2011年12月31日

「波」2012年1月号

永田さんの連載「河野裕子と私」の第8回。今回は2004年から亡くなる直前まで河野さんを診ていた精神科医、木村敏先生の話である。

木村先生が永田さんの同僚であったことはこの文章にも書かれているが、木村さんは実は高安国世とも関係のあった方である。「塔」の高安国世追悼号(1985年7月号)にも追悼文を寄せている。
 高安先生にはじめておめにかかったのは昭和二十三年のことだった。
 まだ終戦後まもないその年に、わたくしは旧制高校最後の入学生として三高の門をくぐった。そして先生が部長をしていらっしゃった音楽部に入れていただいたことから先生とのおつきあいが始まった。(…)
二人の接点が「音楽」であったというところが面白い。高安家は代々医者の家系であるが、高安の次姉が東京音楽学校を出ていることからもわかるように、音楽とも縁が深いのである。

posted by 松村正直 at 14:50| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

短歌探偵あらわる(その7)

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【結論】 「葡萄耳人」の歌を作った時に作者の読んでいたものは、新書版の『漱石全集』
     (岩波書店)第5巻所収の『虞美人草』である。
【調査日数】 3日
【調査経費】 1060円(交通費820円、コピー代80円、メール便160円)

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2011年12月30日

短歌探偵あらわる(その6)

岩波書店の『漱石全集』には、時代ごとにいくつもの版がある。現在、古書店や図書館で主に見かけるのは、次のものである。
1956年 全34巻(新書版)
1965年 全16巻(菊判)
1974年 全17巻+別巻1(菊判)
1978年 全35巻(新書版)
1984年 全18巻+別巻1(菊判)
1993年 全28巻+別巻1(四六判)
大きく分けて、新書版(1956、1978)、菊判(1965、1974、1984)、四六判(1993)の3種類があることがわかる。新書版は二回、菊判は三回刊行されているが、それぞれ増補があるだけで内容的には同じものと言っていい。

四六判の全集は最も新しいものであるが、『虞美人草』の入っている第4巻の刊行が1994年で、『モーツァルトの電話帳』(1993年)よりも後である。よって、作者の読んだものではあり得ない。

結局、可能性があるのは新書版(『虞美人草』は第5巻)か菊判(同じく第3巻)ということになる。どちらを見ても、16章に「葡萄耳人(ぽるとがるじん)」という表記を確認することができる。表記だけでは、どちらか一つに決められない。
手に触れて『漱石全集』より落つるいづれの秋の名残りの紅葉
                  『モーツァルトの電話帳』
ただし、この歌にあるように、栞代わりに挟んであった紅葉がはらりと落ちるシーンを想像すると、作者は本を手に持って読んでいるように思う。新書版の方は当然手に持って読めるが、菊判(A5よりやや大きい)の方は分厚くて重くて、手に持って読むのに適していない。普通は机に広げて読むものだろう。

そう考えると、新書版の方が可能性が高いように私は思うのである。


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2011年12月29日

短歌探偵あらわる(その5)

手に触れて『漱石全集』より落つるいづれの秋の名残りの紅葉
                  『モーツァルトの電話帳』
作者はどうやら文庫や単行本ではなく、全集で『虞美人草』を読んだらしい。夏目漱石の全集は、各出版社から時代ごとに何種類もの数が出ている。今年ベストセラーになった三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』の第一話は、まさにこの漱石の全集をめぐる話であった。そこには、こんなやり取りがある。
「あの、『漱石全集』って何回も出てるんですか」
「岩波書店だけではなく、色々な出版社から全集と名の付くものが世に出ています。最後まで刊行されずに中断されたものも含めれば、これまでに三十種類を超えていますね」
さすがに国民作家と呼ばれるだけのことはある。漱石の全集については、矢口進也『漱石全集物語』(青英舎・1985)という本も出ているほどで、それによれば、主なものだけでも
『夏目漱石全集』(全12巻+別巻1) 創芸社 1954
『夏目漱石作品集』(全10巻) 昭和出版社 1960
『漱石文学全集』(全10巻+別巻1) 集英社 1970
『夏目漱石全集』(全10巻+別巻1) 筑摩書房 1971
『夏目漱石全集』(全15巻+別巻1) 角川書店 1973
などを挙げることができる。

しかし、ここが大事なところなのだが、『漱石全集』という名前に限って言えば、それは岩波書店のものと考えて間違いない。他の出版社から出ている全集の名前は、上に挙げた例のように『夏目漱石全集』や『漱石文学全集』であって、『漱石全集』ではないのである。

岩波書店の全集は最も網羅的で、歴史的にも最も定評がある。作者の読んだ『虞美人草』も、岩波書店の『漱石全集』所収のものであったと見て良いだろう。

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2011年12月28日

短歌探偵あらわる(その4)

いろいろな『虞美人草』を見比べてみると、「葡萄耳人(ぽるとがるじん)」という表記が、意外と少ないことに気が付く。書店や図書館の文庫本では、こんな感じである。
新潮文庫(1968)(1989)(2010) 葡萄耳人(ポルトガルじん)
講談社文庫(1973) 葡萄耳人(ポルトガルじん)
新潮文庫や講談社文庫では、ルビの「ぽるとがる」の部分がカタカナの「ポルトガル」になっている。
ちくま文庫(1988) 葡萄耳(ポルトガル)人
岩波文庫(1990) 葡萄耳(ポルトガル)人
ちくま文庫や岩波文庫も「ぽるとがる」がカタカナで、「人」の部分のルビはなし。
角川文庫(1976) ポルトガル人
ひどいのは角川文庫で、漢字表記無しでただの「ポルトガル人」になっている。こうなると、もう漱石の書いた文章とは言えないような気もする。

結局、文庫で「葡萄耳人(ぽるとがるじん)」という表記を守っているのは、岩波文庫の古い版のものだけであった。
岩波文庫(1939) 葡萄耳人(ぽるとがるじん)
では、作者の読んだ『虞美人草』は、この岩波文庫の古い版なのかと言えば、多分そうではない。なぜなら、『モーツァルトの電話帳』には、こんな一首があるのである。
手に触れて『漱石全集』より落つるいづれの秋の名残りの紅葉

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2011年12月27日

樋口覚著 『短歌博物誌』


ジュール・ルナールの『博物誌』や柴田宵曲の『俳諧博物誌』に倣って著された短歌版の博物誌。計140の生き物について、短歌を例に挙げながら、さまざまな角度から論じている。その中にはハッとさせられる指摘も少なくない。
西洋のように電線を地下に埋めないところに、日本特有な風景が生まれる。電線は近代日本に欠かせない要素なのだ。  「烏(からす)」
ガラス製の金魚鉢が現れて普及した魚の鑑賞法で、子規などはガラス障子とともに大いに無聊を慰められたにちがいない。中国渡来の淡水魚で古代和歌にはもちろん歌われなかった。江戸近世の匂いが濃厚にする。  「金魚(きんぎょ)」
解説には古今東西あらゆるものからの引用や知識がちりばめられ、著者の博識ぶりが遺憾なく発揮されている。例えば、こんな感じだ。
(…)馬を主題にした戦後文学の珠玉は小島信夫、武田泰淳、水上勉、伊藤桂一、詩では吉岡実である。戦争と軍馬はクセノフォンの時代から切り離せないが、馬全般の読み物として木下順二の『ぜんぶ馬の話』と、古井由吉編『馬と近代文学』がある。横浜の根岸は近代競馬の発祥地で、それは上海にあった競馬場を真似たものらしい。日本人の馬名のつけかたには驚かされることが多い。
機関銃のように次から次へと新しい話題が出てきて、大量の知識が披露される。しかし、正直に言えば、こうした文章はどうも苦手である。文章が早口なのだ。もっとゆっくり喋ってほしいと思う。

博識、博学ということの価値が、昔と今では変ってきているのではないだろうか。ネットで何でも調べられるようになった今、「歩く百科事典」であること自体には、ほとんど価値がなくなってしまった。むしろ、知識をどのように相手に伝えられるかという点が、これからは大切になってくるのだと思う。

2007年4月20日、文春新書、780円。

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2011年12月26日

短歌探偵あらわる(その3)

小学館の『日本国語大辞典(初版)』(全20巻)の第18巻に、「ポルトガル人」という項目がある。
ポルトガルじん【―人】《名》ポルトガルの国民。人種的には、古イベリア人を基にケルト・ゲルマンなどが混血してできた。*虞美人草〈夏目漱石〉一六「十六世紀頃の葡萄耳(ポルトガル)人が被(かぶ)った帽子の様な恰好ですね」*煙草と悪魔〈芥川龍之介〉「歴史家なら誰でも、葡萄牙(ポルトガル)人とか、西班牙(スペイン)人とか答へる」
二つ載っている用例のうち、芥川龍之介の方は普通に「葡萄牙人」であるが、夏目漱石は「葡萄耳人」と書いている。漱石は他に「倫敦消息」でもこの「葡萄耳人」という表記を用いており、漱石の特徴的な書き方であったことがわかる。

しかも、『虞美人草』のテキストの異同を調べてみると、初出の「東京朝日新聞」(1907)や単行本の初版(春陽堂・1908)においては、普通に「葡萄牙人」であったことがわかる。漱石自身の原稿は「葡萄耳人」なのだが、当時でもそれは誤記と思われて、校正者や出版社によって訂正されたのだろう。「葡萄耳人」という表記は、その後、漱石の全集が編まれる際に復活したもののようだ。

そんなことを考えながら『モーツァルトの電話帳』をもう一度読み返してみると、こんな歌が見つかった。
叡山は頑固な山といふ会話『虞美人草(ぐびじんさう)』の冒頭にあり
『モーツァルトの電話帳』は初句の五十音順で歌が並んでいるという珍しいタイプの歌集なので、「葡萄耳人」の歌とこの歌は別々の場所にあるのだが、それでもたった180首の歌集の中にこの歌があるのは偶然ではないだろう。どうやら「葡萄耳人」は『虞美人草』の中に出てくるものと考えて良いようだ。

これで一件落着と言いたいところだが、そうはいかない。一口に『虞美人草』と言っても、いろいろな種類の本が出版されている。単行本もあれば文庫もあるし、全集だってある。作者が読んだ『虞美人草』は、はたしてその中のどの『虞美人草』であったのだろうか?

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2011年12月25日

短歌探偵あらわる(その2)

明朝の活字しくしく見てをれば歩きはじめる〈葡萄耳人(ぽるとがるじん)〉
                 永井陽子『モーツァルトの電話帳』
まず初めに、この歌の意味について考えてみよう。明朝体で書かれた「葡萄耳人」という活字をじっと見つめていたら、その文字が歩き始めた、ということだろう。横書きになっていると何のことかわからないが、縦書きに直してみるとよくわかる。

     葡
     萄
     耳
     人

何となく、左向きに歩いている人の姿に見えてこないだろうか。絵にしてみるとこんな感じである。

     ●
     ´□〉
     □
     /\

つまり、「葡萄耳人」という文字が次第に人間の形に見えてきて、ついには歩き始めたというのである。永井さんらしい面白い発想の歌だ。

では、この歌の一体どこに謎があるのか。

それは「葡萄耳」という表記に謎があるのである。普通「ポルトガル」という国を漢字で表す場合は「葡萄牙」と書く。広辞苑で「ポルトガル」を引いてみても
ポルトガル【Portugal・葡萄牙】
と載っている。中国語でも同じく「葡萄牙」である。では、歴史的に「葡萄耳」という表記の仕方もあったのかと言えば、どうもそうでもないようだ。それならこれは誤植なのかと言えば、それも違う。

日本人でおそらくただ一人、ポルトガルのことを「葡萄耳」と書いた人物がいるのだ。
それは、夏目漱石である。

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2011年12月24日

短歌探偵あらわる(その1)

「歌壇」2012年1月号から「自歌自戒」という新しい連載が始まった。「ご自身の作品の反省談や失敗談、後日談をご執筆いただきます」という欄で、第1回は藤原龍一郎さんが「固有名詞の誤記」と題して、自作の次の歌を取り上げている。
ああ夕陽 明日(あした)のジョーの明日(あした)さえすでにはるけき昨日(きのう)とならば
この歌に出てくる劇画のタイトル「明日のジョー」が、正しくは「あしたのジョー」であるという内容だ。この点については、私も以前『短歌は記憶する』の中の「サブカルチャーと時代精神」という文章で詳しく触れたことがある。

短歌を読んでいると、良い歌かどうかといったこと以外に、いろいろな点で謎や疑問を覚えて、詳しく調べてみることがけっこうある。調べ始めるとどんどん深入りして、短歌そのものから離れてしまうことも多い。

今日もまた、私は新たな謎にぶつかった。それは次の歌である。
明朝の活字しくしく見てをれば歩きはじめる〈葡萄耳人(ぽるとがるじん)〉
                 永井陽子『モーツァルトの電話帳』
この歌を作った時に作者が読んでいたものは何か? この問題を解くことが、今回の私に与えられたミッションである。

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2011年12月23日

紙一重

『[同時代]としての女性短歌』(1992年)という本のなかに、「[時代]の中の女性短歌」という座談会が載っている。今から20年ほど前のものだ。

参加者は、沖ななも、河野裕子、道浦母都子、永井陽子の4名。女性短歌の現状について、かなりざっくばらんな議論が交わされていて、今読んでも非常に面白い。最初に河野さんが松平盟子歌集『シュガー』について「離婚歌集」という言い方をすると、すかさず道浦さんが
道浦 「離婚歌集」という言い方は、作者に対して失礼です。
と、口を挟む。そんなふうに、お互いに遠慮することなく、がんがん意見を言い合って話が進んでいく。こんな座談会なら楽しいだろうなと思う。

さて、その中に「私性」をめぐってのやり取りがある。
河野 “私”というのは、まったき虚構の“私”“われ”を出してきても、なぜか不思議に詩型の側から反発するのね。生ま身の“われ”が少しでも見えていたほうが、リアリティがあっておもしろいのね。
道浦 読むほうもそれを求めているんです。
河野 それは何でだろうか。
永井 すごく裏腹な部分があって片腹痛いんだけれども、うたをつくる以上、汲み取ってほしい部分というのが、やはりあるでしょう。ここのところは本当なんだから、と。
河野 あるんですよ。
永井 でも、切り離してほしい部分もたくさんあるわけで、そこがうたの虚構の部分、それこそ紙一重の微妙な部分なんですね。
河野 本当に微妙なところよね。(…)
「汲み取ってほしい部分」と「切り離してほしい部分」が紙一重に存在するということ。これは実作者としてよくわかる発言である。そうした一人称の微妙な部分を、あっさり二項対立で分けることなど、やはり無理なことのように思うのだ。

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2011年12月22日

クリスマスツリー

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息子の小学校は今日が終業式。
いよいよ冬休みである。

写真は、毎年使っているわが家のミニクリスマスツリー(折りたたみ式)。
ツリーは変らないのだが、年々飾り付けが増えていく。

今年も知り合いの方からいただいた赤いトナカイの飾りを
仲間入りさせた。

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2011年12月21日

「短歌研究」2011年12月号

「2011年歌壇展望座談会」の中で、河野裕子の「われ」やその後の世代の女性歌人(小島ゆかり、米川千嘉子など)についての話を受けて、穂村弘が次のように発言している。
穂村 その一人称がもうちょっと、永井陽子さんとか、紀野恵さんとか、水原紫苑さんとか、そういうバリエーションがあって価値が多様ならいいと思うんだけれども、どうも違いますね。やはりその人生に即した一人称で歌っている人のほうが主流という印象があって、永井陽子さんは死後評価されたと思いますけど、生前、十分評価されたという感じはしないし。
穂村さんの描く図式は下記のようなものであろう。

○人生に即した「われ」  河野裕子、小島ゆかり、米川千嘉子(主流)
○人生に即さない「われ」 永井陽子、紀野恵、水原紫苑(非主流)

発言の意味するところはよくわかるし、大筋では同意できるのだが、どうも違和感が残る。この二項対立の図式は、少し単純すぎるのではないだろうか?

例えば、河野さんの
お嬢さんの金魚よねと水槽のうへから言へりええと言つておよぐ  『歩く』
豆ごはんの中の豆たち三年生、こつちこつちと言ひて隠れる    『季の栞』
といった歌は、こうした図式からは抜け落ちてしまうだろう。
また、永井さんの
つくねんと日暮れの部屋に座りをり過去世のひとのごとき母親   『てまり唄』
マンションへ来てしまひたる鍋釜を網タワシにてみぢやみぢや磨く
                             『小さなヴァイオリンが欲しくて』
などの歌も、なかったことになってしまう。
そうすると、河野さんの歌も永井さんの歌も、魅力が半減してしまうような気がする。

現代短歌に対する穂村さんの分析はいつも鋭くて、座談会でもパネルディスカッションでも、穂村さんの提示した枠組みに沿って話が進んでいくことが多い。けれども、その枠組み自体を、本当にそうなのか疑ってみる必要があるだろう。

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2011年12月20日

黒溝台(その7)

茂吉が昭和5年に黒溝台を訪れるより早く、大正14年に平福百穂がこの地を訪れている。平福百穂は画家であるとともにアララギの歌人で茂吉の友人であった。

百穂(本名貞蔵)には長兄恒蔵、次兄善蔵、三兄健蔵という三人の兄がいたが、このうち三兄である大和健蔵が、この黒溝台で戦死しているのである。百穂は大正14年に朝鮮美術展覧会の審査のため朝鮮に渡ったのち、満洲へも足を運び、黒溝台を訪れている。

百穂の歌集『寒竹』(昭和2年)には、「弔黒溝台戦蹟」21首、「黒溝台にて」16首がある。
夜をつぎて戦ひ止まぬこの原にみちのくの兵士多くはてける
この原に屍(かばね)重なりはてにける我がみちのくの兵をかなしむ
土凍てて見とほす原のま面(おもて)に戦ひはてしかあはれ吾が兄は
玉の緒の絶えなむとせしきはみまで銃(つつ)を握りてありけむわが兄(せ)
わが兄の斃れし原に日は暮れてきびしき凍りいたりけむかも
ここでもキーワードは「みちのく」である。自分の兄の死を悼むのはもちろんのこと、「みちのくの兵」全体を悼む内容になっている。平福百穂もまた東北は秋田県角館町の出身であった。

百穂の三兄健蔵は将校ではなかったようで、『第八師団戦史』を見ても「黒溝台会戦に於ける準士官以上死傷者」には名前が載っていない。ちなみに、準士官とは陸軍では「特務曹長(のちの准尉)」のことを指す。

しかし、この本の巻末附録には「第八師団戦死者の武勲表彰」が載っており、「黒溝台戦死者と金鵄勲章」の中の歩兵第17聯隊の戦死者として
功七級勲八等 軍曹 大和健蔵
の名前を確認することができる(138ページ)。平福百穂の三兄健蔵は、黒溝台で戦死して、功七級勲八等に叙せられたのである。

*「黒溝台」については、今回でひとまず終わりにします。お読みいただき、ありがとうございました。

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2011年12月19日

黒溝台(その6)

さて、日露戦争は、日本人が初めて経験した本格的な対外戦争であった。人々が初めて身近に戦死者を感じることになったのである。それは、茂吉が自らの子ども時代のことを描いた随筆「念珠集」の中の「日露の役」という文章にも、よく表れている。
日露戦役(にちろせんえき)のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、黒溝台(こくこうだい)から奉天(ほうてん)の方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では誰彼が戦死した。この村では誰彼が負傷したといふ噂が毎日のやうにあつた。恰(あたか)も奉天の包囲線が酣(たけなは)になつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、袴を穿きそれから羽織を着た。それから弓張を灯(とも)し、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が偶々(たまたま)帰省したりすると嫂(あね)などがよく話して聞かせたものである。
近隣の村々から戦死者や戦傷者が次々に出て、不安な気持ちで日々を過ごしている家族の様子が伝わってくる。そんな折に、聯隊司令部から電報が届いたのだ。おそらく家族たちは広吉の死を覚悟したことだろう。

幸いなことに、広吉は死んではいなかった。広吉は黒溝台会戦(1905年1月25日〜29日)のあと、陸軍の最大の戦いであった奉天会戦(同年3月1日〜10日)に参加し、そこで負傷したのである。

こうした戦いの詳細については、明治39年に出版された『第八師団戦史』という本に詳しい。これは、現在、近代デジタルライブラリーで全編を読むことができる。

その125ページを見ると「奉天附近会戦における富岡旅団将校戦死負傷者人名は左記の如し」として戦死者、戦傷者の名前が列挙されている。その中に、富岡旅団岩本聯隊(後備歩兵第8師団後備歩兵第17聯隊)の戦傷者として
 歩兵中尉 守谷広吉
の名前を確認することができる。

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2011年12月18日

黒溝台(その5)

茂吉の第1歌集『赤光』には、日露戦争に行っている兄のことを詠んだ歌が入っている。明治38年の歌で、茂吉の最も早い時期の作品である。(引用は改選版より)
書(ふみ)よみて賢(かしこ)くなれと戦場(せんぢやう)のわが兄(あに)は銭(ぜに)を呉(く)れたまひたり
戦場(せんぢやう)の兄(あに)よりとどきし銭(ぜに)もちて泣き居たりけり涙おちつつ
真夏日(まなつひ)の畑(はたけ)のなかに我(われ)居(を)りて戦(たたか)ふ兄(あに)をおもひけるかな
日露戦争には長兄広吉、次兄富太郎の二人が出征している。1、2首目に登場する兄は、そのうち次兄の富太郎ではないかと言われている。

これらの歌を読むと、茂吉はまだ少年で実家にいるような感じを受けるのだが、実際はそうではない。茂吉は既に23歳。東京にいて旧制第一高校から東京帝国大学へと進学する時期である。また、子規の『竹の里歌』を読んで、本格的に歌作りを始めたところであった。

『赤光』は初版(大正2年)と改選版(大正10年)では歌の並べ方をはじめ大きな違いがある。上記の1、2首目も改作が施されているが、3首目などは全く違う歌になっている。初版ではこういう歌であった。
かがやける真夏日のもとたらちねは戦(いくさ)を思ふ桑の実くろし

なんと、初版では母が戦争を思っている歌であったのが、改選版では自分が戦場の兄を思っている歌に変っているのである。このあたりの茂吉の心理もなかなか興味深いところだ。

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2011年12月17日

黒溝台(その4)

茂吉は「童馬山房夜話」でも「黒溝台戦」(昭和10年5月号)、「第八師団戦記」(昭和10年6月号)の2回にわたって、黒溝台のことを取り上げている。
 日露戦争三十周年に当るので、新聞で回顧座談会を載せ、とりどりに有益であつた。ある日、某将軍が黒溝台戦の話をして、『東北の師団の兵は鈍重だが、大敵にむかふと強い』といふことを云つて居られた。
 私は昭和五年の初冬に、八木沼丈夫君に導かれて親しく黒溝台の戦蹟を訪ひ、陣歿した、私の小学校の友達などの霊を弔つたのであつた。
 この劇戦に長兄守谷広吉は中尉小隊長として、従弟、高湯温泉の斎藤平六は軍曹分隊長として戦つた。二人とも幾遍も死を覚悟し直した話をした。四昼夜の劇戦で、しまひには眠いので、死が恐ろしくなくなつた話などをした。
 この三十周年記念に、私は、『三とせまへ身まかりゆける我が兄は黒溝台戦に生きのこりけり』といふ一首を作つた。これは雑誌改造に載つた筈である。
ここでも「東北の師団の兵」の活躍が誇らしげに記されている。「小学校の友達」が戦死していることからもわかるように、日露戦争は茂吉にとっても他人事ではなかったのだ。

また、『暁紅』に収められた「三とせまへ・・・」という歌が作られた理由もこれでよくわかる。兄の死から三年経ってこの歌が詠まれたのには、日露戦争三十周年記念という契機があったのだ。
A うつせみのいのち絶(た)えたるわが兄は黒溝台(こくこうだい)に生きのこり
  けり          第9歌集『石泉』(昭和26年刊)
B 三年(みとせ)まへに身まかりゆけるわが兄は黒溝台戦(こくこうだいせん)に
  生き残りけり     第11歌集『暁紅』(昭和15年刊)
では、AとBとは、どちらが早く作られた歌なのだろうか? Bが昭和10年の作であることは、この「童馬山房夜話」の文章からも明らかだろう(初出と歌集とでは細かな異動があるが)。

一方のAについてだが、昭和19年に書かれた「作歌四十年」の中で、当時まだ刊行されていなかった『石泉』の歌として、この一首が引かれている。つまり、昭和6年の広吉の死〜昭和19年の間に作られた歌ということになる。

はたして、それは昭和10年より前なのか後なのか。結論はまだ出ない。普通に考えればAの歌が先に作られたとなるのだろうが、もしかするとBの歌の方が先にあって、その後でAの歌が作られたという可能性も捨てきれない気がするのである。

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2011年12月16日

黒溝台(その3)

ここで黒溝台戦当時の日本陸軍の編成について、簡単に触れておきたい。関係のある部分だけ簡略に記すと次のようになる。

◎第2軍
  ○第3師団
  ○第4師団
  ○第5師団
  ○第8師団
    ・歩兵第5聯隊(青森)
    ・歩兵第17聯隊(秋田)
    ・歩兵第31聯隊(弘前)
    ・歩兵第32聯隊(山形)
  ○後備歩兵第8旅団
    ・後備歩兵第5聯隊
    ・後備歩兵第17聯隊
    ・後備歩兵第31聯隊
  ○騎兵第1旅団(旅団長 秋山好古)

茂吉の長兄広吉は「第8師団」とは別に編成された「後備歩兵第8旅団」の「後備歩兵第17聯隊」所属ということになる。次兄の富太郎も日露戦争に出征しているが、こちらは後備歩兵第32聯隊の所属で、朝鮮に渡っていたらしい。

「後備」とは戦争が長引いた時などに投入される補充部隊のこと。7年間の常備兵役(現役3年+予備役4年)を終えた後備兵役(5年間)の人員で編成されており、当然平均年齢も高かった。

日露戦争の開戦当時、長兄広吉は30歳、次兄富太郎は28歳。二人とも既に常備兵役は終えて後備兵役の期間であった。つまり、戦争が長引きさえしなければ、出征することもなかったのだ。

一方の茂吉は1882年生まれの22歳。まさに現役兵の年齢である。東京に出て、旧制第一高校から東京帝国大学へという人生をたどらなければ、あるいは茂吉の方こそ黒溝台で戦っていたかもしれないのである。

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2011年12月15日

黒溝台(その2)

茂吉は長兄広吉が亡くなる前年の昭和5年10月に、満鉄に招かれて満洲各地を旅している。その際に黒溝台も訪れ、ここから広吉に宛てて手紙を出している。
[十月二十三日 日本山形県南村山郡堀田村金瓶 守谷広吉様 黒溝台より]
昭和五年十月廿三日遼陽県黒溝台にまゐり兄上の苦戦の跡を偲ぶ 斎藤茂吉
この時の生々しい記憶が、「黒溝台に生きのこりけり」の歌にも当然反映しているのだろう。茂吉はこの地で「黒溝台」19首を残している。
わが兄の戦ひたりしあとどころ蘇麻堡(そまほ)を過ぎてこころたかぶる 『連山』
八師団の兵の築きし土堡(どほ)一部残れるがうへに暫したたずむ
こもごもに心に迫(せま)るものありて黒溝台の夜(よる)をねむらず
機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵(とうほくへい)を吾はおもひつ
2首目に出てくる「第八師団」は日清戦争後に増設された師団で、東北出身者の多い師団として知られていた。4首目の「東北兵」にも、もちろん山形県出身である茂吉のふるさとに対する思いがこめられている。

この黒溝台行きのことは「満洲遊記」にも描かれており、これらの歌の背景を詳しく知ることができる。
この蘇麻堡は黒溝台戦の激戦地で、黒溝台を退却した第八師団の兵は暫く此処に拠つて防戦したところである。長兄のゐた後備歩兵第八旅団も此処を防ぎ、山形の歩兵第三十二聯隊もこの蘇麻堡の前面に立止まつたのである。長兄はよく蘇麻堡のことを話したものである。其処を行くと、一面勾配のゆるい畑地で、其処に、秋田の第十七聯隊、青森の第三十一聯隊、山形の第三十二聯隊の兵等の嘗て築いた土堡のあとが未だ処々に残つてゐる。(…)東北兵は、事実上雲霞の如き敵に対し、雪の上にへばりついて此処を突破せしめなかつた処である。私の小学校の友も、村の貧農のせがれも此処に命をおとした。
「山形」「秋田」「青森」といった言葉が続々と登場する点に注目したい。「歩兵第三十二聯隊」で十分なところを、わざわざ「山形の」と付けているのだ。この文章を読むと、茂吉の黒溝台に対する思い入れは、単に兄が戦った場所というだけにとどまらないことがよくわかる。キーワードは「東北」なのである。

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2011年12月13日

黒溝台(その1)

先日の品田悦一さんの講演の中で、斎藤茂吉の次の歌が取り上げられた。
うつせみのいのち絶(た)えたるわが兄は黒溝台(こくこうだい)に生きのこりけり
昭和6年11月13日の長兄広吉の死を詠んだもので、第9歌集『石泉』に収められている。この歌の面白さについては、小池光『茂吉を読む』に詳しい。黒溝台は日露戦争の激戦地として有名な場所。(詳しくは→こちら

今回、問題にしたいのは、これによく似た歌がもう一首、茂吉にあるということである。
三年(みとせ)まへに身まかりゆけるわが兄は黒溝台戦(こくこうだいせん)に生き残りけり

第11歌集『暁紅』に収められた歌で、昭和10年の作品。先に挙げた歌と、何ともよく似ている。

普通に考えれば、昭和6年に先の歌を詠んだ茂吉が、約3年後の昭和10年になって再び後の歌を詠んだということになるだろう。しかし、茂吉の歌について考える場合、そう簡単に結論を出すことはできない。詠われている時期と、歌を作った時期とに大きなズレがあるからだ。

歌集の出版年で言えば、『石泉』は昭和26年で、『暁紅』が昭和15年。後者の方がはるかに早いのである。つまり、「うつせみの・・・」の歌の初出を調べない限り、どちらが先に作られた歌かという結論は出ないわけだ。

ちなみに、昭和6年当時の手帳(手帳26)を見ると、そこには歌の原型となったと思われる、次のようなメモが残されている。
はげしかりしことをもへはわが兄は黒溝台にいきのこりたり


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2011年12月12日

新食彩あかさき

週末に出張で関西に来ていた兄と18:30に京都駅で待ち合わせ。七条通に面している「新食彩 あかさき」というお店に初めて行った。10月にオープンしたばかりという新しい店であったが、京生麩と豆腐の揚げ出し、小芋煮の唐揚げ、石焼パエリアなど、どれも美味しかった。お店の人の応対も丁寧で感じがいい。

息子は兄と会うのは一年ぶりくらいなので、嬉しかったらしく、自作のパズルをノートに書いて出題したりと、大いにはしゃいでいた。兄も元気そうで何より。学会誌の編集をしているとのことで、結社誌の編集をしている僕とどこか共通点があるのかもしれない。21:00前に京都駅で解散。

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2011年12月10日

『万葉集の発明』のこと


品田悦一さんの『万葉集の発明』が、現在、品切・重版未定で手に入らない状態だという。今日、その話を聞いて驚いてしまった。

あれだけ評判になった名著が、たった10年で読めなくなってしまうのである。「日本の古本屋」で検索しても出ていないし、アマゾンで検索すると13000円という値が付いている。

何とかならないのだろうか。

今年評判になった『斎藤茂吉』を読んで、前著『万葉集の発明』を読みたいと思う人も多いだろう。そんな時に、既に入手できなくなっているというのでは、何とも残念で仕方がない。


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2011年12月09日

「フェニキス」と高安国世

『高安国世全歌集』に収められている年譜(光田和伸編)は、現在もっとも詳細で信頼に足る高安の年譜であるが、何ヶ所か疑問に思う点もある。例えば昭和二十二年に
七月、大阪で河村盛明・丸井茂仁らにより「フェニキス」創刊、協力する。
という記述がある。この「フェニキス」と高安国世との関わりも、疑問に思っていることの一つである。

「フェニキス」は井上美地さんを中心とした綱手短歌会のメンバーの手で、全29冊 (昭和22年7月〜25年2月)の復刻版が出ており、今でも手軽に読むことができる。「フェニキス」という誌名が斎藤茂吉の
灰燼の中より吾もフエニキスとなりてし飛ばむ小さけれども
から取られていることは、毎号この一首が巻頭に掲げてあることからもよくわかる。

さて、その「フェニキス」であるが、どこを探してみても高安の歌もなければ文章も載っていないのである。84名の名前と住所が載っている同人名簿(18号)にも、高安の名前はない。この点、毎号のように歌を載せていた「ぎしぎし」とは全く違う。年譜に記された「協力」とは一体何を意味しているのだろう。

「フェニキス」には第二次「フェニキス」(12冊)というのもあり、そちらは未確認なのだが、少なくとも昭和22年創刊の第一次「フェニキス」に高安国世が関わっていた形跡は見つからない。

posted by 松村正直 at 20:23| Comment(2) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月08日

車谷不動磨崖仏

IMG_2918.JPG

湖南市立甲西図書館で開かれている「歌人河野裕子〜ふるさと石部時代」展に行く。JR草津線の甲西駅から歩いて10分ほど。

図書館の2階のスペースを使って、滋賀県を詠んだ歌や著作が展示されているほか、小学校時代の先生や親友、教師時代の教え子たちのコメントなどが紹介されている。こうしたナマの声はとても貴重なものだろう。他にも甲斐雍人さんとのツーショットの写真や姪の森島朋子さん宛の手紙など、初めて見るものも多く、楽しかった。

その後、観光案内版を見ると、近くに磨崖仏があるようなので、小雨の降るなかをとぼとぼ歩いて行く。川幅の広い野洲川を渡って、途中で道に迷いながらも何とか到着。

高さ425cm、宝剣の長さ230cmというかなり大きな不動明王である。江戸時代の作で文化財としての価値はそれほど高くないようだが、その迫力といい、表情といい、なかなか良いものであった。

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2011年12月07日

石川九楊著 『書く―言葉・文字・書』


筆先が紙に触れる部分に生じる微粒子的律動、すなわち筆蝕こそが書や書くことの本質であるというのが著者の主張である。『書とはどういう芸術か―筆蝕の美学』や『書に通ず』などと重複する点も多いが、さまざまな例を挙げて繰り返しこの考えが述べられている。

簡単に言えば、黒板にチョークをぽきぽき折りながら字を書くのと、ホワイトボードのつるんとした面にペンで字を書くのとでは、実はやっていることが全く違うということだ。当然、ワープロに対する見方は厳しいものになる。
ワープロ作文は、文や詩や手紙文をつくる上で必須の筆蝕を欠くことによって、微細にして重大な創造の要素を欠落した代用文字にすぎない。
こう指摘されると、普段ワープロで文章や短歌をつくっている身としては、なかなかつらいものがある。

他にも印象に残った部分をいくつか。
「書くこと」は歴史的に「刻ること」を吸収して存在するようになった。石に刻られた文字と字画にも別段色彩があるわけではない。ところが、刻られた文字の字画には光が届かず、深い翳を見せる。その刻り跡の翳=陰=影の比喩が墨である。
東アジア漢字文明圏には「晴耕雨読」なる語があるが、これは、読むことと耕作することが「かく」ことによって相通じていることを前提として成立する熟語である。
2009年9月25日、中公新書、740円。

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2011年12月06日

角川「短歌年鑑」平成24年版

短歌に関する文章を書く場合、自分の思っていること、考えていることを、最後まではっきりと、遠慮せずに書くことが大切だと思っている。はっきりと書くことには、もちろんリスクが伴う。けれども、リスクを伴わないような発言や文章が力を持つはずもない。

そういう意味で、加藤治郎「想像力の回復を」、吉川宏志「当事者と少数者」の2編は、ともに印象に残る文章であった。それぞれ小池光の『ミドリツキノワ』評や岡井隆の「大震災後に一歌人の思ったこと」に対する異論を含んでいるのだが、きちんと自らの考えを表明して最後まで書き切っている。

立場や賛否は別にして、こうした文章は読んでいて気持ちが良い。そして、ここからさらに新たな議論へと発展していく可能性が開かれている。十分な覚悟をもって書いた文章だからこそ、次の議論へのステップになり得るのだ。

posted by 松村正直 at 23:28| Comment(0) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月05日

岸上大作

1960年の今日、12月5日に岸上大作は亡くなった。『意志表示』は有名な歌集であるが、岸上の歌はどう見てもへたである。言葉を詰め込もうとして意味が不明瞭になっている歌が多い。良いと思える歌はほとんどない。
海のこと言いてあがりし屋上に風に乱れる髪をみている  『意志表示』
請い願う群れのひとりとして思う姿なきエリート描きしカフカ
冬の河底浅く水をたたえおり空を映して水は動かず
21歳で亡くなったことを思えば、ある程度の未熟さは仕方がないのだろうけれど。


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2011年12月04日

『松平修文歌集』


現代短歌文庫の『松平修文歌集』に全編収録されている歌集『水村』を読む。昭和54年に出た第一歌集。繊細で美しく完成度の高い作品がならんでいる。

「水村」(すいそん)は水のほとりの村という感じだろうか。漢詩の「水村山郭酒旗の風」を思い出す。この歌集には、確かに水のイメージが一貫して流れている。
山川へおとしし懐中電灯のあかりに魚のかげふえてきぬ
雪解水よき音たてて流れゐるほとりに梅の花咲きはじむ
あなたからきたるはがきのかきだしの「雨ですね」さう、けふもさみだれ
あめんぼう ゐぐさ とうすみ さぎ うぐひ 飼ひならず娘(こ)は名を「川」といふ
田を植ゑて少女立ち去るまで風にかほをあらはれつつ丘にあり
産み了へて雪ふる川をながれゐる鱒は浄土へゆくと思ふも
走るとき馬の胃の腑にささめける一つかみほどのれんげ草なり
春の日に捨てし人形つるくさの虜となりて樹のうへにあり
夜の空に池あれば亡父(ちち)が釣人となりてさかさに立つそのほとり
奔流の行手をはばむ岩のうへ茎あかあかといたどりそよぐ

2011年10月20日、砂子屋書房、1600円。

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2011年12月03日

十年

十年前の12月2日は日曜日だった。

その頃は、「塔」の再校作業を毎月第1日曜日に行っていて、その日も午後から京阪電車と叡山電鉄を乗り継いで、岩倉にある永田家まで出かけた。永田家がまだ建て直し前の建物だった頃のことだ。

僕はその年の4月に京都に移ってきたばかりで、再校には5月から参加し始め、ようやく半年が経ったところだった。その日に書いた編集後記は「塔」2002年1月号に載っている。
▼今日(12月2日)の明け方に長男が生まれた。病院に着いて一時間あまりのスピード出産。生まれたての顔は何だかビリケンに似ている。 (松村)
他の参加メンバーの方から「こんなとこに来てていいの?」とか言われるたびに、「いやぁ、病院にいても何もすることないですから」などと笑って答えていたのを懐かしく思い出す。

あれから、もう十年が過ぎたのだ。
五年後は五歳、十年後は十歳、子の年齢で未来を計る
             『やさしい鮫』

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