2017年03月30日

平田オリザ著 『下り坂をそろそろと下る』


「日本は、もはや工業立国ではない」「もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならない」「日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではない」という現状認識に立って、今後の日本の進むべき方向性や考え方を示した本。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』に象徴される上り坂の明治の日本に対して、下り坂の平成の日本をいかに生きるか。「小豆島」「豊岡」「善通寺」「女川」「双葉」など様々な実践例を挙げつつ丁寧に説いている。

印象に残った箇所をいくつか引こう。

私が生業とする演劇は、そこに行って、やって見せなければ何も始まらないというやっかいで古くさい芸術なので、国内外を巡る旅がもう二〇年以上も続いている。
今回の改革は、大学入試の変容だけの問題ではない。今後、学力観そのものが変わっていくのだろうと私は思う。
これからの日本と日本社会は、下り坂を、心を引き締めながら下りていかなければならない。そのときに必要なのは、人をぐいぐいとひっぱっていくリーダーシップだけではなく、「けが人はいないか」「逃げ遅れたものはないか」あるいは「忘れ物はないか」と見て回ってくれる、そのようなリーダーも求められるのではあるまいか。
今回の震災で、あらためて明らかになったことの一つは、いかに東北が東京の、あるいは京浜工業地帯の下支えになってきたかという事実だった。それは電力やサプライチェーンだけのことではない。東北は長く、東京に対して、中央政府に対して、主要な人材の供給源だった。

私は平田の論の全てに賛成するわけではない。もう少し明るいビジョンも欲しい気がする。その一方で、この本が私たちに多くのヒントを与えてくれることも確かだと思う。

2016年4月20日、講談社現代新書、760円。

posted by 松村正直 at 16:23| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

迢空賞

第51回迢空賞を橋本喜典さんの歌集『行きて帰る』が受賞することに決まった。第28回斎藤茂吉短歌文学賞に続く受賞である。おめでとうございます。

橋本さんとは何の接点もないのだが、『行きて帰る』は昨年読んで非常に印象に残った一冊であった。

橋本喜典歌集『行きて帰る』(2016年11月1日)
http://matsutanka.seesaa.net/article/443295594.html
橋本喜典さん(2017年2月6日)
http://matsutanka.seesaa.net/article/446703554.html

2013年に雨宮雅子さんが歌集『水の花』で詩歌文学館賞を受賞した時にも感じたのだが、こうした力のある歌集がきちんと評価されるのが歌壇の良いところだと思う。
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2017年03月27日

今後の予定

今年も短歌関係の用事であちこち行きます。
多くの方々とお会いできますように。

 4月 2日(日) 「塔」横浜歌会
 5月11日(木) JEUGIAカルチャー海遊館吟行
 5月28日(日) 「塔」北陸歌会(選者派遣)
 6月24日(土)25日(日) 「塔」北海道集会
 7月17日(祝) 現代歌人集会春季大会in大阪
 8月19日(土)20日(日) 「塔」全国大会in郡山
10月21日(土) 堺市民芸術祭短歌大会(講演)

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2017年03月26日

青柳町

昨日の読売新聞朝刊の編集手帳に、こんな話が載っていた。

ずいぶん昔、青柳町という土地を知りたくて、そのためだけに津軽海峡を渡ったことがある。〈函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花〉。石川啄木の歌に誘われて、である。

歌に誘われて津軽海峡を渡るなんて、ロマンチックだなと思う。
そして、この歌にはそれくらい人を惹きつける力があるのだとも思う。

なにしろ、私が短歌を始めたきっかけもこの1首なのだ。
1996年の初夏、まだ25歳だった頃のことである。

この歌については、以前このブログでも触れたことがある。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138820.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138821.html

啄木に触れて短歌を始めた者として、いつかは自分なりの啄木論を書いてみたい。そういう思いが最近とみに強くなってきている。

posted by 松村正直 at 17:25| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月25日

坂井修一歌集 『青眼白眼』

2013年1月から2015年4月までの作品390首を収めた第10歌集。

山形産斎藤茂吉はぷつぷつと語尾を切りつつスマホのなかに
あわだちて命とならむ悲しみをこの蟷螂は生みてゐるなり
かまきりの泡の卵の乾くときくらくかがやくわれのまなこは
歩かない吊革とあそばない私会ひてわかるる冬の電車に
「脱衣所の壁を壊すな」張り紙を破りて壁は壊されてあり
同僚のKの怒りをよみかねてビネガーをふるピンクサーモン
世はなべてひとの搾め木か脳髄も搾められてくろき砂糖とならむ
うなぎ湯にゆふべのわれはほとびきて眠りてゆかむからだとこころ
つつぷして眠りこみたる十五秒 海底見えて蛸が這ひくも
富士となりそびゆとみれば崩れゆくひとりあそびの大根おろし

1首目、茂吉の朗読の声が入っているのだろう。「山形産斎藤茂吉」は茂吉の〈日本産狐は肉を食ひをはり平安の顔をしたる時の間〉などを思わせる。
2、3首目は、かまきりの産卵をじっと見ている歌。このあたりは茂吉っぽい詠み方である。
4首目、吊革は電車から出られないし、私にはのんびりする時間がない。
5首目、何度補修しても壊される壁。張り紙がむなしい。
6首目、何に怒っているのかよくわからないのだろう。
7首目、サトウキビから汁を搾るように、肉体だけでなく頭脳も日々搾られていく。
8首目、ひらがなが多くて、身も心も緩んでいく様子がよく伝わる。
9首目、わずかな時間に見た夢。相当疲れている感じだ。
10首目、円錐状になった大根おろしを「富士」に見立てている。

多忙な生活の中にあってふっと意識が逸れていったり死へと誘われたりする感じがしばしば詠まれていて印象に残った。

2017年3月1日、砂子屋書房、3000円。

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2017年03月24日

「塔」2017年3月号(その2)

三人の子は三様の声なれど三様にしてわれと似てをり
                   千名民時

別々の声なのだけれど、それぞれにどこか自分と似ている。声を通じて親子という関係をあらためて捉え直した歌。

瘤白鳥 沼に生まれて沼にすみ沼より出でずひくく空とぶ
                   田中ミハル

「沼」を三回繰り返したところが良い。「白鳥」ではなく「瘤白鳥」であること、また「ひくく」という表現にも、翳りが感じられる。

食事終へて気づきぬ背後に立つものが人ではなくてゴムの木
だったと               野 岬

レストランだろうか。何かが立っている気配をずっと感じながら食事をしていたのだ。拍子抜けしたような気分がよく表れている。

食欲のまたなくなりし吾がために夫は山形の「とびきりそば」
求めき                岩淵令子

ネーミングが面白い。きっととびきり美味しいそばで、作者の好物なのだろう。少しでも食べられるものをと考える夫の愛情もよく伝わる。

牛乳代百円もらいに娘たちのれんをくぐり男湯へゆく
                   茂出木智子

お金を持っている父親がいるのだ。まだ幼くて無邪気に男湯へと入って行く娘たち。数年もすれば見られなくなる光景である。

デスクには「白い恋人」二枚あり忌引を終えし同僚からの
                   和田かな子

同僚は北海道の出身なのだろう。忌引明けに職場のデスクにお土産を配って回ったのだ。「白い恋人」二枚という具体が効いている。

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2017年03月23日

「塔」2017年3月号(その1)

しない方がよい練習といふものはそれをたくさんした後わかる
                    河野美砂子

逆説を含んだ格言のような歌。ピアノの練習の話なのだろうが、他のいろいろなことにも当て嵌まりそうな気がする。

あかりひとつ消せば隣の部屋の声くきやかになるホテル東洋
                    小林真代

電気を消して部屋が暗くなると、聴覚が敏感になる。あまり防音が良くない少し古めかしいホテルが思い浮かぶ。

地穴子の弁当のへぎに輪ゴムかけ母との夕食六時に終えぬ
                    上條節子

昔ながらのへぎ板の箱に入った穴子弁当。年を取った母と二人で早い夕食をとる。穴子は母の好物なのかもしれない。

三十万も仔がいるという平茂勝(ひらしげかつ)は黒光りする
銅像の牛                北辻千展

三十万という数に驚くが、非常に優秀な種牛だったのだろう。「平茂勝」がまるで人名のように見えるところが面白い。

仏像の五指の反り見てしばらくをまねしてをりぬ仏のやうに
                    中野敏子

美しく伸びた指を見ているうちにふと真似したくなったのだろう。結句「仏のやうに」が不思議な味わいを生んでいる。

妖精のようだとわれは評されて焼き鳥、串から外しにくいね
                    白水麻衣

誉め言葉のつもりなのだろうが、言われてあまり嬉しい譬えでもない。下句の居酒屋の場面との取り合わせがいい。

願ひごとのせし土器(かはらけ)落ちゆくはあまた土器積りし
ところ                 久岡貴子

土器投げで投げられた土器が、みな同じような所に落ちていくのだろう。本当にこれで願い事が叶うのかなあと苦笑しているような感じ。
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2017年03月22日

坂田博義

勉強会に参加するために、久しぶりに『坂田博義歌集』を読み直した。いろいろと新たな発見があったのだが、そのうち2つ書いておく。

一つは「サハリン」の歌。

秋ははや至りておらんサハリンのかたに海霧また深くなる

北海道に生まれ育った人にとって、サハリンは割と身近な存在であったのだろう。しかも坂田は戦前の昭和12年生まれ。坂田が8歳の時まで樺太は日本の領土であったのだ。

もう一つは縊死の歌である。

縊れ死ぬユダのなげきに膚接して爪先だちて劇を観ている
獣肉を吊るせる大鉤をみていしが縊れんとする吾にあらねば

坂田が24歳で縊死した事実を知っていて読むと、何か予感のようにも思われる歌である。

もちろん、それは結果論に過ぎない。けれども、歌が予言として作用することも確かにあるような気がするのだ。
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2017年03月21日

「羽根と根」 5号

10名の同人の作品が載っている。数は14首、26首、22首、20首、10首、50首、10首、8首、10首、47首と、人によって大きく違う。

コンビニの前のベンチにほそぼそと煙草燃やして薄着のふたり
野球部がまた野球部を連れてくるそろそろやめたいなこのバイト
        中村美智「きみはファンキーモンキーベイベー」

1首目、「吸って」ではなく「燃やして」なのがいい。特に何をしているでもない感じ。
2首目、同じ野球部の仲間をバイトに引き込んだのだ。バイトする人たちの中で大きな勢力になっていくのが鬱陶しい。

近況は途中で爪にある白いところがないって話に変わる
脚注をさがす半分手のひらを今のページのはさんでおいて
信じることと信じるふりをすることの間にモッコウバラがあふれる
        牛尾今日子「にんにくを刻む」

1首目、近況を話しながら爪をいじったりしていたのだろう。
2首目、「脚注をさがす」で切れる。「元のページ」ではなく「今のページ」としたところに臨場感がある。
3首目、少し翳りのある上句とモッコウバラのひたすらな明るさの取り合わせが印象的。

ボーダーを着てボーダーの服買いに行くのはながいきの
おまじない   橋爪志保「世界中の鳥の名前」

「服買いに/行くのはながい/きのおまじない」の句跨りが面白い。イ音が響く。

渡るとき渡り廊下は保ちたり川の澱みのごとき暗さを
自習する時間を人は窓に向くときおり鳥の眼差しをして
辞めるのも選択だろうと笑いあう辞めたるのちの選択もなく
樹を植えるように机をそろえればまた教室にゆうぐれはくる
        坂井ユリ「花器の欠片が散らばるごとく」

1首目、学校の渡り廊下が持っている独特の質感。
2首目、「時間を人は窓に向く」の助詞の使い方がいい。
3首目、仕事を辞めてしまえばその後はないという現実の厳しさ。
4首目、「樹を植えるように」という比喩がにいい。一台ずつ一人で丁寧に揃えていく。

忘れたら思い出すだけ どの鞄にも入れっぱなしのハンド
クリーム    佐伯紺「いつでも急な雨に備えて」

初二句の言い切りに明るさがある。三句以下との取り合わせも面白い。とにかく大丈夫という安心感がある。

2016年11月23日、500円。

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2017年03月20日

舞の海秀平著 『テレビでは言えない大相撲観戦の極意』


元力士で現在はNHKの大相撲の解説を務める著者が、相撲の魅力や観戦法などを記した本。わかりやすい文章で記述のバランスも良く、テレビでの解説の語り口が彷彿とする。

当初は「柏鵬」にするつもりでしたが、当時62キロしかなかった細身の少年には荷が重過ぎると判断し、肌が白かったことから「白鵬」に変更した、と聞きます。
相撲界にはドラフト制度がなく、新弟子の獲得は師匠の手腕にかかっています。
本場所中に国技館で1日に使用される塩は約45キロに及ぶそうです。

現在活躍中の高安についての話も出てくる。

例えば、大関に手が届くところまできた高安の最近の稽古を見れば、彼が強くなることはすぐに想像ができます。意識と稽古は比例するのです。

ただ漫然と稽古していても強くはならない。高い意識を持って取り組んで初めて中身の濃い稽古ができ、強くなっていくのだ。これはどの世界でも同じことだろう。

2016年12月8日、ポプラ新書、800円。

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2017年03月19日

高安7連勝

ここ数年、大相撲の高安を応援している。
「塔」2011年11月号に

高安という名の力士見てみたい番付ひくくていつも見のがす
               池本一郎

という歌が載った頃からのファンである。
もちろん「高安国世」→「高安」という連想が元になっている歌だ。

「塔」の編集部ブログでも何度か取り上げたことがある。

高安という名の力士(2011.11.25)
大相撲の「高安」(2012.4.23)
高安10勝(2013.1.25)

今場所はここまで無傷の7連勝。
おとといの照ノ富士戦、昨日の蒼国来戦と、立ち合いの当たりがものすごい。相手を弾き飛ばしている。

この勢いで優勝争いに絡み、大関昇進を目指して頑張ってほしい。

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2017年03月17日

洞窟と私

高校2年の時に一週間ほど東北を一人で旅行したことがある。その時に、岩手県にある滝観洞(ろうかんどう)という鍾乳洞に行った。全く知らない所だったのだが、地元の方とたまたま話をしていて「龍泉洞と安家洞に行く」という話をしたところ、この近くにも鍾乳洞があると言って教えてもらったのが滝観洞であった。

この鍾乳洞が実に素晴らしくて、それ以来すっかり洞窟好きになってしまった。名前からもわかるように、一番奥まで進むと大きな滝が流れ落ちている。その美しさに見惚れて30分ばかりボーっと滝を眺めていた。

すぐ近くには白蓮洞という柳原白蓮にちなんで名付けられた鍾乳洞もあり、そちらは途中這いつくばって進むような箇所もあって、なかなかハードな洞窟であった。どちれも忘れられない思い出である。

あれから30年。

鍾乳洞や熔岩洞窟、さらには防空壕、地下壕、鉱山、石切場など随分とたくさんの地下空間を訪れてきた。新婚旅行で沖縄へ行った時も、絶好のチャンスとばかり「海軍司令部壕」や「玉泉洞」に行って、今から思うと妻をあきれさせたのであった。

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2017年03月16日

吉田勝次著 『洞窟ばか』


副題は「すきあらば、前人未踏の洞窟探検」。

洞窟探検家として国内外1000以上の洞窟に入り、プロの洞窟ガイドとしても活躍する著者が、これまでの半生を語りつつ洞窟の魅力について記した本。

とにかく、洞窟に対する愛と情熱、行動力がすごい。

まさに運命の出会いと言っても過言ではない。運命の女性と出会った男が「オレにはこの人しかいない」と興奮するように、オレは洞窟の中で興奮しまくっていた。
オレは、洞窟をやる人間、洞窟好きの人間には悪い奴はいないと思っている。
洞窟に出会ってから現在までのおよそ二十数年間、オレは自分の人生の全エネルギーを洞窟探検に注いできた。未知の洞窟を探検するために生きてきたと言ってもいい。

どんな分野においても、こんなふうに言い切れる人はなかなかいないだろう。

洞窟探検に関する具体的な話も面白い。
観光用の洞窟とは全く違う世界である。

当初から、おしっこは空になったペットボトルに、ウンコはジップロックのような密封できるビニール袋に入れて、100%持ち帰るようにしていた。
新しい洞窟を探すとき、最初に見るのは地質図と地形図である。
洞窟をやるようになって、いかに人間が太陽のリズム、つまり1日24時間というサイクルに拘束を受け、それに合わせるために行動を左右されているか、ということがかえって実感できるようになった。

巻頭に16ページにわたって載っているカラー写真も素晴らしい。著者は最後に洞窟の写真集を出したいという夢を書いているのだが、確かに洞窟の美しさや大きさが一目で伝わってくる。

2017年1月31日、扶桑社、1400円。

posted by 松村正直 at 15:46| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

日本現代詩歌文学館

岩手県北上市にある日本現代詩歌文学館 http://www.shiikabun.jp/ は、明治以降の日本の詩歌に関連する本や雑誌を収集している文学館で、資料の充実ぶりが素晴らしい。「現代短歌雁」も「塔」も「D・arts(ダーツ)」も、全巻揃っている。

先日届いた日本現代詩歌文学館館報「詩歌の森 第79号」に、学芸員の濱田日向子さんが次のように書いている。

資料に収められるそれぞれの作品には当然その作者が存在し、その作品や論文を求めている読者や研究者も存在している。詩歌の世界では、実作者は同時に読者であり、研究者であることも多い。これは、日々寄せられるレファレンスに対応するなかで初めて知ったことだった。
「どこを探しても見つからなかったものがようやく見つかった」と、利用者の方から笑顔でお礼を告げられたとき、誇らしい気持ちになると同時に、文学館のこれまでの積み重ねを思った。
もし今、その資料を必要とする人がいなかったとしても、十年後、百年後はどうだろうか。いつか来るその時のために、後世に資料を遺し、それを求めている人とつないでいくことが私たちの大切な仕事なのだと感じている。

日本現代詩歌文学館は、コピーの郵送をしてくれるだけでなく、レファレンス(調査・研究の手助け)にもきめ細かく対応してくれるので、短歌の評論を書く人や書きたいという人は、ぜひ利用してほしいと思う。

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2017年03月13日

戦後の山野井洋

『樺太を訪れた歌人たち』を書いた時点では、戦後の山野井洋のことはほとんどわからなかったのだが、先日の東京での聞き取りを含めて随分とわかってきた。

山野井が「山野井博史」の名でも作品を発表していたという事実を手掛かりに、今回二つの資料を入手した。

一つは新日本歌人協会編『人民短歌選集』(伊藤書店、1948)。
赤木健介、大岡博、岡部文夫、小名木綱夫、窪田章一郎、館山一子、坪野哲久、土岐善麿、中野菊夫、矢代東村、山田あき、渡辺順三ら53名のアンソロジーである。

その中に、山野井博史「戦後」20首がある。

ねずみの巣の如き屋根裏をわが家と妻子とくらす『焼け出され』われは
雨風のただに吹きこむ屋根裏も我が家と思う住みつかんとす

という戦後の厳しい生活を詠んだ歌がある一方で、

私が盗んだのだからわるいのよといいながら死んでいつたと書いてある南瓜ひとつ
性欲も食欲も充たされぬままのその眼の色をさげすんで済むことではない

など、自由律のような作品も含まれている。

もう一つは、山野井博文作詞、山田耕筰作曲の「つばくろの秋」「焦土の秋」である。「つばくろの秋」は1945年9月の作品(初出は『音楽文化』3巻2号、1945年10・11月号)で、山田耕筰が戦後最初に手掛けたものであるらしい。「焦土の秋」も同じ時期のもの。

葉桜の 南の風に
かえり来し つばくろよ
宮居(みやい)をめぐる いらかはいずこ
焼けにし跡に 緑はめぐむ
火の雨に 燃えしと知らず
さまよえる つばくろよ
やさしき人の 住居(すまい)はいずこ
焼けにし跡に 柳は揺るる

「つばくろの歌」の1番と3番を引いた。
5・7・5・5・7・7・7・7という音数になっている。
空襲で焼けてしまった東京の町にやって来た燕を詠んだ内容だ。

山野井洋と山田耕筰、二人の接点はどこにあったのだろうか。

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2017年03月12日

連想の交点

「いろいろな本を読んでますね」と時々言われるのだけれど、別にいろいろな本を読んでいるつもりはなくて、全部が僕の中ではつながっている。

例えば、今回読んだ『羊をめぐる冒険』について言えば、一つには「樺太」−「山野井洋」−「歌集『龍爪緬羊牧場』」−『羊をめぐる冒険』という流れがあり、もう一つは「高安国世」−「芦屋」−『羊をめぐる冒険』という流れがあった。

人生は連想ゲームに似ている。
連想をつなぐようにして物事が進んでいく。

一つの連想だけであれば、そこには特に必然性はない。でも、二つの別々の連想が交わると、そこには強い必然性が生じる。今回も二つの流れの交点に『羊をめぐる冒険』が出てきたので、読んだという次第。

僕と短歌との出会いもそれと似たようなもので、当時住んでいた「函館」という町と、僕の好きな「文学」の流れが交わるところに「啄木」が現れたのだった。

連想自体は気ままな偶然に過ぎないが、それが交差する点については、僕は強く信じることにしている。


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2017年03月11日

村上春樹著 『羊をめぐる冒険(下)』


久しぶりに小説を読んだけれど面白かった。
電車の中で物語を読んでいると、時々自分が今どこにいるのかわからなくなる。

どこまで行っても空には雲ひとつなく、地上には終始飛行機の影が映っていた。正確に言えば我々は飛行機に乗っているのだから、その山野を移ろう飛行機の影の中には我々の影も含まれているはずだった。
「あなたが知ってると思ってるものの殆んどは私についてのただの記憶にすぎないのよ」
寂しさというのは悪くない感情だった。小鳥が飛び去ってしまったあとのしんとした椎の木みたいだった。

読み終った時にちょうど電車が京都駅に着いた。
読み終っていなかったら乗り過ごしていたかもしれない。

2004年11月15日第1刷発行、2014年4月21日第27刷発行。
講談社文庫、500円。

posted by 松村正直 at 23:44| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月10日

ネットと調べもの

中学生の息子と話をしていて感じるのは、「ネットで調べれば何でもわかる」という意識が強いことである。「ネットには何でも載っている」と、ネットに絶大な信頼を置いているように感じる。

それも無理はないことだ。

大阪へ行く電車の時刻や料金、あるいは数学の問題の解き方、神話に出てくるモンスターの名前など、彼が今必要としている知識や情報のほとんどは、確かにネットに載っている。それもかなり詳しく。かつて私が子どもの頃に引いた百科事典の解説の比ではない。

便利な世の中になったと思う。その恩恵は、私も日々受けている。昔だったらわからずじまいだったことが、家にいながら調べられるのは本当にありがたい。

一方で、「ネットには何でも載っている」という感覚は、人生をつまらなくさせてしまうようにも思う。世の中のすべての出来事が、既にわかっていて、決まっていて、もう動かせないものであるかのように感じるからだ。

実際は全くそんなことはない。

例えば僕がここ数年追い続けている「松村英一の歌碑」のことだって、いまだに樺太に現存しているのかどうかわからない。ネットで調べても絶対にわからない。現地に行って歩き回って探して、ようやく「あった!」とか「……ないな」とか、わかるかもしれないといったことである。

あるいは山野井洋のことだってそうだ。これまで、詳しい経歴や人物像がほとんどわかっていなかった。ネットで検索してみても、僕のブログの記事がヒットするくらいである。でも、地道に調べて行く中で、少しずつではあるがいろいろなことがわかってくる。

それが楽しい。

真っ暗な場所を歩いていて、ぽつんぽつんと灯りがともっていくように、少しずつまわりが見えてくる。一か所が見えてくると、それがまた次の灯りにつながって、徐々にあたりが明るくなっていくのである。

そこにあるのは、既にある知識ではなくて、今まさに出来たばかりの知識だ。存在しなかったものが生まれる瞬間と言ってもいい。世の中には、まだ誰も知らないことが、きっと山のように残されている。

それを見つける喜びを、いつか息子も知ってくれたらいいなと思う。

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2017年03月09日

石田比呂志歌集 『冬湖』

2011年に亡くなった作者の7回忌にあわせて刊行された遺歌集(第18歌集)。2010年から11年にかけての作品186首と未定稿歌抄39首、さらに自らの生い立ちを綴ったエッセイ「孑孑記(げつげつき)」を収める。

地下街の動く階段のぼり来て大欠伸の口地上にて閉づ
尾の切れし本体よりも切られたる尻尾(しっぽ)の方がよっぽと痛い
寝そべりていたりし犬が立ち上がり思い定めし如くに歩く
海峡の空低くゆく漂鳥を標的として襲う鳥あり
あけぼののきざせる部屋に石に降る雨を聞きおり眼鏡を置きて
背後(うしろ)から光が射せば前方に落つる外なき影に首あり
置き去りにされし鷗も居残れる鷗も白し夕日が中に
一方(ひとかた)に向きて湖面を漂える鴨あり首を風に吹かれて
飛ぶ鳥は必ず墜ちる浮く鳥は必ず沈む人間は死ぬ
石ころは石ころなりに所得て旅心(りょしん)動くということのなし

1首目、地下から地上に出る時のちょっとした緊張感。
2首目、組織と個人の関係としても読める歌だ。
4首目、渡り鳥の群れを襲う猛禽の姿が生き生きと目に浮かぶ。
5首目、「眼鏡を置きて」がいい。雨音だけが心に沁み込んでくる。
6首目、「首あり」と言うことで反対に斬首の場面がイメージされる。
9首目、何ともすごい歌だと思う。身も蓋もない。7首目から9首目は絶詠「冬湖」30首より。力のある歌が多い。

「孑孑記」も非常に味わいがある。未完に終ってしまったのが惜しい。

2017年2月18日、砂子屋書房、2500円。

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2017年03月08日

羽生善治著 『羽生善治 闘う頭脳』


2015年3月に刊行された文春ムック「羽生善治 闘う頭脳」の文庫化。

小学校・中学校の頃はよく将棋を指していたが、今はまったくやらない。でも、将棋に関する本を読むのは好きだ。

羽生さんとは同じ年齢ということもあって、いわゆる「羽生世代」の棋士の動向は特に気になる。森内俊之九段がB級1組に降格したニュースなどにも、つい立ち止ってしまう。

本書は羽生善治と池谷裕二(脳科学者)、小川洋子(小説家)、為末大(アスリート)、山折哲雄(宗教学者)、沢木耕太郎(作家)などとの対談やエッセイを収めた一冊。

私はプロになってもう二二年目ですので、何もしないとどうしても安全に、無難に、という手を選んでしまいます。それではプロ同士の戦いに勝てません。
人間はやはり視覚から入って来る情報が非常に大きな部分を占めているので、それは非常に便利なのですが、簡単に入ってきたものは簡単に忘れてしまいます。
ミスはしないに越したことはないのですが、それでもミスはしてしまいます。大事なのはミスをした後、ミスを重ねないことだと思っています。

25歳の若さでタイトル七冠を独占し、現在もトップ棋士の地位を保つ著者の発言は、非常に示唆に富む。一流の人の語る話はやはりおもしろい。

2016年3月10日、文春文庫、660円。

posted by 松村正直 at 11:49| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月06日

山野井洋のこと

『樺太を訪れた歌人たち』の中で、山野井洋という歌人のことを取り上げた。これまで詳しい経歴などがほとんど知られていなかった人物である。

その山野井洋のご子息とたまたま連絡を取ることができ、おととい東京でお会いしてお話をうかがってきた。何とも言えず嬉しい。

いくつもの新たな情報を得ることができたので、備忘のために書いておきたい。

○1908年生まれ、1991年逝去(82歳)。
○歌集『わが亜寒帯』の再版本には、初版にはない「批評抄」が付いている。
○昭和13年に樺太から東京に移って以降は東京暮らし。第2歌集で満州の開拓地を詠んでいるのは、旅行による滞在の結果である。
○戦後は保険の業界紙のコラムを書くなど、文筆業で生計を立てた。
○「山野井博史」の名でも作品を発表しており、山野井作詞・山田耕筰作曲の曲がいくつか残されている。

今回お聞きした話をもとに、今後もさらに調査研究を続けていきたい。

posted by 松村正直 at 23:45| Comment(2) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

「海遊館」吟行

5月11日(木)にJEUGIAカルチャーセンターの講座で、「海遊館で短歌を詠む」という吟行を行います。

http://culture.jeugia.co.jp/lesson_detail_17-23431.html?PHPSESSID=01cporjt6lv54ktpiv0tc2sap1

どうぞ、ご参加ください。

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2017年03月02日

週末は東京へ

今週末は1泊2日で東京へ行く。
「樺太関係」「家族関係」「映画」「短歌関係」と4つのことをする予定。

本当は生まれ育った玉川学園にも行ってみたいのだが、なかなかそういう時間は取れない。最後に訪れたのはいつだったろう。

posted by 松村正直 at 23:49| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月01日

映画 「島々清しゃ」

監督:新藤風
出演:伊東蒼、安藤サクラ、金城実、山田真歩、渋川清彦ほか

沖縄の慶良間諸島を舞台に、耳の良過ぎる少女と東京から来たバイオリニスト、そして島の人々の交流を描いた作品。タイトル「しまじまかいしゃ」は映画の中でもたびたび出てくる沖縄民謡の曲名である。

学校や子供たちの場面が多いのだが、子役の演技というのはなかなか難しいなあと思う。みんな真面目に取り組んでいるのだが、いかにも演技してますという感じに見えてしまう。

京都シネマ、100分。

posted by 松村正直 at 20:12| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする