2015年09月30日

稚内―コルサコフ航路の存続問題

今年の夏のサハリン旅行で利用した「稚内―コルサコフ」の定期フェリーの存続が危ぶまれている。

「稚内―サハリン定期フェリー、17年の運航に幕」
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO91857470X10C15A9L41000/

1999年から運航を行ってきたハートランドフェリーが今年限りで撤退することになり、来年以降、稚内市が新会社を設立して運航を引き継ぐ方向で検討中となっている。

ピーク時に比べて旅客は34%減、貨物は97%減と大幅に落ち込んでおり、日本とロシアの関係が改善されない限り、当分はこうした状況が続くだろう。

戦前の「稚泊航路」を引き継ぐ歴史ある航路だけに、何とか存続してほしいと思うが、見通しはあまり明るくないようだ。

posted by 松村正直 at 19:24| Comment(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月29日

あなたを想う恋のうた

現在、「第18回万葉の里、あなたを想う恋のうた」の作品を募集中です。
出詠料は無料で、インターネットでも応募できます。

http://www.manyounosato.com/

締切 10月31日(土)当日消印有効
審査員 松平盟子、香川ヒサ、紺野万里、松村正直、加賀要子、阪井奈里子
 最優秀賞【1首】10万円、優秀賞【3首】3万円、秀逸【10首】1万円、
  佳作【15首】5千円、入選【30首】図書カード千円

たくさんのご応募をお待ちしております。

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2015年09月27日

大山顕×佐藤大×速水健朗著 『団地団』


副題は「ベランダから見渡す映画論」。

写真家の大山顕、脚本家の佐藤大、編集者の速水健朗の3名が、新宿の「ロフトプラスワン」で4回にわたって行ったトークライブ「団地団夜」をもとに、加筆・再構成してまとめた本。

「ウルトラマン」「耳をすませば」「しとやかな獣」「団地妻 昼下りの情事」「デジモンアドベンチャー」「ピカ☆ンチ」など、様々な映像作品に登場する団地について、かなりディープに語り合っている。

映像やシナリオや団地について、興味深い話が次から次へと出てくる。

アニメでは「ないもの」を描くことが一番難しい。でも、ここでは手紙が落ちていくことによって生まれた、風と空気と重力が見事に描かれている。
天才を説明する立場としての、受け手側の代表となるキャラクターが、物語には必要である。例えば、主人公が自分のことを天才と語るより、周囲の人間から天才だと説明してもらうことで、嫌味なく自然に観客へと伝えられる。
畳って、四畳半とか六畳をひとつの基本ユニットとして配置していくための規格であって、さらに言うとモジュール化なんですよね。この畳の規格に沿っていろんなもののサイズが決められます。

本のはじめには、「団地団、団地へ行く」と題して、狭山団地、大蔵住宅、多摩川住宅、高島平団地、都営西台アパートの5か所の団地を訪れた様子が、カラー写真入りで紹介されている。

2012年2月10日、キネマ旬報社、1900円。

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2015年09月26日

公開講座「短歌の世界にようこそ」

10月30日に公開講座「短歌の世界にようこそ」を行います。
初心者の方向けに、短歌の楽しさや奥深さを伝える内容です。

「ちょっと興味があるのだけど」という方、「短歌を始めてみようかな」という方、「一人で作っているのだけれど」という方、「短歌がもっと上手になりたい」という方、皆さんどうぞご参加下さい。

日時 10月30日(金)11:00〜12:30
場所 朝日カルチャーセンター芦屋教室
     (JR芦屋駅北口すぐのラポルテ本館4階)

詳細は→https://www.asahiculture.jp/ashiya/course/bb8d0e8b-c2dc-b1e8-4b59-55d6d9e7b778

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2015年09月25日

外塚喬歌集 『山鳩』

帰らうとうながすこゑにうながされ銀河を渡りゆく酔漢は
降りつづく雪の夜は明けししむらにともりてゐたる雪洞(ぼんぼり)も消ゆ
雲間より陽の照らすときにんげんに尾鰭のごとき影がしたがふ
たかが水なれどボトルに詰められてされど水となる天然の水
冬瓜(とうがん)のとろりとするを嘘つけば抜かれるといふ舌にころがす
透明な袋の中のかたまりの散(ばら)けたるとき泥鰌あらはる
見納めとなるかもしれぬ桜みて埴輪の馬はゆふべかへらず
便箋の透かしとなりてゐるランプ書き泥(なづ)む手を照らしてくれる
にぎる手をにぎりかへさむとする力なくて母ひとり枯野さまよふ
曲がり角ひとつ間違へわが夢に来られぬ母にともす灯(ともしび)

2005年から10年まで結社誌「朔日」に発表した作品610首を収めた第11歌集。歌の制作期間は前歌集『草隠れ』と重なっている。

2首目、雪の降る夜の身体感覚が「雪洞」という比喩で鮮やかに表現されている。
4首目、ボトルに詰められることで、ただの湧き水が商品になる。
5首目、冬瓜のとろけるような軟らかさと「嘘」の甘美さが響き合うようだ。
6首目は発見の歌。かたまりになっている時には何だかわからなかったものが、一匹ずつにほぐれて初めて泥鰌だとわかる。
8首目、透かしのランプが実際に光っているように感じられる面白さ。
9首目と10首目は母の死を詠んだ連作「昨日また今日」から。「枯野」や「灯」のイメージが歌に陰影を添えている。

2015年8月15日、柊書房、2600円。

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2015年09月23日

今野真二著 『盗作の言語学』


副題は「表現のオリジナリティーを考える」。

小説、俳句、短歌、辞書など、数多くの実例を引きながら、「盗作」と呼ばれる現象を日本語学的に分析し、さらには表現におけるオリジナリティーとは何かを考察した本。

最近話題になったオリンピックのエンブレム問題とも関わる話だろう。ただし、刺激的なタイトルが付いているものの、「盗作」の事件性や話題性について書かれているわけではない。あくまで言語表現自体についての話である。

木俣修や北原白秋の添削指導、寺山修司「チェホフ祭」、白秋の同一テーマによる短歌と詩など、短歌作品も多く取り上げられている。

言語は始まりがあって終わりがあるという「線状性(linearity)」を備えている。だから、情報がどのような順序で提示されるかということは重要である。
和歌や俳句をかたちづくる言語は、語そのものはいわゆる「散文」と同じであっても、働き方は「散文」とまったく異なると考える。
俳句のような短詩型文学では、説明はしない方がいい。というより、説明しないのが短詩型文学であろう。
誰も使ったことのない単語というものをつくりだして使うということは通常はできないし、言語に関しては、複合語として新しいとか、語句(=単語の組み合わせ)として新しいとか、さらに大きな言語単位として新しいとか、そうした「新しさ」以外は考えられない。

このあたり、どれも短歌の実作の手引と言っても良い内容だろう。
それにしても、近年、著者の今野真二さんの本が続々と刊行されている。おそろしいほどの仕事量だ。

2015年5月20日、集英社新書、720円。

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2015年09月22日

鈴木竹志歌集 『游渉』

花散りて葉の茂るころ木蓮は誰も気付かぬ庭木となれり
頼朝の書きたる書状国宝と示してあれば国宝として見る
函館市文学館閑散として愛知の夫婦の貸し切りとなる
ボンベイがムンバイとなる地図帳の表記はわれの思ひ出を消す
遠来の客待つごとく丘のうへに香月泰男の美術館立つ
二分間テープ回りて晩翠の生涯語るを立ちて聞きをり
買はぬまま本屋出づるはわが主義にあらずと今日も文庫本買ふ
採点をしつつ眠気の襲ひ来て○の代はりに三日月描く
肉声といふものが何なのかついうたがひて声を出してしまひぬ
大観の「柿紅葉」の絵見つむれば二羽の鶉が動きだしたり

2001年から12年までの作品431首を収めた第2歌集。

1首目、一年のうちで花の咲いている時期だけ注目を集めるのだ。
3首目、自分たちのことを「愛知の夫婦」と詠んでいる。はるばるやって来た場所で貸し切り状態。
5首目、「遠来の客待つごとく」という比喩が、シベリア抑留体験を描いた画家の孤高な姿を感じさせる。
6首目、人の一生がわずか「二分間」にまとまられてしまう。そのことに対して、批判というよりは複雑な思いを感じているのだろう。
7首目、「わが主義にあらず」という大袈裟な言い方にユーモアがある。
9首目、破調のリズムが内容とよく合っていて効果的。肉声についてあれこれ考えているうちに、自分で声を出すに到ったのだ。

2015年9月11日、六花書林、2500円。

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2015年09月21日

原武史著 『団地の空間政治学』


著者の専門である政治思想史の観点から、主に高度経済成長期の団地という空間を捉えた本。40年以上団地に住み続けた著者ならではのユニークで鋭い考察が光る。

当時団地で発行されていた新聞や自治会報などの資料も駆使しながら、大阪の香里団地、東京の多摩平団地、ひばりヶ丘団地、千葉の常盤平団地、高根台団地などを例に、そこに住む人々の政治意識や行動を詳しく分析している。

団地は戦後の近代的な生活システムを目指したという点においてはアメリカ的な存在であったが、その内実はソ連を中心とした社会主義的な側面を強く持っていた。

集団生活という居住形態や自治会での活動が、平等や公平といった価値を重視する社会主義に対する共感を生み出す一因となっているのは容易に想像できよう。

具体的に言えば、当時の団地は選挙において革新政党の強力な地盤となっていたのである。

私が生まれ育った東京の町田市の話も出てくる。

東京都町田市では、都営、公社住宅を合わせた団地の面積が七〇年五月に六〇三ヘクタール、団地人口は総人口の四四.五%に達した。

私が住んでいた1970年から90年まで、町田市は大下勝正(社会党)市長の率いる革新自治体であった。今から思えば、それも団地が多いことと深く関係していたのである。

2012年9月30日、NHKブックス、1200円。

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2015年09月20日

永田淳著 『評伝・河野裕子 たつぷりと真水を抱きて』


2010年に亡くなった河野裕子さんについて息子の立場から描いた評伝。

甲賀郡国語研究科編集「すずか」に掲載された中学時代の創作や、高校・大学時代の日記など、これまで公開されていなかった資料も使って、河野さんの生涯に迫っている。自分の母について書くというのは、距離感が難しいだろうと思うのだが、この本は客観的な記述と主観的な思い出や母に対する思いとのバランスが非常に良い。

冒頭の「あんたと結婚する人はかわいそうや、老後の楽しみがなんもあらへん」に始まって、河野さんの印象的なセリフがたくさん出てくる。

「五月ってかっこええやんか。だから私は絶対に、なにがなんでも五月に産んでやろ、と思ってたんよ」
「結婚して家を出たら女はひとりなんです。誰も味方はいません。だからなんとしても夫が味方についてあげなくちゃダメなの」
「あなた、同じ青魚でもこれは秋刀魚ですよ。鰯はもっと頭が丸くて、秋刀魚はほら口がとんがっているでしょ」
「来て、なんや知らんけどおもろかったなあ、楽しかったなあ、言うて帰ってもらったらそれでよろし」

どのセリフからも、生前の河野さんの姿が彷彿とする。

いくつかの新事実が含まれていて、今後の河野裕子研究にとっても欠かせない一冊となるだろう。『蟬声』の中の

旧校舎の窓辺に木苺咲きゐしがそれには触れず演台おりる

という一首と『桜森』にある

木いちごの緑葉照れる木造の階段教室に初めて逢ひき

との関連性を指摘したのも、おそらく初めてのことだと思う。

少し気になったのは、日記に出てくる同級生の名前はイニシャルや仮名でも良かったのではないかということ。あと、河野家の血縁関係が入り組んでいるので、家系図を載せても良かったかもしれない。

全体に読みやすい文章で、300ページを超える分量を一気に読ませるだけの力がある。河野さんに興味のある方は、ぜひお読みください。

2015年8月24日、白水社、2300円。

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2015年09月19日

暖房車

河野さんの歌集を読んでいて、小さな発見をした。

  一月十五日 晴れ 「塔」睦月歌会 暖房車に不意に泣きゐる私かな
  他人ばかりの車輛に緩(ゆる)みて
評者らは初句をつきくる甘いなりなるほど暖房車は即(つ)きすぎだ
                    『日付のある歌』

2000年1月の歌会に河野さんが出した歌について、「初句が甘い」という批評があったのだろう。このやり取りはかすかに覚えている気がする。

で、この歌がその後どうなったか。

最終ひかりに不意に泣きゐる私かな他人ばかりの車輛に緩(ゆる)みて
                    『季の栞』

なるほど、初句が「暖房車」から「最終ひかり」に改作されたわけだ。
歌会の批評を受けて推敲した跡が、こんなふうに歌集に残されていたとは。

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2015年09月18日

横山未来子歌集 『午後の蝶』


ふらんす堂のホームページに2014年1月1日から12月31日まで連載された「短歌日記」365首をまとめた第5歌集。

以下、引用は歌のみ。

突きあたり向きをかへたる穂のふくむ墨すべらかに紙を走りつ
まふたつにされし蜜柑の断面の濡れをりいまだ小鳥来らず
ひのくれまでねむれるわれをゆりおこすわれをみてをりあけのねむりに
蜂蜜の壜かたむけてゆるやかにかたよるひかり眺めゐるなり
さやゑんどうの莢に透きたるかなしみの萌しのごとき丸みにふれつ
とほき世に眉をゑがきしをみならの映ることなき手鏡ぬぐふ
傘をうつ雨くぐもりてひびきをり電話のなかのこゑの向かうに
垂直の壁をのぼれるかたつむり遅れて殻をひきあぐるなり
ちぎれたる枝葉にまじりかなぶんの光沢ありぬ朝の舗道に
水たまりに桜紅葉のしづめるを覗かむとするわれの黒き影

1首目、書の練習をしている場面。「墨」「紙」が下句にあるのがいい。
3首目、全部ひらがな書きにして、どこまでが現実でどこからが夢なのかわからない眠りの感じをうまく出している。
4首目、「かたよるひかり」がうまい。
6首目、手鏡にまぼろしの女性の姿が「映る」という歌は時おり見かけるが、これは「映ることなき」と詠んでいる。でも、「映る」と詠む以上に映っている感じがする。
8首目、かたつむりの移動する姿が目に浮かぶ。
9首目、かなぶんは、もう死んでいるのだ。

今回この歌集を読んでみて、短歌と日付や散文との相性が非常に良いように感じた。横山さんの歌は生活感や肉体性が薄く固有名詞のほとんどない世界なのだが、日付や散文と組み合わされることで、詩情と現実生活とのバランスがうまく取れている。

印象に残ったのは「不在」と「ここではない場所」の描き方。

去年の秋にわが見し蝶のもうをらぬ公園にきて松の実を踏む
ゆふべまで大きかたつむりゐし場所に陽のあたりをり何もをらねば

今はもう目の前にいないものを詠んでいる。
けれども、むしろその印象は鮮やかだと言っていいだろう。

雷鳴のごとしとながく聞きゐたる花火はとほき川照らすらむ
雨音の荒きを傘のうちに聞きてきみゆくならむ朝(あした)の街を

家の中にいて花火大会が行われている川を想像する一首目。二首目は雨の日に出勤する人の姿を思い描いている。どちらも、自分はその場所にはいない。「らむ」「む」といった推量の助動詞を使った歌が、この歌集には実にたくさんある。

「不在」と「ここではない場所」。
どちらの歌からも、かすかな寂しさが伝わってくるように思う。

2015年9月9日、ふらんす堂、2000円。

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2015年09月17日

選歌についての私感(その3)

自分が納得できるかどうかで、選を判断してはいけない。自分を基準に考えている限り、その人は永遠に変わることはできない。それは自分の殻に閉じこもっているのと同じことだ。それだったら、そもそも他人の選なんて受けなければいい。

選を絶対のものとして捉えるというのは、選者が偉いとか、絶対に服従すべきとか、そういうことではない。一つの絶対的な座標軸を設定することによって、初めて自分の現在地が見えてくるということなのだ。もし、仮に選が相対的なものであるとしたら、それはランダムに選ばれるのと変らないことになってしまう。

誰だって、最終的には自分の歌を自分で選ばなくてはいけなくなる。自分の歌の良し悪しを自分で決めることの難しさは、歌人なら誰でも知っていることだろう。その前に、どれだけ自分の殻を破って、多くのことを学ぶことができるのか。そこが問われているのだ。

もちろん、そのためには、自分の歌を選歌する人に対する信頼が不可欠である。選者に対する信頼こそが、「選による学び」が機能するための唯一にして最大の要因なのだ。複数選者のローテーション制で、そうした信頼関係が築けるのかどうか。確かにそれは、なかなか難しい問題であろう。

(以上はすべて松村個人の考えであり、塔短歌会とは一切関係ありません。もし何かご意見等がございましたら、松村個人にお伝え下さい)

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2015年09月16日

選歌についての私感(その2)

選を受けて、その選に完全に納得できる人はいないだろう。当り前のことだ。自分が採られると思った歌が採られて落ちると思った歌が落ちるのなら、選を受ける必要などないのである。

だから、納得できないと不平を言っても仕方がない。諦め悪く他の選者に送り直すのも賛成できない。納得できない選を、それでもいったん自分の中に受け入れることが大切なのではないか。そこに学びの第一歩があるのだと思う。

なぜ、その歌が落とされたのか。あれこれ考えて、何となくわかることもあるし、その時は全くわからないこともある。何年か経って初めてその意味に気付くこともあるだろう。それが選者の考えと一致しているかどうかはもちろんわからない。それは永遠に知りようがない。

でも、それで一向に構わないのだ。大切なのは、そうやって「自分で考えること」だからである。最終的には、自分で考えたこと、自分で気が付いたことだけが、自分の歌作りの役に立つ。

どんなに偉い歌人でも、歌作りの大事な部分を言葉で伝えることはできない。それはそうだろう。もし歌作りが言葉で教えられるものなら、短歌入門書を読めば済む話だ。

posted by 松村正直 at 07:13| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

選歌についての私感(その1)

結社の歌会の後の雑談の席などで、「Aさんには落とされたけど、もう一度出してみたらBさんは採ってくれた」とか「Cさんだといつも5首だけど、Dさんはたくさん採ってくれる」といった話を聞くことがある。「塔」には複数の選者がいて、ローテーションで回っているので、そういうことが起こり得る。

「選者の選は絶対ではない」と選者自身もよく言うし、誌面でもそのように説明することが多い。そうした考え方は、選者に落とされた歌にも救いの道が残されるという点で、多くの会員を慰めてもいるのだろう。

でも、本当にそれで良いのだろうか?

本来、選というのはもっと厳しくて、絶対的で、時に理不尽で暴力的なものでさえあったのではないか。○か×かの二者択一。△はない。採られなかった作品は、永遠に日の目を見ることもなく葬られる。しかも、どこが悪くて落とされたのか説明やアドバイスも一切ない。

そうした昔ながらの選のあり方が、現代では受け入れられにくくなっていることも事実だ。だから「絶対ではない」という話が出てくる。けれども、選を相対的なものと捉えている人は、はたして本当に選から学ぶことができるのだろうか。

選を軽く見る人は、選から学ぶことも少ないに違いない。選の結果を重く受け止めない限り、選から多くを学びとることはできないのだ。

posted by 松村正直 at 07:27| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月14日

下村宏のこと

映画「日本のいちばん長い日」には、終戦時に情報局総裁であった下村宏も登場する。彼は政治家であるとともに、海南という号を持つ「心の花」の歌人でもあった。

私は今までに2度、この下村海南について文章を書いたことがある。

1度目は、『高安国世の手紙』を書いた時。高安の甲南高校時代の親友下村正夫がこの海南の息子であったのだ。高安の母やす子も歌人だったので、その紹介もあり、高安は兵庫県の苦楽園にあった海南の邸宅を何度も訪れている。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139189.html

2度目は「樺太を訪れた歌人たち」の連載をした時。海南は昭和16年に講演のために樺太を訪れ、狭心症の発作で倒れている。一時は死を覚悟するほどの容態であった海南がもしこの時に亡くなっていたら、終戦をめぐる歴史も変っていたかもしれない。
http://www.ac.auone-net.jp/~masanao/karafuto-21.pdf
http://www.ac.auone-net.jp/~masanao/karafuto-22.pdf

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2015年09月13日

映画 「日本のいちばん長い日」

監督・脚本:原田眞人
原作:半藤一利
出演:役所広司、本木雅弘、松坂桃李、堤真一、山崎努ほか

1945年4月の鈴木貫太郎内閣の成立から始まって8月15日の玉音放送いたるまでの歴史を、昭和天皇、阿南惟幾(陸軍大臣)、鈴木貫太郎(首相)、迫水久常(内閣書記官長)、畑中健二(陸軍少佐)といった人物を中心に描いたドラマ。

かなり本格的な内容で、最後まで飽きることがなかった。

陸軍省軍務局の竹下正彦(中佐)が阿南のことを「にいさん(義兄)」と呼んでいるので調べてみると、竹下は父も兄も弟も軍人で、軍人の義兄も3人いたようだ。これは竹下家だけの話ではなく、当時の軍人家庭の多くがそうであった。軍人同士は縁戚関係でも強く結ばれていたのである。

MOVIX 京都、136分。

posted by 松村正直 at 11:04| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月12日

柏崎驍二歌集 『北窓集』


2010年から14年までの作品420首を収めた第7歌集。

作者の故郷は三陸町吉浜(大船渡市)で、現在は盛岡市に住む。東日本大震災を詠んだ痛切な歌が数多くあるほか、東北の暮らしや風土に関わる歌も多い。

上の家下の家ある坂のみち海のひかりが崖(きし)を照らせり
おのづからわれを離れて霧となる息嘯(おきそ)の息のごとく詠みたし
当初わが嫌ひたる名のひとめぼれ・あきたこまちに慣れていま食ふ
流されて家なき人も弔ひに来りて旧の住所を書けり
春寒き比叡の社の階(きざはし)にわが脱ぎし靴を人は直しつ
「鴻之舞金山跡」の碑に近くそれより大き慰霊の碑あり
負ぶはれて逃れたれども負ぶひくれし人を誰とも覚えずと言ひき
隣家のバケツが庭に飛ばされて来てをり梅の蕾ふくらむ
大根の膾に載りてひかるものはららご赤く年あらたまる
禿頭に手をおく人が描いてある南部盲暦(ゑごよみ)今日半夏の日

1首目、「上の家」「下の家」がいい。海沿いの傾斜地に立つ家。
2首目、第47回短歌研究賞を受賞した「息」20首(歌集では18首)のタイトルになった歌。ただし連作の中身は大幅に変っている。
4首目、避難所に住んでいるのだろう。「旧の住所」が悲しい。
6首目、北海道紋別市にあった金山。最盛期に13000人が住んだ場所は、現在無人となっている。
8首目、春一番のような強い風の様子を、「風」と言わずに詠んでいる。
10首目、文字の読めない人にもわかるように絵で書かれた暦。「禿頭」=「ハゲ」=「半夏」ということだろう。

葦群のなかゆくみちの湿り地の沈みがちなる今朝のものおもひ
軒下に凍るつららのつらつらに君を偲ぶも今日葬りの日

印象に残ったのは、このように序詞を用いた歌がいくつも見られること。1首目は上句の内容が「沈みがち」を導き、2首目は「つらら」から「つらつらに」と音でつなげている。こういう歌を読むと、序詞という技法は現代短歌においてもかなり使えそうな感じがする。

2015年9月8日、短歌研究社、2500円。

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2015年09月11日

猟師と歌人

『けもの道の歩き方』を読んでいると、猟師と歌人にはけっこう共通点(?)があるなと思う。

札幌のフォーラムでは、若手猟師によるパネルディスカッションも行われた。パネラーの一人は二十代の大学院生だったが、あとの二人は偶然にも僕と同い年だった。事前の打ち合わせで、「四十歳手前で若手って言ってもらえるのは、狩猟の世界ぐらいやね」と苦笑しながら話していた。

いえいえ、短歌の世界もそうですよ。

「猟師」なんて名乗っていると、狩猟だけで収入を得ているとよく誤解される。「そうではない」と言うと、「じゃあ趣味なんですね」となる。僕は「それも違う」と答える。

このやり取りも、歌人がよく経験するものだ。

職業に関する話をしていると、よく「食べていけるか」というのが問題になるが、この「食べていける」というのがけっこう幅のある言葉である。100万円で食べていけるという人もいれば、1000万円あっても足りないという人もいるだろう。

だから、もちろん「食べていけるか」というのは大事なことなのだけれど、それが全てではない。生活の仕方や価値観、人生観、さらには住む場所や他人との関わりなど、様々な要素を含めて考えるべきことなのだと思う。

ちなみに、千松さんは

二〇一四年度の猟期はイノシシ六頭、シカ十頭の猟果で、一月下旬には猟を終えた。家族や友人で分けあって食べても十分すぎる量で、一年間肉には困らない。

ということで、狭義の意味での「食べていく」ことには困っていないらしい。

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2015年09月10日

千松信也著 『けもの道の歩き方』


『ぼくは猟師になった』の著者のエッセイ20篇を収めた本。副題は「猟師が見つめる日本の自然」。「日本農業新聞」2012年12月から13年3月まで連載された「森からの頂き物」に加筆、再構成したもの。

京都に住んで普段は運送会社で働きながら、猟期にはくくり罠でイノシシやシカを捕獲する著者が、猟師ならではの視点から山の自然や動物、そして自らの暮らしについて記している。

よく「野生動物の肉は硬い」と言われるが、〇歳や一歳の若い個体の肉は軟らかいし、歳をとった個体の肉は硬い。家畜の豚も生後半年で出荷されるから軟らかいだけで、何年も飼育した老豚の肉は硬くなる。
利用されなくなってしまった現在の巨木が林立する里山林を、この現状のまま維持するのは無理がある。放置され続けてきたところに起きたナラ枯れは防ぐべきものなのだろうか?
白色レグホンはメスしか必要とされないので、オスはヒヨコのうちに殺され、産業廃棄物となるのがほとんどだ。また、メスも大規模な養鶏場では、産卵効率が落ちて生後二年を待たずに廃鶏にされるのは前述の通りだ。

近年、農作物への獣害が深刻となっていることもあり、狩猟がにわかに注目を集めている。けれども、著者はそうしたブームを歓迎しつつも、「狩猟の素晴らしさばかりが強調される昨今の風潮はちょっと気持ちが悪い」と冷静に見ている。

そこには「自分で食べる肉は自分で責任をもって調達したい」という思いのもと14年にわたって猟師を続けてきた著者の矜持がにじむ。

2015年9月16日、リトルモア、1600円。

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2015年09月09日

ぬえ的

文語と口語の問題が、短歌雑誌ではしばしば取り上げられる。それぞれの優劣を競い合うかのような文章もよく目にする。その一方で、近年、文語と口語のミックス文体を用いる歌人が多くなっているのも事実だ。

そうした問題は何も今に始まったことではない。

いったいそれなら口語と文語というものの区別がどこにあるか。―そんなものはない。
現在の短歌が使っておる文語というものは、これは厳格な意味においての文語ではない。文法からいっても、造語法からいっても、厳格な文語あるいは標準文法というものからしたならばでたらめの日本語だと、そういった批評が文法学者なんかからはしばしばされるのでありますが、それは私はそのとおりだと思う。その点からいえば、今の短歌の用語というものは口語でもなく、文語でもなく、一種異様なもので得体の知れないものだと、悪く取ればそうもいえましょうが、また考え方によっては、一つのそういう古い言葉も生きておるし、口語の発想法もはいっておるし、新たに形式化されておる新しい用語ということができるんじゃないか。これも程度の問題で、それが全く日本語として通じないものというふうになればとにかく、まあともかく日本語として通じておる。ただその要素が非常に新旧取りまぜで、悪くいえばぬえ的、よくいえば両者の長を取った新しい一つの領域というものを私は持っているんじゃないかと思います。    土屋文明 『新編 短歌入門』

昭和22年に行われた講演「短歌の現在および将来について」の話なので、もう70年近く前のものだ。けれども、現在の状況にもそのまま当てはまるのではないか。

そして、この「一種異様」「得体の知れない」「ぬえ的」という点を嫌って、完全な口語で(そういうものがあるかどうかは別問題として)歌を詠もうとする若手が増えているのだろう。

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2015年09月08日

森見登美彦著 『新釈走れメロス 他四篇』


中島敦「山月記」、芥川龍之介「藪の中」、太宰治「走れメロス」、坂口安吾「桜の森の満開の下」、森鴎外「百物語」という近代文学の名作5篇を、現代の京都を舞台にした作品へと仕立て直したパロディ小説集。

読み始めてすぐに、「あれっ?どっかで読んだことあるな」と思ったのだが、2007年に祥伝社から出た単行本を読んでいたのだった。中村佑介のイラストを使った表紙が、以前読んだものと全く違っていたので気づかなかった。

それにしても、わずか8年前のことを忘れてしまうなんて・・・。

京都が舞台ということで、祇園祭、大文字山、叡山電鉄、鴨川デルタ、蹴上インクラインなど、京都に住んでいる人には馴染みの行事や場所がたくさん出てくる。それで、ついつい読んでしまうんだろうな。

2015年8月25日、角川文庫、520円。

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2015年09月07日

黒瀬珂瀾歌集 『蓮喰ひ人の日記』



アイルランドとイギリスに滞在した13か月間に詠まれた歌をまとめた第3歌集。初出は「短歌研究」2011年1月号〜12年7月号。歌には日付と詞書きが付いている。

日本を離れて知る東日本大震災、街を燃やす暴動、そして娘の誕生など、慌ただしく過ぎて行く異国の暮らしの様子が歌に詠み留められている。また、滞在中に読み進めた『ユリシーズ』のことも、しばしばそこに重ね合わされているようだ。

以下、引用は歌のみで。

茶の濃さが恨みの濃さともし言はば、言はばバターの硬き食卓
安否を問ふは誰かの安否を問はぬこと寒風に舞ふ桜ひとひら
マグナ・カルタ手稿に波のごとき皺打ち寄せて王を呑み込みしかな
鱈つつむ衣の厚きゆふぐれをhibakushaといふ響きするどし
私たちは ロンドンにゐて よかつた と子を抱きて言ふ 抱き締めて言ふ
大家族眺めてねぶる腿の骨かつて否みき父となること
たつぷりと乳を詰めこみ児の腹はホタルイカかとつくづく思ふ
汗ばめる髪に苺の香りして児はわが胸をこころみに吸ふ
くらやみに潤ふごとく立つ妻の奥に火は燃ゆ正論の火は
うすやみに眠る命ゆ離れゆくひとよ噴きやまぬ乳をおさへて

5首目には

5/20 セント・パンクラスで、日本人母親の「なかよし会」。

という詞書きが付いている。福島の原発事故による放射能漏れを踏まえての歌である。福島(日本)から遠く離れた地にいることに安堵する母親たちの姿。それは同時に、福島やその近くに暮らす母子の姿をも浮かび上がらせる。句ごとに置かれた一字空けが、そうした複雑な心情をよく滲ませている。

ところどころ歌の後に散文が続く場合があるのだが、それが次の歌の方につながっているように見えてしまうのが、レイアウト的に気になった。例えば208ページの最初の「関東大震災・・・」という部分は、207ページの最後にあった方が良いのではないだろうか。

2015年8月30日、短歌研究社、2800円。

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2015年09月06日

新しい歌?

短歌に新しいも古いもないんです。
「万葉集」の歌を読んで、「これは古いからダメ!」なんて言う人はいないでしょ?

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2015年09月05日

内藤明歌集 『虚空の橋』

2012年から14年にかけて発表した連作11篇を収めた第5歌集。
そのうちの一つ「ブリッジ」30首で第50回短歌研究賞を受賞している。

そのこゑの身のうち深く遺れるを鎮めてひとり蕎麦を啜れり
抜かれたる奥歯のありし空間を舌に確かめ寝につかむとす
整然と鉄路に向きて午後五時の西日を浴ぶる自転車の列
型通り入れねば蓋の閉まらざる積木の箱はいづこにゆきし
夢にしてゆふべの川を渡りしが声に濡れたり現(うつ)つなるらし
駅員に遅延の文句をわめきゐるあの酔漢はわれにあらずや
灯の下にときどき顔を見合はせて風の音聞く猫と子どもと
囲はれし穴を視線はひとまはり古代の水の湧き出(で)しところ
ドアの向かうに人がゐますと書いてある貼り紙を読むドアのこちらに
命ひとつ宿せる人のかたはらに刺繍の薔薇は形成(な)しゆく

「短歌の死である武川忠一が亡くなり、その偲ぶ会の数日後に母が亡くなった。また、その約一年後に父が亡くなった」とあとがきにある。全体に落ち着いた雰囲気の歌が多い。

1首目、亡き人の声を思い出しつつ蕎麦を食べているところ。
3首目、「鉄路に向きて」がいい。どの自転車も同じ向きに並んでいる。
4首目、間違ったところに入れると、箱からはみ出してしまうのだ。
6首目、他人へ向けた視線が下句で自分へと反転する。
7首目、何とも可愛らしい光景。風が強いのだろう。
10首目、妊娠している人が少しずつ刺繍をしている場面。

2015年7月21日、砂子屋書房、3000円。

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2015年09月04日

『戦争画とニッポン』のつづき

『戦争画とニッポン』に会田誠が出ているのは、彼が「戦争画RETURNS」というシリーズを制作したことが大きな理由であろう。

シリーズの一つである「紐育空爆之図」も、最初の方に見開きで掲載されている。1996年の作品だ。
http://mizuma-art.co.jp/artist/popup.php?uid=0010&imgID=10

この作品については、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを詠んだ

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
             大辻隆弘『デプス』

の歌と関連付けて、以前、論じたことがある。(「サブカルチャーと時代精神」2003年、『短歌は記憶する』所収)

今回初めて知ったのは、この作品の元ネタ(実際には違うのだが)と噂されている戦争画があるということだ。1943年刊行の『大東亜戦争海軍美術』に掲載されている古城江観の「紐育制圧図」で、ニューヨークのマンハッタン島を日本軍が爆撃する様子が描かれている。

ニューヨークというのは、昔も今も、やはり象徴的な場所なのだ。

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2015年09月03日

椹木野衣×会田誠著 『戦争画とニッポン』


美術批評家の椹木野衣と現代美術家の会田誠が、戦争画をめぐって行った対談をまとめたもの。藤田嗣治「○○部隊の死闘―ニューギニア戦線」、宮本三郎「萬朶隊比島沖に奮戦す」、小川原脩「アッツ島爆撃」、小磯良平「カンパル攻略(倉田中尉の奮戦)」、さらには会田の「紐育空爆之図」など30点近い戦争画を掲載している。

この本を読んで驚いたのは、茅葺き屋根の古民家の絵で有名な向井潤吉に、多くの戦争画があるということ。そうした過去は戦後、封印されてしまったのだろう。

戦争画は戦意高揚や軍部の宣伝といった文脈で語られることが多い。あるいは反対に、藤田の玉砕画に反戦の意図が込められていると賞賛されることもある。けれども、そのどちらも一面的な見方に過ぎるだろう。戦争画は何よりもまず「戦争記録画」であった点を忘れてはならない。

単に「戦争協力の是非」という話なら、今たいていの芸術家は「非」と答えるでしょう。けれど当時の日本の戦争画を見ていると、ことはそう単純でないことがわかります。「全体と個」という永遠にややこしい問題がそこにはあります。

「あとがき」に記された会田の言葉は、戦争画の奥にあるより大きな問題を浮き彫りにしている。それは、現代の短歌にとっても避けられない問題であろう。

2015年6月22日、講談社、2000円。

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2015年09月02日

川本千栄歌集『樹雨降る』

川本千栄の第3歌集『樹雨降る』(ながらみ書房)が7月に刊行されました。
2008年から2014年までの484首を収めています。定価2700円。

【自選5首】
右手だけぐうんと長く描かれて子は絵日記に兎撫でいる
葡萄(えび)色は鮮やかなまま 床にいて子規の描きたる盆栽の花
黄の色の口の尖れるチューリップ何かもう真っ直ぐにも疲れちゃって
桜には必ず終らす雨が降るわかっていたから言うのだ じゃあ、と
ラジコンカー有害ごみに廃棄して終われりわが子の子供時代は

http://www.ac.auone-net.jp/~masanao/sub1.html

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2015年09月01日

荒川洋平著『日本語という外国語』


日本語教師になりたい人向けの入門書であるが、そうでない人が読んでも十分におもしろい。国文法(いわゆる学校文法)とは違う日本語文法についても、概略が記されており、知らなかったことがいっぱい出てくる。

国文法における動詞の終止形と連体形は同じ形ですが、日本語教育ではこれを「辞書形」として、一つにまとめ上げています。

国文法においては文語(古文)との継続性を重視して、口語の動詞の活用でも「終止形」「連体形」を区別しているが、確かに口語だけに限って考えれば区別する必要はないわけだ。

学校で勉強した英文法では「十二時制」と呼んで、時制を現在進行形や過去完了形などに分類していますが、これは「テンス」と、後で述べる「アスペクト」を一緒にしたものです。

この「テンス」と「アスペクト」の区別というのが、けっこう大事なのだろう。学校では国文法でも英文法でも、そのあたりは習わなかった気がする。

実は日本語の動詞には(…)前のことを示す「過去形」と、そうではない「非過去形」しかありません。
動作を示す動詞が、現在のことを示すためには、「いま食べている」のように、「食べる」をテ形「食べて」に変え、それにプラスして「いる」の助けを借りなければなりません。

こうした日本語文法の基本的な知識は、例えば角川「短歌」9月号に大辻隆弘さんが書いている「口語の時間表現について」という問題を考える際にも、大いに役に立つのではないかと思う。

2009年8月20日、講談社現代新書、800円。

posted by 松村正直 at 10:23| Comment(4) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする