2016年02月29日

真野少歌集 『unknown』

鴉啼き、雀囀り、犬吠えて、やがて人間が雨戸繰る音
おこのみやき焼き疲れたるゆうぐれに焼いて食うとぞおこのみやきを
腹ふくれて店出でしとき松の木のかたえに地蔵の前垂れ赤し
死にかけの蟬咥えきて翅もぎて脚もぎて部品となしゆくはよし
かなぶんが狗尾草(えのころぐさ)の穂を抱けばはつか撓いて平衡得たり
エンジンをかけたるままのトラックの窓に対なす足の裏見ゆ
複写機がホチキスどめまでするからににぎりめし二個食い終わりたり
口頭に聞きてメモする懲罰の「けんせき処分」また「ゆしかい雇」
妻とゆきし伊豆大島の思い出がロープに揺るる雑巾となりて
蛇の肉はげしくつつく嘴のしばしば瓦に打ちつくる音

1995年から2010年までの作品380首余りを収めた第1歌集。
作歌期間から考えて相当に厳選したにちがいない。

仕事の歌、職場の歌、そして食べたり食べられたりする歌が多い。仕事関係だろうか、パリ、ネバダ、台湾、香港、北京、広州など海外詠もある。

1首目、屋外から聞えてくる音の順序によって、巧みに朝の時間の流れを表している。
4首目、猫が蝉の身体をバラバラにしているところ。「よし」と肯定的に捉えているのが印象的だ。
5首目、飛んできたカナブンが止まってしばらく揺れていた狗尾草の穂が、また動かなくなるまで。映像的で美しい一首。
6首目、建築現場や道路作業などの昼休みか。「対なす足の裏」が簡潔でいい。
9首目、「○○旅館」などと書かれたタオルが、今では雑巾となっているのだ。
10首目、蛇の肉を食らう鴉。この暗い激しさは、作者が心に秘め持つ激しさでもあるのだろう。

2015年12月1日、現代短歌社、2500円。

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2016年02月26日

30年という歳月

30年という歳月は、当然のことながら様々な変化をもたらす。

人体標本の工場であった「京都科学標本」は、取材の2年後に「株式会社 京都科学」と社名を変更し、現在は主に医学教育用、あるいは看護・介護用のシミュレータトレーニングモデルの会社として大きく業績を伸ばしているようだ。

結婚式場の「松戸・玉姫殿」は、調べたところもう存在しない。玉姫殿という名前は、全日本冠婚葬祭互助協同組合に加盟する団体が使っていたもので、以前は全国各地にたくさんあったらしい。最近では「マリアージュ」「ベルクラシック」「エルセルモ」などのオシャレな名前に変っている。

コンパクト・ディスク工場を稼働していた「テクニクス」は、様々な再編を経て2010年にいったんブランドとして終了したが、2014年より高級オーディオ機器のブランドとして復活を遂げている。

1986年と言えば私は高校1年生。
30年というのは、はるかな歳月であることだ。

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2016年02月24日

村上春樹/安西水丸著 『日出(いず)る国の工場』


1987年に平凡社から刊行された本の文庫化。

1986年1月から8月にかけて取材した7つの工場について、エッセイとイラストで記した訪問記。

取り上げられているのは、「人体標本工場」(京都科学標本)、「結婚式場」(松戸・玉姫殿)、「消しゴム工場」(ラビット)、「酪農工場」(小岩井農場)、「コム・デ・ギャルソン工場」、「コンパクト・ディスク工場」(テクニクス)、「アデランス工場」の7つ。このちょっと変った選びにも、著者のセンスが光っている。

文章は軽快で楽しい。それだけでなく、鋭く本質へと切り込んでいく。

人々は結婚式というセレモニーにおいて感動もし、涙ぐんだりもする。しかしもし涙ぐんだとしても、その涙は一定の時間をもって収束するように設定されている。
かつらというのは非常に特異な商品なんです、とアデランスの広報担当者は言う。何が特異かというと「クチコミがまったくない」ということである。

書かれているのは30年前の話なので、今とは異なっている部分も多い。そのことが、むしろこの本の価値を高めているように感じた。時代の記録にもなっているのである。

CDの生産が現在のところまだ需要に追いついていないということ。要するにとてつもなく忙しいのである。

これらの工場が30年後の今はどうなっているのか、続篇が読みたい気がする。

1990年3月25日発行、2014年5月15日16刷、新潮文庫、710円。

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2016年02月22日

水戸岡鋭治著 『鉄道デザインの心』


副題は「世にないものをつくる闘い」。

「883系特急ソニック」「九州新幹線800系」「ななつ星in九州」など数々の鉄道車両をデザインしてきた著者が、仕事をする上での心構えや信念を記した本。内容的にはビジネス書と言っていいだろう。

自分の力で人生を切り拓いてきた人の持つ強さが言葉の端々に表れている。そういうタイプはどちらかと言えば苦手なのだが、著者のデザインに対する考えや仕事に対する思いには共感することが多い。

椅子のメーカーが椅子を設計するとダメなんです。彼らは技術的に自分が一番得意な技の中に形をはめようとするんで、昔の流れを汲んだものしかできてこないんです。
人間工学のダメな点は、人間が同じ姿勢でずっと座ることを前提にしている。人間って、椅子に座って同じ姿勢でいられないようになってるんです。
豊かな国には、やはり仕事の種類がたくさんあります。無駄な仕事もたくさんあって、多くの人が生きていくためのいろんな仕事がたくさんある国が素晴らしい国ですよ。
勘でこの色がいいとかこの形でいいとか決めて当たったときは、それはその人が蓄積したノウハウがたくさんあるからであって、それは十分一生懸命生きてきた証と言っていいと思います。
雑事っていうと低く見る人がいるけど、仕事は雑事が大事ですから。段取りさえ全部できて、雑事ができれば、仕事はもう70パーセント、80パーセントできたも一緒です。

著者は鉄道車両のデザインにとどまらず、乗務員の制服やロゴマークなどもすべてデザインする。さらに、駅舎のデザインや船のデザインもやるし、将来的には街づくりのデザインも手掛けたいようだ。

デザインの持つ力や可能性を強く感じさせてくれる一冊である。

2015年6月29日、日経BP社、2000円。

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2016年02月21日

再校作業と桜

毎月第3日曜日は岩倉の永田家で「塔」の再校作業が行われる。普段は自宅から車で行っているのだが、今日は京都マラソンの交通規制があるために、久しぶりに電車で出かけた。

JR藤森駅→(奈良線)→京都駅→(地下鉄)→国際会館駅→(タクシー)→永田家

というコースをたどって、約1時間で到着。
「塔」の元原稿をすべて持って行くので非常に重たい。

参加者は19名。13時に作業開始。お赤飯やシチューやお菓子を食べながら、和やかに作業して17時に無事に終了。

帰りも同じコースで帰ったのだが、疲れていたのだろうか、JR藤森駅を寝過して一つ先の桃山駅まで行ってしまった。仕方なく引き返そうとして上りホームへ移動すると、ホームの脇に桜が咲いている。

  P1040987.JPG

毎年ここの桜は早いのだけれど、ちょうど見られて良かった。

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2016年02月19日

林和清著 『日本の涙の名歌100選』


2011年に淡交社より刊行された『日本のかなしい歌100選』を改題して文庫化したもの。

「かなわぬ恋」「わかれの歌」「世は無常」の3部に分かれていて、万葉集から現代に至るまでの短歌100首が解説されている。取り上げられている歌人は、額田王、大伴家持、在原業平、紫式部、藤原定家、源実朝、後醍醐天皇、石川啄木、永井陽子、笹井宏之など。

歌の背景や人物関係などが丁寧に説明されているので、歴史物語としても楽しむことができる。

 君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
              狭野茅上娘子
 恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物思ふ時に来鳴き響むる
              中臣宅守

京都から宅守が配流された越前市まで、今なら特急サンダーバードで1時間10分あまりだが、当時ははるかな距離に感じられたことだろう。

2014年4月1日、新潮文庫、490円。


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2016年02月18日

品田悦一編 『鬼酣房先生かく語りき』


帝都大学教授の鬼酣房(きかんぼう)先生が残した原稿を、編者の品田さんがまとめたという体裁のエッセイ集。大学の校友会誌や学内報に載ったものに書き下ろしを加えて一冊としている。

内田百閧フ「百鬼園先生」や松下竜一の「松下センセ」のような感じで、品田さんの分身である「鬼酣房先生」が登場する。エッセイではわりとよくあるスタイルなのかもしれない。

ことによると〈教科書・読本〉は「テキスト」で、〈言葉で織り出されたもの〉なる高級な概念は「テクスト」、というような使い分けが成立しているのかもしれません。でもそれは英語人の与り知らぬことですよね。
ある日、東海道新幹線で関西方面へ向かっていたときのこと――熱海付近で車両がトンネルに入ったのだが、子息がトンネルを経験するのはこのときが生まれて初めてだった。彼は思わず叫んだ。
「あれえ。おんもなくなっちゃったよ。」
 順番にKKS・GSS・SIS・GSIS・KYS・SKS・SZS・SKKS……なんだかお分かりになりますか。
 実は、北米の日本文学研究者のあいだで通用している勅撰和歌集の略称です。
 『古今集』『後撰集』『拾遺集』と来て、『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』『千載集』『新古今集』……この先も二十一代集の分がすべて揃っていますが、もうたくさんですね。

全体が4章に分かれていて、内容的には雑然としているのだけれど、読んでいくとけっこう面白い。いつの日か続篇も出るのだろうか。

2015年7月20日、青磁社、1500円。

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2016年02月17日

釈迦牟尼

先日読んだ野矢茂樹著『哲学な日々』に、与謝野晶子の歌が引かれていた。

 鎌倉やみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

この歌について著者は「大仏の裏手に歌碑も立っている。ところが、実は、あの大仏はお釈迦さまじゃあない。大仏のある高徳院は浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来である」と記す。

まあ、短歌業界では有名な話ですね。
なぜこの話を思い出したかと言うと、14日の朝日新聞の天声人語を読んだからである。

鎌倉の大仏はいま半世紀ぶりの点検修理中である。〈みほとけなれど……美男におはす〉と与謝野晶子がたたえたマスクだけでなく体の内側も念入りに調べる。

三十一音しかない短歌をどうして中途半端に引用するのか疑問に思ったのだが、もしかすると「釈迦牟尼は」を省きたかったのではないか。これを入れると「実は釈迦牟尼ではないのだが……云々」といった断り書きが必要になると思ったのかもしれない。

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2016年02月16日

山田航編著 『桜前線開架宣言』


副題は「Born after 1970 現代短歌日本代表」。

1970年以降に生まれた歌人40名のアンソロジー。
山田航が40名の歌人の各56首を選び、さらに歌人論を書いている。

三輪車つめたく錆びて置かれをり子に叛かれし老母のごとく
                 高木佳子
銀縁の眼鏡いっせいに吐き出されビルとは誰のパチンコ台か
                 松木 秀
しばらくを蜜吸ひゐたる揚羽蝶去りゆきて花浮きあがりたり
                 横山未来子
あなおとなしき駱駝の腹に浮きでたるホースのように太き静脈
                 齋藤芳生
そよかぜがページをめくることはなくおもてのままにKindleをおく
                 光森裕樹
白というよりもホワイト的な身のイカの握りが廻っています
                 岡野大嗣
レシートは冬の陽射しを記録してやがて無文字となる白い土地
                 吉岡太朗
かあさんは食べさせたがるかあさんは(私に砂を)食べさせたがる
                 野口あや子
雪が降る(イル・ネージュ) かくも空疎な例文をとなへてあれば
口中さむし           吉田隼人
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
                 小原奈実

他にも「歌集が欲しいんだけどどうすれば手に入るかな?」「歌集ってどういう出版社から出ているの?」といった疑問に答えるコラムや、ブックガイドなどもあり、手に取りやすい内容となっている。

こうしたアンソロジーで好きな歌人を見つけて、さらにその人の歌集を読んでみる、といった流れが広まるといいなと思う。

2015年12月25日、左右社、2200円。

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2016年02月15日

野矢茂樹著 『哲学な日々』


副題は「考えさせない時代に抗して」。

前半は「西日本新聞」に50回にわたって連載されたエッセイ、後半はさまざまな場に書かれた文章を集めた一冊。気楽に読める内容であるが、いろいろとヒントを与えられる。

授業は教師のパフォーマンスの場ではない。そんな授業は、ちょうど体育で教師だけが運動しているようなものだ。
根拠のない自信は強い。なんたって根拠がないんだから。誰も覆せない。
考えることは雨乞いのようなものである。こうすれば必ず答えが降りてくるなんてマニュアルなど、ありはしない。
人との出会いってほんとうにだいじだなと思いますね。話している内容だけでなく、その話し方、声の調子、表情、そうした活字では伝えきれない力が直に伝わってくる。

次のような箇所は、短歌にも共通する話だと思う。

あなたは自分ではよく分かっていることを書く。しかし、読む人はそうではない。このギャップに無頓着だと、伝えたいことが相手に伝わらない。
芸術的表現の場合には、書きたいことが明確でない場合もしばしばであり、むしろ、書くことによってはじめて、自分が何を表現しようとしているのかが形になってくる。ときには、読者の深読みによってようやく、著者の意図が姿を現わすということも起こる。

もちろん、哲学の本なので「バラは暗闇でも赤いか?」とか「「犬」ってどういう意味?」といった話も載っている。ああでもない、こうでもないと考えながら、自分でものを考えることの楽しさを実感できる。

2015年10月27日、講談社、1350円。

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2016年02月14日

マザーリーフ

  P1040980.JPG

知り合いの方からいただいたマザーリーフから、次々と芽が出ている。
葉から芽が出るので「ハカラメ」とも言うらしい。
正式にはセイロンベンケイソウという名の植物なのだとか。

ちなみに、ファザーリーフというものはない。

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2016年02月13日

西畠清順著 『そらみみ植物園』


花と植木の卸問屋「花宇」の5代目にしてプラントハンターの著者の文章と、武蔵野美術大学4年生による絵描きユニット「そらみみ工房」のイラストをあわせた本。

「おそるべき才能をもった植物」「イラっとする植物」「記録より記憶に残る植物」「秘境・ソコトラ島の植物」「マジで!?な植物」「残念な植物」「ムラムラくる植物」「愛を語る植物」「世界を変えた植物」の9章、全61種類の植物に関するエピソードが載っている。

鉤爪のような形をしてゾウやサイに踏まれるのをひたすら地面で待つ「ライオンコロシ」(ヒッカケイカリ)や、幹だけで1385トンもあるセコイアスギ「シャーマン将軍の木」、メス蜂そっくりな花を咲かせてオス蜂が交尾しにくるのを待つ「ハンマーオーキッド」など、不思議な植物が続々と登場する。

「おれ、植物が大好きなんです」と言う著者の熱い思いと楽しさが伝わってくるオシャレな一冊だ。

2013年7月13日、東京書籍、1400円。

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2016年02月12日

キハダ

高安国世についてはかなり詳しいと自負しているのだが、最近「高安国世ツアー」の準備をしていて、以前には気づかなかったことに気づくことが多い。

例えば次の歌。

遙かなる人の庭にも立つというキハダの高き梢を仰ぐ
               高安国世『一瞬の夏』

1976年の「短歌」10月号に発表された「夏山の雨」の中の1首である。長野県飯綱高原の山荘での日々を詠んでいるのだが、この「遥かなる人」というのは一体誰のことだろう。

おそらく土屋文明に違いない。文明は山中湖畔に別荘を持っており、そこはキハダ(黄檗)の木にちなんで「黄木荘」と名付けられていた。高安は長野の山荘に立つキハダを見て、遠くの文明のことを思ったのだ。

実際に、それから数年して、高安は文明の「黄木荘」を訪れている。そのことについては、以前このブログで書いた。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138896.html

何も知らなければ特にどうということのない歌だが、高安の黄木荘行きのきっかけになった1首かもしれない。そうした背景を踏まえて読むと、随分と味わいが増すように思う。当時63歳であった高安の、師・文明に対する変わらぬ思いが滲んでいるのである。

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2016年02月11日

安西水丸著 『ちいさな城下町』


全国各地の小さな城下町20か所を訪ね歩いた紀行文。
「オール讀物」に連載された17篇に書き下ろし3篇を追加している。

ぼくの城下町の好みは十万石以下あたりにある。そのくらいの城下町が、一番それらしい雰囲気を今も残している。

この本の一番の特徴は、この町選びの方針にある。観光地としてはあまり有名でない町が多い。僕も日本全国かなりの町を旅している方だと思うけれど、20か所のうち行ったことがあるのはわずかに6か所であった。

単なる旅行記ではなく、エッセイの要素も多く含んでいて、だいたい自分の若い日の思い出から話が始まる。ガイドブック的な客観性よりも、作者の好みや癖が濃厚に滲み出ていて、それが面白い。

特徴の一つは、歴代の藩主をきちんとたどることである。どこも小さな藩だったところなので、藩主が転封や改易などで次々と変わる。それを「誰々が何万石でどこそこから移って来て・・・」と丁寧に記す。

もう一つの特徴は、すべて列挙することである。例えば、日本三大桜の一つ「三春の滝桜」の名前を出したら、必ず他の二つの「根尾谷淡墨桜」と「山高神代桜」も挙げる。一つだけでやめない。

「最上八楯」の一つである天童氏の名前を出したら、他の七氏の名前もきちんと挙げる。「西尾五か所門」も「賤ヶ岳の七本槍」も「日本三大山城」も「真田十勇士」も、全部の名前を平等に書き記すのである。

そこには

ぼくは子供の頃から変なところがあり、映画でも小説でも芝居でも、妙に傍役に惹かれるところがあった。

という性格も関係しているのだろう。
作者の持ち味が十分に発揮されて楽しい一冊である。

2014年6月25日、文藝春秋、1400円。

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2016年02月10日

天王寺動物園吟行

5月11日(水)にJEUGIAカルチャーセンター主催で、「新緑の天王寺動物園で短歌を詠む」という吟行をおこないます。

http://culture.jeugia.co.jp/lesson_detail_17-23431.html?PHPSESSID=cebb3ftboih2fpn46nsh4auq33

2時間ほど動物園を見てまわって歌を1首詠み、昼食後に歌の批評をするという内容です。

定員は20名、申込締切は5月1日。
どうぞ、ご参加下さい。

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2016年02月09日

高安国世と西洋文学

昨年11月号の「短歌往来」に島内景二さんが「翻訳詩の功罪・・・上田敏の『海潮音』」という文章を書いている。島内はカール・ブッセの「山のあなた」、ヴェルレーヌの「落葉」などを例に、

上田敏の『海潮音』は、西洋の象徴詩を、日本語の大和言葉に移し替えた金字塔である。その後の日本の詩人が、日本語で象徴詩を創作し得たのは、上田敏の『海潮音』が、コロンブスの卵だったからである。

と、まずはその功績を言う。続いて

だが、光あれば、必ず影ができる。西洋の象徴詩を、大和言葉で、しかも時には定型詩で、翻訳したことの弊害が無いはずがない。
大和言葉になった象徴詩は、もはや本来の「象徴性」を喪失し、抒情詩に変型されているのではないか。
はっきり言おう。『海潮音』は、高踏的であることを目指していながら、結果的に「俗に流れる」点がある。(・・・)極論すれば、上田敏の翻訳詩は、日本人が本物の「象徴詩」を書く障害となったのではないか。

と指摘するのである。
なるほど、そういう見方もあるのか、鋭い分析だなと感心した。

その後、たまたま高安国世の歌論集『詩と真実』(1976年)を読んでいたところ、高安も既に同じようなことを述べているのに気づいた。

上田敏の訳詩が日本の詩に決定的な影響を与えたことは知られているが、あそこにある西洋は本当に西洋だったろうか。「山のあなたの空とおく」など西洋の詩としてはつまらぬものだ。日本人のほのぼのとしたセンチメンタルなエキゾチズムにそれはぴったりだったので、たちまち人口に膾炙し、津々浦々にカルル・ブッセの名前は行きわたった。ドイツ人でこの名前を知る人は少ない。
ヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの」なども、あまりに日本人好みだし、日本語となりすぎた。すべて外国文学が大衆に浸透するには、しかしそれほどの消化と変容を経なければならないのだ。しかし上田敏のあまりにも日本化され、あまりにもなめらかな翻訳のため、日本の詩人は西洋詩の骨格、思想や表現法を学ぶのに大まわりをしなければならなかったのだ。

ここで高安が「大まわりをしなければならなかった」と述べていることは、島内が「障害となった」と指摘しているのと、同じ結論と言っていい。

ドイツ文学の翻訳をし、自作短歌のドイツ語訳もしていた高安であるから、西洋文学と日本の詩や短歌との関係について考える機会も多かったのだろう。

高安自身の中でドイツ文学と短歌がどのように結び付いていたのか、「ドイツ文学者・高安国世」と「歌人・高安国世」はどういう関係にあったのか、という部分は、まだ十分には論じられていない問題だと思う。

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2016年02月08日

吉田隼人歌集 『忘却のための試論』


古書店に文学全集『白鯨』の巻のみ残し海とほき町
喪、とふ字に眼のごときもの二つありわれを見てをり真夏真夜中
音もなく氷雨降りくるまよなかのバス停に来ぬバス待つ死者ら
つなぐ手をもたぬ少女が手をつなぐ相手をもたぬ少年とゐる
びいだまを少女のへそに押当てて指に伝はるちひさき鼓動
早朝のこほりかけたるみづにゆれまるで貞女のやうな豆腐だ
カフカてふ姓は烏の謂(いひ)にしてゆふつかた貨車みな消ゆる朱夏
われは死をなれはわが身を恋ひゐたり壜に酒精の冷ゆるこの宵
あなうらにすなのながるるくににありてわれら夭死のほかのぞむなし
まよのうみくろくふるへてまばらなるゆきのひとひらひとひらを呑む

2013年に角川短歌賞を受賞した作者の第1歌集。
現代歌人シリーズ9。
文学の香りとエロスと死といったテーマが濃厚に立ち昇る。

1首目、『白鯨』と「海とほき町」の取り合わせがいい。
2首目、死者に見られているという意識が強く感じられる歌。
4首目、欠けているものを持つ同士だが、互いに満たされることはない。
5首目、「びーだま」のひらがな表記がいい。ほのかなエロス。
7首目、下句はどこか強制収容所をイメージさせる。「烏」と「貨車」の黒。「貨車」と「朱夏」の音の響き合い。カフカの三人の妹はみな収容所で亡くなった。
9首目、足の裏の砂が波で流されて沈んでいく感覚で、現代の日本を捉えている。
10首目、ひらがなを多用して、夜の海に降る雪を美しく詠んだ一首。

2015年12月11日、書肆侃侃房、1900円。

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2016年02月07日

室井康成著 『首塚・胴塚・千人塚』


副題は「日本人は敗者とどう向きあってきたのか」。

日本各地に、戦いに死んだ者を弔うための「首塚」「胴塚」「千人塚」などが残されている。その数は著者の調査によれば、実に665か所にものぼる。

本書は645年の大化の改新の蘇我入鹿の首塚から1877年の西南戦争における西郷隆盛の埋葬地まで、歴史を順にたどりながら、それらにまつわる伝承や現在の姿を追っている。

取り上げられている塚は、大友皇子の自害峯、平将門の首塚、平忠度の腕塚、新田義貞の首塚、関ヶ原古戦場の東首塚・西首塚、井伊直弼の首塚、近藤勇の首塚など、日本史を一通りおさらいするかのように多彩である。

「壬申の乱」と「関ヶ原の合戦」、「一ノ谷合戦」と「湊川合戦」がほぼ同じ場所で戦われていることを指摘した上で「平場の少ない日本列島においては、合戦を行なうに適当な場所は限られていたのである」と述べるなど、歴史の本としてもすこぶる面白い。

けれども、歴史学の本ではなく、民俗学の本である。

本書は、戦死者の亡骸を埋葬したとされる塚の伝承を論じるものの、その真偽や形成過程を歴史的に明らかにすることを目的としていない。それは、私が柳田国男と同様、そうした伝承は「人が之を信じて居るといふこと」にこそ、その意義があると考えるからだ。

というのが著者の立場なのだ。

「塚に仮託されて語られる、人々の戦死者に対する想い」は、どのようなものであったのか。故郷を離れた土地で無残にも亡くなった人の霊魂をどのように処遇したら良いのか。「霊的処遇」と言うと言葉は硬いが、要は「慰霊」である。

それは、決して過ぎ去った昔の話ではない。靖国神社の問題や、天皇陛下のパラオやフィリピン訪問など、現在も続いている問題である。

丁寧なフィールドワークと文献調査を通じて、これまであまり手掛けられてこなかった歴史学と民俗学の隙間に果敢に踏み込んだ力作と言っていいだろう。

2015年11月19日、洋泉社、1800円。

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2016年02月06日

天声人語、波と手紙


○本日の朝日新聞の「天声人語」に歌が引かれています。

いくつもの人のこころを経由してうつくしからぬ噂とどきぬ
               『やさしい鮫』

○小田桐夕さんのブログ「波と手紙」で、歌集を丁寧に読んでいただきました。ありがとうございます。

 ・第1歌集『駅へ』
 http://odagiri-yu.hatenablog.jp/entry/2016/02/02/000128
 ・第2歌集『やさしい鮫』
 http://odagiri-yu.hatenablog.jp/entry/2015/04/08/233256
 ・第3歌集『午前3時を過ぎて』
 http://odagiri-yu.hatenablog.jp/entry/2015/05/11/003723


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2016年02月05日

映画 「みちていく」

監督・脚本:竹内里紗
出演:飛田桃子、山田由梨、鶴田理紗、西平せれな、崎田莉永

立教大学現代心理学部映像身体学科の卒業制作として撮られた作品。
女子高の陸上部を舞台に、思春期の少女たちの友情や揺れる思いを、月の満ち欠けと重ね合わせて描き出している。

主人公2人の表情や演技が良かった。平日にもかかわらず、お客さんも意外なほどに入っていた。

立誠シネマ、89分。

posted by 松村正直 at 19:58| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月04日

広坂早苗歌集 『未明の窓』

2003年から2015年の作品450首を収めた第2歌集。

教職に関する歌、三人の子どもを詠んだ歌が特徴として挙げられる。タイトルは〈chaos(カオス)より空と大地の生まれにし朝を思いぬ未明の窓に〉という一首から取られている。

抽斗の奥は河口へ続くのか子は宿題を次々なくす
植木算は木を描きながら解くのだと子はいう枝に葉をつけながら
教職の奥のふかさよなじみなき小の便器も磨き慣れたり
葦原につめたき石を投げいれぬ夏さらば青きほたるとなれよ
ある朝はわが子を食みてきらきらと光るたまごを産みゆくめだか
三平方の定理の証明問題が机上にありて子の姿消ゆ
男性の担任だったらよかったと言われしことを思う年の夜
みかん屋のむすめは息子の幼なじみきれいな指で伝票を書く
新秋の草生を飛べるあきあかね風の縫目にふっと止まりぬ
官吏より奸吏が先にくる辞書のルールたのしくつれづれに引く

1首目、抽斗にしまったはずのプリントが、いつもどこかへ行ってしまう。
2首目、算数がいつの間にかお絵描きに。
3首目、男性用の小便器は最近の家庭にはない。学校の男子トイレを掃除する時にだけ触れるのだ。
4首目、「夏さらば」は「夏になったら」の意味。石が蛍になるイメージが美しい。
5首目、水槽に飼われているめだかの生々しい生態。
6首目、問題を解きかけて、どこかへ行ってしまった子。
7首目、長年教師をやってきた作者にとって、この言葉は何ともつらい。
8首目、遠くに住む息子へ送る蜜柑。いつの間にか大きくなっている娘を見ながら、自分の息子のことを思う。
9首目、「風の縫目」がいい。空中に停止しているのだろう。
10首目、漢字の字数が少ない順に並ぶルールのため、「官吏」(役人)の前に「奸吏」(不正をはたらく役人)が来るのだ。

2015年10月27日、六花書林、2400円。

posted by 松村正直 at 07:31| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月03日

「短歌」2016年2月号

阿波野巧也さんの歌壇時評「〈近代〉へのアクセス/永井祐の「人間」」を読んだ。そうだよなと思ったり、そうかなと思ったり、いろいろと議論したくなる内容だ。

とりあえず1点だけ。

短歌における人間の問題について、阿波野は

短歌に「人間」を見出して鑑賞するとき、作品群から作者像が結ばれるという主従関係は、壊されてはならない。作者情報を〈主〉、作品を〈従〉となして鑑賞した結果〈濃厚な人間〉が歌に現れる、という鑑賞態度ばかり取っていると、作品から作者像を結ぶという「読み」の営為は虚しいものとなってしまうだろう。

と述べる。基本的には私もこの考えに賛成である。
ただ、一番の問題は、短歌において「作品」と「作者情報」を明確に分けることが、非常に難しいという点にあるのではないか。

例えば、永井祐の歌を引いて阿波野は

これが永井の見えている世界であり、東京で生まれ育った永井自身に芽生えている感覚なのだと思うと、この歌の背後に平成の今を生きている人間がいるように感じられないだろうか。

と書く。でも、永井の「作品」のどこから「東京で生まれ育った」ということが読み取れるのだろう? それこそ「作者情報」ではないのかといった疑問が湧く。少なくとも時評に引かれている歌からは、そういったことはわからない。

永井の歌集『日本の中でたのしく暮らす』を読めば「東京」「山手線」「五反田駅」「池袋」「渋谷」「品川区」といった地名が出てきて、彼が現在東京に暮らしていることはわかる。けれども、東京に生まれたという点はどうか。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる

という歌から推し量ることは可能であるけれど、実際にはどうなのだろう。それよりも、歌集の最後に記された「1981年、東京都生まれ。」というプロフィールに依拠しているのではないかとの思いが拭えない。

どこまでが「作品」から純粋に読み取れることで、どこからが外部の「作者情報」なのかという問題は、無記名の歌を批評する歌会の場ならともかく、通常の歌集や歌人について論じる時には、明確に切り離せるものではないように思う。両者は渾然一体となっているのだ。

もちろん、だから切り離す必要がないと言っているわけではない。切り離して論じることで、短歌という詩型について見えてくるものも多い。けれども、実際にはなかなか切り離せないという点も、短歌の特徴として踏まえておく必要があるのではないだろうか。

posted by 松村正直 at 07:50| Comment(2) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月02日

『食味往来』のつづき

島根県の江津(ごうつ)と広島県の福山のつながりの話も印象に残った。江津から江川(ごうのがわ)を遡ると、三次(みよし)、塩町を経由して上下まで行く。この上下から芦田川を下って行くと福山に出るのだ。

江川からのぼり、三次を通って福山へ行くには交通のきびしい時代でも、かなりたやすく往き来できたということである。

今でも、鉄道で言えば、江津から三次には三江線が、三次から福山には福塩線が通っている。しかし、どちらもかなりのローカル線で、利便性が良いとは言えない。

試しに、江津から福山まで最短で行こうと思えば

江津7:44―(スーパーおき)―新山口10:14
新山口10:21―(山陽新幹線)―福山11:16

というルートが最も速くてで3時間32分。
これに対して、三江線、福塩線を使うと

江津6:00―三次9:21
三次14:43―府中16:32
府中16:41―福山17:27

と、実に11時間27分もかかるのである。

江津と福山のつながりが現代では想像しにくくなっている理由は、このあたりにあるのかもしれない。

でも、例えば中村憲吉は1889年に三次(布野町)に生まれ、1934年に尾道で亡くなっている。尾道は福山に近い。なぜ終の住処が尾道だったのかを考える上でも、こうしたつながりを知っていることは役に立つのではないだろうか。

posted by 松村正直 at 07:13| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月01日

河野友美著 『食味往来』


副題は「食べものの道」。
1987年に三嶺書房より刊行された本を改題、文庫化したもの。

北海道で採れるコンブがなぜ沖縄でよく食べられているのかという話を皮切りに、食べものがどのようなルートをたどって伝わり広まっていったのかを考察した本。

著者の幅広い知識と現地探訪によって綴られる話は、どれも非常に面白い。黒潮の流れ、海や川の舟運、街道、気象条件、中国大陸や朝鮮半島からの影響、集団移住など、様々な形の伝わり方がある。

房総半島は紀州、つまり和歌山県とのつながりが非常に深い。例えば、房総半島にある地名をみても、勝浦、白浜といった紀州で有名な地名がここにもある。
水(水上輸送)がどんなに便利であるかは、京都府の北側、日本海に面した丹後地方から有名な織物である丹後ちりめんや米が、船によって関門海峡を通り、瀬戸内から大阪を経て京都に運ばれていたことからもわかる。
山形が大阪や京都といった上方とつながっていた理由は、上方文化が日本海の舟運とともにはいってきたこと、さらに東側、つまり仙台側とは山に隔てられていて交通が不便であったことがあげられる。
信州でも、東信になる千曲川の流域から北信にかけては、東北地方と同様にサケがハレの日の魚になっている。これに対して、天竜川の流域や木曽川の流域など、南信から中信にかけてはブリが祝い魚として用いられてきた。

私たちの暮らしのあり方を考える上で、多くのヒントを与えてくれる一冊である。

1990年9月10日初版、2015年1月25日改版、中央公論新社、1000円。

posted by 松村正直 at 08:10| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする