2013年06月29日

宮田珠己著 『四次元温泉日記』


温泉になど興味がなく、家の風呂との違いもわからないし、服を脱いだり着たりするのも面倒だという著者が、「日がなゴロゴロ寝て過ごすために迷路のような温泉宿に出かける」という趣旨で訪れた旅の記録。「Webちくま」に2010年4月から翌年にかけて連載された文章をまとめたもの。

著者の興味は温泉よりも迷路化した温泉宿の建物に向けられている。
ずいぶん昔からやってるんだけれども、建て増したり改築したりしているうちに、とうとうこんな風になってしまった、まさかこんなことになるとは思いも寄らなかった、今さらどうしようもない、慙愧に堪えない、とでも言いたげな、ボロい迷宮宿が面白そうである。

そんな迷宮宿を求めて、著者は日本各地を旅する。三朝温泉、四万温泉、微温湯温泉、伊豆長岡温泉、別府鉄輪温泉、下呂温泉…。 「奥那須K温泉」として紹介されている北温泉には、かつて山登りを兼ねて行ったことがある。最近では映画「テルマエ・ロマエ」に登場していた。
古くからある建物に新しい建物が追加され、建て増し建て増しで大きくなった宿は、迷路化しやすい。しかも、(…)斜面に沿って拡張していった場合は、その傾向が顕著になる。建て増し、と、斜面。これは迷路宿を見分けるときの重要なポイントと言える(…)

ところどころに載っている写真を見ても、異次元の世界へ導かれるような、そんな不思議な気分になる。建て増しと斜面か、なるほどなるほど。

2011年12月5日発行、筑摩書房、1500円。

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2013年06月28日

現代短歌シンポジウム2013 in 茨城

今年の「塔」の全国大会の初日のプログラムは一般公開となっています。「塔」会員以外の方もご参加いただけますので、お近くの方はぜひいらっしゃって下さい。

日時 8月24日(土)13:00〜17:00
場所 ホテルマロウド筑波(JR土浦駅より徒歩約12分)

プログラム 13:00〜13:10 開会挨拶(永田和宏)
 13:10〜14:30 講演 水沢遙子「高安国世と近藤芳美」
 14:30〜14:50 休憩
 14:50〜15:50 歌合(司会:江戸雪、判者:水沢遙子・池本一郎・藪内亮輔)
 15:50〜16:50 鼎談「自然をどう詠むか〜高安国世の自然詠から震災以後まで〜」
                 真中朋久・なみの亜子・梶原さい子
 16:50〜17:00 閉会挨拶(栗木京子)

会費 2000円
受付 当日受付(事前申込み不要)

詳しくは→ http://www.toutankakai.com/2013summer-meeting.pdf

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2013年06月27日

『増補版 誤植読本』のつづき

本書に登場する多くの人が、誤植はなくならない、誤植のない本はない、といったことを書いている。それだけ誤植を完全になくすのは難しいことなのだ。

「塔」でも毎月かなりの数の誤植訂正を載せている。これは連絡をいただいた方の分だけなので、黙っている人の分を含めればさらに何倍にもなるにちがいない。

誤植について書いてある本書にも、やはり誤植(と思われるもの)はある。堀江敏幸の書いた解説の中に
(…)私の場合、暦としたプロの読み手によるインタビューでも、(…)

という部分があるが、この「暦」は「歴」の間違いだろう。誤植の話の中に誤植があるのだから、何だかおもしろい。誤植は人間が文字と関わり続ける限り、なくなることはないのだろう。そう考えると、むしろ楽しいことのような気もしてくる。

最後に、こんなユニークな校正風景も。
そこで僕は、一策を案じた。家には子供が五人もいる。人的資源は、いわば無尽蔵である。この資源を使わないで放っておくという手はない。少々の荒使いと無駄使いをしても、相手は、学者の家庭とはこういうものだと思ってあきらめるにちがいない。そこで、一人にゲラ刷を読ませ、もう一人に僕の原稿をにらんでおらせることにして、下校正をやらせてみた。僕があとでさあっとゲラ刷の方を点検すればいいという段取りである。        野々村一雄「校正と索引つくり」

もちろん、奥さんも手伝わされている。一家揃って何だか楽しそうだ。もっとも、この方法は結局うまく行かなかったのであるが…。

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2013年06月26日

高橋輝次編著 『増補版 誤植読本』


近代から現代まで、誤植をめぐる様々な文章を集めたアンソロジー。2000年に東京書籍から刊行された本に6編を追加して文庫化したもの。外山滋比古、森まゆみ、小林勇、杉森久英、大岡信、坪内稔典、斎藤茂吉、吉村昭、串田孫一など、全53編が収められている。

「王子」が「玉子」に、「引分」が「31分」に、「事情」が「情事」に、「手首」が「生首」に、「粟」が「栗」に、「天井」が「天丼」に……と、思わず笑ってしまうような例がいくつも挙がっている。

もちろん、結社誌の編集や、本を書いている身としては他人事ではない。
私は発見したり、指摘されたりする度毎に、初校・再校・三校の校正刷を点検して、一体この誤植は何校目から始まっていて、どこの誰の責任であるかをつきとめて見ようとした。しかし驚ろいたことは、そういう誤植の大部分が既に初校の校正刷にあり、それが再校から三校まで、ずっと誰からも発見されずにいて、そのまま印刷されたものだということだった。      小宮豊隆「誤植」

本当にそうなのだ。「塔」でもしばしば、あり得ないような誤植が見つかるのだが、わが家に残してある校正刷をたどると、たいてい初校から、つまり何人ものチェックの目を潜り抜けたもののことが多い。考えれば考えるほど不思議である。

歌人の相澤正は土屋文明の教え子で、昭和19年に中国大陸で戦病死した人物だが、中央公論社で校正の仕事をしていたらしい。本書に校正に関する歌が引かれている。
校了に間近き刷(すり)を取上げてつぶやきながら誤植ひろひ出す
或日わが見落ししたる幾文字が今日まざまざと頭に泛(うか)ぶ
作業場に誤字直しつつ或時は誇るが如く友の叫びあぐ

こうした風景は、今でもあまり変らないものだろう。

2013年6月10日、ちくま文庫、880円。

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2013年06月25日

例えば「庭」

国語辞典に関する本を読んで以来、辞典の語釈が気になってしまう。例えば「庭」。
『広辞苑』(第五版)を引いてみると
1 広い場所。物事を行う場所。
2 邸内または階前の、農事に使う空地。
3 草木を植え築山・泉池などを設けて、鑑賞・逍遥などをする所。庭園。
4 波の平らかな(漁業を行う)海面。転じて、穏やかな天候。日和。
5 家の出入口や台所などの土間。
6 家庭。

と書いてある。(例文は省略)

普通に使われる「家の庭」といった場合の「庭」は、どれに当てはまるのだろう。どれもピンと来ないのだが、消去法で行くと3番になる。でも「築山・泉池」って、どれだけ豪邸なの?という気がする。もっと普通の「庭」の意味があっても良いのではないか。

でも、まあ、そのあたりの印象には個人差もあるのだろう。誰でもきっと、自分の家の庭や、自分の生まれ育った家の庭を基準に「庭」というものをイメージするのだから。

ちなみに、僕の頭の中の「庭」は生家の庭(今の家はマンションなので庭がない)。桜の木と柿の木と生垣があって、小さな砂場のあった庭だ。

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2013年06月24日

映画「ニッポンの、みせものやさん」

監督:奥谷洋一郎。90分。京都みなみ会館。
http://www.dokutani.com/

最盛期には全国で数百軒もあったという見世物小屋。その最後の一軒と言われる「大寅興行社」の暮らしや歴史を追ったドキュメンタリー。

祭から祭への移動、小屋掛け、客寄せの口上、太夫(芸人)の演技、小屋の解体撤収といった現場の様子から、家族や仲間たちの話、かつての見世物興行師の語る思い出話など、見世物商売の様々な面が映し出される。

大寅興業社の人たちは、見世物小屋がやがては滅びて行くという覚悟を持っている。けれども、そこに暗さはない。人生を振り返る口調にも湿っぽさはなく、サバサバとした受け答えが印象に残る。

最初は監督のナレーションが素朴過ぎてどうかなと思ったのだが、そこには大寅興行社と監督の10年にわたる交流が滲んでいたのだ。途中からそのことが伝わってきて、じんわりと暖かい気持ちになった。

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2013年06月22日

「レ・パピエ・シアン2」2013年6月号

「近藤芳美を読み直す」という特集が組まれており、大辻隆弘さんが「近藤芳美における嫌なもの―『異邦者』について」という文章を書いている。これは、注目すべき力作である。

小池光に「茂吉における嫌なもの」(『小池光歌集』所収)という鋭い評論があるが、大辻の評論も同じような鋭さで、「日本的なものへの嫌悪」「民衆への憎悪」「黒人蔑視」「性的未熟」「西洋的なものへの盲信」といった近藤芳美の問題点を抉り出している。

ところどころ、ちょっと言い過ぎではないかと感じる部分もあるのだが、大筋において、大辻の指摘には同意できる部分が多い。私も少し前に『早春歌』と『未明』を読み、そこに大辻の言うような特徴を感じたのであった。
自(おのづか)らはなれ土掘る鮮人人夫と苦力(クリ―)の人種意識もあはれ
                                     『早春歌』
土深くあかりを持ちて吾はをり苦力(クリ―)の居たるにほひ漂ふ
外人ら体臭立ちて集(つど)ふ中洋装貧しく吾を待てり妻は

人間に英知の初めエーゲ海染めて広がる朝かげの如   『未明』
憧憬にギリシアはありて戦争の青春を分く今に彼らなく

1、2首目からは朝鮮人や中国人苦力に対する差別意識(もちろん当時の時代的な制約は考慮する必要があるが)が感じられる。しかも、それを「にほひ」と詠んでいるところが気になる。

3首目は「内金剛ホテル」という一連にある歌。「外人」はおそらく西洋人のことだろう。その立派な体格や服の着こなしに比べて、自分の妻を「洋装貧しく」と詠んでいるのだ。

4、5首目はギリシア旅行を詠んだ歌。ギリシアは文明発祥の地として、若き日から近藤の「憧憬」の地であったと言うのだろう。こうした西洋賛美と、西洋に対するコンプレックスは、今の目から見ると痛ましさを覚えるほどである。

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2013年06月21日

飯間浩明著 『辞書を編む』


国語辞典の編纂者である著者が、今年末に刊行予定の『三省堂国語辞典』第7版を編纂する実際の作業に即して、自らの仕事内容を紹介した本。

「編集方針」「用例採集」「取捨選択」「語釈」「手入れ」といった順序で、具体的な例を挙げながら、時系列に沿って説明している。一冊の辞典が出来上るまでにかかる時間と労力、そして辞典作りに携わる人たちの喜怒哀楽といったものが、ひしひしと伝わってくる。

この本を読んで一番印象的なのは、著者が自らの編纂している『三省堂国語辞典』(『三国』)を非常に愛していることだ。言葉の端々に、その思いが溢れている。

辞典の基本方針には「規範主義」と「実例主義」とでも呼ぶべきものがあって、
実例主義を「鏡」とするならば、規範主義のほうは、同じ「かがみ」でも「手本」という意味の「鑑(かがみ)」です。国語辞典の多くは、どちらかと言うと、「鑑」のほうに重点を置いています。(…)『三国』は、まずは「鏡」であろうとします。

と記している部分など、説明もうまいし、『三国』に対する自負がよく感じられる。

本のタイトルは、映画化もされた三浦しをんの小説『舟を編む』を踏まえたもの。本文の中でも、「読んでみると、最後には温かな充足感が広がり、いい気持ちになれる小説でした」と紹介されている。

2013年4月20日、光文社新書、800円。

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2013年06月20日

近刊予告

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2009年から2011年まで3年間にわたって「塔」に連載した「高安国世の手紙」が、来月いよいよ一冊の本になります。

高安さんの手紙を読み解きながら、その生涯や交友関係、作品世界をたどっていくという内容。連載に大幅な加筆・修正をして、さらに初校、再校、三校、念校と4回の校正を経て、後は出来あがるのを待つばかりとなりました。

400ページを超える分厚い本になりますが、お読みいただければ幸いです。

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2013年06月19日

『江戸の数学教科書』のつづき

江戸時代に独自の発展を遂げた「和算」は、その後どうなったのか。

明治5年に学制が発布された当初、日本では和算による数学教育が進められるはずであった。
新政府は、和算家に教科書の編纂を命じた。しかし、その計画は途中で頓挫している。結果的には欧化政策の流れに逆らうことができず、西洋式の数学(洋算)を学校教育に導入することになった。250年の歴史を誇る和算は、この決断によって、終焉に向かうことを余儀なくされたわけだ。

明治維新以降、こうした西洋文明と日本の伝統との相克は、科学技術、芸術、文化、思想、生活様式といった様々な場面で行われてきた。食においては、西洋料理を日本風にアレンジした「洋食」が誕生し、歌曲においては、外来の讃美歌に対抗して新たに「唱歌」というものが生み出された。

そして、「和歌」もまた変革を遂げて「短歌」に生まれ変わったのであった。7月6日の勉強会では、おそらくそのあたりの話が中心になるだろう。講師の安田寛さんから届いた講演の概要には次のようにある。
幕末から明治にかけてそれまで連綿と続いた歌の伝統が崩壊しかねない危機が発生した。対処できなかったら伝統が消失してしまう。そんな時代にあって、新しい伝統が創出されるまで橋渡しとして重要な働きをしたのが実は御歌所に連なってゆく歌人たちであった。これまでほとんど注目されることなく今日まで至っている彼らの危機対応の足跡と功績とを辿ってゆく。

和算も洋食も唱歌も短歌も、それぞれ別々の話のようでいて、実はみな同じ時代の影響を受けているのである。

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2013年06月18日

桜井進著 『江戸の数学教科書』


江戸時代に日本で独自の発展を遂げた数学、「和算」の歴史と内容をわかりやすくまとめた本。練習問題なども載っているが、数学の本と言うよりは一種の日本文化論となっている。

和算と言うと関孝和くらいしか知らなかったのだが、この本では吉田光由(『塵劫記』の著者)、村松茂清、建部賢弘、松永良弼、山口和、千葉胤秀、安島直円、会田安明、内田五観、福田理軒、高橋積胤といった和算家たちの活躍ぶりが描かれている。

岩手県の一関市は江戸時代後期に和算が盛んな土地であったらしい。
現在も、一関市では和算が「売り物」の一つだ。一関市博物館に行くと、和算コーナーにさまざまな資料が常設展示されている。ここまで和算をクローズアップして紹介している博物館は、おそらくここだけだろう。

ぜひ一度、訪れてみたい。

2009年2月28日発行、集英社インターナショナル、1200円。

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2013年06月16日

「短歌往来」2013年7月号

「短歌往来」7月号に、連載「樺太を訪れた歌人たち」の7回目を書きました。
「北原白秋・吉植庄亮と海豹島」の2回目。
来月もう一回続きます。

先日このブログで、斎藤茂吉と芥川龍之介の関わりについて少し触れましたが、今月号の大島史洋さんの「落書帳」も「龍之介と茂吉」というタイトルで、二人の関係について書いています。

さらに、この号の特集はその「大島史洋」。
写真、歌人論、5首選、50首抄、略年譜と35ページにわたる充実した内容です。

皆さん、どうぞお読みください。

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2013年06月15日

原稿の催促

原稿の催促をされて嬉しい人はいない。締切に遅れているのは自分が一番よくわかっているのだから、それを相手に言われるのは嫌なものである。

でも、催促をされるより、催促をする人の方が、きっと何倍も嫌なのだ。「塔」の編集長という立場上、しばしば原稿の催促をしていて、そう感じる。

河野裕子さんが亡くなる数ヶ月前に、電話で原稿の催促をしたことがあった。河野さんの病状が良くないのはもちろん知っていた。「あなたにはいつもご面倒をかけてしまって」と河野さんは私に謝った。

あの時ほど、編集長をやっていなければと思ったことはない。今、思い返しても胸が痛む。

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2013年06月13日

渋谷申博著 『聖地鉄道』

神社やお寺に参詣する人の輸送を目的に敷設された鉄道が、日本には数多く存在する。そんな「聖地鉄道」の見どころを紹介した本。著者は宗教史研究家。

取り上げられているのは「JR弥彦線で行く彌彦神社」「南海電鉄高野線で行く高野山」「JR参宮線で行く伊勢神宮」「高松琴平電鉄琴平線で行く金刀比羅宮」など、全国各地の42か所。

「JR奈良線で行く伏見稲荷大社・東福寺など」という項目もあり、これなどはまさに私の地元。京都駅―東福寺駅―稲荷駅―JR藤森駅(わが家の最寄り駅)―桃山駅という並びを見ても、なるほど「聖地鉄道」とはよく言ったものだと思う。JR藤森駅には藤森神社が、桃山駅には明治天皇の伏見桃山陵がある。

序章の「聖地と鉄道の古くて新しい関係」は、聖地鉄道の歴史や意味などを考察したものでおもしろい。通勤通学に普通に使っているような路線も、元は聖地と深い関係があったことなどが昔の絵図を基に示されている。

それに対して、1章以降の個別の聖地鉄道の紹介は、一か所あたり4〜5ページという少ない分量であり、掘り下げ不足の感が否めない。ガイドブック的な作りの本なので、仕方がないことではあるのだが。
天焦がす火炎の中に立ちのぼるタケミカズチをおまえも見たか
               出頭寛一(「塔」5月号)

「JR鹿島線で行く鹿島神宮・香取神宮」を読むと、鹿島神宮の祭神が武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)であることも、ちゃんと記されている。

2011年12月21日発行、洋泉社y新書、860円。

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2013年06月12日

勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」第3回のご案内

勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」第3回の講演のタイトルと内容が決まりました。
皆さん、どうぞご参加下さい。

日 時 7月6日(土)13:30〜16:30
場 所 「緑の館」1階イベント室(梅小路公園内)
      *JR京都駅中央口より西へ徒歩約15分
プログラム
 13:00     開場
 13:30〜13:40 開会挨拶
 13:40〜15:10
   講演 安田寛氏 (奈良教育大学教授、『「唱歌」という奇跡』の著者)

「日本の歌の未曾有の危機にあって御歌所に連なる歌人たちはどのような役割を果たしたのか」

幕末から明治にかけてそれまで連綿と続いた歌の伝統が崩壊しかねない危機が発生した。対処できなかったら伝統が消失してしまう。そんな時代にあって、新しい伝統が創出されるまで橋渡しとして重要な働きをしたのが実は御歌所に連なってゆく歌人たちであった。これまでほとんど注目されることなく今日まで至っている彼らの危機対応の足跡と功績とを辿ってゆく。

 15:10〜15:30 質疑応答
 15:30〜16:20 フリートーク
 16:20〜16:30 閉会挨拶
 16:30     終了(予定)

会 費 2000円
申込先 大体の人数を把握したいと思いますので、ご参加下さる方は下記までご連絡下さい。
   〒612-0847 京都市伏見区深草大亀谷大山町20-3-202  松村正直
   TEL/FAX 075-643-2109 メール masanao-m@m7.dion.ne.jp

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2013年06月11日

大森静佳歌集 『てのひらを燃やす』

もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く
これが最後と思わないまま来るだろう最後は 濡れてゆく石灯籠
部屋に雨匂うよ君のクリックに〈はやぶさ〉は何度も燃え尽きて
風のない史跡を歩む寡黙なら寡黙のままでいいはずなのに
レース越しに電線ぼやけその息が寝息に変わるまでを聴きをり
雨脚が細くなりゆくつたなさにふたりはひとりよりもしずかだ
マネキンの脱衣うつくし夜の隅にほの白い片腕をはずされ
言葉より声が聴きたい初夏のひかりにさす傘、雨にさす傘
眼と心をひとすじつなぐ道があり夕鵙(ゆうもず)などもそこを通りぬ
紫陽花のふくらみほどに訪れるあなたを産んだひとへの妬み
生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす

第56回角川短歌賞を受賞した作者の第1歌集。274首。

「あなた」「君」を詠んだ相聞歌を中心とした歌集である。〈感情、思い〉と〈景色、モノ〉の取り合わせ方がうまく、繊細なだけでなく激しさも併せ持った内面がよく表れている。

また、そうした歌の中に「きれいな棺」「生前という涼しき時間」「この世を濡らす」など、生前や死後の時間の感覚が入って来るところに、作者独特なものを感じる。普通、相聞歌と言うと「今、ここ」の一点に集中しがちなのだが、そうはなっておらず、不思議な広がりがある。

「雨」「光」「川」「水」「鳥」「指」など頻出する言葉がいくつかあって、歌集全体のまとまりは良く、作者の好みや個性がかなりくっきりと出ている。これは大事なことだろう。表紙の青や本体の水色も、この歌集のカラーによく合っている。

〈情〉と〈景〉の取り合わせは、短歌の最大の武器であるが、パターン化しやすいという危うさも孕んでいる。そのあたりも含めて、今後さらにどう伸びていくのか楽しみだ。どんどんわがままにやっていったらいいと思う。

2013年5月25日、角川書店、2381円。

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2013年06月10日

練乳(その4)

茂吉の詞書の中に「安ともらひの蓮のあけぼの」という川柳が出てくる。これは『俳諧 武玉川』初篇にある「安弔ヒの蓮の明ぼの」という句のことのようだ。

芥川は「文芸的な、あまりに文芸的な」の中で、この川柳について触れている。
「川柳」は日本の諷刺詩である。しかし「川柳」の軽視せられるのは何も諷刺詩である為ではない。寧ろ「川柳」と云ふ名前の余りに江戸趣味を帯びてゐる為に何か文芸と云ふよりも他のものに見られる為である。(…)
  安どもらひの蓮のあけぼの
 かう云ふ川柳の発句に近いことは誰でも認めずにゐられないであらう。(蓮は勿論造花の蓮である。)

この「安ともらひの蓮のあけぼの」というのは、一体どういう意味だろう。あれこれ調べてみたのだが、よくわからない。どうやら、当時(江戸時代)、上流の家の葬式は夜に行うのに対して、下流の安い葬式は早朝に行っていたらしい。その葬式の時に蓮が咲いている場面を詠んでいるようだ。

けれども、芥川はこれを安物の「造花の蓮」と断定していて、そうなると実際の蓮が咲いているわけではないことになる。……どうなんだろう?

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2013年06月08日

練乳(その3)

芥川が鵠沼滞在中に書いた「鵠沼日記」には、散歩の途中に道で出会う様々なものに、敏感に反応している様子が描かれている。
僕は路ばたの砂の中に雨蛙が一匹もがいてゐるのを見つけた。その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだらうと考へた。しかしそこは自動車などのはひる筈のない小みちだつた。しかし僕は不安になり、路ばたに茂つた草の中へ杖の先で雨蛙をはね飛ばした。
僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に遇つた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つた後も、暫くの間はつづいてゐた。

神経過敏と言っていいだろう。「鋭い竹の皮の先が妙に恐ろしくてならなかつた」というあたりが、おそらく「煉乳の鑵のあきがら棄ててある道おそろし」という心情と共通しているものなのだと思う。

芥川龍之介は「大正十五年秋」から一年も経たず、昭和2年の7月に睡眠薬を飲んで自殺する。その睡眠薬は茂吉が芥川に処方したものであった。

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2013年06月07日

練乳(その2)

煉乳(ねりちち)の鑵(くわん)のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる
              斎藤茂吉『ともしび』

この歌に詠まれている「君」とは、誰のことだろうか。

「煉乳の鑵のあきがら」を「おそろし」と言っているのだから、やや神経質な感じを受ける。ギザギザになった缶の切り口が嫌だったのか、あるいは道に空き缶が捨てられていること自体が嫌だったのか。

この歌は、歌集では5首の連作に入っていて、次のような詞書が付いている。
九月廿五日土屋文明ぬしと鵠沼に澄江堂主人を訪ふ。夜ふけて主人は「安ともらひの蓮のあけぼの」といふ古川柳の事などを語りぬ

つまり、茂吉の歌に出てくる「君」とは澄江堂主人、芥川龍之介のことなのだ。

茂吉の日記の大正15年9月25日を見ると
午前中診察ニ従事シ、直グ食事ヲシテ渋谷ヨリ品川ニ行ク、土屋君待チヰタリ。ソレヨリ一直線ニ鵠沼ノ芥川龍之介サンヲ訪フ。あづま屋ニ一室ヲタノミ、ソレヨリ女中ニ案内シテ貰ツテ芥川サンヲ訪フ。漢文ノ小説ヲ読ンデヰタ。新潮社カラ出ル随筆類ヲ整理中ダトカニテ俳句ヤ歌稿ヲ見ル。(…)

と記されている。

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2013年06月06日

練乳(その1)

「塔」5月号に花山多佳子さんが「練乳」という題の5首を載せている。その中から3首引く。
昭和の子なれどもわれは練乳を苺にかけたる記憶のあらず
またの名を練乳といふを知らざりきコンデンスミルクにパン浸しつつ
大正十五年秋 道ばたに棄てられてありし煉乳(ねりちち)の鑵(くわん)のあきがら

かつて苺はそのまま食べるのではなく、練乳をかけたり、牛乳(+砂糖)をかけたりして食べることが多かった。1首目はそれを踏まえた歌。

2首目の「コンデンスミルク」は「牛乳に砂糖を加え、煮つめて濃縮したもの」(広辞苑)。砂糖を加えていないものはエバミルクと言うらしい。練乳は「牛乳を煮つめて濃縮し、保存性をもたせたもの」(広辞苑)であるから、細かく言えば、練乳のなかにコンデンスミルク(加糖練乳)とエバミルク(無糖練乳)があるわけだ。

3首目の「煉乳(ねりちち)」は「れんにゅう」とも読むが、これが「練乳」の本来の表記である。戦後、「煉」が常用漢字に入らなかったため、同じ音の「練」で代用するようになり、新たに「練乳」という表記が生まれたのである。

「牛乳を煮つめて」なので、本当は「火」偏の付いた「煉」でないとおかしいわけだ。こういう例は、「稀薄」→「希薄」、「訣別」→「決別」、「熔接」→「溶接」などたくさんある。

この歌に「大正十五年秋」とあるのは、斎藤茂吉の次の一首を踏まえている。
煉乳(ねりちち)の鑵(くわん)のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる

歌集『ともしび』の大正十五年の歌だ。
では、この歌に出てくる「君」とは、誰のことだろうか。

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2013年06月05日

「塔」2013年5月号

「塔」5月号は高安国世生誕百年記念号。
53ページにわたる特集を組んでいる。

特集の内容は下記の通り。
・座談会「高安国世の歌を読む」
  藤田千鶴・永田淳・山下裕美・吉田恭大

・評論「短歌史上の高安国世 『真実』から都市詠へ」 篠弘
・評論「半透明の街」 真中朋久
・評論「高安国世の世界内面空間と歌の真実〜全歌集を俯瞰して」 徳重龍弥
・評論「ドイツ文学者としての高安国世先生」 西村雅樹

・高安国世アルバム(写真13点)
・高安国世の百首 江戸雪選

・高安国世の思い出・エピソード
  藤重直彦・栗木京子・山下泉・藤井マサミ・栗山繁・進藤多紀・藤江嘉子・
  黒住嘉輝・古賀泰子・池本一郎・黒住光・花山多佳子・永田和宏

1冊1000円で販売もしています。
池袋のジュンク堂、名古屋のちくさ正文館、京都の三月書房、塔のホームページ、
あるいは松村宛に直接ご注文下さい。

今回の特集、僕は何も原稿は書いてませんが、39ページの扉のデザインをやりました。

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2013年06月03日

岡田哲著 『明治洋食事始め』

副題は「とんかつの誕生」。2000年3月に講談社選書メチエから刊行された『とんかつの誕生―明治洋食事始め』の文庫化。

明治維新は料理維新でもあったという考えのもとに、西洋料理の影響を受けて日本独自の「洋食」が誕生するまでの歴史を描いた本。「あんパン」「ライスカレー」「コロッケ」など、いろいろな洋食が取り上げられているが、中でも昭和4年の「とんかつ」の誕生が大きな到達点として記されている。

「西洋料理」と「洋食」の違いについてであるが、著者は「パンと合うのが西洋料理であり、米飯と合うのが洋食だ」と明快に定義している。

西洋料理の「ホールコットレッツ」が「ポークカツレツ」を経て「とんかつ」へ至るまでに、明治から昭和初期まで約60年が経っている。日本が西洋料理を受け入れて、消化吸収し、さらに自らのものとしていくまでに、それだけの時間が必要だったわけだ。これは料理に限らず、科学、文学、思想、生活など全般に通じる話であり、非常におもしろい。

全体的に記述にはかなりの重複があり、また洋食を生み出した日本の食文化を賛美する姿勢が強すぎる感じは受けるが、私たちの食生活や明治以降の日本の歴史を考えるうえで、大事なことを教えてくれる一冊である。

2012年7月10日発行、講談社学術文庫、880円。

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2013年06月02日

『高野公彦の歌世界』のつづき

2部は高野が作歌を始めた1963年から1969年までの歌(実質的な第1歌集『水木』の時期の歌)を、「朝日歌壇」や「コスモス」から全て引いて、歌人高野の成り立ちを描き出している。

作品だけではなく、この時期に高野の書いた随筆や「編集と校正」欄の文章なども幅広く引用されており、歌と散文の両方から高野の姿が浮かび上がってくる。資料的な価値も高い。

師弟関係とは何か、歌人が成長するとはどういうことか、結社で歌人はどのように育っていくか、といったことが、非常に具体的に、実例に即して見えてくる。また、初出と歌集収録時の歌の異同も示されているので、高野の推敲の跡をたどることができ、作歌にも役立つ内容であろう。
高野公彦研究という課題は、今後多くの歌人が追究することになるはずであるが、そのための基本資料の意味合いもあるこの論がその一助となることを期待してやまない。

著者が「あとがき」に書いているように、本書は今後の高野公彦研究の貴重な資料となるとともに、高野作品を読み解く上で大きな示唆を与えてくれる一冊だと思う。

2013年5月1日発行、柊書房、2700円。

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2013年06月01日

鈴木竹志著 『高野公彦の歌世界』

第1部「高野公彦のうた」と第2部「高野公彦と宮柊二」の二部構成。

1部は高野公彦の歌を時代順にたどっていく内容で、歌人高野の軌跡がよくわかる。「コスモス愛知」に連載されたものということで、著者の思い出も随所に交えつつ、高野像を描き出している。
五月の日てりわたりけり峠路の北の原発に南の漁村に 『淡海』
原子炉のとろ火で焚いたももいろの電気、わが家のテレビをともす 『水行』
人体にピアス増えゆくさまに似て列島に在る原発(げんぱつ)幾つ 『水苑』

東日本大震災以前から高野に原発の歌があることは知っていたが、それが30年以上も継続的に詠まれていたことを、本書であらためて知った。
今日の短歌は、中味というか主題性ということを重要視しがちで、肝腎の描写ということを問題にしないが、短歌の最も大切なことがらは、描写なのではなかろうか。
歌の世界は、どうも亡くなった者に対して冷たい傾向がある。何かいつも急かされているかのように、新しいものを求める傾向が強く、ある程度実力のあった歌人も、亡くなると、もう話題に上らない。

こんなふうに、現在の短歌に対する著者の思いが述べられているところなども、印象に残る。評論を書くという行為自体が、こうした風潮に対する著者の回答にもなっているのだろう。

2部については、また明日。

2013年5月1日発行、柊書房、2700円。

posted by 松村正直 at 01:14| Comment(2) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする