2014年12月30日

雪裡紅

手の届く限りはアララギ一冊にて「雪裡紅(しゆりほん)」の文におのづから
寄る                高安国世『真実』

1947年の作品。「病間録」と題する一連に入っており、「三月末急性肺炎。妻の母も軽い脳溢血にて静臥。やがて三人の子供も次々にはしかを病む」との詞書が付いている。家中が病人ばかりという状況にあって、作者は病床に臥せりつつ「アララギ」に手を伸ばす。

「雪裡紅」は、中国北部で産出するアブラナ科アブラナ属の野菜。からし菜の仲間である。中国では春の訪れを告げる食材として重宝されているらしい。

高安の手にしている「アララギ」は昭和22年3月号。そこには高安の師である土屋文明の「雪裡紅」という文章が載っている。当時、文明が連載していた「日本紀行」の14回目である。

今年は幸に寒気がゆるやかであるが、私の小さい菜圃はもう二月も雪が消えない。私は温い日がつづくと雪の上に緑の葉さきをのぞかせる雪裡紅を見にゆく。雪裡紅は次の雪が来れば又雪の下になつて行く。

川戸で自給自足に近い生活を送っていた文明は、雪裡紅を育てていたのである。病床の高安は、雪裡紅の持つたくましい生命力に励まされたに違いない。けれども、「おのづから寄る」と詠んでいるのは、そのためだけではない。「雪裡紅」には当時盛んだった第二芸術論への反論が記されているのだ。

短歌や俳句の様な古典が今に生きてゐる事は誰にも遠慮する必要のない事だ。それどころか貧しい日本の文化の中では自ら安んじてさへよい事であらう。
(…)島国の百姓の様なしみつたれた批評家と称する者が、彼等の芸術学とかにも文芸学とか言ふものにも当てはまらない短歌や俳句を抜き去らうとかかつて来るならば先づ彼等を排撃するのは我々の当面の責任だ。

短歌に寄せるこうした文明の熱い思いが、戦後の苦しい時期の高安の心を強く引きつけていたのである。

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2014年12月29日

「外大短歌」第五号

幻影の花かざるべく花瓶より花抜き取りて生ごみに出す
                  上條素山
湯の中でジャスミンの葉がゆるく開き、謝るまでは許されていた
                  永山 源
かりかりに油まわして鶏を焼く よりよく生きる誓いのように
                  黒井いづみ
朝六時過ぎの着信 i phoneが震へた瞬間理解してゐた
                  藤松健介

上條作品、本物の花ではなく「幻影の花」を飾るという発想がいい。花瓶の上に残像が浮かんでくるようだ。藤松作品は祖父の死を詠んだ一連の1首目。これだけで誰かの訃報であることが読み手にも伝わってくる。

評論では山城周「ジェンダーを持つ短歌」が良かった。服部恵典「「歌人」という男―新人賞選考座談会批判」(「本郷短歌」第3号)に続いて、歌人のジェンダー観を問うこうした指摘が若手歌人から出るのは頼もしい限りだ。

座談会「短歌と私、私たち」の中では、北海道の屯田兵の家系に生まれたという永山源さんの発言が印象に残った。

「屯田魂」っていう言葉が本当にあって、あの、フロンティアスピリットなんですね、要するに。(…)すべてにおいてその心を忘れちゃいけないなって思うことによって、屯田兵の子孫なんだからっていう、なんだろう、誇りじゃないんですけどそういう自負?みたいなものを抱いているんで、切り開いていくっていう……そういう感じですね。

こうした気持ちをいつまでも持ち続けてほしいと思う。

2014年11月1日発行、500円。

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2014年12月28日

坂入尚文著 『間道』


副題は「見世物とテキヤの領域」。

著者は芸大の彫刻科を中退後、「秘密の蝋人形館」という見世物小屋に参加し、さらに農業を経て、現在は飴細工師をしている。その経歴に沿って本書も3部に分かれており、それぞれ「見世物小屋の旅」「百姓の旅」「テキヤ一人旅」と名付けられている。

そうした旅の多い人生を通じて出会ったテキヤ、極道、美術家、農家、飲み屋の主人といった人々が、この本の主人公と言っていいかもしれない。移りゆく時代の流れから取り残されるようにして生きている人々。その影を帯びた姿を著者は克明に描いていく。そこには自分もまたその一人だという思いがある。

見世物は底抜けの芸や見る人の胸ぐらを掴むような演出を見せて消えて行く。その人たちと会えたことは私のささやかな勝利だ。まっとうな世の中ではやってられない人たち、遥か彼方にいた異能者たちに会えた。

この本に出てくる人たちの表情や生き方は彫りが深く、人と人との関わりは濃い。それでいて常に乾いた寂しさが付きまとう。

ずっしりと手応えのある一冊である。

2006年6月15日、新宿書房、2400円。

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2014年12月27日

本田一弘歌集 『磐梯』

著者 : 本田一弘
青磁社
発売日 : 2014-12-11

平成22年から26年夏までの作品311首を収めた第三歌集。
文語定型を守りつつ、会津の風土を詠んだ歌柄の大きな作品が多い。
連作一つ一つの歌数も多く、骨太な印象になっている。

平成23年の東日本大震災と原発事故は福島の人々の暮らしに大きな被害と影響をもたらした。平成25年に亡くなった佐藤祐禎氏への挽歌をも含めて、震災と原発に関する歌がこの歌集の根幹と言っていい。歌数の311首も、3・11を意味しているのだと思う。

いづこにか雨にぬれたる猫がゐる闇やはらかく猫になりゆく
磐梯は磐のかけはし 澄みとほる秋の空気を吸ひにのぼらむ
避難所のおほいなる闇 百三十の寝息のひくくひくくみちたる
さくら花たたふる夜の黒髪をくしけづりゆくつくよみをとこ
福島を切り分くる線 幾十度いくそたび変へられてゆかむか
やはらかく前に後ろに揺られゆく秋のひかりをぶらんこといふ
のどけしな磐梯の田は田植機をあまた侍らせ昼寝をしたる
線量は毎時六・五マイクロシーベルト 防護服着て墓洗ふ人
木偏に冬、くさかんむりに冬と書く歌人ふたりの歌を思ひき
昨夜よりの雨止みにけりテニスコートに雀の貌を映す水あり

2首目は地元の会津磐梯山を詠んだ歌。活火山の荒々しさを秘め持つ山を歩いて、天へと登っていくような清々しさを感じさせる。
4首目は、満開の夜桜に射す月の光を男女の関係に喩えている。
6首目、揺れているのが「秋のひかり」なのだという目の付けどころがいい。
9首目は小泉苳三と宮柊二のこと。ともに日中戦争に従軍して『山西前線』『山西省』という歌集を残している。

2014年11月1日、青磁社、2500円。

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2014年12月26日

安藤啓一・上田泰正著 『狩猟始めました』


副題は「新しい自然派ハンターの世界へ」。
このところ、なぜか狩猟関係の本を読むことが多い。
人間と自然との関わりや、食と命の問題、過疎化と農作物への被害など、いろいろな問題に関係してくる。

狩猟と一口に言っても、「銃猟」と「罠猟」と「網猟」があり、銃猟にもグループで行う「巻狩り猟」、「流し猟」、「忍び猟」などがある。著者の行っているのは、単独で静かに身を隠しながら獲物に近づいて射止める「忍び猟」である。

狩猟とは緻密な動物観察なのだと思う。知識と経験による観察力、その結果を分析するセンス、わずかな情報から動物たちの暮らしを浮かび上がらせるイマジネーションといった能力を使いこなすクリエイティブな行為だ。
足跡はその場所に動物がいたという点の情報だ。それに獣道の情報が加わると移動という線になる。これを積み重ねて線から平面、さらに森を立体的に観察して動物の行動を推察できるようになるとようやく獲物に近づける。

こんな文章を読むと、狩猟というのは何て繊細で緻密な行為なのだろうかと思う。

2014年12月5日、ヤマケイ新書、800円。

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2014年12月25日

角川「短歌」2015年1月号

「歌壇時評」がないことに驚く。
編集後記等でも何も触れていないので、詳細はわからない。
今月号だけ無いのか、今後ずっと無いのか。

そもそも2012年までの「歌壇時評」は2頁×1名だった。
それが2013年から4頁×1名となり、2014年7月号からは6頁×2名となった。

そして今回のゼロである。
12頁からゼロへ。
迷走しているとしか言いようがない。

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2014年12月24日

「穀物」創刊号(その2)

後半の歌から。

やめてしまふことの容易き生活の、ごらん青海苔まみれの箸を
読みさしの詩集のやうに街があり橋をわたると改行される
                濱松哲朗

濱松作品2首目、静かな人通りの少ない街を一人で歩いている感じ。「橋をわたると改行される」という発想がおもしろい。橋を渡って風景が切り替わる感じが、「改行」のイメージと重なり合い、まるで本の中に入り込んでしまったような不思議な雰囲気がただよう。

冬の朝また冷ややかに始まりて薄い光に眼を馴染ませぬ
雪がまた雪を濡らしてゆく道を行くんだ傘を前に傾げて
                廣野翔一
街灯にくくられてゐる自転車を4桁の数字で解き放つ
手羽先にやはり両手があることを骨にしながら濡れていく指
                山階 基

山階作品2首目、鶏の手羽先を食べながら、そこに右と左の二種類があることに気が付いたのだろう。考えてみれば当然のことであるが、こうして言われてみると生々しい。下句は脂にまみれていく自分の指を詠んでいるのだが、「手羽先」→「両手」→「指」という流れにあることで、まるで自分で自分の手を食べているような怖さを感じる。

一首評では、小林朗人さんが平岡直子作品の「悲しいだった」という言い方の分析をしているのがとても良かった。確かに「悲しかった」と「悲しいだった」では、読み手の感じるニュアンスはだいぶ違ってくる。

2014年11月24日、400円。

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2014年12月23日

「穀物」創刊号(その1)

同人8名の各20首と「二人称をよむ」「時間をよむ」というテーマの一首評が載っている。以下、前半の印象に残った歌から。

感ぜざるふるへに水が震へゐる卓上にこの夜を更かしたり
窓鎖して朴の花より位置高く眠れり都市に月わたる夜を
時計草散りゆくさまを知らざればその実在をすこしうたがふ
特急の窓に凭るるまどろみはやがて筋(すぢ)なす雨に倚りゐき
                小原奈実

小原作品2首目、背の高い朴の木に上を向いて咲く朴の花。マンションの部屋からその花がよく見下ろせるのだろう。月明かりの照らす空間に浮遊して寝ているような感覚がおもしろい。小原作品はどの歌を引こうか迷うほど良い歌の多い20首であった。

電話越しに怒鳴られている現実が電車の風に薄まっていく
                狩野悠佳子
たれかいまオルゴールの蓋閉ぢなむとしてゐる われに来(きた)るねむたさ
エル・ドラド、アヴァロン、エデン、シャングリラ 楽園の名がいだく濁音
                川野芽生

川野作品2首目、エル・ドラド(アンデス奥地の黄金郷)、アヴァロン(イギリスの伝説上の島)、エデン(旧約聖書の楽園)、シャングリラ(チベットの理想郷)のいずれにも濁音が入っている点に注目した歌。下句にも「が」「だ」「だ」と濁音があり、「いだく」「だくおん」という音の響き合いも良い。

憎むなら燃えて光っているうちに。看取るなら花の象(かたち)のうちに
                小林朗人


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2014年12月22日

「羽根と根」2号

「あなたの好きな歌集」という企画が面白い。
他のメンバーから薦められた歌集を読んで、評論を書くというもの。それだけでなく、その評論を読んで、さらに薦めた人がその評を書いている。

こういう機会がなかったら絶対に読まなかったというような歌集との出会いがあり、また評論評も単に同意したり褒めたりするだけでなく、「虫武の書き方はややミスリーディングなのではないかと感じた」(七戸雅人)、「この章はもう少しひとつひとつを詳細に追ってもよかったと思う」(虫武一俊)といった意見もあって、相互のやり取りによる深みを感じさせる。

以下、印象に残った作品を引く。

肩までをお湯に浸してこれまでとこれからのゆるいつなぎ目に今日
                佐伯 紺
そしてまたあなたはしろい足首をさらして春の鞦韆に立つ
                坂井ユリ
火縄銃渡来せしとき屋久島のいかなる耳はそばだちにけむ
                七戸雅人
公園に白いつつじがつつましくひらく力のなかを会いにいく
(そういうのはじめてだからもうちょっと待って。)外には樹を濡らす雨
スーパーの青果売り場にアボカドがきらめいていてぼくは手に取る
                阿波野巧也
「parents」エスが消えた日 伸びきった絆創膏が身体に溶ける
母親が父親もして母親もしているきっと花を枯らして
                上本彩加

佐伯作品は初二句の景と三句以下の心情との照応がうまい。
坂井作品は初句「そしてまた」がおもしろく「足首をさらして」の描写も良い。

七戸作品は、種子島に火縄銃が渡来した時に、隣りの屋久島の人(あるいは猿や鹿や樹木かもしれない)はどんなふうにその銃声を聞いただろうかという想像の歌。屋久島自体が耳をそばだてて聞いているような面白さがある。

阿波野作品は瑞々しい相聞歌。一首目、「つつじ」「つつましく」の音の響きが良く、結句の字余りに力がある。二首目、ちょっと読むのが照れくさいほどの初々しさ。三首目は「きらめいていて」→「ぼくは」のかすかなねじれに面白さがある。

上本作品は両親の離婚を読んだ歌に惹かれた。一首目は上句が鮮やかにその事実を伝えている。二首目の「きっと花を枯らして」は自分の夢や望みを犠牲にしてといったニュアンスだろう。僕の両親も別れているので、この寂しさは胸にしみる。

2014年11月24日発行、500円。

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2014年12月20日

宇能鴻一郎著 『味な旅 舌の旅』


1968年に日本交通公社から刊行された本の文庫化。
現在では官能小説家として知られる著者の若き日の紀行エッセイ。

「松島・雪の牡蠣船」「水戸・烈女と酒を汲む」「山峡の宿場・恵那の川魚」「さざなみの志賀の鴨鍋」「薩摩半島・恐怖のヅクラ」など、全国各地を旅して、その土地の料理や酒を味わっている。

50年前の話なので、グルメガイドとしてはもう役に立たないだろうが、話はすこぶる面白く、料理に関する蘊蓄も心地良い。北海道の余市を訪れて

敷地の中央に、お伽噺の家のような、煙突をつけた、小さな社長室がある。ここの主は日本のウイスキイ製造の草分けで、七十数歳の今日までウイスキイ一筋にはげんでいたが、数年まえ英国生まれのリタ夫人をなくしてからは、東京のアパートにひきこもりがちであるという。

なんと「マッサン」のことではないか。
昭和9年に建てられたこの建物は、現在も「旧事務所」として保存されているようだ。

1980年8月10日初版、2010年10月25日改版、中公文庫、705円。

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2014年12月19日

「立命短歌」第二号(その3)

濱松哲朗の編集後記にも、小泉苳三の話が出てくる。

そんな小泉の残した蔵書「白楊荘文庫」から、第二次立命短歌会の合同歌集『火焔木』(一九四三年)を発見し、昨年の九月に、宮崎哲生と二人ですべて書き写しました。

おそらく複写が許されていないので書き写したのであろう。こういう努力が大切なのである。

それにしても、「白楊荘文庫」はもう少し外部に開かれても良いのではないでしょうか。近代短歌の歴史的資料として、研究者だけでなく歌人にとっても極めて有益なものであるはずなのに、閲覧できるのは学内関係者のみで、しかも担当教授のサインが必要です。

本当にその通りだと思う。せっかくの資料も死蔵されていては仕方がない。活用されてこその資料であろう。

以前、中西亮太さんのブログ「和爾、ネコ、ウタ」に、この白楊荘文庫のことが出てきた。白楊荘文庫で新芸術派の短歌誌「エスプリ」を見つけたという内容である。
(→http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-107.html

白楊荘文庫には、まだまだたくさんのお宝が眠っていそうだ。

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2014年12月18日

「立命短歌」第二号(その2)

「立命短歌」第二号には、「立命短歌会OB競詠」として昭和32年から49年に卒業したOB8名の各10首とエッセイが載っている。このような過去(短歌史)への向き合い方が「立命短歌」の特徴だと言っていいだろう。

その中で、井並敏光さんの「立命短歌会の預かりもの」というエッセイが心に残った。

一年先輩の西尾純一(西王燦)君が私の下宿に置いて行った立命短歌会の資料などが詰まった段ボール一箱は、私が第四次立命短歌会の最後の一人であるという事実を指し示すエビデンスとして四十余年私の書庫にあった。
今回、第五次立命短歌会の発足に際し、宮崎哲生君に引き継ぎが出来て喜んでいる次第である。

学生は4年で順々に卒業していってしまう。その「最後の一人」になってしまった心細さ。40年余り持ち続けていた資料は、第5次立命短歌会が発足しなければ永遠に日の目を見ることはなかったかもしれないのだ。

立命短歌会の歴史に関するものが、もう一つある。濱松哲朗の評論「立命短歌会史外伝―小泉苳三と立命館の「戦後」」である。これは、今号で最も注目すべき作品と言っていい。

濱松は、戦後「侵略主義宣伝に寄与した」との理由で立命館大学を追われた小泉苳三の歌を取り上げる。そして、戦前戦後の立命館大学の思想的な変化と、小泉が味わった苦汁を明らかにするのである。

丹念に資料に当っているだけでなく、文章が読みやすいので、小泉苳三について特に興味や知識がなくても十分に面白い。「立命短歌」のレベルの高さを感じさせる内容であった。

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2014年12月17日

「立命短歌」第二号(その1)

全122頁と、創刊号に続いて充実した内容である。
まずは印象に残った作品から。

墜落機を見にゆくような、わるいことしているつもりのふたりだったね
               安田 茜
もうずっと目蓋に夏が居座ってまぶしい 小鍋にチャイを煮出して
               稲本友香
べろべろに酒を飲みつつ何らかの方眼である部屋を見つめる
               村松昌吉
ひそやかな森に似ている理科室で蝶の時間を永遠にする
               北なづ菜
バス停がいくつも生えてくるような雨だねきつと海へ向かふね
               濱松哲朗
さういへば白い桔梗が咲いてゐた花といふには現実的な
               柳 文仁

安田作品は比喩がおもしろく、相手に語りかけるような文体に味がある。
稲本作品は「目蓋に夏が居座って」に実感があり上句と下句の取り合せもいい。
村松作品は酔った目に映る四角い部屋。前川佐美雄風である。
北作品は蝶の標本を作っているところか。静けさを感じる。
濱松作品は雨が降ってバス停が生えるという発想が楽しい。
柳作品は「現実的」という言葉が桔梗の雰囲気をよく表している。

濱松哲朗の評論「抽象性と自意識―小野茂樹の「整流器」と「私」に関する試論」は、小野茂樹が自らの作風について述べた「整流器」という言葉を手掛かりに、小野の歌の作り方や歌集のまとめ方を分析したもの。その分析を通じて、人物と作者と作中主体の関係や小野作品の「私」のあり方を考察している。

作者は自らの作品の読者となった時に初めて、おのれの作風を自覚するのであって、その逆ではない。
作品は解釈を誘発することはできるが、解釈を限定することはできないのである。

こうした箴言風の言い切りが、読んでいて心地よい。

2014年11月24日発行、500円。

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2014年12月16日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その6)

ちなみに昭和16年に刊行された岩波文庫には、『ロダン』『シェイクスピアと独逸精神 上下』以外に、以下のようなドイツ文学の作品がある。

・クライスト『ペンテジレーア』吹田順助訳
・クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』吉田次郎訳
・クライスト『こわれがめ』手塚富雄訳
・ブレンターノ『ゴッケル物語』伊東勉訳
・フォンターネ『罪なき罪 上下』加藤一郎訳

さらに、文学に限らずドイツ関係のものを探せば

・マルティン・ルター『マリヤの讃歌 他一篇』石原謙、吉村善夫訳
・ランケ『政治問答 他一篇』相原信作訳
・ランケ『世界史概観』鈴木成高、相原信作訳

といった本も挙げることができる。

こうしたドイツブームとも呼べる状況の中で、高安国世訳のリルケ『ロダン』も刊行されたのであった。(終わり)

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2014年12月15日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その5)

その後も、散文を書いたり、歌の清書をしたり、選歌をしたり、人と会ったりして、8月の後半も過ぎて行く。夏も終ってしまうというのに、一体いつになったら『ロダン』を読むのだろうか。

茂吉が箱根を去って東京に帰るのは、9月12日のこと。
その2日前の9月10日に、ようやく茂吉は『ロダン』を読んでいる。

○終日雨ニテ籠居。ギリシヤ精神ノ様相、リルケノロダン、セキスピアトドイツ(グンドルフ)等ヲ読ム

ありがとう茂吉!ついに読んでくれたね、という感じだ。
ここに挙げられている3冊は、いずれも岩波文庫の本である。

・ブチャー『ギリシア精神の様相』田中秀央、和辻哲郎、寿岳文章訳 昭和15年
・リルケ『ロダン』高安国世訳 昭和16年
・グンドルフ『シェイクスピアと独逸精神 上下』竹内敏雄訳 昭和16年

グンドルフはドイツの文学史家。
この頃、ドイツ文学関係の本の出版は非常に多い。

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2014年12月14日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その4)

斎藤茂吉の『遠遊』『遍歴』収録の歌の整理は、途中「アララギ」の選歌などを挟みつつ、最終的に8月9日まで続く。『遠遊』の後記には

帰朝後実生活上の種々の事情のために、長らく放置してゐたのであつたが、「つゆじも」を編輯したから、ついでにこの「遠遊」もいそいで編輯したのであつた。

と記されている。
その後記には「昭和十五年夏記」とあるのだが、これはどういうことだろう。日記を見ると『遠遊』の編集をしているのは昭和16年の夏である。『斎藤茂吉全集』によれば

・『つゆじも』 「長崎詠草」といふ手帳は昭和十五年夏に箱根強羅に籠居して整理されたもので、歌集の原稿はこの手帳から昭和十六年夏に浄書されたのである。
・『遠遊』 昭和十六年夏に編輯を終へた。
・『遍歴』 昭和十六年夏に編輯を終へた。

となっている。やはり『遠遊』『遍歴』の編集は昭和16年の夏のことで、「昭和十五年夏記」は何らかの誤りかもしれない。

『つゆじも』に収められる歌の清書は8月11日から始まっている。

温泉岳療養中ノ歌(昨年夏整理)ヲ清書ス(8月11日)
長崎ノ歌清書、大正七、八年終ル、十年ニ入ル(8月12日)
大正十年長崎ヲ去ルヨリ清書、大正十年終ル(8月13日)


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2014年12月13日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その3)

6月17日に「今月末には行ってしまおう」と言っていた茂吉であるが、実際に箱根強羅の山荘に行ったのは7月2日のことである。日記には

○午前四時四十分出発、箱根ニムカフ。荷物重キタメニ自動車途中ニテパンクセリ。八時半強羅ニ着。

とある。なかなか大変な道のりだったようだ。

夜ハ左千夫小説、「隣ノ嫁」ヲ読ミハジム(7月3日)
「野菊ノ墓」ヨリ解説ハジム(7月5日)
「真面目ナ妻」解説、「去年」解説ヲシテ日ガ暮レタ(7月8日)
「分家」後篇ヲ読ム(7月10日)

など、箱根に行く前から続いていた伊藤左千夫関連の仕事が続く。これは昭和17年に『伊藤左千夫』として出版されるものだ。その後、

維也納到着ヨリ帳面ノ未完成歌ヲ整理シハジム(7月11日)
ドナウ下航、トブダペストノ雑歌ヲ少シク整理ス(7月15日)
帳面維也納大正十二年度。ソノ一部ヲ除イテ大体スンダ(7月19日)

など、後に歌集『遠遊』『遍歴』に収められる歌の整理が続く。

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2014年12月12日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その2)

以前『高安国世の手紙』にも書いた通り、岩波文庫のリルケ『ロダン』は高安国世が初めて出版した本である。奥付は昭和16年6月10日。解説の最後の部分には

本訳書の出るに当つては恩師成瀬無極先生並びに斎藤茂吉先生にいろいろお世話に与かり、また土屋文明先生からお励ましを頂いた。

と書かれている。
刊行後、すぐに茂吉にも謹呈されたようで、『斎藤茂吉全集』には次のような葉書が収められている。日付は昭和16年6月15日。

拝啓先般は失礼○ロダンいよゝゝ発行大に慶賀申上候一本御恵送大謝奉り候、原本も書架にありしゆゑ、照応して拝読楽しみにいた(ママ)申上候○御母上様の歌集もこの新秋には出来申すべく、頓首

「御母上様」とあるのは高安の母、高安やす子のこと。やす子の第2歌集『樹下』が刊行されたのは昭和16年11月25日。アララギ叢書第95編として、茂吉が序文を書いている。

前回の『茂吉随聞』で見た通り、茂吉は高安国世訳『ロダン』を箱根の山荘に持って行って、そこで読もうと考えていた。その予定は実際にはどうなったのか見ていこう。

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2014年12月11日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その1)

佐藤佐太郎の『茂吉随聞』を読んでいると、昭和16年6月17日にこんな箇所があった。

(…)それから箱根行きの予定をいって、「今月末には行ってしまおう。また都合で出て来てもいい。むこうにいれば、半日寝ても半日は勉強できるし、それに朝が早いから半日プラス朝だ。左千夫の小説はどうしても読んでしまわなくては」などと言われた。
 先生は書棚から高安国世氏訳の『ロダン』(岩波文庫)とその原書とをとって、「原文も出て来た。帰るちょっとまえに買ってカバンにおしこんであったんだ。原文と対照して読んでこようと思っている」と、挿図を一枚一枚見ながら「ここまで来るのに(バルザック像)、ずいぶんかかった。まえはすべすべしたのを作っていたのが変化してこうなったんだ。毛唐はおもしろいよ。なんか常識的なことを言っていながら、ひょっと常識をはずしている」と言われた。

茂吉の言動がありありと伝わってくる。
「帰るちょっとまえに」は、ヨーロッパ留学から日本に帰る直前にということ。リルケ『ロダン』の原書を買っているのだから、茂吉はやはり一流の知識人である。

茂吉がヨーロッパで購入して日本へ送った医学書などは病院の火事で焼けてしまった。『ロダン』は「カバンにおしこんであった」ので、無事に持ち帰れたわけだ。

posted by 松村正直 at 12:36| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月09日

小池光と茂吉

小池光の「球根」には、茂吉の歌を踏まえた歌がいくつかある。

板の間に横たはりつつ「ぼろきれかなにかの如く」なりたる猫は

 街上に轢(ひ)かれし猫はぼろ切(きれ)か何かのごとく平(ひら)たくなりぬ
      斎藤茂吉『白桃』

わが知らぬ南蛮啄木(けら)といふ鳥を茂吉うたへり四十九歳

 くれなゐの嘴(はし)もつゆゑにこの鳥を南蛮(なんばん)啄木(けら)と山びと
 云へり  斎藤茂吉『たかはら』

紙をきる鋏に鼻毛きりたればまつしろき毛がまじりてゐたり

 München(ミュンヘン)にわが居りしとき夜(よる)ふけて陰(ほと)の白毛
 (しらげ)を切りて棄てにき  斎藤茂吉『ともしび』

こんなふうに読み比べてみるのも、なかなか楽しい。

posted by 松村正直 at 21:55| Comment(1) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月08日

角川「短歌」2014年12月号

小池光の巻頭作品「球根」31首が良かった。

カーテンより朝光(あさかげ)の射す床上に猫のいのちはをはりてゐたり
なきがらの猫の首よりはづしたり金の鈴つきし赤き首輪を
すぎこしをおもへばあはれむすめ二人の婚礼があり妻の死があり
猫の骨壺妻の遺影とならびをり秋のつめたき雨は降りつつ
死のきはの猫が噛みたる指の傷四十日経てあはれなほりぬ

最初は「猫が死んだくらいで、なんて大袈裟な」と思ったのだが、読み進めていくうちに15年という歳月や奥さんの死のことが重なってきて、じわじわと胸に沁みた。

posted by 松村正直 at 23:27| Comment(0) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週末の出来事など

6日(土)は14:00から、なんば市民学習センターにて、クロストーク短歌「虚構の楽しさ 虚構の怖さ」。吉川宏志さんと二人で3時間喋る。最初は3時間も持つのかなと思っていたのだが、聴衆の皆さんの反応も良く、話し始めるとけっこう話せるものなのであった。

前半は、俵万智さんの「サラダ記念日」の一首や石井僚一さんの「父親のような雨に打たれて」から始めて、平井弘、寺山修司といった定番から、永田和宏「首夏物語」、高野公彦「楕円思想」などの連作について、話をする。

後半は一転して、吉川さんの「火柱」や僕の「人魚の肉」など、自分たちの虚構の歌についての話。種明かし的な話は苦手なのだが、これもけっこう楽しかった。普段は言わない(言えない)ようなことまで言ってしまった。たまには、こういうのも良いのかもしれない。

7日(日)は13:00から、アークホテル京都にて、現代歌人集会秋季大会。前回の春季大会に続いて総合司会を務める。

最初に大辻隆弘さんの基調講演「水原紫苑再読」。水原さんの9冊の歌集から23首の歌を引いて、一首一首丁寧に読みながら、初期から中期、そして後期(?)へと作品の変遷や魅力をわかりやすく話していただいた。

続いて水原紫苑さんの公開インタビュー「桜は本当に美しいのか」。インタビューとあるけれど、実際は林和清さんとの対談といった感じである。古典に造詣の深い2人のやり取りはテンポも良く、笑いもあり、話もよく噛み合って、実に面白く刺激的であった。プロの業と呼ぶべきか。

その後、現代歌人集会賞の授与式と総会、懇親会。
自分ももっともっと頑張らなくてはと思った2日間であった。

posted by 松村正直 at 09:06| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月04日

佐藤佐太郎短歌賞授賞式など

昨日は18:00から中野サンプラザで、第1回佐藤佐太郎短歌賞の授賞式。
選考委員の方や出席者の方から、歌集や歌につて多くのスピーチをいただき、たいへんありがたかった。初めてお会いする方や初めて言葉を交わす方も多く、楽しい一日であった。

受賞挨拶で言い忘れたのだが、版元の六花書林(りっかしょりん)さんには非常にお世話になった。これで評論集『短歌は記憶する』、評伝『高安国世の手紙』、歌集『午前3時を過ぎて』と3冊続けて六花書林で出したことになる。いずれも、まだ在庫があるので、ご注文は六花書林 http://rikkasyorin.com/ または松村まで。

中西亮太さんがブログ「和爾、ネコ、ウタ」で4回にわたって『午前3時を過ぎて』について注釈ノートを書いて下さった(11月23、25、27、30日)。「塔」2014年8月号にお書きいただいた書評の続きということらしい。ありがとうございます。

posted by 松村正直 at 22:34| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月03日

現代歌人集会秋季大会

12月7日(日)に、京都で現代歌人集会の秋季大会が開催されます。
今回は水原紫苑さんをお招きして、公開インタビューを行います。
皆さん、どうぞご参加下さい。講演会は当日参加OKです。

日時 平成26年12月7日(日) 午後1時開会(開場12時)
場所 アークホテル京都(TEL075−812−1111)

司会 松村正直理事

プログラム
 基調講演 大辻隆弘理事長

 公開インタビュー「桜は本当に美しいのか」
  ゲスト 水原紫苑氏
  聞き手 林和清副理事長

 第40回現代歌人集会賞授与式
  ・『青昏抄』楠誓英氏
  ・『日時計』沙羅みなみ氏
  選考経過報告 真中朋久理事

 総会 午後3時45分〜
  事業報告 永田淳理事
  会計報告 前田康子理事
  新入会員承認 島田幸典理事
  閉会の辞 中津昌子理事

 懇親会 午後4時30分〜6時30分
  (11月30日までにお申込み、キャンセル不可)

参加費 講演会1500円、懇親会6000円(当日お支払い下さい)

お申込 〒603-8045 京都市北区上賀茂豊田町40-1 Fax075-705-2839
    E-mail : seijisya@osk3.3web.ne.jp 永田淳まで

詳しくは→現代歌人集会秋季大会チラシ

posted by 松村正直 at 11:29| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月01日

さらに『佐太郎秀歌私見』のつづき

難癖を付けるようで申し訳ないのだが、読んでいろいろと言いたくなるのは良い本の証だと思っているので、もう少しだけ。

いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚

第7歌集『群丘』のこの歌について、尾崎は

「魚」の題で、「(下関水族館、江ノ島水族館)」の詞書が添えてあるが、この一首はおそらく江ノ島水族館であろう。

と記している。けれども、なぜ「おそらく江ノ島水族館であろう」と推定しているのか、その根拠は記されていない。

歌集の中では「魚(下関水族館、江ノ島水族館)」と題して5首が掲載されている。別々の水族館で詠んだ歌を「魚」という観点でまとめているところが、佐太郎ならではのユニークなところだ。

この歌については、実は佐太郎自身が随筆集『枇杷の花』の中で触れている。

昭和三十一年に下関の水族館を見、それから江ノ島の水族館を見た。両方の材料をもとにして「魚」の歌をいくつか作った。そのなかに「いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚」という一首がある。これは下関で見た鯛が素因になって出来た歌である。

どちらの水族館であっても歌の鑑賞に影響はないのだが、一応、実証的な面から「下関」であることを指摘しておきたい。

posted by 松村正直 at 15:34| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする