2011年01月31日

花電車(その3)

次に、この花電車がいつ走っていたものかを考えてみたい。

これについては、河野さんの文章の中に「十八歳の秋、ちょうど九月のなか頃」とある。つまり1964年の9月中旬ということだ。

さらに細かく見ていくことにしよう。

「はなやかに月が照り、湖はいちめんに銀色に輝きわたり」という描写がある。ここから、満月かそれに近い夜だったことがわかるだろう。当時の月の出の時刻や月齢を調べてみると、9月21日(月)が満月であったようだ。月の出は大津市で18:03となっている。この文章の舞台となっている堅田は琵琶湖の西岸にあるので、東から昇る満月をちょうど湖の正面に見あげる形になる。

もう一つの手掛かりは、泊りに行った先が中学校時代の先生の所だということだ。この先生は「存命ならば八十六歳になっておられるはずだ」と書かれているので、1964年当時は40歳くらい。まだ中学校の先生を続けていたと考えていいだろう。となると、平日に泊まりに行くよりも、週末に泊まりに行ったと考える方が自然だ。9月19日(土)か20日(日)という線が浮かんでくる。(つづく)

posted by 松村正直 at 22:47| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月30日

武田徹『殺して忘れる社会』


評論家・ジャーナルストである著者が、産経新聞大阪版夕刊に「複眼鏡」と題して連載したコラムをテーマ別にまとめたもの。全6章のタイトルは「ネットのルールと街の掟」「マスメディアの没落、ジャーナリズムの黄昏」「多様化せず、格差化する社会」「リスク社会を生きる」「新たな「核論」のために」「テクノロジーに飼い慣らされないために」となっている。

時事的な社会問題や事件・事故などを取り上げながら、著者が一貫して語っているのは「内向きに閉じずに開いておく」「排除せずに受け入れる」「忘れずに関心を持ち続ける」といったことだ。そこから逆にゼロ年代の社会というものの姿も浮かび上がってくるように思う。

本書は物事を違った角度から見ることの大切さも教えてくれるが、特にJR福知山線の脱線事故について書かれた文章の中で、鉄道の軌道幅をめぐる歴史的な経緯に触れながら、次のように記しているのが印象に残った。
(…)関西ではJRと私鉄が並行して走る路線が多く、熾烈な競争が繰り広げられているが、(…)JR在来線は狭軌、私鉄の多くは標準軌なのだ。つまりその戦いは、骨格で劣るJRが偉丈夫の私鉄に挑むようなもの。JRは初めからハンディを負っている。

事故の背景にこうした側面があったことを知っておくのは、大切なことかもしれない。

2010年11月30日、河出書房新社、1600円。

posted by 松村正直 at 22:16| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月29日

花電車(その2)

まず、この花電車がどこを走っていたのかということを考えたい。

琵琶湖の西岸と言えば真っ先に思い浮かぶのはJR湖西線である。琵琶湖西岸を通り、京都の山科駅と滋賀県の近江塩津駅(琵琶湖の北)を結ぶ路線。関西と北陸を行き来する特急「サンダーバード」「雷鳥」は、米原経由で琵琶湖東岸を通るのではなく、この湖西線で琵琶湖西岸を通って行く。

しかし、どうも違う。湖西線というのはほとんどが高架とトンネルで出来ている路線であり、「琵琶湖のほとりを一輌の花電車が走っている」といった雰囲気ではないのである。それもそのはずで、湖西線は1974(昭和49)年開通という比較的新しい路線なのだ。

エッセイに書かれている場面は、河野さんの「十八歳の秋」とあるので、1964(昭和39)年の秋のこと。湖西線はまだ誕生していない。湖西線以前に琵琶湖の西岸を走っていたのは民営の江若(こうじゃく)鉄道である。地元の人々の出資で1921(大正6)年に開業した鉄道で、琵琶湖南岸の浜大津から北西岸の近江今津までの51キロを結んでいた。

江若鉄道は、その名前の通り、当初近江と若狭を結ぶ路線として計画されたが、結局若狭への延伸は実現することなく、近江今津止まりの非電化のローカル線であった。付近には琵琶湖の水泳場などが多く、夏のシーズンには賑わっていたようだ。

終点の近江今津の二つ前には「饗庭駅」があった。永田さんの生まれた土地である。
単線の江若鉄道いまは無く母無くかの日の父と子もなし
                     永田和宏『やぐるま』(1986年)

(つづく)
posted by 松村正直 at 21:46| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月28日

花電車(その1)

文学作品に出てくる鉄道ということでは、私にも取り上げたいものがある。昨年出版された永田和宏・河野裕子著『京都うた紀行』だ。この中で、滋賀県の琵琶湖西岸の地「堅田」について、河野さんが印象的な文章を書いている。高校三年生の時に入院して休学をすることになった河野さんが、外泊を許されて、堅田に住む中学時代の先生の所に泊まりにいった場面である。
夜に縁側で、昼間、摘み溜めておいた彼岸花の茎を折って手遊びをしていると、カラカラと軽やかな音がする。目をあげると、琵琶湖のほとりを一輌の花電車が走っている。はなやかに月が照り、湖はいちめん銀色に輝きわたり、ちいさな花電車は明るく、この世のものではないように美しい。わたしは夢を見ているのだと思った。

エッセイの最後には次のような歌が載っている。
しろがねに月輝(て)る湖辺(うみべ)を北に向き彼(か)の花電車いづく行きにし

この花電車の正体(?)について、少し考えてみたいと思う。

花電車とは花や電球などで飾り付けをほどこした電車のことで、祝いごとやイベントなどの際に運行された。戦前は皇室関係の「御成婚」「御即位御大礼」などのほか、「天長節」「帝都復興式典祭」「東亜勧業博覧会」「明治神宮鎮座祭」「満州国皇帝陛下御来訪」「大英帝国皇太子殿下御来朝」「大阪城公園落成」など、実にさまざまな機会に花電車が走っている。

戦後もこうした習慣は長く続いたようで、祭やイベントなどの際に市内を走る路面電車で花電車の走る姿がよく見られた。各地で路面電車が廃止されたのちは、代わりに花バスなどが走ることもあったが、最近では花電車も花バスもほとんど見かけなくなったように思う。(つづく)

posted by 松村正直 at 22:05| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月26日

小池滋 『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』


文学小説の中に出てくる鉄道を取り上げて、さまざまな角度から考察するユニークなエッセイ集。全8編。登場するのは夏目漱石『坊っちゃん』をはじめ、佐藤春夫『田園の憂鬱』、芥川龍之介『蜜柑』など文学史に残る名作ばかり。
ある作品を読んで面白かったと満足すると、その作品を目を皿のようにして読み返し、作者が書いてくれなかったこと、ちょっとだけ書いてやめてしまったことなどをほじくり返して、もう一度別の、あるいは裏の物語をでっち上げたくなるのが、わたしのくせなのだ。

と書いているように、歴史的な事実と照らし合わせながら作品の背後に潜む物語を浮かび上がらせる手腕が見事だ。小説の中のわずかな描写や台詞などを手がかりに、一つ一つ推理を重ねて、見えない謎を解き明かしていく。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』をめぐる話(「銀河鉄道は軽便鉄道であったのか」)の中に、岩手軽便鉄道や釜石鉱山鉄道のことが出てくる。少し前に読んだ『ニッポンの穴紀行』にも、ちょうどそのあたりの話が載っていた。全く別のジャンルの本が、こんなふうにクロスする偶然というのも嬉しい。

2008年10月1日、新潮文庫、400円。
posted by 松村正直 at 22:28| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月25日

ゆにかねっと(その3)

ゆにかねっと(その3)

県立長野図書館の歌集をHPで検索してみると、古い歌集の多くが配架場所に「高安文庫」と表示されていることがわかる。つまり、高安国世の旧蔵書なのである。

高安国世文庫の開設の経緯について、広報誌「図書館ながのけん」第25号(2010年3月)には次のように記されている。
 平成13(2001)年8月、長野市在住の歌人である清原日出夫氏の師が、国世であったというご縁により、国世の蔵書の一部をご遺族から寄贈していただくことになりました。最終的には約1500冊を受け入れ、今では手に入らない貴重な資料も数多く収蔵できました。そこで、広く県民の皆様にご利用いただけるよう、高安国世文庫コーナーとして開設するに至りました。

つまり、高安国世(1913〜1984)の蔵書が妻の和子(1912〜1998)の死後、清原日出夫(1937〜2004)の仲介によって、県立長野図書館に寄贈されたということらしい。高安山荘がある長野県は、高安国世がしばしば訪れたゆかりの土地であった。

1500冊の蔵書の目録の中から、目に付いたものをいくつか挙げてみよう。
島木赤彦・中村憲吉『馬鈴薯の花』(1925)、『長塚節歌集』(1930)、『渡辺直己歌集』(1940)、近藤芳美『早春歌』(1948)、三国玲子『空を指す枝』(1954)、河野愛子『木の間の道』(1955)、岡井隆『斉唱』(1956)、富小路禎子『未明のしらべ』(1956)、塚本邦雄『日本人霊歌』(1958)、葛原妙子『原牛』(1959)、安立スハル『この梅生ずべし』(1964)、佐佐木幸綱『群黎』(1970)、小池光『廃駅』(1982)、井辻朱美『地球追放』(1982)

全集などでは、次のようなものがある。
『現代短歌大系』(三一書房)12巻、土屋文明『万葉集私注』(筑摩書房)20巻、『昭和万葉集』(講談社)20巻、『現代短歌全集』(筑摩書房)15巻、『源氏物語』(中央公論社)26巻、『斎藤茂吉全集』(岩波書店)55巻、『芥川龍之介全集』(岩波書店)10巻、『子規全集』(改造社)22巻

今年の夏の「塔」の全国大会は長野で行われることになっている。その時に、県立長野図書館にも、ぜひ足を運んでみたい。

posted by 松村正直 at 00:33| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月24日

歌人と校歌

学校でうたわれる校歌には、けっこう著名な詩人、歌人、文学者などが作詞したものが多い。歌人が作詞した校歌の例をいくつか挙げてみよう。学校のホームページなどから簡単に見たり聞いたりすることができる。

島木赤彦  秋田県立角館高等学校
土岐善麿  東京都立大崎高等学校
宮 柊二  新潟県魚沼市立堀之内中学校
近藤芳美  広島県世羅町立世羅中学校
塚本邦雄  神奈川県横浜市立釜利谷南小学校
岡井 隆  愛知県刈谷市立朝日中学校
俵 万智  宮城県塩釜高等学校

歌人と学校の組み合わせはランダムではなく、その歌人の出身地やゆかりのある土地の学校から作詞を依頼されることが多いようだ。

校歌というのは大体どれも似たような内容だと思うのだが、それでもこうして並べてみると、作者の個性のようなものが現れていることに気が付く。例えば、刈谷市立朝日中学校の校歌は「あかあかと 朝の太陽/もえる もえる そのプロミネンスよ」と始まるのだが、このプロミネンス(紅炎)という言葉には岡井さんの持ち味がよく出ているように思う。

最後に、今年4月に5つの小学校と2つの中学校が合併して誕生する予定の「京都市立開睛小中学校」の校歌。吉川宏志さんの作詞である。

posted by 松村正直 at 19:14| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月22日

「短歌往来」2月号

「短歌往来」2月号を読む。
喜多昭夫さんの評論「河野裕子の死生観―「死児」をめぐって」に感銘を受けた。

第一歌集『森のやうに獣のやうに』や第二歌集『ひるがほ』などに登場する死児の歌を中心に、河野さんの死生観について論じたものである。これまであまり正面から論じられてこなかった部分であるが、河野さんの歌を考える際に避けては通れないテーマだと思う。

私も「短歌往来」1月号に書いた「亡きひとのこゑ」という文章の中で、河野さんの亡くなった子の歌を引き、〈この「呼ばむ名」もなく死んだ子は、この後の歌集にも繰り返し登場するのであるが、今回は触れない〉と書いた。いつか論じなければならないと思いつつ、まだそれだけの覚悟ができていなかったのである。

こうしたテーマについて書こうとすると、どうしても単なる歌の話を超えて、作者のプライベートな部分にまで踏み込まざるを得ない場合が出てくる。そのあたりに関しては、当然ためらいもある。踏み込んでいいのかどうか迷うことも多い。

今回の喜多さんの文章は、そうしたデリケートな点にも配慮しつつ、けれども曖昧にするのではなく、必要な部分に関しては何歩も踏み込んで論じており、真剣さの伝わってくるものであった。今後もこうした真摯な評論によって、河野さんの新しい一面がどんどん見えてくると嬉しい。



posted by 松村正直 at 23:24| Comment(0) | 短歌誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

酒井順子 『女子と鉄道』


圧倒的に男性が多い鉄道ファンの世界に、女性ファンの道を切り拓いた作者の鉄道エッセイ集。女性が入ってくることで、鉄道ファンの世界も少し風通しが良くなりつつある気がする。
鉄道は私に、「移動」という冒険をさせてくれます。しかしそれは全く先の見えない冒険ではない。行きつく先は絶対に駅で、走るのは絶対に線路の上。知らない駅から鉄道に乗る度に覚える、「冒険をしているのだ」という不安感と、駅と線路とが必ず与えてくれる安心感。両者を同時に得ることができるが故に、鉄道は魅力的なのです。

というあたりは、男女を問わずよくわかる心理だと思う。もちろん、女性ならではの目の付けどころもあって、営団地下鉄の制服のデザインを論じたり、Suicaペンギンの可愛さの秘密を探ったり、「都電もなか」が好きだったりといったあたりは、他の鉄道関係の本ではあまり見たことがない。

あと、これは鉄道本の宿命でもあるのだが、本書に登場する路線にも既に廃止されたところがけっこうある。のと鉄道(穴水―蛸島間)、高千穂鉄道、ブルートレイン「あさかぜ」「さくら」、鹿島鉄道など。自分が乗った時のことを思い出したりして、少ししんみりした。

2009年7月20日、光文社文庫、495円。

posted by 松村正直 at 22:38| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

ゆにかねっと(その2)

「塔」の歌人の第一歌集を調べていた時に気が付いたことがある。結果は下記の通り。

河野裕子『森のやうに獣のやうに』(1972年)
・国立国会図書館
・県立長野図書館

池本一郎『未明の翼』(1970年)
・国立国会図書館
・東京都立多摩図書館
・県立長野図書館
・鳥取県立図書館

花山多佳子『樹の下の椅子』(1978年)
・県立長野図書館

栗木京子『水惑星』(1984年)
・東京都立多摩図書館
・県立長野図書館
・岐阜県図書館

これを見てすぐに目に付くのは、すべて県立長野図書館が含まれていることだろう。しかも、『樹の下の椅子』や『水惑星』など、国会図書館にも置いていない本もある。

最初は、長野というのは短歌への理解が深い土地柄なんだなと思ったのだが、どうもそういう理由ではないようなのだ。他を調べてみると、取り立てて歌集を多く収蔵しているわけでもないことがわかってくる。

例えば、河野さんの歌集は他に『燦』(1980年)と『あかねさす』(1982年)があるだけだし、池本さん、花山さん、栗木さんについては、上記の第一歌集のみという状況だ。

つまり、1970年〜80年代にかけての歌集だけが突出して多いのである。それはなぜか。(つづく)
posted by 松村正直 at 06:29| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月18日

ゆにかねっと(その1)

図書館の本を探すのに、総合目録ネットワーク(通称ゆにかねっと)という検索システムがある。これは、国立国会図書館、全国の都道府県立図書館、政令指定都市の市立中央図書館の所蔵する図書を一度にすべて検索できるというすぐれもの。大変便利である。

例えば、ざっとこんな感じ。

馬場あき子『早笛』(1955年)
・国立国会図書館
・山形県立図書館
・東京都立多摩図書館
・奈良県立図書情報館

岡井隆『斉唱』(1956年)
・国立国会図書館
・県立長野図書館
・名古屋市鶴舞中央図書館

三枝昂之『やさしき志士達の世界へ』(1973年)
・国立国会図書館
・県立長野図書館
・奈良県立図書情報館

永田和宏『メビウスの地平』(1975年)
・なし

小池光『バルサの翼』(1979年)
・埼玉県立久喜図書館
・東京都立多摩図書館
・横浜市中央図書館
・新潟県立図書館
・大阪市立中央図書館

いろいろな歌集を調べてみて、わかったことが三つある。一つは、国会図書館になくてそれ以外の図書館にある場合も多いこと。次に、歌人の地元の図書館にはその人の歌集を置いていることがしばしばあること。最後に、都道府県や市立の図書館は場所によって品揃えに大きな差があること。

この三点目については、その図書館が歌集の収集に積極的かどうかという問題が、もちろん大きく関わっているだろう。しかし、どうもそれだけではないようなのである。(つづく)

posted by 松村正直 at 00:05| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月17日

河野裕子 『みどりの家の窓から』

昭和59年から61年にかけてのアメリカ滞在時代を中心としたエッセイ集。「京都新聞」に連載された「ワシントン郊外みどりの家の窓から」が元になっている。今回久しぶりに読み直してみて、河野さんのエッセイの魅力をあらためて感じた。

どのページを開いても、当時まだ三十代だった河野さんの息遣いが、言葉のはしばしに溢れている。こうした生身が持つリズムを殺ぐことなく「そのまま」言葉にしていくのは、簡単なようで実はとても難しいことだ。アメリカ生活の日々の出来事を描きながら、そこに家族や子育て、アメリカ社会に対する鋭い批評もまじる。

青磁社のムック『河野裕子』にも再録されている「クルミの小部屋」は特に印象に残る一編。
ひとつの家の、ひとつ家族。しかし、家族のそれぞれは、蟬の翅のような仕切りに隔てられた、クルミの小部屋の住人のようでもあると思うこともある。

また、アメリカ滞在時以外のエッセイにも印象的なものが多い。河野さんの東京時代を記した「米原を過ぎる頃」には、次のような一節がある。
二十年余り暮らした近江の田舎とは言葉も風土も何もかもまるで違う。琵琶湖という大きなたっぷりとした水を抱えこんだ、近江の風土は、どこか不思議に透明で暗かった。

河野さんの名歌「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」の自歌自注のような文章だが、このエッセイの初出は昭和49年12月。歌が作られるのは昭和50年のことなので、歌が作られる前の文章ということになる。

この『みどりの家の窓から』は、未収録の連載原稿も含めて、年内に増補版が出る予定とのこと。楽しみに待ちたいと思う。

1986年11月20日、雁書館、2300円。

posted by 松村正直 at 09:03| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月13日

西牟田靖『ニッポンの穴紀行』


副題は「近代史を彩る光と影」。
「本が好き!」2009年2月号〜2010年1月号に連載された文章をまとめたもの。

北海道から沖縄まで、日本の近代を支えた数々の建造物や遺跡などの物語を追ったノンフィクションである。登場するのは、軍艦島(長崎)、狩勝隧道(北海道)、国立国会図書館(東京)、人形峠夜次南第2号坑(岡山)、巌窟ホテル(埼玉)、糸数壕(沖縄)など。

一見無関係でバラバラな場所のように思えるが、共通するのはどれも「穴」であること。鉄道が廃線になった時に、もっとも遺物として残りやすいのがトンネルであるように、「穴」はその存在価値を失った後でも、古い時代や歴史の証人であり続ける。

作者は1970年生まれ。同年齢ということもあって、以前から親近感を持っている。何ごとに対しても予見を持たずに、とにかく現地に行き、自分の目で見て自分の頭で考えるという姿勢が貫かれており、信頼できる書き手だと思う。

光文社、2010年12月25日、1500円。
posted by 松村正直 at 23:27| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月12日

シックススーパー2

同じ「ビックリハウスSUPER」からもう一つ。

パロディーコマーシャルという読者投稿の広告欄があるのだが、そこに「シックス スーパー2」という商品が載っている。東京都渋谷区の梶塚盛利さん、21歳の作品。絵とともに書かれている説明文は次のようなもの。
切れ味さえる理想の6枚刃!! まず、1枚目の刃がヒゲをひき出しながらカットします。ひき出されたヒゲが毛穴に戻る前に、すかさず2枚目の刃がより短くカット。これを6回繰り返すので肌に無理なく深ぞりができるシックススーパーカットです。

これは、1972年に登場した2枚刃のカミソリ「シック スーパー2」を元にしたパロディー。2枚刃を大々的に宣伝していた商品のブランド名をもじって6枚刃にしてみせたわけだ。

ただ、今の目でこのパロディーを見てみると、少し印象が違ってくる。1990年代以降、シックとジレットによるカミソリの刃の枚数競争が続き、現在では両社ともに最新タイプは5枚刃となっている(ちなみに私が使っているのもジレットの5枚刃)。本当にいつ6枚刃が出てきてもおかしくない状況になっているのである。

1977年に作られたパロディーが未来を予言していたとも言えるし、あるいは、私たちがあり得ない話を現実にしてしまったと言えるのかもしれず、少々複雑な気持ちになる。
posted by 松村正直 at 23:07| Comment(4) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月11日

「一握の砂」補遺

古い雑誌だが、「ビックリハウスSUPER」第3号(1977年秋)に、世界未発表詩篇という特集がある。そこに「一握の砂」補遺13首が掲載されている。
わけもなく
人の恋しく思へる日
燐寸(マツチ)ともして見てゐたるかな

あはれかの
我に煙草を教へたる
上級生の盗癖(ぬすみぐせ)かな

書くことはありや
書くことはなし
インクのしみを見つめてゐたり

ふと思ふ
中学校の黒板(こくばん)の
裏に彫(ほ)りたるわが名のことを

その名さへ忘られし頃
髭(ひげ)はやし
ふるさとに来て花を売らむか

もちろん、本物ではない。
作ったのは寺山修司。
丁寧なことに、次のような解説も付いている。
これは明治四十一年夏以後の啄木の一千余首から五百五十一首を抜いて、「一握の砂」を編んだ折に洩れた残りの四百余首を、石川家の遺品の中より発見し、再録した啄木未発表歌篇です。文学史的にも貴重なものと思われるので、手を加えず、そのまま発表することにします。(…)

啄木の歌というのはパスティーシュしてみたくなるもののようで、私も歌集『やさしい鮫』に「啄木風に」と題した歌を載せたことがある。もっとも、これは雑誌の求めに応じて作ったもの。

  公園にひとり座りていし男
  立ち去りにけり
  傘を残して

  魚屋の息子なりしが
  魚屋のあるじとなりて
  ふるさとにおり

  工場の二階へのぼる
  階段の
  窓より見える青き川かな

posted by 松村正直 at 21:04| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月10日

卵かけごはん

河野さんの歌を読んでいると、卵かけごはんや卵を詠んだ歌がいくつも登場する。
たれもかれも故人のごとく思はるる卵かけごはん食ひつつをれば  『家』
玉子うどんの湯気をふうふうさせながら黄身が食べたいと子供が言へり 『季の栞』
卵かけごはんはと言はなければ卵かけごはんを食べざり君は  『庭』
ひつそりと卵はひとつ 夫より先に帰りし娘に食はす  『庭』
籾殻の中よりのぞける赤卵ふたつみつと嬉しく数ふ  『葦舟』

「卵かけごはん」と言うと、私などにとっては、手軽で安い食べ物というイメージしかないのだが、河野さんの歌をそのイメージで読んではいけないだろう。高度成長期以前の日本において卵は高級品だったのであり、河野さんにとっての卵もまたそういうものなのである。

それは、河野さんのエッセイ「卵かけごはん」(初出「桟橋」24号、1990年10月、『河野裕子歌集』所収)を読めば、よくわかる。
一個の卵をひとりで食べられる贅沢とは、八歳の子供にとって、この上ないことだった。家でなら、卵かけごはんの時は、卵一個を妹と半分ずつ分け、半分の卵にごはんを乗せられるだけ乗せて、おしょう油をかけると、それはもう、卵かけごはんか、しょう油かけごはんかわからなくなってしまう。それでもしょう油味のつよい卵かけごはんは、大変おいしかったのである。

「一個の卵をひとりで食べられる贅沢」という言葉に、河野さんの卵に対する思いが良く出ている。
また、卵は高級品であるとともに、栄養価の高いものというイメージがあった。病人へのお見舞いに卵を贈ることもあったのである。
卵かけごはんを二杯かつこめり滋養じやうと呪文をかけて  『歩く』

卵の持つこの栄養価に対して、河野さんはほとんど信仰にも似たものを持っていたように思う。先に引いたエッセイは乳癌を発症する前のものであるが、そこに既に次のように書いている。
 パチンとお茶碗に割った卵の、むっくりとした黄身の存在感と、ほとんど山吹色の濃い黄色は、食べ物という以上の、何か生きることそのものであるような力を持っていた。
 実際、病気をしたときや、病後に食べさせてもらえる卵には、他の食べ物以上のふしぎな力があるような気がしたものである。おとな達は、「滋養がある」ということばを、そういう時使った。

今、卵かけごはんがちょっとしたブームである。『365日 たまごかけごはんの本』が出たり、卵かけごはん専用醤油が売られていたりと、話題になっている。しかし、それはかつての「高級品」や「栄養価」といったイメージとは、まったく違う人気であろう。

短歌と時代との関わりとは、つまりそういうことなのである。何も難しいことを言っているのではない。短歌を読む時に、その歌が作られた時代背景を踏まえなければ、歌を全く違うイメージで読んでしまうことになりかねないのだ。

カルチャーセンターの教室で、このような話をしたところ、生徒さんたちから「それはそうよねえ」とむしろ当惑したように言われた。主に六十代以上の生徒さんにとって、卵が「高級品」で「栄養価」のあるものといったイメージは、むしろ当り前のものなのであった。

でも、私より若い世代には、そのイメージがだんだんとわからなくなっていくだろう。そうなった時に、河野さんの「卵かけごはん」の歌も、歌が作られた時代に立ち返って理解することが重要になっていくと思うのである。

posted by 松村正直 at 10:05| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

兄のこと

ブログの記事も100回目。

私には兄が一人いる。一歳年上で今も東京に住んでいる。彼は大学の教員として勤めるかたわら、特定非営利活動法人よこはま里山研究所(NORA)という団体の理事長をしている。

先日、そこのホームページのコラムで、『短歌は記憶する』の紹介をしてくれた。本の紹介だけでなく、二人の思い出話もいろいろと書かれており、懐かしく読んだ。

そう言えば、この正月に母の家に行った時、久しぶりに小学校の卒業アルバムを見たのだが、そこには尊敬する人として「兄」と書かれてあった。
posted by 松村正直 at 10:07| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月07日

竹山広歌集『地の世』

竹山 広
角川学芸出版
発売日:2010-12-23


昨年3月30日に亡くなった竹山広の遺歌集。これが第10歌集になる。2008年11月から亡くなるまでの間に作られた304首が収められている。

その間、脳梗塞による軽い麻痺、帯状疱疹による入院、右肺の手術などがあり、多くは自宅のベッドで過ごす日々だったようだ。苦しみや痛みを訴える歌も多いが、一日一日死へと近づいて行く自分自身を見つめ、一首一首丁寧に言葉を紡いでいく中から生まれた歌には、作者ならではの静謐な味わいがある。
妻が今日漏しし一語ときながくわれはかなしむ「同じ日に死にたい」
いくたびか杖とわたりし国道の場馴れせる杖みごとにわたる
稲佐山の空にひさしくとどまれるひらたき雲も暗み終へたり
会ひにきて妻が一時間座りゐし丸椅子固し座りてみれば
祈りとは意志にて感情にあらざると気を向はせてけふは祈りき
隣室に臥床を移し己が本の運び出さるる音を聞きをり
洗面にゆける日ゆけぬ日のあればみがかざる歯も口は納むる
生きてゐるだけでよいからと言ひくるる汝をもやがておきてゆくべし
退屈といへばきりなきベッドにて救ひのごとし昼を痛むは
原爆を知れるは広島と長崎にて日本といふ国にはあらず

竹山さんには一度もお会いしたことがなかったが、もうこの世にいないんだなあと思うと、何だかさびしい。

2010年12月25日、角川書店、2381円。


posted by 松村正直 at 19:09| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月06日

野矢茂樹『はじめて考えるときのように』


[文] 野矢茂樹 [絵] 植田 真。
副題は、「わかる」ための哲学的道案内。
「考える」ということについて考える内容である。

野矢茂樹の本はこれまでいくつか読んできたが、この本のことは知らなかった。植田真のやさしいイラストを挟みつつ、途中でアルキメデスが出てきたり、タラバガニやくまのプーさんやロボットR2D1が出てきたりする。高校生くらいでも十分に読める内容だろう。そして、その中にいくつも示唆に富む話がある。

例えば、著者は「問いと答えのらせん」ということを言う。
考えるということ。問題を考えるということ。それは問題そのものを問うことだ。問いへの問いが、答えを求める手探りといっしょになって、らせんを描く。答えの方向が少し見えて、それに応じて問いのかたちが少し見えてくる。そうするとまた答えの方向も少し見やすくなってくる。そうして進んでいく。

こんなのを読むと、当然、〈「問」と「答」の合わせ鏡〉を思い浮かべる。そして、短歌も哲学も実は一緒なのかもしれないなどと思う。

また、著者は、「自分の頭で考える」という言い方に対して、二つの点で異議を唱える。
 考えるということは、実は頭とか脳でやることじゃない。手で考えたり、紙の上で考えたり、冷蔵庫の中身を手にもって考えたりする。これがひとつ。
 それから、自分ひとりで考えるのでもない。たとえ自分ひとりでなんとかやっているときでも、そこには多くのひとたちの声や、声にならないことばや、ことばにならない力が働いているし、じっさい、考えることにとってものすごくだいじなことが、ひととの出会いにある。これが、もうひとつ。

これなども、非常に納得できる話だと思う。
何度も相槌を打ったり、ナルホドと思ったり、フムフムと考えたりしながら、最後まで楽しく読んだ。

2004年8月18日 PHP文庫 619円。

posted by 松村正直 at 20:29| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月05日

神経衰弱

お正月に親戚で集まってトランプの「大富豪」をやった。以前は「神経衰弱」や「ババ抜き」や「七並べ」をやっていたのだが、子供が大きくなってきたので最近は「大富豪」をすることが多い。今年は「ナポレオン」のルールも説明してみたのだが、これはまだ少し早すぎたようで、取りやめとなった。

「神経衰弱」というゲームには思い出がある。このゲームの名前を私は最初「シンケースイジャク」という音として理解していた。幼稚園の頃だからまだ医学用語(?)の神経衰弱など知るはずもない。だから意味もわからずに「シンケースイジャク」と呼んでいたのである。そして、「シンケースイジャク」で遊ばなくなってから、初めてそれが「神経衰弱」であったことを知ったのだ。なるほど、カードがなかなか合わないと神経をすり減らすゲームではある。

「七並べ」や「ババ抜き」などは最初から名前の意味を理解していた。「大富豪」もそうだ。幼稚園児はどうかわからないが、小学生にもなれば富豪の意味はわかるだろう。それぞれ、ゲームを覚える年齢と言葉の意味を覚える年齢がうまく合っているのである。

そんな中で、「神経衰弱」だけは、ゲームの方を先に覚えてしまう。だから、名前は「シンケースイジャク」になってしまうのだ。これが、例えば「札合わせ」というような名前であったら、最初から意味も理解して覚えただろう。

同じような例として「NHK」がある。テレビは小さい時から見ていたので、この言葉もよく使っていたのだが、子供の頃のそれは「エネーチュケー」だった。当然まだアルファベットなど習っていない頃のことだ。その後、「エネーチュケー」が「NHK」であることを知るのだが、長い間「エネーチュケー」と発音し続けていたものだから、なかなか「エヌエイチケー」と言うことができない。これは、今に至るまで変わらない刷り込みである。
posted by 松村正直 at 22:04| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月04日

いとこの母といとこの父

息子が冬休みの宿題の日記を見せにきた。読んでみると、お正月に親戚が集まった日のことを書いている。その中に、次のような一節があった。
  いとこといとこの父といとこの母とウノをしました。

「ウノ」はカードゲームの「UNO」のこと。この一節を読んで、息子が叔父や叔母のことを「いとこの父」「いとこの母」と記していることに驚いた。

その一方で、なるほどなとも思った。もちろん息子だって、叔父や叔母が自分の親のきょうだいであることは知っている。けれども息子にしてみれば、何よりも自分の遊び相手である「いとこ」が中心にいるわけで、叔父や叔母のことはその父や母として把握しているわけである。

これが子供らしい認識の仕方ということなのだろう。ほとんどの大人は親戚関係を系図的に把握しているので、こういう認識はしない。逆に言えば、こういう部分にこそ、子供らしさというものが一番よく出ているように思うのだ。

例えば、大人が子供の作文を真似して書いてみたとしよう。「祖母」を「おばあちゃん」と書いたり、「料理」を「りょう理」と書いたりすることは、真似ることができると思う。でも、「叔父」「叔母」を「いとこの父」「いとこの母」と書くことは真似できないのではないだろうか。

そして、表現におけるリアリティというものは、多分このような部分に存在しているのだろうという気がするのである。


posted by 松村正直 at 14:02| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月03日

原武史『「鉄学」概論』



副題は「車窓から眺める日本近現代史」。

NHK教育テレビのシリーズ「知るを楽しむ」の中で「鉄道から見える日本」という題で放送された全8回の番組のテキストを増補改訂したもの。日本の近代化を支えた鉄道を通して、時代や歴史について考察する内容である。

既に他の著作に書かれている内容と重複する部分も多いが、どの章も著者の切り口がユニークかつ鮮やかで、ハッとさせられることが多い。一見何の関係もなさそうな事柄から時代の移り変わりや、日本人の意識の変化が浮かび上がってくる。
明治天皇も、大正天皇も、昭和天皇も、御召列車(戦後は「お召列車」)に乗り、全国各地を回っている。(…)近代日本においては、支配の主体である天皇・皇太子が行幸啓を全国レベルで繰り返し、彼らの姿を視覚的に意識させることを通して、人々に自らが「臣民」であることを実感させる、という戦略が一貫してとられていたのである。 (「第三章 鉄道に乗る天皇」)
関西では従来、大手私鉄が難波、梅田、上本町、淀屋橋というように別個にターミナルを持っていた。それが「官」からの独立を示すシンボルであったわけだが、(…)関東の私鉄には先に発達した旧国鉄=「官」=お上におもねる文化というのが基本的にあった。東急の渋谷ばかりか、西武や東武の池袋、小田急や京王の新宿、京急の品川、相鉄の横浜などのターミナルも、既存の旧国鉄駅に従属するような構造になっている。 (「第四章 西の阪急、東の東急」)

また、東京に都電の走っていた頃は「半蔵門」や「桜田門」といった停留所から、現実の皇居の門である「半蔵門」や「桜田門」が見えていたため、両者が緊密に結び付いて人々の地理感覚を形成していたが、地下鉄の「半蔵門」「桜田門」は単なる駅名に過ぎなくなってしまったという指摘も印象に残った。

2013年1月1日、新潮文庫、438円。





posted by 松村正直 at 00:16| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする