2018年01月03日

「塔」2017年12月号(その2)


 この道を行きも帰りも低き陽に右の半身を灼かれつつゆく
                         益田克行

南北に通っている道で、南側に自宅、北側に駅などがあるのだろう。地図を見るような構図が面白い。出勤時は東からの朝日を浴び、帰りは西日を浴びる。

 テトリスが形をそろえ消えていく愛しているのでいつかそうなる
                         中村ユキ

テトリスはブロックの凹凸を合わせるゲーム。男女の性愛のイメージとして読んだ。でも、気持ちが満たされるというよりは、むしろ寂しさが伝わってくる。

 一分は百秒じゃないのと八歳は身体ぐねぐねさせ尋ねくる
                         矢澤麻子

八歳と言えば小学校2年生くらい。「身体ぐねぐねさせ」がいい。気恥ずかしい様子で聞いてきたのだろう。そんなことも知らなかったのかという驚き。

 気にしつつ足の向かざる義姉(あね)のもとに白ゆり送る兄の新盆
                         柳田主於美

独り暮らしとなった義姉を案じつつも、わざわざ訪ねたりするのは気が重い。「兄の新盆」を契機にまたつながりが持てたことにほっとしているのだろう。

 素麺を茹でる速さで夏は過ぎ少し老いたるわたしが残る
                         田宮智美

上句の比喩が面白い。夏の食べ物の定番である素麺は、茹で上がるのも早い。気が付けば夏も終わって、また少しだけ年を取った自分の人生を思う。

 一歳になるまで二年かかればいい妻がつぶやく小さき手をとり
                         内海誠二

まだ一歳にならない赤子を育てている夫婦。可愛くて仕方がないのだろう。一度大きくなってしまえば元には戻らないので、今を十分に味わいたいのだ。

 死にたるを知らず目瞑りいる君よ「二時二分です」声がして去る
                         みぎて左手

君の死に立ち会った場面。その場にいる人の中で君だけが自分の死を知ることがない。臨終の時刻を告げる医師の声が、死を確認するかのように響く。

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2018年01月02日

「塔」2017年12月号(その1)


 いつしんに母のぬりゑの続きをり音なくすべる秒針の下
                         干田智子

施設に入っている母が塗り絵をしている姿。「音なくすべる秒針」がいい。外界とは別の時間が流れ、母と自分はもう別の世界にいるという寂しさを感じる。

 前の席にノースリーブの腕が出てブラインドおろす特急かもめ
                         寺田裕子

「ノースリーブの腕」だけが一瞬見えたのだ。それまでは座席に隠れてどんな人が座っているかわからなかったのだが、きっと若い女性だったのだろう。

 帰宅せぬ父の里芋をラップにて包めば滴で見えなくなりぬ
                         北辻千展

おそらく仕事などで遅くなる父の夕食にラップを掛けているところ。「滴で見えなくなりぬ」という描写がいい。まだ温かいので、内側に湯気がこもるのだ。

 旧姓に呼ばるることはどちらかと言へば苦しきことと知りたり
                         吉澤ゆう子

学生時代の友人など独身の頃からの親しい相手との関係。「どちらかと言へば苦しき」に、嬉しさよりもわずかに苦しさが上回る複雑な胸のうちが滲む。

 かき氷に白味噌かけて食べし日の祖父母の家の畳広かりき
                         山下裕美

色鮮やかなシロップでなく白味噌をかけるというのが珍しい。祖父母の家ならではの食べ方だったのだろう。家の様子とともに懐かしく思い出している。

 「お若いわ」と言われる程に年齢(とし)重ね 無人駅にくずの花匂う
                         古林保子

確かに実際に若い人に向かっては言わない言葉だ。年齢より若く見られることを喜びつつも、もう若くない自分を感じている。下句との取り合わせもいい。

 それぞれにこころは遠くありながらひとつしかない夕餉の卓は
                         澄田広枝

一緒に夕食を食べながらも心では別々のことを考えている家族。食卓がかろうじて家族を一つに繋ぎ止めているようでもある。ひらがなの多用が効果的。

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2017年12月25日

毎日新聞校閲グループ著 『校閲記者の目』



副題は「あらゆるミスを見逃さないプロの技術」。

「舟を編む」が映画になったり「校閲ガール」がテレビドラマになったりと、最近言葉に関する興味が高まっているように感じる。

本書は毎日新聞の校閲グループのメンバーがWEB「毎日ことば」Twitterで発信した内容を書籍化したもの。よく売れているようで3か月で5刷となっている。

最初にダミー紙面を使った練習問題があるのだが、これが難しい。半分も見つけられなかった。間違い探しのクイズと違って、間違いが何か所あるかもわからない世界。

たとえ、99カ所直すことができても、一生懸命調べて大きな誤りを直したとしても、たった1カ所見逃して、たった1カ所誤りかおかしな表現が紙面化され、それが読者の目に触れることになれば……それは99点ではなく、0点です。

例として挙がっている誤りは

×建国記念日→〇建国記念の日
×2017年のえと「酉」の置物→〇2017年のえと「酉」にちなんだ置物
×万歩計→〇歩数計

などなど。

最後に「現役校閲記者の短歌」として、澤村斉美さんの歌集『galley(ガレー)』の歌が紹介されている。

遺は死より若干の人らしさありといふ意見がありて「遺体」と記す
人の死を伝へる記事に朱を入れる仕事 くるくるペンを回して
死者の数を知りて死体を知らぬ日々ガラスの内で校正つづく

校閲記者の仕事の大変さとやりがいが、よく伝わってくる一冊であった。

2017年9月5日第1刷、2017年12月10日第5刷。
毎日新聞出版、1400円。

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2017年12月20日

山田富士郎歌集 『商品とゆめ』


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第2歌集『羚羊譚』以来、実に17年ぶりの第3歌集。

たちまちに雨は湖面をわたりきてわれわれはただ一度だけ死ぬ
一族の写真のなかに農耕馬うつり鼻面なでられてをり
渡り鳥のごとく消えたりホテルセブン・エイトの老いたるフロントマンは
荒波のよせたる芥にひろひたる胡桃いづくの谷にか落ちし
桜咲きひゆるゆふべの窓ちかく小鳥のこゑは銀貨をちらす
円いポストの底にしやがんでゐる子供子供のころは空想せりき
山かげの火薬庫あとにであひたるかもしかわかくおそれをしらず
伝良寛筆の書わがいへに伝はれり正しくはわが家にもつたはる
飲みのこす珈琲ぱさと河にすて似顔絵書きは絵筆とりたり
桐の樹のかたへに立てる十分はあたたかし朴との十分よりも

1首目、上句の光景と下句の感慨の取り合わせ。誰にでも一度きりの死がやって来る。
2首目、古い写真を見ているのだろう。馬も家族の一員なのだ。
3首目、場末の古びたホテルをイメージして読んだ。映画の一場面のよう。
4首目、山→谷→川→海→浜という長い旅路に思いを馳せている。
5首目、花冷えの時期の小鳥の美しいさえずり。「銀貨をちらす」がいい。
6首目、ちょうどそれくらいの大きさということか。面白い空想。
7首目、下句のひらがな表記が印象的。恐れを知らない若さは人間も同じか。
8首目、良寛の書と言われるものが無数にあるのだ。もちろん本物はほんの一握り。
9首目、お客さんが来たので仕事に取り掛かるところか。「ぱさと」がいい。
10首目、桐と朴の雰囲気の違い。河野裕子さんの〈傍に居て 男のからだは暖かい見た目よりはずつと桐の木〉を思い出した。

作者は新潟県新発田市在住。新発田は作者の故郷かと思っていたのだが、そうではなかった。あとがきに

三十年前にUターンして住みついたのは郷里の新潟市ではなく、東へ三十キロほどの新発田市である。近いといえば近いが、二つの町はいろいろと違う。

とある。自らの住む土地に対する愛憎半ばする思いは、この歌集の大事なテーマと言っていい。

2017年11月15日、砂子屋書房、3000円。

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2017年12月16日

「六花」vol.2 の続き


大松達知さんが「見せ消ちの光―『風のおとうと』を例に」という文章を書いている。短歌に出てくる否定表現をもとに『風のおとうと』を分析したもので、短歌全般に通じるすぐれた内容となっている。

歌集を読むことには、点滅する幻の光をつぎつぎに追うような感覚がある。現実の生活とは異なる定型のリズムに一瞬入り込み、すぐに出る。そしてまた次の歌のリズムに入り、すぐに出てゆく。その繰り返し。直前の光の残像はありながら、一瞬一瞬、消えてまた灯る光を見つづけるのが歌集の読み方だろう。

短歌における否定表現については、永田さんの見せ消ち理論(?)のほかに、真中さんの歌からもだいぶ学んだように思う。

前号に続いて僕も文章を書いている。タイトルは「狂歌から短歌へ」。

短歌史を考える際には、「和歌から短歌」という一本の流れだけでなく、「狂歌から短歌」というもう一つの流れを視野に入れておく必要がある。

というのが結論。文中にも引いているが、これは安田純生さんと吉岡生夫さんの文章や講演から学んだ部分が多い。特に口語短歌の歴史を考える際に、狂歌は無視できない存在だろうと思っている。

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2017年12月14日

「六花」vol.2


著者 :
六花書林
発売日 : 2017-11-21

「とっておきの詩歌」というテーマで歌人・俳人20名が文章を寄せている。いずれも書き手の熱意が伝わってくる文章ばかりで、読み応えがある。時流に全く乗っていない感じがまたいい。

取り上げられている詩歌をいくつかご紹介しよう。

 いづくにか潜みてゐたるわれの泡からだ沈むるときに離れ来
                          二宮冬鳥
 雪原と柱時計が暮れはじむ        松村禎三
   白に就て
 松林の中には魚の骨が落ちてゐる
 (私はそれを三度も見たことがある)
                          尾形亀之助
 ふれあえば消えてしまうと思うほどつがいの蝶のもつれて淡し
                          筒井富栄

編集後記によれば、六花書林は創業十二周年を迎えて十三年目に入ったと言う。「創業の直前に生まれた子が来春には小学校を卒業する」とあって、しみじみとした気分になった。

2017年12月5日、六花書林、700円。

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2017年12月08日

「黒日傘」第8号


高島裕さんの個人誌。
特集は「父」、ゲストは岡井隆。
毎回テーマとゲストの選びがいい。

 小さきひとの足持ち上げて尻を拭く。この喜びはいづくより湧く
 哺乳瓶の剛(つよ)さを深く信じつつ熱湯注ぎ氷に浸ける
                      高島裕「百日の空」

「この春に長女が生まれた」という作者の子育ての歌。第1歌集『旧制度(アンシャン・レジーム』(1999年)から読み続けているので、読者としても感慨深いものがある。1首目はおむつを替えているところ。「小さきひと」がいい。2首目は粉ミルクを作りながら哺乳瓶の耐久性に注目しているのが面白い。

 茂吉歌集に父が書き入れし言(こと)の葉(は)をさむき雨降る夕ぐれに
 読む
 傷がないのに痛いつてことがある。父は居ないのに日向(ひなた)だけ
 ある                   岡井隆「父、三十首」

1首目、岡井の父は斎藤茂吉門下の歌人であった。その父の書いた文字を読みながらもの思いに耽っている。2首目、亡くなった後も父の存在感がどこかに残り続けているのだ。

 昭和六十二年製造の天ぷら粉、母の冷蔵庫の隅にひそみゐき
 川のやうになりて危険さへ覚ゆるに古書研究会のアナウンス長閑
 (のどか)                高島裕「甲午拾遺」

1首目、施設に入った母の家で見つけた天ぷら粉。「昭和六十二年」と言えば今から30年も前だ。2首目は大雨となった京都の古本まつりの光景。何となく古書店ならではという感じがする。

2017年11月30日、TOY、600円。

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2017年12月07日

「柊と南天」第0号


「塔」の昭和48年〜49年生まれの会員5名による同人誌。

 でもたぶんぽかんと明るいこの窓が失うことにもっとも近い
 山里に蛙の声をききながら夜の広さを確かめている
                       乙部真実

1首目、明るさと喪失感はどこか通じ合うものがある。「でも」という入り方と平仮名の多さが印象的。2首目、あちこちから聞こえる蛙の鳴き声に空間の広がりを感じている。

 くさむらに足踏みいればぬかるみはきのうの雨をあふれさせたり
                       中田明子

「きのうの雨」という表現がいい。ぬかるみから滲み出る水は、作者の心にある何かの感情のようでもある。

 芽キャベツのひとつひとつを湯に落としつつさよならを受け入れてゆく
                       池田行謙

芽キャベツを茎からもいで湯がいているところ。「落とし/つつ」の句跨りに、自分を納得させるまでの逡巡が滲む。

 画のなかの森の小道の明るさよ秋になりても実をつけぬ森
 画のなかの風を感じて吾が身体(からだ)粗き点描にほどけてゆけり
                       加茂直樹

絵の中の世界と現実の世界が交錯する歌。1首目、「実をつけぬ」と言うことによって、反対に実を付けるイメージが立ち上がる。2首目、絵を見ているうちに私が絵の一部になっていくような感覚。

 健闘と呼ばるる勝ちはなしひたひたと蛇口を落つる水滴の冴ゆ
                       永田 淳

「健闘」は、負けたけどよく頑張ったという時に使う言葉。でも、負けは負けなので素直には喜べない複雑な感じがするのだろう。

淳さんが「創刊の辞」に

 一九七〇年生まれの塔会員、つまり松村正直、荻原伸、梶原さい子、芦田美香がやたらと仲良しイメージを演出していることに対抗したかった

と書いている。
いえいえ、そんなことはないですって。(笑)

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2017年11月27日

「心の花」2017年11月号


佐佐木幸綱さんが「「家」のこと2」というエッセイを書いている。

 私の「家の記憶」は、本郷区(現・文京区)西片町十番地の三軒の家からはじまる。西片町十番地はかつての備後福山藩主・阿部家の広大な屋敷跡を分割したため、その名残で、「い」から「と」までに分けられ、さらに、いノ何号、ろノ何号……という番地がつけられている。
 私は、生まれてから高校卒業までに、「にノ四十号」(だったと思う。記憶ちがいかもしれない)、「いノ十六号」、「ろノ五号」、三軒の家に数年ずつ住んだ。「にノ四十号」は借家、「いノ十六号」は信綱の家、「ろノ五号」は父・治綱名義の家。

この「西片町」については、以前このブログで触れたことがある。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139056.html
(2013年3月5日、西片町)

西片町の歴史や住んだ人々のことを調べるだけでも、随分と面白いだろうなと思う。一度東京へ行った時にゆっくり歩き回ってみたいと思いつつ、いまだに実現していない。

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2017年11月24日

「塔」2017年11月号(その2)


 またひとり登場人物あらわれて騙し絵のような身の上話
                          吉田 典

「身の上話」というのは何度も語っているうちに、だんだん物語のようになっていくものなのだろう。「登場人物」「騙し絵」という捉え方が独特でおもしろい。

 玄関のあかりを灯す みずうみに確かに触れてきた指先で
                          紫野 春

湖を見に行って家に帰ってきたところか。日常の世界に戻った後も、湖水に触れた指の感触を再確認している。おそらく大事な思い出なのだろう。

 熱海城そのなかにまた熱海城マッチの棒でくみたてられて
                          山名聡美

熱海城の中にマッチ棒で作った熱海城の模型が展示されているのだ。入れ子構造と全体の安っぽさが面白い。熱海城も歴史的なものではない観光施設。

 女性ゆえ鉾に上がれぬしきたりをしきたりとして諾いており
                          松浦わか子

女性差別と憤ることもできる場面だが、「しきたり」を尊重しようという思い。でも、もちろん完全に納得しているわけではなく微妙な感情は残っている。

 琵琶湖、と声に出すとき身のうちのなにがゆらぐの葦原のごと
                          中田明子

琵琶湖の歴史や風土を感じさせる歌。現実に見ている琵琶湖ではなく、記憶やイメージとしての琵琶湖であるだけに、一層の奥行きを感じさせる。

 夜あそびに出ては首輪をなくす猫どこで売ったと夫の叱れる
                          山下美和子

何度も首輪をなくす猫もユニークだが、「どこで売った」と言う夫もユニークだ。どこか別の家でも可愛がられていて、首輪を外されているのかもしれない。

 目を閉じて食べれば何味にでもなるかき氷から夏がこぼれる
                          うにがわえりも

かき氷のシロップには「いちご」「メロン」「レモン」など様々な味があるが、どれも色が付いているだけで味はほとんど一緒。それを逆手に取った内容だ。

 紫陽花に触れれば涼しい心地して市民プールの入口で待つ
                          太代祐一

「涼しい心地」と言うことで反対に外がかなりの暑さであることがわかる。紫陽花の紫や水色の色にほのかな涼しさを感じつつ、炎天下で人を待っている。

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2017年11月23日

「塔」2017年11月号(その1)


 入口のスイッチボックスのON押せばすなはち点る玄室の電気
                          岩野伸子

古墳を見学した時の歌。スイッチボックスや電気はもちろん観光用に新しく付けられたもので、ちょっとした違和感が滲む。「すなはち」がいい。

 いくたびも謝らるるを夜の薊、許すほどわたし偉くはないよ
                          上條節子

「夜の薊」が突然入って来るところが面白い。下句は「私が許すかどうか決めることではない」という意味だけでなく、許せないという思いでもあるのだろう。

 帰宅する私と帰宅する君のあいだで咲いてしぼむユウガオ
                          多田なの

夕方に咲いて翌朝に萎むユウガオ。「私」は昼間に働き、「君」は夜に働くすれ違いの生活。せっかく咲いた花を君に見せられないのが残念なのだ。

 今はもう手元にはない靴べらは詠みたる歌の中に残れり
                          黒木孝子

靴べらはもう無くなってしまったけれど、その靴べらを詠んだ歌はいつまでも残り続ける。なるほど、短歌にはこういう役割があるのかもしれない。

 背後から破線のごとくサンダルの音がして子がわれにぶつかる
                          北辻千展

「破線のごとく」がサンダル履きの子の走る様子をうまく捉えている。最初は音だけが聞こえて結句で「子」が登場する語順も、臨場感を生み出している。

 唐きびを上手に食めば残りたる歯の抜けあとのようなきび殻
                          三浦こうこ

下句の比喩が秀逸。言われてみれば確かに歯の抜けた歯茎のような姿をしている。そんなことを考えていると、気味悪くて食べられなくなりそうだけれど。

 職場にはいくつか席の「島」があり南の島で端末を打つ
                          沼尻つた子

何個かのデスクのまとまりを「島」と名付けるのは珍しくないが、そこから「南の島」に飛躍したところがいい。南国イメージと仕事との落差が印象に残る。

 両腕をあげて病む子は眠りをり赤子のときの姿勢のままに
                          野島光世

緩和病棟に入院している娘さんを詠んだ歌。死がもう遠くない娘を見守りながら、かつて娘が生まれたばかりの頃のことを思い出している。何とも切ない。

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2017年11月18日

「週刊新潮」11月23日号


現在発売中の「週刊新潮」11月23日号の新々句歌歳時記で、
俵万智さんに『風のおとうと』の歌を引いていただきました。

この世では出会うことなき大根と昆布をひとつ鍋に沈めつ


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2017年11月16日

「現代短歌」2017年12月号


前号の中西亮太さんの評論「誰が桐谷侃三だったのか」を受けて、中西さんと篠弘さんの対談(インタビュー)「歌集『六月』をめぐって」が掲載されている。全10ページ。

これがすこぶる面白い。篠さんの博識ぶりと記憶力の確かさに驚かされる。さすがに短歌史の第一人者といった感じだ。それと、自ら「善麿の最後の弟子」を名乗るだけあって、土岐善麿の人となりや考え方がとてもよく伝わってくる内容であった。

「僕は東京生まれの東京育ちでもありましたし」「土岐さんの批評は東京人の僕の感性に合うところがありました」という発言は、篠さんと善麿のつながりを考える上で大事な側面だろう。

善麿は味わい深い歌を数多く残しているが、今ではあまり取り上げられなくなってしまった歌人の一人と言っていい。それは「土岐さんは自分の結社を持っていなかった」ことも理由の一つになっているように感じる。

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2017年10月15日

「現代短歌」2017年11月


中西亮太さんの評論「誰が桐谷侃三だったのか」が12頁にわたって掲載されている。

これは、すごい。短歌史における定説を覆す新資料の発見と、地道な裏付けに基づく緻密な論考である。桐谷侃三に興味がある方も、名前は聞いたことがあるけど・・・という方も、誰それ?という方も、ぜひお読みください。1940年当時の短歌をめぐる状況がありありと甦ってくる内容となっています。

こうした優れた評論を載せることは、短歌雑誌の大事な役割と言っていいだろう。

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2017年10月13日

「ととと」 5号


白石瑞紀・永田愛・藤田千鶴の3名によるネットプリント。A3判×2枚。

10首×3名の短歌と、永田さんの「愛の一首」、藤田さんの童話「とびらひらく」、白石さんの「うろうろ☆MUSEUM」が載っている。

今回は9月9日発行ということで、月に関する歌が多かった。

 いつまでも冷めないスープとろとろの月の煮込みを蓮華にすくう
                         藤田千鶴
 もうすこし待てばかなうというように叶(かなう)のなかに十字架はある
                         永田 愛
 静かなる水面に月の道はありたましひならば行けるだらうか
                         白石瑞紀

1首目、「月の煮込み」という表現から、フカヒレのスープをイメージして読んだ。身体の芯まで温まる美味しさ。
2首目、「叶」という文字の中の「十」を「十字架」と捉えた歌。「かなう」ことを祈る歌であるが、むしろ叶わない悲しみが感じられる。
3首目、湖や池に真っ直ぐにのびている光の帯。その先にはいったい何があるのか。身体は行けないが、魂はそこをたどって行くのだ。

2017年9月9日、モノクロ40円、カラー120円。


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2017年10月12日

「ぱらぷりゅい」


関西在住の女性歌人12名による同人誌。
参加者は、岩尾淳子、江戸雪、大森静佳、尾崎まゆみ、河野美砂子、沙羅みなみ、中津昌子、野田かおり、前田康子、松城ゆき、やすたけまり、山下泉。
「ぱらぷりゅい」はフランス語で傘のことらしい。

全員の連作12首と、互いの第1歌集の批評、年表、歌会記など盛り沢山な内容となっている。全88ページ。山階基の手になる装幀・デザインも素敵だ。

 山火事のようだ怒りは背中からひたりひたりと夜空をのぼる
                        江戸雪
 紫陽花の重さを知っているひとだ 心のほかは何も見せない
                        大森静佳
 文学を解する猫は眠りをり陽のうつろひを鼻に感じて
                        野田かおり
 彗星と細字で書けばペン先に夜の光の集まり始む
                        前田康子
 さやうなら薄い衣をまとはせて金の油へ鰯を放す
                        松城ゆき
 ざんねんな探偵としてわれはわれに雇われいたり今日も推理す
                        山下泉

1首目、怒りの激しさや身体感覚がよく伝わってくる。何とも怖い。
2首目、下句がおもしろい。「心は見せない」なら普通なのだが。
3首目、下句がいかにも眠っている猫という感じがする。
4首目、「彗星」には横線がとても多いので、丁寧に書いている感じ。
5首目、鰯の天ぷらを作っているだけなのだが、歌にすると美しい。
6首目、あまり有能な探偵ではないのだろう。問題は解決できないまま。

2017年9月18日、500円。

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2017年10月05日

「歌壇」2017年10月号


特集は「覚醒する子規―生誕一五〇年」。

三枝ミ之と長谷川櫂の対談「子規が遺したもの」が非常に面白い。子規の俳句・短歌史における位置付けの変更を迫るものだ。

印象に残った発言をいくつか引いてみよう。

子規は実は近代俳句なり近代短歌の創始者ではなくて、中継者だったのではないかという考え方です。(長谷川)
だけど茂吉は子規に行く。あれ、なぜだろう。一つは、子規と茂吉の共通点が一高文化で(三枝)
(芭蕉と一茶の)有名な二つの俳句を比べると「かはづ」から「かえる」に変わっている。これはすごいことだ。(三枝)
晶子は江戸時代の歌謡や狂歌を栄養源としていたので、漢語や俗語の使い方がかなり自由になっている。(三枝)
方法論を提示した子規や虚子は、ある意味で自分が唱えた方法論から自由でいられる。(長谷川)

どれを取っても刺激的で示唆に富む発言ばかり。こうした歴史の捉え直しがあってこそ、新たに特集を組む意味があるというものだろう。

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2017年10月03日

「鴨川短歌」


田島千捺、牛尾今日子、橋爪志保、濱田友郎、土岐友浩の5名による同人誌。連作10首×5名と合評「わたしの好きな一首」が載っている。

途切れつつながい工事の音がしてせつなく終わる昼過ぎにいた
                       田島千捺

断続的に聞こえていた工事の音が止んだ後の空虚感のようなもの。休日の自分の部屋で一人ぼうっとしているのだと思う。

駅までの長い夕陽を浴びながら歩かせている夏のからだを
                       牛尾今日子

「歩いている」ではなく「歩かせている」が面白い。身体と心が少し離れている感じ。「長い」は影の長さでもあり、道の長さでもある。

じょうろじゃなくてあれでカレーを出す店と、言いつつきみの形どるあれ
                       牛尾今日子

確かによく見かけるのに名前は知らない。調べてみるとカレーソースポットなどと呼ぶらしい。二人のやり取りが目に見えるようだ。

目を閉じてまぶたの裏に見とれてる 根が水を吸うように泣きたい
                       橋爪志保

目をつぶって涙を堪えているのか。下句の比喩が魅力的。切羽詰まった泣き方ではなく、健康的で自然な感じの泣き方ということだろう。

シャープ・ペンシルで描かれるほおづきの朝は美しさの庭だった
                       濱田友郎

三句の「ほおづきの」は「ほおづきのように」という意味で受け取った。輪郭のくっきりした感じがする朝の庭の美しさ。

回想の出町柳は寒すぎてあなたは白いティペットを巻く
                       土岐友浩

ティペットはふわっとした肩掛けのこと。その場面を思い出すたびに、あなたよりも「白いティペット」の印象が甦ってくるのだろう。

合評「わたしの好きな一首」は、それぞれが挙げた好きな歌について全員で話し合っている。Skypeのやり取りが元になっているので、同じ人の発言が何回も続くことがあって最初は戸惑ったが、慣れると大丈夫。

濱田: 韻律は、歌のインナーマッスルみたいな感じで、隠れて活躍している。みたいな感じでいてほしいですよね
牛尾: でもなんというか、最近はそこまでほむほむのパラダイムで歌評をしようという志向はみんな無さめですよね

五名の読みの深さとともに、互いに信頼して何でも話せる関係であることが伝わってくる。中でも濱田さんの発言は抜群に楽しくて、反射神経やネーミングのセンスの良さを感じる。こういう人が一人いると歌会は盛り上がるだろうな。

2017年9月18日、200円。

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2017年09月29日

「三十一番」「三十一回裏」


谷じゃこ編集・発行の同人誌を2冊、文フリ大阪で購入。

相撲と短歌のアンソロジー「三十一番」。
9名の相撲に関する短歌5〜7首とエッセイ、さらに「ご贔屓力士・一首」が載っている。

 立会いの瞬間息を吸う音がこんな後ろの椅子席にまで
                   谷じゃこ

テレビでは味わえない生観戦の醍醐味。溜席(砂かぶり)やマス席ではなく土俵から離れた椅子席まで、息の音が聞こえてくるとは!

 最後まで見届けてこそ大相撲 弓取り式はエンドロールだ
                   のにし

テレビ中継を見ていると弓取り式の途中でぞろぞろと帰り始める人が多い。なるほど、確かに映画館の光景とよく似ている。

 十両の取組をする年下の安美錦関を励ますこころ
                   生沼義朗

ベテラン安美錦は38歳。短歌の世界ならまだまだ若手と呼ばれる年齢だ。秋場所では優勝決定戦まで進み、来場所はまた幕内に帰ってくる。

野球と短歌のアンソロジー「三十一回裏」。
13名の野球に関する短歌5〜7首とエッセイ、さらに「オススメ野球本」が載っている。

 いっぺんにふたりが死んでいくところ観たいから野球につれてって
                   石畑由紀子

上句はぎょっとする言い回しだが、結句まで来て野球のことだとわかる。併殺(ダプルプレー)とか刺殺とか盗塁とか、野球用語はけっこう物騒だ。

 右中間を球はころがる耳寝かせ森に分け入るうさぎのように
                   小野田光

三句以下の比喩がおもしろい。まるで実際の白いうさぎが球場をぴょんぴょんと跳ね回っているような気分になる。

 しきしまの日本の夏の終わるころ各地に届く甲子園の砂
                   蓮

「甲子園の砂」の観点から詠んでいるのがおもしろい。夏の高校野球は各都道府県の代表が出場するので、全国各地に砂が運ばれるわけだ。

表紙やデザインも凝っていて、とてもオシャレ。
短歌を楽しんでいる雰囲気がよく伝わってくる。

2017年9月18日、各350円。

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2017年09月24日

おさやことり・橋爪志保「はるなつ」


文学フリマ大阪で購入した同人誌。
発行・編集は吉岡太朗。

おさやことり「ゆきとけやなぎ」「とりわけしづか」、橋爪志保「階段」「夢中」と、7首の連作が計4篇載っている。

さきっぽのほうだけはながさいていてむしろゆきとけやなぎのような
                     おさやことり

おさやことりの歌は全部ひらがな。雪柳の咲き始めの光景だろう。満開ではないので雪が解けているように見えるのだ。

みかづきがまるさのなかにみえているないことにされたぶぶんのこくて
                     おさやことり

三日月の光っている部分ではなく、見えていない部分に着目したのが面白い。

花曇り きみのあたまはアルパカとスパゲッティをあわせた匂い
                     橋爪志保

きっと心地良い匂いなのだろう。音の並べ方のうまい作者で、「あたま」→「アルパカ」の「あ」、「アルパカ」→「スパゲッティ」の「パ」という感じに音が音を導いていく。

ピクルスをきみはパンから抜きとって花のまばらな川原へ放つ
                     橋爪志保

ハンバーガーなどに入っているピクルスが嫌いなのだろう。下句、「はな」「まばら」「かわら」「はなつ」とA音が続く。

まだひるのつづきのようなあかるさにそらはりとますしけんしをなし
                     おさやことり

夕方になって、青いリトマス試験紙が赤くなるように徐々に空の色合いが変化していく。

逃しても取れてもきっとはしゃいでるこの世は長い流しそうめん
                     橋爪志保

下句の妙な断定に惹かれる。「長い」「流し」の音の響きが効果的なのだろう。

「おさやことり」(OSAYAKOTORI)という名前は「吉岡太朗」(YOSIOKATARO)のアナグラムということか。

2017年9月18日発行。

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2017年09月20日

「日本近代文学館」館報第279号


「日本近代文学館」の館報第279号が届いた。
http://www.bungakukan.or.jp/cat-whatsnew/9556/

「館蔵資料から=未発表資料紹介 佐佐木信綱宛書簡」を毎号楽しみにしているのだが、今号には北原白秋の信綱宛書簡が2点紹介されていた。

そのうち1点は昭和14年12月31日消印のもので、「啓上 御懇書ならびに筆墨忝く拝受かへつて恐縮に奉存候今は御祝のおしるしまでいささかのもの差出申候につき御笑納たまはり度存候 夢殿につき御厚情難有く御礼申上候」とある。

信綱からもらった手紙のお礼と、祝いの品を送ったこと、そして前月に白秋が刊行した歌集『夢殿』に対する信綱の好意へのお礼という内容だ。

白秋と信綱の関係については、昭和12年の「愛国行進曲」の歌詞の審査の場で喧嘩をして終生和解しなかったという伝説がある。

これについては、既に渡英子が「信綱と白秋―喧嘩顛末記」(「佐佐木信綱研究」第3號)で誤りを正している。また、マンガ「月に吠えらんねえ」の作者清家雪子のブログにも「白秋VS信綱〜解決編」(2016年11月24日)という詳しい記事が載っている。

今回の館報に載った昭和14年の白秋の書簡もまた、先の伝説の誤りを裏付ける証拠の一つと言って良いだろう。

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2017年09月15日

いわて故郷文芸部ひっつみ「ひっつみ本」


岩手県出身者、在住者が参加する同人誌。
8名が参加して、それぞれ短歌7首(or詩1編)+随筆を発表している。

巻頭には「どなたもどうぞお入りください/決してご遠慮がありません」と、宮沢賢治の『注文の多い料理店』風な前書きがあり、岩手への愛を感じさせる。

ストーブの効いた部屋から雪を見る 出会う前他人だったのか僕らは
                         逢坂みずき

出会う前は当然他人だったはずなのだが、ずっと前からお互いに知っているような感じがするのだ。冬の部屋に相手と二人きりという場面だろう。

甘すぎるカルーアミルクが二つあり元は一つの愛だったよう
                         木下知子

下句の発想がおもしろい。一つの愛が二つに分かれてしまったのか。コーヒーリキュールに牛乳を混ぜるカクテルの色合いや甘さが、うまく合っている。

噛めるひかり啜れるひかり飲めるひかり祈りのように盛岡冷麺
                         工藤玲音

四句目までは何のことかわからずに読んでいって、結句でなるほどと思う。盛岡冷麺の強いコシやつやつやした光沢の感じが印象的に描かれた歌だ。

ポケットにビールの缶をねじこんで花のいかだで旅ができるね
                         佐々木萌

手ぶらでビールの缶だけを持って花見をしているのだろう。水面に浮かぶ花筏に乗ってどこまでも行けそうな楽しい気分になっている。

どれくらいのテレビか聞かれ箸を置き空中に書くわたしのテレビ
                         武田穂佳

一緒に食事をしている相手からテレビの大きさを聞かれたのだ。何インチといった数字ではなく、指で四角を書いているところに臨場感がある。

エッセイはどれも若々しさの感じられる内容で、読んでいて楽しかった。特に木下知子「標識」が印象に残った。

「ひっつみ」という会の名前は、岩手の郷土料理で、すいとんの一種のことらしい。

岩手に何か関係のある食べ物がいい、と思い、わんこそば、とか、じゃじゃ麺、とか考えたものの、ひっつみ、という言葉の耳たぶほふどのやわらかさ、あたたかさから、この名前に落ち着きました。

という説明がある。肝腎の「ひっつみ」がどんな料理かという説明がないところがいい。地元の人にとっては当り前のものだから、説明の必要を感じないのだろう。そんなところにも岩手への愛を感じる。

2017年6月11日、300円。

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2017年08月27日

「短歌人」2017年9月号


編集室雁信(編集後記)に小池光さんが、こんなことを書いている。

●歌集が次々に出て慶賀に耐えないが歌集というものは売るものでも売れるものでもなく差し上げるものである。少し分厚い名刺である。名刺だから差し上げて、それでなんの余得も欲してはならない。差し上げた未知の人から返事がきたりして嬉しいものだ。それで十分と思わねばならぬ。

随分と思い切った書き方をしているが、読んでいて気持ちがいい。最近の小池さんらしいとも思う。十年くらい前まではみんなこういう感じで歌集を出していたわけで、「歌集は名刺代わり」という言葉もよく聞いた。

近年、歌集を売ろうとする試みや努力が出版社や歌人の間にも広がりつつある。それはそれで大事なことだと思う。お金の問題はやはり馬鹿にできないのであって、歌集が売れて作者の経済的な負担が少なくなれば随分と歌集出版の風景も違ってくるだろう。

その一方で、歌集が売れないことを別に悲観する必要もない。売れる・売れないというのは、短歌にとって本質ではないからだ。最終的には、自分の納得のいく歌ができるかどうかという問題であろう。

もちろん、売れるに越したことはなくて、僕自身、本を出すたびにベストセラーになることを思い描く。でも、小池さんの書いている「それで十分」という心構えも忘れずにいたいと思う。

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2017年08月15日

「短歌往来」2017年9月号


米川千嘉子「つるつるの世」33首から、はじめの5首を引く。

 「お嬢さんの金魚」の歌よ水槽はとぷとぷとぷと夏のひかりに
 九州に豪雨はつづき七年間会ふことなき河野裕子さんをおもふ
 河野さんの「ちりひりひ」とか「妙(めう)な」とか ひるがほは首しろく
 咲きだす
 アホなことはどれほどどれだけ積み上がりし この七年を知らぬひる
 がほ
 河野さんのあかあか赤ままの良妻のうた その幸ひはいまもそよぐや

2010年に河野裕子さんが亡くなって、早くも7年が過ぎた。
河野さんを偲びつつ、移りゆく時代に思いを馳せているのだろう。

河野さんの歌がいくつも踏まえられている。

 お嬢さんの金魚よねと水槽のうへから言へりええと言つて泳ぐ
                      『歩く』
 ちりひりひ、ちりちりちりちり、ひひひひひ、ふと一葉(ひとは)笑ひ出し
 たり神の山              『体力』
 眠りゐる息子の妙(めう)な存在感 体力使ひて眠りゐるなり
                      『体力』
 美しく齢を取りたいと言ふ人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ
                      『母系』
 良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱(しご)きて歩む
                      『紅』

こんなふうに古い歌を思い出しながら、歌を読んでいくのも楽しい。

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2017年08月14日

「上終歌会01」


2016年8月から京都芸術大学文芸表現学科の学生を中心に行っている「上終(かみはて)歌会」のメンバーの出した冊子。記念すべき第1号。

 赤青黄緑紫白黒と何もなかった日の帰り道
                     小林哲史

上句の色の羅列が「何もなかった」につながるのが面白い。色だけをぼんやり見ていたようでもあるし、本当は何かあった日なのかもしれないとも思う。

 記憶の雪は四十五度にふっている窓の対角にきらきらとして
                     中野愛菜

「四十五度」がいい。風まじりの氷の粒のような雪が斜めに窓を横切っていく。ふるさとの家で見た光景だろうか。記憶に今も鮮やかに残っているのだ。

 帽子だけ持って飛び乗る上り線窓の指紋が富士に重なる
                     鵜飼慶樹

上句のリズムや内容に若さと勢いがある。下句は一転して非常にうまい写生で、技術の確かさを感じる。東海道線で東京方面へ向かうところか。

 はなびらがあなたの胸にすべりこむはなびらだけが気づく心音
                     中山文花

淡い恋の歌。相手の着ているTシャツの首のあたりから桜の花びらが入っていくのが見えたのだろう。君の心臓に触れてその音を聴いてみたいという思い。

 バースデーケーキに墓標立てる彼うちくだかれたうちくだかれた
                     森本菜央

下句がいい。ひらがな表記が呪文のようでもあるし、「打ち砕かれた」という言葉が解体して、「抱かれた」や「枯れた」が浮んでくるようにも読める。上句の蠟燭を「墓標」に見立てているのも、意外性があって印象に残る。

2017年8月1日発行。

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2017年08月11日

第六回琅玕忌だより


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「第六回琅玕忌だより」が発行されました。(非売品)

今年2月18日に熊本で行われた琅玕忌(石田比呂志さんを偲ぶ集まり)の内容がまとめられたもので、私の講演「短歌の骨法―石田比呂志の歌の魅力」も載っています。

手元に4部ありますので、欲しい方はメールでご連絡ください。
先着順、無料です。 【残部なくなりました 8月12日】

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2017年08月03日

「かりん」 2017年8月号


池谷しげみさんの「発送作業を終えて」という文章を、しみじとした思いで読んだ。

 「かりん」は創刊以来、手作り感を大切にして、発送作業も手書きをつづけてきました。根本的なこころざしに変わりはありませんが、来年の創刊四十周年を機に、時代に即したやりかたを徐々に採りいれようと、模索をはじめています。
 手始めに、発送作業を外部に委託することとなり、すでに七月号から新システムに移行しています。

つまり、これまで自分たちで行ってきた結社誌の発送作業を、外部の会社に委託することになったというわけだ。それに伴って宛名も手書きではなく、印刷されたラベルになるのである。

これまで四十年近く、毎月一回、発行所(馬場さんのご自宅)に集まって発送作業をされていたのだという。きっと大変なことも多い一方で、楽しい集まりでもあったのだろう。時代の移り変わりとはいえ、ずっと続いてきたことが終わるのは寂しいことである。

「塔」ではもう随分前から発送作業は印刷所に委託している。でも、その前は古賀泰子さんのお宅で発送作業をしていたと聞いたことがある。

合理化できるところは合理化してというのは「塔」でも進めている路線だし、実際にそうしていかないと、この時代に結社を存続させていくことはできない。でも、本当に合理化だけを考えるなら、結社を解散するのが一番ということになってしまう。そのバランスをどのように取っていけば良いのか、結社の今後のかじ取りは非常に難しい。

池谷さんの文章の最後には、宛名書きや会費チェック、袋詰めと荷造りを担当されていた方々のお名前が列記されている。必ずしも歌壇的に有名な方ばかりではない。でも、そうした方々の力があって初めて、結社は成り立っているのである。そのことを常に心に置いておきたいと思う。

長い間、本当にお疲れさまでした。
書いていて、涙が出てきた。

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2017年07月23日

「短歌往来」2017年8月号(その2)


特集「30代歌人の現在」より。

 ねぢれたるコースロープをほどきゆく会はなくなつたひとがゐさうで
                      楠 誓英

上句はプールでよく見かける行為だが、下句へのつながりが不思議でおもしろい。「ねぢれたる」と「会はなくなつた」が微妙に響き合う。

 白鶴は雪の味せり 立ち飲みに夜がゆっくり降りてくるころ
                      大平千賀

上句の「白鶴」「雪」という白いイメージと下句の夜の暗さが、互いを引き立て合う。「降りてくる」という動詞の選びがいい。「更けてくる」ではダメ。

 切る前のすいくわのやうな匂ひだなあ家族になつて九年目の夏
                      澤村斉美

家族にも歴史がある。今は「切る前のすいくわ」のように、瑞々しくて青臭い匂いがしているのだろう。まだ、切った後の西瓜ではないのだ。

 知覧茶のしづくとなりてわがのどに少年兵のからだかぐはし
                      柳澤美晴

知覧はかつて特攻隊の基地があった町。茶の産地としても知られている。「しづく」「のど」「からだ」「かぐはし」の平仮名が効果的。何ともすごい歌だ。

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2017年07月22日

「短歌往来」2017年8月号(その1)


特集は「30代歌人の現在」。
32名の作品12首が載っている。男女16名ずつ。

目次には「作品十首+春の季の愛誦歌」とあるが、どこかの段階で変更になったのだろう。

 その胸につめたい蝶を貼りつけて人は死ぬ海鳴りが聞こえる
                        服部真里子

「つめたい蝶」は人の魂のようでもあり、また胸の前で合掌した手のようでもある。海鳴りがあの世から呼んでいるかのように部屋にまで響いている。

 敦盛の享年ほどの幾人(いくたり)か机に伏せたるまま動かざり
                        田口綾子

平敦盛は満14、5歳で亡くなったので、この歌も中学校の教室の場面だろう。授業中に居眠りする生徒というのも、考えてみれば平和な光景である。

 西瓜畑に西瓜太りて逃げられぬこの世のあおい天井が見ゆ
                        小島なお

この世からは誰も逃げ出すことができない。追い詰められていくような圧迫感。「あおい天井」が良くて、空にも蓋がされているように感じるのだ。

 うつしみをまぶたのなかに容れこんで夜を地蔵になるわたしたち
                        吉岡太朗

上句の感覚がおもしろい。身体が丸ごと閉じた目の中へ入ってしまう感じ。そして固い地蔵に変身したかのように、静かに眠るのである。

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2017年07月15日

『山西省』の検閲のこと


「歌壇」2017年8月号掲載の島田修三「PPBの検閲」に、次のような文章がある。

途中、事前から事後検閲に変わったが、PPBの検閲制度は昭和二四年一〇月まで続く。とはいえ、例えば、この期間に刊行され、中国兵との凄惨な戦闘シーンもある宮柊二の『山西省』の歌が削除されたという話は聞かない。

占領軍による検閲についての話であるが、実は『山西省』は検閲によって原稿を没収された経緯がある。

これは既に多くの人が指摘している事実であって、例えば、今年刊行された佐藤通雅著『宮柊二『山西省』論』には、次のように書かれている。

この検閲政策は、一九四五年九月から四九年九月までつづけられ、膨大な既刊本が焚書の憂き目に会った。また、事前検閲によって改変を余儀なくされる例が続出する。改変どころか、出版自体が不許可となり、没収される場合もあった。『山西省』もそういうなかの一つだ。

この時に没収された原稿は、幸いなことにプランゲ文庫に残っており、現在では中山礼治『山西省の世界』(1998年)で読むことができる。
http://www.hiiragi-shobo.co.jp/?p=109

また、プランゲ文庫の「検閲処分を受けた一般図書、ゲラ、手書き原稿」はネットでも公開されている。
https://www.lib.umd.edu/binaries/content/assets/public/prange/censored-books-and-pamphlets_07282016.pdf

この一覧表で宮柊二『山西省』を探すと、1946年3月7日に「Manuscript」(原稿)が「Suppressed」(出版禁止)、「Withdrawn」(取り下げ)という処分を課されたことがわかる。

占領軍による検閲の実態については現在も不透明な部分が多いが、その中にあって『山西省』は最も研究が進んでいる一冊と言っていい。それを「『山西省』の歌が削除されたという話は聞かない」と書くのは、ちょっと不用意ではないだろうか。

*中西さんのコメントを受けて「これは明らかな間違いだ」という部分を削除しました。(2017.7.17)

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2017年07月14日

「ととと」4号


白石瑞紀・永田愛・藤田千鶴の3名の作品を載せたネットプリント。
A3判×2枚。
今回は7月7日の発行ということで、誰かのことを想う歌が多かった。

 ぬばたまの夜の川面は銀河ゆゑ人が立ち入るところにあらず
                    白石瑞紀 「ほたる」
 あたらしい花火にあらたな火を点すあなたの指はとてもきれいで
                    永田 愛 「火」
 貝殻のなかの螺旋に腰掛けて聴いているよう灯りちいさし
                    藤田千鶴 「音楽と夢のあわい」

札幌の居酒屋「ととと」のレポートも載っている。
「鶏と豆富と魚」で「ととと」という名前なのだとか。
「魚=とと」なのだろう。

2017年7月7日、白黒40円、カラー200円。

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2017年07月13日

文藝別冊「俵万智」


副題は「史上最強の三十一文字」。

『サラダ記念日』刊行から30年。版元である河出書房新社から俵万智のムックが出るのも感慨深いものがある。表紙の写真も『サラダ記念日』と同じポーズになっていて、センスがいい。

いろいろと載っているのだが、俵万智と穂村弘のスペシャル対談「「俵万智」になる方法」だけでも十分に元が取れる内容だ。穂村さんの分析力はやはりすごい。

 これは仮説なんだけど、究極の一首を求めるみたいな感覚が歌人のなかにはあるんだと思う。
 ネガティヴィなもののほうが詠いやすいってのは事実なんだけど、その一方で近代以降の短歌にある根本的な生命への肯定感の問題があると思うんだ。

引用だけではうまく伝わらないけれど、どちらも短歌の本質的な問題を突いていて、すぐれた短歌論になっている。

2017年6月30日、河出書房新社、1300円。


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2017年07月11日

「九大短歌」第5号


全48ページ。印象に残った歌をいくつか引く。

 共通のゲームが好きというだけの友達、母というだけの他人
                     長友重樹

「母というだけの他人」に驚く。確かに母といえども他人であるのは間違いない。下句の句割れ・句跨りがうまく働いている。

 心療内科に通うぼくたちやわらかな心の皮膚を一枚はがす
                     菊竹胡乃美

カウンセリングを受けている場面だろう。皮を一枚そっと剝がすように、少しずつ自分の心を打ち明けていくのだ。

 君の描くハートは隙間が空いていていつもわたしが少し描き足す
                     金子有旗

ハートマークの線がきちんとつながっていないのが作者には気になる。完全なハートになるように描き足すところが微笑ましい。

 部屋じゅうの鶴の群れから逃げだして飛行機になる千一枚目
                     松本里佳子

折紙で千羽鶴を折ったあとの「千一枚目」。そう言えば千羽鶴は鶴だけれども糸に吊るされて、自由に空を飛ぶことがない。

 屋根裏に額を寄せてぼくの記憶をぼくらの記憶にする双子たち
                     松本里佳子

互いの額をくっつけ合うと、記憶を共有できるのだろう。SFかオカルトみたいな発想で、笹公人さんや石川美南さんの作風を思わせる。

 東京の人はかぶってないからと駅で帽子を脱げるおとうと
                     狩峰隆希

地方から東京に出てきて、自分のファッションを恥ずかしがる弟。自分でなく弟の話だけに、より痛ましさを感じる。

他には、「牧水・短歌甲子園」経験者4名による誌上座談会が面白かった(ただし前半の互いの歌の批評はもの足りない)。現在、盛岡市主催の「全国高校生短歌大会」(短歌甲子園)と日向市主催の「牧水・短歌甲子園」の二つが行なわれているが、これは統一できないのだろうか。

2017年6月10日、九州大学短歌会、500円。


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2017年07月03日

「岡大短歌5」


五首連作+「岡山」エッセイ(9名+OG7名)、学年×五首連作(6名)、一首評、往復書簡、「第三回学生短歌バトル2017記」という盛り沢山な内容で、全80ページ。

 額から降りてくる手がのどを避け心臓を避けていく 冬だった
                        山田成海

恋の場面。「のど」や「心臓」に触れてほしいという思い。結句の一字空けが効果的で、鮮烈に甦ってくる感じがある。

 クラシックバレエを辞めた足先が体の前の陽に触れたがる
                        川上まなみ

立っている時につま先が無意識に動くことがあるのだろう。かつてバレエを習っていた時の名残が身体に残っている。

 瞬間を覚えていること その奥でらくだが閉じる分厚い瞼
                        加瀬はる

記憶の鮮やかさと脳の奥から甦る不思議な感じがよく表れている。下句のイメージへの飛躍が抜群に良い。

 おまえよりおまえのにおう暮れの森すすめばここが脳だと気づく
                        加瀬はる

今は目の前にいない相手なのだけれど、濃厚にその存在を感じているのだろう。襞の多い脳は、なるほど森に似ている。

 白菜の水分なのか白菜が水分なのかぼこぼこと溢れ始めた鍋を
 見まもる                  上本彩加

5・7・5・7・5・7・7という長い歌。白菜が煮えてくたくたになっていく感じがよく出ている。

 地獄へ連れてきてくれてありがとう 燃え立つ畔のかがよひを行く
                        森下理紗

「曼珠沙華(リコリス)」という一連の歌。曼珠沙華の咲いている畦道を歩いているところ。「ありがとう」が強く響く。

 この兵士は確かこのあと死ぬはずだ故郷の森を語ったあとで
                        森永理恵

かつて見たことのある映画を再び見ているところか。主人公ではないけれど、印象的な人物。故郷の思い出を話す場面の後で戦死するのだろう。

 重力のこびりついてるヒラメ筋洗ってそのまま布団に沈む
                        加瀬はる

ヒラメ筋はふくらはぎの筋肉。よく歩いて疲れているのだろう。まるで筋肉を取り出して洗っているみたいな表現がおもしろい。

 崩しても崩してもいのち箸先が死んだシシャモの腹をまさぐる
                        山田成海

題詠「ししゃも」。シシャモの腹の中にある卵の粒の一つ一つが「いのち」であることを、あらためて気づかされる。

2017年6月10日、岡山大学短歌会、400円。

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2017年06月21日

「Tri」第5号

短歌史に関する評論同人誌。今回のテーマは「ろんそう!」。
寺井龍哉、大井学、浅野大輝、濱松哲朗、花笠海月の計5篇の論考が載っている。A5判、104ページという厚さ。

濱松哲朗「これからの「短歌史」のために」は、2007年の佐佐木幸綱と私の論争を取り上げたもの。

あの論争が不毛な言い争いに終わってしまったのはなぜなのか。濱松は双方が前提とする文脈が大きく違っていたことを、佐佐木と私それぞれの作品や評論なども踏まえて丁寧に論じている。

非常にスリリングでおもしろく、また、納得のいく内容であった。

私は論争の当事者だったわけだが、当事者だからと言って論争の全体図がわかっているわけではなく、むしろ当事者ゆえに見えない部分が多いのだろうと思う。今回、濱松さんの詳しい解説を読んで、初めて「なるほど、そうだったのか!」と気づくところがたくさんあった。

松村の評論は、一首のうちに描かれた〈われ〉以上に、その〈われ〉に課せられた「運命」や、そう書かざるを得なかった「作者」の「運命」を追ったものが多い。
松村は時に「行動を選択しない〈われ〉」を作中に描くことがある。

こうした指摘も、自分ではあまり意識していなかったけれど、確かにそうだなと思う。自分の中にある何かが、評論にも歌にもやはり抜きがたく滲み出ているのだろう。

2017年5月7日、H2O企画、700円。

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2017年06月14日

「アララギ」 昭和17年2月号


 P1050716.JPG

用があって古い「アララギ」を読んでいる。
昭和17年2月号。

前年12月8日の真珠湾攻撃や12月10日のマレー沖海戦の華々しい戦果が、多くの歌となって誌面に載っている。

ペンシルバニヤに命中したる直後にて空中魚雷の白き雷跡
(らいせき)            山口茂吉
ほふり得しレキシントンの轟きを自ら聞きて還りたる艦(ふね)
                   佐藤佐太郎

高安家の人々の歌も載っている。

巨艦(おほきふね)ほふりはてむと身をもちて火炎に入りし
稚(わか)きますらを      高安やす子
戦はいづちと思へばせきあへぬ心となりて空を仰ぎつ
                   高安国世
今まさに艦勇ましく戦ふに灯火管制下二人の吾子は眠れり
                   高安和子

それぞれ「二月集 其一」「壬午集(土屋文明選)其三)」「壬午集 其一」に掲載。

ちなみに表紙の絵は、マネの「エミール・ゾラの肖像」。
http://art.pro.tok2.com/M/Manet/z047.htm

扉に茂吉がこの絵の鑑賞を書いている。
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2017年06月04日

廣野翔一個人誌 「浚渫」

「連作2篇」「日記」「エッセイ」の三部構成。
連作は「泥、そして花びら」30首と「春祭、post-truth」14首。

喉仏持たずやさしき春の鳩からくりのごと空へ弾けつ

「喉仏持たず」という把握が面白い。「からくりのごと」は最初鳩時計かと思ったが、手品師がハンカチから出す鳩の感じかもしれない。

溶接の面(おもて)に闇は広がりて蛍の火には触れず 触れたし

作業の現場の歌。溶接の火花を蛍の光に喩えているのだろう。結句の一字空けに力がある。

生活に仕事がやがて混ざりゆく鉄芯入りの靴で外へと

仕事で使う安全靴を履いて、休日などにちょっと外へ出掛けるところか。「鉄芯入りの靴」がいい。

聴力が先に捉えて振り返るヘリコプターに土踏まず見ゆ

ヘリコプターの脚(スキッド)を「土踏まず」と表現したのだろう。音が先に聞こえてくる感じもよくわかる。

移民の孫が移民を拒む寂しさの中でもうすぐ築かれる壁

移民の国アメリカで建設が進む国境の壁。トランプ大統領の当選後の時事的な話題を詠んだ歌だ。

歩きつつアップルパイを食べているpost-truthの時代の中で

上句の軽さと下句の不安感の取り合わせが現代的。初句・二句の「あ」の頭韻や、「プ」「パ」「po」の音の響かせ方がうまい。

2017年5月7日発行、500円。
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2017年05月22日

「塔」2017年5月号(その2)

なまじろき項(うなじ)あらはになりてをりなほ立ち上がる赤鬼
青鬼                    篠野 京

節分の追儺式の場面。本物(?)の鬼ではないから、赤や青のかぶり物の隙間から人間の白っぽい皮膚が覗いているのだ。

ささずとも濡れないほどの、でも傘に徐々に雨粒はりついてゆく
                      中田明子

二句で切って「、でも」とつなぐ文体が印象的。「ささずとも濡れないほどの雨なれど」みたいにすると、全然面白くなくなってしまう。

かりそめの家族だろうかお湯割りは怒りを溶かすこともできない
                      大橋春人

かりそめのものと思っていた方が家族関係は楽かもしれない。焼酎のお湯割りを飲んでも家族の誰かに対する怒りが消えないのだ。

改修の済みたるトイレはずかしくしばらく別のフロアを使う
                      山名聡美

最近のトイレはとても明るく清潔になって、でも何だか落ち着かない。改修前は少し薄暗いけれど居心地の良いトイレだったのだ。

言ひづらきことも言ひたるわれの影千日草の花に触れゆく
                      朝井一恵

帰り道に相手の反応を思い返したりしながら、やや俯いて歩いているのだろう。千日草の丸い花に触れることで少し自分を慰めている。

何となく入れたくなったと言い添えて夫がはじめて買うバスクリン
                      大森千里

長年連れ添ってきた夫婦の感じがよく出ている。きっと何かしんどいことがあったのだろう。でも夫はそれを言わないし妻も訊きはしない。

ローマ字ではNANKOKUとある「南国」の標識あをし海が近づく
                      岡部かずみ

高知県南国市。「なんごく」ではなく「なんこく」であることを知って驚いたのだ。旅行の途中だろうか。明るい海の感じも伝わってくる。

晩柑をともしびとして食卓に船をいざなふごとく待ちをり
                      有櫛由之

誰かの訪れを待っている場面だろう。「船をいざなふごとく」がいい。夜の灯台のように、黄色い晩柑が一つ食卓に載っているのだ。
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2017年05月19日

「塔」2017年5月号(その1)

とかげのごと目蓋おしあげうたたねの母がときどきわたしを
さがす                     上條節子

「目蓋おしあげ」から高齢の母の様子がよく伝わってくる。作者の姿が近くに見えないと不安になるのだろう。

閑職に移されへこむわれでなし へこんだふりはせねばなら
ぬが                      森尻理恵

人事異動により閑職に回された作者。それくらいのことでは落ち込まない強さを持っているが、職場における駆け引きや戦いはまだ続く。

由比ヶ浜に唐船朽ちてゆくまでを実朝の聞きていし波の音
                        山下裕美

源実朝が宋に渡る計画を立て唐船を建造させた歴史を踏まえた歌。計画が失敗に終わって朽ちてゆく船をどんな思いで見ていたのか。

ゴールして抱へられゆく少女から冬枝のごとき腕(かひな)の
垂れる                     広瀬明子

マラソンを走り終えた女子選手の細い腕を「冬枝」に喩えているところが生々しい。鍛えられた肉体ではあるけれど、可哀そうにも感じる。

厨房で何かもめてる中華屋のアンニンドーフだけ聴き取れる
                        相原かろ

言い合いをする中国語が飛び交っているのだろう。杏仁豆腐という言葉だけが意味のあるものとして、かろうじて聞き取れるのだ。

清潔なロビーのようなこのひとの心に落とす夜のどんぐり
                        白水麻衣

少しよそよそしさもあって、相手の心に入り込めない感じがするのだろう。少しでもいいから自分の存在や思いを伝えたいのだ。

おまえも早く寝たほうがいいふりむけば遠赤外線ストーブの立つ
                        小川ちとせ

上句は誰かの台詞なのだろうが、まるでストーブが話し掛けたような感じがするのが面白い。離れた所から自分を見守ってくれている。

熾の上に灰のうつすら積る見ゆこの淋しさは人間のもの
                        高橋ひろ子

下句の思い切った断定がいい。暖炉や火鉢にある熾火に灰が白く積もっている場面。火の赤さは表からは見えずひっそりと静まっている。
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2017年05月17日

「歌壇」2017年6月号

小谷奈央「沼杉」20首がいい。かなり良い一連だと思う。

全体にひらがなが多く柔らかな詠みぶりが印象的。植物や生き物がたくさん出てくる。頭の中で思いを巡らせつつ自然の中を歩いているのだが、両者がない交ぜになっている感じもあって面白い。

からっぽと人に言われてかんがえるからっぽをいま繁縷が蔽う

誰かに「君はからっぽだ」とか「頭をからっぽにしろ」とか言われて、その意味を考えているのだろう。下句は空地や庭に繁縷がはびこるイメージ。

枯れ草のいろのつばさが揚がるとき辺りにあかるい音がちらばる

ひばりの明るい鳴き声が聞こえてくる場面。「ひばり」と言わずに表しているのがいい。大伴家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」を思い出す。

やったことひとつずつ消しやらなかったことはリストにそのままのこる

「やることリスト」を作って一つ一つ消しているのだ。やったことよりもやらなかったことの方が、後々までリストだけでなく胸にも残る。

なだらかな草の斜面を越えて行く小さな虫とぶつかりながら

蚊柱などだろうか。上句だけなら何でもないのだが、下句に体感があることで、ぐっと臨場感のある歌になった。

にんげんは笛だったからここで死ぬこともそのうち笛になるんだ

人間の身体が管であることから笛が出てきたのだと読む。一連の中でピークとなっている力強い歌。笛が人間になって、やがてまた笛に戻っていくということか。1首目の「からっぽ」とも響き合う。

たんたんと離れてゆけばつまずきぬ沼杉の根はここまで伸びる

水辺に生えている木。思わぬ場所まで気根が延びていたのだ。おそらく好きな木なのだろうが、逃げられないような不気味さも感じる。
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2017年05月13日

時評いくつか

各結社誌の時評欄には必ず目を通すようにしているが、毎月かなり充実していると思う。

「八雁」5月号の渡辺幸一「「合評余滴」について思うこと」は、率直で歯に衣着せぬ書き方が印象的であった。歌をめぐる議論の大切さを述べた文章である。

大切なのは「誰の作品のどこがいいか(あるいは悪いか)、その理由は何か」を具体的に明らかにすることである。当然ながらそうでなければ議論は始まらない。

歌壇の現状や歌の批判などをする際に、一般論ではなく具体的な人名や作品を挙げることの大切さを指摘していて、確かにその通りだと思う。この点、歌人は少し優しすぎるのかもしれない。

「梁」92号の上村典子「「読み」は金字塔」は、短歌の読みについての話。いくつもの話題を挙げているのだが、「ね」や「レチサンス」の話もあって、ちょうど「角川短歌」5月号の歌壇時評に私も書いたところだったので、面白かった。

「未来」5月号の服部真里子「内的要請と外的要請」は山中千瀬や石井辰彦の折句の歌を挙げて、「作者の内面の表白」という短歌観に疑問を呈したもの。

作者が内面を表白した歌が、名歌となることは確かにある。しかしその確率は、外的要請が名歌を生む確率とさほど変わらないのではないか。(・・・)作者自身の「表白」より、外的要請によってにじみ出てしまう何かの方が、作者を深く反映することはないだろうか。

これは確かにその通りだと思うところがあって、例えば「題詠」と「自由題」で一首ずつ歌を出してもらったりすると、外的要請のある「題詠」の方が意外と良い歌が多かったりする。

(ただし、そもそも短歌においては「定型」が最大の外的要請になっているのではないかという疑問もある。)

「短歌研究」5月号の短歌時評「歌読みは何を信じるか」では、高島裕が「人の〈本心〉がまず実体として存在し、短歌作品は、言葉によってその〈本心〉を表現したもの(であるべき)だ」という短歌観を批判しており、服部の指摘ともつながる内容だと感じた。

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2017年05月06日

「塔」2017年4月号(その2)

ミニカーの運転席に人はなくエアコンの風吹いてくるのみ
                       田村穂隆

ミニカーには人が乗っていないという発見の歌。その無機質な感じにエアコンの人工的な冷たい風がよく合っている。

吾の部屋の家主ノーマン・ブレッドと電話に話せど会いたる
ことなし                   高橋武司

家主が外国の方なのだ。確かに賃貸契約を結ぶ時も不動産屋を介してなので、家主と直接会うことはあまりない。何だか謎めいている。

思い出すときにあなたとその奥に降るぼたん雪、いつまでも冬
                       川上まなみ

思い出の中の時間は進むことがない。作者にとって忘れられない相手であるあなた。それが永遠に失われてしまったことも感じさせる。

開かない日もあるけれど止まり木のような一冊かばんにいれて
                       山名聡美

「止まり木のように」がいい。忙しく大変なことの多い生活の中で、ほっと一息つけるのが読書の時間。お守りのように鞄に入れている。

水差しが傾くような礼をしてしずかなるバスに乗りゆくきみは
                       石松 佳

「水差しが傾くような」がいい。相手の人のたたずまいがよく見えてくる。その礼儀正しさが、作者には少し寂しくもあるのだろう。

転ぶなと言う人のいて転んでもいいよと言う人のいて 冬の月
                       岩尾美加子

年配の方に「転ぶな」と言うことは多い。骨折が寝たきりの原因になるからだ。そんな中で「転んでもいい」という言葉が嬉しかったのだろう。

ポケットに両手つっこみ帰路につくわら半紙色の雲を見ながら
                       中西寒天

「わら半紙色の雲」がいい。晴天ではないのだけれど、どこか懐かしさや温かさを感じる。「両手つっこみ」の素っ気なさも微笑ましい。
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2017年05月05日

「塔」2017年4月号(その1)

われの死を諾はざらむものひとつ小さき心臓ペースメーカー
                       尾形 貢

「諾はざらむ」という把握が独特でおもしろい。自分の死後もずっと動き続けるペースメーカーのことを想像している。

君のこゑが雪と言ひたり覚めやらぬままになづきの仄か明るむ
                       溝川清久

寝床にいながらぼんやりと、窓を開けた君の少し驚いたような声を聞いている。「仄か明るむ」が雪明りもイメージさせる。

豊島屋の三和土に小さき板おかれ白猫すわる寒き目をして
                       佐原亜子

昔ながらの古いお店。三和土に直に座るのは冷たいので、ちゃんと猫の居場所が設けられているのだ。「豊島屋」という固有名詞がいい。

干拓地の町の名前は福、富、輝、栄、あけぼの付きてめでたし
                       加藤久子

干拓地には古い歴史や由緒が何もない。そこで人工的に付けられた縁起の良い名前の町ばかりが続くことになる。

住宅地のなかをゆったりカーブするミシン目はあり地図上の
暗渠                     北辻千展

暗渠はもとは地上にあった河川であるから、街区や道路と違って自然なカーブを描いている。地図にだけ残る失われた風景。

閉じている薔薇をゆさぶり今咲けというごと言葉は子を追い
つめる                    橋本恵美

花に向ってこんなことをする人がいたら変だと思うけれど、子育ての場面において、親はついつい同じようなことをしてしまう。

十五年着しセーターを捨てて今朝我が吉祥寺の街は消えたり
                       野 岬

吉祥寺の店で買ったのか、吉祥寺に住んでいたのか。物を捨てるというのは、それにまつわる思い出も捨てることなのである。
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2017年05月03日

「未来」2017年5月号

昨年「未来」に電撃的(僕のイメージ)に復帰した高島裕さんのインタビューが載っている。全8ページ。聞き手は錦見映理子さん。

高島さんの歌や人生の軌跡がよくまとまっていて、とても良かった。

みんな、親がアメリカに旅行に行ったとか仕事で行ったとかそういう話をしているなか、私が「父はマレーシアに戦争に行きました」っていうと大笑いされて(笑)
最初の頃は都市的な猥雑さを歌にしていましたけど、そのうち、そういうものを忌むようになって、「伝統詩としての短歌」というところに自分の根拠を求めるようになったんです。
やっぱり、私は岡井さんの弟子だっていうことですよね。岡井さんから学んだことは絶大だと思います。
歌である以上、今を生きている命のリアリティがないとだめなわけで、今を生きている以上、様式的な美からははみ出すことが常にあるわけです。
妻のグラフィックデザイナーの石崎悠子と出会ったということが大きいですね。他者の力で自分が変わっていくのに驚いたし、いい形で変わっていける相手だったんです。

どれも歌人高島裕や高島の歌を論じる際に、大事なポイントと言って良いだろう。今後の活躍がますます楽しみである。

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2017年04月30日

文明の後半戦

『景徳鎮』を読んでいて、思わず笑ってしまった歌がある。

『南集』『續南集』と読み継ぎて『續々南集』に倦み果つ
              大辻隆弘『景徳鎮』

そうだよなあ〜(笑)。これは、土屋文明の全歌集を読んだ人は誰しも感じるのではないかという思いだ。しかも、その後に、まだ『青南後集』『青南後集以後』が控えているのである。

アンソロジーや評論によく引かれる文明の歌は、第8歌集『自流泉』(昭和28年、文明63歳)までのものが多い。けれども、実はそれはまだ前半戦であって、第9歌集『青南集』以降の後半戦が相当に長いのである。何しろ文明は満100歳まで生きたのだ。

『青南集』1355首、『続青南集』1413首、『続々青南集』1290首という圧倒的なボリュームに、読んでも読んでも終わらないという感想を抱く。ひょっとすると、その苦行(?)に耐えることが文明の歌を理解するには不可欠なのかもしれない。
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2017年04月25日

平井弘インタビュー

「塔」2017年3月号・4月号に掲載された平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」が、とてもおもしろい。平井さんのファンは必読だと思うし、短歌の文体や口語、他者、社会詠の問題を考えるヒントもたくさん出てくる。

私が歌を作り始めた頃一番影響を受けたのは相良宏ですね。
あと作家で言えば、最初の頃は大江健三郎の影響はもうたくさん受けてます。
短歌というのは、やっぱり一人称の詩型だから、相手を見るときにどうしても自分の投影になっちゃうんですね。どうしてもその相手は他者としての性格をなくしちゃってるんですよ。
主体のねじれがあると嫌われますけど、私の歌の中ではそれが無意識にいっぱい出てくるんですよ。
多義性は絶対手放したくないし、手放せないんですよね。私の歌から多義性取ったらもう何も残らない。
安倍政権が悪いったって、対者を倒したらそれでいいのかというと、そういう問題じゃないと思う。選んだ自分たちの方が変わらないと、安倍さん倒したところで何も本質は変わらないですよ。

最初から最後まで、驚くほど率直に語って下さっている。
記憶も思考も非常に明晰で、やはりただ者ではないという感じだ。
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2017年03月24日

「塔」2017年3月号(その2)

三人の子は三様の声なれど三様にしてわれと似てをり
                   千名民時

別々の声なのだけれど、それぞれにどこか自分と似ている。声を通じて親子という関係をあらためて捉え直した歌。

瘤白鳥 沼に生まれて沼にすみ沼より出でずひくく空とぶ
                   田中ミハル

「沼」を三回繰り返したところが良い。「白鳥」ではなく「瘤白鳥」であること、また「ひくく」という表現にも、翳りが感じられる。

食事終へて気づきぬ背後に立つものが人ではなくてゴムの木
だったと               野 岬

レストランだろうか。何かが立っている気配をずっと感じながら食事をしていたのだ。拍子抜けしたような気分がよく表れている。

食欲のまたなくなりし吾がために夫は山形の「とびきりそば」
求めき                岩淵令子

ネーミングが面白い。きっととびきり美味しいそばで、作者の好物なのだろう。少しでも食べられるものをと考える夫の愛情もよく伝わる。

牛乳代百円もらいに娘たちのれんをくぐり男湯へゆく
                   茂出木智子

お金を持っている父親がいるのだ。まだ幼くて無邪気に男湯へと入って行く娘たち。数年もすれば見られなくなる光景である。

デスクには「白い恋人」二枚あり忌引を終えし同僚からの
                   和田かな子

同僚は北海道の出身なのだろう。忌引明けに職場のデスクにお土産を配って回ったのだ。「白い恋人」二枚という具体が効いている。

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2017年03月23日

「塔」2017年3月号(その1)

しない方がよい練習といふものはそれをたくさんした後わかる
                    河野美砂子

逆説を含んだ格言のような歌。ピアノの練習の話なのだろうが、他のいろいろなことにも当て嵌まりそうな気がする。

あかりひとつ消せば隣の部屋の声くきやかになるホテル東洋
                    小林真代

電気を消して部屋が暗くなると、聴覚が敏感になる。あまり防音が良くない少し古めかしいホテルが思い浮かぶ。

地穴子の弁当のへぎに輪ゴムかけ母との夕食六時に終えぬ
                    上條節子

昔ながらのへぎ板の箱に入った穴子弁当。年を取った母と二人で早い夕食をとる。穴子は母の好物なのかもしれない。

三十万も仔がいるという平茂勝(ひらしげかつ)は黒光りする
銅像の牛                北辻千展

三十万という数に驚くが、非常に優秀な種牛だったのだろう。「平茂勝」がまるで人名のように見えるところが面白い。

仏像の五指の反り見てしばらくをまねしてをりぬ仏のやうに
                    中野敏子

美しく伸びた指を見ているうちにふと真似したくなったのだろう。結句「仏のやうに」が不思議な味わいを生んでいる。

妖精のようだとわれは評されて焼き鳥、串から外しにくいね
                    白水麻衣

誉め言葉のつもりなのだろうが、言われてあまり嬉しい譬えでもない。下句の居酒屋の場面との取り合わせがいい。

願ひごとのせし土器(かはらけ)落ちゆくはあまた土器積りし
ところ                 久岡貴子

土器投げで投げられた土器が、みな同じような所に落ちていくのだろう。本当にこれで願い事が叶うのかなあと苦笑しているような感じ。
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2017年03月21日

「羽根と根」 5号

10名の同人の作品が載っている。数は14首、26首、22首、20首、10首、50首、10首、8首、10首、47首と、人によって大きく違う。

コンビニの前のベンチにほそぼそと煙草燃やして薄着のふたり
野球部がまた野球部を連れてくるそろそろやめたいなこのバイト
        中村美智「きみはファンキーモンキーベイベー」

1首目、「吸って」ではなく「燃やして」なのがいい。特に何をしているでもない感じ。
2首目、同じ野球部の仲間をバイトに引き込んだのだ。バイトする人たちの中で大きな勢力になっていくのが鬱陶しい。

近況は途中で爪にある白いところがないって話に変わる
脚注をさがす半分手のひらを今のページのはさんでおいて
信じることと信じるふりをすることの間にモッコウバラがあふれる
        牛尾今日子「にんにくを刻む」

1首目、近況を話しながら爪をいじったりしていたのだろう。
2首目、「脚注をさがす」で切れる。「元のページ」ではなく「今のページ」としたところに臨場感がある。
3首目、少し翳りのある上句とモッコウバラのひたすらな明るさの取り合わせが印象的。

ボーダーを着てボーダーの服買いに行くのはながいきの
おまじない   橋爪志保「世界中の鳥の名前」

「服買いに/行くのはながい/きのおまじない」の句跨りが面白い。イ音が響く。

渡るとき渡り廊下は保ちたり川の澱みのごとき暗さを
自習する時間を人は窓に向くときおり鳥の眼差しをして
辞めるのも選択だろうと笑いあう辞めたるのちの選択もなく
樹を植えるように机をそろえればまた教室にゆうぐれはくる
        坂井ユリ「花器の欠片が散らばるごとく」

1首目、学校の渡り廊下が持っている独特の質感。
2首目、「時間を人は窓に向く」の助詞の使い方がいい。
3首目、仕事を辞めてしまえばその後はないという現実の厳しさ。
4首目、「樹を植えるように」という比喩がにいい。一台ずつ一人で丁寧に揃えていく。

忘れたら思い出すだけ どの鞄にも入れっぱなしのハンド
クリーム    佐伯紺「いつでも急な雨に備えて」

初二句の言い切りに明るさがある。三句以下との取り合わせも面白い。とにかく大丈夫という安心感がある。

2016年11月23日、500円。

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2017年02月27日

「塔」2017年2月号(その2)

珈琲に息ふきかけてはつふゆの湖面のように晴れてゆく湯気
                     安田 茜

珈琲から立ち昇る湯気を湖面の霧に喩えているところが鮮やか。スケールの全く違うものが比喩によって一瞬で結び付く。

お母さんも喘息ですね かつてのわが苦しみまでも名を付け
られぬ                  丸本ふみ

子が喘息で苦しんでいるのだろう。医師が軽い気持ちで言った言葉を聞いて、子の病気が自分のせいなのかと思い悩むのである。

自転車ごと乗りこむ二両の飯坂線冬の帽子を目深にかぶり
                     佐藤涼子

近年、自転車を車内に持ち込めるサイクルトレインが少しずつ広がっている。「二両」というところからローカル線の様子も伝わる。

ピーマンは豊かに稔り実の中にいま満ちてゐむみどりの光
                     高橋ひろ子

畑に実るピーマンを見ながら、その中に入ってみたかのような想像をしている。ピーマンには空洞があるので、小人なら住めそうだ。

晩年は光届かぬ目となりし画家のまなうらに光る睡蓮
                     魚谷真梨子

モネのことだろう。目が見えないと言わずに「光届かぬ目」と表現したのがいい。自分がかつて描いた作品が目の奥で光っている。

明け方のどこかで犬が鳴いてゐる声のまはりを滲ませながら
                     岡部かずみ

下句がおもしろい。鳴き声だけを聞きながら、そのまわりの空気の震えのようなものを感じ取っている。そこだけがほのかに明るい感じ。

posted by 松村正直 at 19:20| Comment(1) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする