2014年07月31日

『海号の歌』の続き

歌集を読んでいると、歌からいろいろと連想が広がっていくことがある。

ひかりたつ崖を飛びたる白ありきあはれ落ちずに空(くう)をただよふ

例えば、この歌を読んで思い出すのは、石垣りんの「崖」という詩。

(前略)
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)

それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。

玉砕の島であるサイパンの崖から飛び降りた女たちの姿だ。

十六歳の少女「むかしのわたしは」とうつむき語る秋の水辺に

この歌からは、今話題になっている佐世保の少女殺害事件のことを思ったりする。

そういう連想は短歌とは直接関係ないのであるが、純粋に作品を読むだけではなく、そういうことも含めて読んで、味わっていることが多い。


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2014年07月30日

伊藤一彦歌集 『海号の歌』

1990年から95年の作品583首を収めた第6歌集。
タイトルの中の「海号」は作者が自転車に付けた名前であり、また地球のことも意味している。

1ページ4首組で193ページ。
けっこうなボリュームであるが、途中で飽きるようなことはなく、むしろ充実感が伝わってくる。とにかく付箋がたくさん付く歌集だ。

靴持たぬゆゑに歩けぬ向日葵はぐんぐん空へのぼるほかなし
言ひよどみ言はざるままに終ること多くなりたる父の微笑よ
母は男と家出でゆきし少年の日がな一日掌を洗ひゐる
愛しつつ棲むふるさとやあやまちてこぼしし蜜の卓上に輝(て)る
放たれし火のいきほひて近づけば嫁菜は嫁菜のことばに叫ぶ
紫陽花の花口にせしをさなごの夜はあぢさゐの子となり睡る
薔薇園に声をかぎりに泣きてゐるをさなごのためしづかなれ世は
遠つひと呼ぶか虚空にもの言へる赤トラクターの上の老人
たましひの脱(ぬ)けてはをらぬ蛇の衣(きぬ)しづかにそよぐ朝日射すまへ
あらし過ぎ三日の後を川上ゆ大青竹の泳ぎ来たりぬ
晩(く)れてゆく日本の秋に息絶えしケニア生れの老いたる麒麟
雛の日をはちじふの母の取り出でて飾りし人形七十五歳なり

宮崎の風土や学校のカウンセラーという仕事に関する歌が多くある。
40代から50代にかけての作者の充実ぶりと人生的な苦みが、どの歌からも感じられる。

1首目は初二句の強引な理由付けが面白い。
2首目は年老いた父の姿。「微笑」が何ともいえず寂しい。
3首目はカウンセラーとして接する少年を詠んだ歌だろう。
6首目は「あぢさゐの子となり」がいい。お伽噺のような味わい。
9首目は脱皮したばかりの抜け殻。身体は抜けても魂がまだ残っている。
11首目は「く」「く」「き」「き」「け」「き」というK音の響きが良い。
12首目はお母さんが5歳の時に買った雛人形なのだろう。人形も年を取るのだ。

1995年9月30日、雁書館、2800円。

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2014年07月29日

井上博道さん

昨日の朝日新聞(大阪本社版)夕刊に、写真家の故・井上博通さんの話が大きく載っていた。井上さんは2年前に亡くなったが、奥さんが自宅兼写真事務所をギャラリーに改装して、作品を公開しているらしい。

記事の中に、こんな文章がある。

井上さんは大学卒業後、産経新聞社にカメラマンとして入り、司馬さん発案の企画「美の脇役」につける写真を担当。見過ごされがちな細部を紹介する狙いで、四天王像に踏まれる邪鬼や黒書院のふすまの引き手などに宿る美を引き出した。

この「美の脇役」は、産経新聞社編・井上博道写真で本になっている。1961年に淡交社から単行本が出て、2005年には光文社の知恵の森文庫にも入った。

井上の写真とともに、奈良本辰也、山口誓子、重森三玲、前川佐美雄、岡部伊都子など、関西にゆかりのある人々が毎回文章を書いている。その中に「京都大助教授・高安国世」という名前もある。連載26回目の「二条城東大手門の鋲」という回だ。

ここに見る画面は、だから城という実用的価値をはなれて、もっぱら直線と円との組み合わせから、かもされる一種の美を追究したものと見なければならない。そして無数の小さなびょうと似かよいながら、突然変異のように見事に成熟したこの一個の乳房に眼はすいつけられてしまう。

当時46歳の高安の書いた文章である。


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2014年07月28日

鳥塚亮著 『ローカル線で地域を元気にする方法』


副題は「いすみ鉄道公募社長の昭和流ビジネス論」。
「いすみ鉄道 社長ブログ」の記事を再構成し加筆したもの。

ブリティッシュ・エアウェイズ勤務を経て、2009年に千葉県のローカル私鉄「いすみ鉄道」の公募社長となった著者が語るビジネス論。

ところどころカチンと来るような物言いがあるのに、不思議と引き込まれてしまう。カチンと来る部分もまた、読者を引きつけるための著者の挑発なのだろう。「乗らなくてもよいです」「来ていただいても何もありません」といった、いすみ鉄道のキャッチフレーズも、そうした著者のしたたかな戦略なのだ。

今、過去の廃止反対運動を振り返ってみると、事実として、「乗って残そう運動」をやった結果、存続したローカル線は皆無に等しい状況です。
ローカル線というのは地元の人が足として使うためのものだと長い間言われてきて、過疎化や少子化、マイカーへの移行で結局ダメになってきました。だから私はまず観光路線化して乗車人員を増やし、テレビや雑誌で知ってもらうことで(…)
かつて、昭和の時代はローカル線といえばイコール田舎であり、ダサくてどうしようもないような「お荷物」というイメージがありましたが、今、ローカル線は観光のツールであり、お客様を地元へ呼ぶアイテムになっていると言えるようになりました。

発想を転換し、別の枠組みで捉え直すことによって、新たな価値や需要が生まれてくる。鉄道モノとして買った本であったのだが、確かにビジネス書としても(ところどころ反発を覚えつつも)役立つ内容だと思った。

2013年7月10日、晶文社、1500円。

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2014年07月27日

『青昏抄』の続き

阪神淡路大震災で兄を亡くしたことは、この歌集に静かに影を落としている。

夕暮れの雲の映れる机には兄の写真が伏せられたまま
               楠誓英『青昏抄』

部屋の机に置かれている兄の写真。おそらく快活な笑顔の写真なのだろう。毎日見るのが忍びなくて、伏せたままにしてしまう。そこに、かえって亡き人を思う気持ちの深さが表われている。

ひそまりて在り経(ふ)る妻がいつよりか亡き子の写真裏返しおく
               高安国世『Vorfruhling』

楠の歌を読んで思い出したのは、高安国世のこの一首。3歳の長男を疫痢で亡くした後の歌である。子を亡くした妻の心の痛みとそれを思いやる作者の思いがよく伝わってくる。

楠の歌に出てくる写真を伏せたのも、本人なのか、あるいは母親や父親なのか。それによっても、歌の印象が変ってくる気がする。

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2014年07月25日

楠誓英歌集 『青昏抄』

1983年生まれで「アララギ派」所属の作者の第1歌集。

丸まつた靴下入りの上靴がプールサイドにならんでゐたり
「コロもいつか死ぬんでせう」と吾が犬の頭撫でつつ言ひたる少女
「だまつてゐるとなんだかコワイ」と言はれたる私の顔がドアノブの上
金魚鉢をのぞく少女の眼球がガラス一杯に拡がりてゆく
遮断機の向かうの夕陽にじわじわと足が生えきて吾が父となる
腕と同じ数だけ腋窩はあるだらう千手観音に向かひゐるとき
カサカサと燕の死骸あらはれぬ夏休み明けの教室掃けば
池の底に深く沈める切り株の浮かばぬはうがよいと思へり
足音が足からずれて鳴り始む夜の校舎を一人ゆくとき
日の落ちて影のみの山に向かひ立ちこの世にゐない君を思へり

昨年「第1回現代短歌社賞」を受賞した300首をまとめたもの。
夕暮れや水のイメージが全体を包んでおり、「夢」「影」という言葉が頻出する。この世界とは別のもう一つの世界が、作者の背後には常に貼り付いているようだ。

1首目はよく見かける光景だが、あらためて歌に詠まれると面白い。
4首目は、丸い金魚鉢がレンズになって少女の目を大きく見せているところ。
5首目は「足が生えきて」がいい。徐々に焦点が合っていく感じ。
7首目、校舎の中に入り込んで出られなくなってしまったのだろうか。
8首目は、実景と忘れたい記憶のようなものを重ね合わせている歌。

作者は短歌だけでなく、茶道や書道もされているらしい。
これからどのように作品の幅を広げていくか、非常に楽しみである。

2014年7月2日、現代短歌社、2000円。

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2014年07月24日

佐川光晴著 『牛を屠る』


2009年に解放出版社から刊行された本に加筆修正し、文庫化したもの。
巻末に平松洋子との対談「働くことの意味、そして輝かしさ」を収録。

小説家としてデビューする前に、「大宮市営と畜場」で十年半にわたって牛の屠殺を行ってきた著者が、その仕事の内容や同僚たちの姿を描いた自伝的なドキュメンタリー。

「ここは、おめえみたいなヤツの来るところじゃねえ」と怒鳴りつけられたスタートから、やがて一人前となり、作業をリードする立場になるまでの経過が描かれている。

「ノッキングペン」「放血場」「面皮剥き」「皮剥き」「尻剥き」「胸剥き」「サイドプーラ―」「胸割」といった仕事の様子が詳細に記されており、その生々しさと迫力に圧倒される。特に、ナイフの研ぎ方や使い方に習熟していく場面は、読んでいてその気持ち良さが伝わってくるほどだ。

朧気に感じていたのは、これは道具がした動きなのだということだった。青竜刀のように反り身になった皮剥き用の変形ナイフは、いま私がした動きをするように形づくられているのだ。その形は幾百幾千もの職人たちの仕事の積み重ねによって生み出されたものであり、誰もが同じ軌跡を描くために努力を重ねてきたのだ。

2000年に新潮新人賞を受賞したデビュー作「生活の設計」も、ぜひ読んでみたい。

2014年7月12日、双葉文庫、528円。

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2014年07月23日

『サンカの民と被差別の世界』の続き

無籍、定住しない、定職に就かないという願望は、いつの時代も人間のなかにはあるのだろう。そういう願望と、三角寛の本がいまだに読まれたり売れたりすることとは、決して無関係ではないと思う。
家も家族も持たず、定職にもつかない人生。好きなときに好きな場所へいく人生。ほとんどの人は、車寅次郎こと「フーテンの寅さん」に“自由人”のすがたを見いだして、一種の羨望を抱いているのだろう。

こういう文章を読むと、何を気楽なことを言ってるんだかと思う一方で、今でも胸の疼くような思いがする。そういう暮らしに憧れていた日々が、確かに私にもあった。

遠き日の三つの誓い「結婚しない・就職しない・定住しない」
             『駅へ』


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2014年07月22日

五木寛之著 『サンカの民と被差別の世界』


「隠された日本」シリーズの第1弾。「中国・関東」篇。
2002年に講談社より刊行された『日本人のこころ4』を文庫化したもの。

瀬戸内海の「家船」で暮らす海の漂泊民、「サンカ」と呼ばれる山の漂泊民、エタ・非人と呼ばれた被差別の民。平地に定住して農業に従事する人とは異なる暮らしをしてきた人々について論じている。

沖浦和光(『瀬戸内の民俗誌』『幻の漂泊民・サンカ』)や塩見鮮一郎(『浅草弾左衛門』)の話を受けて書かれている部分が多いのだが、自ら現地を訪ねて取材し思索を深めているところに共感した。

日本の歴史をふり返ってみて、私たちは合戦といえば、関ケ原や大坂の陣などをすぐに思い浮かべる。平野部の合戦、陸上の戦いしか頭に思い描いていなかった気がする。しかし、水上や海上での合戦というものが日本の歴史を動かしてきた、という面もある。
卑賤視したり、差別するということにも、もうひとつ別の面がある。その背景には情念としての畏敬の念があり、ひょっとすると憧憬さえあったかもしれないとも感じる。「聖」と「俗」が、「聖」と「穢」が、「聖」と「賤」が重なりあう。
転向する前の柳田民俗学、柳宗悦らの民芸運動、北原白秋らの新民謡運動。これらはすべて同じ根を持つものではないか。いずれも、大逆事件に発する知識人の挫折と転戦のひとつの歴史だ、と私には思える。

このシリーズは、最後まで読んでいきたい。

2014年4月10日、ちくま文庫、780円。
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2014年07月21日

扇風機

毎年エアコンを使わない生活をしているので、夏は扇風機だけが頼りである。
2台の扇風機を3部屋で使っていたのだが、人が移動するたびに扇風機も持ってきたりして、なかなか面倒であった。

そこで、思い切ってもう1台買おう!ということになり、早速購入。
お値段980円。
よく見ると、3台とも同じメーカー(YAMAZEN)の扇風機だ。

これで、1部屋=1台の快適な生活が始まる。

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2014年07月19日

現代歌人集会春季大会

今日は13:00から神戸市教育会館にて、現代歌人集会の春季大会。
神戸に行くのは久しぶり。
白いサルスベリの並木があって、きれいな花を咲かせている。

会場は6階の大ホール。
受付横の窓から見える建物の屋上に、金ピカの布袋さんらしき像が立っているのが見える。とても気になるのだが、今日は見に行くわけにもいかない。

大会テーマが「俳句―近くて遠い詩型」ということもあって、歌人だけでなく、俳人や詩人の方もいらっしゃって、参加者は約140名。レジュメのコピーが足りなくなるほどの盛況であった。

17:00に終了。
群愛飯店という中華料理屋で夕食を食べて帰る。
楽しい一日だった。


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2014年07月18日

「短歌往来」2014年8月号

藤島秀憲の作品月評がおもしろい。

総合誌のこうした欄は、たいてい作品を褒めることに終始することが多いのだが、藤島は作品の問題点もきちんと指摘している。

7月号では小高賢を詠んだ挽歌について、「今詠み、発表する必要が、どれだけあるのか?」という問題を提起していたが、8月号でも、例えば永田和宏の作品に出てくる「あなた」について、はっきりと疑問を呈している。

こんなふうに正々堂々と誌面で自分の意見を述べるのは、実は意外にできないものなのだ。意見に対する賛否は別にして、その姿勢に深く共感する。


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2014年07月17日

今野寿美歌集 『さくらのゆゑ』

第10歌集。

風邪がぬけるやうに終はりの数行を収めると言ふ現代詩人
丹沢の杉の林に十枚の羽のほかには遺さぬ死あり
ツガルさんは津軽からきて野毛山にふたこぶ休める三十五歳
子のズボンの裾のほつれをかがりゐる静かな時間がまだわれにある
ひとたびは冷えねば咲かぬ桜ゆゑ北からほころびそむる沖縄
横顔でなければならぬ瞑想の詩人もレンズの中の野鳥も
速報ののちおもむろに揺れ始め長く揺れたり為すなくて在り
顔あげて川と気づけり明るさは思はぬ方よりきてしづかなり
人肌を伝ふるやうに橋守を置けり鉄道橋梁史のなか
白耳義(ベルギー)も土耳古(トルコ)も耳をもつ国と明治日本は耳そばだてる

2首目は鳥の死骸(の痕跡)を詠んだもの。
3首目は「ふたこぶ」とあるのでラクダなのだろう。動物園の動物のネーミングはこんな感じ。
5首目、桜前線と言えば当り前のように南から北へと思うが、沖縄では反対なのだ。
8首目は電車などに乗っている場面だろうか。初・二句がうまい。
9首目は餘部鉄橋を詠んだ歌。鉄道橋梁という構造物を維持するために、かつては「橋守」がいたのである。灯台守のようなイメージが浮かぶ。

今回の歌集は、何か題材に基づいて詠まれた連作が多い。
それは、人名の多さにも表われている。

葛原妙子、鈴木牧之、(山崎)方代、(釈)迢空、油屋熊八、(与謝野)鉄幹、窪田通治(空穂)、山中智恵子、野田弘志、青木雨彦、キム・ヨナ、浅田真央、堀辰雄、バラク・オバマ、ベルディ、バレンボイム、河野裕子、(土屋)文明、(山村)暮鳥、坂本龍一、藤原龍一郎、澁澤龍彦、芥川竜之介、竹山広、(斎藤)茂吉、和嶋(勝利)、(在原)業平、プーチン、(石川)啄木、(萩原)朔太郎、(北原)白秋、(片柳)草生、(正岡)子規、陸羯南、(樋口)一葉、樹木希林、(与謝野)晶子、滝本賢太郎、カラシニコフ

こうした部分をどのように評価するかが、一つの問題となるだろう。

2014年7月26日、砂子屋書房、3000円。

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2014年07月16日

池内紀著 『ニッポン周遊記』


副題は「町の見つけ方・歩き方・つくり方」。

2004年から「観光文化」に連載されている「あの町この町」の中から30篇を収録。全国各地の町を訪ね歩いたエッセイである。

旅好きで、旅のベテランの池内さんならではの観察眼が随所に発揮されている。文章のテンポも良くて、読んでいて楽しい。

旅行先を選ぶとき、「元支藩」というのを一つのヒントにしている。小さく、まとまりをもち、歴史がよく残っている。そんな味わい深い町が多いからだ。
(青森県・黒石市)
江戸末期から明治にかけて、婿養子が二代つづいている。わが国固有の養子制度が本家の屋台骨を支える大きな力になったことがうかがえるのだ。息子だと、手のつけられないボンクラが跡継ぎになりかねないが、婿養子なら、近郊近在のとびきり優れた青年に白羽の矢を立てていい。
(長野県・須坂市)
訪ねるときはいつも船である。船に乗らなくては島影が見えないし、島々が一つまた一つとあらわれ、ついでゆっくりうしろに遠去かることもない。そもそも船で渡らなくては、島は島ではないのである。
(広島県・尾道市因島土生町)

山椒魚をから揚げ、塩焼き、天ぷらなどにして食べるということも、初めて知った。一度食べてみたいような、食べてみたくないような。

2014年7月8日、青土社、2400円。

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2014年07月14日

蒔田さくら子歌集 『森見ゆる窓』

昭和40年に短歌新聞社より刊行された第2歌集の文庫化。
26歳で第1歌集『秋の椅子』を出して、この歌集が10年ぶりの第2歌集であった。新たに武下奈々子の解説が付いている。

雛芥子の花あかしあかし芥子畑にめまふほど疼くは若さかもしれぬ
イヤリング揺れつつ耳朶に触れて居り坂多き町にバスは入りて
育ち来し家の雰囲気それぞれに持てるさびしさを夫も知るらし
整然と足場組まれし工事場の深夜どこよりか水がしたたる
燿ひて青葉ゆたけき逢ひなれど人を容(い)るるは易くはあらず
命綱ひとりの男に握らせてためらはず海に入(い)りゆくか海女は
耳の凹凸きはやかに浮かぶ夜の車内 耳あることが不意に恥かし
女の首蛇のごとくに自在ならば男の嘘の表情も見えむ
たをやかにあふられて身のよろめけば歓びに似る春の突風
咲き初めていたましきまで花白き辛夷よ今日は汚(よご)れず了へよ

若々しい青春の歌が多い。自らの若さを誇るような、あるいは持て余すような歌。さらには相手との距離をどう取れば良いのか、どのように心を許せばよいのか迷う歌が目に付く。

1首目は巻頭の「芥子畑」にある一首。真赤に咲き乱れる雛芥子を前にして、圧倒されつつ心惹かれていく様子が描かれている。
2首目はイヤリングが耳に触れるのを感じている歌。自意識の強さが表れている。
5首目の「人を容るる」は、この歌集の一つのテーマともいうべき言葉。
7首目は名歌と言っていいだろう。「耳の凹凸」にかすかなエロスがある。
10首目は「汚れず」を「よごれず」と読ませているが、同時に「けがれず」の意味も浮かんでくる。「今日は」は「せめて今日一日は」といった思いであろう。

2014年3月10日、現代短歌社、700円。

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2014年07月13日

映画「祝の島」

監督:纐纈あや プロデューサー:本橋成一
タイトルは「ほうりのしま」

山口県熊毛郡上関町の祝島(いわいしま)で30年近くにわたって原子力発電所建設に反対し続けている島民たちを描いたドキュメンタリー映画。2010年公開。

海や山などの島の自然とそこに暮らす人々の生活が丁寧に描かれている。棚田での米作り、鯛の一本釣り、日用雑貨店での買い物、船のペンキの塗り直し、小学校の入学式、お墓参り、炬燵でテレビを見ながらの年越しなど。島の四季の移り変わりは美しく、人々の暮らしぶりはどこか懐かしさを感じさせる。

映画では、町議会でのやり取り、海上での抗議活動、島内をめぐるデモなど、原発建設反対の運動も随所に描かれているが、それは前面には出てこない。声高に主張が述べられることもない。けれども、島の日常を描くことを通じて、代々島に住み続けてきた人々の土地や祖先や自然に対する思い、原発に反対する根拠といったものが、じんわりと観る者の胸に伝わってくる。

「原発は何もかも悔しいねえ。人間どうしの争いごとが、いちばん悔しいかな。友達を引き裂いて、親戚を引き裂いた」という島民の言葉が重い。

すぐれたドキュメンタリーである。

立誠シネマ、105分。

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2014年07月12日

「歌壇」2014年8月号

篠弘さんの連載「戦争と歌人たち」の第11回―「人民短歌」の獄中詠(二)を読んで驚く。日中戦争時の非合法学生組織「京大ケルン」のメンバーであった布施杜生の短歌が載っているのだ。

布施が短歌を作っていたという事実を初めて知った。

永島孝雄(昭和16年獄死)・布施杜生(昭和19年獄死)らは、野間宏ともつながりがあり、野間の小説『暗い絵』の登場人物のモデルとなっている。

高安国世は「京大ケルン」と直接の関わりはなかったが、野間宏、内田義彦、下村正夫など高安の友人たちはみな、後に治安維持法違反で逮捕されており、高安がそうした人脈の中にいたことは間違いない。

布施杜生は大正3年生まれ、昭和11年京大哲学科入学。
高安国世は大正2年生まれ、昭和9年京大独文科入学。
この2人の間に何か接点はあったのだろうか。


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2014年07月10日

一志治夫著 『「ななつ星」物語』


副題は「めぐり逢う旅と「豪華列車」誕生の秘話」。

昨年10月に運行を始めた「ななつ星 in 九州」。
3泊4日、または1泊2日の日程で九州をめぐるクルーズトレインだ。

この列車のアイデアが出されてから実現に至るまでの様々な苦労と、それに携わった人々を描いたノンフィクション。中心となるのは、唐池恒二(JR九州社長)と水戸岡鋭治(デザイナー)の二人である。

唐池はかなりワンマンで実行力に富む社長であり、水戸岡はデザインで地域や人々の生き方まで変えようと考えるデザイナーである。この本には、そんな個性的な二人の考えがいくつも紹介されている。

唐池哲学のひとつに「手間こそ感動」がある。今回の「ななつ星」においては、とりわけ「手間」を徹頭徹尾追い求めた。
犠牲をともなわないものに感動なんてなく、誰かがとんでもない犠牲をはらっているからこそ感動するのだ、と水戸岡は思う。

こうした考えは嫌いではないのだけれど、本書が全体として「プロジェクトX」的な成功譚になっているところに、若干の物足りなさを覚えた。半年にわたる密着取材のためだろうか、著者と取材対象の距離が少し近過ぎるように感じる。

プロジェクトの光の部分だけでなく、影の部分ももっと描いてほしい。それは、別に「ななつ星」ブームに水を差すことにはならないと思う。

2014年4月26日、小学館、1400円。

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2014年07月09日

調べもの

高安国世関係の新しい資料が手に入った。

いくつか新しくわかったことがあるので、これはブログではなくて
きちんと評論に書こう。

調べること自体に価値があるのではない。このワクワク感を何とか
読む人に伝えられたらと思う。

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2014年07月08日

坂井修一歌集 『亀のピカソ』


副題は「短歌日記2013」。
ふらんす堂HPの「短歌日記」に1年間にわたって連載された作品365首をまとめた第9歌集。

前歌集『縄文の森、弥生の花』もそうだったが、情報工学と短歌という二足の草鞋の折り合いをどうつけるかが、大きなテーマになっている。

ほほゑみがどんどん深くなつてゆくピーター・ヒッグス八十三歳
水槽の亀のピカソがその主(ぬし)の進歩史観をしづかに笑ふ
ペーストを終へて次なるコピーへのつかの間だけがにんげんの息
失業者五五〇万はなにをせむ世界平和の後の世界に
うすうすは知れど語らぬことのはの葉脈いくつワインはひたす
ゆつくりと畳みのうへにふりつもる母たちの時間 われらにあらず

4首目には「雇用者数世界最大の事業者はアメリカ国防軍であり、三二〇万人。次が中国の人民解放軍で、二三〇万人。」という文が付いている。
自然(季節、植物、動物など)を詠んだ歌は、ほとんどない。

〈くりかへす体言止めの貧しさやわれのことばの梅雨といふべし〉と自ら詠んでいるように、365首中ざっと数えて150首くらい体言止めの歌があって、やや単調な印象を受ける。また、散文部分に「駒田明子」「木下杢太朗」などの誤植があるのも気になった。(正しくは駒田晶子、木下杢太郎)

「歌やめよ」三十三年われに言ひ喜連川さんの額ひろがる

この「喜連川さん」はおそらく第1歌集『ラビュリントスの日々』に詠まれた「喜連川博士」のことだろう。

生きいそぐ一語はげしきラボの椅子喜連川(きつれがは)博士われを非難す

「三十三年」という歳月の長さにしみじみとした気持ちになる。

2014年6月1日、ふらんす堂、2000円。

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2014年07月07日

甲南高校の九州旅行(その3)

だいぶ間が空いてしまった。続きを少し。

神戸から別府まで、甲南高校の生徒たちは船に乗っている。
高安国世の旅行記には

さて紫丸が大阪から入港し乗込むころ陸続として不参加者の見送り群来る。

とある。彼らが大阪からではなく神戸から乗船したのは、甲南高校が大阪よりも神戸に近いからだろう。大阪から神戸を経由して別府へ向う航路であったことがわかる。

この阪神―別府航路は1912年に開かれて以来、実に100年以上にわたる歴史を持っている。高安らが乗った昭和8年時点では、紫丸、屋嶋丸、紅丸(2代目)、緑丸、薫丸の5隻が就航し、昼夜両便、毎日運航という体制であった。

以前、私も月に一回、大分から京都へ来るのに、この航路(厳密には「大阪―別府」ではなく「神戸―西大分」航路)を使っていたことがある。金曜日の仕事を終えてそのまま西大分港から船に乗り、土曜日の朝に神戸港着。午後から京都の歌会に出て一泊し、日曜日の夕方の船で大分へと帰り、月曜日の朝はそのまま仕事へと行っていた。

 君の住む町の夜明けへ十二時間かけてフェリーで運ばれて行く 『駅へ』
 穏やかな夜の瀬戸内海を行く灯ともる所は人が住むなり
 海上を進むフェリーの浴室の湯船に深く身体は揺れる


posted by 松村正直 at 08:17| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

『午前3時を過ぎて』について

大松達知さんに「現代短歌新聞」7月号で書評をお書きいただきました。
「諦念、いや抱擁。」という題です。

また、俵万智さんに「週刊新潮」7月10日号の「新々句歌歳時記」で、
〈優越感のごときものあり知る者が知らざる者に伝えるときの〉の一首を
取り上げていただきました。

また、西巻真さんに「詩客」7月5日号の短歌時評で、大松さんの歌集と
一緒に取り上げていただきました。「生活の引き受け方」という題です。

ありがとうございます。

歌集『午前3時を過ぎて』(六花書林、2500円)のご注文は、
松村(masanao-m@m7.dion.ne.jp)または六花書林までお願いします。


posted by 松村正直 at 11:35| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月05日

東京へ

昨日は午前中に芦屋でカルチャー講座をした後、18:00からお茶の水の東京ガーデンパレスで行われた前川佐美雄賞・ながらみ書房出版賞の授賞式に参加した。

・第12回前川佐美雄賞 栗木京子歌集『水仙の章』
・第22回ながらみ書房出版賞 中川佐和子歌集『春の野に鏡を置けば』

2次会、3次会と行って、深夜1:30過ぎまで。
久しぶりの東京で、いろいろな人と話ができて楽しかった。

今日は、朝9:30から国立国会図書館へ行って調べものをする。
利用者カード1枚で、入館、退館、資料の閲覧、複写、プリントアウトなど、何でも出来てしまう優れたシステム。しかも職員の方がみな親切で、いろいろと教えてくれる。

「樺太日日新聞」「恵須取(えすとる)新聞」、雑誌「樺太」など、戦前の樺太で刊行された新聞や雑誌を一つ一つ調べていく。まさに宝の山という感じだ。ついつい関係のない記事まで読み耽ってしまう。

本館6階の食堂でお昼を食べて、15:00まで作業。
コピー22枚の収穫があった。
可能ならば一週間くらい泊まって連日通いたいところだが、そうも行かない。

19:00過ぎに帰宅。

posted by 松村正直 at 21:03| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月04日

高瀬毅著 『東京コンフィデンシャル』


副題は「いままで語られなかった、都市の光と影」。

武蔵野市で行われた不発弾処理、廃墟となった旧国立予防衛生研究所、巣鴨の地蔵通り商店街、羽根木プレーパーク、横田基地、モスク大塚、大田区のネジ工場・・・、東京の知られざるディープスポットをめぐるルポルタージュ。

分量的にはどの話も10ページ足らずで、とことん掘り下げるという感じではない。けれども、東京が抱えている歴史の記憶から最新の流行まで、ジャーナリストとしての嗅覚が十分に発揮された場所を選ばれている。

著者は後に自らの出身地長崎に関するノンフィクション『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』を書く。その出発点とも言うべき一冊である。

2003年7月30日、えい出版社、1500円。

posted by 松村正直 at 07:39| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月03日

『宗教都市と前衛都市』の続き

この本には蓮如のことや浄土真宗の信仰の話も出てくる。
それらを読んでいると、どこか短歌や結社の話に似ていることに気づく。

報恩講などの機会に、何日もかけてはるばる遠路から苦しい旅をして訪ねてくる門徒たちは、ふだんは孤立して寂しい生活をしているのだろう。しかし、ここに来れば、全国各地から集まってきた何千何万という「御同朋」、こころの兄弟たちに出会えるのだ。

この文章など、まるで短歌結社の全国大会のことを言っているようでもある。

蓮如はその講というものを、非常に強く奨励した。講の場では、身分の上下や老若男女のへだては一切なかった。そこでは自由に話をするがいい、ただし、信仰以外の話は慎め、と蓮如はいっている。

これも「講」→「歌会」、「信仰以外」→「短歌以外」としても、十分に当て嵌まりそうだ。


posted by 松村正直 at 22:21| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月01日

五木寛之著 『宗教都市と前衛都市』


「隠された日本」シリーズの第三弾。「大阪・京都」篇。
2001年に講談社より刊行された『日本人のこころ1』を文庫化したもの。

タイトルは、大阪は宗教都市であり、京都は前衛都市であるという意味である。

私たちが商業都市、東アジアのビジネスセンターと呼んでいる大阪には、じつは「宗教都市」という原風景があった。
京都は千二百年の歴史と伝統がある「古都」だ、と思っている人がほとんどだろう。しかし、私は「京都は前衛都市である」といいたい。

著者は大阪の基盤に、蓮如による大坂御坊(石山本願寺)の建立と寺内町の発展を見る。大阪のメインストリートである「御堂筋」が、外国で言えば「聖フランチェスコ通り」のような感じの宗教的な名前だという指摘など、普段は全く意識していないだけに実におもしろい。

内田樹も『聖地巡礼』の中で

大阪に元気がなくなったのは、本来この土地が持っていた霊的エネルギーを賦活する装置が機能しなくなったからだっていうのが僕の持論なんです。

と述べており、共通するものを感じる。

2014年6月10日、ちくま文庫、780円。

posted by 松村正直 at 17:45| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする