2016年09月28日

本を買うお金

最近、ようやく気が付いたことがある。

私たちが本を買うお金というのは、「その本」のために使っているように見えるけれども、実はその作者が書く「次の本」のために使っているのだ。

目の前にある本は、既に出版されているわけで、今からお金が必要になるわけではない。けれども、その本が全く売れなければ、作者に次の本を出す機会はもう訪れないだろう。

その本をお金を出して買う人がたくさんいれば、また次の本を出すチャンスが与えられる。つまり、その作者への「期待」に対して、私たちはお金を払っているわけである。

だから、応援している作者の本は、多少無理をしても買う。これは本だけに限らず、映画でも音楽でも絵でも、何でも同じことだと思う。


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2016年09月27日

「フロンティア」17号

ネットの古本屋やオークションを定期的に巡回して、高安国世に関する新しい資料が見つかれば買うことにしている。

  P1050245.JPG

今回入手したのは、「フロンティア」17号。
北海道電力株式会社総務部発行の小冊子で、全66ページ。
昭和47年8月10日発行。

ここに、高安国世が「思い出の道東」という3ページの文章を書いている。これまで、多分どこにも紹介されていないものだ。

  P1050247.JPG

「たしか十一年前のこと、私は北海道を訪れた」という冒頭の一文からわかるように、昭和36年の北海道旅行のことを書いた文章である。

内容は『カスタニエンの木陰』に収められている「北海道の旅から」(初出「塔」昭和36年10月号)と似ていてる。それでも、これまで知らなかった小さな発見のある貴重な文章であった。

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2016年09月26日

鈴木晴香歌集 『夜にあやまってくれ』


新鋭短歌シリーズ28。
262首を収めた第1歌集。

おたがいの体に等高線を引くやがて零メートルのくちづけ
唇をつけないように流し込むペットボトルの水薄暗い
鉄柵の内に並んだ七人の小人がひとり足りない芝生
教える手おしえられる手が重なってここに確かに心臓がある
ルート2の抜け道を行く夕暮れにどこからか恋猫の鳴き声
残像の美しい夜目を閉じた後の花火の方が大きい
氷より冷たい水で洗う顔うまれる前は死んでいたのか
黙ることが答えることになる夜のコインパーキングの地平線
水道の水を花瓶に注ぎ込む何となく秒針を眺めて
交番の前では守る信号の赤が照らしている頰と頰

1首目、等高線という言葉が人体の凹凸をなまなましく想像させる。
3首目、「七人の」と言っているのに、六人しかいないのがおもしろい。「七人の」は数のことではなく、固有名詞(白雪姫のキャラクター)の一部なのだ。
4首目、「ほら、私こんなにドキドキしてる」などと言って、相手の手を取り自分の胸に当てている場面。
5首目、「ルート2の抜け道」がいい。縦、横の道に対して、斜めに抜ける道。
8首目、恋の場面。相手の問いに対してOKと言えずに黙り込む。
10首目、夜の横断歩道の前に立つ二人。これからどこへ向かうのだろうか。

文体的には動詞のテイル形が多いところに特徴がある。例えば119頁を見ると「抱いている」「抱きしめられている」「さらされている」と3首ともテイル形が使われている。

小題は歌の言葉から採られているものだけでなく、「白熱灯はその下だけを照らしていた」「問いには答えが似合うだけ」「ここにとどまるために私は駅に向かう」など、それ自体が作品になっているものが多い。

2016年9月17日、書肆侃侃房、1700円。

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2016年09月25日

マザーリーフその後

春先にマザーリーフの葉っぱを1枚いただいた。
葉っぱから芽が出るので「ハカラメ」とも言われている植物だ。

http://matsutanka.seesaa.net/article/433796385.html

半年が過ぎて、今ではこんなに大きくなった。

 P1050244.JPG

生きる力というのがすごいものだな。
もっと大きな鉢に植え替えないと。

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2016年09月24日

奥村晃作歌集 『ビビッと動く』

2014年から16年にかけての320首を収めた第15歌集。

鳥取の松葉蟹の子生きながら箱詰めに五尾送られて来ぬ
耳に執する三木富雄作の巨大なるアルミニウムの「耳」しんと
あり
餌やりは禁止となりて知床の遊覧船にユリカモメ見ず
〈御茶ノ水橋口〉を出て地下鉄の「御茶ノ水」まで歩いて二分
「裸体」「裸婦」裸の人を描(えが)くとき黒田清輝は集中せりき

1首目は巻頭歌。「生きながら」がいい。ちょっとかわいそうだけど美味しそう。
2首目、「耳」「三木」「アルミ」「耳」のミ音の反復がうまく響いている。
3首目、当り前の話だが、カモメは観光客へのサービスで来ていたわけではなく、餌を目当てに来ていただけだったのである。
4首目、JRの御茶ノ水駅を出て、橋を渡って丸の内線の御茶ノ水駅へ。このちょっとした乗り換え。
5首目、裸だから集中したわけでもないと思うが面白い。「清輝(せいき)」と「せりき」の響き合いも効いている。

2016年9月22日、六花書林、2500円。

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2016年09月23日

「塔」2016年9月号のつづき

『日本の橋』読みしのちもとめたる全集いくらも手にとらざりき
                    竹下文子

保田與重郎の『日本の橋』に感動して全集を買ってみたものの、あまり読まなかったのだろう。「いくらも」に寂しさがにじむ。

肩甲骨すでに大人になっている息子の背中と背くらべする
                    石井久美子

中学生くらいの子だろうか。体つきや骨格はもう大人の男だ。「肩甲骨」に着目したところが良い。「背中」もくどいようで効いている。

ドアホンのピンとポンとのそのあひの時間の永き夏の午後なり
                    清水良郎

ピンポン、ピンポンと慌ただしく鳴るのではなく、指でゆっくり押してから離した感じ。時が止まってしまったかのような時間帯の様子である。

きみの手を握って眠ったはずなのにコピー用紙を抱えて歩く
                    阿波野巧也

上句から下句への時間的な意識の飛躍がおもしろい。下句は目覚めた時の話が来ると思って読んでいくと、突然、昼間の場面に飛ぶ。

遮断機の下をながれて水草は遠き河口へ導かれゆく
                    吉田 典

遮断機が上がるのを待つ間、踏切の下の水路を見るともなく見ている。流れる水草につられるようにして、見えない河口へと想像が広がっていく。

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2016年09月22日

「塔」2016年9月号

勉強会、はた宴会と騒ぎいしかの日のボンジョルノ難波はいずこ
                   小川和恵

イタリアンレストランだろうか。若かった頃によく仲間たちと利用していた店が、今では姿を消している。残っているのは思い出だけ。

やわらかきところを鍬の刃にさぐりひとふりふたふり竹を倒しぬ
                   吉川敬子

「さぐり」がいい。鍬を持つ手に伝わってくる感覚がよく表れている。竹を倒すにも力任せではだめで、コツのようなものがあるのだろう。

かあさんはやさしいねえと育親書でも読んだみたいに眠る間
際を                 宇梶晶子

褒めて育てる方法が書いてある育児書のように、親にいたわりの言葉を掛けてくれる子ども。やさしくない自分に気付いているだけに胸が痛むのだ。

通勤の橋わたるとき海へ吹く風はパルプの匂いをはこぶ
                   小林貴文

橋の上はよく風が通る。上流の方から匂いが流れてくるのだろう。朝の通勤で仕事へと向いていた意識が、その瞬間だけ少し緩むのだ。

ちょる、ちょると耳をくすぐる方言が飛びかうテーブル揺りかご
のよう                大森千里

故郷に帰った場面だろう。「ちょる、ちょると」がおもしろい。「〜しちょる」という語尾が心地よく響いて、懐かしさと安心感に包まれている。

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2016年09月21日

10月号掲載情報など

短歌総合誌の10月号に、作品や評論を載せています。

・作品「王将について」20首(「現代短歌」10月号)
・評論「米と日本人」(「歌壇」10月号)
・エッセイ「樺太からの手紙」(「短歌往来」10月号)
・書評「時田則雄著『陽を翔るトラクター』」(角川「短歌」10月号)

どれも、かなり個人的な趣味に走っていて、あらためて読み直すのがこわくなります。

樺太と言えば、今季の稚内―サハリン航路が終了しました。
夏の間、14往復28便が運航されて511人が利用したとのこと。
来年以降もっと利用者が増えて、安定した航路になってほしいです。
http://mainichi.jp/articles/20160917/k00/00e/040/178000c

もう一つ樺太と言えば(!)、評論集『樺太を訪れた歌人たち』を刊行します。「短歌往来」10月号に「近刊」として広告が載っていますが、校正ゲラはまだ私の机に載っている状態。

急いでやんなきゃ。


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2016年09月20日

『行商列車』のつづき

列車を使った魚の行商は高度経済成長期にピークに達し、その後は次第に衰退し、平成に入った頃にほぼ全国的に終焉を迎えた。

昭和六十二年の国鉄分割民営化はひとつの転換期だった。このときに廃線になったり、列車の本数が減ったり、経路が変わったりしたことで、細々と商売を続けていた行商人の足が最終的に奪われる結果となったところも多い。

著者が密着取材を行った行商人夫妻の店も、昨年、55年の歴史に幕を下ろした。

スーパーマーケットやコンビニエンスストア、さらにはインターネットによる商品の流通という便利を享受する一方で、私たちが失ってしまったものは何であったのか。

それは「売り手と買い手が直接顔を突き合わせ、物のやりとりをする」「五感を駆使して初めて、互いに納得のいく取引が成立する」ということであり、人と人との触れ合いや結び付きであったのだろう。

本書は単なる民俗誌の調査・研究にとどまらない面白さを持っている。それは、取材を通じて著者が多くの人々と出会い、その魅力を肌で体感したことによるのだろう。フィールドワークというよりも、ぶっつけ本番の真剣勝負なのである。

本当に大切なことは、メモしなくても、写真にとらなくても、覚えているものである。もちろん、すべての場面でそれが通用するわけではないが、ここぞというときには丸腰で向かっていく覚悟を、あのとき教えてもらったように思う。

この気概こそが、本書の一番の魅力ではないかと思った。

posted by 松村正直 at 07:07| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

山本志乃著 『行商列車』


副題は「〈カンカン部隊〉を追いかけて」。

朝早く大きな荷物を持って鉄道に乗り、魚の行商に出掛ける人々。彼女たちは運搬用のブリキ製のカンにちなんで「カンカン部隊」とも呼ばれた。戦後から高度経済成長期にかけて活躍した行商人たちの歴史と生活を描いた探訪記。

伊勢湾で獲れた魚を近鉄の専用列車で大阪まで運ぶ人々、鳥取から因美線で県境を越えて岡山県北部に魚を売りに行く人々、鳥取の泊から山陰本線・旧倉吉線に乗って、倉吉近郊へ行く人々。魚の獲れるところから、魚を求める人のいるところへ、鉄道を使って多くの行商人が魚を運んだ。

その姿を追ううちに、著者は多くのことに気が付く。

漁師という職業は、自分で食べるために魚介類をとるわけではない。その魚介類を売るためにとる。農産物の場合、特別な商品作物以外は自給用を兼ねるものが多いが、海産物は、あくまで交易と流通を前提にしているところに特徴がある。
正月に魚を食べるという地域は、全国各地に広がっている。中には、海から遠く離れた山間地であることも珍しくない。正月と海の魚。この関係こそが、実のところ日本人にとって魚が大切な食材であることの原点なのである。
日本の列車は、規則正しく、そして確実で安全な移動手段である。ただしそれだけに留まるものではない。鉄道は、人と人とをとり結ぶ時空間を運ぶ乗り物なのである。

どれも、魚の行商や日本人と魚の関わりを考えるうえで大切な観点であろう。

2015年12月10日、創元社、1800円。

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2016年09月17日

見世物大博覧会

国立民族博物館で開催されている特別展「見世物大博覧会」へ。

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展示室の入口には呼び込みの声が流れ、中に入ると一画に見世物小屋が再現されている。おどろおどろしくて猥雑で好奇心をかき立てる空間。小屋の中では人間ポンプ・安田里美の公演(録画)が放映されているほか、古い新聞やチラシなどの資料が多数展示されている。

小屋の外に出ると、1階中央には見上げるほどに巨大な関羽の籠細工が立つ。

他にも、軽業、曲芸、獅子舞、一式飾り、生人形、菊人形、動物の剥製、人魚のミイラなど、ありとあらゆる見世物が紹介されている。最後は、なんと寺山修司!

どれも面白くて、長い時間かけて見入ってしまった。

こうした企画が実現するというのは画期的なことだと思う。一方でそれは、どこか怪しげでいかがわしく、それゆえに魅力的だった見世物という世界の終わりをも示している。今では見世物は廃れ、博物館の展示や郷土芸能としてのみかろうじて生き残っているということだ。

もちろん今だってアートアクアリウムもシルク・ドゥ・ソレイユもあるけれど、怪しさやいかがわしさはもうどこにもない。

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2016年09月16日

永田和宏・永田淳・永田紅編 『あなた 河野裕子歌集』


河野裕子の残した約6400首の歌から、永田和宏、永田淳、永田紅の三人が約1500首を選んだアンソロジー。

15歌集それぞれに編者の書き下ろしエッセイが付いているほか、歌集の書影や年譜も載っている。解説は三枝ミ之さん。

永田和宏さんのエッセイ「自宅介護のころ」に書かれているエピソードが、何だかすごかった。感想がうまく言えない。

永田紅さんのエッセイ「どこかに猫はいないかな」には、こんな一節がある。

横浜に住むようになって、母は「横浜の猫はしっぽがない!」と驚いたそうだ。しっぽの短い鍵尾の猫を、それまで見たことがなかったのだ。

おお、こんな時こそ『くらべる東西』の出番だ。

カギ形のしっぽが多いのが「東のネコ」
真っすぐな形の尻尾が多いのが「西のネコ」

と、写真入りでちゃんと書いてある。

東京のわが家で飼っていたミミも、尻尾が曲がって短い猫だった。

2016年8月4日、岩波書店、1800円。


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2016年09月15日

花山多佳子歌集 『晴れ・風あり』

2008年から2012年までの作品425首を収めた第10歌集。

練り物の類(たぐひ)は得体の知れぬゆゑ口に入れぬと言ひし父はも
家を出て十字路渡つた角に在る 入れた記憶のなくなるポスト
あたらしき雪平鍋に滾りつつ湯は芽キャベツのさみどりを揉む
佃島リバーシティに降る雨は佃小橋の水路にも降る
耳かきをいつも捜してゐた息子 いま耳かきはすぐに見つかる
もはや父とは会ふことなからむ手の甲にさやる柩のなかの毛髪
行人坂くだりゆくとき上りくる人多し上るとき下りくる人多し
日本(につぽん)の誇る土嚢が梅雨ふかき原発建屋のめぐりに置かる
いかづちのとどろきしのち雨はれてひるがほいろのそらがひろがる
しじみ蝶だらうか草に椋鳥がとらへしものは羽ばたいてをり

観察力の働いた歌やユーモアのある歌に特徴がある。娘や息子を詠んだ歌に加えて、この歌集では亡くなった父への想いを詠んだ歌に印象的なものが多かった。

1首目、原材料として何が使われているかわからないから、ということだろう。頑固で少し変わり者の父の性格が彷彿とする。
2首目、葉書を投函したかどうか忘れてしまうという意味に読んだ。
3首目、結句の「揉む」という動詞の選びが良い。
4首目、「佃島リバーシティ」の現代的な感じと、昔ながらの風情を感じさせる「佃小橋」の取り合わせ。
5首目、いつも息子がどこかへ持って行って行方不明にしていたわけだ。その息子はもう家にいない。
6首目、上句まだ生きているかのように詠まれているが挽歌である。
7首目、なぞなぞのような歌だが、よく考えると当り前の話。同じ速度で歩いていると、同じ方向に歩く人とは出会わないのだから。「行人坂」という名前がうまく効いている。
8首目、汚染水対策として置かれた土嚢。「日本の誇る」が何とも皮肉に響く。
9首目、「ひるがほいろ」がいい。結句「ひろがる」とも響き合う。
10首目、一瞬目にした羽ばたきは、断末魔の抵抗だったのだ。

2016年8月11日、短歌研究社、3000円。

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2016年09月14日

電話

山梨県に住む母も、神奈川県に住む父も、ともに後期高齢者で一人暮らしをしている。本当は頻繁に会いに行かなければと思うのだが、なかなかそうもいかない。

せめてこまめに電話を掛けようと思って、思うだけではダメなので、電話した日付を紙に書くことにしている。机の前に張った紙に、母と父にそれぞれ電話した日付を書き付けているのだ。

それを見ると、父の方が圧倒的に少ない。

今も「8月15日」が最後になっていて、気が付けばもう一か月も電話していない有様だ。しかも母と違って父は自分から電話を掛けてくることがないので、話をしている回数はさらに少ない。

8月15日というのも父の誕生日であって、「何もないけど電話した」わけではない。何もないけど電話するというのは、意外と難しいものだ。

明日は何とか頑張って(?)電話しようと思う。

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2016年09月13日

筒井康隆著 『旅のラゴス』


昭和61年に徳間書店より刊行され、平成元年に徳間文庫に収録され、さらに平成6年に新潮文庫に入ったもの。一昨年くらいから、かなり売れているらしい。帯に大きく「口コミで人気爆発!」とある。

短歌をやるようになってから小説はあまり読まなくなったのだが、以前はよく読んでいた。筒井康隆も好きな小説家の一人。

題名の通り、ラゴスという旅をする男を主人公とした物語。12の話が連作風に続いていて、短い話もあれば、長い話もある。

人間はただその一生のうち、自分に最も適していて最もやりたいと思うことに可能な限りの時間を充(あ)てさえすればそれでいい筈(はず)だ。

という一文など、まさにその通りという気がする。

解説で村上陽一郎も書いているが、「ビルドゥングス・ロマン」(主人公が様々な経験を経て成長していく物語、教養小説、自己形成小説)と言っていい内容だ。そうした点では古典的でありつつ、随所にSF的な要素も混ざってくるあたりが、筒井康隆らしいところだろう。

私も旅に出たくなった。

平成6年3月25日発行、平成26年1月25日16刷改版、平成27年8月30日30刷、新潮文庫、490円。

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2016年09月12日

『不屈の棋士』 のつづき

将棋ソフトに関する話の中で特に興味深かったのは「人間にしか指せない将棋というものはあるのか」という問題。著者はこの質問も棋士にぶつけている。

羽生 人間にしか指せない将棋・・・。うーん・・・何とも言えないですね。ソフトがドンドン進化した時に、この人っぽい将棋というのを指せるようになる可能性はかなりあると思います。たとえば昔の大山(康晴)先生っぽい棋風のソフトを作るというのは多分できるんじゃないかと。

このあたり、「エミー」という自動作曲ソフトがバッハ風の曲を生み出した話を思い出す。短歌で言えば、「斎藤茂吉風の歌」とか「塚本邦雄調の歌」といったものを人工的に作成できる可能性があるわけだ。

実際に、石川啄木の『悲しき玩具』の巻末に記された未完成の歌を復元するという試みも行われている。
https://sunpro.io/c89/pub/hakatashi/introduction

渡辺 人間にしか指せない将棋とかそういうことではなく、人同士がやるからゲームとして楽しめるんです。たとえばマルバツゲームがそうでしょう。あれをコンピュータとやる人はいない(笑)。

これも、ある意味で正論だろう。この本を読み終えて一番感じたのは、結局人間同士の戦いだから面白いということである。このあたりは、相手がいない短歌とは違うところだ。短歌で戦いと言えば「歌合せ」くらいか。

森内 厳しい質問ですね。プロ棋士としてやっている以上、少しでも内容を充実させたいと思いますが、人間は必ずどこかで間違える。それが現実です。将棋の世界に限らず、どんな世界でもミスをしない人はいないのです。

ミスすることも含めての人間である。そう言えば先日、郷田真隆王将が公式戦で「二歩」を指して反則負けとなった。そんなことが起こり得るのも人間ならではのことであり、そこにドラマがあるのかもしれない。

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2016年09月11日

大川慎太郎著 『不屈の棋士』


2015年10月、情報処理学会は「トップ棋士との対戦は実現していないが、ソフトは事実上トップ棋士に追い付いた」と宣言した。今年から始まった電王戦においても、将棋ソフトがプロ棋士に2連勝している。

このように将棋ソフトが年々進化を続ける状況下で、棋士たちは何を考え、どのような将棋を指し、今後をどう見ているのか。著者は、羽生善治、渡辺明、勝又清和、西尾明、千田翔太、山崎隆之、村山慈明、森内俊之、糸谷哲郎、佐藤康光、行方尚史という11名の棋士にインタビューをしている。

将棋ソフトとの付き合い方はそれぞれで、徹底的に活用している棋士もいれば、ほとんど触らない棋士もいる。それでも将棋界全体として考えると、ソフトのもたらした影響にはかなり大きなものがあるようだ。

それは、単に従来の定跡が覆されるとか、新しい手が生み出されるといったことにとどまない。棋士の存在価値そのものが揺らぎかねないのである。

長らく棋士は最強の存在として君臨し続けてきた。だが、ソフトの登場によって、そうでなくなったら棋士としての価値をどこに見出していけばいいのか。

これはおそらく将棋に限らず、今後様々なジャンルで問われる問題であろう。そうした意味でも、この本は非常にスリリングな内容を含んでいると言っていい。

2016年7月20日、講談社現代新書、840円。

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2016年09月10日

映画 「君の名は。」

監督・原作・脚本:新海誠

かなり良かった。

菊田一夫脚本の「君の名は」や大林宣彦監督の「転校生」、さらに東日本大震災などを重ね合わせながら見た。

映画館を出てからもしばらくは、頭が興奮してうまく現実の世界に戻れない。それくらい良かった。

MOVIX京都、107分。

posted by 松村正直 at 17:07| Comment(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月09日

短歌的な感性

最近よくリクルートのリクナビNEXTのCMが流れている。
http://next.rikunabi.com/promotion/
(応援歌1篇の15秒バージョン)

転職に悩む女性が道を歩いていると、後ろから自転車に乗った男性(大泉洋)が「とにかく笑えれば〜最後に笑えれば〜」とウルフルズの「笑えれば」を口ずさみながら追い越して行くという内容。

けっこう好きなCMなのだけれど、最後に自転車に乗った男性のアップになったとき、「大丈夫」と言うのが余計な気がする。この一言はなくてもわかるだろう、と。

でも、こんなふうに思うのは、きっと短歌的感性なのだ。

短歌をやっていると、「結句が言い過ぎ」「説明的」「ダメ押しになっている」「ここまで言わなくてもわかる」といったことを、歌会などで徹底的に叩き込まれる。そして、最小限の言葉で伝える―伝わるという感性が次第に身についていくのだが、実はこれは日常生活の感性とはけっこうズレがあるのだ。

あのCMを作った人はもちろん、あのCMを見る人の多くも、たぶん「大丈夫」の一言が必要だと感じるのだろう。もっとはっきり言えば、世間がズレているのではなく、私の方がズレているのである。

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2016年09月08日

小島ゆかり歌集 『馬上』

2013年夏から2015年夏までの作品519首を収めた第13歌集。
父母の介護、そして父の死が大きなテーマとなっている。

サーファーのかがやくからだ暗みたりふいに大きく鳶ひるがへり
鯉よりも水はなまめく 動く身の一尾一尾をうすくつつみて
今日ひどくこころ疲れてゐるわれは買物メモをポストに入れぬ
西武線の窓よりけふは富士見えてしばらくは聴くしろい音楽
転院しまた転院しわが父の居場所この世にもう無きごとし
飛魚の塩焼き食べて胸鰭のみづいろの翅、皿に残りぬ
目蔭(まかげ)する人びとの睫毛睫毛からとんぼ生まるる秋のまちかど
紺色の検査着は隙間だらけにてひぐれのごときからだとなりぬ
勝ち馬も負け馬も鼻をふくらませ信濃の秋の草競馬をはる
パソコンが苦手なわれをパソコンもきつと苦手だらうな、フリーズ

2首目、鯉がなまめくという表現はよく見るが、水の方に着目しているところが印象的。
3首目、確かにこういうことはありそう。ユーモラスに詠んでいるが、本当に疲れているのがわかる。
5首目、病院側の診療報酬の関係で、一定期間を過ぎると転院を余儀なくされてしまう。
6首目、飛魚のシンボルとも言える長い胸鰭だけが、ぽつんと皿に残るのだ。
8首目、「隙間だらけ」の服の頼りなく心細い感じ。
9首目、比喩としての「勝ち馬」ではなく、実際の馬の話。「鼻をふくらませ」も得意気な様子の比喩ではなく、激しく息をしているのである。

きみ思ふきのふまたけふ淡青のあさがほ咲(ひら)く休らひたまへ
はるかなるそのふるさとのゆたかなる海のちからのねむりを君に

「悲しみの人へ」という詞書の付いた5首は、妻を亡くした高野公彦さんのことだろう。こんな詠い方、心の寄せ方もあるのだと、強く印象に残った。

2016年8月31日、現代短歌社、2500円。

posted by 松村正直 at 07:12| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする