづく                 加藤 宙

確かにそうだよなあと思う。九九の間違えやすいところ。計算というよりも発音しにくいことが関係しているような気がする。


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2016年12月21日

「塔」2016年12月号(その1)

I−4、シネリーブルの最後列右端の席にけふも沈みをり
                    上杉和子

映画館に行った時にいつも選ぶお気に入りの席。前からABC・・・とあって一番後ろのI列。その列はおそらく変則的に4席しかないのだ。

ふたり居れば別れは必ず来るものを 分かりなさいと蝶が舞ひ
ゆく                  野島光世

どちらか一方が死ぬにせよ出て行くにせよ、必ず別れの時は来る。「分かりなさい」は自分自身に言い聞かせている感じだろう。

睡蓮の鉢に空あり雀来てくちづけし後みづは残れり
                    清水弘子

鉢の水に映っていた空が、雀のくちばしが触れたとたん手品のようにパッと消えて、後には水だけが残っているような不思議な感じの歌。

見えずとも分水界のあることの、あなたは別の海にゆくひと
                    白石瑞紀

どんなに近くにいても、やがては別れる運命の人。「分水界」という比喩と、三句の「の」のつなぎ方が寂しさを滲ませている。

手をつなぎ見る曼珠沙華 他人には戻れないのがすこし寂しい
                    上澄 眠

二人は夫婦か恋人なのだろう。一度関係を結んでしまえば、たとえ別れたとしても再び全くの他人同士に戻ることはできない。

おのずから身を裂くことの熱量の柘榴、くりの実、飴いろの蟬
                    福西直美

熟して割れた柘榴、弾けた栗の毬、脱皮した蟬。内側から溢れ出るような力で自分を壊すものたち。その激しい情熱への憧れが作者にはあるのだろう。

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2016年12月17日

「角川短歌年鑑」平成29年版

座談会「現代短歌は新しい局面に入ったのか」。
参加者は川野里子・大辻隆弘・魚村晋太郎・永井祐・佐佐木定綱・阿波野巧也。

タイトルがどうなのかなとは思うけれど(毎年のようにこんなことを言っている気がする)、座談会自体は面白かった。特に印象に残ったのが、永井祐さんの二つの発言。

口語短歌の拡大というのは、おのずからモチーフの拡大になるのではないかと。つまり青春とか成熟拒否的なメンタリティ以外のものを描けるようになることを意味しているのではないかと思います。
平たく言うと短歌とは何々であるということが限りなく言いにくくなっていった結果、短歌とは五七五七七であるというトートロジーが最強になるみたいなこと。

発言の最後の結論部分だけ引いたのでわかりにくいかもしれないが、どちらも刺激的かつ緻密で説得力のある内容であった。

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2016年12月13日

「六花」vol.1

「詩歌―気になるモノ、こと、人」というテーマで18人が文章を書いている(私も書いています)ほか、菊池孝彦さんの高瀬一誌論と花笠海月さんの「六花書林10.5周年記念フェア」のレポートが載っている。

http://rikkasyorin.com/rikka.html

これは、かなり面白い。
短歌総合誌の特集なんかより、よっぽど面白いかもしれない。

みんな自分の興味のままに書いているので、雑多というかバラエティに富んでいるのだが、書き手の熱意がそれぞれに伝わってきて楽しい。

菫ほどな小さき人に生れたし 漱石
   (田中亜美「菫ほどな」)
そもそも透谷や芭蕉の言葉を射程に入れて、歌を読んだり、詠もうとしたりすること自体馬鹿げているといわれれば、それに返す言葉を、残念ながら今の僕は持っていない。
   (難波一義「透谷が問い続けるもの」)
先だって行われた大島史洋氏の「迢空賞」授賞パーティーで見た阿木津を思い出した。
   (岡崎裕美子「土屋文明記念館」へ行った)

この三つは全く関係のない文章なのだが、先日の現代歌人集会秋季大会で聴いた阿木津英さんの講演「芭蕉以後のうた〜玉城徹を考える」に不思議とつながってくる。

「ひとまず年一回刊行を目標とする」とのことなので、次号を楽しみに待ちたい。

2016年12月5日、六花書林、700円。

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2016年11月22日

「短歌往来」2016年12月号

あちこちで短歌に関する文章を書いているが、こちらの意図がうまく伝わらないことも多い。

「短歌往来」12月号の評論月評に田中教子さんが次のように書いている。

「角川短歌」二〇一六年十一月号には「創作における装飾」と題する特集が組まれている。この「装飾」は「虚構」と同義にとらえられ、事実(リアリズム)か虚構(反リアリズム)か、という方法論への問いかけとなっている。
先ずリアリズム肯定派は、松村正直氏と楠誓英氏である。

えっ、と読んでいてびっくりしてしまう。

「角川短歌」で私は、一番最初に「事実か虚構かの二分法」に疑問を呈し、

事実と虚構とはそんなに明確に分けられるものなのだろうか。

と書いた。「そもそも芸術というものは、すべて事実と虚構の微妙な境界の上に成り立っているものである」とも書いた。

それなのに、勝手に「リアリズム肯定派」に分類されてしまうのだ。そういう単純で図式的な分類こそ、私が一番排除したかったものであるのに。

こういう反応を読むと、文章を書くことが何だか虚しいことのような気がしてしまう。

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2016年11月18日

「塔」2016年11月号(その2)

すべり台使わんとして登る娘の少し死者へと近づく高さ
                    鈴木四季

下句に驚かされる。地面に立っている時よりも少しだけ死者に近いという感覚。落ちたら危険ということも含めて、何となく納得させられる。

人生はあなたなしでも続くから盆の終わりに小さく泣くよ
                    大橋春人

どんなに掛け替えのない人の死であっても、残った人の人生はその後も続いていく。「泣く」ではなく「泣くよ」なのがいい。

輪郭のぱりりと軽い鯛焼きに口をあてては熱を食みゆく
                    小田桐夕

鯛焼きを食べているだけの歌だが、「輪郭のぱりりと軽い」「熱を食みゆく」という修辞が的確で、必要十分な歌に仕上がっている。

その死からもっとも遠き日の顔で叔母が笑えり写真のなかに
                    菊井直子

まだ元気で生き生きとしていた頃の写真が遺影となっているのだろう。反対に言えば、亡くなる前はそういう姿ではなかったということだ。

どちらかと言えば仕事の愚痴を聞く側で積まれる枝豆の鞘
                    山口 蓮

愚痴をこぼす方も大変だが、聞く方も大変である。作者は性格的にいつも聞く方になってしまうのだろう。「枝豆の鞘」の空虚感。

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2016年11月17日

「塔」2016年11月号(その1)

沈む陽は窓より深く射し入りて冷蔵庫の把手しばし耀ふ
                   田附昭二

夕方の陽ざしが家の奥まで射し込んで来て、金属の把手部分を美しく光らせている。その輝きはやがて消えてしまうものだ。

少女とわれの夏の時間はみじかくて西瓜の種をならんで飛ばす
                    石井夢津子

「少女」はお孫さんだろうか。ありふれた何気ない場面。でも、それが掛け替えのない時間であることを作者は知っている。

客二人乗務員一人ゴンドラは霧に見えざるロープを下る
                    久岡貴子

「客二人」は作者と連れの人なのだろう。唯一の頼りであるロープが見えないことの不安と楽しさ、そして浮遊感。

倒木の覆ふ流れを汲みて飲む木の香を帯ぶる冷たき水を
                    富樫榮太郎

「木の香を帯ぶる」がいい。山の中のきれいな流れなのだろう。歩き疲れた身体に鮮烈にしみてくる。

肢そろへ横腹見せて寝ねてをり殺されやすき姿で犬は
                    野 岬

よく見かける光景であるが、下句にハッとさせられる。確かに、横腹を見せるというのは、野生の動物とは違う無防備な姿なのだ。


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2016年11月12日

「九大短歌」第四号

全32ページ、中綴じ。最近の学生短歌会の機関誌には立派な装丁のものも多いのだが、これは手作り感のある素朴な仕上がり。誌面を見る限り主に4名で活動しているようで、楽しそうな会の雰囲気が伝わってくる。

主なき千度の春に削られて飛べない梅に触れる霧雨
                 松本里佳子

太宰府吟行で詠まれた歌。千年の風雪に耐えてきた「飛梅」の姿が彷彿とする。

とろろわさび牛丼辛くて東京のすき家でこっそりたくさん泣いた
                 真崎愛

一人で牛丼を食べて涙を流す。「東京」で何かつらいことがあったのかもしれない。

教卓に潜ればふかく沈みゆく水兵リーベぼくたちの船
                 松本里佳子

かくれんぼでもしているところか。「潜れば」「沈み」「水兵」「船」と縁語のように言葉が続く。「ぼくの船」を「ぼくたちの船」に変えたところがいい。

青い実に並べる歯形どうしてもべつべつの地獄におちてゆく
                 松本里佳子

一緒の地獄に落ちることはできないということだろう。果実に付いた「歯形」と「地獄」の取り合わせがうまい。

平地より五度は低い、と説明をここでも聞いて風呂へくだりつ
                 山下翔

「温泉」50首から。雲仙の温泉宿での歌。雲仙は涼しいというのが謳い文句になっているのだろう。かぎ括弧がないのがいい。

正直に話さうとして説明がややこしくなるを湯に浮かべたり
                 山下翔

「きみ」と湯につかりながら、作者には何か話さなくてはならないことがあるようだ。でも、なかなか言い出せない。

この夏をいかに過ごしてゐるならむ花火のひとつでも見てれば
いいが              山下翔

母のことを詠んだ歌。しばらく会っていないようだ。なかなか会いに行けない事情があるのかもしれない。

「温泉」50首はかなり読ませる連作だと思う。「きみ」との関係や、家族の形、母に対する思いなど、作者の心の微妙な揺らぎが丁寧に詠まれている。具体的な事情ははっきりとはわからないけれど、それは別にわかる必要もない。どの家族にもそれぞれの事情があって、だからこそ哀しくも愛しいのだ。

2016年10月30日、300円。

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2016年10月28日

「レ・パピエ・シアンU」2016年10月号

特集「佐藤佐太郎を読む」に大辻隆弘さんが書いている評論「冗語のちから」が良い。佐太郎短歌のかなり本質的な部分に迫る内容だ。

短歌は、短い歌、と書く。が、実際に歌を作る時、短いと感じる事はほとんどない。短歌はいつも長すぎる。

これは、ある程度短歌を続けてきた人には、よくわかる感覚だろう。初心者の頃はぎゅうぎゅうに言葉を詰め込んで、それでも31音に入り切らなかったりするのだが、短歌に慣れてくると逆に31音は長すぎるくらいなのだ。

大辻は佐太郎の歌によく出てくる「あるときは」「おしなべて」「おほよそに」「あらかじめ」「ひとしきり」「をりをりに」「おのづから」などを例に挙げて、次のように言う。

佐太郎は「何も足さない言葉」を実に豊富に駆使する歌人である。彼はそれを「冗語」と呼んだ。ほとんど意味を付与しない言葉を一首のなかにサラリと挿入する。それによって歌が驚くほどのびやかになる。
歌の叙述内容は、極限まで削ぎ落とす。省略を利かせ、事象のエッセンスだけを精錬する。その上で、そこに出来た間隙に何でもない、ほとんど意味内容のない、しかし、調べの美しさを醸し出す「冗語」を入れる。

非常に鋭い指摘であり、短歌にとって大切なことを言っている。

カルチャーセンターで短歌を教えていると、「結句が要らない」といった批評をすることがしばしばある。四句目までで意味としては十分ということだ。けれども、そう指摘すると、生徒さんは元の結句の代わりに得てしてさらに不要な結句を持って来ようとする。

特別な意味を持たない言葉で字数を埋めるというのは、実はけっこう難しいことなのだ。

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2016年10月27日

角川「短歌」2016年11月号

穂村弘さんの「熱い犬」31首が、何だかおもしろい。
(以下、ネタバレあり。まだ作品を読んでいない方はご注意下さい)

熱い犬という不思議な食べ物から赤と黄色があふれだす夏

1首目。ホットドッグからはみ出す原色のケチャップとマスタード。

海からの風きらめけば逆立ちのケチャップ逆立ちのマスタード

5首目まで来てまるで答え合わせをしているみたいに、この歌がある。「逆立ちの/ケチャップ逆立/ちのマスタード」の句跨りが効果的。

さっきまで食べていたのに上空を旋回してるホットドッグよ

7首目。突然、ホットドッグが空を飛ぶ。なぜ???

そして、ホットドッグのことなどすっかり忘れかけていた31首目(最後の歌)になって

僕たちの指を少しも傷つけずホットドッグを攫っていった

おお! 鳥(トンビ?)に持って行かれたわけか! だから「旋回してる」んだ。

7首目から31首目へ、こんなに間を空けて話がつながることにグッと来た。

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2016年10月21日

「現代短歌」2016年11月号

特集「わたしの誌面批評」がおもしろい。
28名が短歌総合誌についての率直な意見を述べている。

共感したものをいくつか引こう。

【安田純生】
一例をあげると、俳諧(俳句)や川柳、歌謡の歌詞、さらに狂歌といった隣接のジャンルと短歌との繋がりを視野に入れた企画である。
【坂井修一】
委員の選評は、賞の価値が重くなるほど短い感想文となる傾向があるように見えます。これはなぜでしょうか。選者にはもっときちんとした説明責任があるのではないでしょうか。
【藤島秀憲】
依頼原稿を送った後で、ダメ出しというものをされたことがない。わたしが優秀なのではなく、書き直しなどのダメ出しの習慣が総合誌にはないのだろう。あっても良いと思う。
【佐藤弓生】
短歌誌は「総合誌」ではなく「専門誌」と称すればいいのに、とも思う。
【光森裕樹】
執筆依頼の際に原稿料もご連絡いただけますか。「業界の慣習」と言われれば黙す他ありませんが、時代にそぐわない悪習だと思います。

こうした意見を受けて編集者が編集後記に書いていることも、なかなかすごい。

☆編集者の仕事は一義的には、原稿の依頼です。寄せられた作品、評論、エッセイ、コラム等の質がその号の質を決定します。言い換えれば、一本の原稿がその号の水準を引き上げます。そういう原稿に接する瞬間に、編集者の幸福はあります。
☆しかし、そんな幸福を与えてくれる書き手は残念ながら、そう多くはない。

あれこれ文句ばかり言ってないで歌人はもっと良い原稿を書けよ、ということか。これは、奮起を促しているのか、喧嘩を売っているのか、どっちなんだろう。

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2016年10月20日

「梁」91号

九州の歌人を中心とした「現代短歌・南の会」発行の同人誌。
大森静佳さんの連載「河野裕子の歌鏡」がいよいよ最終回を迎えた。

86号から全6回にわたって河野さんの歌集15冊を読み進めていった力作である。何よりも引用歌の選びや一首一首の読みが光っている。これは評論にとって非常に大切なことだ。

今回は『母系』『葦舟』『蟬声』の3歌集について論じている。

晩年の河野の歌について、特に言葉や文体に即して論じた文章は、現時点ではまだ少ない。

とある通り、病気や死をめぐる境涯や物語ばかりが語られがち晩年の河野について、冷静にその歌の持つ魅力や特徴を丁寧に解き明かしている。

自分一人では支えきれないような現実の重さを、少しだけ植物や花に預けるような、縋るような文体が、晩年の河野にはあった。
口語では「詠嘆」が難しいと言われているが、河野はそこのところを「〜よ」「ああ」「なんと」「どんなに」、あるいはこそあど言葉や命令形、疑問形などを縦横無尽に駆使して、とても息遣い豊かな文体を生み出している。
晩年の河野裕子は、その文体からしても精神のありようからしても、呼びかけの歌人であり、対話の歌人であった。それを考えると、後期の河野裕子の口語化は、偶然や時代の要請、影響というのみならず、やはり紛れなく必然のものだったのではないだろうか。

こうした指摘は、大森が河野の歌を読み解く中で自らつかみ取ったものばかりだ。だからこそ、読んでいて楽しく生き生きとした評論になっているのである。

いずれ一冊の本にまとめられる日を楽しみに待ちたい。

2016年10月20日、現代短歌・南の会、1500円。

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2016年10月15日

「塔」2016年10月号(その2)

台所中にちらばる飯粒を拭きおえしのち焼飯を食う
                   田村龍平

相当豪快にフライパンを振ったんだろう。でも、食べる前にちゃんと拭いているところが微笑ましい。一人の食事の感じ。

バスの窓ガラスに額を押しつけて昆布のゆらぐ海を見ており
                   松浦わか子

旅先の風景だろうか。海岸沿いを走るバスから、海の中に揺らめく昆布が見えるのだ。「額を押しつけて」に体感がある。

トンネルの合間にのぞく熱海から秘宝館など見つけるあそび
                   山名聡美

今では全国でも数少なくなった秘宝館。新幹線の車窓から眺めているのだろう。上句の描写が的確で、「のぞく」という語の選びが良い。

屋久島できかぬ名まへと尋ねれば種子島から来たのだと言ふ
                   山尾春美

島によって特徴的な名字があるのだろう。例えば対馬には阿比留さんが多い。隣り合う屋久島と種子島でも随分と違うのだ。

封筒に息をふきこみふくらませ遠くの人への手紙を入れる
                   高原さやか

息を吹き込むのは封筒を広げるためだが、相手に思いを届ける祈りのようでもる。「遠くの人」がよく効いている。

何にでもなれる(なれない)者としてビニール傘をコンビニで買う
                   山口 蓮

人は何にでもなれる可能性を持ちながら、実際は何にでもなれるわけではない。その二面性が、色のないビニール傘とよく合っている。

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2016年10月14日

「塔」2016年10月号(その1)

ときをりは薄暗がりに溶けてをり書棚の隅の二ポポ人形
                    川田伸子

「二ポポ人形」は北海道でよく売られているアイヌの人形。「溶けてをり」がおもしろい。忘れられたように長年飾られている人形の感じ。

才能がなくてと謝り食べているいわしフライのいわしの体を
                    片山楓子

「いわしフライを」なら普通だが、「いわしフライのいわしの体を」としたのが良い。やるせない思いが滲み出ている。

炎天にはためく「氷」の波がしらをくぐりて母といもうとは消ゆ
                    田中律子

家族に対するかすかな屈折を感じさせる歌。上句の描写が、かき氷の旗を吊るした店の様子を端的に表している。

猫避けに眼のよく光るふくらうを日日草の中に置きたり
                    祐徳美惠子

本物のふくろうかと思って読んでいくと、実は置物のふくろうの話。目が光るようになっているのだろう。

あまやかな水にいくすぢかたちのぼる気泡はほそき鎖のごとし
                    小田桐 夕

グラスの底から立ち昇る炭酸飲料の泡を「ほそき鎖」に喩えたのが秀逸。泡を見つめる作者の繊細な意識まで感じられるようだ。

二人では折り畳み傘は小さくて香林坊の雨に駆け出す
                    濱松哲朗

香林坊は金沢の繁華街。映画のシーンのように突然の雨に走り出す二人。迷惑というよりは、どこか楽しんでいる気分が伝わってくる。

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2016年09月23日

「塔」2016年9月号のつづき

『日本の橋』読みしのちもとめたる全集いくらも手にとらざりき
                    竹下文子

保田與重郎の『日本の橋』に感動して全集を買ってみたものの、あまり読まなかったのだろう。「いくらも」に寂しさがにじむ。

肩甲骨すでに大人になっている息子の背中と背くらべする
                    石井久美子

中学生くらいの子だろうか。体つきや骨格はもう大人の男だ。「肩甲骨」に着目したところが良い。「背中」もくどいようで効いている。

ドアホンのピンとポンとのそのあひの時間の永き夏の午後なり
                    清水良郎

ピンポン、ピンポンと慌ただしく鳴るのではなく、指でゆっくり押してから離した感じ。時が止まってしまったかのような時間帯の様子である。

きみの手を握って眠ったはずなのにコピー用紙を抱えて歩く
                    阿波野巧也

上句から下句への時間的な意識の飛躍がおもしろい。下句は目覚めた時の話が来ると思って読んでいくと、突然、昼間の場面に飛ぶ。

遮断機の下をながれて水草は遠き河口へ導かれゆく
                    吉田 典

遮断機が上がるのを待つ間、踏切の下の水路を見るともなく見ている。流れる水草につられるようにして、見えない河口へと想像が広がっていく。

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2016年09月22日

「塔」2016年9月号

勉強会、はた宴会と騒ぎいしかの日のボンジョルノ難波はいずこ
                   小川和恵

イタリアンレストランだろうか。若かった頃によく仲間たちと利用していた店が、今では姿を消している。残っているのは思い出だけ。

やわらかきところを鍬の刃にさぐりひとふりふたふり竹を倒しぬ
                   吉川敬子

「さぐり」がいい。鍬を持つ手に伝わってくる感覚がよく表れている。竹を倒すにも力任せではだめで、コツのようなものがあるのだろう。

かあさんはやさしいねえと育親書でも読んだみたいに眠る間
際を                 宇梶晶子

褒めて育てる方法が書いてある育児書のように、親にいたわりの言葉を掛けてくれる子ども。やさしくない自分に気付いているだけに胸が痛むのだ。

通勤の橋わたるとき海へ吹く風はパルプの匂いをはこぶ
                   小林貴文

橋の上はよく風が通る。上流の方から匂いが流れてくるのだろう。朝の通勤で仕事へと向いていた意識が、その瞬間だけ少し緩むのだ。

ちょる、ちょると耳をくすぐる方言が飛びかうテーブル揺りかご
のよう                大森千里

故郷に帰った場面だろう。「ちょる、ちょると」がおもしろい。「〜しちょる」という語尾が心地よく響いて、懐かしさと安心感に包まれている。

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2016年09月07日

「塔」2016年8月号のつづき

どこからを遠いというのか砂しろき丘に駱駝が目を伏せて立つ
                   福西直美

「遠い」は距離の遠さとも読めるし、時間的な遠さや関係の遠さとも読める。「目を伏せて」がいい。

声もたぬひとりとなりて森に入る湿つた落葉のあつき堆積
                   山尾春美

上句がいい。森に立つ木々は声を持たない。その中に人間である作者も入っていく。森の中では言葉はいらないのだ。

ささやかなやくそくひとつ果たすごと木の芽をぱん、と叩きて
祖母は               小田桐夕

香りを出すために木の芽を叩く。小さなことだけれども大事な手順だ。「ぱん」の後の読点がよく効いている。

湖西線新快速で敦賀まで湖(うみ)を右手に本を読み継ぐ
                   児嶋きよみ

湖西線はその名の通り琵琶湖の西岸を走る路線。車窓に広がる湖の明るさを感じつつ、本を読み続けているのだ。

均一にスポットライトを浴びている生えてる時より緑のサラダ
                   黒川しゆう

商品として店に並んだサラダ。畑に生えていた時よりも鮮やかな緑色をしている。きれい過ぎて少し不気味でもある。


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2016年09月06日

「塔」2016年8月号

目玉焼きのあかるい丘が運ばれてきたかなしむにはほど遠い朝
                澤村斉美

目玉焼きを「あかるい丘」と捉えたのがいい。黄身の部分のふくらみが希望を感じさせる。

終末の迎へ方をばたれに聞かむあぢさゐの花芽ふくらみて来ぬ
                山下れいこ

「終末の迎へ方」を知っている人は誰もいない。自分一人で向き合わなくてはならないのだ。8月19日に亡くなった作者の歌。

速報を見つつ娘に電話すれば「また揺れてる」と直ぐに切られぬ
                伊東 文

娘の身を案じて電話する作者と、それどころではない娘のぶっきらぼうな対応のずれ。親子の関係がよく見えてくる。

少しだけミルクを足していくように五月の午後のかるいお喋り
                塚本理加

上句の比喩がうまい。コーヒーにミルクを入れるような軽やかさ。下句の韻律も軽快だ。

ほめられることに慣れない ピスタチオつまんだ指に塩きらきらと
                安田 茜

初二句と三句以下の取り合わせが良い。指先に付いた塩の輝きとかすかな違和感と。

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2016年08月13日

人と関わる手段?

「うた新聞」8月号に、石井僚一が「四半世紀歌会」という文章を書いている。

谷川由里子という人がいて二〇一六年六月某日都内某所にて「四半世紀歌会」というものを開いた。二十五年に一度行われるというメンバー固定のスペシャルな歌会だ。ぼくのところにもその招待状が届いた。

と始まり、最後は

「四半世紀歌会」の次の開催は二〇四一年だ。そのときに自分が何をしているかさっぱり想像がつかないけれども、この歌会には参加するのは間違いない、死んでも参加しようじゃないか。本当の言葉なら未来にも現前化するだろう。否、現前化させるのだ。ぼくは「四半世紀歌会」という言葉を、そして谷川由里子という人をすっかり信じてしまっている。四半世紀後に必ず会える。

と終わる。

この内輪のノリは一体何なんだろう。中学校の卒業アルバムか? 
自閉していて、まったく外部の人に届かない話を延々と続けている。

これを読んで思い出したのが、「ユリイカ」8月号に同じく石井が書いている「たたたたたたた魂の走る部屋」という文章だ。

僕は短歌をやっている人が好きなのだ。人と関わる手段がたまたま歌会というものだっただけで僕の興味は最後には人に帰着する。僕は歌会を信じるということ以上に、歌会という場に集う人たちを信じているし、愛している。

「人と関わる手段」として、石井は歌会をやっているらしい。そこが根本的に私とは違う。短歌を通じて人との関わりが増えることはあるけれど、友達作りのために短歌をやるというのはどうなのか。

まあ、大学のサークル活動のノリということなのだろう。
そう考えれば、別に不思議でも何でもない話なのかもしれない。


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2016年08月02日

「ユリイカ」 2016年8月号

特集「あたらしい短歌、ここにあります」。

特集とは関係なく、巻頭の中村稔「故旧哀傷・松田耕平」がすごくいい。

松田耕平さんは失格経営者として当時の東洋工業株式会社、現在のマツダ株式会社の社長職からの退陣を余儀なくされた方である。

という一文から始まり13ページ、少しも隙のない文章が続く。
まさに読ませる文章の見本という感じだ。

穂村弘と最果タヒの対談「ささやかな人生と不自由なことば」は、二人の率直なやり取りが印象に残る。

穂村さんの発言からいくつか。

僕は「なんで詩でも俳句でもなく短歌なんですか」って訊かれたときに、なんでハンマー投げの選手は円盤でも砲丸でもなくて、ハンマー投げるんだろうって思ったことがあって(笑)。
短歌は上手い人ほど、そこだけラインマーカーが引いてあるように見えることがある。「ここがツボだ」って。
(“あざとさ”みたいなことですか。)
仮に“あざとい”としても抗えない、なにか「味」みたいなものかなあ。
表現のための専用ツールである音楽や踊りだったら、現実の出来事からもっと独立した強さを持ち得るんじゃないか。でも、言語は短歌や詩の専用ツールじゃなくて、いわば兼用ツールだから、必ず意味の汚染を受けてしまう。

こうした鮮やかな比喩や的確な分析は、さすが穂村さんという感じがする。

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2016年07月29日

「塔」2016年7月号のつづき

湯浴みせしむすめのからだ拭きやればタオルに残る湿りのすくなさ
                   小林貴文

まだ小さな娘さんなのだろう。全身を拭いてやっても、バスタオルがそれほど濡れることがない。子を愛おしむ気持ちが伝わってくる。

今じゃない季節のにおい図書館の本のページをぱらぱらすれば
                   上澄 眠

前に誰かが読んだ時の季節の匂いかもしれない。本の間に密封されていた時間が再び流れ始めるような感じがする。

言ったのにメールしたのに 寝ころべば雲に寝ころぶ桜花見ゆ
                   澤端節子

何か約束をしていたのに、相手が忘れてしまっていたのだろう。ぽっかり空いてしまった時間に空を眺めると、まるで桜が雲に寝ころんでいるみたい。

「受験者は実技を終了しなさい」とテープの声に救助は終はる
                   近藤真啓

何の実技かと思って読んでいくと「救助」の実技だというところに意外性がある。実際の救助の場面だったら途中では終われないのだが。

夕立を聴きながら飲むミルクティー洗濯物は濡れてるだろう
                   内海誠二

喫茶店でゆっくりしていたら夕立の音がし始めたのだ。外に干してきた洗濯物のことを思うが、今さらどうしようもない。

何もない線路の横で手をあげて列車に乗り込むアラスカ鉄道
                   双板 葉

田舎のバスなどで時々フリー乗降区間というのを見かけるが、これは鉄道の話。人家の少ない広野に伸びる線路が思い浮かぶ。

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2016年07月28日

「塔」2016年7月号

友のもつ悩みを電話に聞きてをり金さへあれば解決するとふ
                   岩野伸子

悩みの電話を聞くのもなかなかしんどいものだ。「金さへあれば解決する」という言葉は、借金の申し込みを匂わせているのかもしれない。

春昼にパスタを巻けば菜の花はフォークの元に集まりてゆく
                   北辻千展

下句がうまい。春らしい菜の花のパスタを食べながら、作者の心はどこか浮かない様子である。ぼんやりとフォークの先を見つめている。

十五年の弟の生の証(あかし)とし一中慰霊碑にその名を残す
                   小菅悠紀子

十五歳だった弟は原爆で亡くなった。広島第一中学校の慰霊碑。遺骨も見つからなかった弟が、この世に生きた唯一の証なのだ。

妹はふたりいるけどふたりともわたしのきらいな椎茸が好き
                   空色ぴりか

一瞬、ふたりの妹のことが嫌いなのかと思って読んでいくが、そうではない。私が嫌いなのは椎茸。でも、妹との微妙な関係が感じられる気もする。

諦めることになれたるわたくしが十薬を十薬の根と引き合ふ
                   久岡貴子

「十薬」はドクダミ。庭にはびこるドクダミを抜こうとするが、なかなか抜けないのだ。下句の言い回しに味がある。まるで綱引きをしているみたい。

象のいるプールにぷかりぷかり浮く桃のやうなる糞の四・五個が
                   ぱいんぐりん

「桃のやうな」が絶妙。形と言い、大きさと言い、確かにその通り。美味しそうな桃とゾウの糞とのイメージの落差がおもしろい。

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2016年07月01日

「黒日傘」第6号

高島裕の個人誌。特集は「日本」。ゲストは澤村斉美。

  幼い私のためだけのクリスマスだつた。
耶蘇嫌ひの祖母の面輪も照らしたるクリスマスケーキの蝋燭あはれ
公用語を英語に切り替へたときの膨大な「国益」を想へり
(座布団を足でずらした!)宰相に株価を上げてもらつて感謝

高島裕「残光の祖国」30首より。

「日本」についての作者の思いをかなり正面から詠った一連。1首目、今になって思い出す祖母の姿。2首目は「国益」という観点だけで判断して良いのかという問い。3首目の初二句はテレビに映った安倍首相の仕種を詠んだもの。

海の果ての日本列島しなやかに反りつつ春の鳥たちを待つ
十センチほど開きたる窓からの風のまんなか子が手を合はす
倒壊家屋映れば指がテレビを消す子を抱くわれはソファに在りて

澤村斉美「つばめつばめ」30首より。

子を産んで母となった作者。全体に柔らかな言葉遣いによって子の様子や母としての思いを詠んでいる。1首目、弓なりに反る日本列島の形を俯瞰したような大きな歌。2首目、「十センチ」「まんなか」といった言葉がうまい。3首目、小さな子には見せたくないという思いと、消すことへのある種の後ろめたさ。

ゴミ出しの未明の路地の白鼻芯、その白線の鮮やかならず
背景に桔梗を長く咲かせつつ真夏の母は健やかに笑む
便意怺(こら)へつつ見て回る春画展、人間といふ襞をかなしむ

高島裕「ひとたび」30首より。
高島の歌では日常を詠んだこちらの連作の方が私の好み。

1首目、「ハクビシン」は額から鼻にかけて白い線があるのが名前の由来。都会暮らしのためか、それがぼやけてしまっている。2首目、元気だった頃の母の写真であろう。3首目「人間といふ襞」が印象的。その襞が様々な喜びや悲しみを生み出すのだ。

2016年6月3日、TOY、600円。

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2016年06月28日

「塔」2016年6月号の続き

母校という言葉が嫌いだと言えば子を産んでいないからだと言わる
                    白水麻衣

けっこう近しい関係の人に言われたのだと思う。だからこそ一層ショックであり、腹も立ったに違いない。「母音」「母国」「母艦」など、考えてみると「母」の付く熟語は多い。

「電話にて弱気を叱る」病状を解らず書きしわれの字を見る
                    安永 明

親か友人か、電話の声に元気がないので励ますつもりで叱ったことがあったのだ。今、日記などを見てその時のことを思い出しながら、既に病気の重かった相手に対してどうしてもっと優しい言葉を掛けられなかったのかと後悔しているのである。

ルビ多き『阿部一族』はエアコンの風量〈しずか〉に切り替えて読む
                    中澤百合子

森鴎外の歴史もの。文字がごちゃごちゃしているので、集中して読みたいのだろう。エアコンの音や風で気が散ることのないようにして。

夫をらぬ夜に柿ピーの柿ばかり残りゆくなり黄金(こがね)の色の
                    広瀬明子

普段は夫が柿の種、作者がピーナツという感じでうまくバランスを取っているのだろう。残った柿の種が夫の不在をありありと示している。

本といふ字が真ん中できつぱりと割れて書店の自動ドア開く
                    清水良郎

上句だけでは何のことかわからないが、下句で自動ドアに書かれた文字の話だとわかる。「本」という字が左右対称なのも良くて映像的な一首だ。

イソップの北風でなく太陽になればと娘(こ)にいふ なれない我が
                    一宮雅子

娘の話を聞いて、相手に優しく接してはどうかとアドバイスする作者。でも、作者自身はそれができない性格なのを知っている。あるいは娘も作者に似た性格なのかもしれない。

息継ぎが上手くできないわたくしは春の光の中で溺れる
                    中山悦子

満ち溢れるような春の光の感じがよく出ている。光を液体であるかのように捉えて、水泳の息継ぎを持ってきたのが面白い。春の明るさにくらくらするような気分だろう。

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2016年06月26日

「塔」2016年6月号

たまには自分の所属する結社誌から印象に残った歌の紹介を。

きれいごと言ふ人苦手さはあれど我の折々言ふきれいごと
                    岩野伸子

初二句だけなら他人に対する批判で終わりなのだが、この歌の良いのは下句で批判が自分にも返ってくるところ。誰しも「きれいごと」を言う時があるものだ。

マスクしてマスクの医者に診てもらふどちらも言語不明瞭なり
                    上田善朗

ユーモアのある歌。マスクをかけた者同士が向き合ってモゴモゴ言っている姿である。風邪やインフルエンザが流行っている季節なのだろう。

毀しゆく明治の煉瓦そのなかの「五百枚目」の墨書きに遭ふ
                    尾形 貢

国鉄で土木関係の仕事をしてきた作者。明治時代に造られた構造物を壊す作業中に、煉瓦に書かれた文字を見つけたのだ。時間を超えて昔の技術者の思いが伝わってくる。

人形に餡は充ちたり断面があらわれるとき見つめてしまう
                    相原かろ

人形焼を一口かじったところだろう。中に詰まっている餡をじっと見つめる作者。よく考えると人形の姿の中に餡が入っているのは奇妙なことに違いない。

風貌を問われナミヘイさんと言い いや良い人と付け加えたり
                    澁谷義人

サザエさんに出てくる波平さんみたいに頭が禿げているのだろう。そう言った後で慌ててフォローしている感じがよく出ていて面白い。

金色のオイルの瓶に子鰯の死につつ並び光をかへす
                    村田弘子

オイルサーディンを手作りしているところだろうか。オリーブオイルの中に小さな鰯がたくさん漬かっている。美しくも残酷な姿。

花の名をわれよりも知る父となり男岳に立ちて女岳をほめる
                    山下裕美

退職してハイキングや山登りをするようになった父。以前は知らなかった花の名前を今では作者よりもよく知っていて教えてくれるのだ。下句、山頂から見える隣りの山の姿がきれいだったのだろう。

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2016年05月26日

角川「短歌」2016年6月号

第50回迢空賞が発表になっている。
受賞作は大島史洋さんの歌集『ふくろう』。
http://matsutanka.seesaa.net/article/416896116.html

この歌集は兄の大島一洋さんの著書『介護はつらいよ』(小学館)とあわせて読むと、さらに味わいが深まるように思う。父・兄・弟という男3人の関係が浮かび上がってくる。

今回驚いたのは、高野公彦さん(選考委員)の選評だ。

「五冊の候補歌集の中で、私は水原紫苑の『光儀』にいちばん魅力を感じた という一文から始まって、最後まで水原作品についてだけ書いている。『ふくろう』には一切触れていない。これはなかなかスゴイことである。

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2016年05月02日

角川「短歌」2016年5月号

対談「31文字の扉―詩歌句の未来を語る」は、小池光(歌人)と大木あまり(俳人)。

最近の小池さんの発言や文章は、何でもはっきり言っていて面白い。

私の印象だと、フィクションの短歌ってやっぱり作った世界だから弱くなる。現実って強いからね。有無を言わせぬ力で運べるので。ほとんどありのままにしか今は作ろうと思わない。
短歌っていうのはね、最後まで私が出るんだよ。(・・・)我って書いてなくても我が出て、その我が何をしたか、何を思ったか、こうなったかという構造を、どうしても。俺に言わせれば。前衛短歌だって、大きな構造は同じなんだな。みんな、私がこうしました、こうしましたって作っている。
(人のものを)読まなくてはいけない。それを、今の若手に強く言いたい。ちゃんと歌を読めるような、リーディングね。読む力というか、読む常識を持つ。(・・・)歌会に行って若者がいてどういう批評をするかと聞いていると、全然分かっていない。そういう批評に度々遭遇するね。

かなり思い切ったことを言ってるなという気がする。
ここまで言い切っていいのかなという気もする。

でも、遠慮した言い方やバランスをとった発言よりも、こんなふうに自分の考えをはっきり言うことが大切なのだろう。異論・反論のある人は、またそれを自分で言えばいいのだから。


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2016年02月03日

「短歌」2016年2月号

阿波野巧也さんの歌壇時評「〈近代〉へのアクセス/永井祐の「人間」」を読んだ。そうだよなと思ったり、そうかなと思ったり、いろいろと議論したくなる内容だ。

とりあえず1点だけ。

短歌における人間の問題について、阿波野は

短歌に「人間」を見出して鑑賞するとき、作品群から作者像が結ばれるという主従関係は、壊されてはならない。作者情報を〈主〉、作品を〈従〉となして鑑賞した結果〈濃厚な人間〉が歌に現れる、という鑑賞態度ばかり取っていると、作品から作者像を結ぶという「読み」の営為は虚しいものとなってしまうだろう。

と述べる。基本的には私もこの考えに賛成である。
ただ、一番の問題は、短歌において「作品」と「作者情報」を明確に分けることが、非常に難しいという点にあるのではないか。

例えば、永井祐の歌を引いて阿波野は

これが永井の見えている世界であり、東京で生まれ育った永井自身に芽生えている感覚なのだと思うと、この歌の背後に平成の今を生きている人間がいるように感じられないだろうか。

と書く。でも、永井の「作品」のどこから「東京で生まれ育った」ということが読み取れるのだろう? それこそ「作者情報」ではないのかといった疑問が湧く。少なくとも時評に引かれている歌からは、そういったことはわからない。

永井の歌集『日本の中でたのしく暮らす』を読めば「東京」「山手線」「五反田駅」「池袋」「渋谷」「品川区」といった地名が出てきて、彼が現在東京に暮らしていることはわかる。けれども、東京に生まれたという点はどうか。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる

という歌から推し量ることは可能であるけれど、実際にはどうなのだろう。それよりも、歌集の最後に記された「1981年、東京都生まれ。」というプロフィールに依拠しているのではないかとの思いが拭えない。

どこまでが「作品」から純粋に読み取れることで、どこからが外部の「作者情報」なのかという問題は、無記名の歌を批評する歌会の場ならともかく、通常の歌集や歌人について論じる時には、明確に切り離せるものではないように思う。両者は渾然一体となっているのだ。

もちろん、だから切り離す必要がないと言っているわけではない。切り離して論じることで、短歌という詩型について見えてくるものも多い。けれども、実際にはなかなか切り離せないという点も、短歌の特徴として踏まえておく必要があるのではないだろうか。

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2016年01月28日

「短歌人」2016年2月号

編集室雁信(編集後記に当たるところ)に発行人の川田由布子さんが次のように書いていて、身につまされた。

●昨年十二月号に平成二十七年度の会計報告を掲載したが、残念ながらマイナスの収支であった。今後の会計の事情を考えると誌面の見直しが必要となり、まず三月号から作品の掲載数を減らすこととした。最大掲載数は同人は七首、会員1は六首、会員2は五首とする。一年かけて誌面を全面的に見直すことにしましたので皆様のご理解とご協力をお願いします。

どの結社も会計事情は似たようなものだろう。「塔」もまた会費収入だけでは足りずに、寄付や多くのボランティアによってかろうじて会計を支えている。

雑誌を定期刊行するというのは、非常にお金のかかることなのだ。

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2016年01月13日

「りとむ」2016年1月号

編集後記に今野寿美さんが「出づ」「出ず」の問題について書いている。

●文語「出づ」の新かな遣い表記は「出ず」と初歩の頃に教わった。そうすると「出(い)ず」なのか「出(で)ず」なのか紛らわしい例があるため、ある全国紙の歌壇では、これのみ新かな遣いでも「出づ」を許容していると聞いた。(・・・)広辞苑の場合、見出し語の下に(イヅ)【出づ】とあるが、(イヅ)は旧かな遣いを【出づ】はその漢字表記を示しているとみることができる。ということは「片づける」「基づく」などと同じく、「出づ」も発音表記は「いず」だが新・旧かな遣いともに「出づ」(ダ行)が適正だろう。

これまで新かなは「出ず」、旧かなは「出づ」と考えていたものを、新旧ともに「出づ」とするという考えであり、なるほどと思って読んだ。

「出づ」「出ず」問題は、結社誌の校正などをしていても頭を悩ませることが多い。有島武郎の名著にしても、岩波文庫では『生れ出ずる悩み』、新潮文庫や集英社文庫では『生れ出づる悩み』と表記が分かれている。

広辞苑の漢字表記は確かに【出づ】なのだが、こうした例は他にも【閉づ】【撫づ】【恥づ】【愛づ】などがあって、これらの新かな表記はどうするかという問題にも派生していく。

この4つの動詞にしても一様ではない。「撫ず」「愛ず」という表記には「出ず」と同じ違和感を覚える。それに対して「閉ず」「恥ず」は、(私の場合)あまり違和感がない。これは、日常使っている口語新かなで「撫でる」「愛でる」とダ行であるか、「閉じる」「恥じる」とザ行であるかという点が関係しているのだろう。

結局どうすればいいのか、結論を出すのは難しい。

私自身について言えば、「出ず」「撫ず」「愛ず」という表記はたぶん使わない。「出る」「撫でる」「愛でる」と口語を使うことによって回避できる問題であるからだ。

posted by 松村正直 at 08:24| Comment(0) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月12日

角川「短歌年鑑」平成28年版

@ 篠弘「定型に欠かせない文語」に私の書いた時評が孫引き的に言及されているのだが、その要約の仕方に異議がある。

松村は言語学者で作歌する東郷雄二が、「ある」「いる」のような動作動詞のル形(いわゆる現在形)の終止は出来事感が薄い、何かが起きたという気がしないと、すでに論じていたことに首肯する。

東郷さんは短歌についての文章は書いているけれど「作歌」はしない。
それに「ある」「いる」は状態動詞であって動作動詞ではない。

私が引用した東郷さんの文章(「橄欖追放」第164回)は次の通り。

「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す(ex.僕は明日東京に行く)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。

どうしてこの文章がそのまとめになってしまうのか、と残念に思う。

A 座談会「現代短歌のゆくえ」に参加してます。藤島秀憲、大井学(司会)、松村正直、大松達知、島田幸典、笹公人の6名。昨年から今年にかけて角川「短歌」にリレー評論を書いたメンバーなのだが、見事に結社に属する中年男性ばかりとなってしまった。

B 特集「話題の歌集を読む」で、服部真里子が小池光『思川の岸辺』について書いている。「水仙と盗聴」で話題になった二人の組み合わせだ。可能性としての死や「われ」の交換不可能性を論じた丁寧な内容なのだが、小池の妻の死には一言も触れていない。

無論あえて触れなかったのだろう。かなりの力技である。私は妻の死に触れなければこの歌集を論じたことにならないという立場なのだが、一方で服部の意志の強さや態度には清々しい印象さえ受ける。

posted by 松村正直 at 07:39| Comment(2) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする