2013年03月31日

「立命短歌」創刊号

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近年、学生短歌会の盛況ぶりはよく話題になるところだが、今回新たに「立命短歌」が創刊された。昨年9月に発足したばかりとのことだが、誌面は全162ページ、装丁やデザインも良いし、内容も非常に充実している。
父の手に抱かれて眠るみどりごがどろりととけて零れ落ちゆく
              柳文仁 (「柳」は正しくは別字体)
強がらぬ強がりもまたあるだろう素直に肩を借りてくるひと
              坂井ユリ
吸うごとに鼻の輪郭際立ちぬ耳抜きをして急ぐ朝路を
              村松昌吉
弟の額に三点ほくろあり正しい順に押して確かむ
              中山靖子
珈琲の味は変わらず若き日に通った店で時間を潰す
              大槻裕子
粉雪が**********(アスタリスクのように)舞う秘密ばかりの**ぼく
たちに          宮崎哲生 (「崎」は正しくは別字体)
引用のやうなる日々にわれは居て西日の内に山茶花を見る
              濱松哲朗

立命短歌会と言えば、かつて清原日出夫や坂田博義らを生んだ学生短歌会の名門であるが、近年は活動をしておらず、今回の「立命短歌」が第5次になるそうだ。今号に、宮崎哲生さんが「立命短歌史」という40ページにわたる文章を書いていて、これまでの歴史を的確に、わかりやすくまとめている。これは大変な労作で、資料的価値も高い。

短歌作品だけでなく、こうした文章が載っているところに注目するし、今後のさらなる発展が期待できそうに感じる。

posted by 松村正直 at 18:55| Comment(3) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月30日

真実、眞實、眞実?

岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘選『新・百人一首』(文春新書)を読んでいて、いくつか気になったことがある。

一つは高安国世の歌の表記のことだ。
かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は眞実を生きたかりけり

「眞実」という表記が気になって仕方がない。ここは常用漢字を用いて「真実」とするか、初出の歌集通り「眞實」とすべきところだろう。旧字と新字のミックスはいただけない。

思うに、これは手書き原稿の書き癖をそのまま載せてしまったのではないだろうか。校正の段階でどうしてそのままになってしまったのか不思議である。

posted by 松村正直 at 22:54| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月29日

ふせん

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ふせん【付箋・附箋】 用件を書きつけて貼る小さい紙。目じるしのために貼りつける紙。貼りがみ。(『広辞苑』第五版)

わが家の『高安国世全歌集』に付けられた付箋は、既に目印としての意味を失っている。

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2013年03月28日

遺棄死体ふたたび

岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘選 『新・百人一首』 (文春新書)に、
遺棄死体数百(すうひやく)といひ数千(すうせん)といふいのちをふたつもちしものなし           土岐善麿『六月』

が選ばれている。
この歌については、以前このブログでも取り上げたことがある。(→昨年11月23日の記事

今回、巻末の座談会を読んで気になったのが、岡井さんの次の発言だ。
岡井 しかし「遺棄死体」なんてよくぞ言ったもんだなあ。戦前戦中の短歌ではまず見られない言葉でしょう。

三枝さんの 『昭和短歌の精神史』 にもある通り、 「遺棄死体」 は日中戦争当時、新聞報道などで頻繁に使われていた言葉である。 『昭和万葉集』 を見ても、項目として挙げられていて
遺棄死体 戦場などにとり残された死体。戦死者は戦闘終了後に収容されるのが原則である。しかし敗戦時には、遺体を収容することができずに退却することになる。上海・南京戦では、中国軍の遺棄死体は三〇万といわれた。

という説明があり、次のような作品が掲載されている。
埋められし敵遺棄死体片足は土に現はれごむ靴穿(は)けり
             堀江堅「橄欖」(昭和15年1月号)
遺棄(ゐき)死体鉄条網(てつでうまう)を境とし向う側に多し越えたるはあらず
             谷口友「短歌中原」(昭和18年2月号)

これを見ても、 「遺棄死体」 という言葉が当時から広く使われていたことは明らかだろう。

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2013年03月27日

川添裕著 『見世物探偵が行く』

買ったまま長いこと放置していた本だが、小沢昭一の放浪芸の流れで読んでみたところ、とても面白かった。2000年から2003年まで雑誌「グラフィケーション」に連載した文章をまとめたもの。

国内外の見世物についてのフィールドワークと文献調査の成果を、幅広い視点から紹介している。取り上げているのは、中国雑技、菊人形、ベトナム水上人形、力石、サーカス、貝細工、大道芸、猛獣つかいなど。ベトナムの水上人形劇は、一度ベトナムで見たことがあるので懐かしい。

東アジア文化圏の交流を視野に入れた上で、
江戸時代が「鎖国」の時代という見方は一面的であり、その性格をめぐって種々の議論があるが、いわば多数の留保条件付きの「外交」という見方も可能である。

と述べた部分は説得力がある。また、かつての古館伊知郎のしゃべりを、口上話芸の流れの中に位置付けるなど、随所に鋭い指摘が見られる。

浅草の凌雲閣(十二階)や東京タワーについて論じた章の最後に、著者は
高い塔からの見晴らしは、確かに素晴らしい。ことば通り高揚感がある。しかし、高いばかりが能ではないし、あまり高すぎてもいけない、そんなことを思うのである。

と述べている。この本は東京スカイツリーのできる前のものだが、はたしてスカイツリーは見世物としては、どうなのか。そんな興味も湧いてくる。

2003年11月10日、晶文社、2400円。

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2013年03月26日

『歌がたみ』の続き

読書の楽しみの一つに、いくつかの本が互いにリンクするように関わり合って理解が深まることが挙げられるだろう。

例えば、『歌がたみ』の中で今野は、唱歌「夏は来ぬ」(佐佐木信綱作詞)の歌詞を分析して、次のように書いている。
卯の花も歌合の代表的な題で、ほととぎすとの組み合わせとなれば『万葉集』までさかのぼることができる。卯の花の垣根と、ほととぎすと、忍び音とは、どうやら和歌において尊んで詠むべき歌語の中でも、とりわけ親和力の強いものどうしだったらしい、と思えてくる。

この部分などは、先日読んだ安田寛著『「唱歌」という奇跡 十二の物語』の 「つまり唱歌集は近代日本の半ば隠された勅撰和歌集であったと言っていい」 という指摘につながっていると言っていいだろう。

また、「恋歌排撃」を唱えていた与謝野鉄幹が「明星」誌上では「恋愛至上」を掲げるに至る経緯について、今野は
鉄幹の和歌革新は、和歌における「恋」の伝統を、近代思潮としての「恋愛」にシフトすることで、イデオロギー的にも盤石になったのだと思う。

と明快に論じている。この部分は、柳父章著『翻訳語成立事情』の 「loveと「日本通俗」の「恋」とは違う。そこで、そのloveに相当する新しいことばを造り出す必要があった。それが「恋愛」ということばだったわけである」 という指摘を思い起こさせる。

こんなふうに、一冊の本を読むと、それが次から次へとつながっていく。そして、頭の中で立体的な理解が進むような、そんな気がするのである。

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2013年03月25日

今野寿美著 『歌がたみ』

江戸千家茶道会の月刊雑誌「孤峰」に連載した和歌についてのエッセイ45編をまとめたもの。

古典和歌と言うと文法や知識の問題もあってどうしても難しく考えてしまうのだが、この本を読むと、まずは自分の感じるように、思うままに読むのが大切だということがよくわかる。
もとより試験問題ではないのだし、正解云々ということはない。この一首はどう読むときに一番魅力を発揮するか、誰もが自由に思いめぐらせればいいのだろう。

こうした歌の読みについての原則は、現代の短歌を読む時だけではなく、古典和歌を読む時にも十分に当てはまるのだ。そう考えただけで、随分と気が楽になる。

以前『歌のドルフィン』を読んだ時にも感じたことだが、今野さんの文章は非常に読みやすく丁寧で、また偉ぶったところがない。歌を読むときの素直な喜びやときめきが、初々しいまでに文章から伝わってくる。

これは、簡単そうで実はけっこう難しいことだ。多くの歌人(特に男性)の文章が、知識をひけらかしたり、自分の論を押し通そうとする強引さを感じさせるのに対して、今野さんの文章の持つやわらかさは、やはり特筆すべきもののように思う。

2012年5月23日、平凡社、2200円。

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2013年03月24日

角川「短歌」2013年4月号

特集は「31文字の扉―短歌の神髄と魅力に迫る」。
ちょっと面白いことがあった。

小池光さんが「短歌の作法」として
まず、短歌は五七五七七という言葉の鋳型をもっている。これを絶対のものと思って、一音のはみだしも不足もなく、きっちり守ることが大事だ。

と書いている。定型厳守の姿勢をはっきりと打ち出していることに少し驚く。
ところが、次のページに行くと穂村弘さんの文章が載っていて、そこに小池さんの歌が引かれている。
  銀杏が傘にぽとぽと降つてきて夜道なり夜道なりどこまでも夜道
                小池 光

 四句目の「夜道なり夜道なり」が大幅な字余り、だが、ここを「夜道なりけり」などの定型に敢えてしないことによって、「どこまでも夜道」が続く感覚が「現に」表現されている。

この二つの文章を続けて読んだ人は、きっと迷ってしまうだろう。それを思うと何だか可笑しい。

これは矛盾でも何でもなくて、短歌というのは実際にこういうものなのだ。初心者かベテランかという話ではない。言ってることとやってることが違うというのは、短歌を作る上ではけっこう大事なことなのだと思う。


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2013年03月23日

勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」第2回のお知らせ

勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」の第2回は、現在「短歌往来」で「近世和歌を歩く」を連載中の盛田帝子さんをお迎えして、下記の通り行います。

皆さんのご参加をお待ちしております。

日時 4月27日(土)13:30〜16:30
場所 京都テルサ 東館2階「研修室」
   *JR京都駅より徒歩約15分、近鉄東寺駅より徒歩約5分、地下鉄九条駅より徒歩約5分

プログラム
 13:00      開場
 13:30〜13:40 開会挨拶
 13:40〜15:10 講演「近世和歌の変容―近代短歌への胎動」盛田帝子氏
 15:10〜15:30 質疑応答
 15:30〜16:20 フリートーク
 16:20〜16:30 閉会挨拶
 16:30      終了(予定)

会費 2000円
申込先 大体の人数を把握したいと思いますので、参加される方は下記までご連絡下さい。
      〒612-0847 京都市伏見区深草大亀谷大山町20-3-202
             松村 正直
      TEL/FAX 075-643-2109 メール masanao-m@m7.dion.ne.jp

*第3回は安田寛さん(奈良教育大学教授)をお招きして、「緑の館」(梅小路公園内)で行います。こちらも、よろしくお願いします。

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2013年03月22日

悲恋塚(その3)

「樺太を訪れる歌人たち」でもいずれ取り上げる予定の土岐善麿は、昭和14年に樺太を訪れて「樺太雑詠」と題する78首の歌を残している。その中に次のような一首がある。
露西亜帆船の船長の塚を建てし長崎娘おみつといふはいづこへ行きし
                  土岐善麿『六月』

今まで何のことかよくわからない歌だったのだが、これはこの悲恋塚を詠んだ一首だったのだ。おみつという名前の女性が、愛するロシア人船長ネイの死を悼んで建てたということなのだろう。善麿は真岡を訪れた際に、この塚を見学したのかもしれない。

そう思って調べてみると、確かにその通りであった。善麿の随筆集『斜面の悒鬱』に、こんな一文がある。
北海道へ、ひとあし先きに行かれる汐見博士が、真岡線の汽車で出発されたのを送つたあと、朝から、しんみりとした訪問者を三人ほど迎へて一緒にその辺を散歩し、露深い雑草を踏んで、観測所の構内近くにある露船長と長崎娘との「悲恋塚」の前に立つたり、紫のやや萎れた菖蒲の花を眺めたりした。

ロシア人船長ネイと長崎娘おみつ、2人の間には一体どんなドラマがあったのだろう。

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2013年03月21日

悲恋塚(その2)

一方の赤い方のスタンプは「樺太真岡駅」「9.6.11」という文字と、樺太西海岸の町、真岡の風景の図柄である。この図柄には、山と港と工場と石碑が描かれている。山は真岡の背後にある「春風山(しゅんぷうざん)」、港は真岡港、工場は王子製紙真岡工場だとわかるのだが、左側に立つ石碑のようなものがわからない。

よく見ると、石碑には十字架のマークと英語らしい文字が書かれている。石碑ではなく外国人のお墓だろうか。気になって調べてみたところ、これは「悲恋塚」というものであることがわかった。ロシア人男性と日本人女性の悲しい恋を伝える碑であるらしい。

刻まれている文字は次の通り。
IN MEMORY OF E.NEY CAPTAIN OF THE RUSSIAN SCHOONER “ALEUTE” WHO DIED HERE 3TH OCTOBER 1884.
「1884年10月3日、この地に亡くなったロシア帆船〈アリュート号〉船長E.ネイを悼んで」

これを読んで、アッと思った。

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2013年03月20日

悲恋塚(その1)

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「短歌往来」に連載中の「樺太を訪れた歌人たち」には、毎回絵葉書などの写真を載せている。文章だけでは伝わりにくい当時の様子を、具体的にイメージする助けになればという考えからである。

こうした戦前の絵葉書は、専門店もあるしオークションなどにも大量に出ているので、珍しい品でなければそれほど高くない。1枚300円〜1000円程度である。絵葉書は今でも観光土産によく売られているが、かつては時事的なニュースを伝えるメディアとしても幅広く流通していた。

さて、今日入手した樺太の絵葉書には文面を書く側にスタンプが押してある。青いスタンプと赤いスタンプの2種類。青の方は「鉄道省 稚内 大泊 連絡船」「砕氷船 亜庭丸 乗船記念」「9.6.11」と船の図柄。昭和9年に樺太を訪れた人が買ったものなのだろう。

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2013年03月19日

梯久美子著 『百年の手紙』

副題は「日本人が遺したことば」。

20世紀に記された手紙や遺書など計102通の中の言葉を紹介しながら、その手紙の書かれた背景や人物などについて記した本。一つの手紙についての文章は2〜3ページという短いものであるが、非常に手際よく要点を押さえている。

手紙という最も個人的な内容のものを集めているにも関わらず、一冊を通して読むと、この100年に日本と日本人がたどった歴史がくっきりと浮かび上がってくる。それが、この本の注目すべきところだろう。

手紙の言葉が持っている力というものも強く感じさせられた。途中で何度も涙がにじんで、読むのを中断したほどである。言葉の力という点に関して言えば、短歌というのも、手紙の一種なのかもしれない。

2013年1月22日、岩波新書、800円。

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2013年03月17日

「短歌往来」2013年4月号

特集は「福島泰樹」、全44ページ。
けっこうなボリュームである。

私の連載「樺太を訪れた歌人たち」は4回目。
「松村英一と国境線」について書いた。

どうぞ、お読みください。

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2013年03月16日

「歌壇」2013年4月号

啄木と鉄道という問題は、現在「歌壇」で連載されている川野里子さんの「空間の短歌史」にも取り上げられている。3月号、4月号と「汽車と汽船の空間」という話が続いており、その中に啄木も登場するのだ。
石川啄木も鉄道に縁の深い歌人である。啄木自身は「便利だから乗るには乗るが一体が汽車は嫌ひだ」(明治三十九年三月五日)と日記に記すものの、その人生は鉄道によって始まり、人生の変化の時はまた鉄道によって変化を知らしめられた一生だったと言えるかもしれない。   (「歌壇」3月号)

続く4月号では、啄木や牧水といった故郷との関わりを論じられることの多い歌人が、実は僧侶や医師など、農村に深く根付くことのない「特権的な〈異分子〉」の家系に育ったことを指摘しており、こちらも非常に面白い。
               
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2013年03月14日

「塔」2013年3月号

各都道府県の名所、名産などを紹介する「歌の駅」は39回目。井上佳香さんが高知県について書いている。その中で啄木の父について触れているところが興味深かった。

高知駅前に啄木とその父一禎(いってい)の歌碑が建っていることを紹介して、井上さんは次のように書いている。
岩手県の寺で住職をしていた一禎は、生活苦から啄木の姉とら夫妻のもとに身を寄せた。とらの夫は鉄道官吏で、高知出張所長として赴任した際、一禎も共に高知に来て二年ほど過ごし、そのまま当地で亡くなったのである。

一禎と言えば渋民村の宝徳寺の住職を宗費滞納によって追われ、啄木がその復帰運動に奔走したことは知っていたが、まさか高知で亡くなっているとは。意外な話である。

啄木の姉とらの夫、山本千三郎については、先日読んだ原口隆行著『文学の中の駅』の中で詳しく取り上げられていた。
三重県の出身で、日本鉄道上野駅を振り出しに鉄道マンとしての道を歩みはじめ、盛岡駅車掌、上野駅助役を勤めてから北海道入りをした。たまたま盛岡時代に啄木の伯母・海沼イエ方に下宿していて、手伝いに来ていたトラと結ばれたことで、啄木とは義兄弟の間柄となったわけである。

さらに、高知や一禎の話も出てくる。
昭和二年(一九二七)、高知駅長を最後に定年退職。昭和二十年(一九四五)、七十六歳で没。(…)父の一禎が亡くなるまでの十七年間面倒を見るなど、生っ粋の鉄道マンらしく律儀な人だったという。

啄木の人生と鉄道がいろいろなところで関わりを持っていたことを、あらためて感じた。

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2013年03月13日

『「唱歌」という奇跡 十二の物語』の続き

唱歌は和歌や短歌とも深い関わりを持っているらしい。日本の詩歌が讃美歌の登場により存廃の危機に直面したことを指摘して、著者は次のように書いている。
 ハワイなどでは日本よりずっと早く一八二三年に最初の讃美歌集が出版され、それ以来讃美歌の影響は甚大で、伝統の詩歌は讃美歌に置き換えられていった。
 同じ危機に直面した日本で、日本の詩歌の伝統を保守したのが宮中の御歌所であった。

旧派和歌の歌人たちの牙城とも言える御歌所が、唱歌の誕生に深く関わっていたのである。
(…)和洋折衷、和魂洋才の智慧を働かせ、讃美歌を巧く取り込みながら換骨奪胎し、唱歌の詞を書き続けたのが、高崎正風御歌所長をはじめ、税所(さいしょ)敦子、谷勤(いそし)ら宮中御歌所に連なる歌人たちだったところに唱歌のすごみがある。

著者はこのように述べ、さらに「つまり唱歌集は近代日本の半ば隠された勅撰和歌集であったと言っていい」と結論づけている。何という刺激的で魅力のある着眼点だろうか。

今度、私たちの勉強会「近世から近代へ―うたの変遷」の第3回の講師に、この著者である安田寛さんをお招きすることが決まった。日時は7月6日(土)。詳細については、後日あらためてお知らせ致します。

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2013年03月12日

安田寛著 『「唱歌」という奇跡 十二の物語』

副題は「讃美歌と近代化の間で」。

明治以降、圧倒的な力で西洋文明やキリスト教が日本に広まった。外来の讃美歌の影響を受けつつ、そこに伝統的な歌の要素も加えて、新たに「唱歌」が生み出された経緯を、12曲の例を挙げて解き明かした本。

取り上げられているのは「むすんで ひらいて」「蛍の光」「海ゆかば」「君が代」「さくささくら」など、お馴染の曲ばかり。こうした、今では当たり前のように口ずさんでいる歌の誕生の背景には、日本の近代化をめぐる様々な物語があったのだ。
西洋の圧倒的軍事力と経済力を背景として、十九世紀にキリスト教宣教師が太平洋の国々に到来するようになると、讃美歌や聖歌と呼ばれた大衆的な礼拝音楽が普及し、それによって、これらの国々では伝統音楽を棄てるか、それとも改良して存続させるか、の選択を迫られることになった。
「汽笛一声新橋を」と歌い出される明治三十三年の「鉄道唱歌」は行進曲のリズムで、その大流行は、鉄道と行進こそが日本人の速度感を近代化したことの象徴であったといえよう。

とにかく、読んでいて興味深く、わくわくする話がたくさん出てくる。膨大な資料や文献にあたりつつも、そうした苦労を前面に押し出すことなく、楽しんで読める文章に仕上げている。そのあたりにも著者の工夫があるのだろう。

2003年10月20日、文春新書、680円。

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2013年03月11日

『日本の放浪芸』の続き

俳優としての小沢昭一については、ほとんど何も知らない。小沢昭一という名前を聞いて真っ先に思い出すのは、TBSラジオで放送されていた「小沢昭一の小沢昭一的こころ」である。

この番組は1973年から小沢が亡くなる2012年まで、約40年にわたって実に1万回以上放送されている。人気番組であり名物番組であったわけだ。

小沢は『日本の放浪芸』の中で、絵解き、節談(ふしだん)説教、江州音頭、阿呆陀羅経、浪花節などの「説く芸」「話す芸」を紹介している。そして
筋のあるお話を、或る言葉の韻律に乗せて喋るということは、人類が考え出した一つの楽しみでもあるし、聴く方にとっても心地よいものなんです。

と述べている。さらに、そうした「語り物」が衰退している現状を指摘した上で、
(…)新しい語りの韻律を創り出し、観客との新しい接し方を創ることによって、新しい「語り物」が出来るんではないかなと思ったんです。僕も僕流の新しい節を創って行きたい。

と述べている。自分の名前を冠したラジオ番組は、小沢にとってそうした新しい「語り物」であったのだろう。

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2013年03月10日

赤と紅

「短歌往来」1月号の今野寿美さんの特別作品「港の秋の」33首の中に、こんな歌があった。
字足らずを補ひながら呼ばれきて珊瑚樹はまた紅き実を生(な)す
赤でなく紅と書かねばならぬことたぶんきみにはどうでもよきこと
赤でなく紅でなければならぬこと 一生かける人、かけぬ人

珊瑚樹の実を「赤」と書くか「紅」と書くかの違いが詠まれているのだが、これらの歌は、おそらく次の二首を踏まえたものだろう。
珊瑚樹のとびきり紅き秋なりきほんたうによいかと問はれてゐたり
              今野寿美『世紀末の桃』
珊瑚樹がとびきり赤き秋ありきこの世に二人が知る赤さなり
              三枝昂之『上弦下弦』

プロポーズへの返事をめぐるやり取りを詠んだ今野さんの歌と、30年後にその返歌として詠まれた三枝さんの歌である。

この二首を踏まえて、「赤」と「紅」の違い、「赤でなく紅でなければならぬ」理由を
どのように読み取るか。そのあたりが問題になるのだと思う。

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2013年03月09日

広島と鯉

姫路城を「白鷺城」、岡山城を「烏城」と呼ぶのは知っていたが、今日、広島城を「鯉(り)城」と呼ぶことを初めて知った。それで広島カープなのか。

来月、4月20日(土)の広島歌会に参加します。
あと6月9日(日)のさいたま歌会にも。

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2013年03月08日

小沢昭一著 『日本の放浪芸 オリジナル版』

1970年代に万歳、人形まわし、琵琶法師、見世物、にわか、香具師など、日本各地の芸能を訪ね回った記録。

私の生まれ育った東京の郊外では、こうした放浪芸はほとんど見たことがなかったように思う。だから懐かしさは感じないが、とても興味を引かれる。著者は芸能巡りの動機について、俳優の仕事に「一種のよりどころが欲しかった」と書いている。

しかし、そうした芸能は当時既に全国的に衰退していく状況にあった。
日本の放浪遊行の芸能は、宗教性に裏うちされていて、多く祝福の祈祷と荒神の祓いを行うものである。(…)そしてその世の中の信仰が、ここへ来て急速に薄らいで来たのにつれて、そういう芸能もほとんど影をひそめた。カミもホトケもあるものかという社会に、神の来訪の芸能は無用なのだ。

しかし、著者はそれをいたずらに嘆くことはしない。過去に対する郷愁に浸ったりはしないのだ。それは、著者自身が現役の芸能人だからである。
浮沈興亡のはげしい芸能の、その本質は、常に現在形であるということ――過去や未来の中に生きるのではなく、当代の観衆の求めの中にのみ、芸能の花は咲かねばならないということなのだ。

この姿勢こそ著者の真骨頂なのだろう。「芸能の場合、亡びたのは、なにはともあれ、民衆が捨てたからなのである。つまらないから捨てたのだ」という言葉は、読む者にずしりと重く響く。

2006年8月17日、岩波現代文庫、1200円。

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2013年03月07日

初学び

先月の勉強会の安田純生さんの講演は「旧派和歌の初まなび」というものだった。今朝の新聞に京都府の公立高校の国語の入試問題が載っていて、そこにも「初学び」という言葉が出てきたのでびっくり。思わず読んでしまう。

江戸時代の歌人・清水浜臣の歌論書「泊なみ筆話」(「なみ」は三水に百)の文章で、師の言葉が書き取られている。問題文についている註を参照して現代語訳すると、ざっとこんな内容だ。
だいたい習い始めの頃は、意外に歌数が多くできたり、思うままに口から出て来ることがあるものだ。これは本当にできたのではなくて、考えが浅くてうわべの心から出て来ているに過ぎない。だから安心してはいけない。また、ある時は一日じっと考え続けても、全く歌が出て来ないこともある。そんな時は、自分の才能の拙いのを恨んで、「もう歌は詠まないでおこう。こんなにまで出て来ないものか」と嘆いてしまうものだ。けれどもそれは、むしろ歌が上達する関なのだ。そこで心が緩んでしまったら、結局その関を越えることなく、中途半端なまま、やがて歌を詠むのを止めてしまう。反対にそこで心を奮い立たせて、休むことなく関を越えれば、また口がほどけてうまく詠めるようになるのである。いつも歌に心を寄せて詠んでいる人は、一年に二度三度とこうした関に行き当るのだよ。習いはじめの諸君は、このことに気をつけるように。

なるほどなあと思う。歌に関するこうした教えや悩みは、今でもあまり変らないことだろう。古い歌論書を読んでみるのもけっこう面白そうだ。

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2013年03月06日

三上延著 『ビブリア古書堂の事件手帖4』

シリーズ4作目。副題は「栞子さんと二つの顔」。

これまでのシリーズは1冊にいくつかの短編が収められていたが、今回は初めての長編。江戸川乱歩にまつわる話である。

3作目までが累計390万部の大ヒットとなり、テレビドラマ化もされた「ビブリア古書堂」だが、書く方は大変なようだ。おとといの読売新聞の夕刊に著者のインタビューが載っており、その中で「ありがたいが、プレッシャーも大きい」「長くは続けられない」と述べていた。

今回の作品を読んでも、確かにそういう印象を受ける。いっぱいいっぱいになりながら、何とか書き上げたという感じ。売れる本を書き続ける苦労がひしひしと伝わってくる。

2013年2月22日、メディアワークス文庫、570円。

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2013年03月05日

西片町

このところ調べものをしていて、東京の「西片町」に出くわすことが多い。

高安国世の友人であった内田義彦の戦前の住所が 「東京市本郷区西片町十にノ四十七」 だし、高安の伯父高安月郊もこの西片町に住んでいた。

樺太との関わりで林田鈴の歌集 『南を指す針』 を読めば
かろがろと吾を抱きくれし兄を憶ふ本郷西片町十番地との四号の家

という一首が見つかる。

本郷区西片町(現文京区西片)は東京大学に近く、学者や文化人が数多く住んだところ。夏目漱石の『三四郎』にも広田先生が「西片町十番地への三号」の借家へ引っ越す話が出てくる。この西片町十番地の住所はちょっと変っていて、いろは順になっている。

他にも、樋口一葉、佐佐木信綱、尾上紫舟、木下杢太郎、上田敏など、短歌にも関わりの深い人物がたくさん住んでいたらしい。東京へ行った時に、一度ゆっくりと歩き回ってみたい。

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2013年03月03日

古泉千樫と橋本徳寿(その2)

橋本徳寿が千樫の弟子となったのは大正14年、32歳の時のこと。
新作をつくっては千樫の元に持って行く日々が続いたようだ。
然し私の歌は先生からほめられることが尠かつた。いくら懸命に作つてもつて行つても、先生はにがり切つた顔しか見せなかつた。ある時は他の門人達の面前で、「君の歌は硝子へ書いた字のやうだ、ひよいと拭けば消えてしまふ」と先生は、私の歌に痛罵を浴びせた。私は千樫を憎い先生だと思つた。 (『太石集』巻末記)

しかし、2人の関係は長くは続かなかった。
昭和2年8月に千樫は肺結核で亡くなってしまうのである。42歳であった。
先生が生きてゐたならば、この「太石集」をみて、何と言ふであらうか、私はもう一度頭から痛罵を浴びせかけてもらひたい念が強い。

こうした強い師弟関係というのは、今ではほとんど見られなくなってしまったものだろう。
橋本徳寿の熱い文章を読みながら、その熱さを羨ましく思ったりもする。

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2013年03月02日

古泉千樫と橋本徳寿(その1)

加藤治郎さんの『短歌のドア』を読んでいたら、「固有名詞」のところに次の歌が引かれていた。
この朝を千樫のごとく家を出て水難救済会には行かず
           藤原龍一郎『東京哀傷歌』

加藤さんはこの歌に出てくる「(古泉)千樫」と「(帝国)水難救済会」について詳しく書いており、その中で千樫の弟子である橋本徳寿の『古泉千樫とその歌』の文章を引用している。

その橋本徳寿の第2歌集『太石集』(昭和6年)にも、「水難救済会」と題する5首がある。
二十年亡き師がここに腰かけて為しし仕事は歌の道にあらず
ここにして古泉幾太郎事務員の課長石榑辻五郎に会ひし
亡き人が宿直(とのゐ)にききし川波の音ぞきこゆるさ夜ふけにけり
冬の夜を茂吉憲吉この宿直室(へや)に千樫と歌をあげつらひ明かす
月給をもらひてかへる橋のうへに心さびしく昂(あが)らずあらめや

昭和5年に詠まれた歌で、2首目の「古泉幾太郎」は千樫の本名、「石榑辻五郎」は千樫の上司であった石榑千亦の本名である。千樫の勤め先だった帝国水難救済会を訪れて、亡き師のことを偲んでいる様子がしみじみと伝わってくる一連だ。

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2013年03月01日

映画 「二郎は鮨の夢を見る」

制作・監督・撮影:デヴィッド・ゲルブ。82分。
銀座の鮨屋「すきやばし次郎」の店主小野二郎を追ったドキュメンタリー。

85歳になっても現役で鮨を握り続ける小野の姿からは、日々同じことを繰り返すことの大切さや職人としての誇りがよく伝わってくる。毎日同じ電車の、それも同じ場所に乗って・・・といったところは、バッターボックスに入るイチローのようでもある。

小野の長男は同じ銀座の店で、次男は六本木の店を任されて働いている。偉大な父を持ち、父と比較される宿命を負った2人の息子たちの苦労も、映像からひしひしと感じられた。

京都みなみ会館にて。

posted by 松村正直 at 22:12| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする